その10:撃剣~刀の時代・侍から剣道へ
一〇、
サブカルチャーの聖地として栄える秋葉原だけに路地という路地にはテレビアニメなどに関連する
キリサメと寅之助が〝鬼ごっこ〟に興じながら移動した先も自動車の進入が規制されるほど細い路地でありながら大手家電量販店が林立する大通りと同じくらい賑々しい。肉や魚の脂を擬人化した〝ガチャゲー〟の広告パネルだけでなく、アニメシリーズ『
『アキバまでよう来やったな』という
これもまたファンイベントを盛り上げようとする広報キャンペーンの一環であろうが、愛らしさと勇ましさを兼ね備えた
『
そうした往来の中央にてキリサメ・アマカザリと瀬古谷寅之助は斬り合いを演じ続けている。国籍や年齢層に関わらず、
『
二〇一三年のペルーを
惨たらしい最後の姿や
変調を
時折、足を止めて振り返っては追い掛けてきた
しかし、今度は導かれようとしている先が全く読めず、左の逆手でツカを握る竹刀の刀身が回された背中を追いながらも寅之助が迷走しているようにしか見えなかった。その挙げ句に雑踏の只中へとわざわざ分け入って剣を交えることになった次第である。
傍目には船の
精神的な動揺は計り知れないはずであるが、それにも関わらず彼の太刀筋が極端に乱れることはなかった。稲妻のように鋭い身のこなしも軽佻浮薄に笑っていたときと全く変わらないのである。瞬時にして間合いを制する足の運び方も左右に逸れることがない。
如何なる情況に置かれても完璧か、それに近い状態を維持できるほど己の
その脅威は僅かでも気を緩めた途端にキリサメの喉元を食い破ることだろう。路地の喧騒を店員が心配そうに窺うゲームショップの手前で振り向き、竹刀を両手で構えた寅之助は相手の足が止まるよりも先に踏み込み、虚を衝くような形で剣先を突き出した。
昼も夜もなく何者かに狙われ続ける危険な環境に身を置いていたこともあってキリサメは不意打ちに慣れ切っている。そうでなければ、反応すらできないまま虎の牙を突き立てられたはずだ。
(僕と目も合わせないクセに狙いは絶対に外さない――これが〝完成された武道〟か)
右の逆手でツカを握り、先端を地面に押し当てることで『
『
同じ〝突き技〟でも用途によって打ち方が違うのか、先ほど半身を開きながら放たれた片手突きは構えを取った瞬間さえも見落としてしまったが、
無論、
長い手足のバネを駆使して繰り出される刀身には十分に体重も乗っている。両手でツカを支えているので直撃の際に剣先が外れ、威力が分散してしまうこともないのだ。
事実、盾代わりの『
竹刀による突きと『
閃光とも
「サメちゃんってば面白い真似をするなぁ。
「……いちいち気色の悪いコトを言わなきゃ生きていけないのか……」
正面から力比べをしては竹刀が折れると判断した寅之助は素早く剣先を引いた。
後退せざるを得なくなった寅之助をキリサメの右拳が追い掛けていく。猫の手のような形で上から下に振り落とし、命中の瞬間に手首のスナップを効かせて握り締めた指と掌底で同時に叩くパンチは彼が得意とする技の一つであった。
左足でもって『
「……『面白い真似』っていうのは僕の台詞だ。……こんな芸当、どうやるんだよ」
「言ったばっかでしょ? 『
寅之助が披露したのは荒業とも神業とも称するべきものであり、二人を取り巻く野次馬たちからも一際大きな歓声が上がった。
真剣のそれは幅広で肉厚な物など種類も豊富だが、寅之助が振るう竹刀に取り付けられた
この丸鍔でもって右拳を受けながら寅之助は後方へと僅かに足を運んだ。傍目には取り立てて騒ぐほどでもない小さな
縦一文字に閃く『
身体ごとぶつかるようなパンチであった為、技の拍子を崩されて前のめりとなった際に互いの吐息を感じるほど寅之助に接近している。半ば密着した状態から全体重を乗せて右足を振り上げたキリサメは、股の間へ滑り込ませるようにして彼の金的を抉ろうと試みたのである。
「――電ちゃんもこれで新しい世界に目覚めそうになったんだよね。危ない危ない」
ツカから離した右掌で直撃の寸前に金的蹴りを
間合いを取る寸前の呟きから察するに金的蹴りを使うことも電知か上下屋敷から聞いていたらしい。事前に気構えがあったとしか考えられないほど反応が速かったのだ。己の身で味わわなくとも
一連の回避動作の最中に寅之助は近くを歩いていた女性とぶつかってしまった。野次馬にも加わっていない買い物客である為、一つでも対応を誤れば警察に通報されるところであったのだが、彼はよろめいた相手の腰を抱き、一等甘い声で「お嬢さん、ケガはありませんでしたか?」と囁いた。
「ボクらの〝お芝居〟に巻き込んでしまって本当に申し訳ありませんでした。どうせ一期一会の運命ならもっと別の形でお会いしたかった。運命を呪わずにはいられません」
自身の腰を抱く
「……ろくでもない才能ばかり備わっているんだな、ホント……」
キリサメは放り出したままの『
上下屋敷という恋人のいる身でありながら、歯の浮くような台詞で別の女性を誘惑したわけである。彼女がこの場に居合わせたなら胸倉を掴んで怒鳴り散らしたに違いない。現にキリサメの目には浮気としか映らなかったのだ。
下心を抱いて心を惑わしたほうがまだ健全であったかも知れない。先にぶつかったことを手品のように有耶無耶にし、被害者と加害者という立場を入れ替える為だけに腰を抱いて甘い言葉を囁いたのである。己の顔が異性を
「ヒモの才能って言いたいのかな? 自慢じゃないけど、ボクには実家の道場もあるし、子どもたちを指導する時間にも幸せを感じているからね。将来、照ちゃんに苦労を掛けるようなことにはならないさ」
「人生設計を語る前にその歪み切った人格を矯正するべきだな。そういうところがろくでもないと言っているんだ」
皮肉を作り笑いで受け流す寅之助であったが、いつまでこのような悪ふざけが続くのかキリサメには甚だ疑問である。
キリサメとしては如何なる状況であろうとも始末をつけることに
頼まれもしないのに気を回した野次馬が「心配ご無用。これは平成の世に甦った〝
成り行きから〝
「キリサメ・アマカザリの相手役をやってるあのブレザー、例のナントカっていうアニメの
「確かキャラ自体も剣道家だったけど、単なる〝なりきり〟にしちゃ完成度高いよな。フツーに剣豪みたいじゃん、あの
「
〝
良くも悪くも二人の立ち回りは見る者を圧倒し、一瞬で魅了してしまうほどの迫力に満ちていた。高度な
キリサメが剥き出しにする妖気は野次馬たちを特に惹き付けていた。演技であったなら鬼気迫るものとして称賛すべきであろうが、何しろ彼は本気で斬り掛かっている。
アコースティックギターの音色といった〝虚飾〟が誤解と錯覚を振り撒いているだけであって、秋葉原の中心部で繰り広げられているのは寅之助が吹聴したような〝
キリサメが
相変わらず無遠慮に割り込んでくる野次馬たちの喧騒へ溜め息を零しながら、キリサメは同じような熱気に晒された日のことを想い出していた。
(――ああ、そうだ。このやかましさは『
彼の脳裏に甦ったのは三月の長野で開催された『
アンヘロ・オリバーレスを迎え撃った城渡の試合ではセコンドに付いた二本松から鎮まるよう注意されるくらい恭路も興奮していた。尊敬すべき〝総長〟を讃えようともしない他の観客たちへ咬み付きはしたが、彼自身も会場の熱狂と一体化していたという事実は我慢できずに張り上げた怒号そのものが証明しているだろう。
考えるな、感じろ――と、理性をも押し流してしまう圧倒的な昂揚である。
MMAの
様子見などしていないで真っ向からぶつかり合うようキリサメの背中を押し出さんとする戦いの旋律も長野冬季五輪の関連施設を震わせた大声援と本質的には同じである。
「大勢の観客たちが取り巻く状況ってサメちゃんの場合は『
「何なんだ、その恩着せがましい言い方は? ……こうなった以上はデビュー戦も何もないだろうが……ッ!」
ようやく交わった視線には先程までのような狼狽など微塵も感じられなかった。己の罪や死者への冒涜を恥じ入って伏し目となることもない。
再びの豹変であり、これを認めたキリサメは復調の経緯が
(……いや、さっきみたいに急に様子が変わったわけじゃない――よな……)
全く兆候がなかったわけではない。幅広な『
動揺というものは時間が経過するにつれて鎮まっていくが、寅之助の場合は良心の呵責とは異なる昂揚が入れ替わるように沸き上がってきた様子なのだ。
無理矢理に貼り付けた作り物ではなく、内面から滲み出す喜びが純粋な笑顔となって弾けていた。
これもまた初めて見る表情であった。同じ笑顔であっても商業ビルで相対したときには自分以外の人間を侮る厭らしさが染み出していたが、今は邪まな気配を少しも感じない。電知と一緒に居るときでさえ、ここまで無垢ではなかったはずである。
だからこそ余計に腹立たしいのだ。未稲の尊厳を傷付け、結果的に自分から『
「大昔の〝
「――そんなことは聞いてない」
得意げに
目の前で明るく笑う相手は今ここで死ぬのだ。
しかしながら、
刀身に込められていた渾身の力がアスファルトの路面に撥ね返り、生じた反動に引っ張られる格好でキリサメの上体も仰け反るように持ち上がった。
女性シンガーの演奏へ割り込むほど大きな音を立てて撥ね返った『
片手突きに倣うような恰好で半身を開き、右手一本で『
「刀と薙刀みたいに異なる武器同士で立ち合うことも〝
「何が浪漫だ! お前の趣味に付き合わされるのはうんざりだ!」
縦一文字を
斜めの軌道を描く竹刀が打ち込まれたのは『
尤も、突き技を視認してから迎え撃つ手立てを切り替えたのでは稲妻のような身のこなしを
「サメちゃんがその
我が身に迫る命の危機すらも愉悦に換わってしまうのか、『
それから寅之助は比喩でなく本当に野次馬の群れに紛れてしまった。無論、キリサメも完全に見失ったわけではない。抜かりなく視線を巡らせ、その背中を追い掛けている。
前列に立つ野次馬たちが一様に驚いたような反応を示す上、寅之助自身の
「現存する当時の錦絵をインターネットで見たことがあるけど、今のボクたちみたいに大勢の見物客に取り囲まれていたなぁ。いわゆる、満員御礼ってヤツ。毎日、数え切れない人たちが見物席からあぶれたっていうしね」
「そこか――」
カップルと
寅之助はこれも口笛でもって褒めそやした。無論、本人としては他意もなく純粋に称賛しているつもりなのだが、キリサメの耳には悪質な挑発としか聞こえず、舌打ちでもって応じながら『
写真映えする
写真の投稿を中心とするSNSでは当然ながら衝撃度の高いものほど持て囃され、閲覧数を稼ぐことが一つの勲章となっている。サブカルチャーの聖地に
標的との間へ割って入るように飛び出してきた男性をキリサメは渾身の力で蹴り飛ばすつもりであった。彼の身を砲弾の如く寅之助に叩き付けて横転させようと考えたのだ。改めて
結局、寅之助のほうが男性の肩を掴み、脇へと移してしまったので蹴りを入れる必要もなくなったが、同じような真似をする者が他にも現れたなら、そのときもキリサメは
「現代人がプロレスに燃え上がるのと同じように明治時代の人たちも大興奮だったって史料にも書いてあったなぁ。巡業先では武道具を担いで歩いているだけでも持て囃されたみたいだよ。そういう意味じゃプロレスじゃなくて人気サーカス団のほうが例えとして近いのかも――ってサーカスも
流れるような身のこなしで
一時は前後不覚を疑ったほどの動揺が鎮まったことは明白である。それが証拠に今度は寅之助のほうからキリサメに斬り掛かっていった。
「プロレス的っていえば〝
「
「そんなトコかな。電ちゃんと違って歴史のコトは大して詳しくないし、明治時代の宮本武蔵の知名度なんて正確には分からないから当て
二刀流の祖とされる江戸時代の剣豪・宮本武蔵と鎖鎌の対決は〝史実〟と捉えるとしても『梅軒』という名前は後世の作家が創作したもので間違いない――そのように言い添える寅之助は側頭部ないしは脳天、あるいは下腕や胴を狙うという『剣道』の基本的な原則に基づいて竹刀を振るっている。
尤も、彼が体得したのはあくまでも
果たして寅之助は竹刀を繰り出してから脇へとすり抜けることなくその場に留まり、刀身を引きつつ踏み込みに用いた足でもってキリサメの膝や脛を蹴り付けた。
彼が仕掛けたのは単純な打突ではなく、時間差を付けて上下を脅かすという複雑な連続攻撃であったのだ。垂直に立てた刀身を押し込んで上半身の
上段あるいは中段と下段に対する攻撃を同時に繰り出されるよりも厄介である。僅かな間を置いて異なる部位が狙われる為に技の拍子が読みにくいのだ。必然的に上下二段へ意識を分散させる形となるので、どうしても反応が遅れてしまう。
時間差攻撃を仕掛ける側は手足に別々の脳が
足技を繰り返す内に結び目が緩んでいったのだろう。右の太腿に巻いていたパッションピンクのバンダナ――即ち、自身が所属するカラーギャング『桃色ラビッシュ』のトレードマークが
それどころか、蛍光色の布きれに自ら足跡を付ける有り様である。
「そもそも〝
「……サカキバラ……ケンキチ……」
幕末維新に
「客を入れて見物料を取る形式にしたのは明治維新まで剣を頼りに生きてきた武士たちを経済的に援ける為――侍の武芸を庶民の見世物にすることを批難されたみたいだけど、榊原先生が踏ん張ってくれたお陰で日本から『剣術』が途絶えず、その精神は『剣道』に受け継がれていったんだ。そして、大正・昭和の森寅雄、
「……右から左へ聞き流される長話を垂れ流していて楽しいか?」
「口では無視するって突き放しつつ、しっかりボクの話を聞いてくれる真面目なところ、電ちゃんみたいで好きだよ」
「うる――ッさい……!」
速度も拍子も一定ではない上下二段の攻撃を複雑に組み合わせながら、そこに雑談まで挟んでくる寅之助に対してキリサメは幾度も幾度も舌打ちを繰り返していた。
そもそも、相手の話に耳を傾けているのと、望んでもいないのに耳に入ってくる状態には大きな隔たりがあるだろう。キリサメには
今はその余裕すらない。足首を刈られそうになったときにはすぐさま
二つに折り畳んでベルトへ差し込んだ鞘代わりの麻袋も両足の動きに合わせて鳥の尾羽根のように揺れており、直感的に陽気なダンスと誤解するのも無理からぬことであろう。
その上、寅之助は革靴を履いているので踵でアスファルトの路面を蹴る
傍目には防戦一方と見えることであろうが、手も足も出ないほど追い詰められているわけではない。『
この直後、強引に竹刀を押し返して寅之助の姿勢を崩そうとも図ったのだが、太腿と腹部を立て続けに踏み付けられ、逆に自分のほうが尻餅をつきそうになってしまった。
軽くて扱い易い竹刀とは比較にならないほど重い『
既に左右の腕には幾つもの
このままでは重量のある『
上下二段の時間差攻撃によって集中を乱されることのほうが遥かに悩ましかった。
「時代から弾かれて〝廃れゆくもの〟を絶やさない為に必死の想いで立ち上がったんだから、榊原先生と八雲岳さんって似た者同士なのかも知れないね。サメちゃんの
「……だったら、どうしたっていうんだ……」
「
「誰と誰が? 僕と寅之助が? ……ここまで好き放題に仕出かしておいて自分たちが似た者同士と言い切れるお前の神経が一ミリも理解できない。頭の中身を確かめてやるから叩き割らせろ。生きたまま
「歩む〝道〟は違っても先人の志を守る者同士だよ? 仲良くやろうじゃないの。時代を超えた浪漫だけじゃなくて運命まで感じちゃったなぁ。今やサメちゃんの存在はボクの中で電ちゃんと並びつつあるよ」
「僕とお前の運命が交わるのは今日が最後だ。……いいや、僕たちは最初から何一つとして交わっちゃいない。いい加減、そのことに気付いたらどうだ」
「こうして出逢った運命がボクたちを結び付ける糸なんだよ? それを手繰り寄せたのは電ちゃんだけどね。……うん! ボクとサメちゃんの運命の相手はやっぱり電ちゃんだ」
「……運命を軽々しく語ってしまうのも
強い語調で撥ね付けようとしたのは、またしても心の内側を見透かされた為である。
悠久の昔より侍と呼ばれる者たちによって織り上げられてきた〝刀の時代〟を遥かな未来まで繋げるべく〝
しかしながら、同じ〝刀の時代〟を生きてきた仲間たちと共に掛けがえのないモノを守ろうと決起した志は『
寅之助の
口では黙殺すると言っておきながら結局は彼の話に耳を傾けてしまう自分に腹が立ってもいるが、それはまた別の話というわけである。
そして、『
養父である統括本部長の想いを継いで『
致命傷でもなければ竹刀で打たれた傷など〝この戦い〟に支障を
「まぁ、榊原先生も試練の連続だったみたいだね。先生の率いる〝
「……急に世知辛い話になったな。そんなところまで時代を超えるのかよ」
「顔に
「
「奇妙奇天烈な
「さっきプロレスを例に出していたけど、コミックオペラみたいなやり方で観客を楽しませる試合は地方の……なんて言うんだ、アレは――そう、アマチュアの社会人プロレスに近いんじゃないか? 合宿で一緒になったレスラーの話では命のやり取りみたいな真剣勝負じゃなくて観客の満足度を大切にしているらしいからな」
キリサメが明治時代の〝
確かに榊原鍵吉の精神とは掛け離れているかも知れないが、寅之助の
「長野のプロレス団体のコトを言ってるのかな? 電ちゃんと一緒に合宿へ加わったっていう。社会人レスラーの全部が筋書きアリで試合やってるワケじゃないと思うけど、〝見世物〟ってコトなら当たらずとも遠からず――なのかな」
「電知が怒り出すかそうじゃないかというところで二つの違いを見分けられるのかもな。カネ集めだけが目的の〝見世物〟をあいつは何よりも憎んでいる」
「……ほら、やっぱりサメちゃん、電ちゃんのコトが大好きじゃないか」
電知は過去に『
「当たり前だけど、開催当初から〝
「電知も同じように怒鳴り散らすだろうな。髪を掻き毟る姿が目に浮かぶよ」
「結局、〝
当時、大変な心労を重ねていたであろう『最後の剣客』を想い、深々と
自分の
「……剣道のことは表情豊かに話すよな、お前。電知のことは一本調子なのに」
四ツ割の竹片で組まれた刀身を敢えて眉間で受け止めたキリサメは蹴り技が打突を追い掛けてくるより早く身を乗り出し、これを力ずくで押し返した。
このとき、二人の背中には激しい曲調から一変して伸びやかな音色が届けられている。本来はヴァイオリンやコントラバスなど幾つもの楽器が折り重なる壮大な曲なのだが、さすがにアコースティックギター一本でオーケストラの迫力を再現することは難しい。
一気に押し切ろうとするキリサメと、これに抗わんとする寅之助は互いの刀身を重ね合わせたまま暫く力比べを演じることになった。いわゆる、〝鍔迫り合い〟のような状態に入ったわけだ。そこにじっくりと奏で上げる曲で寄り添う女性シンガーの
一進一退を演じる双方には四〇人に迫ろうかという野次馬から声援が乱れ飛んだ。見てくれだけならば
端正な顔立ちを自覚的に利用して乙女心を惑わすような性悪でありながら恋人以外の異性など寅之助の眼中にはなく、キリサメに至っては〝身内〟と認めた人間でもない限り、何らかの感情を持ち得ないのだ。
今も眉間から噴き出す汗を疎ましそうに振り払いながら、渾身の力を四肢へ漲らせることしか考えていない。自分への
「さすがにしぶとい……ッ!」
「人には見えないって言われるけど、ボクもそれなりに負けず嫌いなのさ――」
圧し掛かるような形で押さえ付けてしまえば〝力の作用〟を受け流されることもないだろうと判断し、
互いの刀身を巻き付けるようにして素早く回転させ、その激流の中へ『
この直後、交響曲を彷彿とさせる音色とは正反対に一つの太刀筋が濁流と化した。
刀身を巻き取られそうになったキリサメは左右の五指でツカを強く握り締め、『
竹刀を大きく振り上げた状態から横薙ぎに変化した寅之助が今度こそ胴を抉り、内臓まで揺さぶるだろうと野次馬の誰もが確信していた――が、キリサメの反撃はそれら全てを上回った。
「――こんな小技で人が死ぬかよッ!」
このときのキリサメはノコギリ状の刃を高く振り翳したような恰好となっている。その頂点から勢いよく倒れ込むことで石の板による
急激な変化を伴って垂直落下した『
狭い路地に爆ぜた轟音はそれほどまでに凄まじく、高く舞い上がった〝尾羽根〟が重力に引かれて腰の辺りへ戻るのと同時に冷たい戦慄が辺り一面を沈黙で押し潰した。
片膝を突きつつ左右の下腕を交差させるような形でツカを握り直し、いつでも『
驚愕ではなく興奮によって双眸を見開き、剥き出しとなった白い歯の隙間から感嘆の溜め息を洩らしている。九死に一生を得たことへ安堵しているのではない。比喩でなく本当に鼻先を掠めていった
「――『
「ぶっちゃけ、武器アリのほうがイケるんじゃない? 最近、話題の
野次馬によって埋め尽くされた狭い路地が静寂を受け容れていたのは、ほんの一瞬のことである。アスファルトの路面にクレーターを穿たんばかりの轟音は明確な殺意を表しており、最前列の何人かは戸惑った様子で互いの顔を見合わせたのだが、最後にはそれすらも吹き飛ばされた。
キリサメが披露した〝
(……まさかと思ったけど、この期に及んでまだ
今、〝
殺陣道場『
妖気を迸らせながら殺意の塊のような
殺気すら完全に
『タイガー・モリ式の剣道』はさておき、『
〝
アコースティックギターによる演奏や寅之助自身による吹聴など幾つもの〝虚飾〟が折り重なった果ての錯覚とはいえ、命のやり取りという〝現実〟に直面していることへ誰もが無自覚であり、キリサメのほうが逆に
相互作用に基づく心理現象に浮かされている点に
彼らの
透き通った川の水面に撥ね返る陽の光の如く双眸を輝かせているくらいであった。
(……
その
結果的に
「思った通り、サメちゃんはどこまでもワクワクさせてくれるなぁ。
追い撃ちより太刀筋の秘密を探ることへ前のめりとなっている寅之助の真意が全く読み切れないキリサメは、片膝を突いた状態で思わず仰け反りそうになってしまった。
「どうして、みんな、同じような発想になるのか……古代遺産みたいに有難がるほど大層なモンじゃないってコトは剣を交えた
足元から寅之助を牽制しつつ徐々に上体を引き起こしたキリサメは正面を見据える眼光はそのままに後方へと
両刃の剣はわざわざ刀身を翻さなくともツカの握り方を変えるだけで斬り上げの体勢へと移行できる。
しかしながら〝剣術〟の作法として誰かの指導を受けたわけではない。前言の通り、暴力によって支配された過酷な環境がキリサメに死地より脱する手立てを身に付けさせたようなものである。
『
「反射神経が走りまくってる柔軟な
「一人で何を納得してるんだよ。……ますます気色悪いぞ」
「
「おい……」
実際に剣を交える中で〝何か〟を感じ取ったのだろう。竹刀を右肩に担いだ寅之助は瞑目しながらキリサメの太刀筋を振り返り、これを噛み締めるように何度も首を頷かせた。
「サメちゃんの場合、剣術云々じゃなくて〝剣を使った闘い〟が得意なんだね。そういや電ちゃんと
「嫉妬される理由が一ミリも分からないが、武道なんて上品なモノは今まで一度も習ったことがないからな。それこそ持って生まれたモノの違いだろ。……お前みたいに恵まれてるワケじゃない」
「んー? うちの道場も別にお上品じゃないけどねぇ~」
「根性だけじゃなくて足癖も悪かったしな。森寅雄のコトを全く知らない僕にも殴る蹴るのラフプレーが『タイガー・モリ式の剣道』というコトは伝わったよ」
「あ~、さっきのソレはサメちゃんに伝わるよう分かり易い言い方を考えただけで正式名称じゃないよ。道場の看板までブッ飛び兼ねないから
己の振る舞いによって誤解を招いてしまったことを詫びるよう天に一礼した寅之助は、『
「勿論、森寅雄も足技は使っていたけど、バリエーションを増やしたのはうちの祖父や父だよ。瀬古谷の道場の特徴っていうべきかなぁ? ……ボクだって物心つく前から蹴飛ばされて育ったようなものさ」
『タイガー・モリ式の剣道』に絡めて足癖の悪さを揶揄するつもりであったキリサメは思いも寄らない身の上話に面食らい、呻き声すら飲み込んで言葉を失った。
どのような反応を返すべきか困り果てた挙げ句、寅之助に倣って『
キリサメの眉間に深い皺が寄ってしまうのは当然だろう。幼少期にまつわる話から察するに寅之助は稽古とは名ばかりの家庭内暴力を受けていたとしか考えられないのである。
野次馬たちの間にも穏やかとは言い難いどよめきが起こり、その先頭に立っていた女性シンガーは弦を爪弾く指があらぬ方向へ滑ってからというもの演奏自体を中断している。
自分の不用意な発言が場の空気を凍り付かせてしまったことに気付いた寅之助は竹刀を左右に振りながら「違う違う、早とちりだよ。別に虐待じゃないんだから」などと困ったように笑い、キリサメたちが想像しているような事態ではないと弁明していった。
「言い方がいけなかったね。物心つく前から厳しい稽古を積んできたってだけだよ――こういうのは自分では喋らないほうがカッコ良いのになぁ。苦労自慢みたいで最高にみっともないし」
「だけど、蹴られて育ったなんて言われたら、やっぱり、その……」
「自分の意志で稽古を付けて貰っていたんだから、そもそも家庭内暴力に当てはまらないでしょ。最近は何でもかんでも体罰と決め付けて
「痛みを知らなくては強くなれない――ということか……?」
「……〝痛み〟というのがどういうものか、その意味すら考えたコトのない外野から〝修練〟を害悪みたいに否定されるのはちょっとね。大事に大事に純粋培養された紳士淑女のありがた~いお説教なんて、下品で野蛮なボクの耳には却って猛毒なのさ」
「わざわざ敵を作るような真似を……」
「人間、本音で生きなきゃ損でしょ。苦労自慢と同じくらい媚びを売って回るのもバカバカしいし、これくらいで敵に回るような人なんかボクの人生に必要ないよ」
『シゴキ』という名の不当な暴力が教育の現場にさえ
『
シャツによって覆い隠された
いずれも〝痛み〟や血の味を想い出させる
互いの生命を喰らい合う〝実戦〟の中で付けられた傷と大人による虐待の痕跡は決して混同すべきではないのだが、寅之助の場合はその区別が些か危ういように思えるのだ。
あるいは物心つく前から常態化されていた『シゴキ』によって真っ当な感覚を壊され、虐待の被害者であるという自覚も未だに芽生えていないのかも知れない。
野次馬の多くもキリサメと同じ疑念を抱いたようで、ブレザーの裾が
「……誤解され易いってのは間違いないかもね。小学生の頃の話だけど、電ちゃんも
「……どんな理由でも体罰は褒められたもんじゃないからな……」
「そうだね、体罰ならそうなるよね」
幼い頃から義侠心が強かった電知の
生を
(……僕は何を――これから殺す相手に何を同情なんかしているんだよ……)
この期に及んで寅之助のことを無意識に友人として扱い、抗い難い〝痛み〟によって彩られた幼少期へ憐憫の念を抱いてしまう己の浅はかさにキリサメは呆れるしかない。自分たちを引き合わせてくれた空閑電知という存在を挟んでいるとしても甘過ぎるだろう。
濁って歪み切っているだろう寅之助の心を覗き込み、その有り様を見通すことなど不可能だが、いずれにしても〝痛み〟に反応する怒りの沸点が
「――おばさんも自分の生徒をコブラツイストで締め上げてなかったっけ。一度、サミーがパイルドライバーで垂直に落とされるトコは見たけど、あれだって立派な虐待でしょ」
血で穢れた忌むべき刃を振りかざすよう煽っておきながら〝
(……誰に言われるまでもないさ。褒められたもんじゃないことくらい分かってる……)
自らが腹を痛めて産んだ子どもであろうと、他所の家の子どもであろうと、母は決して区別しなかった。〝表〟の社会の法律など適用されない暴力の世界では僅かでも〝道〟を踏み外しただけで悪徳の餌食となってしまうのだ。
脳まで蝕まれて〝人間らしさ〟を手離した
〝道〟を外れる恐ろしさを〝痛み〟でもって示した後には必ず抱きしめ、温もりを通して
その方針が正しかったのかはキリサメには判断できないが、母の訃報に接した教え子たちが大粒の涙を流し、聖なる祈りを捧げてくれたことだけは一生忘れないだろう。
「――ボクん
「こんなの、……興奮を覚えるような
『
以前の持ち主も
(――本当に楽しそうだよな。『聖なる剣』とは名ばかりの汚らわしいモノだって知らないもんな、
幼い頃から心を通わせてきた幼馴染みとは視線を交わすだけでも会話が成立してしまうのだ。それ故、
「逢いたいって焦がれといて、気分次第で追い出すなんてさ。サミーも〝富める者〟に染まってワガママになってきたねぇ。死体蹴りを喰らわせてくれた
想い出の彼方へ渡った
改めて
その死を弄んだ寅之助に彼女の存在を知覚する
一旦は姿を消したが、これでおとなしくなるとは思えない。こちらの心を掻き乱せる状況下で再び顔を出すに決まっている――正面の寅之助に気取られないようキリサメはほんの僅かだけ口を開き、短く小さな溜め息を滑らせた。
アコースティックギターによる演奏が再開されたのは、目の届く範囲から
『
『ペルーのアキバ』と呼ばれる
主演声優の希更・バロッサが頭抜けた歌唱力を遺憾なく発揮している『ダブル・エクスポージャー』は、アニメ本編の冒頭に差し込まれるオープニング映像では九〇秒程度と短く編集されているが、
壁のように林立するビルの向こうからアコースティックギターによる前奏を引き継ぐ形で原曲が飛び込んできたのである。
尤も、音質そのものは女性シンガーの生演奏のほうが遥かに良い。屋外設置型の大きなスピーカーから流しているようで、町中に行き渡るほどの大音量と引き換えに希更の歌声は輪郭が掴み辛くなっていた。背の高い建物に遮蔽されているのだから原曲の通りに聴こえないのは当然であるが、キリサメと寅之助が対峙している地点へ到達するまでにはビルの谷間を通過しなければならず、これによって耳障りな反響も生じているのだった。
「――本当の気持ちを私に教えて。心の奥に仕舞っておくつもりなら、お腹をカッ捌いてでも引きずり出してあげる」
これらを聴いた野次馬の何人かは血の気が引いた顔を見合わせ、狼狽の二字を絵に描いた様子で立ち去っていった。
〝
アニメ本編の演出には世界中の様々な
今し方、血相を変えて駆け去っていった人々は〝神々の楽園〟を体験したいが為に秋葉原まで足を運んでおきながらキリサメと寅之助による高度な〝
「お友達のイベントも無事に始まったみたいだね。何なら一休みして陣中見舞いに行ってみるかい? サメちゃんがそのつもりなら幾らでも付き合うよ?」
「バロッサ氏には申し訳ないけど、興味なんか毛ほどもないんだよ。……今は何を
「えっ、やだ……サメちゃんってばそんな口説き文句まで使えるワケ? これ以上、ボクを
「……恨みでも何でも買って、飛び膝蹴りを喰らえば良い。本気で打ち込めばきっと首の骨まで持っていかれるからな。……お前にはそれがお似合いだよ」
自分たちの脇をすり抜けていった数名の背中を寅之助は「サメちゃんの分までバロッサさんによろしくね~」とおどけた調子で見送ったが、今から会場に向かったところで先に詰め寄せたファンの頭を最後列から眺めるだけであろう。
声を
「――ああ、もしかしたら『デザート・フォックス』さんもオフ会蹴ってあっちに行ってるかも知れないね。サメちゃん、彼の顔は見たことないんだっけ? イベント会場で恋敵と鉢合わせなんて最高に気まずいよねぇ」
「……その男はお前の企みに協力しているんじゃなかったのか? みーちゃんを――人質を放り出して自分の趣味を優先させる人間を共犯者に選ぶなんて、寅之助も随分と心が広いんだな。僕なら選択肢から真っ先に切り捨てるぞ」
「……あ? ああ~、はいはい――そう言えばそうだったっけ。いやぁ、サメちゃんに興奮しまくった
「今のも冗談のつもりか? そんな風には聞こえなかったぞ?」
「どっちでも良いじゃん、そんなの」
「どっちでも良いわけないだろ。……僕が何の為に
「バロッサさんよりボクを優先させるって言ってくれたからにはサメちゃんも責任取ってよね。ボクのコトをもっとしっかり見てくれなくちゃ」
支離滅裂な人間と分かっていたつもりであったが、このやり取りばかりはキリサメにも全くの想定外であり、危うく『
剣道とは掛け離れた〝剣を使った闘い〟へ夢中になる余り、大慌てで『
極度に興奮すると視野が狭くなってしまうのは同じ人間として理解できるが、だからといって普通は共犯者のことなど失念しようがないはずだ。斬り合いの最中にも首を傾げる瞬間は幾度もあったが、こうなると剣道を除く全ての言動が疑わしくなってしまう。
今となっては未稲を巻き込んだとされる邪悪な企みさえも怪しく思えてならないのだ。
そして、それ故にキリサメは一つの事実へ導かれたというべきかも知れない。
瀬古谷寅之助は心の底から愉しそうに自らの〝剣〟を振るっている――それだけは間違いなかった。
そこに邪まな気配はなかった。他者を痛め付ける享楽に溺れたわけでもなかった。
『
だからこそ、瀬古谷寅之助という
寅之助が振るう剣は余りにも無垢である。友人と共に舞い踊ることが愉しくて仕方がない様子で竹刀を振るい、その刀身には相手を死に至らしめようという意志が宿ることもなかった。攻撃そのものは幾度も命中しているので全くダメージがなかったわけではなく、つまり〝
そのこともキリサメを戸惑わせている。暴力が蔓延る貧民街を生き抜いてきた彼は己に向けられる殺気には誰よりも敏感であった。
寅之助にはそれらを全く感じない。過去の経験に当て嵌めて判断するならばキリサメの思考は
戦いの場に立つ以上は己の
「……お前は本当に剣のことは楽しそうに話すよな。子どもみたいに目を輝かせて……」
寅之助の顔を改めて正面から見据えたキリサメは先程と同じ言葉を繰り返した。
「そういうところも電知の幼馴染みだと感じるよ。『類は友を呼ぶ』とはこのことだな」
「やっぱりそう思う? サメちゃんにもそう見える? やっぱり幼馴染みは鉄板だよね。ボクたち、魂の根っこの部分で通じ合ってるんだもん。小さな頃からずっと一緒ってコトはお互いに裸の心で交わるって意味なんだよ? まだまだ電ちゃんの隣をサメちゃんに譲るつもりはないんだから」
「別に張り合っちゃいないが――」
電知の場合は『
格闘技へ真っ直ぐな愛情を向ける電知と〝一緒〟として扱われたことが嬉しくて堪らないのだろう。寅之助はおそらく上下屋敷とのデート中にも見せることがないと思われる蕩け切った笑顔を浮かべていた。
「――本当のお前はどれなんだ? 新撰組の剣とやらを継いだ〝人斬り〟か? 電知と腕を競い合い、子どもたちに剣道を教える優しい先生なのか?」
「いやいや、『どれ』っていうか、全部正解でしょ。人間は一面だけで生きてるワケじゃないんだもん」
「……今にも押し潰されそうな弱い心を誤魔化す作り笑いが本当のお前なのか? 僕の言いたいことは分かるよな――」
希更が
キリサメの問い掛けを遮り、断ち切るかのような変調であった。
しかも、電光石火の『片手突き』を放ったときと同等の踏み込みである。右脇腹が狙われていると直感したキリサメはすぐさま『
果たして、次の瞬間には乾いた音が狭い路地を貫いた。互いの刀身が十字を描くようにして交わったのである――が、寅之助による追い撃ちはそれから一秒と間を置かずに始められた。
打ち込まれた竹刀が初めて横にすり抜けていったことをキリサメは
唯一の共通点はその場に踏み止まったことであろう。つまり、刀身だけがキリサメの鼻先を掠めて通り過ぎた次第である。そして、その直後に寅之助は竹刀を握る右手を裏返した。長い刀身を外側に、これと比べて短いツカを内側にそれぞれ向ける恰好であった。
一連の動作を見極めるキリサメの脳裏に
寅之助は『コンデ・コマ式の柔道』に組み込まれたものと同質の『
幼い頃から寅之助と肩を並べて『
そして、鳩尾に甦った鈍痛が次に寅之助が仕掛けるであろう攻撃を
(幼馴染みっていうヤツはどこまでも厄介だよな……ッ!)
案の定、寅之助は竹刀を握ったままの右拳を鳩尾目掛けて突き入れてきたのである。過去に己の身を穿った『
肘打ちと同様に拳を繰り出す瞬間の
「――じゃあ、本当のサメちゃんはどうなんだい?」
『
「キミならボクが言いたいことだって分かるでしょ?」
自身に向けられた問い掛けをそのまま返したような形であるが、暗号の如く短い言葉に込められた寅之助の意図はキリサメにも痛いほど伝わっている。
暴力だけが生き残りの掟であった格差社会の底辺にて血染めの『
憤激を煽り立てるような挑発ではなく、ましてやおどけた調子でもなく、静かで厳かな声であったればこそキリサメの心を何より深く突き刺すのだ。惨たらしい最期を遂げた
「第一、サメちゃんは本当にボクのことが憎いのかい? どうしようもなく憎くてこのバカデカい剣を振り回しているのかい? そこがちっとも見えてこないんだよ」
「……虚勢を張るならもっとマシなことを言えよ。自分の立場を
「ガシガシぶつかっても誤魔化し放題の〝
「……その程度で許せるものかよ……」
「大勢の人たちに取り囲まれたド真ん中でどんな顔を晒すのか、それを引き摺り出そうとしたのはこっちだけどさ、……サメちゃん、本当は未稲ちゃんのコトなんか関係なくて頭の中のモヤモヤを晴らしたくてボクを殺そうとしたんじゃない?」
「……一体、何を――みーちゃんのコトが一番に決まっている……ッ!」
「最低限、ボクを生け捕りにしなきゃ未稲ちゃんの監禁場所が分からないのに、そういう面倒臭いことを考えるの、途中でやめたでしょ? ていうか、未稲ちゃんの存在すら忘れてたんじゃないの? 目先の敵を潰して気を紛らわせようってさ」
「……
「ゴタクを並べるにしても、もっとマシなことを言いなよ、サメちゃん」
またしても自分が吐いたばかりの言葉でやり返されてしまったキリサメは、次に紡ぐべき反論を呻き声と共に飲み下すしかなかった。
これらのやり取りは野次馬たちには聞こえていない。女性シンガーも幼児虐待の疑いが持ち上がったときのように演奏を中断してはおらず、『
誰にも気付かれず、またアコースティックギターの演奏や煩わしいほどの歓声といった周囲の雑音に掻き消されることもなく互いの鼓膜へ言葉を届けるには鍔迫り合いにも等しい距離まで接近するしかなかったのだろう。
『
「未稲ちゃんを傷付けられた仕返しすらキミにとっちゃ口実でしかない。そんな風に思えてならないよ。……本当のキミはどれなのさ?」
「――だってさ。このコ、どーしようもなく根性が腐り切ってるけど、サミーの性格をめちゃくちゃ見抜いてるじゃん。折角、日本で見つけた〝わたしの代わり〟をそんな簡単に手放しちゃって良いのかな? それとも、わたしとの相性のほうが気持ち良かった?」
寅之助の言葉を受けるような
「偽りの仮面舞踏会を続けても自分自身の気持ちを否定することなんて誰にもできやしないんだよ。心の奥から聞こえてくる声に、そして、『先生』の帰りを待ち焦がれる
そこに追い討ちを仕掛けてきたのは『
完全な偶然ではあるものの、ファンイベントの会場にて希更が実演している台詞――同作のキャラクターに対する強い言葉さえも
同時に幾つも突き刺さった問い掛けを振り払うかのようにしてキリサメは『
(……こういうのが煩わしいんだよ、本当に……)
心に浮かんだ
得物の重量をも掛け合わせて寅之助の顔面を叩き潰そうと試みたのだが、ここに至る攻防の中で同質の技を既に晒してしまっている。それはつまり、相手に付け入る隙を差し出すことにも等しかった。
右拳が接触するよりも早く平べったい刀身を足裏でもって真正面から踏み付けられ、技の拍子もろとも体勢を崩されたキリサメは『
「やれやれ……電ちゃんを追い詰めたっていう〝アレ〟を引っ張り出すにはブチギレさせるだけで十分と読んでいたんだけど、それだけじゃ足りないか……何だか面倒臭いコトになってきたなぁ――」
『
それは〝鬼ごっこ〟を再開させようという合図に他ならなかった。後に残されたのは幾度も踏み付けにされてボロボロに汚れたパッションピンクのバンダナだけである。
結局、表情を確認することは叶わなかったが、寅之助も「本当のお前はどれなんだ」という詰問には答えられなかったのだから十分な痛み分けといえよう。他人には決して触れられたくない心の〝闇〟を互いに抉り合ったことは間違いなかった。
だからこそ、寅之助の背中を追い掛ける間にもキリサメは歯噛みと舌打ちを止められなかったのである。
未稲を窮地に追い込んでしまった自責の念が報復という単純な結論にすり替わったのは何時であったのか、キリサメ当人にも分かっていなかった。身の
剣を交える内に邪悪な気配が浄化されていった寅之助とは真逆であろう。妖気という形で半開きの双眸から零れ出していた破壊の本能は際限なく膨らみ続けているのだ。
呪われた『
「面倒臭いコトになってきた……だと? それはこっちの台詞というものだ……ッ!」
マラソン選手のように野次馬たちの声援を浴びながら狭い路地を駆け抜けた二人は、高架下の脇道まで到達した。キリサメが一気に加速したのはその直後のことである。
高架橋を支える橋脚同士の間――僅かな空洞の内側に飲食店などが収まっている。それらが立ち並ぶ様子は新しい商店街とも感じられる風情であった。
野次馬を巻き込む恐れがあったので狭い路地では『
地下アイドル専門と
予想した通りというべきか、横薙ぎを迎え撃つ寅之助は先程のような作り笑いを浮かべていた。内面から溢れ出す
「お姉様はズルいです。瞳と瞳を重ね合わせるなんて、実質、『ヒエロス・ガモス』じゃないですか。私が大事に育ててきた気持ち、もうずっと昔から知ってるクセに――」
高架橋を走る車輪をすり抜けて飛び込んできた
*
移動先まで大勢の野次馬が追い掛けていく〝
暴走族が乗り回す改造バイク――いわゆる〝ゾク車〟が工事用フェンスを突き破って工事現場に侵入するという異常にして緊急事態でありながら、現時点では駅前の交番から駆け付けた制服警官の姿などはどこにも見られない。どうやら同地を担当する警備会社でさえ商業ビルの異変を把握していないようである。
「――私もお姉様も、……ロアノークさんも、みんなみんな、最初から同じ想いを胸の奥で燃やしていたんですよ。行き着く道のりがほんの少し違っていただけで、夢見た世界は最初からずっと一緒。その時間が私たちの絆を育んできました。……だからッ! 血をも超えて私たちは一つになれるんですッ! イヤだといっても、あなたは私なんですッ!」
ビルの谷間から希更・バロッサの声――
事件性を感じさせるフェンスの大穴から内部の様子を覗き込む通行人も多いのだが、誰もが怪訝な表情を浮かべるばかりで恭路に近付こうとはしなかった。
それも無理からぬことであろう。昭和の
しかも、並大抵の泣き方ではない。野犬の遠吠えのようにやかましく、鼻水に至っては口髭を抜けて胸元辺りまで濡らしていた。これを薄気味悪く感じるのは人間として真っ当な反応である。傍目には不審人物としか思えず、遠巻きに窺うしかなかった。
「チキショウ……てめぇ……アマカザリィ……こういうコトはよォ……もっと早く……言いやがれよ……中身がスカスカな野郎だって……総長に挑むのもふざけてるって……ンなことを……オレはよォ……ッ!」
口から漏れる呟きには一字一句に至るまで濁点が付いていそうである。しゃくりあげながら覗き込む
商業ビルに取り残される恰好となった恭路は寅之助から預けられた
横たえられた路上には流れ出した鮮血が池の如く溜まり、死という事実を残酷なほどに突き付けてくる――その
友人と思われる日本人女性が亡骸に縋り付いて
本来ならば晒し者とするべきではない惨状を一人の少年が馬上から見下ろしていた。
鉄色のレインコートに取り付けられたフードを被り、一秒たりとも
左の五指にて手綱を握り、酸鼻を極める情景に身じろぎ一つしない少年はキリサメ・アマカザリ以外に考えられなかった。
おそらくは隠し撮りであろう
『ユアセルフ銀幕』に放送チャンネルを持つネットニュース『ベテルギウス・ドットコム』では有薗思穂という記者が反政府デモの渦中へと自ら飛び込み、キリサメが生きてきた過酷な格差社会を生々しく報じていた。富裕層と貧困層の居住区を隔てるという長大な壁も取材映像の中には含まれている。
日本語によってペルーの現状を訴える
廃タイヤを埋めなくては傾斜に階段も作れないほど過酷な環境の中でキリサメは戦い、その果てに大切な存在を失った――ペルーの
新聞紙の下にて
別の
深々と被ったフードから僅かに覗く程度であったが、キリサメは血が滲むほど強く歯を食いしばっていた。その先に待ち受ける結末など知る由もなく、ただただ決死の想いで手綱を捌いていたはずである。
「……クソッたれた世界のどん底で……大事なモンを片っ端から失っちまって……あの野郎……チキショウ……オレとそっくり同じなんじゃねェか……オレじゃねぇか……ッ!」
もはや、恭路にはキリサメ・アマカザリという少年が背負ったものから目を逸らすことができなかった。彼が抱えた孤独を見逃していた己を責めるかのように鋭角な剃り込みが入った額を右拳で殴り続けた。
寅之助が挑発の道具として利用した
そのとき、恭路の手の中で預かり物の
誰かが寅之助と連絡を取ろうとしているわけだが、ただでさえ神経が高ぶっていた恭路は着信相手を確かめることもなく、「状況考えて電話してこいや、ボケカスが! お喋りなんかしてられねェんだッ!」と理不尽極まりない怒鳴り声を浴びせて通話を一方的に打ち切ってしまった。
「待ってろよ、この野郎……アマカザリ……お前を一人で闘わせやしねェ……ッ! 今日からオレがてめーの兄貴分だ……ッ!」
預かり物の
背後では
弱ったのは『照ちゃん』――即ち、上下屋敷のほうだ。寅之助と連絡を取ろうとしたのに本来の持ち主とは似ても似つかないダミ声で怒号を浴びせられてしまったのである。
当然ながら上下屋敷は電話番号を直接入力したわけではなく、
「誰だ、てめーは⁉」と
呼び出し音が三〇秒を超えたところで連絡を諦めた上下屋敷は、そこで数件分の留守番電話が録音されていることに気付いた。所属するゲーミングサークルのオフ会に参加していた彼女は律儀にも
眉根を寄せながら伝言に耳を傾けた上下屋敷は、ますます意味が分からなくなった。電知は切羽詰まったような声で「今すぐ寅を出しやがれ」と何度も何度も録音を吹き込んでいたのである。
何故だか異常に
「
左の掌中に
入店以来、日本で最初に発売された家庭用テレビゲーム機へ夢中になっていたゲーミングサークルの
それはクローゼットの中で長らく眠っていたと
マイホームパパの哀しき宿命というべきか、常日頃より家族から蔑ろにされているという男性は寅之助の心配りに感動し、彼自身の子どもでさえ親の前では見せなくなったであろう無邪気な笑顔でロウソクに灯された火を吹き消していた。
四五本ものロウソクが立ち並ぶフルーツケーキは壮観であったが、仕掛け人である寅之助は思い掛けない贈り物に涙ぐむ男性の姿さえも己の双眸では確かめていなかった。
時間を見計らい、ゲーミングサークルの貸し切りとなっている大きなブースへフルーツケーキを運び入れる手筈を店員に頼んだ直後、上下屋敷にだけ「後はよろしくね。急用ができちゃったよ」と耳打ちし、テレビゲームカフェから飛び出していったのである。
剣道の教え子やその保護者から緊急連絡でも入ったのだろうと考えていたのだが、何時まで待っても戻ってくる気配がない。ブースの利用時間も残り僅かとなっている為、ここを引き払うまでに連絡がつかないと
よもや恋人を置き去りにして自分だけ先に帰ることはなかろうが、
寅之助の為に残してある一切れのケーキを眺めつつ、上下屋敷は自分の分を平らげた。その間にも折り返しの電話が掛かってくることはなかった。電知に宛てた電子メールさえも
一体全体、何がどうなっているのか――と、首を傾げた上下屋敷の脳天を小さいとは言い難い衝撃を貫いた。
「なにしやがんだよ、てめー、未稲……試合近いんだぞ、こらっ」
「そっちこそ頭突きかましてくることないじゃん。私に何の恨みがあるの? いや、恨まれそうな理由は『
互いの頭がぶつかり合った拍子に足元へ放り出されてしまった丸メガネをおぼつかない手付きで探り当て、付着した埃を一息でもって吹き飛ばしたセーラー服姿の少女は、真隣にて頭頂部を痛そうに摩っている上下屋敷を睨み返した。
裸眼では至近距離の相手すら顔立ちが判別できない為、やたらと険しい目付きになってしまうのだが、その雰囲気は〝試合〟へ臨む父親を彷彿とさせた。
「キリくんにドツかれた恨みを私で晴らさないで欲しいんだよなぁ。メガネのフレーム歪んでたらマジで弁償して貰うからね~」
丸メガネを掛け直しながら口を尖らせ、上下屋敷に文句を垂れ続けるのは八雲未稲その人である。
同じゲーミングサークルの
監禁場所から逃れてきたということでもない。それが証拠に左右に一房ずつ結わえた髪も岳から東海道線の
寅之助が姿を消した後もドット柄の壁紙が印象的なブースから一歩も外に出ておらず、借り物のタブレット端末で新時代の騎士道競技――
中世ヨーロッパの騎士や戦国時代の鎧武者が入り乱れる合戦絵巻には今までの人生でも味わった
自分より遥かに年上の
彼女が握りしめる
偶然にも参加者の間で『デザート・フォックス』の
北欧・デンマーク最古の造船所で大規模な火災が発生したことは日本でも今朝になって報じられたばかりである。〝石油王〟直々の発注という豪華客船が燃え盛り、紅蓮の火柱と黒煙に包まれた映像がニュースで幾度も取り上げられているのだが、実は『デザート・フォックス』を称する男は所有者の側近ではないかと誰かが唱え始めたのだ。
オフ会を欠席せざるを得なくなった急用とは『マンスール・ビン・モフセン・アル・クルスーム』なる〝石油王〟の
大火災当日に告げられた急な欠席や、砂漠と関わりの深い
恍惚の表情を一変させる
「――何やらアキバで乱闘騒ぎが起きていると聞きましたが、同志諸君はご無事でありましょうか⁉ 遠くから心配しているであります! 同じ場所にいれば守って差し上げられたのに自由にならない我が身が悔やまれてなりませんっ!」
自分のいないオフ会がどのようにして盛り上がっているのか、その雰囲気を確かめたくて連絡してきたのだろうと思っていた未稲は「乱闘騒ぎ」という物騒な一言から始まる文面がなかなか理解できず、首を傾げた拍子に上下屋敷とぶつかったのである。
「ごっつんするのも一緒なんですから、お二人は本当に仲良しさんですね」
朗らかに笑う
四振りの剣と八枚の旗を組み合わせた紋章が勇ましい『ギルガメシュ』なる
半月前に開催されたばかりの第一回世界大会では筑摩も全身を甲冑で固めた二人の仲間と共に
三位一体で攻め寄せてきたポルトガルの騎士を裂帛の気合いで圧倒したのである。
「うう~ん、やっぱり筑摩さんは調子狂うなぁ。テンポが読めないっていうか……」
「その点だけは同意するぜ。菩薩様みたいな顔にはこっちも毒気を抜かれちまわァ」
誰にも聞こえないような小声で上下屋敷と密談しつつ、丸メガネを掛け直している間に未稲の
今度は画像データが添付されていたが、これを確かめた瞬間に未稲は言葉として成立していない素っ頓狂な声を洩らし、正面のテーブルを引っ繰り返しそうな勢いでソファから立ち上がった。
「アキバの駅前近くでコスプレイヤー同士でガチなチャンバラやってるっぽい! ウワサだとゲリラ撮影らしい? てか、片方はプロの格闘家だってさ。キレッキレじゃんな」
その
しかも、ブレザーの裾を
相手の両足を叩き折ろうというのか、キリサメは膝を突きそうなくらい身を屈めたまま急速で旋回し、路面を擦るかのように『
「な、なんだよ、おい……。まさか、そんなに頭痛が酷ェのか? わ、悪かったな……」
「それよりメガネがお鼻から落っこちそうですよ?」
その場の誰もが未稲の異変を心配し、一同を代表する形で上下屋敷と筑摩が声を掛けたのだが、混乱の極致にある
液晶画面を覗き込んだ上下屋敷がソファから転げ落ちたのは言うまでもない。起き上がるや否や、ブースの出口へ駆け出したのも当然であろう。
「いやいやいやいや、マジでマジでマジで理解が追い付かねーって! なんでうちのバカとアマカザリの野郎が戦り合ってんだよ⁉ 意味分かれってほうが無理だろッ!」
「そんなの、私が訊きたいよ! キリくん、昼から取材だって聞いてたのに……っ! 秋葉原まで自力で来られたのはすごい成長だけどっ!」
「ンなの、褒めてる場合かっ!」
上下屋敷の背中を未稲もすぐさま追い掛けた。
目を丸くしている
経緯も理由も判らないが、キリサメと寅之助が
上下屋敷もまた自身の
「てめー、空閑ァッ! 寅はどこだ⁉ どこにいやがるッ⁉」
おそらくは事情を知っているだろう電知に向かって上下屋敷は怒鳴り声を張り上げた。
奇しくも自身が訊ねられたことをそのまま返したわけだが、先に問い合わせた側が答えなど持っているはずもなく、たちまち
(それは最悪のシナリオだよ、キリくん! 始まる前に何もかも終わっちゃうよっ⁉)
上下屋敷の怒鳴り声を耳で、
類稀なる力と技を兼ね備えた格闘家たちが集結するとはいえ、所詮は『
自分までもが寅之助による〝汚染〟に巻き込まれていることなど知る由もなく、雑居ビルから
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