その10:撃剣~刀の時代・侍から剣道へ

一〇、げきけん



 サブカルチャーの聖地として栄える秋葉原だけに路地という路地にはテレビアニメなどに関連するショップがひしめき合っている。小さな交差点を隔てただけでジャンクショップや古式マッサージなどが立ち並ぶ物寂しい場所から雰囲気が一変するのだ。

 キリサメと寅之助が〝鬼ごっこ〟に興じながら移動した先も自動車の進入が規制されるほど細い路地でありながら大手家電量販店が林立する大通りと同じくらい賑々しい。肉や魚の脂を擬人化した〝ガチャゲー〟の広告パネルだけでなく、アニメシリーズ『かいしんイシュタロア』のファンイベントが開催される宮崎物産館へ案内する看板もあちこちに設置されていた。

 『アキバまでよう来やったな』という文言キャッチフレーズは統一されているものの、希更・バロッサがいのちを吹き込む主人公――あさつむぎや、彼女の〝お姉様パートナー〟であるもとひまわり、二人を翻弄する第三勢力のロアノーク・エルドリッジなど看板に描かれるキャラクターは一枚ごとに異なっている。

 これもまたファンイベントを盛り上げようとする広報キャンペーンの一環であろうが、愛らしさと勇ましさを兼ね備えた乙女戦士イシュタロアたちが等間隔で並んでいると、閉塞感の強い路地が満開の花で彩られたように思えてくるのだった。

 『かいしんイシュタロア』は海外でも好評を博しており、既に放送を終えた第一期最後の敵である〝叛逆の生徒会長〟――じょうさきよつばの看板を携帯電話スマホのカメラで撮影する外国人観光客も少なくなかった。女帝の風格を纏って柚葉色のマントを翻す小柄な少女は同作で最も人気の高い登場キャラクターである。

 そうした往来の中央にてキリサメ・アマカザリと瀬古谷寅之助は斬り合いを演じ続けている。国籍や年齢層に関わらず、くだんの路地には息苦しさを感じるほど多くの人々が密集しているのだが、この二人には週末の喧騒など視界にすら入っていないかのようであった。

 『聖剣エクセルシス』と竹刀――互いの刀身を打ち合わせる乾いた音が弦楽器の激しい旋律と重なりながらも絶え間なく響いていた。

 二〇一三年のペルーをしんかんさせた大規模な反政府デモ『七月の動乱』に巻き込まれ、想い出の彼方へと消えたキリサメの幼馴染み――・ルデヤ・ハビエル・キタバタケについて語らった直後、寅之助は再び秋葉原の路地裏を走り始めたのである。

 惨たらしい最後の姿やという名前がインターネットの世界で晒されていることを挑発の材料として利用したのは自分自身であろうに、実際に口にした途端、湧き起こる後悔と罪悪感に苛まれた様子であった。それ故、寅之助という青年の精神構造がキリサメにはますますらなくなってしまったのだ。

 変調をきたしたのは紛れもない事実であり、錯乱してその場から逃げたように見えなくもなかったが、心ない挑発ことばで他者を弄んできた享楽家の回路サーキットが何をもって切り替わったのか、見当も付かないのである。勿論、キリサメには寅之助を言い負かしたおぼえもない。

 時折、足を止めて振り返っては追い掛けてきたキリサメと僅かに斬り結び、双方とも手傷を負わせられないまま再び走り出すということを幾度も繰り返しているのだが、先程と同様にキリサメを何処かへ誘導するつもりではあるらしい。

 しかし、今度は導かれようとしている先が全く読めず、左の逆手でツカを握る竹刀の刀身が回された背中を追いながらも寅之助が迷走しているようにしか見えなかった。その挙げ句に雑踏の只中へとわざわざ分け入って剣を交えることになった次第である。

 傍目には船のオールにも見える『聖剣エクセルシス』は両手に圧し掛かるほど重いだけなく長大なので、狭い路地で考えもなく振り回そうものなら無関係の人々を数え切れないくらい巻き添えにしてしまうだろう。

 中米マヤ・アステカからペルーに流れ着いた武器マクアフティルを倫理という枷にめて封じ込める策略ではないかと一瞬だけ疑ったが、視線を交わせないほどの狼狽を見る限り、現在いまの寅之助にそこまでの機転を利かせられるとも思えなかった。

 精神的な動揺は計り知れないはずであるが、それにも関わらず彼の太刀筋が極端に乱れることはなかった。稲妻のように鋭い身のこなしも軽佻浮薄に笑っていたときと全く変わらないのである。瞬時にして間合いを制する足の運び方も左右に逸れることがない。

 如何なる情況に置かれても完璧か、それに近い状態を維持できるほど己の肉体からだに馴染ませた〝型〟というものが剣道自体への理解が乏しいキリサメにも現実の脅威として感じられた。

 その脅威は僅かでも気を緩めた途端にキリサメの喉元を食い破ることだろう。路地の喧騒を店員が心配そうに窺うゲームショップの手前で振り向き、竹刀を両手で構えた寅之助は相手の足が止まるよりも先に踏み込み、虚を衝くような形で剣先を突き出した。

 昼も夜もなく何者かに狙われ続ける危険な環境に身を置いていたこともあってキリサメは不意打ちに慣れ切っている。そうでなければ、反応すらできないまま虎の牙を突き立てられたはずだ。


(僕と目も合わせないクセに狙いは絶対に外さない――これが〝完成された武道〟か)


 右の逆手でツカを握り、先端を地面に押し当てることで『聖剣エクセルシス』を固定したキリサメは平べったい表面を寅之助に向けた。他の刀剣と比べて幅広な得物マクアフティルを盾の代わりに据え、直線的な突きを受け止めようと図ったのである。

 『聖剣エクセルシス』の裏に対の左手を添え、全力で地面を踏み締めていれば大抵の衝撃には耐えられる。『マクアフティル』と呼ばれる刀剣は二枚の木の板を鋭く研いだ石や鉄片と共に重ね合わせてノコギリのように繰り出す原始的な構造だが、キリサメは更に石の板を上下に一枚ずつ重ねてあるのだ。見た目の印象よりも強度に優れており、故郷ペルーの強盗から山刀マチェーテで斬り付けられた際にも同じ方法で凌いでいる。

 同じ〝突き技〟でも用途によって打ち方が違うのか、先ほど半身を開きながら放たれた片手突きは構えを取った瞬間さえも見落としてしまったが、諸手突きこちらは奇襲さながらの踏み込みまで含めて反応することができた。

 無論、動作うごきを見極めただけで破れる技ではない。剣先をすり抜けるようにして左腕を伸ばし、反撃の目突きを狙うことまでは叶わなかった。

 長い手足のバネを駆使して繰り出される刀身には十分に体重も乗っている。両手でツカを支えているので直撃の際に剣先が外れ、威力が分散してしまうこともないのだ。

 事実、盾代わりの『聖剣エクセルシス』で諸手突きを受け止めたキリサメは四肢に襲い掛かってきた衝撃におののいた。確かにスニーカーを履いた状態ではどれだけ踏ん張ろうともゴム製の靴底アウトソールがアスファルトの路面を滑ってしまうものだが、この瞬間には純粋な力比べで競り負けそうになったのである。

 竹刀による突きと『あて』を同種の技として捉えることはできないが、電知の場合は小柄であるが故に体重を乗せて押し込まれることは皆無である。その分、急所を精密に狙うのでダメージが体内深くまで浸透するのだ。これに対して寅之助の諸手突きは『聖剣エクセルシス』が軋むほど重く、腰を更に落とすことでようやく堰き止めることができた。

 閃光ともたとえるべき軌道を挑発的な口笛が追い掛けた瞬間、キリサメは剣先を受け止めている『聖剣エクセルシス』の裏側を左足でもって勢いよく踏み付けた。得物の重量と自身の体重を掛け合わせることで寅之助を竹刀もろとも押し潰そうというわけだ。


「サメちゃんってば面白い真似をするなぁ。長年ながいこと、剣を握っているけど、こんな経験は初めてだよ。ボクの初体験はじめて、サメちゃんにあげちゃったね」

「……いちいち気色の悪いコトを言わなきゃ生きていけないのか……」


 正面から力比べをしては竹刀が折れると判断した寅之助は素早く剣先を引いた。

 後退せざるを得なくなった寅之助をキリサメの右拳が追い掛けていく。猫の手のような形で上から下に振り落とし、命中の瞬間に手首のスナップを効かせて握り締めた指と掌底で同時に叩くパンチは彼が得意とする技の一つであった。

 左足でもって『聖剣エクセルシス』を蹴り付ける際にツカから右の五指を突き放しており、自らが得物の重量おもみに振り回されることはない。最高の速度で寅之助に追撃を試みた次第であるが、彼はキリサメの得意技パンチを竹刀の鍔で受け止めてみせた。


「……『面白い真似』っていうのは僕の台詞だ。……こんな芸当、どうやるんだよ」

「言ったばっかでしょ? 『長年ながいこと、剣を握っている』ってね」


 寅之助が披露したのは荒業とも神業とも称するべきものであり、二人を取り巻く野次馬たちからも一際大きな歓声が上がった。

 真剣のは幅広で肉厚な物など種類も豊富だが、寅之助が振るう竹刀に取り付けられたまるつばは小振りである。水牛革の品ということもあり、振り落とされたのがノコギリ状の刃であったならツカに添えた親指ごと削り取られていたはずだ。

 この丸鍔でもって右拳を受けながら寅之助は後方へと僅かに足を運んだ。傍目には取り立てて騒ぐほどでもない小さな動作うごきにしか見えなかったのだが、ただそれだけでキリサメの上体が大きく傾いてしまった。

 縦一文字に閃く『聖剣エクセルシス』を受け流したときと術理を同じくする捌き方である――が、二度目ということもあってキリサメの側もすぐさま反撃に転じた。己の肉体に奇妙な力の作用を感じた直後には蹴りを放つ態勢に移っていたのだ。

 身体ごとぶつかるようなパンチであった為、技の拍子を崩されて前のめりとなった際に互いの吐息を感じるほど寅之助に接近している。半ば密着した状態から全体重を乗せて右足を振り上げたキリサメは、股の間へ滑り込ませるようにして彼の金的を抉ろうと試みたのである。


「――電ちゃんもこれで新しい世界に目覚めそうになったんだよね。危ない危ない」


 ツカから離した右掌で直撃の寸前に金的蹴りを防御ブロックした寅之助は報復しかえしとばかりに右足を繰り出し、キリサメの左太腿を踏み付けにして動きを封じると後方に大きく飛び退すさった。

 間合いを取る寸前の呟きから察するに金的蹴りを使うことも電知か上下屋敷から聞いていたらしい。事前に気構えがあったとしか考えられないほど反応が速かったのだ。己の身で味わわなくとも他者ひとから教わってさえいれば警戒と対処も難しくはないのである。

 一連の回避動作の最中に寅之助は近くを歩いていた女性とぶつかってしまった。野次馬にも加わっていない買い物客である為、一つでも対応を誤れば警察に通報されるところであったのだが、彼はよろめいた相手の腰を抱き、一等甘い声で「お嬢さん、ケガはありませんでしたか?」と囁いた。


「ボクらの〝お芝居〟に巻き込んでしまって本当に申し訳ありませんでした。どうせ一期一会の運命ならもっと別の形でお会いしたかった。運命を呪わずにはいられません」


 自身の腰を抱く優男イケメンから憂いを帯びた瞳で見つめられた女性はたちまち骨抜きにされたようだ。このまま帰って良いと促す寅之助に恍惚とした表情かおで頷き、「優男イケメン優男イケメンを竹刀で滅多打ちって興奮コーフンしますぅ!」と支離滅裂な言葉で送り出す始末であった。


「……ろくでもない才能ばかり備わっているんだな、ホント……」


 キリサメは放り出したままの『聖剣エクセルシス』を拾い上げることさえ忘れて寅之助の〝手口〟に呆れ返っていた。

 上下屋敷という恋人のいる身でありながら、歯の浮くような台詞で別の女性を誘惑したわけである。彼女がこの場に居合わせたなら胸倉を掴んで怒鳴り散らしたに違いない。現にキリサメの目には浮気としか映らなかったのだ。

 下心を抱いて心を惑わしたほうがまだ健全であったかも知れない。先にぶつかったことを手品のように有耶無耶にし、被害者と加害者という立場を入れ替える為だけに腰を抱いて甘い言葉を囁いたのである。己の顔が異性をとりこにするほど端正であると自覚し、武器として利用していることこそ最も悪辣であろう。何から何まで詐欺紛いの手口である。


「ヒモの才能って言いたいのかな? 自慢じゃないけど、ボクには実家の道場もあるし、子どもたちを指導する時間にも幸せを感じているからね。将来、照ちゃんに苦労を掛けるようなことにはならないさ」

「人生設計を語る前にその歪み切った人格を矯正するべきだな。そういうところがろくでもないと言っているんだ」


 皮肉を作り笑いで受け流す寅之助であったが、いつまでこのようなが続くのかキリサメには甚だ疑問である。

 現実リアル虚構フィクションの境目が曖昧な秋葉原で日本の竹刀と中米マヤ・アステカ刀剣マクアフティルを交える斬り合いとはいえ、人々の往来を押し退ける恰好で展開されるは傍目には路上の喧嘩でしかなく、同地で二〇〇八年に起きてしまった〝凶行〟の再現と見なした者から警察に通報されてもおかしくないのだ。

 キリサメとしては如何なる状況であろうともをつけることに躊躇ためらいはないが、実際に一一〇番へ電話を掛けるよう促す者も散見された。

 頼まれもしないのに気を回した野次馬が「心配ご無用。これは平成の世に甦った〝げきけんこうぎょう〟なのだよ。チャンバラ芝居のようなものだ」と説明していなければ、最寄りの交番から制服警官が駆け付けていたはずである。

 成り行きから〝げきけんこうぎょう〟の演奏家に仕立て上げられてしまった女性シンガーを先頭とする野次馬の数は商業ビルを発つ前と比べて三倍近くに膨れ上がっており、一部の者は斬り合いの邪魔にならないよう人波を二つに割るなど交通整理まで始める有り様であった。


「キリサメ・アマカザリの相手役をやってるあのブレザー、例のナントカっていうアニメの扮装コスプレだよな? 上下揃えてんのかよ」

「確かキャラ自体も剣道家だったけど、単なる〝なりきり〟にしちゃ完成度高いよな。フツーに剣豪みたいじゃん、あの優男イケメン

原作パソゲーは立ち絵オンリーで試合シーン専用のCGなんてなかったわよね。あんなに足癖悪かったかしら? ていうか、蹴り技OKな剣道の試合なんて聞いたことないわ」


 〝げきけんこうぎょう〟あるいは『天叢雲アメノムラクモ』のゲリラ撮影という説明を信用するか否かは別として界隈で店を開いている人々には単純に迷惑でしかない。実際に何人かが軒先へと飛び出していったが、いずれも文句を述べる前に口を噤んでしまうのだった。

 良くも悪くも二人の立ち回りは見る者を圧倒し、一瞬で魅了してしまうほどの迫力に満ちていた。高度な剣劇チャンバラに見合うだけの見物料を支払わなければ申し訳ないとさえ思わせているのだ。

 キリサメが剥き出しにする妖気は野次馬たちを特に惹き付けていた。演技であったなら鬼気迫るものとして称賛すべきであろうが、何しろ彼は本気で斬り掛かっている。

 アコースティックギターの音色といった〝虚飾〟が誤解と錯覚を振り撒いているだけであって、秋葉原の中心部で繰り広げられているのは寅之助が吹聴したような〝撃剣興行おしばい〟ではないのだ。

 キリサメがあおあざの残る右手で『聖剣エクセルシス』を拾い上げた途端、彼のうちにて燃えたぎる殺意を表すかのようにアコースティックギターの旋律も激しさを増した。間合いを取った両者が相手の出方を窺うように対峙している最中は膠着状態と捉えて弦を爪弾く速度も抑えていたのだが、更なる激闘に期待を寄せて演奏にも相応の力を込め始めたわけだ。

 あさつむぎとじょうさきよつばの最終決戦――『かいしんイシュタロア』第一期最終回の佳境クライマックスへ寄り添う為に作られたという勇壮な曲に煽られ、野次馬たちの熱狂も最高潮に高まっていく。秋葉原の駅前で路上ストリートライブを敢行するだけあって〝場〟の盛り上げ方も心得ている様子であった。

 相変わらず無遠慮に割り込んでくる野次馬たちの喧騒へ溜め息を零しながら、キリサメは同じような熱気に晒された日のことを想い出していた。


(――ああ、そうだ。このやかましさは『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントと変わらないんだな……ッ)


 彼の脳裏に甦ったのは三月の長野で開催された『天叢雲アメノムラクモ』の興行イベントである。未稲や麦泉と共にリングサイドの特等席で岳たちの試合を観戦したのだが、戦場リングを取り巻く観客たちはまさしく現在いまの野次馬と同じように天井知らずともたとえるほど沸き立っていたのである。

 アンヘロ・オリバーレスを迎え撃った城渡の試合ではセコンドに付いた二本松から鎮まるよう注意されるくらい恭路も興奮していた。尊敬すべき〝総長〟を讃えようともしない他の観客たちへ咬み付きはしたが、彼自身も会場の熱狂と一体化していたという事実は我慢できずに張り上げた怒号そのものが証明しているだろう。

 考えるな、感じろ――と、理性をも押し流してしまう圧倒的な昂揚である。

 MMAの興行イベントを観戦したのは長野での一度きりであったが、他の会場でも同等の熱気が渦巻くことは想像に難くない。そして、は秋葉原の狭い路地に垂れ込めるものとも大きくは変わらないはずだ。

 様子見などしていないで真っ向からぶつかり合うようキリサメの背中を押し出さんとする戦いの旋律も長野冬季五輪の関連施設を震わせた大声援と本質的には同じである。


「大勢の観客たちが取り巻く状況ってサメちゃんの場合は『天叢雲アメノムラクモ』を想い出すんじゃないかな? デビュー戦の前に慣れておいたほうが良いよ。丁度、予行練習になったね」

「何なんだ、その恩着せがましい言い方は? ……こうなった以上はデビュー戦も何もないだろうが……ッ!」


 思考あたまの中身を見透かされたことが不愉快でならないキリサメがめ付けると、寅之助は妖気が迸る眼光を清流の如く澄んだ瞳でもって迎えた。

 ようやく交わった視線には先程までのような狼狽など微塵も感じられなかった。己の罪や死者への冒涜を恥じ入って伏し目となることもない。

 再びの豹変であり、これを認めたキリサメは復調の経緯が理解わからず大いに戸惑った。今では恭路を弄んだときのようにおどけた調子で他者ひとを揶揄するくらい落ち着きを取り戻しているのだ。


(……いや、さっきみたいに急に様子が変わったわけじゃない――よな……)


 全く兆候がなかったわけではない。幅広な『聖剣エクセルシス』を盾の代わりに据えて諸手突きを防いだとき、寅之助は口笛を吹いてキリサメの反応を称賛した。これに前後して彼の瞳は輝きを取り戻していったのだ。

 動揺というものは時間が経過するにつれて鎮まっていくが、寅之助の場合は良心の呵責とは異なる昂揚が入れ替わるように沸き上がってきた様子なのだ。

 無理矢理に貼り付けた作り物ではなく、内面から滲み出す喜びが純粋な笑顔となって弾けていた。

 これもまた初めて見る表情であった。同じ笑顔であっても商業ビルで相対したときには自分以外の人間を侮る厭らしさが染み出していたが、今は邪まな気配を少しも感じない。電知と一緒に居るときでさえ、ここまで無垢ではなかったはずである。

 だからこそ余計に腹立たしいのだ。未稲の尊厳を傷付け、結果的に自分から『天叢雲アメノムラクモ』という目標まで奪い取っておきながら当の寅之助は精神こころの清らかな部分を失っていないのである。これほど道理に合わない筋運びなど他には思い付かなかった。


「大昔の〝げきけんこうぎょう〟も似たようなものだって聞いてるけどね。サメちゃん、相撲は見たことあるのかい? 明治維新で刀を帯びることも許されなくなった剣士たちが現代いまでいうところの異種格闘みたいなコトを土俵の上でやったんだってさ――」

「――そんなことは聞いてない」


 得意げにうんちくまで披露し始めた寅之助を制するようにキリサメは『聖剣エクセルシス』を振り上げながら突っ込んでいった。これを縦一文字に閃かせることで聞く耳を持たないと示したのである。邪悪な魂が浄化されたとしか思えない変調の理由など探ったところで意味がないと己自身にも言い聞かせている。

 目の前で明るく笑う相手は今ここで死ぬのだ。

 しかしながら、動作それは余りにも大振りであった。小技を経由してもいないので迎え撃つ側には身のこなしの一部始終が晒されており、案の定、後方うしろに軽く退すさる程度でかわされてしまった――が、そこまでがキリサメの計算ねらいである。

 刀身に込められていた渾身の力がアスファルトの路面に撥ね返り、生じた反動に引っ張られる格好でキリサメの上体も仰け反るように持ち上がった。

 女性シンガーの演奏へ割り込むほど大きな音を立てて撥ね返った『聖剣エクセルシス』を水平に構え直したキリサメは鋭く腰を捻り込み、先程までの報復とばかりに剣先を突き出していく。ノコギリ状の刃は刀身の左右にしか取り付けていないので命中させても猛禽類とりの嘴のように突き刺すことは叶わないが、それでも肋骨の数本は圧し折ることができるだろう。

 片手突きに倣うような恰好で半身を開き、右手一本で『聖剣エクセルシス』を突き出していくキリサメは対の左掌をリング状のツカがしらに添えている。剣先が胸骨に当たって撥ね返ろうとも力ずくで押し切るつもりであった。


「刀と薙刀みたいに異なる武器同士で立ち合うことも〝げきけんこうぎょう〟では多かったみたいだよ。その精神は今のボクらにも通じると思わない? 時代を超えた浪漫を感じるよね~」

「何が浪漫だ! お前の趣味に付き合わされるのはうんざりだ!」


 縦一文字をかわすのと同時に打ち込みの手本を示すべくキリサメの側頭部に狙いを定めていた寅之助は、身体ごとぶつかるような突き技への派生を興味深そうに眺め、自身も『聖剣エクセルシス』に標的まとを変えた。

 斜めの軌道を描く竹刀が打ち込まれたのは『聖剣エクセルシス』の側面――即ち、ノコギリ状の刃であった。筋線維に至るまで修復が困難な状態に引き裂くであろう鉄片に四ツ割の竹片を組み上げた刀身を引っ掛け、突進の勢いを受け流そうと試みたのである。

 尤も、突き技を視認してから迎え撃つ手立てを切り替えたのでは稲妻のような身のこなしをもってしても間に合わない。『聖剣エクセルシス』の重量を前方へと振り回し、剣先に生じる力の作用に乗ったキリサメの踏み込みも十分にはやいのだ。


「サメちゃんがその刀剣マクアフティルを振り回すたびにお客さんたちは太刀風を浴びて酔い痴れる。アブない技の数々に魅せられる。キミ自身が〝げきけんこうぎょう〟の精神を体現しているのさ――」


 我が身に迫る命の危機すらも愉悦に換わってしまうのか、『聖剣エクセルシス』の剣先から逃れるべく真横へと跳ね、そのまま人ごみの只中に飛び込んでいく寅之助はこの上なく明るい笑い声を引き摺っていた。

 それから寅之助は比喩でなく本当に野次馬の群れに紛れてしまった。無論、キリサメも完全に見失ったわけではない。抜かりなく視線を巡らせ、その背中を追い掛けている。

 前列に立つ野次馬たちが一様に驚いたような反応を示す上、寅之助自身の扮装コスプレが目立つので追跡に難渋するわけでもなかった。


「現存する当時の錦絵をインターネットで見たことがあるけど、今のボクたちみたいに大勢の見物客に取り囲まれていたなぁ。いわゆる、満員御礼ってヤツ。毎日、数え切れない人たちが見物席からあぶれたっていうしね」

「そこか――」


 カップルとおぼしき男女の隙間からわざとらしく顔を覗かせた寅之助に振り向き、得物マクアフティルを構え直す反応速度は辺りからどよめきが起こるほどに敏速であった。故郷ペルーの貧民街で毎日のように不意打ちや闇討ちに遭ってきたので思考よりも身体のほうが先に動くのだ。

 寅之助はこれも口笛でもって褒めそやした。無論、本人としては他意もなく純粋に称賛しているつもりなのだが、キリサメの耳には悪質な挑発としか聞こえず、舌打ちでもって応じながら『聖剣エクセルシス』を振り被った。

 キリサメの真正面に野次馬の一人が立ちはだかったのは、その直後のことである。二〇代前半と思われる若い男性は照準ねらいでも定めるかのように片目を瞑り、両手でもって携帯電話スマホを構えていた。

 写真映えする勇姿すがたを至近距離で撮影しようと闘いの場に飛び出してきたのだ。他の野次馬から非難の声も上がったが、決定的な瞬間を逃してはなるまいと逸る人間には全く聞こえていないのだろう。

 写真の投稿を中心とするSNSでは当然ながら衝撃度の高いものほど持て囃され、閲覧数をことが一つの勲章となっている。サブカルチャーの聖地にいて繰り広げられる〝げきけんこうぎょう〟はそれ自体が話題性を秘めており、欧州ヨーロッパの騎士が振るう剣とも日本の侍が帯びる刀とも全く違う『マクアフティル』は注目を集めるのにというわけだ。

 標的との間へ割って入るように飛び出してきた男性をキリサメは渾身の力で蹴り飛ばすつもりであった。彼の身を砲弾の如く寅之助に叩き付けて横転させようと考えたのだ。改めてつまびらかとするまでもないが、闘いを妨げる相手に退避を諭すような優しさなど最初から持ち合わせてもいない。

 結局、寅之助のほうが男性の肩を掴み、脇へと移してしまったので蹴りを入れる必要もなくなったが、同じような真似をする者が他にも現れたなら、そのときもキリサメはちゅうちょしないだろう。


「現代人がプロレスに燃え上がるのと同じように明治時代の人たちも大興奮だったって史料にも書いてあったなぁ。巡業先では武道具を担いで歩いているだけでも持て囃されたみたいだよ。そういう意味じゃプロレスじゃなくて人気サーカス団のほうが例えとして近いのかも――ってサーカスも平成いまじゃ流行ってないか~」


 流れるような身のこなしでくだんの男性を安全な位置まで移動させた寅之助は、『聖剣エクセルシス』で狙われている状況にも関わらず、「気持ちは分かるけど、他のお客さんの迷惑にもなるから乱入は頂けませんよ」と柔らかく言い諭すほどの余裕を見せつけている。

 一時は前後不覚を疑ったほどの動揺が鎮まったことは明白である。それが証拠に今度は寅之助のほうからキリサメに斬り掛かっていった。


「プロレス的っていえば〝げきけんこうぎょう〟では刀と鎖鎌の勝負なんてのもやったみたいだよ。あからさまにショーアップされた試合っていうか、宮本武蔵と宍戸ばいけんを意識したんじゃないかってボクはニラんでるよ」

現代いまでいう『客寄せパンダ』だと……?」

「そんなトコかな。電ちゃんと違って歴史のコトは大して詳しくないし、明治時代の宮本武蔵の知名度なんて正確には分からないから当て推量ずっぽうだよ。あんまり真に受けないでね」


 二刀流の祖とされる江戸時代の剣豪・宮本武蔵と鎖鎌の対決は〝史実〟と捉えるとしても『梅軒』という名前は後世の作家が創作したもので間違いない――そのように言い添える寅之助は側頭部ないしは脳天、あるいは下腕や胴を狙うという『剣道』の基本的な原則に基づいて竹刀を振るっている。

 尤も、彼が体得したのはあくまでも森寅雄タイガー・モリが生きた時代の技であって『現代剣道』ではない。冗談めかして『タイガー・モリ式の剣道』とも称したくらいなのだ。

 果たして寅之助は竹刀を繰り出してから脇へとすり抜けることなくその場に留まり、刀身を引きつつ踏み込みに用いた足でもってキリサメの膝や脛を蹴り付けた。

 彼が仕掛けたのは単純な打突ではなく、時間差を付けて上下を脅かすという複雑な連続攻撃であったのだ。垂直に立てた刀身を押し込んで上半身の動作うごきを封じ、その間に互いの膝をぶつけ合う瞬間もあった。

 上段あるいは中段と下段に対する攻撃を同時に繰り出されるよりも厄介である。僅かな間を置いて異なる部位が狙われる為に技の拍子が読みにくいのだ。必然的に上下二段へ意識を分散させる形となるので、どうしても反応が遅れてしまう。

 時間差攻撃を仕掛ける側は手足に別々の脳がるのではないかと疑ってしまうほど巧みであり、その速度も緩急自在である。脳天への攻撃が落雷さながらに鋭いと思えば、下段蹴りは次なる打突と同時になってしまうほど遅く、横転を狙って互いの足首を絡ませるなどキリサメを惑わし続けるのだった。

 足技を繰り返す内に結び目が緩んでいったのだろう。右の太腿に巻いていたパッションピンクのバンダナ――即ち、自身が所属するカラーギャング『桃色ラビッシュ』のトレードマークがほどけて足元に滑り落ちてしまったが、キリサメがこれを踏み付けにしても寅之助は意に介さなかった。

 それどころか、蛍光色の布きれに自ら足跡を付ける有り様である。


「そもそも〝げきけんこうぎょう〟はさかきばらけんきちって有名な剣客が始めたことなんだよ。こうしょ――江戸幕府が運営する道場で師範を務めた人物でね。明治政府に刀を取り上げられ、西洋文明が入ってきたことで剣術そのものが時代遅れと否定された後も侍の武芸を絶やしちゃいけないと、その存続に尽力されておられたんだ」

「……サカキバラ……ケンキチ……」


 幕末維新にいて『最後の剣客』と称えられたさかきばらけんきちも寅之助にとっては畏敬の対象なのだろう。手足に別々の意思を巡らせている最中にも森寅雄の名を口にするときと同じように一礼を欠かさなかった。


「客を入れて見物料を取る形式にしたのは明治維新まで剣を頼りに生きてきた武士たちを経済的に援ける為――侍の武芸を庶民の見世物にすることを批難されたみたいだけど、榊原先生が踏ん張ってくれたお陰で日本から『剣術』が途絶えず、その精神は『剣道』に受け継がれていったんだ。そして、大正・昭和の森寅雄、平成いまのボクにまで繋がったってワケ。……ねっ? 時代を超えた浪漫を感じるでしょ?」

「……右から左へ聞き流される長話を垂れ流していて楽しいか?」

「口では無視するって突き放しつつ、しっかりボクの話を聞いてくれる真面目なところ、電ちゃんみたいで好きだよ」

「うる――ッさい……!」


 速度も拍子も一定ではない上下二段の攻撃を複雑に組み合わせながら、そこにまで挟んでくる寅之助に対してキリサメは幾度も幾度も舌打ちを繰り返していた。

 そもそも、相手の話に耳を傾けているのと、望んでもいないのに耳に入ってくる状態には大きな隔たりがあるだろう。キリサメには雑談おしゃべりに付き合っているつもりはなく、付け入る隙を伺う片手間に適当な反応を返しているだけなのだ。

 今はその余裕すらない。足首を刈られそうになったときにはすぐさまかわし、完全に動作うごきを見極められたときには自ら蹴り返し――こうした攻防が野次馬の目には一種のタップダンスのように見えたらしく、キリサメの苦労を置き去りにして大いに盛り上がっている。

 二つに折り畳んでベルトへ差し込んだ鞘代わりの麻袋も両足の動きに合わせて鳥の尾羽根のように揺れており、直感的に陽気なダンスと誤解するのも無理からぬことであろう。

 その上、寅之助は革靴を履いているので踵でアスファルトの路面を蹴るたびに甲高い音が狭い路地を駆け抜けるのだ。それはつまり、スニーカーと比べて蹴り技の威力に優れているということである。キリサメの両足にも着実にダメージを蓄積させていた。

 傍目には防戦一方と見えることであろうが、手も足も出ないほど追い詰められているわけではない。『聖剣エクセルシス』を垂直に構えたキリサメは竹刀の軌道を見極め、頭部など急所への打ち込みを剣先やリング状のツカがしらでもって弾き返していた。胴を抉らんと閃いた横薙ぎは船のオールを彷彿とさせる長いツカにて受け止めている。

 この直後、強引に竹刀を押し返して寅之助の姿勢を崩そうとも図ったのだが、太腿と腹部を立て続けに踏み付けられ、逆に自分のほうが尻餅をつきそうになってしまった。

 軽くて扱い易い竹刀とは比較にならないほど重い『聖剣エクセルシス』はどうしても小回りが利かないので、キリサメも全ての打突を防ぎ切ろうとは考えていない。下腕など致命傷となり得ない部位は無防備に晒し、付け入る隙を見出す〝餌〟に換えているくらいであった。

 既に左右の腕には幾つものあおあざが刻まれ、「寸止め失敗しまくってるぞ。デビュー戦に障ったら元も子もないだろ」と野次馬から心配されるくらい腫れ始めている。

 このままでは重量のある『聖剣エクセルシス』など握っていられなくなるかも知れないが、四肢の動きが鈍ったなら得物を捨てて喉笛に咬み付くのみ――寅之助が振るうのは竹刀であって本当の刃物ではない。殺傷力が伴わない武器などキリサメには大して怖くもないわけだ。

 上下二段の時間差攻撃によって集中を乱されることのほうが遥かに悩ましかった。


「時代から弾かれて〝廃れゆくもの〟を絶やさない為に必死の想いで立ち上がったんだから、榊原先生と八雲岳さんって似た者同士なのかも知れないね。サメちゃんの養父おとうさんも一度は落ちぶれた日本の総合格闘技MMAを復活させた立役者だもん」

「……だったら、どうしたっていうんだ……」

養父おとうさんの想いを受け継いで、あの人が統括本部長として築き上げた『天叢雲アメノムラクモ』のリングへ飛び込むんだよね、サメちゃんは――ってコトはボクたちも似た者になるのかな?」

「誰と誰が? 僕と寅之助が? ……ここまで好き放題に仕出かしておいて自分たちが似た者同士と言い切れるお前の神経が一ミリも理解できない。頭の中身を確かめてやるから叩き割らせろ。生きたままのう漿しょうを輪切りにしてやる」

「歩む〝道〟は違っても先人の志を守る者同士だよ? 仲良くやろうじゃないの。時代を超えた浪漫だけじゃなくて運命まで感じちゃったなぁ。今やサメちゃんの存在はボクの中で電ちゃんと並びつつあるよ」

「僕とお前の運命が交わるのは今日が最後だ。……いいや、僕たちは最初から何一つとして交わっちゃいない。いい加減、そのことに気付いたらどうだ」

「こうして出逢った運命がボクたちを結び付ける糸なんだよ? それを手繰り寄せたのは電ちゃんだけどね。……うん! ボクとサメちゃんの運命の相手はやっぱり電ちゃんだ」

「……運命を軽々しく語ってしまうのも日本人ハポネスの悪いクセなのかもな。お前も本間氏も、他人ひとに勝手な妄想ゆめを持ち過ぎなんだ……ッ!」


 強い語調で撥ね付けようとしたのは、またしても心の内側を見透かされた為である。

 悠久の昔より侍と呼ばれる者たちによって織り上げられてきた〝刀の時代〟を遥かな未来まで繋げるべく〝げきけんこうぎょう〟を創始したという榊原鍵吉のことなど地球の裏側で生まれ育ったキリサメには知るよしもない。寅之助から一方的に聞かされはしたものの、『最後の剣客』が日本の歴史上で果たした役割も全くと言って良いほど理解していない。

 しかしながら、同じ〝刀の時代〟を生きてきた仲間たちと共に掛けがえのないモノを守ろうと決起した志は『天叢雲アメノムラクモ』の旗揚げをもって日本MMAを甦らせた八雲岳にも重なると感じたのだ。

 寅之助の指摘ことばを認めるようで甚だ面白くないが、侍とMMA選手で立場こそ違えど幕末維新から現代に至るまで戦いの場に立つ者の魂は同じ輝きを放つという〝真実〟をキリサメは己の心に受け止めていた。

 口では黙殺すると言っておきながら結局は彼の話に耳を傾けてしまう自分に腹が立ってもいるが、それはまた別の話というわけである。

 そして、『天叢雲アメノムラクモ』を意識するほどに寅之助への憤怒いかりが煮え滾るのだ。

 養父である統括本部長の想いを継いで『天叢雲アメノムラクモ』のリングに向かうのだと彼は語っていたが、これら全てを台無しにしたのは他ならぬ瀬古谷寅之助その人ではないか。もはや、キリサメに〝次の闘い〟など用意されてはいないのである。

 致命傷でもなければ竹刀で打たれた傷など〝この戦い〟に支障をきたすものではないが、あおあざの痛みは腕から心へと伝い、これを軋ませているのだった。


「まぁ、榊原先生も試練の連続だったみたいだね。先生の率いる〝げきけんこうぎょう〟が大ウケしたもんだから全国各地あちこち猿真似パクリが蔓延した挙げ句、数年もしない内に飽きられちゃったんだよ。現在いま明治むかしも一気に爆発したブームっていうのはそんなモノかも知れないけどさ」

「……急に世知辛い話になったな。そんなところまで時代を超えるのかよ」

「顔に白粉おしろいを塗りたくる人、派手な衣装で着飾る人――ウケ狙いに走って武芸の継承っていう本質を見失う人も増え始めたみたいだね。勿論、全部がそういう悪ふざけの延長ではなかったと信じているけどさ」

白粉おしろいって、確かおかしな化粧のことだろう? ……本当の見世物に成り果てたのか」

「奇妙奇天烈な動作うごきで見物客の笑いを取ることに全力を注ぐような出場者もいたくらいだからサメちゃんの批判ツッコミにも言い返せないや」

「さっきプロレスを例に出していたけど、コミックオペラみたいなやり方で観客を楽しませる試合は地方の……なんて言うんだ、アレは――そう、アマチュアの社会人プロレスに近いんじゃないか? 合宿で一緒になったレスラーの話では命のやり取りみたいな真剣勝負じゃなくて観客の満足度を大切にしているらしいからな」


 キリサメが明治時代の〝げきけんこうぎょう〟と重ね合わせたのは『天叢雲アメノムラクモ』ではなく八雲家との関わりが深い長野県の地方プロレス団体『まつしろピラミッドプロレス』であった。

 あかぞなえにんげんカリガネイダーや彼のライバルであるブラックトイシマンは『天叢雲アメノムラクモ』の選手のように弱肉強食の世界に身を投じているわけではない。己の肉体を駆使してマット上に闘魂溢れる〝筋書き〟を表現し、観客席に駆け付けてくれた人々へ極上の娯楽エンターテインメントを届けることに全身全霊を傾けているのだ。

 確かに榊原鍵吉の精神とは掛け離れているかも知れないが、寅之助の解説はなしを聞く限りでは〝興行〟の側面にいて最も近いのは『まつしろピラミッドプロレス』であろう。


「長野のプロレス団体のコトを言ってるのかな? 電ちゃんと一緒に合宿へ加わったっていう。社会人レスラーの全部が筋書きアリで試合やってるワケじゃないと思うけど、〝見世物〟ってコトなら当たらずとも遠からず――なのかな」

「電知が怒り出すかそうじゃないかというところで二つの違いを見分けられるのかもな。カネ集めが目的の〝見世物〟をあいつは何よりも憎んでいる」

「……ほら、やっぱりサメちゃん、電ちゃんのコトが大好きじゃないか」


 電知は過去に『天叢雲アメノムラクモ』を金儲けのイベントと痛烈に批判している。格闘技を心から愛するが故の義憤を例に引いたキリサメに対し、苦笑交じりで肩を竦めてみせたのが寅之助の返答こたえといえよう。


「当たり前だけど、開催当初から〝げきけんこうぎょう〟はボロクソに批難されまくっていたよ。武士の魂を見世物にするなんてけしからんってね」

「電知も同じように怒鳴り散らすだろうな。髪を掻き毟る姿が目に浮かぶよ」

「結局、〝げきけんこうぎょう〟は創始者の手が届かないところで全国各地に広がっていったんだ。サメちゃんの言うような金儲けの〝見世物〟に成り下がると揉め事も増えて一時は明治政府から禁止のお達しが出されたくらいさ。……ただひとえに日本武芸の未来の為、朝から晩まで駆けずり回っておられた榊原先生の気持ちを思うと心の底から悲しくなるよ」


 当時、大変な心労を重ねていたであろう『最後の剣客』を想い、深々とこうべを垂れた寅之助は〝げきけんこうぎょう〟の末路と共にキリサメの脳天目掛けて竹刀を打ち込んでいった。

 自分の説明はなしを誤魔化すようにして攻撃を再開した恰好である。榊原鍵吉が繋ぎ、森寅雄が現代に示した剣の〝道〟を歩む者だけにカネの悪臭においが強まる部分は避けたいらしい。


「……剣道のことは表情豊かに話すよな、お前。電知のことは一本調子なのに」


 四ツ割の竹片で組まれた刀身を敢えて眉間で受け止めたキリサメは蹴り技が打突を追い掛けてくるより早く身を乗り出し、これを力ずくで押し返した。

 このとき、二人の背中には激しい曲調から一変して伸びやかな音色が届けられている。本来はヴァイオリンやコントラバスなど幾つもの楽器が折り重なる壮大な曲なのだが、さすがにアコースティックギター一本でオーケストラの迫力を再現することは難しい。

 一気に押し切ろうとするキリサメと、これに抗わんとする寅之助は互いの刀身を重ね合わせたまま暫く力比べを演じることになった。いわゆる、〝鍔迫り合い〟のような状態に入ったわけだ。そこにじっくりと奏で上げる曲で寄り添う女性シンガーの感性センスには誰もが唸っていた。

 一進一退を演じる双方には四〇人に迫ろうかという野次馬から声援が乱れ飛んだ。見てくれだけならば優男イケメンの寅之助にはさすがに女性の応援のほうが多かったが、双方ともこれで相手に競り勝つ力が湧き起こるようなことはない。

 端正な顔立ちを自覚的に利用して乙女心を惑わすような性悪でありながら恋人以外の異性など寅之助の眼中にはなく、キリサメに至っては〝身内〟と認めた人間でもない限り、何らかの感情を持ち得ないのだ。

 今も眉間から噴き出す汗を疎ましそうに振り払いながら、渾身の力を四肢へ漲らせることしか考えていない。自分への声援こえに応えるさえも感じていなかった。


「さすがにしぶとい……ッ!」

「人には見えないって言われるけど、ボクもそれなりに負けず嫌いなのさ――」


 圧し掛かるような形で押さえ付けてしまえば〝力の作用〟を受け流されることもないだろうと判断し、頭部あたまを狙う一撃にも割り込んでいったのだが、剣を握らせればやはり寅之助にいちじつちょうがあった。ふたつの力が交わり、衝突する一点がほんの少し逸らされたと感じた直後、『聖剣エクセルシス』のほうが一方的に撥ね上げられてしまった。

 互いの刀身を巻き付けるようにして素早く回転させ、その激流の中へ『聖剣エクセルシス』を――キリサメを飲み込んだのである。

 この直後、交響曲を彷彿とさせる音色とは正反対に一つの太刀筋が濁流と化した。

 刀身を巻き取られそうになったキリサメは左右の五指でツカを強く握り締め、『聖剣エクセルシス』そのものを取り落とす事態だけは免れたが、必然的に両腕を高く持ち上げる姿勢となっている。それはつまり、己の身を無防備のまま〝敵〟の前に晒したことを意味するのだ。

 竹刀を大きく振り上げた状態から横薙ぎに変化した寅之助が今度こそ胴を抉り、内臓まで揺さぶるだろうと野次馬の誰もが確信していた――が、キリサメの反撃はそれら全てを上回った。


「――こんな小技で人が死ぬかよッ!」


 りょりょく一つを頼りに『聖剣エクセルシス』を振り落としたのでは間に合わないと直感したキリサメは後方に飛び退すさりもせず、反対の方向へと己の身を投げ出した。

 このときのキリサメはノコギリ状の刃を高く振り翳したような恰好となっている。その頂点から勢いよく倒れ込むことで石の板による重量おもみを前方へと一気に振り回し、急降下にも近い状態を作り出したのである。

 急激な変化を伴って垂直落下した『聖剣エクセルシス』は寅之助の鼻先を掠めるようにしてアスファルトの路面を叩いたが、踏み込みが半歩でも深かったなら彼の頭蓋骨は陥没した部位から顎先に至るまで無数の亀裂が走っていたことだろう。無残に抉ることは叶わなくとも禍々しい刃が脳髄へ食い込んだのは間違いない。

 狭い路地に爆ぜた轟音はそれほどまでに凄まじく、高く舞い上がった〝尾羽根〟が重力に引かれて腰の辺りへ戻るのと同時に冷たい戦慄が辺り一面を沈黙で押し潰した。

 片膝を突きつつ左右の下腕を交差させるような形でツカを握り直し、いつでも『聖剣エクセルシス』を振り上げられる姿勢を維持したまま寅之助をめ付けると、彼は一閃が駆け抜けた先にて歓喜の笑みを浮かべていた。

 驚愕ではなく興奮によって双眸を見開き、剥き出しとなった白い歯の隙間から感嘆の溜め息を洩らしている。九死に一生を得たことへ安堵しているのではない。比喩でなく本当に鼻先を掠めていった死神スーパイの気配を噛み締め、喜びに打ち震えている様子なのだ。


「――『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキー、ちょっとスゴ過ぎじゃね⁉ だって基本的には総合格闘の人じゃん! なのに武器持ってもこんなにイイ動きでれるなんてよ!」

「ぶっちゃけ、武器アリのほうがイケるんじゃない? 最近、話題の甲冑格闘技アーマードバトルにも出場してるんじゃないかしら! 日本リーグの登録選手、チェックしなくっちゃ!」

 野次馬によって埋め尽くされた狭い路地が静寂を受け容れていたのは、ほんの一瞬のことである。アスファルトの路面にクレーターを穿たんばかりの轟音は明確な殺意を表しており、最前列の何人かは戸惑った様子で互いの顔を見合わせたのだが、最後にはすらも吹き飛ばされた。

 キリサメが披露した〝剣劇チャンバラ〟を褒め称える大歓声が爆発を起こしたかのように広がっていったのである。


(……まさかと思ったけど、この期に及んでまだ殺陣たてと勘違いしているのかよ。鈍いなんてレベルじゃないだろ、日本人ハポネスども……)


 今、〝日本人ハポネス〟たちの目の前で起ころうとしていたのは二〇〇八年の〝凶行〟にも匹敵する事態なのだ。

 殺陣道場『とうあらた』の体験会ワークショップで講師を務めたひめと近藤――プロの殺陣師たちは人が本当に斬り捨てられたようにしか見えない〝剣劇チャンバラ〟を実演していたが、寅之助の脳天目掛けて『聖剣エクセルシス』を振り落としたキリサメは手加減など一切していなかった。

 妖気を迸らせながら殺意の塊のような得物マクアフティルを振り回すのだから〝剣劇チャンバラ〟とは決定的に異なっているはずなのだが、それでも野次馬の目には時代を超えて平成に甦った〝げきけんこうぎょう〟――即ち、〝見世物おしばい〟としか映っていないのである。

 殺気すら完全に制御コントロールし、太刀筋でもって物語を完璧に表現してしまう殺陣と、〝獲物〟を殺傷する為だけに研ぎ澄ませた己の〝剣〟を比べること自体がそもそも烏滸がましいではないか。

 『タイガー・モリ式の剣道』はさておき、『聖剣エクセルシス』の場合は血の気の多い野次馬たちが〝江戸の華〟ともたとえられる喧嘩を物珍しく見物しているだけである。『暴力』が誰かに感動を与えることなど絶対に有り得ないと、キリサメは自らを強く蔑んでいた。

 〝見世物おしばい〟であるはずがなかった。寅之助の竹刀によって刻まれた両腕のあおあざも、彼が未稲を巻き込んで仕出かした悪事ことも現実の〝痛み〟として感じているのだ。

 アコースティックギターによる演奏や寅之助自身による吹聴など幾つもの〝虚飾〟が折り重なった果ての錯覚とはいえ、命のやり取りという〝現実〟に直面していることへ誰もが無自覚であり、キリサメのほうが逆におののいてしまう始末であった。

 現実リアル虚構フィクションの境目が曖昧な〝世界〟という点を踏まえたとしても、これでは集団催眠に掛けられたようではないか。人間の感覚を麻痺させ、狂気に駆り立てる群集心理が存在することは故郷ペルーの反政府デモを通じて厭というくらい知っていたが、地球の裏側でも同じ現象に遭遇した次第である。

 相互作用に基づく心理現象に浮かされている点にいては『天叢雲アメノムラクモ』の観客たちも眼前の野次馬と大して変わるまい。

 彼らの心理こころを衝き動かしている寅之助の昂揚たかぶりは、当然ながら誰よりもその熱量が高い。が〝見世物おしばい〟などではなく正真正銘の命の削り合いであり、『聖剣エクセルシス』を殺意の塊と認識した上で悦楽を感じているのは彼一人なのだ。

 透き通った川の水面に撥ね返る陽の光の如く双眸を輝かせているくらいであった。


(……他人ひとのことなんか言えないよな。僕だって催眠術や手品のように惑わされていたのかも知れないし……)


 そのさまめ付けていると、寅之助が仕掛けた一連の悪だくみを「現実であろう」と疑わなかった数分前の確信が揺らいでくる。

 結果的に反社会的勢力ヤクザの利益を損ねてしまったキリサメに制裁を加えるべく差し向けられた刺客でありながら、このような反応を示すのはどう考えてもおかしいだろう。仕留め切れないことに苛立つのが自然というもので、竹刀の剣先を見据えて警戒する己を間抜けとさえ感じていた。


「思った通り、サメちゃんはどこまでもワクワクさせてくれるなぁ。長年ながいこと、竹刀を握ってるのに今みたいな技、見たことも聞いたこともないよ。もしかして、古代インカ文明に伝わる幻の流派を習ったとか?」


 追い撃ちより太刀筋の秘密を探ることへ前のめりとなっている寅之助の真意が全く読み切れないキリサメは、片膝を突いた状態で思わず仰け反りそうになってしまった。


「どうして、みんな、同じような発想になるのか……古代遺産みたいに有難がるほど大層なモンじゃないってコトは剣を交えた寅之助おまえが一番理解わかっているだろう。……狙ったを逃がさず、効率的に叩き潰す方法を考えている内に自然と身に付いた――ただそれだけのものだ、こんなのは……」


 足元から寅之助を牽制しつつ徐々に上体を引き起こしたキリサメは正面を見据える眼光はそのままに後方へと退すさり始めた。

 両刃の剣はわざわざ刀身を翻さなくともツカの握り方を変えるだけで斬り上げの体勢へと移行できる。重量おもみがあって小回りも利かない『聖剣エクセルシス』にとってはこそが最も有効というわけだ。

 しかしながら〝剣術〟の作法として誰かの指導を受けたわけではない。前言の通り、暴力によって支配された過酷な環境がキリサメに死地より脱する手立てを身に付けさせたようなものである。

 『聖剣エクセルシス』の構え方すら最速最短で切り替えることができなければ、強盗から突き込まれてくる凶刃など凌げない。生命の危機に直結する窮状を切り抜けようと知恵を絞っている間に刀剣マクアフティルの振り方も自然と馴染んでいったのだ。


「反射神経が走りまくってる柔軟な動作うごきは、成る程、そういうワケかぁ。サメちゃんは状況に合わせて技を変えていく適応力が桁外れに高いんだね。〝天然もの〟は化け物ってのは言い得て妙だよ」

「一人で何を納得してるんだよ。……ますます気色悪いぞ」

長年ながいこと、竹刀を握り続けてようやく森寅雄タイガー・モリの〝型〟が見えてきたボクとは持って生まれた才能モノが大違いなのかもね。まで電ちゃんとそっくりだなんて、サメちゃんは嫉妬を煽る天才だなぁ~」

「おい……」


 実際に剣を交える中で〝何か〟を感じ取ったのだろう。竹刀を右肩に担いだ寅之助は瞑目しながらキリサメの太刀筋を振り返り、これを噛み締めるように何度も首を頷かせた。


「サメちゃんの場合、剣術云々じゃなくて〝剣を使った闘い〟が得意なんだね。そういや電ちゃんとり合ったときには鉄パイプを拾って武器にしたんだっけ。手に持って使える〝凶器〟なら何でもござれって感じなのかな。ますます妬けちゃうよ」

「嫉妬される理由が一ミリも分からないが、武道なんて上品なモノは今まで一度も習ったことがないからな。それこそ持って生まれたモノの違いだろ。……お前みたいに恵まれてるワケじゃない」

「んー? うちの道場も別にじゃないけどねぇ~」

「根性だけじゃなくて足癖も悪かったしな。森寅雄のコトを全く知らない僕にも殴る蹴るのラフプレーが『タイガー・モリ式の剣道』というコトは伝わったよ」

「あ~、さっきのはサメちゃんに伝わるよう分かり易い言い方を考えただけで正式名称じゃないよ。道場の看板までブッ飛び兼ねないからで言い触らさないでおくれよ」


 己の振る舞いによって誤解を招いてしまったことを詫びるよう天に一礼した寅之助は、『あて』を体系に組み込むことは森寅雄独自の発想ではなく〝近現代の剣道〟へ向かおうとする過渡期に見られた〝古流剣術〟の名残と説明した。


「勿論、森寅雄も足技は使っていたけど、バリエーションを増やしたのはうちの祖父や父だよ。瀬古谷の道場の特徴っていうべきかなぁ? ……ボクだって物心つく前から蹴飛ばされて育ったようなものさ」


 『タイガー・モリ式の剣道』に絡めて足癖の悪さを揶揄するつもりであったキリサメは思いも寄らない身の上話に面食らい、呻き声すら飲み込んで言葉を失った。

 どのような反応を返すべきか困り果てた挙げ句、寅之助に倣って『聖剣エクセルシス』を右肩に担ぎ直した。無意味な行動という自覚はあったが、それ以外には何も思い浮かばなかった。

 キリサメの眉間に深い皺が寄ってしまうのは当然だろう。幼少期にまつわる話から察するに寅之助は稽古とは名ばかりの家庭内暴力を受けていたとしか考えられないのである。

 野次馬たちの間にも穏やかとは言い難いどよめきが起こり、その先頭に立っていた女性シンガーは弦を爪弾く指があらぬ方向へ滑ってからというもの演奏自体を中断している。

 自分の不用意な発言が場の空気を凍り付かせてしまったことに気付いた寅之助は竹刀を左右に振りながら「違う違う、早とちりだよ。別に虐待じゃないんだから」などと困ったように笑い、キリサメたちが想像しているような事態ではないと弁明していった。


「言い方がいけなかったね。物心つく前から厳しい稽古を積んできたってだけだよ――こういうのは自分では喋らないほうがカッコ良いのになぁ。苦労自慢みたいで最高にみっともないし」

「だけど、蹴られて育ったなんて言われたら、やっぱり、その……」

「自分の意志で稽古を付けて貰っていたんだから、そもそも家庭内暴力に当てはまらないでしょ。最近は何でもかんでも体罰と決め付けて批難バッシングする方向に持っていくけど、正直、そういうのは迷惑なんだよなァ。……ボクもね、甘っちょろい世界で剣を握っているつもりはないんだよ」

「痛みを知らなくては強くなれない――ということか……?」

「……〝痛み〟というのがどういうものか、その意味すら考えたコトのないから〝修練〟を害悪みたいに否定されるのはちょっとね。大事に大事にされた紳士淑女のありがた~いお説教なんて、下品で野蛮なボクの耳には却って猛毒なのさ」

「わざわざ敵を作るような真似を……」

「人間、本音で生きなきゃ損でしょ。苦労自慢と同じくらい媚びを売って回るのもバカバカしいし、これくらいで敵に回るような人なんかボクの人生に必要ないよ」


 『シゴキ』という名の不当な暴力が教育の現場にさえ蔓延はびこっていた日本だけでなく、欧米社会にいてもその是非が問われ続ける体罰を支持するかのような発言に再び大きなどよめきが起こったが、寅之助の言わんとしていることがキリサメには全く理解できないわけではない。

 『天叢雲アメノムラクモ』での経歴プロフィールなど対外的には〝我流〟と称する喧嘩殺法や『聖剣エクセルシス』の使い方を身に付け、格差社会の最下層で生き延びることができたのは死の気配が付き纏う〝痛み〟を知っていればこそである。強くならなければ命を繋ぐことすらも叶わなかったのだ。

 シャツによって覆い隠された肉体からだには銃で撃たれたあと現在いまも生々しく残っている。刃物を深々と刺し込まれた部位の雑な縫合を見れば、手術を引き受けた無免許医の力量が窺い知れるというものだった。

 いずれも〝痛み〟や血の味を想い出させるきずあとであるが、腕力で逆らうことのできない幼少期に亡き親から刻まれたものは一つもなかった。

 互いの生命を喰らい合う〝実戦〟の中で付けられた傷と大人による虐待の痕跡は決して混同すべきではないのだが、寅之助の場合はその区別が些か危ういように思えるのだ。

 あるいは物心つく前から常態化されていた『シゴキ』によって真っ当な感覚を壊され、虐待の被害者であるという自覚も未だに芽生えていないのかも知れない。

 野次馬の多くもキリサメと同じ疑念を抱いたようで、ブレザーの裾がなびく様子をも美麗と感じるほど魅了された女性などは過酷な幼少期を思い浮かべて嗚咽まで漏らしている。


「……誤解され易いってのは間違いないかもね。小学生の頃の話だけど、電ちゃんもあざだらけのボクを見て自宅いえまで怒鳴り込んでくれたもんなぁ。あのときの電ちゃんは惚れ惚れするくらい男前だったよ」

「……どんな理由でも体罰は褒められたもんじゃないからな……」

「そうだね、よね」


 幼い頃から義侠心が強かった電知の昔話はなしを愉しそうに振り返るくらいだから、心に深いトラウマを負い兼ねない家庭内暴力の事実などなかったのだとキリサメも信じたいが、どうしても己自身を説き伏せられない。

 生をけたその日から道場の跡取り息子という〝将来〟が約束された寅之助のように恵まれているわけではない――この自嘲めいた言葉に対する反応もついに確認できなかったのである。そのこともキリサメには引っ掛かっていた。


(……僕は何を――これから殺す相手に何を同情なんかしているんだよ……)


 この期に及んで寅之助のことを無意識に友人として扱い、抗い難い〝痛み〟によって彩られた幼少期へ憐憫の念を抱いてしまう己の浅はかさにキリサメは呆れるしかない。自分たちを引き合わせてくれた空閑電知という存在を挟んでいるとしても甘過ぎるだろう。

 濁って歪み切っているだろう寅之助の心を覗き込み、その有り様を見通すことなど不可能だが、いずれにしても〝痛み〟に反応する怒りの沸点が他者ひととは相容れない次元にることだけは間違いなさそうであった。


「――おばさんも自分の生徒をコブラツイストで締め上げてなかったっけ。一度、サミーがパイルドライバーで垂直に落とされるトコは見たけど、あれだって立派な虐待でしょ」


 血で穢れた忌むべき刃を振りかざすよう煽っておきながら〝げきけんこうぎょう〟そのものには興味を示さず、トレーディングカードの専門店を興味深そうに覗いていた芽葉笑が――この場の誰よりも痛ましい姿の幼馴染みがキリサメのほうに振り返り、スカーフで吊っている右腕の位置を直しながら体罰の類例として彼の母親を挙げた。


(……誰に言われるまでもないさ。褒められたもんじゃないことくらい分かってる……)


 砂色サンドベージュ幻像まぼろしから指摘された通り、貧民街の片隅で私塾を開いていた亡き母も教え子が看過し難い悪事を働いたときには〝痛み〟をもって戒めていたのである。

 自らが腹を痛めて産んだ子どもであろうと、他所の家の子どもであろうと、母は決して区別しなかった。〝表〟の社会の法律など適用されない暴力の世界では僅かでも〝道〟を踏み外しただけで悪徳の餌食となってしまうのだ。

 脳まで蝕まれて〝人間らしさ〟を手離した麻薬中毒者ジャンキーか、密売目的で内臓をくり抜かれた他殺体か――いずれにせよ無残な末路が待つばかりであり、これを食い止めるには流血を覚悟してぶつかるしかなかった。

 〝道〟を外れる恐ろしさを〝痛み〟でもって示した後には必ず抱きしめ、温もりを通して人間ひととしての在り方を諭していた。

 その方針が正しかったのかはキリサメには判断できないが、母の訃報に接した教え子たちが大粒の涙を流し、聖なる祈りを捧げてくれたことだけは一生忘れないだろう。


「――ボクんも大概だけど、サメちゃんのはラフプレーそのものって感じだよ。原始的っていうべきかなぁ? 何しろ自由フリーダム過ぎるよね。剣道の打突はもうちょっと体さばきを整えるし、こんなに次の手が読めない〝剣〟は初めてかも。そういう意味じゃ電ちゃんより興味をソソられるねぇ~」

「こんなの、……興奮を覚えるようなものでもないだろうに――」


 『聖剣エクセルシス』を握る者に真っ当な剣士などはいない。

 以前の持ち主も刀剣マクアフティルの殺傷力に着目していたわけではないのだ。狙った獲物の肉と骨を断末魔の悲鳴や返り血に酔い痴れながら削り取っていくのが愉しくてノコギリ状の刃を振り回していたのである。先端が鋭く尖っていて刺殺し易いという理由だけで刃物を隠し持つ強盗と大して変わらなかったのだ。

 神父パードレの装いと立ち居振る舞いで他者を欺いてはいたものの、化けの皮を剥がせば残虐極まりない鬼畜でしかなかった。外道の如く未稲の運命を弄んでおきながら優れた〝剣〟と斬り結ぶ内に邪悪な想念が浄化され、キリサメの〝剣を使った闘い〟へ玩具を前にした子どものように無邪気な笑顔を見せる寅之助とは正反対といえよう。


(――本当に楽しそうだよな。『聖なる剣』とは名ばかりの汚らわしいモノだって知らないもんな、寅之助こいつは……)


 からガーゼで覆われていない右目一つで「そーいや、『聖剣エクセルシス』が〝誰〟の血を浴びたのか、養父おとうさんには打ち明けないの?」と揶揄されたキリサメは、商品トレーディングカードの取引に使われるものとおぼしきテーブルの上に腰掛けている幼馴染みへ余計な口を挟まないよう目配せでもって促した。

 幼い頃から心を通わせてきた幼馴染みとは視線を交わすだけでも会話が成立してしまうのだ。それ故、幻像まぼろしとは思えないほど強烈な存在感がキリサメに圧し掛かっており、現在いまは視界に映り込むことさえ疎ましかった。


「逢いたいって焦がれといて、気分次第で追い出すなんてさ。サミーも〝富める者〟に染まってワガママになってきたねぇ。死体蹴りを喰らわせてくれた剣道少年こいつの台詞じゃないけど、全部が〝あのコ〟の影響だとしたら、ちょっぴり妬けちゃうな――」


 想い出の彼方へ渡った存在ものとは思えないほど陽気な笑い声を引き摺りながらテーブルから飛び降りたは着地を待たずに掻き消えていった。

 改めてつまびらかとするまでもなく、砂色サンドベージュ幻像まぼろしはキリサメの瞳にしか映っていない。スペイン語を紡ぐ懐かしい声が届くのも幼馴染みの彼だけである。質感が伴う〝接触〟も起こり得ないので、テーブルへ腰掛けていたことには店の従業員すら気付いていなかった。

 その死を弄んだ寅之助に彼女の存在を知覚する異能ちからでも備わっていたなら、間違いなく事態は一等拗れていたはずだ。日本人にとって馴染みの薄いペルーの言語ことばで恨みつらみを並べ立て、動揺を煽り続ける姿がキリサメには容易く想像できた。

 一旦は姿を消したが、これでおとなしくなるとは思えない。こちらの心を掻き乱せる状況下で再び顔を出すに決まっている――正面の寅之助に気取られないようキリサメはほんの僅かだけ口を開き、短く小さな溜め息を滑らせた。

 アコースティックギターによる演奏が再開されたのは、目の届く範囲からの気配が消えてなくなった直後である。すっかり冷え切ってしまった〝場〟に再び熱を送り込もうというのか、先程までの曲調と比べて弦を掻き鳴らす速度が数倍は増している。

 くだんのシンガーが新たに奏で始め、耳を傾けている野次馬たちを「ここでその曲が来るのかァッ!」と唸らせた軽快な音色をキリサメは故郷ペルーでも聴いたおぼえがあった。

 『かいしんイシュタロア』第一期の主題歌にして同シリーズを象徴する代表曲――『ダブル・エクスポージャー』である。

 『ペルーのアキバ』と呼ばれる商業施設ショッピングセンターで放送されていた販促ビデオや、身辺警護ボディーガードの依頼主であるありぞののパソコンから鼓膜へ流れ込んできた曲でもある。共闘関係にあったペルー国家警察のワマン警部も携帯電話の着信音として設定していたので、題名タイトルを知らなくとも曲自体は厭でも記憶に刷り込まれてしまったわけだ。

 主演声優の希更・バロッサが頭抜けた歌唱力を遺憾なく発揮している『ダブル・エクスポージャー』は、アニメ本編の冒頭に差し込まれるオープニング映像では九〇秒程度と短く編集されているが、完全版フルサイズには長い前奏が付いている。歌声のない三〇秒の〝助走〟を終え、一瞬の空白を挟んで〝本番〟へ突入しようかという間際、肺一杯に息を吸い込んで身を乗り出した女性シンガーが勢い余って前方に転がってしまう事態が起きた。

 壁のように林立するビルの向こうからアコースティックギターによる前奏を引き継ぐ形で原曲が飛び込んできたのである。

 尤も、音質そのものは女性シンガーののほうが遥かに良い。屋外設置型の大きなスピーカーから流しているようで、町中に行き渡るほどの大音量と引き換えに希更の歌声は輪郭が掴み辛くなっていた。背の高い建物に遮蔽されているのだから原曲の通りに聴こえないのは当然であるが、キリサメと寅之助が対峙している地点へ到達するまでにはビルの谷間を通過しなければならず、これによって耳障りな反響も生じているのだった。


「――本当の気持ちを私に教えて。心の奥に仕舞っておくつもりなら、お腹をカッ捌いてでも引きずり出してあげる」


 主題歌ダブル・エクスポージャーを追い掛けてきたのはシリーズ全編を通して主人公を務めるあさつむぎの決め台詞であった。これもまたスピーカーを通しているようだが、同じ希更の声でありながら歌よりも鮮明に聴こえるのは、あらかじめ録音しておいた〝データ〟の再生ではなくマイクに向かって直接、キャラクターの〝ことば〟を吹き込んでいる為であろう。

 これらを聴いた野次馬の何人かは血の気が引いた顔を見合わせ、狼狽の二字を絵に描いた様子で立ち去っていった。

 〝げきけんこうぎょう〟の場に割り込んできた様々な音声は、宮崎物産館で催される『かいしんイシュタロア』のファンイベントのものである。いよいよ開幕時間を迎えたようで、「大変長らくお待たせしました。お集りの皆様を愛と鉄と血で彩られた神々の楽園にご招待申し上げます」と、希更とは異なる女性による些か物騒な案内アナウンスが続いた。

 物産館アンテナショップに特設されたステージで行われる同イベントは出演者やスタッフによるトークライブと、ハワイ神話に由来する古式フラダンスの実演という二部構成になっている。あさつむぎは中学校のフラダンス部に所属しており、これに合わせて同作は日本にけるフラダンスの聖地――宮崎県を主な舞台に設定しているのだ。

 アニメ本編の演出には世界中の様々な舞踊ダンスが盛り込まれている。その監修を一手に引き受ける講師の登壇も制作の秘密を覗き見したいファンの間で注目を集めていた。

 今し方、血相を変えて駆け去っていった人々は〝神々の楽園〟を体験したいが為に秋葉原まで足を運んでおきながらキリサメと寅之助による高度な〝撃剣興行おしばい〟に魅入られてしまい、本来の目的が頭から抜け落ちていたわけである。


「お友達のイベントも無事に始まったみたいだね。何なら一休みして陣中見舞いに行ってみるかい? サメちゃんがそのつもりなら幾らでも付き合うよ?」

「バロッサ氏には申し訳ないけど、興味なんか毛ほどもないんだよ。……今は何をいてもお前だ、寅之助」

「えっ、やだ……サメちゃんってばそんな口説き文句まで使えるワケ? これ以上、ボクを興奮コーフンさせて、どうするつもりだい? バロッサさんに恨まれちゃったらどうしよ~」

「……恨みでも何でも買って、飛び膝蹴りを喰らえば良い。本気で打ち込めばきっと首の骨まで持っていかれるからな。……お前にはそれがお似合いだよ」


 自分たちの脇をすり抜けていった数名の背中を寅之助は「サメちゃんの分までバロッサさんによろしくね~」とおどけた調子で見送ったが、今から会場に向かったところで先に詰め寄せたファンの頭を最後列から眺めるだけであろう。

 声をもってキャラクターに命を吹き込む人々が中心となるイベントなので、ステージ上の顔を拝むことが叶わなくともファンにとっては十分に幸せなのかも知れない。


「――ああ、もしかしたら『デザート・フォックス』さんもオフ会蹴ってに行ってるかも知れないね。サメちゃん、彼の顔は見たことないんだっけ? イベント会場で恋敵と鉢合わせなんて最高に気まずいよねぇ」

「……その男はお前の企みに協力しているんじゃなかったのか? みーちゃんを――人質を放り出して自分の趣味を優先させる人間を共犯者に選ぶなんて、寅之助も随分と心が広いんだな。僕なら選択肢から真っ先に切り捨てるぞ」

「……あ? ああ~、はいはい――そう言えばそうだったっけ。いやぁ、サメちゃんに興奮しまくった所為せいで大事なコトまでポ~ンと忘れちゃったよ。一体、どこまで罪作りになれるんだい? ちょっとサメちゃんが怖くなってきちゃったな」

「今のも冗談のつもりか? には聞こえなかったぞ?」

「どっちでも良いじゃん、そんなの」

「どっちでも良いわけないだろ。……僕が何の為に秋葉原ここにいると思っているんだ」

「バロッサさんよりボクを優先させるって言ってくれたからにはサメちゃんも責任取ってよね。ボクのコトをもっとしっかり見てくれなくちゃ」


 支離滅裂な人間と分かっていたつもりであったが、このやり取りばかりはキリサメにも全くの想定外であり、危うく『聖剣エクセルシス』を取り落としそうになってしまった。

 剣道とは掛け離れた〝剣を使った闘い〟へ夢中になる余り、大慌てで『かいしんイシュタロア』のファンイベントに向かっていった人々と同じように『デザート・フォックス』の存在が頭から抜け落ちていたというのである。

 極度に興奮すると視野が狭くなってしまうのは同じ人間として理解できるが、だからといって普通は共犯者のことなど失念しようがないはずだ。斬り合いの最中にも首を傾げる瞬間は幾度もあったが、こうなると剣道を除く全ての言動が疑わしくなってしまう。

 今となっては未稲を巻き込んだとされる邪悪な企みさえも怪しく思えてならないのだ。

 そして、それ故にキリサメは一つの事実へ導かれたというべきかも知れない。

 瀬古谷寅之助は心の底から愉しそうに自らの〝剣〟を振るっている――それだけは間違いなかった。

 の最期の有り様を巡って大きく揺らいでいた心もキリサメから太刀風を浴びせられる間に鎮まり、意図して貼り付けたものではなく内面から滲み出す笑顔まで甦った。

 そこに邪まな気配はなかった。他者を痛め付ける享楽に溺れたわけでもなかった。現在いまの寅之助を表すには純粋の二字こそ最も相応しいだろう。

 『こうりゅうかい』なる指定暴力団ヤクザに雇われ、時代錯誤な〝人斬り〟を生業としているようにはどうしても思えないのだ。

 くだんの組織の差し金であれば、竹刀よりも殺傷力の高い武器を選んでいなくてはおかしいだろう。四ツ割の竹片の内側に鉄芯と呼ばれる長細い金属の棒を仕込んでいるわけでもないと、実際に剣を交えたキリサメには分かっていた。

 だからこそ、瀬古谷寅之助という存在おとこに対する理解が出口の見えない迷宮を彷徨ってしまうのだ。

 寅之助が振るう剣は余りにも無垢である。友人と共に舞い踊ることが愉しくて仕方がない様子で竹刀を振るい、その刀身には相手を死に至らしめようという意志が宿ることもなかった。攻撃そのものは幾度も命中しているので全くダメージがなかったわけではなく、つまり〝撃剣興行おしばい〟でもないわけだが、『聖剣エクセルシス』を振りかざすキリサメの激情とは裏腹に依然として本当の〝殺し合い〟には至っていなかった。

 そのこともキリサメを戸惑わせている。暴力が蔓延る貧民街を生き抜いてきた彼は己に向けられる殺気には誰よりも敏感であった。故郷ペルーで遭遇し、交戦を余儀なくされた〝裏〟の社会の者どもは悪ふざけを好む性格であっても立ち居振る舞いの端々に何ともたとえようのない〝闇〟を纏っていたのだ。近付くだけでも血の臭いが鼻孔を突き刺していた。

 寅之助にはそれらを全く感じない。過去の経験に当て嵌めて判断するならばキリサメの思考は現在いまの寅之助を〝敵〟とは見做さないのだった。

 戦いの場に立つ以上は己のうちにて飼い慣らした〝闇〟を浴びせ、殺伐とした気魄で押し潰そうと図るものだ。これを試みようともしない人間は自分に対して敵意すら抱いていない場合が殆どである。


「……お前は本当に剣のことは楽しそうに話すよな。子どもみたいに目を輝かせて……」


 寅之助の顔を改めて正面から見据えたキリサメは先程と同じ言葉を繰り返した。

 森寅雄タイガー・モリの系譜を受け継いだという剣技を振るう度に彼の太刀筋は純潔さを増していく。侍の武芸を〝げきけんこうぎょう〟という形で現代に遺してくれた『最後の剣客』榊原鍵吉の功績も礼節を尽くしながら紐解いていく――その姿は己が選んだ〝道〟を心の底から愛する規範的な剣士とたとえるしかなく、人質を用いる狡猾な策略など悪い夢や幻の類ではなかったのかと疑ってしまうくらいであった。


「そういうところも電知の幼馴染みだと感じるよ。『類は友を呼ぶ』とはこのことだな」

「やっぱりそう思う? サメちゃんにもそう見える? やっぱり幼馴染みは鉄板だよね。ボクたち、魂の根っこの部分で通じ合ってるんだもん。小さな頃からずっと一緒ってコトはお互いに裸の心で交わるって意味なんだよ? まだまだ電ちゃんの隣をサメちゃんに譲るつもりはないんだから」

「別に張り合っちゃいないが――」


 電知の場合は『天叢雲アメノムラクモ』に対する私憤を撒き散らしながら襲い掛かってきたのだから交戦に至った経緯は全く異なっているのだが、相手キリサメが見せた潜在能力ポテンシャルに目を輝かせ、これを満喫し得るに切り替えたことは寅之助の行動にも相通じるものがある。

 格闘技へ真っ直ぐな愛情を向ける電知と〝一緒〟として扱われたことが嬉しくて堪らないのだろう。寅之助はおそらく上下屋敷とのデート中にも見せることがないと思われる蕩け切った笑顔を浮かべていた。


「――本当のお前はなんだ? 新撰組の剣とやらを継いだ〝人斬り〟か? 電知と腕を競い合い、子どもたちに剣道を教える優しい先生なのか?」

「いやいや、『どれ』っていうか、全部正解でしょ。人間は一面だけで生きてるワケじゃないんだもん」

「……今にも押し潰されそうな弱い心を誤魔化す作り笑いが本当のお前なのか? 僕の言いたいことは分かるよな――」


 希更がこえを吹き込んでいる『かいしんイシュタロア』の主人公と同じような台詞を寅之助に投げ掛けた直後、彼の姿がキリサメの視界から視界から掻き消え、気付いたときには竹刀を横薙ぎに構えた状態で鼻先に迫っていた。

 キリサメの問い掛けを遮り、断ち切るかのような変調であった。

 しかも、電光石火の『片手突き』を放ったときと同等の踏み込みである。右脇腹が狙われていると直感したキリサメはすぐさま『聖剣エクセルシス』を逆様に構え直し、アスファルトの路面に剣先を突き立てることで刀身を固定しつつ横薙ぎに備えた。

 果たして、次の瞬間には乾いた音が狭い路地を貫いた。互いの刀身が十字を描くようにして交わったのである――が、寅之助による追い撃ちはそれから一秒と間を置かずに始められた。

 打ち込まれた竹刀が初めて横にすり抜けていったことをキリサメはず訝った。これまでは打突のたびに足技でもって時間差攻撃を仕掛けられたのだ。

 唯一の共通点はその場に踏み止まったことであろう。つまり、刀身だけがキリサメの鼻先を掠めて通り過ぎた次第である。そして、その直後に寅之助は竹刀を握る右手を裏返した。長い刀身を外側に、これと比べて短いツカを内側にそれぞれ向ける恰好であった。

 一連の動作を見極めるキリサメの脳裏によぎったのは長野の夜空そらの下で自分に拳を突き込んでくる電知の姿である。

 寅之助は『コンデ・コマ式の柔道』に組み込まれたものと同質の『あて』を体得している。相手の懐深く潜り込んで仕掛ける肘打ちは苦し紛れの反則技ではなく、電知の技に匹敵するほど完成されていた。それ故にキリサメは竹刀さえ封じてしまえば無力化できるという考えを捨てたのだった。

 幼い頃から寅之助と肩を並べて『あて』の稽古に励んできたものとおぼしき電知は鳩尾など人体急所を正確に狙い撃ちしている。肉体の内部まで痛みが浸透し、四肢の動きまで鈍らせるほど強烈な打撃にはキリサメも相当に苦しめられたのだ。

 そして、鳩尾に甦った鈍痛が次に寅之助が仕掛けるであろう攻撃をキリサメに示していた。


(幼馴染みっていうヤツはどこまでも厄介だよな……ッ!)


 案の定、寅之助は竹刀を握ったままの右拳を鳩尾目掛けて突き入れてきたのである。過去に己の身を穿った『あて』を手掛かりにしてを読み切ったキリサメは、左の逆手一本で引き上げた『聖剣エクセルシス』を盾に代えて防御を試みる。

 肘打ちと同様に拳を繰り出す瞬間の動作うごきも電知と近似しており、すがだいら合宿で彼と打撃訓練に励んだキリサメには腰の捻り方まで見おぼえがあった。手に取るように分かるというほどではないが、幅広の表面で右拳を受け止めるには十分であったのだ。


「――じゃあ、本当のサメちゃんはどうなんだい?」


 『聖剣エクセルシス』の表面に右拳を押し当てたまま力任せに歩を進めようとする寅之助は、上体が傾くほど前のめりとなっている。必然的に俯き加減となる為に表情を確かめることはできないが、幅広の刀身を飛び越えてキリサメの耳に届く声は微かに震えているようだ。


ボクが言いたいことだって分かるでしょ?」


 自身に向けられた問い掛けをそのまま返したような形であるが、暗号の如く短い言葉に込められた寅之助の意図はキリサメにも痛いほど伝わっている。

 暴力だけが生き残りの掟であった格差社会の底辺にて血染めの『聖剣エクセルシス』を振るい、自らの糧として他者の命を貪り喰ってきたペルーの浮浪児ストリートチルドレンと、そうした罪さえも塗り潰してしまうような虚飾で彩られた総合格闘技MMA興行イベントに飛び込み、真っ当な人生を生き直そうとしている八雲岳の養子むすこ――どちらが本当のキリサメ・アマカザリであるのか、これを寅之助は質していた。

 憤激を煽り立てるような挑発ではなく、ましてやおどけた調子でもなく、静かで厳かな声であったればこそキリサメの心を何より深く突き刺すのだ。惨たらしい最期を遂げたを〝貧しき者〟であった過去と共に忘れ去り、〝富める者〟の世界に染まることがキリサメ・アマカザリの〝真実〟なのかと責められているようであった。


「第一、サメちゃんは本当にボクのことが憎いのかい? どうしようもなく憎くてこのバカデカい剣を振り回しているのかい? がちっとも見えてこないんだよ」

「……虚勢を張るならもっとマシなことを言えよ。自分の立場をっていたら、そんな台詞は出てこないだろう」

「ガシガシぶつかっても誤魔化し放題の〝げきけんこうぎょう〟ってお膳立てをしてあげたのに、言い訳不可能な殺し合いを仕掛けてくるのは大胆にも程があるってハナシだよ。人質の居場所を吐かせるだけならただブチのめすだけでも構わないんじゃない?」

「……その程度で許せるものかよ……」

「大勢の人たちに取り囲まれたド真ん中でどんな顔を晒すのか、それを引き摺り出そうとしたのはこっちだけどさ、……サメちゃん、本当は未稲ちゃんのコトなんか関係なくて頭の中のモヤモヤを晴らしたくてボクを殺そうとしたんじゃない?」

「……一体、何を――みーちゃんのコトが一番に決まっている……ッ!」

「最低限、ボクを生け捕りにしなきゃ未稲ちゃんの監禁場所が分からないのに、そういう面倒臭いことを考えるの、途中でやめたでしょ? ていうか、未稲ちゃんの存在すら忘れてたんじゃないの? 目先の敵を潰して気を紛らわせようってさ」

「……共犯者デザート・フォックスを忘れていたお前がそれを言うのか」

「ゴタクを並べるにしても、もっとマシなことを言いなよ、サメちゃん」


 またしても自分が吐いたばかりの言葉でやり返されてしまったキリサメは、次に紡ぐべき反論を呻き声と共に飲み下すしかなかった。

 これらのやり取りは野次馬たちには聞こえていない。女性シンガーも幼児虐待の疑いが持ち上がったときのように演奏を中断してはおらず、『かいしんイシュタロア』のファンイベントから流れ込んでくる劇伴おんがくに負けじと一等激しく弦を掻き鳴らしていた。

 誰にも気付かれず、またアコースティックギターの演奏や煩わしいほどの歓声といった周囲のに掻き消されることもなく互いの鼓膜へ言葉を届けるには鍔迫り合いにも等しい距離まで接近するしかなかったのだろう。

 『あて』とは単純な打撃のみを指すのではない。相手の姿勢を崩しておいて〝本命〟を叩き込む二段構えの戦法は電知が身に付けた『コンデ・コマ式の柔道』の体系に組み込まれるほど有効である。つまり、こそが寅之助の本来の狙いというわけであった。


「未稲ちゃんを傷付けられた仕返しすらキミにとっちゃ口実でしかない。そんな風に思えてならないよ。……本当のキミはなのさ?」

「――だってさ。このコ、どーしようもなく根性が腐り切ってるけど、サミーの性格をめちゃくちゃ見抜いてるじゃん。折角、日本で見つけた〝わたしの代わり〟をそんな簡単に手放しちゃって良いのかな? それとも、わたしとののほうが気持ち良かった?」


 寅之助の言葉を受けるような揶揄ことばがどこからともなくキリサメの耳へと滑り込み、〝わたしの代わり〟という辛辣な一言でもって彼の心を揺さぶった。


「偽りの仮面舞踏会を続けても自分自身の気持ちを否定することなんて誰にもできやしないんだよ。心の奥から聞こえてくる声に、そして、『先生』の帰りを待ち焦がれる生徒みんなの声に耳を傾けて! それがロアノークさんだけの揺るぎなき〝真実〟なんだからッ!」

 そこに追い討ちを仕掛けてきたのは『かいしんイシュタロア』の主人公――あさつむぎである。

 完全な偶然ではあるものの、ファンイベントの会場にて希更が実演している台詞――同作のキャラクターに対する強い言葉さえも現在いまのキリサメには自分に向けられているようにしか思えなかった。

 同時に幾つも突き刺さった問い掛けを振り払うかのようにしてキリサメは『聖剣エクセルシス』のツカから左の五指を離し、同時に対の拳を握り締めた。


(……が煩わしいんだよ、本当に……)


 心に浮かんだ返答こたえは決して口にせず、代わりに『聖剣エクセルシス』の裏側へと右拳を突き込んでいく。恭路の拳具ナックルダスターと原理そのものは似通っているのだが、自身の得物マクアフティルを一枚の〝硬い板〟に見立て、これを間に挟むことによって打撃の威力を引き上げようというわけだ。

 得物の重量をも掛け合わせて寅之助の顔面を叩き潰そうと試みたのだが、ここに至る攻防の中で同質の技を既に晒してしまっている。それはつまり、相手に付け入る隙を差し出すことにも等しかった。

 右拳が接触するよりも早く平べったい刀身を足裏でもって真正面から踏み付けられ、技の拍子もろとも体勢を崩されたキリサメは『聖剣エクセルシス』を抱えるような恰好で大きくよろめいてしまった。


「やれやれ……電ちゃんを追い詰めたっていう〝アレ〟を引っ張り出すにはブチギレさせるだけで十分と読んでいたんだけど、それだけじゃ足りないか……何だか面倒臭いコトになってきたなぁ――」


 『聖剣エクセルシス』の剣先を地面に突き立て、これを支えに横転だけは免れたキリサメが双眸で追い掛けたのは寅之助の背中である。何時の間にやら竹刀のツカを左の逆手に握り直し、これを背面に回していた。

 それは〝鬼ごっこ〟を再開させようという合図に他ならなかった。後に残されたのは幾度も踏み付けにされてボロボロに汚れたパッションピンクのバンダナだけである。

 結局、表情を確認することは叶わなかったが、寅之助も「本当のお前はなんだ」という詰問にはのだから十分な痛み分けといえよう。他人には決して触れられたくない心の〝闇〟を互いに抉り合ったことは間違いなかった。

 だからこそ、寅之助の背中を追い掛ける間にもキリサメは歯噛みと舌打ちを止められなかったのである。

 未稲を窮地に追い込んでしまった自責の念が報復という単純なにすり替わったのは何時であったのか、キリサメ当人にも分かっていなかった。身のうちにてのた打ち回る焦燥は彼女の救出だけを訴えていたはずなのに、気付いたときには寅之助の脳天目掛けて暴力性の顕現あらわれを振り落としていたのである。

 剣を交える内に邪悪な気配が浄化されていった寅之助とは真逆であろう。妖気という形で半開きの双眸から零れ出していた破壊の本能は際限なく膨らみ続けているのだ。

 呪われた『聖剣エクセルシス』を握り締める己の回路サーキットこそが死者の嘆きを喰らう死神スーパイとなっていた。


「面倒臭いコトになってきた……だと? それはこっちの台詞というものだ……ッ!」


 マラソン選手のように野次馬たちの声援を浴びながら狭い路地を駆け抜けた二人は、高架下の脇道まで到達した。キリサメが一気に加速したのはその直後のことである。

 高架橋を支える橋脚同士の間――僅かな空洞の内側に飲食店などが収まっている。それらが立ち並ぶ様子は新しい商店街とも感じられる風情であった。

 野次馬を巻き込む恐れがあったので狭い路地では『聖剣エクセルシス』を大きく振り回すことができなかった。しかし、開けた場所まで抜けてしまえば、得物マクアフティルの長さを存分に生かして戦えるようになるのだ。

 地下アイドル専門とおぼしきファングッズ販売店の真隣に立つ橋脚を蹴り付けて高く跳ねたキリサメは、寅之助の頭上を飛び越えるや否や、空中にて〝尾羽根〟をなびかせながら振り向き、りょりょくを限界まで引き絞って横一文字の閃きを解き放った。

 予想した通りというべきか、横薙ぎを迎え撃つ寅之助は先程のような作り笑いを浮かべていた。内面から溢れ出す感情ものと紛い物を入れ替えたとたとえるべきか、蕩けるような笑顔のまま表情筋だけを固定し、そこに宿る心の働きを抜き取るという空虚な面相であった。


「お姉様はズルいです。瞳と瞳を重ね合わせるなんて、実質、『ヒエロス・ガモス』じゃないですか。私が大事に育ててきた気持ち、もうずっと昔から知ってるクセに――」


 高架橋を走る車輪をすり抜けて飛び込んできたあさつむぎの台詞を頬で受け止める寅之助の視線は、やはりキリサメのとは交わらない。



                   *



 移動先まで大勢の野次馬が追い掛けていく〝げきけんこうぎょう〟の喧騒とは打って変わって、キリサメたちが去った後の商業ビルは静かなものであった。時おり、『かいしんイシュタロア』のファンイベントが開催されている宮崎物産館の方角から賑々しい声や主題歌などが流れ込んでくる程度だ。

 暴走族が乗り回す改造バイク――いわゆる〝ゾク車〟が工事用フェンスを突き破って工事現場に侵入するという異常にして緊急事態でありながら、現時点では駅前の交番から駆け付けた制服警官の姿などはどこにも見られない。どうやら同地を担当する警備会社でさえ商業ビルの異変を把握していないようである。


「――私もお姉様も、……ロアノークさんも、みんなみんな、最初から同じ想いを胸の奥で燃やしていたんですよ。行き着く道のりがほんの少し違っていただけで、夢見た世界は最初からずっと一緒。その時間が私たちの絆を育んできました。……だからッ! 血をも超えて私たちは一つになれるんですッ! イヤだといっても、あなたは私なんですッ!」


 ビルの谷間から希更・バロッサの声――あさつむぎの台詞を乗せて吹き付ける風がせ返ってしまうほどの埃を舞い上げる中、商業ビルの正面に立ち尽くすのは御剣恭路ただ一人であった。

 事件性を感じさせるフェンスの大穴から内部の様子を覗き込む通行人も多いのだが、誰もが怪訝な表情を浮かべるばかりで恭路に近付こうとはしなかった。

 それも無理からぬことであろう。昭和の不良ヤンキーを思い起こさせる改造学生服に金髪のパンチパーマという強面の男が人目を憚らずに独りぼっちで泣きじゃくっているのだ。

 しかも、並大抵の泣き方ではない。野犬の遠吠えのようにやかましく、鼻水に至っては口髭を抜けて胸元辺りまで濡らしていた。これを薄気味悪く感じるのは人間として真っ当な反応である。傍目には不審人物としか思えず、遠巻きに窺うしかなかった。


「チキショウ……てめぇ……アマカザリィ……こういうコトはよォ……もっと早く……言いやがれよ……中身がスカスカな野郎だって……総長に挑むのもふざけてるって……ンなことを……オレはよォ……ッ!」


 口から漏れる呟きには一字一句に至るまで濁点が付いていそうである。しゃくりあげながら覗き込む携帯電話スマホの液晶画面にも熱い水滴が無数に飛び散っており、大雨に降られた直後のような有り様だ。

 商業ビルに取り残される恰好となった恭路は寅之助から預けられた携帯電話スマホでもって動画配信サイト『ユアセルフ銀幕』へと接続アクセスし、指定された順番の通りに映像を視聴し続けていたのである。

 携帯電話スマホを持つ側とは対の右手でもって皮膚が裂けるくらい激しくパンチパーマを掻き毟っているのだが、それほどまでに恭路の感情こころを決壊させたのは新聞紙で覆い隠された亡骸であった。力なく投げ出された手足から察するに一〇代半ばの少女であろう。

 横たえられた路上には流れ出した鮮血が池の如く溜まり、死という事実を残酷なほどに突き付けてくる――その動画ビデオの再生が終わった瞬間、彼の中で堰のようなものが切れてしまったのである。

 友人と思われる日本人女性が亡骸に縋り付いて慟哭いていた。同僚の胸倉を掴んだ警官は死者への冒涜などと怒鳴り散らしているのだろう。物々しくプロテクターに身を包んだ男性は外国の言語ことばしか喋らなかったので、恭路には正確な意味が掴めない。それでも自分と同じ雫を迸らせながら吼え声を上げる様子から筆舌に尽くし難い悲憤を感じ取ることはできるのだ。

 本来ならば晒し者とするべきではない惨状を一人の少年が馬上から見下ろしていた。

 鉄色のレインコートに取り付けられたフードを被り、一秒たりとも後方うしろを振り向かないので顔を確かめることは叶わなかったが、右肩に担いだ得物を――船のオールを彷彿とさせる『聖剣エクセルシス』を見れば瞭然である。

 左の五指にて手綱を握り、酸鼻を極める情景に身じろぎ一つしない少年はキリサメ・アマカザリ以外に考えられなかった。

 おそらくは隠し撮りであろうくだんの映像に至るまでの間、恭路はキリサメの故郷に横たわる絶望を一つ一つ辿っていた。寅之助が編集した『プレイリスト』に従って動画ビデオを再生したのだから、正確には「地球の裏側の〝現実〟を辿」とするべきかも知れない。

 『ユアセルフ銀幕』に放送チャンネルを持つネットニュース『ベテルギウス・ドットコム』では有薗思穂という記者が反政府デモの渦中へと自ら飛び込み、キリサメが生きてきた過酷な格差社会を生々しく報じていた。富裕層と貧困層の居住区を隔てるという長大な壁も取材映像の中には含まれている。

 日本語によってペルーの現状を訴える動画ビデオは『ベテルギウス・ドットコム』のものしかなかったが、恭路にはそれだけでも十分であった。言語ことばは理解できなくとも『ユアセルフ銀幕』にて晒された〝現実〟を感じ取ることはできるのだ。

 廃タイヤを埋めなくては傾斜に階段も作れないほど過酷な環境の中でキリサメは戦い、その果てに大切な存在を失った――ペルーの言語ことばが乱れ飛ぶ動画ビデオから恭路はそのことを受け取っている。

 新聞紙の下にて永眠ねむる少女はキリサメにとって掛け替えのない〝身内〟なのだろう。そうでなければ地獄のような場へ駆け付けはしないはずだ。辺りには無数の亡骸が並べられていたのである。

 別の動画ビデオでキリサメは馬を走らせていた。おそらくはくだんの少女のもとに急いでいたのだろうが、合戦の如く市街地でぶつかり合うデモ隊と警官隊の間へ割って入るようにして駆け抜けていたのだ。

 深々と被ったフードから僅かに覗く程度であったが、キリサメは血が滲むほど強く歯を食いしばっていた。その先に待ち受ける結末など知る由もなく、ただただ決死の想いで手綱を捌いていたはずである。


「……クソッたれた世界のどん底で……大事なモンを片っ端から失っちまって……あの野郎……チキショウ……オレとそっくり同じなんじゃねェか……オレじゃねぇか……ッ!」


 もはや、恭路にはキリサメ・アマカザリという少年が背負ったものから目を逸らすことができなかった。彼が抱えた孤独を見逃していた己を責めるかのように鋭角な剃り込みが入った額を右拳で殴り続けた。

 寅之助が挑発の道具として利用した動画ビデオが恭路にもたらしたのは身のうちから噴き出しそうなほど激しい衝動である。

 そのとき、恭路の手の中で預かり物の携帯電話スマホが激しく振動し始めた。

 誰かが寅之助と連絡を取ろうとしているわけだが、ただでさえ神経が高ぶっていた恭路は着信相手を確かめることもなく、「状況考えて電話してこいや、ボケカスが! お喋りなんかしてられねェんだッ!」と理不尽極まりない怒鳴り声を浴びせて通話を一方的に打ち切ってしまった。


「待ってろよ、この野郎……アマカザリ……お前を一人で闘わせやしねェ……ッ! 今日からオレがてめーの兄貴分だ……ッ!」


 預かり物の携帯電話スマホをその場に放り投げ、愛車まで置き去りにして恭路は大穴の向こうへ飛び出していった。一秒でも早くキリサメのもとに駆け付けてやりたかった。

 背後では携帯電話スマホが振動し続けていたが、彼は決して振り返らない。乱暴に扱われてヒビが入ってしまった液晶画面には『照ちゃん』と着信相手の愛称ニックネームが表示されている。

 弱ったのは『照ちゃん』――即ち、上下屋敷のほうだ。寅之助と連絡を取ろうとしたのに本来の持ち主とは似ても似つかないダミ声で怒号を浴びせられてしまったのである。

 当然ながら上下屋敷は電話番号を直接入力したわけではなく、携帯電話スマホの電話帳にあらかじめ登録してあるものを選んでいる。どう考えても相手を間違えるはずがなかった。

 「誰だ、てめーは⁉」とすいする間もなく通話を打ち切られた直後、同じ手順を踏んで寅之助の電話番号を呼び出したのだが、今度は応答すらなかった。

 呼び出し音が三〇秒を超えたところで連絡を諦めた上下屋敷は、そこで数件分の留守番電話が録音されていることに気付いた。所属するゲーミングサークルのオフ会に参加していた彼女は律儀にも携帯電話スマホの電源を落としていた。その為、伝言を預かったという通知にも時間差が生じた次第である。

 携帯電話スマホの液晶画面には着信相手として電知の名前が表示されており、これにも上下屋敷は怪訝な表情を浮かべた。互いの番号を交換こそしているものの、彼は滅多に電話を掛けてこない。連絡を必要とするときには電子メールでのやり取りが中心であったのだ。

 眉根を寄せながら伝言に耳を傾けた上下屋敷は、ますます意味が分からなくなった。電知は切羽詰まったような声で「今すぐ寅を出しやがれ」と何度も何度も録音を吹き込んでいたのである。

 何故だか異常に呼吸いきが荒く、いわゆる〝変態電話〟と間違えそうになったくらいだ。


アイツの居場所なんて、こっちが教えて欲しいっつーの」


 左の掌中に携帯電話スマホを収めたまま電知に用件をたずね返す電子メールを親指一本で器用に入力した上下屋敷は、送信完了をしらせる画像が表示されると壁際に設えられたソファへ煩わしそうな呻き声と共にもたれ掛かり、次いでオフ会の参加者たちを順繰りに見回した。

 入店以来、日本で最初に発売された家庭用テレビゲーム機へ夢中になっていたゲーミングサークルの仲間メンバー現在いまは揃ってテーブルを囲み、三角に切り分けられたフルーツケーキを美味しそうに頬張っている。

 はクローゼットの中で長らく眠っていたとおぼしき古びた学生服に身を包む中年男性への贈り物であった。丁度、今日で四五回目の誕生日を迎えるという彼の為、寅之助がテレビゲームカフェに相談して一ホールのバースデーケーキを用意したのである。

 マイホームパパの哀しき宿命というべきか、常日頃より家族から蔑ろにされているという男性は寅之助の心配りに感動し、彼自身の子どもでさえ親の前では見せなくなったであろう無邪気な笑顔でロウソクに灯された火を吹き消していた。

 四五本ものロウソクが立ち並ぶフルーツケーキは壮観であったが、仕掛け人である寅之助は思い掛けない贈り物に涙ぐむ男性の姿さえも己の双眸では確かめていなかった。

 時間を見計らい、ゲーミングサークルの貸し切りとなっている大きなブースへフルーツケーキを運び入れる手筈を店員に頼んだ直後、上下屋敷にだけ「後はよろしくね。急用ができちゃったよ」と耳打ちし、テレビゲームカフェから飛び出していったのである。

 剣道の教え子やその保護者から緊急連絡でも入ったのだろうと考えていたのだが、何時まで待っても戻ってくる気配がない。ブースの利用時間も残り僅かとなっている為、ここを引き払うまでに連絡がつかないと団体サークルとしても困ってしまうわけだ。

 よもや恋人を置き去りにして自分だけ先に帰ることはなかろうが、扮装コスプレの小道具と聞かされていた竹刀袋まで持って出掛けたことが上下屋敷には引っ掛かっている。

 寅之助の為に残してある一切れのケーキを眺めつつ、上下屋敷は自分の分を平らげた。その間にも折り返しの電話が掛かってくることはなかった。電知に宛てた電子メールさえも返信かえってはこない。

 一体全体、何がどうなっているのか――と、首を傾げた上下屋敷の脳天を小さいとは言い難い衝撃を貫いた。


「なにしやがんだよ、てめー、未稲……試合近いんだぞ、こらっ」

「そっちこそ頭突きかましてくることないじゃん。私に何の恨みがあるの? いや、恨まれそうな理由は『天叢雲アメノムラクモ』的に腐るほどあるけどさぁ~」


 互いの頭がぶつかり合った拍子に足元へ放り出されてしまった丸メガネをおぼつかない手付きで探り当て、付着した埃を一息でもって吹き飛ばしたセーラー服姿の少女は、真隣にて頭頂部を痛そうに摩っている上下屋敷を睨み返した。

 裸眼では至近距離の相手すら顔立ちが判別できない為、やたらと険しい目付きになってしまうのだが、その雰囲気は〝試合〟へ臨む父親を彷彿とさせた。


「キリくんにドツかれた恨みを私で晴らさないで欲しいんだよなぁ。メガネのフレーム歪んでたらマジで弁償して貰うからね~」


 丸メガネを掛け直しながら口を尖らせ、上下屋敷に文句を垂れ続けるのは八雲未稲その人である。

 同じゲーミングサークルの仲間メンバーである『デザート・フォックス』に――寅之助のに監禁され、尊厳そのものをじゅうりんされているはずの〝人質〟はオフ会が開催されているテレビゲームカフェにて現在いまも楽しい時間を過ごしていた。

 監禁場所から逃れてきたということでもない。それが証拠に左右に一房ずつ結わえた髪も岳から東海道線の塗装ツートーンカラーたとえられたセーラー服もままである。

 寅之助が姿を消した後もドット柄の壁紙が印象的なブースから一歩も外に出ておらず、借り物のタブレット端末で新時代の騎士道競技――甲冑格闘技アーマードバトル動画ビデオを視聴していた。

 中世ヨーロッパの騎士や戦国時代の鎧武者が入り乱れる合戦絵巻には今までの人生でも味わったおぼえがないというほど興奮し、比喩でなく本当に鳥肌が立っていた。意中の相手デザート・フォックスの欠席で機嫌を損ねていた自分を恥ずかしく思うほど盛り上がっているのだ。

 自分より遥かに年上の仲間メンバーが子どものように遊び、ときには涙を溜めるほど大笑いしている。本当の意味で年齢を超えた繋がりがオフ会を通じて育まれていた。幸せな場景を噛み締めていたはずなのに、今の未稲は頭部の鈍痛とは別の意味で眉間に皺を寄せていた。

 彼女が握りしめる携帯電話スマホの液晶画面には『デザート・フォックス』から届いた一通の急報メッセージが表示されていた。

 偶然にも参加者の間で『デザート・フォックス』の欠席ことが話題になったところだ。

 北欧・デンマーク最古の造船所で大規模な火災が発生したことは日本でも今朝になって報じられたばかりである。〝石油王〟直々の発注という豪華客船が燃え盛り、紅蓮の火柱と黒煙に包まれた映像がニュースで幾度も取り上げられているのだが、実は『デザート・フォックス』を称する男は所有者の側近ではないかと誰かが唱え始めたのだ。

 オフ会を欠席せざるを得なくなった急用とは『マンスール・ビン・モフセン・アル・クルスーム』なる〝石油王〟の豪邸やしきとデンマークの造船所を幾度も往復しなくてはならなくなったということだ――という大胆な予想にはブース内が大歓声で包まれた。

 大火災当日に告げられた急な欠席や、砂漠と関わりの深い通称ハンドルネームに着想を得た無責任な妄想に過ぎないのだが、これを聞いた瞬間から未稲の想像力は暴走し続け、「中近東へ嫁ぐコトになったらお父さん、許してくれるかな」と一人で勝手に身悶える始末であった。

 恍惚の表情を一変させる急報メッセージは、この直後に受け取ったのだ。


「――何やらアキバで乱闘騒ぎが起きていると聞きましたが、同志諸君はご無事でありましょうか⁉ 遠くから心配しているであります! 同じ場所にいれば守って差し上げられたのに自由にならない我が身が悔やまれてなりませんっ!」


 自分のいないオフ会がどのようにして盛り上がっているのか、その雰囲気を確かめたくて連絡してきたのだろうと思っていた未稲は「乱闘騒ぎ」という物騒な一言から始まる文面がなかなか理解できず、首を傾げた拍子に上下屋敷とぶつかったのである。


「ごっつんするのも一緒なんですから、お二人は本当に仲良しさんですね」


 朗らかに笑うつかよりに向かって未稲と上下屋敷は「誰と誰がッ⁉」と声を揃えて噛み付き、仲の良さを褒め称えるかのような拍手を返されてしまった。

 四振りの剣と八枚の旗を組み合わせた紋章が勇ましい『ギルガメシュ』なる甲冑格闘技アーマードバトルチームの選手である筑摩は、バケツをひっくり返したようなヘルム籠手ガントレットこそ外しているものの、未だに〝制服〟として板金鎧プレートアーマーを纏い続けていた。

 半月前に開催されたばかりの第一回世界大会では筑摩も全身を甲冑で固めた二人の仲間と共に団体戦メーレーを繰り広げている。彼女から借り受けたタブレット端末で試合の動画ビデオを視聴したのだが、幅広の両刃剣ブロードソード逆三角盾ヒーターシールドを駆使して猛々しく戦う勇姿は、目の前で和やかに微笑んでいる女性と同一人物には思えなかった。

 三位一体で攻め寄せてきたポルトガルの騎士を裂帛の気合いで圧倒したのである。


「うう~ん、やっぱり筑摩さんは調子狂うなぁ。テンポが読めないっていうか……」

「その点だけは同意するぜ。菩薩様みたいな顔にはこっちも毒気を抜かれちまわァ」


 誰にも聞こえないような小声で上下屋敷と密談しつつ、丸メガネを掛け直している間に未稲の携帯電話スマホへ『デザート・フォックス』から新しいメッセージが送られてきた。

 今度は画像データが添付されていたが、これを確かめた瞬間に未稲は言葉として成立していない素っ頓狂な声を洩らし、正面のテーブルを引っ繰り返しそうな勢いでソファから立ち上がった。

 短文つぶやき形式でメッセージを投稿するSNSの画面を撮影したものである。自分たちと同じように秋葉原を訪れた人間の短文つぶやきが幾つも並んでいたが、そこにあらゆる思考を吹き飛ばしてしまう内容を見つけたのだ。


「アキバの駅前近くでコスプレイヤー同士でガチなチャンバラやってるっぽい! ウワサだとゲリラ撮影らしい? てか、片方はプロの格闘家だってさ。キレッキレじゃんな」


 その短文つぶやきには投稿者が撮影したものとおぼしき〝チャンバラ〟の写真が添えられていた。『デザート・フォックス』はこれを乱闘騒ぎにたとえたわけだが、高架下にて船のオールを彷彿とさせる禍々しい刃を振るっているのは、秋葉原に居るはずがないキリサメだったのだ。

 しかも、ブレザーの裾をなびかせながら斬り合いを演じているのは、つい先程まで一緒にオフ会を楽しんでいた『せいしょこたん』――即ち、瀬古谷寅之助なのだ。このような写真を見せられて動転しないはずがあるまい。

 相手の両足を叩き折ろうというのか、キリサメは膝を突きそうなくらい身を屈めたまま急速で旋回し、路面を擦るかのように『聖剣エクセルシス』を振り抜こうとしていた。対する寅之助は足首を刈り取らんとする横薙ぎを垂直に跳ねてかわし、無防備となっている相手の脳天目掛けて縦一文字の反撃を閃かせる――二振りの剣が十字を描いて交差する瞬間を切り取った一枚であった。


「な、なんだよ、おい……。まさか、そんなに頭痛が酷ェのか? わ、悪かったな……」

「それよりメガネがお鼻から落っこちそうですよ?」


 その場の誰もが未稲の異変を心配し、一同を代表する形で上下屋敷と筑摩が声を掛けたのだが、混乱の極致にある思考あたまでは返すべき言葉をどうしても見つけられず、未稲には二人に向かって自身の携帯電話スマホを翳すことしかできなかった。

 液晶画面を覗き込んだ上下屋敷がソファから転げ落ちたのは言うまでもない。起き上がるや否や、ブースの出口へ駆け出したのも当然であろう。


「いやいやいやいや、マジでマジでマジで理解が追い付かねーって! なんでうちのバカとアマカザリの野郎が戦り合ってんだよ⁉ 意味分かれってほうが無理だろッ!」

「そんなの、私が訊きたいよ! キリくん、昼から取材だって聞いてたのに……っ! 秋葉原まで自力で来られたのはすごい成長だけどっ!」

「ンなの、褒めてる場合かっ!」


 上下屋敷の背中を未稲もすぐさま追い掛けた。

 目を丸くしている仲間メンバーたちに状況を説明するだけの余裕もない。走りながら携帯電話スマホを操作し、短文つぶやき形式のSNSへ自身のアカウントでログインした未稲は、この一件に関連するメッセージを片端から検索していく。『デザート・フォックス』のメッセージにも返信などしていられなかった。

 経緯も理由も判らないが、キリサメと寅之助が秋葉原このまちで乱闘騒ぎを起こしたことだけは確かである。可及的速やかに二人の居場所を割り出し、そこへ急行することしか今は考えられないのだ。

 上下屋敷もまた自身の携帯電話スマホを耳に宛がっている。ようやく電知から折り返しの電話が掛かってきたのだが、それすらも階段を駆け下りながら応じるしかない。


「てめー、空閑ァッ! 寅はどこだ⁉ どこにいやがるッ⁉」


 おそらくは事情を知っているだろう電知に向かって上下屋敷は怒鳴り声を張り上げた。

 奇しくも自身が訊ねられたことをそのまま返したわけだが、先に問い合わせた側が答えなど持っているはずもなく、たちまち携帯電話スマホを介しての言い争いに発展していっ。


(それは最悪のシナリオだよ、キリくん! 始まる前に何もかも終わっちゃうよっ⁉)


 上下屋敷の怒鳴り声を耳で、板金鎧プレートアーマー鎖帷子チェインメイルが激しく擦れ合う金属音を背中でそれぞれ受け止めた未稲は、己の顔から急速に血の気が引いていくことを自覚していた。

 くだんの写真で確認する限り、路上での斬り合いは大勢の野次馬に目撃されている――その意味と重みから目を逸らせるほど未稲も〝経済活動ビジネスとしての格闘技興行〟をらないわけではない。

 類稀なる力と技を兼ね備えた格闘家たちが集結するとはいえ、所詮は『天叢雲アメノムラクモ』も法治国家日本という〝社会〟に組み込まれたいちしきひいては競技イベントに過ぎないのだ。

 自分までもが寅之助による〝汚染〟に巻き込まれていることなど知る由もなく、雑居ビルから現実リアル虚構フィクションの境目が曖昧な〝世界〟へ飛び出した未稲は、ただひたすらキリサメを目指して走り続けた。


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