その9:覇天組~Our History Again
九、
シート後部にキリサメを乗せたゾク車――『ガンドラグーン
「――そこで『クロスクラッシュ』の出番っつーワケよ。仕方ねーからてめーに花を持たせてやっけどよ、オレの『ガンドラグーン
「……前後の脈絡を飛ばして急に『というわけで』って話し始める人がいるよな。あんたも同じだ。勿体付けた感じに『そこで』って前置きしておけば詳しい説明を放り出しても許されると考えているなら、今すぐにその思い違いを捨てたほうが良い」
「だーかーらッ! うちのクソ親父とダチ公の十八番だってさっきから何度も説明してるじゃねーか! 突進技で一発カマしてやるから先制攻撃にぴったりだし、まさかってトコから攻め掛かる奇襲戦法まで付いて隙を生じぬ二段構えよォ! この合体技を破れるヤツはザラにはいねぇッ!」
「長々喋っていたけど、あんたの場合、説明の役割を殆ど果たしていないんだよ。見ず知らずの人たちの得意技なんて、僕にどう理解しろっていうんだ」
「想像力ゼロだな、てめー! 『クロスクラッシュ』っつう響きから幾らでも閃くモンがあるだろーが!」
何やら思い入れが深いらしい『クロスクラッシュ』について恭路は饒舌に語り続けたものの、最後の曲がり角へ差し掛かろうという間際に至ってもキリサメには殆ど何も伝わらなかった。
正面切って突っ込んでいく者と、これに連動して空中から飛び掛かる者による同時攻撃という要点だけは辛うじて拾い上げることができた。それ故に恭路は漫画やアニメのキャラクターのように現実感のない
交差する形で同時攻撃を仕掛けることに由来して『クロスクラッシュ』と称するようになったのだろう――が、
しかしながら、興味を引かれる部分がなかったわけでもない。
(アラガミフウジとかいう武術の心得があるんだったな。ひょっとしてプロレスラーとか格闘家なのか? ……でも、それなら岳氏が御剣のことを知らないハズもないし……)
おそらくは〝民間人〟であろう恭路の父親たちが戦闘能力を備えている背景がキリサメには分からなかった。彼の年齢から計算すると、その親は五〇代といったところで、高く見積もっても六〇代は超えないはずだ。亡き母と同じく『昭和』と呼ばれた時代の
だからこそ、キリサメには不可解であった。いわゆる『戦後世代』であり、太平洋の戦場に赴いたとも考えにくいのだが、勇ましいラッパを背に受けて銃剣突撃などしなくとも許される平和な時代に他者を殺傷する
『クロスクラッシュ』という虚飾性の強い命名とは裏腹に、その術理は狙い定めた標的を確実に追い詰める
(……母さんが教えてくれなかっただけで、『昭和』も単純な時代じゃなかったのかな)
あるいは恭路の父親たちは平和な時代に背を向け、社会の〝裏〟にしか居場所を持ち得なかったのかも知れない。
『七月の動乱』の
事実、過去に知り合った日本人の中にはペルーの武装組織から雇われた現役の傭兵も含まれている。平成と昭和――二つの時代に同種の稼業が存在するとしても、何ら不思議なことはないだろう。
(……同種ってコトなら僕だって似たようなものだよな。同じ穴の狢ってヤツだ……)
視界に飛び込んできた工事中のビルを仰いだ
彼の父親が『デラシネ』や自分のように社会の〝闇〟で血と罪に
如何なる事情があろうとも法治国家日本では決して認められない『暴力』を娯楽で溢れ返った
そして、未稲を傷付けた寅之助と『デザート・フォックス』を五体満足のまま返すつもりもなかった。右肩に『
この
彼らの歩みも『ガンドラグーン
視界に入る建物はことごとくアニメやゲームの看板を掲げており、正面に見据えた大型の液晶パネルでは希更・バロッサが声を吹き込んでいる『
週末ならではの賑わいというべきか、
どうやら恭路は秋葉原駅へと突き当たる一本道に捉えた背の高い建物を目指しているよだ。そこはキリサメが遠くから目星を付けていた場所でもある。建設用のシートで壁の大半を覆い隠しているのだから、これほど分かり易いものはあるまい。寅之助には「電気街口のすぐ近くに工事中の大きなビルがあるからそこにおいで」と告げられたのである。
『
そのようなことなど想像もしていないだろう。彼女が奏でるアコースティックギターの音色もゾク車の〝嘶き〟によって掻き消されているのだ。
「出入り口からビルに突撃するのはバカ正直過ぎるか! いっそ衝立をブチ抜いてみるかよ、オイ? ここまでコケにされといて不意打ちは卑怯だなんて今さら言わねーよな⁉」
「これだけやかましくバイクを走らせておいて不意打ちも何もないだろう」
「別にコレくらい珍しくねぇだろ? 通りすがりのバイクとでも勘違いするだろうぜ。それとも、やっぱり正義の
「……いや、あんたの作戦で構わない。それに連携にもこだわらない。敵と見なした相手は一人残らず撥ね飛ばしてくれ。仮に仕留め損ねても僕が必ず息の根を止める」
「総長との試合を吹き飛ばすような真似はすんなっつったばっかりだろうが! 正直、ワルッぽくノッてきたのは面白ェがよォ!」
矛盾の極みとも
短時間の制圧が求められる状況下では不意打ちによって動揺を誘い、標的を混乱に陥れることが極めて有効であると、
何しろ寅之助は人質まで使ってキリサメを指定の場所へと誘き寄せているのだ。騙し討ちのような小細工を更に重ねる理由もなく、ともすれば
キリサメが頭の中で算段を立てている間に恭路は商業ビルを取り囲むフェンスの一角に狙いを定め、直線道路の只中にてアスファルトに弧を描くようなタイヤ跡を焼き付けた。
女性シンガーが双眸を見開いて驚愕したのは無理からぬことであろう。
「バイクを乗り回す露出狂って! しかも、そこまでしてハダカを見せびらかすワリには貧弱丸出しじゃない! 欲求と胸板の厚みが釣り合ってないわ!」
アコースティックギターを爪弾くことも忘れて張り上げた素っ頓狂な声は、素肌へ〝短ラン〟を直に羽織るという奇天烈な風貌に向けられたものである。女性シンガーは恭路のことを
破廉恥な意図はないという弁明あるいは抗議のつもりであろうか――女性シンガーの悲鳴を咬み砕くようにして『ガンドラグーン
「敵の姿を見つけたら、まずはオレがウィリーしながら突っ込む! お前は車体を傾けた瞬間に天高く飛べ! くれぐれもバイクの動きに合わせろよッ!」
「……呼吸なんか合うとは思えないから、そこは適当にやろう。こだわるだけ無駄だ」
「アホ抜かせ! 『クロスクラッシュ』は二人の
「過去に一度でも『クロスクラッシュ』とやらの実演を見ていたら、少しはあんたの期待に沿えたかも知れないけどな……」
あくまでも合体技には消極的なキリサメに対し、「うちのクソ親父とダチ公は一発でコレを完成させたってハナシだ! だったら、オレらにできないハズがねぇ!」と恭路は滅茶苦茶な論法を叩き付けた。
だが、少年強盗団のようの群れることなく喧嘩殺法と『
それ故に双方の
ましてや恭路の
自分に対する信頼度が随分と低く見積もられていることなど想像もしていない恭路は、開戦に向けて全身の血潮を燃え
「派手にブチかまそうぜ、アマカザリィッ!」
慌てふためく女性シンガーと同じように大して広くもない空間へ轟いた〝龍の嘶き〟に驚き、何事かと振り返った人々の視線を巻き込みながら『ガンドラグーン
銀の甲冑を纏い、巨大な輪状の武器を頭上に構えた勇ましいイラストは見るも無残に引き裂かれ、残骸としてあちこちに飛び散った。
その先に瀬古谷寅之助が立っていた。砂埃と共に降り注ぐ細かな破片を涼しげに避ける青年の顔をキリサメは間近に捉えたのだ。
井の頭恩賜公園で初めて挨拶を交わした日とは似ても似つかないデザインのブレザーに身を包んでいたが、右肩に担いだ帆布製の竹刀袋は同じである。
地に伏せる虎の刺繍が施された物だ。その内側には剣道で用いる竹刀が納められているのだろう。青年海外協力隊が
「……寅之助……ッ!」
ほんの半日前までは日本で新たに絆を結んだ相手と信じて疑わなかった青年だ。共通の〝友人〟である電知と共にこれからも付き合っていくことになるだろうと思っていた。
しかし、今は違う。もはや、数時間前とは何もかもが異なっている。断じて許してはおけない〝敵〟と――生きていてはいけない存在と見なしている。
全身の骨を砕いても光を奪っても、未稲を傷付けた罪が
理性というものを持ち得ないような人間を
「未稲のヤツ、どこにも居ねぇぞ、オイ⁉ どうなってんだ、こりゃ!」
「……馴れ馴れしく呼び捨てにするなって言っただろう……」
「幽閉パターンだな⁉ 未稲をどこに隠したか、力ずくで吐かせるしかねぇぜ!」
相変わらず会話が噛み合わない二人の
グリム童話の
「見さらせ、推定四〇年モノの直伝奥義ッ! その名もクロスクラッシュッ!」
何を
「
「瀬古谷……寅之助ェッ!」
半ばまで閉じた
跳躍の頂点から餓えた猛禽類の如く急降下したキリサメはゾク車に轢き殺される寸前で身を
『
即ち、寅之助が相手では通用しないということである。『クロスクラッシュ』の術理を一目で見破り、恭路とキリサメが如何にして連携するのかを双眸でもって抜かりなく追い掛けていた。
自分を仕留め損ねてビルの内部に進入していくゾク車のエンジン音を背中で聞きつつ、寅之助は縦一文字に閃く斬撃をたった一振りの竹刀でもって受け止めた。長細い袋の中に納めたままで『
正確には竹刀で『
「警察にも知らせないようお願いしておいたのにガン無視で加勢を呼ぶんだもん。さすがに驚いたよ。サメちゃんってば意外と大胆だねぇ。……本気でボクを殺しに来てくれたんだねぇ。嬉しいなぁ、ありがとうっ」
自分の出方を窺うべく間合いを取ったキリサメに対し、寅之助は厭味なくらい溌溂とした笑顔を向けている。
邂逅の場所を一方的に指定してきた忌まわしい電話と同じように呼吸の
未稲救出に向けて足踏みなど許されない状況にも関わらず、たった一度、斬り合っただけで攻め
「……今のが
キリサメが
寅之助は余人が勘付かないほど小さな
地に伏せていた虎が大きく伸び上がりつつ前足を繰り出したかのような恰好である。その爪にノコギリ状の刃が掴まれるや否や、全体重を掛けて押し潰そうと試みた力の作用があらぬ方向へ引っ張られてしまった。
己の手で回転させていたはずの歯車が知らない間に別の歯車と噛み合い、想定外の
それはキリサメが生まれて初めて味わう感覚であった。強いて挙げるなら電知の投げ技を受けた瞬間に近いのかも知れない。技の拍子を崩されたというよりも〝力〟を働かせる為に欠かせない軸そのものが引っこ抜かれたようなものである。
「こんなのは森寅雄――『タイガー・モリ』の技には入らないよ」
如何なるときであろうと伝説の剣士に対する尊崇の念は忘れないのだろう。井の頭恩賜公園にて初めて会った日と同じようにキリサメが
「序ノ口どころか、小手調べにもなっていないさ。原理だって単純だし、コレくらいは小学生にもできるよ」
「……僕はお前の教え子より遥かに弱いってことか……」
「別に全国津々浦々老若男女の剣道家全員がやれるワケじゃないよ。サメちゃんの
「だが、お前の
「ボクにも道場の跡取り息子としてのメンツがあるしね。自分で挑発しといて一撃死なんて間抜けなオチは許して貰えないんだよ」
「知るか。……お前の立場など知ったことかっ!」
おどけた調子の物言いで誤魔化されそうになってしまったが、『
だからこそ、キリサメは無鉄砲に攻め掛かることができない。自分と同じ捌き方は生半可な剣道家には難しいと言いながら、箸の上げ下げか何かのように禍々しい刃の
長野で
開戦の
「いやぁ、スゴいよ。背中にイヤな汗が流れるのは久々だもん。電ちゃんや照ちゃんも同じ
一方の寅之助もキリサメのことを自分より劣ると貶めはしない。見下すどころか、彼の膂力に恐怖したと素直に讃えるくらいだ。
尤も、
「参ったなぁ。照ちゃんに浮気は程々にしろって注意されたばっかりだっていうのに、このままだとサメちゃんにも本気になっちゃいそうで怖いよ。テクニシャンな上に罪作りなんだね。そういうトコ、電ちゃんに似てるかも」
「……何の話をしている?」
「サメちゃんにますます興味が湧いたっていう意味さ。キミ、本当に闘い慣れてるねぇ。素人同士のケンカしか知らないクセして思い上がった自称腕自慢はちょっとからかっただけで考えナシに突っ込んでくるけど、サメちゃんは冷静で慎重だ。ボクのことを確実に叩き潰す作戦を頭の中で捏ね繰ってるんだろう?」
「当たり前だ。お前も共犯者も逃がすつもりはない」
「そこら辺は電ちゃんと違うね。あのコは自分で状況を作り出すタイプだし、サメちゃんみたいに立ち止まったら息継ぎもできなくて窒息死しちゃうよ」
「電知とナポレオン皇帝を一緒にする意味が分からない。あいつならどんな冬将軍が相手でも後退しないで突っ込み、全力でブチ破るハズだ。古い付き合いのお前にどうして分からないんだよ」
「おぉ~? サメちゃんってば思ったより
「……母の
対峙の直後から纏わりつく眼差しにキリサメは心の底から辟易していた。寅之助は一挙手一投足を凝視するどころか、言葉として紡いだわけでもない小さな吐息まで聞き漏らすまいと耳を澄ましている様子なのだ。
自分が珍獣か何かのように観察されていることを悟ったキリサメは、通話中に繰り返された悪辣な挑発行為が顔の見えない相手から過剰な反応を引き出す為の策であって、本心は別のところに
いちいち電知と結び付けられることさえ除けば、対峙してからの受け答えは理論立っていて真っ当に近いのである。
今し方の称賛も皮肉や揶揄ではなく言葉通りに受け取らなくてはいけなかったのかも知れない――ようやく寅之助の気持ちが伝わった次第であるが、当のキリサメは何も嬉しくない。斬り伏せなければならない〝敵〟の手強さがただただ気鬱であった。
未稲が人質に取られた本当の理由も依然として掴めていない。寅之助も電知の名前だけは何度となく挙げているが、肝心の未稲については存在すら忘れてしまったように全く言及しないのである。彼女を救うべく秋葉原まで駆け付けたキリサメにとって、これほど腹立たしいことはあるまい。
「慎重過ぎて大事なことをド忘れしていそうだけどね。こうしてお喋りしている間に『デザート・フォックス』さんは未稲ちゃんでお楽しみだよ? 延長戦までイッちゃってもボクは責任取らないからね」
「忘れているわけないだろう。……二人まとめて子孫を残せない股にしてやるからそのつもりでいろ」
「過激なことを吼えるくらいキレながら暴発はしないんだもんねぇ。良いよ、実に良い。そう来なくっちゃ。電ちゃんと互角に渡り合うんだから、せめてそれくらい図太くあって欲しかったよ。期待に応えてくれて嬉しいなぁ」
人質が忘れ去られる事態を危惧した矢先に焦燥を煽るような挑発を浴びせる辺り、本当に底意地が悪い。キリサメの苛立ちを見透かした寅之助は通話時と同じように最も精神的な動揺が与えられる言葉を選んでいるわけだ。
手のひらの上で転がされているような錯覚に陥ったキリサメは自分のほうから寅之助の心を覗き込み、真意を推し量ることがいよいよ億劫になってしまった。爽やかな笑顔の裏にドス黒い精神を隠し持ったこの青年は、憔悴する者を弄ぶ言葉を何通りも用意しているはずだ。
もはや、キリサメは寅之助との問答そのものに嫌気が差しているのだった。
「でも、電ちゃんが
長い時間を共有していればこそ特徴を掴めたのであろうが、寅之助が披露した幼馴染みの声真似は薄気味悪く感じてしまうほど良く似ていた。細かな息遣いに至るまで本人による発声と間違えてしまうくらい完璧に再現してみせたのである。
「さっきからいちいち何なんだ。どうして電知の話を持ち出す? ……無関係なアイツまで巻き込むのはやめろっ」
寅之助は口を開く度に必ず共通の〝友人〟の話題を持ち出すのだが、それもまたキリサメの癪に障った。自分たちが対峙するのはどうしようもなく
むしろ、平気な顔で「電ちゃん」と連呼できる寅之助の
今度の一件は遠からず電知の耳に入るだろう。あるいは湘南から
暴力性の
「無関係? ボクなりにヒントのつもりだったんだけど、まだ気付いて貰えないんだね。それとも、頭では
「……だから電知の話を持ち出すなって……」
「ちょっと知恵を働かせれば分かるでしょ。サメちゃん、自分がやったコトを理解できてないのかい? 電ちゃんもろとも『
「――悪いが、冗談に付き合うつもりはない。……電知に大嘘の片棒を担がせるな」
この状況へ不似合いなほど親しみを込めた眼差しとは裏腹に芝居がかった調子で眼前の少年をせせら笑い、何やら真相めいたことを仄めかす寅之助であったが、当のキリサメは万が一にも有り得ないとこれを切り捨てた。迷いを差し挟まないどころか、寅之助の声を遮ったほどである。
「あれ~? まさかの一発バレ?」
「確かに電知はメチャクチャなところもある。でも、勝負は正々堂々と真っ向から挑んでくるヤツだ。回りくどいことができるほど器用じゃないし、闘うと決めたら、自分自身の力で闘う――それが僕の知っている空閑電知だ」
寅之助の嘘を見破った根拠は単純明快である。キリサメによって
少なくとも刺客を放って高みの見物を決め込む姿などキリサメには想像すらできない。
「表立って騒ぎを起こすと警察沙汰になり兼ねないから幼馴染みのボクに意趣返しを依頼してきた――っていう筋書きは語らせて欲しかったなぁ。人間、一度は殺し屋っぽい台詞に憧れるっしょ」
「長野の合宿上では寝起きも共にしていたんだぞ? 本気で報復を企んでいるのなら幾らでも寝首を掻くチャンスがあったはずじゃないか。僕が五体満足でお前と向き合っていることが一番の証拠だ」
「今の話を電ちゃんが聞いたら泣いて喜ぶと思うよ。妬けちゃうな~。ホント、キミたちの仲の良さには嫉妬せざるを得ないよ」
「いい加減にしろ。雑談する為にここまで来たんじゃない。……というか、今ので騙せると本気で考えていたのなら僕のことをバカにし過ぎだろ」
「うん、合格っ! サメちゃんのことを『空閑電知地獄車同盟』の一員として認めよう。ちなみに終身名誉会長はボクだから、そこのところ、よろしくね!」
「……話が噛み合わないヤツばっかりだな、日本は……ッ!」
誤った情報を吹き込もうとして失敗した恰好であるが、寅之助当人は全く悪びれず、甘い顔には狼狽の色など僅かとて浮かんでいない。むしろ、キリサメに看破されることを期待していたかのような反応を見せたのだ。
キリサメのほうが逆に戸惑い、ほんの一瞬ながら呆けたように口を開け広げるくらいであった。
「みーちゃんを返せ。……いや、それよりもどうしてみーちゃんを狙ったんだ……ッ?」
「足手まといから先に潰すのが闘いの定石――って
キリサメの追及を聞き流しつつ竹刀を左脇に挟み、次いでブレザーの内ポケットから一枚の布切れを引っ張り出した寅之助は、これを右の太腿に巻いていく。
見ているだけで目が痛くなるほどの光沢を放つパッションピンクのバンダナであった。
「さっきのは口から出任せだったけど、報復そのものは嘘じゃないよ? サメちゃんへの恨みをボクが代行するっていうところもね」
「……僕の話なんか聞く耳を持たないらしいな。名誉会長を名乗っておきながら意地でも電知を悪者に仕立て上げるつもりかよ。……あいつが聞いたらショックで寝込むぞ」
「違う違う。電ちゃんでも『
「――てめぇ、『桃色ラビッシュ』の
蛍光色のピンクが厭でも目を引くものの、バンダナを太腿に着けることにどのような意味があるのか、キリサメには全く分からない。極めて難解な試験問題へ直面した学生のように眉根を寄せる
眼前の寅之助へと意識を集中させていた為に今まで気付かなかったが、三半規管まで揺さぶるほど大きなエンジン音も何時の間にやら聞こえなくなっていた。どうやら商業ビルの内部に『ガンドラグーン
『
挟撃を図るべくして寅之助の背後へと回り込んだ直後に素っ頓狂な声を張り上げた次第である。振り返った寅之助の顔とパッションピンクのバンダナを交互に見比べていたが、彼の双眸が驚愕に見開かれる理由すらキリサメには思い当たらなかった。
恭路は言葉を失う間際に『桃色ラビッシュ』と、何らかの集団を指すものと
正解と示すかのように恭路へと左の人差し指を突き出した寅之助は、
秋葉原の路上でアコースティックギターを爪弾いていた女性シンガーから露出狂の如く扱われてしまった奇抜な服装に見
寅之助が指差しているのは〝短ラン〟に取り付けられた金ボタンである。表面には十文字を模る意匠が施されているのだが、これこそ
「
「時代劇の前口上みたいな自己紹介どーも。どこかで見
個性的な色合いの頭髪が記憶へ刻まれたとも言い添えた寅之助にキリサメは我知らず頷いてしまった。何しろ額の剃り込みが鋭角な金髪のパンチパーマである。一度でも目にすれば厭でも忘れられまい。
「おうとも! 湘南最強『
「ていうか、サメちゃんもさぁ、対戦相手と仲良くし過ぎると試合に支障を来すんじゃないの? 電ちゃんだって
「……別に仲が良いってワケじゃないが……」
「そーゆー
「僕に同意を求められても……。まず第一に桃色ナントカっていうのも何が何だか分からないんだよ」
「世間知らずにも程があるだろ! ……『カラーギャング』っつってな、平たく言えば中野界隈を根城にする
「威張り腐って
「だろうな。
「リーダーなんて改造銃で電ちゃんの写真を何度も何度も何度も蜂の巣にしているみたいだよ。ちょっと前まで警察だって避けて通ってたカラーギャングが今じゃ東京中の笑い物だもんね。電ちゃんのことは幾ら恨んでも足りないんじゃないかな」
寅之助と恭路の間で飛び交う言葉を漏らさず聞き取ってもキリサメには中野を本拠とする『桃色ラビッシュ』ひいてはカラーギャングという存在が半分も理解できなかった。
せいぜい
徒党を組む者たちにとって何よりも大切なのは同族あるいは仲間意識なのだ。『桃色ラビッシュ』は揃いのバンダナを身に着けることによって窮地に陥ったときには背中を預け合えるような連帯感を高めているのだろう。
皆で分かち合えるモノによって団結を図るという点ではロゴマークが刷り込まれた品々を用いる『
現時点では把握できていないことのほうが遥かに多いのだが、中野の
いずれにせよ、
「アマカザリよォ、お前、このお坊ちゃんとダチなんだよな?」
「友人と思っていたのは僕だけだったし、もうそんな間柄じゃない」
「勝手に過去形にしないでよ。サメちゃんとボクはどっちかが先に死んだって、ずっと友達だからね? 今さっきもステキな同盟を結んだばっかりじゃないの」
「どの口が言うのかっ!」
「今とか昔とか、ンなのは小せェコトだ。関わり合いになっちまったつう事実がやべェんだろうが。……つーか、八雲のおっさんは
『
「さすがは暴走族、反社会勢力の事情にも詳しいね。リーダーにも聞いた憶えがないんだけど、実は城渡さんのチームも『
「確かに
暴走族と反社会組織を同じように括られたことが相当に腹立たしかったのであろう。左手で握ったチェーンを怒りに任せて地面へと叩き付けた恭路は狐目を更に吊り上げた。
「オレたちは
「へぇ? 奇縁ってのはあるモンだね。何だか親しみが湧いてきちゃったよ。これからキミのこと、恭ちゃんって呼ばせてもらうね」
「張り倒すぞ、てめー! よりにもよってクソ親父と同じあだ名じゃねーかッ!」
一際大きな怒鳴り声を迸らせる恭路だが、愛称が気に喰わなくて苛立ったわけではなさそうだ。
ほんの少し知っているだけと述べてはいたものの、山梨という根拠地まで挙げるからには組織の内情まで把握しているのだろう。穏やかならざる態度が『
「……さっきから気になってんだけどよォ、どうしてアマカザリは
事件の当事者にも関わらず、半ば置いてきぼりと化してしまったキリサメに目を転じた恭路が「ボーッとしてねぇでちったァ驚けよ!」と理不尽な要求を喚き始めたのは、手持ち無沙汰になって『
「……今のは僕にも関係のある話だったのか……」
初めて日本の大地を踏んだ豪雪の日に
その
「八雲のおっさんからマジで教わってねーのかよ⁉ 『
恭路曰く――『
「横浜港の付近をシメてるっつう暗黒街の
「そいつら、港湾労働者を抱え込んで密輸品でもやり取りしてるのか……」
「てめー、アマカザリ……肝心なコトは知らねークセしてヤクザな話には鋭いたァ、どういう了見なんだよ、オラッ!」
「どこの国でも犯罪が海の向こうからやって来るのは同じという意味だ。……ペルーの港町でも似たようなことが横行していたんだ」
「サメちゃん、ポエムの才能もあるんじゃない? 犯罪は海の向こうからやって来るって言い回し、映画のキャッチコピーにも使えそうだよ」
『
非行少年によって構成されるカラーギャングが
「恭ちゃんの言い回しも精一杯、カッコ良いのを捻り出した感じでボクは好きだな。日本MMA界のカタキ――努力の形跡が滲んでいて特別賞を贈呈したくなっちゃうよ」
「だから、その呼び方はやめやがれ!」
「
「ちょっと待て。それじゃ何か? 岳氏たちは社会に反するマズい組織と通じ合っていたというのか?
「ようやく事態の深刻さが伝わってきたみてーだな。遅ェんだよ、バカが!」
「そうはいってもプロスポーツの世界には、この程度の胡散臭い話は腐るほど転がっているし、サメちゃんだって別に驚きもしないでしょ?
恭路の説明を引き継ぐ形で寅之助が語った内容によれば、『
一九九〇年代半ばの旗揚げ以来、日本中に空前のブームを巻き起こしながらも二〇〇〇年代半ばにはテレビでの放送すら打ち切りとなり、一つの文化としての役割を終えたかに思われた日本MMAは短いとは言い難い空白期間を経て『
それは一側面に過ぎず、またキリサメ自身もMMAに対する興味が薄い為、
今の自分と同じくらいの年齢で初陣を飾り、『最年少選手』と喧伝された総合格闘家の存在など興味を引くような話を並べておきながら
恭路と寅之助の言葉を合わせて分析するならば、『
『ヤクザ』という言葉が何を意味するのか、キリサメも亡き母から教えられている。反社会的勢力を招き入れるような
現代の格闘技も決して〝綺麗な世界〟ではないという今福ナオリの言葉がキリサメの脳裏を過った。
「もしかして、キミってば暴力団関係者だったりする? 『
電知と初めて拳を交えた際、その場に居合わせた希更はキリサメの上半身に刻まれている銃創を目にして『
契約選手としては『
(余計なことなんて考えるな……MMAなんてもう関係ない……今となっては戦う理由はただ一つだろう……そうでなければ、みーちゃんまで
見下ろした足元が驚くほど脆いことを二人の言葉から意識させられたキリサメは、今、この瞬間に為さねばならないことを再び己に言い聞かせ、高く翳すように『
「何を隠そう『
寅之助が語った〝上〟とは『
「まさか、てめー、
「井の頭公園で落ち合ったのは本当に偶然だけどね。段取りも何もできていない頃だったからちょっぴり焦っちゃったよ。お陰様で電ちゃんを通じて近付くっていう一手間が省けたんだし、結果オーライってトコかな」
「とことんの悪党じゃねぇか、この野郎! お前みてェなクズは生まれて初めてだぜ!」
「恭ちゃん、ちょっと
「ここでキレずにどこでキレろってんだ! 人をナメるのも大概にしやがれ!」
怒鳴り声を浴びせてくる恭路には一瞥もくれず、自分の脳天に狙いを定めたであろうキリサメと『
報復あるいは制裁――どちらとも取れる動機と共にキリサメの前に姿を現わした一振りは使い込まれた様子を除くと何の変哲もない一般的な竹刀である。
恭路と
だからこそ、キリサメも全身から噴き出す冷たい汗を持て余しながら足踏みせざるを得ないのだ。迂闊に攻めれば全ての技を容易く破られ、返り討ちに遭うだろう。
反社会的勢力までもが関与している以上、自分が敗れたなら未稲を取り返す機会は永遠に失われるはずだ。もはや、『デザート・フォックス』の股を引き裂けば済む状況でもないのである。
ひょっとすると被害自体も八雲家だけには留まらず、一応の〝身内〟である表木家にまで拡大するかも知れないのだ。万が一にも敗北は許されない。命懸けで斬り結んだ果てにMMAのリングに立つ資格を剥奪されるとしても寅之助を打ち破るしかなかった。
「――すっかり〝富める者〟に染まっちゃったねぇ。去年までのサミーならもっと気ままに『
飄然と立ち上った
「……とことんの悪党というのはその通りだな。ヤクザの手先でありながら子どもたちに剣道を教えていたんだろう? 教え子たちはお前の正体を知ったらどう思うだろうな」
「真実の姿なんていうものは、それを知らなきゃ最初から存在しないのと同じだよ、サメちゃん。大体、ボクは剣道を指導してるだけで他の教育にはノータッチだもん。自分のようなヤクザな子を育てようって気はないよ」
「武道は精神性も教えるんじゃないのか? お前を信用し切っているなら洗脳し放題だ」
「だから不足がないよう剣道の全てを指導しているんだよ。あの子たちも保護者たちもカラーギャングとしての顔なんて想像したこともないだろうね。つまり、最初からそんな経歴は存在しないってワケ。少なくとも、あの子たちの世界ではね。真実を超えた偽りってヤツかな?」
「……口が本当に良く回る」
今にも離れてしまいそうな理性を引き留めるべく知恵を働かせ、少年剣道の指導者としての〝資格〟を問い質すキリサメであったが、弁舌で挑んだところで寅之助に敵うはずがなかった。
そして、それ故に彼の振る舞いを無責任と感じるのだ。
亡き母は『
行き過ぎた義侠心から寿命を縮めてしまったものの、息子の贔屓目を取り払っても母が全うしたのは高潔な志であり、己の都合で二面性を使い分ける寅之助とは正反対である。
「そーゆーコトなら『
「……稼ぎ場と言ったからには
「大正解~。『
日本MMAを根絶の瀬戸際まで追い詰めた事態が
「稼ぎ場の評判を落とす真似をした邪魔者は抹殺しろっていうのが如何にも
「いつの間にかデケェ話になってきたけどよォ、それって
「……そうだな。僕が知ってる『
「サメちゃん、もしかしてちょっと
「お前と比べて付き合いはずっと短いけど、それでも空閑電知っていう男のことを少しは分かったつもりだ。……友達だからな」
恭路から指摘されるまでもなくキリサメ自身も寅之助が明かした『
依然として
如何に岳が大らかとはいえ、日本MMAの天敵と結び付くような団体の所属選手を自身が外部コーチを務める地方プロレスの強化合宿へ誘うはずもないだろう。寅之助を挟む恰好で恭路と互いの顔を見合わせたキリサメは大きく首を傾げてしまった。
「てめェ……まさか――『
脳裏に閃くものがあった恭路は狐目を一等大きく見開き、これまで見たことがないくらい複雑な面持ちとなった。目覚めてからも余韻が生々しく
キリサメには何のことか全く分からない『
「昭和のオイルショックと同じ頃って聞いたかなァ。『
「
今度は寅之助が双眸を見開く番であった。
彼の狙いはあくまでもキリサメであり、一緒に押し掛けてきた御剣恭路という青年など取るに足らない存在と見なしていた。眼中にもなかったというべきであろう。この場に居合わせる資格すら疑わしいはずの者が自分の発言に対して意外としか表しようのない反応を示したのである。
『
「天然理心流の――いや、新撰組の剣を引き継ぐのが森寅雄の剣なら不足はないと思うのだけど?」
律儀というべきであろうか。自らの口で森寅雄と語る度、寅之助は天に向かって一礼していた。偉大なる先人を仰ぎながら、己の手で〝人斬り〟の汚名を着せてしまったことをどのように報告あるいは釈明しているのだろうか。
「バカ野郎がッ! 士道にあるまじき剣だろうと狼には狼なりの作法があるって八凪さんから教わらなかったのかよ! 継いだのは上っ面だけかッ⁉」
「
「八凪さんは『誠』に生きた狼の剣を貫き通した人だ! その誇りを勝手に捻じ曲げるんじゃねぇ! 今すぐだんだら羽織に詫びて来やがれッ!」
「キミが知ってる『
「『
侮辱的な一言に神経を逆撫でされた恭路は左手に持っていたチェーンを寅之助の足元へと滑らせ、これを軽く
「
「勝手に話を作るな。僕だって一度も味わってないだろ」
真鍮色のナックスダスターが背の高い建物の隙間から差し込む陽の光を跳ね返すと炎の塊が
それでも彼は止まらない。チェーンを離した左手にもう一つのナックルダスターを装着することさえも忘れて両腕を振り回し続けるのだ。
城渡総長の誇りを守るべく『まつしろピラミッドプロレス』の合宿先まで来襲したときにも匹敵するほどの憤激であった。血走った眼や無意味なほど大きな吼え声にキリサメは
あるいは恭路にとって『
(……新撰組の親戚か? 『ハテングミ』なんて母さんの授業には出てこなかったよな)
寅之助の頭部を打ち砕こうと構えを取ったにも関わらず、恭路が割り込んできた
『
『
「あの人たちに――『
「だって何から何まで新撰組の二番煎じみたいなものじゃないか。役職だって上から〝局長〟みたいにそのまんまパクッてたって聞くよ。違いなんてだんだら羽織を着てないコトくらい? ……あっ! でも、本当の新撰組は黒装束で揃えてたって説を電ちゃんから聞いたコトがあるな。『
「うるせぇ! うるせぇっ! うるっせぇッ! よくそこまでポンポンと悪口が思い付くもんだな⁉ 逆に感心しちまわぁッ!」
寅之助から揶揄される
「秋葉原の買い物客一〇〇人にアンケート取っても良いけど、『
「口を閉じやがれ! 二度と舐めた口を叩けないよう前歯を全部へし折ってやるァッ!」
「前歯が無くなっても喋れるだろ」
「ンなとこにツッコミ入れんじゃねぇよ、アマカザリィッ!」
おそらく『
まさしく
「ひょっとして恭ちゃんのお父さんも『
「だッ、黙れぇぇぇぇぇぇェェェェェェッ!」
他人が実父のことに触れた瞬間、恭路は全身を大きく捩じるような
訳知り顔の寅之助にも当該する人物は思い当たらなかった様子だが、恭路の実父が『
キリサメには『
寅之助は幹部に付けられたものであろう肩書きを幾つか並べていたが、恭路から〝新撰組の剣〟と呼ばれた
さながら『
もう一つ――恭路の父親も『
『
「世間は狭いねぇ、あちこちに関係者が居るもんだ。お喋りしてるとボロ出しそうだよ」
果たして、キリサメの直感に誤りがなかったことは風に乗って鼓膜へと流れ込んできた寅之助本人の呟きが証明した。
(――ちょっと待てよ。寅之助が入っているカラーギャングとやらにヤクザ者から命令が飛んだって言っていたよな。……寅之助はそのヤクザから直接、雇われているんじゃないのか? どうして間に別の集団を挿む必要があるんだ……?)
寅之助と『
少しでも時間を置くと言動が大きく変わってしまう瀬古谷寅之助は、好青年を絵に描いたような薄笑いを隠れ蓑にしているとしか思えず、『
「パクリ集団のクセしてやってるコトは矛盾しまくってるよね、『
「ええい、ゴチャゴチャとうるせぇ! 『
「ああ、成る程――新撰組と『
「ど、どういたしましてッ⁉」
恭路は寅之助のことを快楽目的の愉快犯と吐き捨てていた。ひょっとすると彼の言行には最初から〝真意〟などというものは存在しないのかも知れない。
当の寅之助は「そろそろバテそう? そんな体たらくじゃお父さんにも城渡さんにも顔向けできないよ」などと言って恭路を挑発しつつ、絶え間なく突き込まれてくる拳を軽々と
体力の使い方など考えもせずに両腕を振り回し続けた為、早々に息切れを起こして
その上、使い込まれた竹刀を握っておいて一度も反撃をしていない。己に迫る拳を叩き落とすような素振りすら見せていないのだ。口元の薄笑いから察するに迎え撃つまでもない雑魚と見なしているのだろう。
もはや、寅之助は御剣恭路という男の地力と
両者は身のこなしからして正反対である。無駄でない部分を探すほうが難しいくらい全身を大きく動かす恭路とは異なり、寅之助は瞬間移動と見紛うばかりに足の運び方が巧みなのだ。相手の技が描くであろう軌道を瞬時にして読み、その射程圏内から別の場所へ移る動作は氷雪の上を滑るかのように
様式美と
それでいて最小限しか動かない為、疲弊も限りなく抑えられるのだ。寅之助の額には汗粒一つ滲んでいないかった。
「う~ん、さっきは冗談のつもりで先達の皆さんに顔向けできないって言ったんだけど、ここまで来ると何だか失言みたいに思えてくるなァ。恭ちゃん、幾らなんでもダメ過ぎるよ。
「素人を痛め付けても自慢にはならないだろ。……寅之助もお手柔らかにな」
「そこで……乗っちまうのかよ……アマカザリ……どいつもこいつも……小生意気なクソガキばっかりだぜ……チョコマカと逃げ回ってねぇで……真っ向勝負しやがれ……殴り合いこそ……男の道じゃねーか……ッ!」
「頭の悪い人って自分の立場が弱くなると少しでも優位に立てそうなコトでマウント取ろうとするよねぇ。自分じゃ決め台詞のつもりだろうけど、最高にカッコ悪いよ」
己の胸中だけに留めておけば余計に拗れることもないだろうに、思ったことを包み隠さず喋ってしまうから鼓膜が破れたと錯覚するほどの怒号を浴びせられてしまうのだ。
そもそも寅之助には
「腕一本で勝負している電ちゃんを見習って欲しいよ。何なら爪の垢を煎じて飲ませてあげようか? 電ちゃん愛用の爪切りから失敬できるかも」
「……こいつ……マジで空閑のコトしか喋らねェな……どういうゲテモノ食いだよ……誰が飲むか、ンな気色悪ィもん……てめーなんかと……一緒にすんな……ッ!」
「冗談を真に受けるほうこそ問題でしょ。自分の爪を噛むような癖だって持ってないよ。恭ちゃんってば発想が気持ち悪いね」
「て、てめーは……さっきから……何なんだよ……ッ!」
「いやぁ、
「
「
せせら笑うような調子で寅之助が自身が通う高校を明かした途端、恭路は双眸を見開いて金髪のパンチパーマを掻き毟った。
「て、てめー……
「これは
「もう……殺す……ッ!」
疲労が膝を直撃して完全に足が止まり、荒い呼吸を経て激しい咳へと変わった恭路から更に激情を引っ張り出して消耗させようというのか、寅之助は挑発とも呼ぶにも値しないような罵詈雑言を重ねていく。
恭路が留年し続ける『シマコー』こと
時代が平成に移ってからも両校のいがみ合いは続いており、場末のゲームセンターや
ただでさえ根深い確執がある上に寅之助は〝城渡の母校としての
「天空……三連脚の
寅之助に『
鉄板の上から黒革を張ったような靴を履いているので命中さえすれば
「やるじゃん、ド根性~。昭和に流行った精神論を平成にまで引き摺ってるのが如何にも
「総長と『
仲間の誇りを守るべく〝武闘集団〟と繰り返し主張する恭路であったが、『
熾烈な縄張り争いが繰り広げられた時代は既に遠く、小競り合いを除けば〝現役〟として乱闘に興じる者などはごく僅かであろう。〝プロ〟のMMA選手として拳を
つまるところ、恭路は警察の機動隊とも互角に渡り合ったという『
「負け惜しみくらいはちゃんと
秋葉原の中心部にて幕を開けた戦いは、今やの寅之助と恭路の一騎討ちという構図に定まろうとしていた。〝短ラン〟に〝ボンタン〟という昭和の
この場にて様々な運命が交錯していた。無鉄砲という言葉が短ランを着て闊歩しているかのような御剣恭路も〝城渡総長〟のもとへ行き着くまでに重いものを幾つも背負ってきたのだろう。
時代劇のように〝人斬り〟などと
普段から何事にも無感情なこの少年は、自分にとって必要がないと判断したものは一つとして拾い上げようとしない。それ故に同士討ちという衝撃的な事実と共に語られた『
恭路と関わりが深い『
「昭和の流行っていえば、学生運動潰しにも差し向けられたんだっけ、『
「……やっぱり……知ったかぶりじゃねーか……クソが……学生運動をツブすのに……駆り出されたのは……『
『
不意に投げ込まれた〝何か〟が顔面にめり込んでいた。風を裂く音が己の後頭部に迫っていると気付いた寅之助は速やかに回避動作を取ったのだが、彼の上体が
「な、何なんだよ、一体全体――」
己の身に起きたことが全く理解できず、迸る鼻血もそのままに面食らっていた恭路は、次いで寅之助から無防備の腹部に蹴りを入れられてしまった。
脇腹や腰を抉るような蹴りではなく、足の裏でもって突き飛ばされたのだ。視界に捉えた寅之助は
それから一秒と経たない刹那、大きくよろめいた恭路の頬に一陣の烈風が吹き付けた。金属の塊が硬い地面に撥ね返るような音がこれを追い掛け、彼は耳鳴りに呻いた。
「サメちゃんもやるねぇ。恭ちゃんを巻き込んでもお構いナシじゃないの」
「……巻き込まれるほうが悪い」
着地した先で竹刀を左脇に挟み、皮肉に満ちた拍手を披露する寅之助へ舌打ち混じりで応じたのは恭路の猛攻を傍観していたはずのキリサメである。砂埃を舞い上げながら瞬時にして二人の間へ割り込み、『
建設用のシートに覆われたビルの壁に甲高い音を跳ね返したのは、依然として鞘代わりの麻袋に納められたままの禍々しい刃であった。
寅之助と恭路の間で不毛としか言いようのない応酬が長引いた為、最大の当事者でありながら蚊帳の外に置かれてしまったキリサメは、敵味方の区別なくまとめて薙ぎ払ってもおかしくない状況にも関わらず、『
この構図にこそ
そうして命中を確認する前に地面を蹴って跳ね、先んじて投げ付けたヘルメットを追い掛ける恰好で間合いを詰めていく。その最中に両手で構えた『
結局は攻め手の全てを見破られ、恭路だけが流れ弾の餌食となってしまったが、キリサメが狙いを定めたのはあくまでも寅之助ただ一人であった。
「今のは
「……もうハテングミは聞き飽きた……」
いちいち答える必要もなかったので聞き流したが、飛び道具で相手を怯ませてから更に威力の高い攻撃を仕掛ける戦法など誰でも考えるものだ。それこそ
キリサメの場合は『
確かに恭路は
「恭ちゃんさぁ、ボクにお礼くらいあっても良いんじゃないのかな~? ボクが助けてあげなかったら、キミ、サメちゃんの得物で頭蓋骨やられてたと思うよ。袋の中身は知らないけど、それ、めちゃくちゃ重いんでしょ?」
「同じ言葉を繰り返させるな。巻き込まれるほうが悪い」
「なーるほど……こいつが蹴っ飛ばしてなかったら……アマカザリはオレを巻き添えにしたってワケな……はいはいはいはい……てめー、トチ狂うのもいい加減に――」
先程の蹴りが持つ意味を寅之助から明かされた恭路は、キリサメに向かって怒鳴り声を張り上げようとしたが、結局は肺一杯に吸い込んだ息を無意味に吐き出してしまった。
全く注意を向けていなかった方向から飛び込んできた異音が鼓膜を叩き、その驚愕が憤激そのものを断ち切ったのである。
カメラのシャッター音が工事用フェンスの内側に幾つもこだましていた。それも現物による機械音ではなく、電子音による再現と呼ぶほうが正確に近い。
正確にはこの場で展開する乱闘騒ぎを興味本位で見物しているわけだ。
それも無理からぬ話であろう。サブカルチャーの聖地には不似合いとも思えるゾク車が工事用フェンスを突き破り、その内側にて物騒極まりない事件が発生したのである。通りすがりの人々が集まらないはずもなく、誰もが種々様々の携帯電話を
三人を順繰りに指差しつつ無責任な勝敗予想を語らい、いっそ三つ巴で殴り合えと言わんばかりに熱を帯びた眼差しでもって煽り立てるのだ。
「い、いつの間に……こんなに……集まって来やがった……⁉」
「さっきからずっと張り付いていただろ。あんた、気付かなかったのか」
「気付くわけねーだろ……こっちは必死に踏ん張って……闘ってたんだぜ……」
「
「出逢ってから……まだ三〇分も経っていねぇようなヤツに……雑魚呼ばわりされる筋合いなんか……ねぇぜ……ッ!」
『ガンドラグーン
そもそも――だ。異文化同士の相剋とも呼ぶべき趣が注目を集めないはずもない。恭路も寅之助も人目を引くような出で立ちなのだ。写真映えするからこそ、これを取り巻いた野次馬たちも携帯電話のカメラを起動させずにはいられないのだった。
自分たちを
「衆人環視の中でボクの脳天を砕こうとしたワケだよね。サメちゃんってば情け容赦なくて良いカンジだよ。ボク的にはもっともっと血も涙もないヤバさが欲しいけどさ」
「人が群がってきたから何だと言うんだ。不利になるのはお前のほうだろう? もう逃げ場なんかないぞ。警察が駆け付けた時点で本当の終わりだ。……制裁を警察なんかに任せておくつもりもないけどな」
「――つか、自然な流れで横入りしてくんじゃねーよ、アマカザリ! このケンカ、オレが買ったっつっただろが! こいつだけは……こいつだけは許しちゃおけねぇんだッ!」
乱れに乱れていた呼吸をようやく整えた恭路は、『
「あんたの事情は僕には関係ない。あんたがこだわるハテングミとやらも知ったことじゃない。みーちゃんを取り戻す。それだけだ」
「それはそれっ! これはこれッ!」
「……協力してくれると言ったのは御剣氏、あんたのほうだろう?」
「手前ェで巻き込んどいて、どういう言い草だ、この野郎ぉっ!」
「さっきから言っているだろう。嫌なら帰ってくれて構わない」
「だーかーら! こいつはもうオレのケンカなんだっつーの! それよりてめー、さっき発音おかしかったぞ⁉ ひょっとして漢字分かってねぇな⁉ 『天をも制覇する』と書いて『
半ばまで閉じた双眸から漏れ出す凄絶な妖気に
実際には未稲救出というキリサメの急務に割って入ったのは恭路のほうなのだが、何事にも一直線な彼は大切なものをことごとく貶めた寅之助の顔面に制裁の拳でも叩き込まない限り、収まりが付かないだろう。
「大体よォ、未稲本人がビルの中にもいねェんだから取り戻すも何もねーだろが」
「……どういう意味だ? 御剣氏、何を言っているんだ?」
「ビルの中には人っ子一人いねぇっつってんだ。入れるトコは片っ端から探したが、未稲は影も形もなかったぜ」
「探し――何だと……っ?」
恭路が何を喋っているのか理解できなかったキリサメはほんの一瞬ばかり眉根を寄せ、ビルの中には誰もいないという
「……道理でいつまでも帰ってこないと思った……」
「気ィ回してやったんじゃねーか。これで心置きなく
「……やっぱりさっき、寅之助とまとめて薙ぎ払っておくべきだったな……」
ゾク車でもって正面玄関に突入してから寅之助の背後に飛び出してくるまで恭路は数分を要したが、停車に手間取ったわけではなく、捕らえられた未稲を捜し求めて商業ビルの内部を駆け回っていたようだ。
機転を利かせてくれたこと自体は有難かったものの、キリサメからすればもっと早く報告を聞かせてして欲しかった。先程の一撃が寅之助の頭部を捉えていたら、本当の八方塞がりに陥ったはずである。
寅之助を退けてから『デザート・フォックス』をも探し当てて始末しようと考えていたのだが、もはや、竹刀もろとも彼の脳天を打ち砕くことができなくなった。何としても生け捕りにして未稲の居場所を聞き出さなければ、本来の目的を果たせなくなるのだ。
それがキリサメには面倒であった。『
「サメちゃんさぁ、今、『生きたまま捕まえるのは大変なんだぞ』って恭ちゃんにムカついたでしょ? さすが〝国家警察の犬〟は発想が違うねぇ。経験者は語るってヤツ?」
背後から心臓を掴まれるような一言に驚き、恭路に対する苛立ちまで吹き飛んだキリサメは再び寅之助を睨み据えた。険しい眼差しが「どういうことだ?」と言外に詳しい説明を求めている。
「未稲ちゃんは大事な人質なんだよ? 別の場所へ隠すのは当たり前じゃん。それに『デザート・フォックス』さんだって殺し合いやってる隣で楽しむのは無理でしょ。ボクでも萎えちゃうよ」
求めていた答えとは全く違ったが、キリサメの脳裏にまたしても新たな疑問が浮かび上がった。恭路の
何しろ寅之助たちが仕出かしたのは明確な犯罪行為である。通話を終えた直後に別の場所へ移したとも考えにくい――が、悠長に質している暇はなかった。未稲の命が関わっている以上、両足でも圧し折って彼女の居場所を吐かせるにしても速やかに終わらせなくてはならない。
「今頃は未稲ちゃんも快楽の世界にどっぷりじゃないかな? 『デザート・フォックス』さんってば大張り切りで、この日の為におクスリまで揃えてたもん」
「寅之助ッ!」
知覚を麻痺させる
鞘代わりの麻袋から解き放たれ、ノコギリ状の禍々しい刀身が露となった『
これは寅之助ばかりではなかった。船の
恐怖によって漏れるどよめきなどではなかった。『
これがペルーの『
「――
恭路とは反対側に浮かび上がった
想い出の彼方に渡った
『ナスカの地上絵』を模様として編み込んだスカーフで右腕を吊っている
(ベタつく関係はゴメンだって言ったのは
どれほど会いたいと焦がれても声を聞くことさえ叶わないと思っていたのに、今だけは全存在が疎ましい――キリサメは身の
「それがインカに伝わる聖なる剣ってヤツか⁉ 思った以上にデケェな! つーか、それでブッ叩いたのに折れなかったのか、あの竹刀⁉ 中に鉄芯でも仕込んでんのか⁉」
殺陣道場『
その過剰にやかましい声を嫌がったのだろうか、間もなく
恭路の示した反応がキリサメにも理解できないわけではない。平べったい石の板を上下に一枚ずつ重ね、一振りで標的の骨をも砕くよう改造を施した
「ええい、仕方ねぇな! オレもちぃっとばっかし折れてやらァよ! もう一遍、『クロスクラッシュ』と行こうじゃねぇか! 二人がかりで一気にケリを――」
ナックルダスターを嵌めた左右の拳を叩き付け、己が先行すると言わんばかりに前のめりとなった矢先、恭路の顔面へ再び〝何か〟が飛来した。
反射的に両手を伸ばし、眉間にぶつかった物を受け止めてみると、ヘルメットよりも遥かに軽い感触が手のひらに伝わった。
「起動するとすぐに『ユアセルフ銀幕』の画面へアクセスされるようになってるからね。プレイリストの順番通りに動画を再生してみて。『
「はあああぁぁぁァァァッ⁉」
「メールとか覗き見しちゃダメだよ。ボクは構わないけど、照ちゃんに殺されるからね」
『ユアセルフ銀幕』とは全世界に
恭路がギタリストを務めるロックバンド『
一方の寅之助は恭路の混乱やキリサメの視線を置き去りにし、
「これから始まる〝
「げきけ――は? えっ? 私ぃ⁉」
突然の
その上、
寅之助の一言は野次馬たちの間にも思い掛けない波紋を呼んだ。女性シンガーも三人の〝仲間〟であると盛大に勘違いしたようで、手拍子や口笛でもって彼女に演奏を求め始めたのだ。つまるところ、
「成る程、彼らは〝
「説明台詞っぽい切り口で始まったけど、そもそも〝ゲキケンコウギョウ〟っていうのが何だか分かりませーんっ!」
「剣術の在り方が少しずつ変わり始めた明治維新後に盛んに行われた見世物です。武士の世が終わって廃れ始めた剣術の価値をもう一度、全国に知らしめる為、幕末以来の名だたる剣豪たちが参加したと聞いております。彼らは古い時代からの使者なのでしょう」
「つまり、サムライ魂みたいな何か⁉ よ、よっしゃあッ! 前後の脈絡とかもうわっかんないけど、そういうことなら戦闘曲メドレーで行ってみよーか! 練習ナシのぶっつけ本番だから失敗にはツッコミもナシの方向でぇっ!」
物知りな見物客が披露した〝
彼女が奏でる激しい旋律に野次馬たちは誂え向きとばかりに沸き立ったものの、捧げられた側の三人はそれがアニメシリーズ『
それだけにキリサメも恭路と共に当惑するばかりであった。この場で繰り広げられているのが命のやり取りであることに誰一人として気付いていない様子なのだ。
東京の下町で生まれ育った亡き母から「喧嘩は江戸の華」などと聞かされていたが、この野次馬たちも血飛沫が舞う
覗き見根性が旺盛なだけでなく、本人も殴り合いを辞さないくらい喧嘩好きであった。
「……何のつもりだ?」
「最初は人目につかないビルの中にご案内しようって考えていたんだけど、サメちゃんたちのお陰で別の閃きを貰ったよ」
寅之助の返事は質問に対する
「電ちゃんとは長野で〝鬼ごっこ〟したんだよね? ボクともしてくれるかい?」
「……ふざけるのもいい加減にしろよ。大体、あのときも――」
茶目っ気たっぷりに片目を瞑って舌を出すや否や、寅之助は野次馬が群がるほうへと勢いよく駆け出した。彼らを突き抜けるようにして穴の外に飛び出そうというわけだ。
キリサメも寅之助の背中を見送るわけにはいかず、不本意ながら〝鬼ごっこ〟へ付き合う羽目になった。それだけではない。二人に道を譲った野次馬までもが歓声を引き摺りながら後を追い掛け始めたのである。
ただ一人――恭路だけが工事用フェンスの内側に取り残されている。もはや、アコースティックギターの音色を遠くに聞くのみであった。
「オ、オレはどうすりゃ良いんだァ……」
当惑を持て余しながら他人の
ペルーの
液晶画面では暴徒同然の市民とプロテクターに身を包んだ警官隊が市街地の十字路にてぶつかり合っている。いわゆる、騎馬警官までもが最前線に駆り出されており、恭路には合戦の二字以外に
商業ビルの工事現場から飛び出した寅之助は竹刀のツカを左の逆手で握り、刀身を背中側に回す恰好で秋葉原の街を駆け抜けていく。その背中を追い掛けるキリサメは抜き身の状態となった『
古い時代の武道を体得した点こそ共通しているものの、電知と寅之助の間にはやはり明確な違いがあるのだとキリサメは強く感じていた。それは柔道と剣道ひいては文献からの復古と先人からの継承といった差異を指すのではない。
道中で殴り合いも挟んだが、電知の場合は同じ〝鬼ごっこ〟でも燃え滾る魂を体現しようというのか、小さな身体で跳ねるように駆けていたが、寅之助は全力疾走しながらも姿勢を真っ直ぐに保ち続けているのだ。芯となる棒を背中に通しているのではないかと錯覚してしまいそうになるのだが、腰から上は微動だにしていなかった。
恭路の猛攻を避け切った
その上、速度までもが一定に保たれているのだ。互いの声や息遣いが聞こえる一方、それぞれの得物を突き出しても決して届かないという絶妙の距離感のまま二人は行き交う買い物客たちの間隙をすり抜け、週末の歩道を秋葉原とは反対の方角へと直走る。
寅之助の背中に『
ノコギリ状の刃を喰い込ませ、片足のアキレス腱だけでも引き裂くことができれば確実に有利となるだろうが、狙いを誤ろうものなら無関係の人間を巻き込んでしまう。飛び道具を使いこなせるキリサメにも
未稲救出という急務を抱えた情況ではあるものの、だからといって無分別になって良いわけではない。これを判断できるだけの理性は保っているのだ。
「
キリサメでさえ名称を聞いたことがある大手家電量販店が立ち並ぶ大通りへ入り、高架橋の真下を潜ろうかというとき、寅之助は急に不穏当なことを語り始めた。
都道四三七号線に面した歩道である為、風変わりとしか表しようのない〝鬼ごっこ〟へ奇異の目を向ける人々の声だけでなく車道から飛び込んでくる無数のエンジン音にも阻害されて聞き取りにくかったが、彼は肩越しに通り魔事件と述べたのだ。
「……何年か前に起きた無差別殺傷事件のことか……?」
「日本との関わりも深いって聞いてたからひょっとしてとは思ったんだけど、やっぱりペルーでも報じられていたんだね」
「……知り合いの日系人も騒いでいたからな……」
当該する事件にキリサメは確かに聞き
路上に捨てられた新聞を読んだのか、
〝過去の悪夢〟として仕舞い込むには余りにも生々しく、僅かに記憶を紐解いただけで心が引き裂かれてしまうほどに惨たらしい。事件の是非に関わらず、平成史に残さなくてはならない〝凶行〟の一つであった。
「寅之助、……もしかして、その事件現場は――」
背中へ突き立てられたキリサメの問い掛けには答えず、寅之助は目と鼻の先に見えている交差点を無視するかのようにガードレールを飛び越え、車道へ侵入していった。
その様を歩道から目の当たりにした誰もが自殺行為と咎めるのではなく驚嘆の声を上げている。青信号ということもあって絶え間なく行き交っている自動車の間隙を器用にすり抜けていったのだ。後続する恰好で車道に立ち入ったキリサメも同様である。肩に担いだ『
初めて日本に降り立った
合奏にも
何やら如何わしい商品を取り扱っていそうな雰囲気の古本屋と、開店休業のような飲食店の間に広がる狭い一本道であった。元から自動車の進入は禁止されているが、自転車同士が行き違うことさえ難儀しそうである。
怪しげなジャンクショップや個人経営の電気店が肩を寄せ合うような恰好で立ち並んでおり、『
長い間、シャッターが開けられた形跡の見られない古式マッサージ店の軒先に至って、ようやく寅之助は足を止めた。改めて
「サメちゃんが生まれ育ったスラム街もこんな感じの場所だったのかな? ブラジル風に言えば『ファヴェーラ』、ペルーだと『バリアーダス』――だっけ?」
竹刀のツカを逆手で握り、刀身を背面に回したままキリサメへと振り返った寅之助は、普段から半ばまで閉ざされている彼の瞼を全開にさせるようなことを口走った。
自分たちが立つ秋葉原の路地裏をペルーの『
尤も、寅之助の見立ては的外れも良いところである。陽の光が遠慮なく降り注ぐ大通りと違って背の高い建物に遮蔽される分、どうしても薄暗くなってしまう――が、一本道に沿って立ち並んでいるのは朽ちかけた掘っ立て小屋などではない。
サン・クリストバルの丘に広がる『
日秘では路地裏に
この場に
「
「……どっちも否定はしない」
「ところ変わって、ここは日本。れっきとした法治国家のね。そして、二〇〇八年から一〇年と経っていない秋葉原のド真ん中でもある。そこで物騒極まりないな物を振り回すことがどれだけ際どいのか、〝あの事件〟を知っているサメちゃんには分かるよね?」
寅之助は二〇〇八年に起きた通り魔事件について再び繰り返した。
秋葉原という街で刃物に類される武器を振り回し、返り血を浴びることの意味をキリサメに突きつけたいのだろう。かつての〝凶行〟の再現など絶対に許されないのである。
それにも関わらず、サブカルチャーの聖地を再び血で
「……お前はどこまで僕のことを知っているんだ……?」
だからこそ、キリサメは問い返さずにはいられなかった。薄々と感じてはいたが、この青年は電知などよりも遥かに己の身辺について詳しいかも知れないのだ。むしろ、知り過ぎているようにも思える。
そうでなければ何の脈絡もなくペルーの警察組織について言及するはずがないのだ。恭路の不手際に顔を顰めていたとき、寅之助はキリサメのことを〝国家警察の犬〟などと侮辱的な声色で呼んだのである。
何よりも寅之助はノコギリ状の刃を無数に並べた『
それはつまり、公になるのが望ましくない素性を暴かれたことにも等しいわけである。
「労働者の権利を踏み躙る法律に叛逆せよっていう去年一番大きな反政府デモ――現地では『七月の動乱』って呼ばれているんだっけ? 結構な犠牲者も出たんだってね」
「……一体、どうやって〝あの日〟のことを――」
アコースティックギターの音色と大勢の足音が風に乗って聞こえてくるような状況下で寅之助から投げ掛けられた言葉にキリサメはいよいよ絶句した。
応じる言葉など一つとして紡げないほどに打ちのめたと表すほうが正確に近いだろう。
今まで岳や未稲に確認を取ったこともなかったのだが、日本のマスメディアでも二〇一三年に
尤も、これは
「今はネット社会だよ? サメちゃんが暮らしていた時期のペルーをちょちょいっと検索してみただけさ。例のデモは外務省の安全情報ページにだって
キリサメへの
「何か手掛かりになりそうな動画でも転がってないかって『ユアセルフ銀幕』を漁ってみたら『ベテルギウス・ドットコム』っていうネットニュースに行き着いてね。あそこまで体当たりな取材は他にないでしょ。『七月の動乱』の最前線に突撃したんだもん」
煽り立てるかのような眼差しを向けられるまでもなく寅之助が何を言いたいのか、キリサメには察しがついていた。
『ユアセルフ銀幕』にてネットニュースを配信している民間運営のチャンネル――『ベテルギウス・ドットコム』のことは〝文明の利器〟に明るくないキリサメも知っている。
知っているどころの話ではない。これを運営する日本人記者・
まさしく有薗思穂は『七月の動乱』の最前線へと自ら身を投じていた。
数万もの群衆が〝大統領宮殿〟に押し寄せる少し前――
その最中に『七月の動乱』が勃発し、反政府組織の手引きによって国内へ運び込まれた銃器はデモ隊の中でも特に過激な一派の手に渡ってしまった。全ての果てに待ち構えていた結末を見届けるまで有薗思穂は最前線に立ち続けたのだ。
収録した映像の大半はペルー国家警察に事件の証拠として押収されてしまったが、怒れる市民と警官隊が首都の中心部で衝突する模様など国内のニュースでも放送されるような映像だけは有薗思穂の手元に残された。これらを編集した
それこそが寅之助の手掛かりになったというネットニュースなのだろう。
「念には念を入れてスペイン語でも検索したら
幸運と感心するべきか、執念と恐れるべきか、寅之助はペルーの政治中枢たる〝大統領宮殿〟に程近い大きな十字路にて繰り広げられた大混戦の映像をも発見したようである。
この当時、キリサメは反政府組織の拠点から銃器の引き渡し場所へ急行しなければならなくなり、国家警察に借り受けた馬を駆っていた。目的地はアメリカ大陸最古にして最大の闘牛場――そこに最速最短で到達する為、大規模なデモの間隙を縫うようにして最激戦地を真っ直ぐに突き抜けたのである。
寅之助の
「サメちゃんのコトを〝国家警察の犬〟って扱き下ろす現地のブログもあったなぁ。最初に読んだときには誰のコトだか気付かなかったんだけど、今まさにキミが担いでる硬くて太くておっきいヤツがブログに書いてあった目撃情報とぴったり合致してね。『強盗の常習犯のクセして警察に媚びを売る恥知らず。ペルーに巣食う寄生虫』だってさ。インターネットの翻訳は変換機能が怪しいから、これは単なる誤訳かもだけどさ」
ペルーの公用語に精通しているのならまだしも、完全な手探りで自分の足跡を辿ってきたという寅之助に対して、キリサメはおぞましさを通り越してただただ呆れ返っていた。
通話の最中、
(……どこまでもこいつは……ッ!)
身の
決死の思いで辿り着いた闘牛場にてキリサメと有薗思穂を待っていた結末まで把握した上で、全く同じ〝受難〟を再現したわけである。
未稲を
過去に関わりのあった〝武闘組織〟を〝殺人集団〟と貶められて激昂した恭路と何も変わらなかった。キリサメにとって想い出の彼方へと去った
「労働階級の怒りを煽って内乱を起こさせようとしたのが『エスパダス』とかいう革命家被れ――だっけ? 国家警察の長官も
断片的な情報をどのような手順で組み合わせ、パズルのように完成させていったのか。これを厭味なくらい丁寧に解き明かしていくのは、当然ながらキリサメの怒りを更に煽る為である。
荒む心を見透かされている事実が不愉快で仕方ないのに寅之助の
「ところでサメちゃんってばどーして危険極まりないデモのド真ん中にいたんだい? 馬を走らせるってことはどこかに向かっていたハズだよね」
「……黙れ……」
「はてさて、一体、〝何〟を目指していたのか――ボクなりに推理を働かせて目撃された場所とその周辺を線で結び合わせてみたよ。サメちゃんにとっての終着点をね」
「……黙れと言っている……」
〝あの日〟のことを振り返ってはならないと自分自身に何度も何度も言い聞かせるキリサメであったが、寅之助の言葉によって記憶の扉が開かれ、その深淵から忌まわしい悪夢が引きずり出されてしまう。
長大な壁で富裕層が暮らす高級住宅地と貧民層の居住区が隔てられた『
「ボクらと大して変わらない女の子が例の闘牛場で犠牲になったんだよね。……あれはさすがに気分の良いモンじゃなかったな。向こうの警察もビニールシートくらい用意してあげれば良かったのに。幾らなんでも遺体を新聞紙で覆うってのは――」
「――黙れッ!」
寅之助を生け捕りにしなければ未稲を救い出すことが困難になるという理屈と、二〇〇八年にこの街で起きた〝凶行〟を訴える理性を破壊の衝動にも等しい
頸椎に狙いを定めた一撃は命中すれば確実に寅之助を死に至らしめたであろうが、禍々しい刃は風を裂くことさえなかった。瞬きよりも
竹刀のツカを左の逆手で握った寅之助は刀身を背面へ回されていたはずである。それが一瞬の内に右の順手へと持ち替え、半身を大きく開きながら片手一本を直線的に突き出す姿勢となっていたのだ。
いわゆる、『片手突き』であった。機先を制してキリサメの身動きを封じることが目的であったので敢えて直撃させなかったようだが、本気で打ち込まれていれば虎の牙さながらに喉笛を食い破られたに違いない。
「
「……な……に……」
その瞬間にキリサメの胸を深々と貫くものがあった。無論、それは竹刀の剣先より浴びせられた風圧などではない。
呆けたように立ち尽くすキリサメの両手から『
想い出の彼方に去った
寅之助が闘牛場の駐車場付近に横たえられた
身の
「サメちゃんってばやっぱり強引。涼しげな顔で肉食獣っぷりを隠すなんてホントにテクニシャンだねぇ」
喉元に突き付けられていた剣先を左掌でもって押し返すや否や、キリサメは半歩ばかり踏み込みつつ対の拳を突き入れていった。腰の捻りを効かせ、速度も十分に乗っている。皮肉としか表しようもないが、
力任せに弾き飛ばされた寅之助も着地を待たずに体勢を立て直し、斜めの軌道を描くようにして竹刀を打ち込んでいく。己の胸部を狙って突き込まれてくる右拳を空中にて迎え撃とうというわけだ。
キリサメの双眸も竹刀の軌道は正面から捉えている。己の右拳を叩き落とさんとする意図も読み取っている。だからこそ腕を引き戻そうとはしなかった。敢えて下腕を打たせ、刀身の静止を見極めるなり対の左手を伸ばしていく。
左の五指にて刀身を掴んだキリサメは、これを己の元へと強引に引き付けながら再び対の拳を構えた。真剣であったなら五本の指が全て切断されたかも知れないが、四ツ割の竹片で組まれた刀身にはその心配がない。即ち、渾身の力で引っ張ることができるわけだ。
急激な力の作用によって寅之助の上体が俄かに傾いた。その顔面へ再び
「試合が近いのに無茶するねぇ。破れかぶれは感心しないよ、サメちゃん」
寅之助は竹刀を通して上体に伝う力の作用には逆らわなかった。無闇に抗えば重心が己の意思を離れ、完全に姿勢を崩してしまうことを経験で知っているのだ。
『
首から上で巧みな回避動作を披露しつつ、下肢では反撃を仕掛けている。左の足裏でキリサメの右膝を踏み付け、反対に姿勢を崩そうと試みたのだ。
続けて半歩ばかり踏み込み、彼の右足首に己の左踵を引っ掛けていく。互いの足を絡めて鎌の如く払い、その場にキリサメを横転させようというわけだ。
竹刀を構えた剣道家からこのような技を仕掛けられるとは想像もしていなかっただけにキリサメは完全に虚を衝かれてしまった。刈り取られる寸前に右足を引き抜いたことで横転だけは免れたものの、それが為に軸足一本で姿勢を維持するような恰好になったのだ。
地に伏せて獲物を狙う虎がこのような好機を逃すはずもない。寅之助は比喩でなく本当にキリサメの懐深く飛び込んでいった。
これもまた剣道家の間合いではない。両腕を十分に伸ばせなくては竹刀も満足に振るえないわけだ。折り畳んだ右腕から繰り出されたのは肘打ちである。
「それは反則だろう。少なくとも剣道じゃない」
「ご明察。『剣道じゃない』ってトコまで含めてね」
両手で竹刀のツカを握ったまま右肘を突き出してきた寅之助に対し、キリサメは『コンデ・コマ式の柔道』を初めて目にした瞬間の希更と同じことを口走っていた。
素早く軸足を入れ替え、左膝を突き上げることでこれを弾き飛ばしたものの、立て続けに剣道家らしからぬ攻撃を仕掛けられた当惑は
それはつまり、剣道家の間合いに戻ったことも意味している。先程のような片手突きを警戒して追撃を踏み止まったキリサメは両腕をだらりと垂れ下げながら寅之助の出方を窺い始めた。今度は彼のほうが地に伏せる虎となったわけだ。
不意に襲い掛かった当惑は
寅之助が語った名前――
その様子を眺める寅之助は竹刀のツカを再び左の逆手で握り、四ツ割の竹片でもって拵えた刀身を背面に回していた。
「……今のは電知と同じ『
キリサメには寅之助が悪ふざけのつもりで反則技を仕掛けたとは思えなかった。
立て続けに足を攻めて動きを鈍らせ、これに対する反応によって姿勢を崩した上で肘を突き込むという身のこなしは流麗そのものであり、一つの体系として完成されていた。僅かとて乱れなかった足の運び方が修練を経て体得した技であることを証明している。
そして、それは『コンデ・コマ式の柔道』に組み込まれた『
「お前と電知は本当に幼馴染みなんだな。……嫌というほど痛感したよ」
剣と
「電ちゃん風に言えば、『タイガー・モリ式の剣道』ってトコかな。正確には
受け取り方によっては漫画やアニメの剣豪が発する決め台詞のようでもあり、寅之助が
幾つもの弦が乱れ飛ぶような激しい旋律が先程から背中に届いているのだから、わざわざ振り返って確かめるまでもない。商業ビルに群がっていた野次馬たちがとうとう追い付いたのである。
しかも、背後から圧し掛かってくる疎ましい声は大通りへ駆け出す前と比べて格段に大きくなっているではないか。寅之助の肩越しに一本道の向こうを窺えば、二手に分かれて回り込んできたと思しき人々も見受けられた。
周囲を見回すまでもなく野次馬の数が倍近くに増えていることは察せられた。市街地を駆け抜けていく珍妙な〝鬼ごっこ〟を目撃して興味を引かれたのだろう。工事用フェンスから飛び出す前に寅之助自ら〝
「やっぱこれ、ファンタジー
野次馬たちの会話に耳を澄ませば、キリサメの予想が概ね当たっていることも確認できた。彼らが口にした甲冑姿の騎士とやらに心当たりはないものの、パソコンゲームを原作とするキャラクターのブレザーで扮装した少年剣士と、マヤ・アステカ文明の
およそ現実とは思えない場景であり、何らかの催し物と錯覚してしまうのは無理からぬことであろう。
「一般人の女の子がどうして国家警察との銃撃戦に巻き込まれなきゃいけなかったのか、そこまではボクにも分からない。調べがついたのはせいぜい名前と年齢くらいだったけど、同い年くらいのコの他にサメちゃんが闘牛場へ向かう理由が見当たらないのも事実でしょ。それでボクの推理力が冴えたんだけど、やっぱり目当ては
「――
寅之助から目を逸らして俯き加減となったキリサメは喉の奥から掠れた声を絞り出すだけでも苦しかった。何かを口にする
これ以上、たった一人の大切な幼馴染みについて触れて欲しくなかった。相手が寅之助だから口を噤むよう求めているのではない。望んでもいない銃撃戦に巻き込まれて犠牲となった
これほどまでに人の尊厳を弄ぶ行為など他にあろうはずがない。
「今はもう痛みも何もかも忘れて……せめて安らかに
辺り一面に響き渡る怒号ではなく正面の相手にしか聞こえないほど小さな慟哭を洩らしたキリサメは、足元に転がっている『
視線を巡らせた先に捉えたのは彼が初めて見せる
電知や恭路など自分以外の誰かを無慈悲に翻弄し、激烈な反応を示した相手を嘲笑うだけであった青年が後悔の念を滲ませていたのである。見えざる手によって感情の
それほどの豹変であったのだ。
余人に曝け出すべきではない面相を自覚したのか、キリサメが双眸を瞬かせる間に先程までのような薄笑いを浮かべたが、もはや、享楽家の立ち居振る舞いすらままならない。
内面から滲み出す底意地の悪さと顔面に貼り付けた作り笑いくらいは何事にも無感情なキリサメであろうと見分けられるのだった。
「地獄に落ちちゃったら、安らかにオヤスミってのは無理なんじゃない。サメちゃんの幼馴染みってコトは同じ境遇のコなんでしょ? ペルーの冥界事情なんか知らないけど、日本だったら閻魔大王から極楽浄土とは正反対の世界へ送られるハズだよね、うん」
寅之助の声は慟哭を吐き出した瞬間のキリサメと同じくらい弱々しかった。哀願にも近い言葉を心ない挑発でもって撥ね付けようとしたらしいが、今は他者を嘲るだけの力が感じられず、虚勢の域を出ていない。
遺された人々が抱える苦しみの形に触れてしまったことを心の底から悔やんでいるのではないかとキリサメには思えた。それはつまり、真っ当な人間にのみ宿る良心を寅之助も捨ててはいなかったということである。
他者の慟哭を受け止められる人間でありながら、どうして未稲の心身を
ついに寅之助までもが押し黙ってしまった。作り笑いで取り繕いながらも次に紡ぐべき言葉を見失ってしまった様子である。
遠巻きに見守る野次馬たちは「もっとガシガシ打ち合わなきゃ面白くないぞ~」と無責任に囃し立てながら、膠着状態に陥った二人を携帯電話のカメラ機能でもって遠慮なく撮影している。返り血を浴びたほうがSNSで盛り上がるという不謹慎な声までシャッター音に混じっていた。
(……毒を食らわば皿まで――か。いっそまとめて叩き潰してやろうか……)
二〇〇八年に発生した通り魔事件を考えれば、彼らが撮影した写真はキリサメにとって致命的な証拠となるだろう。目の前で繰り広げられているのが現代に甦った〝
「そうだよな、やっぱアレ、来月デビューする『
「どっかに隠しカメラが設置されてんじゃね? 表木だっけ? あのPV作ってる人、法律に引っ掛かりそうなムチャクチャなコトも平気でやってるもんな」
「じゃあ、これって『
誰かがキリサメの正体に気付き、これを受けて野次馬たちは更に盛り上がった。この頃になると界隈の人々も軒先へと姿を現し、キリサメと寅之助を興味深そうに眺めている。
今から始まる〝
それら全てを飲み込んだ上でキリサメはアスファルトの路面に横たわる『
全身から溢れ出した妖気がノコギリ状の禍々しい刃を満たしている。
変調の理由など質しているときではない。今、己が何を為すべきなのか、二度とは忘れまい。秋葉原という町で暴力性の
もはや、寅之助は視線を交わそうともしないのである。
言葉巧みに他者の心を揺さぶり、狂気に駆り立てる所業などは
その事実に何故だか安堵を覚える自分がキリサメには不思議でならなかった。
「そーだよ、サミー。生きてちゃいけない存在は根絶やしにしなくちゃ。一人でも仕留め損ねたらわたしたちみたいな〝犠牲者〟が増えちゃうもん。そんなの、ダメだよね?」
野次馬でも寅之助でもなく、
血で穢れた忌むべき刃に幼馴染みが触れる
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