その9:覇天組~Our History Again

 九、てんぐみ



 シート後部にキリサメを乗せたゾク車――『ガンドラグーンゼロしき』が全面改修の進む商業ビルへ突入する直前、ハンドルを握る恭路は『クロスクラッシュ』という余人には意味の分からない言葉を幾度か口走っていた。


「――そこで『クロスクラッシュ』の出番っつーワケよ。仕方ねーからてめーに花を持たせてやっけどよ、オレの『ガンドラグーンゼロしき』が先に敵を仕留めちまっても文句垂れるんじゃねーぜ! 手柄は早い物勝ちって昔ッから決まってんだ!」

「……前後の脈絡を飛ばして急に『というわけで』って話し始める人がいるよな。あんたも同じだ。勿体付けた感じに『そこで』って前置きしておけば詳しい説明を放り出しても許されると考えているなら、今すぐにその思い違いを捨てたほうが良い」

「だーかーらッ! うちのクソ親父とダチ公の十八番だってさっきから何度も説明してるじゃねーか! 突進技で一発カマしてやるから先制攻撃にぴったりだし、まさかってトコから攻め掛かる奇襲戦法まで付いて隙を生じぬ二段構えよォ! この合体技を破れるヤツはザラにはいねぇッ!」

「長々喋っていたけど、あんたの場合、説明の役割を殆ど果たしていないんだよ。見ず知らずの人たちの得意技なんて、僕にどう理解しろっていうんだ」

「想像力ゼロだな、てめー! 『クロスクラッシュ』っつう響きから幾らでも閃くモンがあるだろーが!」


 何やら思い入れが深いらしい『クロスクラッシュ』について恭路は饒舌に語り続けたものの、最後の曲がり角へ差し掛かろうという間際に至ってもキリサメには殆ど何も伝わらなかった。

 正面切って突っ込んでいく者と、これに連動して空中から飛び掛かる者による同時攻撃という要点だけは辛うじて拾い上げることができた。それ故に恭路は漫画やアニメのキャラクターのように現実感のない単語ことばを繰り返しているわけだ。

 交差する形で同時攻撃を仕掛けることに由来して『クロスクラッシュ』と称するようになったのだろう――が、命名それに関してキリサメは徹底して無反応を貫いた。興味を抱いたような素振りを少しでも見せれば、寅之助のもとに到達すまで無駄話が続くはずだ。

 しかしながら、興味を引かれる部分がなかったわけでもない。くだん合体技クロスクラッシュとやらは恭路の父親とその仲間が得意としていたそうだが、拳を振るうことが当たり前の環境に身を置いていたのだろうか。得意技と呼ぶからには相応の頻度で用いていたとも察せられる。

 日本ここは法治国家である。〝大統領宮殿〟に暴徒同然の国民が殺到する反政府デモなど、貧民街以外にも『暴力』の影が潜んでいた故郷ペルーとは異なり、無防備のまま夜道を歩いてもただちに生命の危機を感じるようなことがない国である。ましてや、欧米のような銃社会でもないのだ。


(アラガミフウジとかいう武術の心得があるんだったな。ひょっとしてプロレスラーとか格闘家なのか? ……でも、それなら岳氏が御剣のことを知らないハズもないし……)


 おそらくは〝民間人〟であろう恭路の父親たちが戦闘能力を備えている背景がキリサメには分からなかった。彼の年齢から計算すると、その親は五〇代といったところで、高く見積もっても六〇代は超えないはずだ。亡き母と同じく『昭和』と呼ばれた時代の中期なかばに生をけたことは間違いあるまい。

 だからこそ、キリサメには不可解であった。いわゆる『戦後世代』であり、太平洋の戦場に赴いたとも考えにくいのだが、勇ましいラッパを背に受けて銃剣突撃などしなくとも許される平和な時代に他者を殺傷する戦闘能力ちからが求められたというのだろうか。

 『クロスクラッシュ』という虚飾性の強い命名とは裏腹に、その術理は狙い定めた標的を確実に追い詰める性質ものであり、競技の類ではなく〝実戦〟の場にいて最も効力を発揮するだろうとキリサメは読み取っていた。


(……母さんが教えてくれなかっただけで、『昭和』も単純な時代じゃなかったのかな)


 あるいは恭路の父親たちは平和な時代に背を向け、社会の〝裏〟にしか居場所を持ち得なかったのかも知れない。

 『七月の動乱』のなかに遭遇した殺人稼業の者――デラシネと呼ばれる――は戦場を渡り歩く傭兵さながらに携行式のロケットランチャーまで発射していたのだ。恭路の父親たちも〝真っ当な勤め人〟ではなく、『デラシネ』のような〝裏の仕事〟に手を染めていたとも考えられるのだった。

 事実、過去に知り合った日本人の中にはペルーの武装組織から雇われた現役の傭兵も含まれている。平成と昭和――二つの時代に同種の稼業が存在するとしても、何ら不思議なことはないだろう。


(……ってコトなら僕だって似たようなものだよな。同じ穴の狢ってヤツだ……)


 視界に飛び込んできた工事中のビルを仰いだのち、『げき』の二字を背負う恭路の後ろ姿へと目を転じたキリサメは心の中で自らを嘲った。

 彼の父親が『デラシネ』や自分のように社会の〝闇〟で血と罪にけがれた者なのか――これを確かめる時間はなく、キリサメとてそこまでの関心は持っていない。

 現在いまのキリサメが己に問い掛けることはただ一つのみである。

 如何なる事情があろうとも法治国家日本では決して認められない『暴力』を娯楽で溢れ返った秋葉原まちの真っ只中にてふるおうとしている。これを許されざる暴挙と罵られようが未稲を救い出さなければならないのだ。

 そして、未稲を傷付けた寅之助と『デザート・フォックス』を五体満足のまま返すつもりもなかった。右肩に『聖剣エクセルシス』を担いだのは彼らを脅かして退散させる為ではない。

 この秋葉原まちに『暴力』の影が差し込み始めたことなど夢想だにしない人々は楽しげに談笑しながら歩道を行き交っている。先ほどすれ違ったタキシード姿の青年と同種のヘッドフォンを装着する『かいしんイシュタロア』のファンたちは町中に設置された案内用の看板に従い、トークイベントの会場である宮崎県の物産館アンテナショップを目指しているようだ。

 彼らの歩みも『ガンドラグーンゼロしき』の唸り声も、日本で生まれたサブカルチャーの全てが集う聖地の中心部へと近付きつつある。それが為にキリサメが見据える町並みも現実リアル虚構フィクションの境目がますます曖昧になっていた。

 視界に入る建物はことごとくアニメやゲームの看板を掲げており、正面に見据えた大型の液晶パネルでは希更・バロッサが声を吹き込んでいる『かいしんイシュタロア』の主人公――あさつむぎが両腕を広げ、「アキバまでよう来やったな~!」と宮崎県の方言ことばで秋葉原への来訪者を歓迎していた。

 週末ならではの賑わいというべきか、扮装コスプレとまではいかないまでも己が愛好するキャラクターを意識したとおぼしき装いの人々が建物が立ち並ぶ狭い谷間にひしめき合っており、聞く気がなくとも耳に入ってくるアニメソングも秒を刻むごとに数が増えていく。もはや、サブカルチャーに関わりのないモノを探すほうが難しいくらいであった。

 どうやら恭路は秋葉原駅へと突き当たる一本道に捉えた背の高い建物を目指しているよだ。そこはキリサメが遠くから目星を付けていた場所でもある。建設用のシートで壁の大半を覆い隠しているのだから、これほど分かり易いものはあるまい。寅之助には「電気街口のすぐ近くに工事中の大きなビルがあるからそこにおいで」と告げられたのである。

 『かいしんイシュタロア』の登場キャラクターたちが等身大で描かれたフェンスを背にして女性シンガーが路上ストリートライブを行っている。『聖剣エクセルシス』のツカを鞘代わりである麻袋の上から握り締め、臨戦態勢を整えていくキリサメは電気街口の改札を抜けた直後の未稲が同じ歌声を耳にしたことなど知る由もなかった。

 そのようなことなど想像もしていないだろう。彼女が奏でるアコースティックギターの音色もゾク車の〝嘶き〟によって掻き消されているのだ。


「出入り口からビルに突撃するのはバカ正直過ぎるか! いっそ衝立をブチ抜いてみるかよ、オイ? ここまでコケにされといて不意打ちは卑怯だなんて今さら言わねーよな⁉」

「これだけやかましくバイクを走らせておいて不意打ちも何もないだろう」

「別にコレくらい珍しくねぇだろ? 通りすがりのバイクとでも勘違いするだろうぜ。それとも、やっぱり正義の味方ヒーローパターンで真っ向勝負するか?」

「……いや、あんたの作戦で構わない。それに連携にもこだわらない。敵と見なした相手は一人残らず撥ね飛ばしてくれ。仮に仕留め損ねても僕が必ず息の根を止める」

「総長との試合を吹き飛ばすような真似はすんなっつったばっかりだろうが! 正直、ワルッぽくノッてきたのは面白ェがよォ!」


 矛盾の極みともたとえるべき言行に対して反射的に皮肉を浴びせてしまったものの、奇襲そのものにはキリサメも反対する理由がなかった。寅之助や『デザート・フォックス』が工事現場のどこに潜んでいるのか、依然として特定できていない。彼らがビルの上階から眼下の有り様を眺めていた場合は逆効果ともなり兼ねないが、分の悪い賭けでも試してみる値打ちがあると判断しているのだ。

 短時間の制圧が求められる状況下では不意打ちによって動揺を誘い、標的を混乱に陥れることが極めて有効であると、キリサメ故郷ペルーける経験から痛いほど理解していた。

 何しろ寅之助は人質まで使ってキリサメを指定の場所へと誘き寄せているのだ。騙し討ちのような小細工を更に重ねる理由もなく、ともすれば何処どこからでも発見され易い正面で待ち構えているはずであった。奇襲の成功率は五割を超えることであろう。

 キリサメが頭の中で算段を立てている間に恭路は商業ビルを取り囲むフェンスの一角に狙いを定め、直線道路の只中にてアスファルトに弧を描くようなタイヤ跡を焼き付けた。

 女性シンガーが双眸を見開いて驚愕したのは無理からぬことであろう。路上ストリートライブに興じる自分のほうへと進路を変えた改造バイクがそのまま猛然と突っ込んでくるのだ。恐怖に立ち竦んでしまうのは人間ひととして真っ当な反応であった。


「バイクを乗り回す露出狂って! しかも、そこまでしてハダカを見せびらかすワリには貧弱丸出しじゃない! 欲求と胸板の厚みが釣り合ってないわ!」


 アコースティックギターを爪弾くことも忘れて張り上げた素っ頓狂な声は、素肌へ〝短ラン〟を直に羽織るという奇天烈な風貌に向けられたものである。女性シンガーは恭路のことをわいせつなる変人と見なしたわけだ。

 破廉恥な意図はないという弁明あるいは抗議のつもりであろうか――女性シンガーの悲鳴を咬み砕くようにして『ガンドラグーンゼロしき』が一等高く唸った。


「敵の姿を見つけたら、まずはオレがウィリーしながら突っ込む! お前は車体を傾けた瞬間に天高く飛べ! くれぐれもバイクの動きに合わせろよッ!」

「……呼吸なんか合うとは思えないから、そこは適当にやろう。こだわるだけ無駄だ」

「アホ抜かせ! 『クロスクラッシュ』は二人の呼吸いきがぴったり合わなきゃ完成しねぇんだぜ⁉ オレらにとって初めての共同作業だ! 練習時間の不足は持ち前のヒーロー補正で何とかしやがれッ!」

「過去に一度でも『クロスクラッシュ』とやらの実演を見ていたら、少しはあんたの期待に沿えたかも知れないけどな……」


 あくまでも合体技には消極的なキリサメに対し、「うちのクソ親父とダチ公は一発でコレを完成させたってハナシだ! だったら、オレらにできないハズがねぇ!」と恭路は滅茶苦茶な論法を叩き付けた。

 だが、少年強盗団のようの群れることなく喧嘩殺法と『聖剣エクセルシス』だけを頼りにで戦ってきた人間は他者との連携など想像したこともない。故郷ペルーにて岳と共に日系ギャング『ざるだん』から取り囲まれた折にも背中こそ預けはしたが、迎撃そのものは彼とは全く連動させていなかった。

 それ故に双方の動作うごきを寸分違わずに合致させることが求められる技などは口頭の打ち合わせのみで成功させられるはずもないと試みる前から諦めているのだった。

 ましてや恭路の力量ちからを把握しているキリサメにはゾク車の性能スペックに頼ろうとも突撃が命中するとは考えられない。退くことを知らずに標的へ喰らい付く性格を利用すれば囮くらいには使えるだろう――と、心の中では冷徹に突き放しているくらいなのだ。

 自分に対する信頼度が随分と低く見積もられていることなど想像もしていない恭路は、開戦に向けて全身の血潮を燃えたぎらせていた。


「派手にブチかまそうぜ、アマカザリィッ!」


 慌てふためく女性シンガーと同じように大して広くもない空間へ轟いた〝龍の嘶き〟に驚き、何事かと振り返った人々の視線を巻き込みながら『ガンドラグーンゼロしき』が工事用フェンスを突き破った。朝来乃つむぎが劇中にいて「ひまわりお姉様」と慕う女子高生のキャラクターが描かれているを粉砕したのである。

 銀の甲冑を纏い、巨大な輪状の武器を頭上に構えた勇ましいイラストは見るも無残に引き裂かれ、残骸としてあちこちに飛び散った。

 その先に瀬古谷寅之助が立っていた。砂埃と共に降り注ぐ細かな破片を涼しげに避ける青年の顔をキリサメは間近に捉えたのだ。

 井の頭恩賜公園で初めて挨拶を交わした日とは似ても似つかないデザインのブレザーに身を包んでいたが、右肩に担いだ帆布製の竹刀袋は同じである。

 地に伏せる虎の刺繍が施された物だ。その内側には剣道で用いる竹刀が納められているのだろう。青年海外協力隊が故郷ペルーに伝えた柔道くらいしか日本の武道を目にしたことはなかったが、知識のみならば現代の剣士が握る得物は聞いたおぼえがあるのだった。


「……寅之助……ッ!」


 ほんの半日前までは日本で新たに絆を結んだ相手と信じて疑わなかった青年だ。共通の〝友人〟である電知と共にこれからも付き合っていくことになるだろうと思っていた。

 しかし、今は違う。もはや、数時間前とは何もかもが異なっている。断じて許してはおけない〝敵〟と――生きていてはいけない存在と見なしている。

 全身の骨を砕いても光を奪っても、未稲を傷付けた罪があがなえるわけではないが、裏切りの代償をその身に刻まなければ四肢を満たす獰悪な衝動は鎮まるまい。

 理性というものを持ち得ないような人間をいっときでも友として信用してしまった自分自身がキリサメには何よりも許せなかった。電知の紹介があったとはいえ、為人ひととなりを確かめたわけでもない相手に気を許してしまうなど故郷ペルーでは命取りであったのだ。


「未稲のヤツ、どこにも居ねぇぞ、オイ⁉ どうなってんだ、こりゃ!」

「……馴れ馴れしく呼び捨てにするなって言っただろう……」

「幽閉パターンだな⁉ 未稲をどこに隠したか、力ずくで吐かせるしかねぇぜ!」


 相変わらず会話が噛み合わない二人のもってしても寅之助の周辺まわりに未稲の姿を捉えることはできなかった。それどころか、『デザート・フォックス』とおぼしき人影すら見受けられない。

 グリム童話の髪長姫ラプンツェルの如く人の気配を感じられないビルの内部に囚われ、共犯者デザート・フォックスはその見張りにでも付いているのだろうか――いずれにしても先に寅之助を退ける以外の選択肢はなさそうである。


「見さらせ、推定四〇年モノの直伝奥義ッ! その名もクロスクラッシュッ!」


 何をもって『推定四〇年モノ』と称したのか、キリサメには全く分からなかったが、扉の類が設置されていないビルの正面玄関までこだまするほど大きな吼え声と共に合体技クロスクラッシュが開始された。

 全速全開フルスロットルで突撃する最中に恭路は『ガンドラグーンゼロしき』の前輪を持ち上げ、車体が傾くや否や、キリサメは『聖剣エクセルシス』を担いでシートに屹立し、次いで〝龍の尾〟とでもたとえるべき大きな背もたれバックレストを蹴って秋葉原の空へと跳ね飛んでいく。


秋葉原アキバへようこそ、サメちゃん。肝心なときには焦らさず速攻だなんてキミってば本物のテクニシャンだね」

「瀬古谷……寅之助ェッ!」


 半ばまで閉じたまぶたの向こうで禍々しく歪んだ瞳は、必ず仕留めなくてはならない標的をその中央に映している。

 跳躍の頂点から餓えた猛禽類の如く急降下したキリサメはゾク車に轢き殺される寸前で身をかわした寅之助目掛けて追撃の『聖剣エクセルシス』を振り落とした。

 『ざるだん』の属するギャングのように大勢で取り囲むくらいしか能がない半端者であれば『ガンドラグーンゼロしき』に撥ねられるか、圧し掛かってくる前輪の下敷きにされたことだろう。仮に回避できたとしても二段構えの攻撃までは読み切れず、禍々しい刃で脳天を打ち砕かれたに違いない。

 即ち、寅之助が相手では通用しないということである。『クロスクラッシュ』の術理を一目で見破り、恭路とキリサメが如何にして連携するのかを双眸でもって抜かりなく追い掛けていた。

 くだんの合体技について恭路は「隙が生じない二段構えだけに破れる者は絶無」などと豪語していたが、結局はキリサメが予想した通りの筋運びというわけだ。

 自分を仕留め損ねてビルの内部に進入していくゾク車のエンジン音を背中で聞きつつ、寅之助は縦一文字に閃く斬撃をたった一振りの竹刀でもって受け止めた。長細い袋の中に納めたままで『聖剣エクセルシス』を凌いだのである。

 正確には竹刀で『聖剣エクセルシス』を「受け止めた」のではない。互いの刃を交える構図から傍目には寅之助が巧みな防御を披露したように見えたであろうが、縦一文字を振り落とした直後の四肢に強烈な違和感を覚えたからこそキリサメは続けて畳み掛けようとはせず、着地と同時に後方へと飛び退ったのだ。


「警察にも知らせないようお願いしておいたのにガン無視で加勢を呼ぶんだもん。さすがに驚いたよ。サメちゃんってば意外と大胆だねぇ。……本気でボクを殺しに来てくれたんだねぇ。嬉しいなぁ、ありがとうっ」


 自分の出方を窺うべく間合いを取ったキリサメに対し、寅之助は厭味なくらい溌溂とした笑顔を向けている。

 邂逅の場所を一方的に指定してきた忌まわしい電話と同じように呼吸のたび他者ひとの神経を逆撫でする青年だが、当のキリサメは挑発的な物言いへ怒声を交えて言い返すことができなかった。

 未稲救出に向けて足踏みなど許されない状況にも関わらず、たった一度、斬り合っただけで攻めあぐみ、接近さえままならなくなった事実は誤魔化しようがないのだ。


「……今のがもりとらの技……なのか? 『タイガー・モリ』と呼ばれた剣士の――」


 キリサメがただそうとしたのは刃を交えた直後に全身を駆け抜けた違和感のことである。

 寅之助は余人が勘付かないほど小さな動作うごきで竹刀を振るい、『聖剣エクセルシス』による斬撃を「受け流していた」のだ。少なくともキリサメにはそのようにしか思えなかった。

 地に伏せていた虎が大きく伸び上がりつつ前足を繰り出したかのような恰好である。その爪にノコギリ状の刃が掴まれるや否や、全体重を掛けて押し潰そうと試みた力の作用があらぬ方向へ引っ張られてしまった。

 己の手で回転させていたはずの歯車が知らない間に別の歯車と噛み合い、想定外の動作うごきに切り替わった――たとえ方は様々であるが、何よりキリサメをおののかせたのは『聖剣エクセルシス』の刀身へ漲らせていた破壊の力が持ち主の意思を離れて打ち消されたという事実であった。

 それはキリサメが生まれて初めて味わう感覚であった。強いて挙げるなら電知の投げ技を受けた瞬間に近いのかも知れない。技の拍子を崩されたというよりも〝力〟を働かせる為に欠かせない軸そのものが引っこ抜かれたようなものである。


「こんなのは森寅雄――『タイガー・モリ』の技には入らないよ」


 如何なるときであろうと伝説の剣士に対する尊崇の念は忘れないのだろう。井の頭恩賜公園にて初めて会った日と同じようにキリサメが森寅雄タイガー・モリの名を口にした瞬間、寅之助は天に向かって恭しくこうべを垂れた。己がその名を語るときも同様である。


「序ノ口どころか、小手調べにもなっていないさ。原理だって単純だし、コレくらいは小学生にもできるよ」

「……僕はお前の教え子より遥かに弱いってことか……」

「別に全国津々浦々老若男女の剣道家全員がやれるワケじゃないよ。サメちゃんの得物それ、見た目よりもずっと重いでしょ? 腕の立つ先生でもなきゃ受けた拍子に手首から肘まで一気にかもね。肩だって脱臼程度じゃ済まないだろうし」

「だが、お前の得物それは砕けなかった。……硬いような感覚も伝わってこなかったのに」

「ボクにも道場の跡取り息子としてのメンツがあるしね。自分で挑発しといて一撃死なんて間抜けなオチは許して貰えないんだよ」

「知るか。……お前の立場など知ったことかっ!」


 おどけた調子の物言いで誤魔化されそうになってしまったが、『聖剣エクセルシス』による斬撃を綺麗に受け流した技巧わざ森寅雄タイガー・モリの系譜上に位置する秘伝ということではないようだ。

 だからこそ、キリサメは無鉄砲に攻め掛かることができない。自分と同じ捌き方は生半可な剣道家には難しいと言いながら、箸の上げ下げか何かのように禍々しい刃の重量おもみを打ち消してしまったのである。

 長野で路上戦ストリートファイトを繰り広げた電知は、今、生きているのが不思議なほどの強敵であった。目の前の青年は幼馴染みの少年に勝るとも劣らないだれであろう。かつて故郷ペルーで戦い、苦戦を強いられた者たち――『七月の動乱』のなかに遭遇した殺し屋デラシネや、同地の反政府組織に雇われていたニット帽の日本人傭兵にも地力では負けていないはずだ。

 開戦のともたとえるべき最初の攻防にいてキリサメに刻み込まれたのは戦慄という名の確信である。それは寅之助の力量ちからと同じ意味を持つのであった。


「いやぁ、スゴいよ。背中にイヤな汗が流れるのは久々だもん。電ちゃんや照ちゃんも同じ恐怖モノを味わわされたのかな。でも、長野のときは鉄パイプを握ったっていうし、ホントの得物を見るのはボクのほうが先か。抜け駆けしちゃって電ちゃんには申し訳ないなぁ」


 一方の寅之助もキリサメのことを自分より劣ると貶めはしない。見下すどころか、彼の膂力に恐怖したと素直に讃えるくらいだ。

 尤も、帆布ぬのの上から右の人差し指で竹刀を撫でつつ満ち足りた表情を浮かべているので如何なる言葉もキリサメには皮肉としか感じられない。最初の斬り合いで両手に感じた衝撃を振り返り、感嘆の溜め息を零したのだが、それもまた正反対の挑発として受け止めている。分厚い麻袋の内側から軋み音が聞こえるほど『聖剣エクセルシス』のツカを握る力も強くなっていった。


「参ったなぁ。照ちゃんに浮気は程々にしろって注意されたばっかりだっていうのに、このままだとサメちゃんにも本気になっちゃいそうで怖いよ。テクニシャンな上に罪作りなんだね。そういうトコ、電ちゃんに似てるかも」

「……何の話をしている?」

「サメちゃんにますます興味が湧いたっていう意味さ。キミ、本当に闘い慣れてるねぇ。素人同士のケンカしか知らないクセして思い上がった自称腕自慢はちょっとからかっただけで考えナシに突っ込んでくるけど、サメちゃんは冷静で慎重だ。ボクのことを確実に叩き潰す作戦を頭の中で捏ね繰ってるんだろう?」

「当たり前だ。お前も共犯者も逃がすつもりはない」

「そこら辺は電ちゃんと違うね。あのコは自分で状況を作り出すタイプだし、サメちゃんみたいに立ち止まったら息継ぎもできなくて窒息死しちゃうよ」

「電知とナポレオン皇帝を一緒にする意味が分からない。あいつならどんな冬将軍が相手でも後退しないで突っ込み、全力でブチ破るハズだ。古い付き合いのお前にどうして分からないんだよ」

「おぉ~? サメちゃんってば思ったより知性派インテリなんだね。元ネタを言い当てられるとは思ってなかったな」

「……母の教育しつけが良かったんだ。それだけだ」


 対峙の直後から纏わりつく眼差しにキリサメは心の底から辟易していた。寅之助は一挙手一投足を凝視するどころか、言葉として紡いだわけでもない小さな吐息まで聞き漏らすまいと耳を澄ましている様子なのだ。

 自分が珍獣か何かのように観察されていることを悟ったキリサメは、通話中に繰り返された悪辣な挑発行為が顔の見えない相手から過剰な反応を引き出す為の策であって、本心は別のところにるのではないかと疑い始めていた。

 いちいち電知と結び付けられることさえ除けば、対峙してからの受け答えは理論立っていて真っ当に近いのである。

 今し方の称賛も皮肉や揶揄ではなく言葉通りに受け取らなくてはいけなかったのかも知れない――ようやく寅之助の気持ちが伝わった次第であるが、当のキリサメは何も嬉しくない。斬り伏せなければならない〝敵〟の手強さがただただ気鬱であった。

 未稲が人質に取られた本当の理由も依然として掴めていない。寅之助も電知の名前だけは何度となく挙げているが、肝心の未稲については存在すら忘れてしまったように全く言及しないのである。彼女を救うべく秋葉原まで駆け付けたキリサメにとって、これほど腹立たしいことはあるまい。


「慎重過ぎて大事なことをド忘れしていそうだけどね。こうしてお喋りしている間に『デザート・フォックス』さんは未稲ちゃんお楽しみだよ? 延長戦までイッちゃってもボクは責任取らないからね」

「忘れているわけないだろう。……二人まとめて子孫を残せない股にしてやるからそのつもりでいろ」

「過激なことを吼えるくらいキレながら暴発はしないんだもんねぇ。良いよ、実に良い。そう来なくっちゃ。電ちゃんと互角に渡り合うんだから、せめてそれくらい図太くあって欲しかったよ。期待に応えてくれて嬉しいなぁ」


 人質が忘れ去られる事態を危惧した矢先に焦燥を煽るような挑発を浴びせる辺り、本当に底意地が悪い。キリサメの苛立ちを見透かした寅之助は通話時と同じように最も精神的な動揺が与えられる言葉を選んでいるわけだ。

 手のひらの上で転がされているような錯覚に陥ったキリサメは自分のほうから寅之助の心を覗き込み、真意を推し量ることがいよいよ億劫になってしまった。爽やかな笑顔の裏にドス黒い精神を隠し持ったこの青年は、憔悴する者を弄ぶ言葉を何通りも用意しているはずだ。

 もはや、キリサメは寅之助との問答そのものに嫌気が差しているのだった。


「でも、電ちゃんが現在いまのサメちゃんを見たらシブい顔しそうだよ。何があっても平常心を保ち続けるメンタルコントロールは〝プロ〟のMMA選手に必須だけど、それって思い切りが足りないコトと表裏一体だからねぇ。もっと必死にならなきゃキミのその手は愛しの未稲ちゃんまで届かないよ? 電ちゃんなら『ビビり入ってんじゃねぇ』ってハッパ掛けると思うなぁ」


 長い時間を共有していればこそ特徴を掴めたのであろうが、寅之助が披露した幼馴染みの声真似は薄気味悪く感じてしまうほど良く似ていた。細かな息遣いに至るまで本人による発声と間違えてしまうくらい完璧に再現してみせたのである。


「さっきからいちいち何なんだ。どうして電知の話を持ち出す? ……無関係なアイツまで巻き込むのはやめろっ」


 寅之助は口を開く度に必ず共通の〝友人〟の話題を持ち出すのだが、それもまたキリサメの癪に障った。自分たちが対峙するのはどうしようもなくおぞましい事件の只中である。罪悪の気配が垂れ込める場にて読み上げられると、『空閑電知』という名までけがされたように思えてくるのだ。

 むしろ、平気な顔で「電ちゃん」と連呼できる寅之助の思考あたまが信じられなかった。

 今度の一件は遠からず電知の耳に入るだろう。あるいは湘南からすがだいら高原まで恭路の身柄を引き取りにやって来たじょうわたマッチの如く幼馴染みに折檻を加えるかも知れない。電知が身内とも呼ぶべき人間の悪事を捨て置くとは考えられないのである。

 暴力性の顕現あらわれたる『聖剣エクセルシス』から生き延びようとも結局は破滅しか待ち受けていないはずの寅之助は己の行く末など想像すらしていないのか、電知の名誉をけがさせまいと咎めるような眼差しをぶつけてくるキリサメに対して、何故だか嬉しそうに目を細めていた。


「無関係? ボクなりにヒントのつもりだったんだけど、まだ気付いて貰えないんだね。それとも、頭では理解わかっていながら信じたくないって感じかな? ……ボクをけしかけた真の首謀者が電ちゃんだってさ」

「……だから電知の話を持ち出すなって……」

「ちょっと知恵を働かせれば分かるでしょ。サメちゃん、自分がやったコトを理解できてないのかい? 電ちゃんもろとも『E・Gイラプション・ゲーム』のメンツを潰したんだよ。『天叢雲アメノムラクモ』とはキミが日本に来る前からずーっといがみ合っているんだよ? 電ちゃんや照ちゃんが長野で誰を狙ってたか、想い出してみなよ。報復に出る以上はなりふり構わず――」

「――悪いが、冗談に付き合うつもりはない。……電知に大嘘の片棒を担がせるな」


 この状況へ不似合いなほど親しみを込めた眼差しとは裏腹に芝居がかった調子で眼前の少年をせせら笑い、何やら真相めいたことを仄めかす寅之助であったが、当のキリサメは万が一にも有り得ないとを切り捨てた。迷いを差し挟まないどころか、寅之助の声を遮ったほどである。


「あれ~? まさかの一発バレ?」

「確かに電知はメチャクチャなところもある。でも、勝負は正々堂々と真っ向から挑んでくるヤツだ。回りくどいことができるほど器用じゃないし、闘うと決めたら、自分自身の力で闘う――それが僕の知っている空閑電知だ」


 寅之助の嘘を見破った根拠は単純明快である。キリサメによって地下格闘技アンダーグラウンドとしての名誉を傷付けられた『E・Gイラプション・ゲーム』が報復を仕掛けたといえば尤もらしく聞こえるだろうが、電知の性格上、所属団体の暴挙を逆に食い止めるはずなのだ。

 少なくとも刺客を放って高みの見物を決め込む姿などキリサメには想像すらできない。


「表立って騒ぎを起こすと警察沙汰になり兼ねないから幼馴染みのボクに意趣返しを依頼してきた――っていう筋書きは語らせて欲しかったなぁ。人間、一度は殺し屋っぽい台詞に憧れるっしょ」

「長野の合宿上では寝起きも共にしていたんだぞ? 本気で報復を企んでいるのなら幾らでも寝首を掻くチャンスがあったはずじゃないか。僕が五体満足でお前と向き合っていることが一番の証拠だ」

「今の話を電ちゃんが聞いたら泣いて喜ぶと思うよ。妬けちゃうな~。ホント、キミたちの仲の良さには嫉妬せざるを得ないよ」

「いい加減にしろ。雑談する為にここまで来たんじゃない。……というか、今ので騙せると本気で考えていたのなら僕のことをバカにし過ぎだろ」

「うん、合格っ! サメちゃんのことを『空閑電知地獄車同盟』の一員として認めよう。ちなみに終身名誉会長はボクだから、そこのところ、よろしくね!」

「……話が噛み合わないヤツばっかりだな、日本は……ッ!」


 誤った情報を吹き込もうとして失敗した恰好であるが、寅之助当人は全く悪びれず、甘い顔には狼狽の色など僅かとて浮かんでいない。むしろ、キリサメに看破されることを期待していたかのような反応を見せたのだ。

 キリサメのほうが逆に戸惑い、ほんの一瞬ながら呆けたように口を開け広げるくらいであった。


「みーちゃんを返せ。……いや、それよりもどうしてみーちゃんを狙ったんだ……ッ?」

「足手まといから先に潰すのが闘いの定石――って返答こたえじゃキミは満足しないよね」


 キリサメの追及を聞き流しつつ竹刀を左脇に挟み、次いでブレザーの内ポケットから一枚の布切れを引っ張り出した寅之助は、これを右の太腿に巻いていく。

 見ているだけで目が痛くなるほどの光沢を放つパッションピンクのバンダナであった。


「さっきのは口から出任せだったけど、報復そのものは嘘じゃないよ? サメちゃんへの恨みをボクが代行するっていうところもね」

「……僕の話なんか聞く耳を持たないらしいな。名誉会長を名乗っておきながら意地でも電知を悪者に仕立て上げるつもりかよ。……あいつが聞いたらショックで寝込むぞ」

「違う違う。電ちゃんでも『E・Gイラプション・ゲーム』でもなくて、別の利権絡みが――」

「――てめぇ、『桃色ラビッシュ』の構成員メンバーかよッ⁉」


 蛍光色のピンクが厭でも目を引くものの、バンダナを太腿に着けることにどのような意味があるのか、キリサメには全く分からない。極めて難解な試験問題へ直面した学生のように眉根を寄せるキリサメに代わって強い反応を示したのは、ドアが設置されていない正面玄関から飛び出してきた恭路である。

 眼前の寅之助へと意識を集中させていた為に今まで気付かなかったが、三半規管まで揺さぶるほど大きなエンジン音も何時の間にやら聞こえなくなっていた。どうやら商業ビルの内部に『ガンドラグーンゼロしき』を停めてきたようだ。

 『げき』のステッカーが貼り付けられたヘルメットもゾク車のハンドルへと引っ掛けており、真鍮色に煌めく拳具ナックルダスターを右手に、左手に腰のベルトループから引き抜いたチェーンを左手にそれぞれ握り締めて臨戦態勢を整えている。

 挟撃を図るべくして寅之助の背後へと回り込んだ直後に素っ頓狂な声を張り上げた次第である。振り返った寅之助の顔とパッションピンクのバンダナを交互に見比べていたが、彼の双眸が驚愕に見開かれる理由すらキリサメには思い当たらなかった。

 恭路は言葉を失う間際に『桃色ラビッシュ』と、何らかの集団を指すものとおぼしき名称なまえを口走っている。それが寅之助の〝正体〟に迫る手掛かりであることは左の人差し指と中指を打ち鳴らし、口笛まで披露するという本人の反応リアクションからして間違いないだろう。

 正解と示すかのように恭路へと左の人差し指を突き出した寅之助は、頭頂あたまのてっぺんから爪先あしのさきまで彼の全身に幾度か視線を往復させ、次いで何事か納得したように首を頷かせていた。

 秋葉原の路上でアコースティックギターを爪弾いていた女性シンガーから露出狂の如く扱われてしまった奇抜な服装に見おぼえがあったらしく、寅之助は「改造イジッてあるからパッと見で分かんなかったけど、それって島津十寺工業高校シマコーにの制服だよね」と、恭路が籍を置く高校を言い当てた。

 寅之助が指差しているのは〝短ラン〟に取り付けられた金ボタンである。表面には十文字を模る意匠が施されているのだが、これこそしまじゅうこうぎょうこうこうの校章なのだ。


島津十寺工業高校シマコー生徒モンだと気付いて急にビビッたんか? 相手見て喧嘩売るようなクソだせー真似すんじゃねぇぞ、お坊ちゃんよォ。現在いまはガッコなんざ関係ねぇ。暴走族ゾクのバイク乗りでもねぇ。正義の味方として腐れ外道をブチのめしてやろうってんだ! 御剣恭路――天下御免の名前を閻魔大王への手土産にしろやッ!」

「時代劇の前口上みたいな自己紹介どーも。どこかで見おぼえのある顔だなァって思ったんだけど、やっぱり城渡さんのお仲間なんだね。暴走族風に言うなら舎弟かな? 電ちゃんに付き合って『天叢雲アメノムラクモ』の試合をテレビで観たとき、キミも画面に映り込んでいたよ」


 個性的な色合いの頭髪が記憶へ刻まれたとも言い添えた寅之助にキリサメは我知らず頷いてしまった。何しろ額の剃り込みが鋭角な金髪のパンチパーマである。一度でも目にすれば厭でも忘れられまい。


「おうとも! 湘南最強『武運崩龍ブラックホール』の親衛隊長とはオレのことだぜ!」

「ていうか、サメちゃんもさぁ、対戦相手と仲良くし過ぎると試合に支障を来すんじゃないの? 電ちゃんだって地下格闘技アンダーグラウンドの試合前は距離取って戦意きもちを高めてるんだよ? 試合前から相手とズブズブだと八百長疑われちゃうよ?」

「……別に仲が良いってワケじゃないが……」

「そーゆー返答こたえは傷付くだろがッ! ……『桃色ラビッシュ』の構成員メンバーが『天叢雲アメノムラクモ』の選手相手に八百長云々で説教するんざ滑稽シュールなギャグにしか聞こえねーぜ。そうだろ、アマカザリ?」

「僕に同意を求められても……。まず第一に桃色ナントカっていうのも何が何だか分からないんだよ」

「世間知らずにも程があるだろ! ……『カラーギャング』っつってな、平たく言えば中野界隈を根城にする指定暴力団ヤクザの手下なんだよ。ウワサ程度にしか聞いたコトもねーが、中野で興行イベントをやるやらねぇっつうときに『E・Gイラプション・ゲーム』とモメたんじゃなかったか?」

「威張り腐って難癖イチャモンつけた挙げ句、みっともなく返り討ちに遭ったけどね。ご覧の通り、今じゃメンバーまとめて『E・Gイラプション・ゲーム』の子分パシリってワケさ。ボクは電ちゃんから顎で使われるのが愉しいけど、周りの皆サマはご不満みたいだよ」

「だろうな。背後バックにいるヤツらを笠に着て調子こいてるクソガキどもが手前ェに恥をかかせてくれた相手に媚びへつらうなんて、できっこねェわな」

「リーダーなんて改造銃で電ちゃんの写真を何度も何度も何度も蜂の巣にしているみたいだよ。ちょっと前まで警察だって避けて通ってたカラーギャングが今じゃ東京中の笑い物だもんね。電ちゃんのことは幾ら恨んでも足りないんじゃないかな」


 寅之助と恭路の間で飛び交う言葉を漏らさず聞き取ってもキリサメには中野を本拠とする『桃色ラビッシュ』ひいてはカラーギャングという存在が半分も理解できなかった。

 せいぜい無法者アウトローの集まりであろうと察せられた程度であろうか。故郷ペルーでも似たようなグループが幾つも結成されており、日系ギャングの一味は自分たちが持つ肌の色を意識して『ざるだん』と称し、これによって連帯感を高めていたのである。

 徒党を組む者たちにとって何よりも大切なのは同族あるいは仲間意識なのだ。『桃色ラビッシュ』は揃いのバンダナを身に着けることによって窮地に陥ったときには背中を預け合えるような連帯感を高めているのだろう。

 皆で分かち合えるモノによって団結を図るという点ではロゴマークが刷り込まれた品々を用いる『E・Gイラプション・ゲーム』にも同じような側面があるはずだが、地下格闘技アンダーグラウンドとカラーギャングを一緒くたにしようものなら激怒した電知から胸倉を掴まれてしまうだろう。

 現時点では把握できていないことのほうが遥かに多いのだが、中野の興行イベント開催を巡って地下格闘技アンダーグラウンドとカラーギャングが抗争状態となり、直接対決の場にいて電知が相手側を完膚なきまでに叩きのめしたらしい――そこまでは予備知識のない人間キリサメにも理解できた。恭路の説明が中途半端であった為、それしか拾い上げられる情報がなかったというべきかも知れない。

 いずれにせよ、集団グループの名称にちなんだ蛍光色の布切れを太腿に巻いている寅之助が『桃色ラビッシュ』の構成員メンバーであることだけは間違いあるまい。そして、それ自体が正式な宣戦布告にも等しいのだとキリサメは受け止めている。


「アマカザリよォ、お前、このお坊ちゃんとダチなんだよな?」

「友人と思っていたのは僕だけだったし、もうそんな間柄じゃない」

「勝手に過去形にしないでよ。サメちゃんとボクはどっちかが先に死んだって、ずっと友達だからね? 今さっきもステキな同盟を結んだばっかりじゃないの」

「どの口が言うのかっ!」

「今とか昔とか、ンなのは小せェコトだ。関わり合いになっちまったつう事実がやべェんだろうが。……つーか、八雲のおっさんは寅之助コイツとの付き合いを知ってんのか? 『桃色ラビッシュ』の背後バックにゃ『こうりゅうかい』がいるんだぜ。『天叢雲アメノムラクモ』にとっちゃ取り返しがつかねェレベルの致命傷だろ」


 『こうりゅうかい』――と、これまで誰も口にしていなかった名称なまえを恭路が新たに挙げた瞬間、またも寅之助が口笛を吹き、これに合わせて左の二指を打ち鳴らした。


「さすがは暴走族、反社会勢力の事情にも詳しいね。リーダーにも聞いた憶えがないんだけど、実は城渡さんのチームも『こうりゅうかい』の傘下だったりして? だとしたら厄介だね。この世界、同士討ちはご法度だもん」


「確かに指定暴力団ヤクザ手下パシリになるチームもあるけどな! オレたち、『武運崩龍ブラックホール』は純粋に〝走り〟を愛してんだ! 誰にも支配されずにな! てめーらみてェに長い物に巻かれて調子に乗るクソッたれとは気合いが違うんだよッ!」


 暴走族と反社会組織を同じように括られたことが相当に腹立たしかったのであろう。左手で握ったチェーンを怒りに任せて地面へと叩き付けた恭路は狐目を更に吊り上げた。


「オレたちは指定暴力団ヤクザとは一切関わらねぇ! つか、山梨から関東へ攻めのぼった『こうりゅうかい』と湘南のチームとじゃカチ合いようもねぇだろが! ……オレのクソ親父がちょっとばかり『こうりゅうかい』と繋がりがあるってだけで総長は関係ねぇんだ」

「へぇ? 奇縁ってのはあるモンだね。何だか親しみが湧いてきちゃったよ。これからキミのこと、恭ちゃんって呼ばせてもらうね」

「張り倒すぞ、てめー! よりにもよってクソ親父と同じあだ名じゃねーかッ!」


 一際大きな怒鳴り声を迸らせる恭路だが、愛称が気に喰わなくて苛立ったわけではなさそうだ。

 くだん指定暴力団ヤクザと実父との繋がりを仄めかす声は明らかに動揺していた。

 ほんの少し知っているだけと述べてはいたものの、山梨という根拠地まで挙げるからには組織の内情まで把握しているのだろう。穏やかならざる態度が『こうりゅうかい』との因縁を想像させるのだった。


「……さっきから気になってんだけどよォ、どうしてアマカザリは無反応ノーリアクションなんだよ⁉ これからデビュー戦っつってもお前だって『天叢雲アメノムラクモ』の選手だろが! 『こうりゅうかい』の名前を他人事みてーに聞いてる場合かッ⁉」


 事件の当事者にも関わらず、半ば置いてきぼりと化してしまったキリサメに目を転じた恭路が「ボーッとしてねぇでちったァ驚けよ!」と理不尽な要求を喚き始めたのは、手持ち無沙汰になって『聖剣エクセルシス』を右肩に担ぎ直した直後のことである。


「……今のは僕にも関係のある話だったのか……」


 初めて日本の大地を踏んだ豪雪の日にしん宿じゅくぎょえんの近くで岳からくだんの名称を聞いたことなどキリサメは完全に忘れてしまっている。最初から記憶に留めるつもりがなかったというべきであろう。

 その指定暴力団ヤクザについて岳は新宿御苑で凄惨な同士討ちを演じたとも語っている。


「八雲のおっさんからマジで教わってねーのかよ⁉ 『こうりゅうかい』っつうのは『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体を解散に追い込んだ連中なんだぜ! 言っちまえば日本MMA界のカタキってなもんだ!」


 恭路曰く――『こうりゅうかい』とは関東を中心に大勢力を誇る指定暴力団ヤクザであるという。当代随一の武闘派を自負し、敵対組織と血みどろの抗争に明け暮れているそうだ。警視庁公安部どころか、海外の警察機関にまで危険視されるほど激烈な体質とも彼は付け加えた。


「横浜港の付近をシメてるっつう暗黒街の首領ドンとも縄張り争いをしてるってよ。そこにアジア系マフィアも加わってかなりヤバいことになってるらしいぜ。……ただでさえヒリついてる中で裏切り者なんか見つけた日には『こうりゅうかい』は絶対に容赦しねぇだろうよ。我流プロレスのおっかねぇ人から喉輪落としでも喰らわされてよォ、生きたまま魚のエサにされるんじゃねーか」

「そいつら、港湾労働者を抱え込んで密輸品でもやり取りしてるのか……」

「てめー、アマカザリ……肝心なコトは知らねークセしてヤクザな話には鋭いたァ、どういう了見なんだよ、オラッ!」

「どこの国でも犯罪が海の向こうからやって来るのは同じという意味だ。……ペルーの港町でも似たようなことが横行していたんだ」

「サメちゃん、ポエムの才能もあるんじゃない? 犯罪は海の向こうからやって来るって言い回し、映画のキャッチコピーにも使えそうだよ」


 『こうりゅうかい』の裏切り者とやらに言及した際、恭路は知り合いを披露するかの如く妙に具体的なイメージを並べていたが、それから間もなく忌まわしそうにかぶりを振り、自らが話したことを打ち消すかのようにくだん指定暴力団ヤクザが『桃色ラビッシュ』の後ろ盾になっている旨を語り始めた。

 非行少年によって構成されるカラーギャングが指定暴力団ヤクザの手下として働くことは珍しくもないそうで、電話を利用して高齢者を狙う特殊詐欺やドラッグの密売による資金調達などを下請け企業のように任されているという。


「恭ちゃんの言い回しも精一杯、カッコ良いのを捻り出した感じでボクは好きだな。日本MMA界のカタキ――努力の形跡が滲んでいて特別賞を贈呈したくなっちゃうよ」

「だから、その呼び方はやめやがれ!」

前身団体バイオスピリッツで『こうりゅうかい』絡みのトトカルチョが発覚したのって何年前だっけ? 二〇一〇年代には入ってなかったハズだよね」

「ちょっと待て。それじゃ何か? 岳氏たちは社会に反するマズい組織と通じ合っていたというのか? 賭博トトカルチョなんて観客席で勝手に始められるようなものじゃないだろ」

「ようやく事態の深刻さが伝わってきたみてーだな。遅ェんだよ、バカが!」

「そうはいってもプロスポーツの世界には、この程度の胡散臭い話は腐るほど転がっているし、サメちゃんだって別に驚きもしないでしょ? 欧州ヨーロッパの〝スポーツマフィア〟なんかはもっとえげつないって聞くしね」


 恭路の説明を引き継ぐ形で寅之助が語った内容によれば、『天叢雲アメノムラクモ』の直接的な前身である日本のMMA団体――『バイオスピリッツ』には反社会組織が根の深い部分まで入り込んでいたそうである。

 一九九〇年代半ばの旗揚げ以来、日本中に空前のブームを巻き起こしながらも二〇〇〇年代半ばにはテレビでの放送すら打ち切りとなり、一つの文化としての役割を終えたかに思われた日本MMAは短いとは言い難い空白期間を経て『天叢雲アメノムラクモ』として甦った――今まで岳が語ってきたのは不屈の精神によって成し遂げられた復活劇の栄光のみであった。

 それは一側面に過ぎず、またキリサメ自身もMMAに対する興味が薄い為、こんにちまで栄光の影にあったモノを暴き出そうとは考えもしなかった。前身団体バイオスピリッツの解散理由についても人気の低迷とだけ吹き込まれてきたが、それが最も納得できたので詮索の必要性すら感じなかったのである。

 今の自分と同じくらいの年齢で初陣を飾り、『最年少選手』と喧伝された総合格闘家の存在など興味を引くような話を並べておきながら前身団体バイオスピリッツの解散と空白期間に至る経緯で日本MMA界に如何なる事態が発生したのか――具体的なことは麦泉でさえ話してくれなかったとキリサメは気付いてしまったのだ。

 恭路と寅之助の言葉を合わせて分析するならば、『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体が消滅まで追い込まれたのはコンテンツとしての値打ちがなくなったということではなく、指定暴力団ヤクザとの関わりが直接的な引き金になったとしか思えないのである。

 『ヤクザ』という言葉が何を意味するのか、キリサメも亡き母から教えられている。反社会的勢力を招き入れるような興行イベントなど公共の電波で放送できるはずがあるまい。

 現代の格闘技も決して〝綺麗な世界〟ではないという今福ナオリの言葉がキリサメの脳裏を過った。


「もしかして、キミってば暴力団関係者だったりする? 『天叢雲アメノムラクモ』首脳陣には〝そっち系〟の黒いウワサもあったよね? それはそれでお姉さん、困っちゃうかも。この業界、〝そっち系〟との接触は命取りだからねぇ」


 電知と初めて拳を交えた際、その場に居合わせた希更はキリサメの上半身に刻まれている銃創を目にして『天叢雲アメノムラクモ』首脳陣の不穏な風聞うわさに触れていた。そのときには意味が分からずに聞き流したのだが、彼女は目の前の二人と同じことを言いたかったのだろう。

 契約選手としては『天叢雲アメノムラクモ』運営スタッフの良心を信じるしかないが、かつて故郷ペルーの反政府組織に大切な存在ものを奪われた経験があるキリサメにとって同種の影が日本MMAのリングにも差し込んでいる事実は心穏やかに聴けるものではない。


(余計なことなんて考えるな……MMAなんてもう関係ない……今となっては戦う理由はただ一つだろう……そうでなければ、みーちゃんまで喪失うしなってしまうのだから……ッ!)


 見下ろしたが驚くほど脆いことを二人の言葉から意識させられたキリサメは、今、この瞬間に為さねばならないことを再び己に言い聞かせ、高く翳すように『聖剣エクセルシス』を構え直した。


「何を隠そう『こうりゅうかい』直々のお達しでね。折角の新しい稼ぎ場を台無しにしてくれたキリサメ・アマカザリに社会の厳しさを教えてやれ――って〝上〟からご指名を貰ったってワケさ。ボクはほら、電ちゃんと幼馴染みだし、共通の友人としてサメちゃんにも接近し易いって判断だろうね」


 寅之助が語った〝上〟とは『こうりゅうかい』なる反社会組織の幹部を指しているのだろう。


「まさか、てめー、最初ハナから罠にハメるつもりでアマカザリに近付いたってか⁉」

「井の頭公園で落ち合ったのは本当に偶然だけどね。段取りも何もできていない頃だったからちょっぴり焦っちゃったよ。お陰様で電ちゃんを通じて近付くっていう一手間が省けたんだし、結果オーライってトコかな」

「とことんの悪党じゃねぇか、この野郎! お前みてェなクズは生まれて初めてだぜ!」

「恭ちゃん、ちょっと五月蠅うるさいよ。耳が痛いから声のトーンを落としてくれる?」

「ここでキレずにどこでキレろってんだ! 人をナメるのも大概にしやがれ!」


 怒鳴り声を浴びせてくる恭路には一瞥もくれず、自分の脳天に狙いを定めたであろうキリサメと『聖剣エクセルシス』とを交互に見据えて微笑む寅之助は、地に伏せた虎の刺繍が猛々しい竹刀袋から得物を引き抜きつつ八雲家が標的となった経緯を明かしていく。

 報復あるいは制裁――どちらとも取れる動機と共にキリサメの前に姿を現わした一振りは使い込まれた様子を除くと何の変哲もない一般的な竹刀である。

 恭路と合体技クロスクラッシュを仕掛けた際に全体重を乗せて振り落としたのだが、案の定、竹を束ねて拵えた刀身には損傷など全く確認できなかった。ささくれ一つも見受けられないのだ。それはつまり、斬撃の威力が寅之助の手で完全に無効化させられたことを意味している。

 だからこそ、キリサメも全身から噴き出す冷たい汗を持て余しながら足踏みせざるを得ないのだ。迂闊に攻めれば全ての技を容易く破られ、返り討ちに遭うだろう。

 反社会的勢力までもが関与している以上、自分が敗れたなら未稲を取り返す機会は永遠に失われるはずだ。もはや、『デザート・フォックス』の股を引き裂けば済む状況でもないのである。

 ひょっとすると被害自体も八雲家だけには留まらず、一応の〝身内〟である表木家にまで拡大するかも知れないのだ。万が一にも敗北は許されない。命懸けで斬り結んだ果てにMMAのリングに立つ資格を剥奪されるとしても寅之助を打ち破るしかなかった。


「――すっかり〝富める者〟に染まっちゃったねぇ。去年までのサミーならもっと気ままに『聖剣エクセルシス』をブン回してたでしょ。……ああ、そっか。と違ってあのコだけは絶対に助けたいってワケね」


 飄然と立ち上った砂色サンドベージュ幻像まぼろしが耳元で焦燥を煽っているように思えてならないが、平常心を失った時点で勝敗も決してしまう為、キリサメは懐かしき声を幻覚と切り捨て、未稲の声を手繰り寄せる。暴力を頼りに生き延びてきた道が間違いではないことを証明したいと誓ってくれたあの声が〝今〟は何よりも力を与えてくれるのだ。


「……とことんの悪党というのはその通りだな。ヤクザの手先でありながら子どもたちに剣道を教えていたんだろう? 教え子たちはお前の正体を知ったらどう思うだろうな」

「真実の姿なんていうものは、それを知らなきゃ最初から存在しないのと同じだよ、サメちゃん。大体、ボクは剣道を指導してるだけで他の教育にはノータッチだもん。自分のようなヤクザな子を育てようって気はないよ」

「武道は精神性も教えるんじゃないのか? お前を信用し切っているなら洗脳し放題だ」

「だから不足がないようを指導しているんだよ。あの子たちも保護者たちもカラーギャングとしての顔なんて想像したこともないだろうね。つまり、最初からそんな経歴は存在しないってワケ。少なくとも、あの子たちの世界ではね。真実を超えた偽りってヤツかな?」

「……口が本当に良く回る」


 今にも離れてしまいそうな理性を引き留めるべく知恵を働かせ、少年剣道の指導者としての〝資格〟を問い質すキリサメであったが、弁舌で挑んだところで寅之助に敵うはずがなかった。

 そして、それ故に彼の振る舞いを無責任と感じるのだ。

 亡き母は『非合法街区バリアーダス』の自宅で私塾を開き、学校に通うことが叶わない子どもたちに勉強を教えていた。資金や物資が乏しい中でも創意工夫で教材を準備したのである。

 行き過ぎた義侠心から寿命を縮めてしまったものの、息子の贔屓目を取り払っても母が全うしたのは高潔な志であり、己の都合で二面性を使い分ける寅之助とは正反対である。


「そーゆーコトなら『E・Gイラプション・ゲーム』のほうがよっぽど問題あると思うよ? 青少年育成を掲げておきながら団体の代表サン、『桃色ラビッシュ』を通して『甲龍会ヤクザ』とすっかりズブズブだし。観客席でどんなコトが行われてるか、電ちゃんから聞いてないの?」

「……稼ぎ場と言ったからには賭博トトカルチョ……か?」

「大正解~。『E・Gイラプション・ゲーム』は素手ベアナックルもアリっていう過激ルールだから血を見るのがお好きなアブない皆サマには大人気でね。それだけに腕自慢がウリになって貰わないと客足が遠のいて『こうりゅうかい』の収入も目減りするって寸法さ。そんでもってボクらの電ちゃんはエースでしょ? サメちゃんが仕出かしたコトは自分で考えているより遥かに厄介なんだよ」


 日本MMAを根絶の瀬戸際まで追い詰めた事態が地下格闘技アンダーグラウンドに舞台を移して繰り返されていると、寅之助は皮肉っぽく笑った。


「稼ぎ場の評判を落とす真似をした邪魔者は抹殺しろっていうのが如何にも指定暴力団ヤクザらしい発想だよね。ボクはパシリに過ぎないから計画の全容は聞いてないけど、そろそろ八雲岳のほうもアブない黒服サンたちに取り囲まれる頃じゃないかな。未稲ちゃんは東南アジアのどこかに売り飛ばされるんだってさ」

「いつの間にかデケェ話になってきたけどよォ、それって本当マジなのか? 単なるてめーの思い込みじゃねーの? オレも『E・Gイラプション・ゲーム』のことは大して詳しくねーけど、興行をナマで見たっつう仲間の話じゃヤクザ者は全面お断りってハナシじゃねーか。大体よォ、メンツを潰した相手を皆殺しにするってんなら舎弟の『桃色ラビッシュ』をボロ雑巾みてーにやっつけた『E・Gイラプション・ゲーム』のほうが先に狙われるだろ。何で仲良しこよしになってんだよ」

「……そうだな。僕が知ってる『E・Gイラプション・ゲーム』の選手も賭博トトカルチョなんて絶対に認めないような連中ばかりだ。あいつらは見世物になりたいんじゃなくて強くなりたいんだから」

「サメちゃん、もしかしてちょっと惚気デレてる?」

「お前と比べて付き合いはずっと短いけど、それでも空閑電知っていう男のことを少しは分かったつもりだ。……友達だからな」


 恭路から指摘されるまでもなくキリサメ自身も寅之助が明かした『E・Gイラプション・ゲーム』の内情には強い違和感を覚えていたのである。

 依然として地下格闘技アンダーグラウンドについては無知にも等しいのだが、電知たちが闘い続ける理由だけはキリサメも間違いなく理解している。昨日よりも今日、今日よりも明日――ただ純粋に強くなることだけを夢見る者たちの腕試しへトトカルチョや反社会的組織が入り込む余地などあるまい。

 如何に岳が大らかとはいえ、日本MMAの天敵と結び付くような団体の所属選手を自身が外部コーチを務める地方プロレスの強化合宿へ誘うはずもないだろう。寅之助を挟む恰好で恭路と互いの顔を見合わせたキリサメは大きく首を傾げてしまった。


「てめェ……まさか――『てんぐみ』を名乗るんじゃねぇだろうなッ⁉」


 脳裏に閃くものがあった恭路は狐目を一等大きく見開き、これまで見たことがないくらい複雑な面持ちとなった。目覚めてからも余韻が生々しくうずき続ける悪夢にうなされた直後とでもたとえるべき表情かおであった。

 キリサメには何のことか全く分からない『てんぐみ』なる言葉の意味も寅之助は把握しているようで、恭路の変調に対して「早とちりにも程があるね。じゃないよ」と肩を竦めてみせた。


「昭和のオイルショックと同じ頃って聞いたかなァ。『こうりゅうかい』は成り上がりの時期から汚れ仕事を担う〝人斬り〟を上手く使っていたんだよ。その役目を平成に引き継いだのがボク――っていうか、森寅雄の剣なのさ」

なぎろうの後継者だとッ⁉ ていうか、あの人、何時の間に引退したんだよッ⁉」


 今度は寅之助が双眸を見開く番であった。

 彼の狙いはあくまでもキリサメであり、一緒に押し掛けてきた御剣恭路という青年など取るに足らない存在と見なしていた。眼中にもなかったというべきであろう。この場に居合わせる資格すら疑わしいはずの者が自分の発言に対して意外としか表しようのない反応を示したのである。

 『こうりゅうかい』に飼われる〝人斬り〟を指して恭路は『なぎろう』という名を返していた。


「天然理心流の――いや、新撰組の剣を引き継ぐのが森寅雄の剣なら不足はないと思うのだけど?」


 律儀というべきであろうか。自らの口で森寅雄と語る度、寅之助は天に向かって一礼していた。偉大なる先人を仰ぎながら、己の手で〝人斬り〟の汚名を着せてしまったことをどのように報告あるいは釈明しているのだろうか。


「バカ野郎がッ! 士道にあるまじき剣だろうと狼には狼なりの作法があるって八凪さんから教わらなかったのかよ! 継いだのは上っ面だけかッ⁉」

現在いまは狼じゃなくて虎だし、何よりボクは平成生まれ。作法だって変わりもするさ。恭ちゃんってば妙な幻想を持ってるみたいだけど、時代劇の世界でもないのに〝人斬り〟なんて呼ばれる剣はそんなに大層なモンじゃないのさ」

「八凪さんは『誠』に生きた狼の剣を貫き通した人だ! その誇りを勝手に捻じ曲げるんじゃねぇ! 今すぐだんだら羽織に詫びて来やがれッ!」

「キミが知ってる『てんぐみ』だって同じだよ。所詮は殺人集団に過ぎないだろう?」

「『てんぐみ』は殺し屋一味なんかじゃねぇ! 寄ってたかって一人を袋叩きにすることしか能がないてめーらとは違う本物の……『武運崩龍ブラックホール』とタメを張る〝武闘集団〟だッ!」


 侮辱的な一言に神経を逆撫でされた恭路は左手に持っていたチェーンを寅之助の足元へと滑らせ、これを軽くかわされるや否や、大きく踏み込みながらナックルダスターを握り込んでいる右拳で追撃を試みた。


げんでん――『ひじりがさね』だ! てめーにもアマカザリと同じように『しんけん』を喰らわせてやるぜ! ……『てんぐみ』の牙が一つ、とくと味わいやがれェェェッ!」

「勝手に話を作るな。僕だって一度も味わってないだろ」


 真鍮色のナックスダスターが背の高い建物の隙間から差し込む陽の光を跳ね返すと炎の塊がぜたように見える。あるいはがねいろの花が開いたとたとえるべきか――いずれにしても恭路の拳が掠りもせずに空を切り続けている証拠である。

 それでも彼は止まらない。チェーンを離した左手にもう一つのナックルダスターを装着することさえも忘れて両腕を振り回し続けるのだ。

 城渡総長の誇りを守るべく『まつしろピラミッドプロレス』の合宿先まで来襲したときにも匹敵するほどの憤激であった。血走った眼や無意味なほど大きな吼え声にキリサメはすがだいら高原での路上戦ストリートファイトを想い出していた。

 あるいは恭路にとって『てんぐみ』とは城渡や暴走族の仲間と同じくらい思い入れが深いモノなのかも知れない。今日もまたこの青年は自分以外の為に猛り狂っているのだ。


(……新撰組の親戚か? 『ハテングミ』なんて母さんの授業には出てこなかったよな)


 寅之助の頭部を打ち砕こうと構えを取ったにも関わらず、恭路が割り込んできた所為せいで再び手持ち無沙汰となってしまったキリサメは『聖剣エクセルシス』の刀身を下げながら二人の会話に現れた或る集団の名を振り返っていた。

 『てんぐみ』――どのような漢字で表記するのかもキリサメには分からなかった。日本史の授業にて母から教わった幕末の警察組織・新撰組との区別すら曖昧である。そもそも日本で使われる教科書には『てんぐみ』という三字がどこにも記載されていないことさえ彼は知らないのだ。

 『こうりゅうかい』の子飼いであろう者たちを挟み、恭路と寅之助の間で交わされる言葉はまるで時代劇映画の一幕のようであった。新撰組の剣や『てんぐみ』が意味することさえ理解できていないキリサメは半ば置き去りにされたようなものである。


「あの人たちに――『てんぐみ』に喧嘩売りてェならオレが代わりに買ってやらァ! コケにしようってんなら一〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇倍後悔させてやるぜッ!」

「だって何から何まで新撰組の二番煎じみたいなものじゃないか。役職だって上から〝局長〟みたいにそのまんまパクッてたって聞くよ。違いなんてだんだら羽織を着てないコトくらい? ……あっ! でも、本当の新撰組は黒装束で揃えてたって説を電ちゃんから聞いたコトがあるな。『てんぐみ』も同じ色の隊服だからやっぱり丸パクリじゃん」

「うるせぇ! うるせぇっ! うるっせぇッ! よくそこまでポンポンと悪口が思い付くもんだな⁉ 逆に感心しちまわぁッ!」


 寅之助から揶揄されるたびに恭路は癇癪同然の過剰反応を見せている。それこそが「殺し屋の一味」と大勢から謗られた証左であろう。ここに『てんぐみ』という集団の体質が表れているようでもあった。


「秋葉原の買い物客一〇〇人にアンケート取っても良いけど、『こうりゅうかい』は知っていても傘下の『てんぐみ』なんて一人も知らないと思うよ? 〝裏〟の世界を覗き込んだ人間しか分かりっこないさ。どくが敷き詰められた地獄の底で誇りの高さを謳うのは滑稽を通り越して傲慢だよ。『所詮は殺人集団』――これ以上でもこれ以下でもないって」

「口を閉じやがれ! 二度と舐めた口を叩けないよう前歯を全部へし折ってやるァッ!」

「前歯が無くなっても喋れるだろ」

「ンなとこにツッコミ入れんじゃねぇよ、アマカザリィッ!」


 おそらく『てんぐみ』は他者ひとから褒め称えられるような〝道〟など歩んでいなかったのだろうとキリサメには感じられた。かつて故郷ペルーにて遭遇した日本人傭兵や殺し屋デラシネ、そして、己自身と同じ社会の〝闇〟をとしてきた者たちなのだ。

 まさしくどくを踏み越えていくような〝道〟を前任者から引き継いだという寅之助は、至極当然のことを指摘したに過ぎないのだが、正論が必ずしも穏やかな落着へ導くとは限らないように、恭路の怒りへ更に油を注ぐ結果となってしまったわけである。


「ひょっとして恭ちゃんのお父さんも『てんぐみ』の――」

「だッ、黙れぇぇぇぇぇぇェェェェェェッ!」


 他人が実父のことに触れた瞬間、恭路は全身を大きく捩じるような動作うごきで右拳を突き上げた。真鍮色の一閃をかわしながら洩らし、これを追い掛けてきた怒号に咬み砕かれた寅之助の呟きは、今まさにキリサメも考えていたことである。

 訳知り顔の寅之助にも当該する人物は思い当たらなかった様子だが、恭路の実父が『てんぐみ』に連なる人間だとすれば合体技クロスクラッシュが編み出された背景とも合致するのだ。〝人殺しの一味〟であるか否かはともかくとして〝武闘集団〟にとっては平和な時代に無用であろう戦闘能力も欠くべからざるモノに違いあるまい。

 キリサメには『てんぐみ』が誰を相手に戦っていたのかなど知る由もない。しかし、くだんの合体技のように『こうりゅうかい』から集団戦法を求められていたことだけは間違いないはずだ。

 寅之助は幹部に付けられたものであろう肩書きを幾つか並べていたが、恭路から〝新撰組の剣〟と呼ばれた八凪志狼おとこが単独で凶刃を振るうのに対し、『てんぐみ』は局長と称される人物の指揮のもとで組織的に戦闘行為を繰り返していたのかも知れない。

 さながら『甲龍会ヤクザ』の実働部隊といったところであろうか。昨年の『七月の動乱』にいて故郷ペルーの人々を内戦へ駆り立てようと謀ったテロリストもより大きな『組織』の先兵であったが、『てんぐみ』もそれに近いのであろうかとキリサメは考えていた。

 もう一つ――恭路の父親てんぐみ』に関わっているのかとたずねようとした寅之助の言い回しがキリサメには妙に引っ掛かっている。〝武闘集団〟に連なる人物を他にも知っているような口振りであったのだ。

 『てんぐみ』を傘下に置く『こうりゅうかい』の〝人斬り〟を継いだというのだから〝同胞〟と面識があっても不思議ではないが、想定外の出来事に驚いたかのような反応であった為、何となく気になってしまうのだ。


「世間は狭いねぇ、あちこちに関係者が居るもんだ。お喋りしてるとボロ出しそうだよ」


 果たして、キリサメの直感に誤りがなかったことは風に乗って鼓膜へと流れ込んできた寅之助本人の呟きが証明した。


(――ちょっと待てよ。寅之助が入っているカラーギャングとやらにヤクザ者から命令が飛んだって言っていたよな。……寅之助はそのヤクザから直接、雇われているんじゃないのか? どうして間に別の集団を挿む必要があるんだ……?)


 寅之助と『こうりゅうかい』との繋がりを考えている内に別の疑問まで立ち上がってきた。

 少しでも時間を置くと言動が大きく変わってしまう瀬古谷寅之助は、好青年を絵に描いたような薄笑いを隠れ蓑にしているとしか思えず、『E・Gイラプション・ゲーム』と関わりの深い指定暴力団ヤクザが報復の為に刺客を差し向けたという事件の背景さえキリサメには疑わしくなっている。


「パクリ集団のクセしてやってるコトは矛盾しまくってるよね、『てんぐみ』って。京都の治安を守った新撰組の猿真似なのに自分たちはその正反対だもん。どちらかといえば、だんだら羽織のモデルにしたっていう赤穂浪士に近いよね。ある意味、先祖返り?」

「ええい、ゴチャゴチャとうるせぇ! 『てんぐみ』は『てんぐみ』だ! パクリ呼ばわりなんか許さねェぜッ!」

「ああ、成る程――新撰組と『てんぐみ』ってじょうざかの仇討ちを参考にした赤穂浪士みたいな関係なのか。ありがとね、恭ちゃん。お陰で疑問がスッキリ晴れたよ」

「ど、どういたしましてッ⁉」


 恭路は寅之助のことを快楽目的の愉快犯と吐き捨てていた。ひょっとすると彼の言行には最初から〝真意〟などというものは存在しないのかも知れない。

 当の寅之助は「そろそろバテそう? そんな体たらくじゃお父さんにも城渡さんにも顔向けできないよ」などと言って恭路を挑発しつつ、絶え間なく突き込まれてくる拳を軽々とかわし続けている。

 体力の使い方など考えもせずに両腕を振り回し続けた為、早々に息切れを起こして動作うごきが鈍ったということもあるが、手拍子でもって恭路をからかいながらも寅之助は掠り傷一つ受けてはいなかった。

 その上、使い込まれた竹刀を握っておいて一度も反撃をしていない。己に迫る拳を叩き落とすような素振りすら見せていないのだ。口元の薄笑いから察するに迎え撃つまでもない雑魚と見なしているのだろう。

 もはや、寅之助は御剣恭路という男の地力と動作うごきを完全に見切っている。死角から攻め寄せたところで間違っても命中などしないはずだ。果たして、そこには絶望的に埋め難い力量ちからの差が表れているのだった。

 両者は身のこなしからして正反対である。無駄でない部分を探すほうが難しいくらい全身を大きく動かす恭路とは異なり、寅之助は瞬間移動と見紛うばかりに足の運び方が巧みなのだ。相手の技が描くであろう軌道を瞬時にして読み、その射程圏内から別の場所へ移る動作は氷雪の上を滑るかのようにはやかった。

 様式美とたとえられるほどに完成された身のこなしをキリサメはかつて見たことがない。剣道と柔道の差異もあって体の使い方そのものが極端に似ているわけではないが、おそらく瞬間的な速度は電知にも匹敵することだろう。

 それでいて最小限しか動かない為、疲弊も限りなく抑えられるのだ。寅之助の額には汗粒一つ滲んでいないかった。


「う~ん、さっきは冗談のつもりで先達の皆さんに顔向けできないって言ったんだけど、ここまで来ると何だか失言みたいに思えてくるなァ。恭ちゃん、幾らなんでもダメ過ぎるよ。代打ピンチヒッターも満足に務まらないんじゃ『てんぐみ』の皆さんだって願い下げだよ。ねえ、サメちゃんからも何か言ってあげて」

「素人を痛め付けても自慢にはならないだろ。……寅之助もお手柔らかにな」

「そこで……乗っちまうのかよ……アマカザリ……どいつもこいつも……小生意気なクソガキばっかりだぜ……チョコマカと逃げ回ってねぇで……真っ向勝負しやがれ……殴り合いこそ……男の道じゃねーか……ッ!」

「頭の悪い人って自分の立場が弱くなると少しでも優位に立てそうなコトでマウント取ろうとするよねぇ。自分じゃ決め台詞のつもりだろうけど、最高にカッコ悪いよ」


 己の胸中だけに留めておけば余計に拗れることもないだろうに、思ったことを包み隠さず喋ってしまうから鼓膜が破れたと錯覚するほどの怒号を浴びせられてしまうのだ。

 そもそも寅之助には他者ひとを揶揄して玩具のように弄ぶ趣味があるのだろう。爽やかな好青年に見えるのは本当に上辺のみで、腹の底はヘドロさながらに濁っているのだ――とキリサメは呆れたように溜め息を零した。


「腕一本で勝負している電ちゃんを見習って欲しいよ。何なら爪の垢を煎じて飲ませてあげようか? 電ちゃん愛用の爪切りから失敬できるかも」

「……こいつ……マジで空閑のコトしか喋らねェな……どういうゲテモノ食いだよ……誰が飲むか、ンな気色悪ィもん……てめーなんかと……一緒にすんな……ッ!」

「冗談を真に受けるほうこそ問題でしょ。自分の爪を噛むような癖だって持ってないよ。恭ちゃんってば発想が気持ち悪いね」

「て、てめーは……さっきから……何なんだよ……ッ!」

「いやぁ、島津十寺工業高校シマコーの生徒はウワサ通りだなって思ってね。ちょっとからかっただけで大噴火するって、うちの学校じゃ笑い種になってるもん」

島津十寺工業高校シマコーを……ナメんな……てめーは……何校……だァ……ッ⁉」

さんじゅく学園の便所サンダルは裏に島津十寺工業高校シマコーって書いたシールを貼ってあるんだけど、恭ちゃん、知ってたかい?」


 せせら笑うような調子で寅之助が自身が通う高校を明かした途端、恭路は双眸を見開いて金髪のパンチパーマを掻き毟った。


「て、てめー……さんじゅくの生徒……なのかよ……ッ⁉ クソッたれ……制服ブレザーが……丸っきり……違うじゃねーか……ッ!」

「これは秋葉原アキバに合わせた扮装コスプレみたいなもんでしょ。出掛ける先に馴染むコーディネートは基本で――ああ、ごめんね。島津十寺工業高校シマコーみたいなド底辺ではコーディネートなんて言葉、通じるわけないか。そういや、城渡さんも島津十寺工業高校シマコーじゃなかった? 昭和からド底辺のまま、なァんにも変わってないみたいだねぇ~」

「もう……殺す……ッ!」


 疲労が膝を直撃して完全に足が止まり、荒い呼吸を経て激しい咳へと変わった恭路から更に激情を引っ張り出して消耗させようというのか、寅之助は挑発とも呼ぶにも値しないような罵詈雑言を重ねていく。

 恭路が留年し続ける『シマコー』ことしまじゅうこうぎょうこうこうと寅之助が通うさんじゅくがくえんは共に血気盛んな生徒が集まる学校であり、非行少年が廊下でバイクを乗り回す昭和後期の荒んだ時代には互いの校舎まで乗り込んで乱闘騒ぎを起こしていた。

 時代が平成に移ってからも両校のいがみ合いは続いており、場末のゲームセンターやひとのない路地裏で遭遇しようものならすぐさま一触即発の事態に発展するのである。

 ただでさえ根深い確執がある上に寅之助は〝城渡の母校としての島津十寺工業高校シマコー〟を愚弄したのである。こうなっては恭路も黙っていられず、体力が尽きかけた肉体を無理矢理にでも揺り動かすしかない。


「天空……三連脚のでん……『らく』……オレは……まだまだ――止まらねェッ!」


 寅之助に『げき』の二字が記された背中を向け、その状態から宣言通りに連続して飛び後ろ回し蹴りを繰り出そうと試みる恭路であったが、「頑張れ、オレッ!」という哀しい掛け声に合わせてがに股状態で跳躍するようでは誰が見ても技の成功には程遠い。

 鉄板の上から黒革を張ったような靴を履いているので命中さえすれば防御ガードの上からでも骨を軋ませられるだろうが、それは叶わぬ願望である。額から噴き出した大粒の汗が双眸に流れ込んで狙いを外し、空中で左右の足を揃えて同時に突き出すという最後の一撃を仕損じた挙げ句、重力に囚われて垂直落下してしまった。

 すがだいら高原でキリサメを襲ったときにも似たような状況で自滅していたが、今度は失神しなかった。両手を地面に叩き付け、落下時の痛手ダメージを緩衝するような器用さこそ持ち合わせていないものの、自分が大切に思う存在ものを立て続けに貶められた直後ということもあり、後頭部をしたたか打っても歯を食いしばって堪えたのである。


「やるじゃん、ド根性~。昭和に流行った精神論を平成にまで引き摺ってるのが如何にも島津十寺工業高校シマコーっぽいね。それとも城渡さんの方針が自分の青春時代で錆び付いてるのかな? 時代に合わせて変われないようならキミんトコのチームもお先真っ暗だね」

「総長と『武運崩龍ブラックホール』まで……てめェ……マジで……生かして帰さねェぞ……ッ! オレたちゃ……『てんぐみ』と同じ……バリバリの〝武闘集団〟なんだから……よォッ!」


 仲間の誇りを守るべく〝武闘集団〟と繰り返し主張する恭路であったが、『武運崩龍ブラックホール』のみならず、メンバーのが現実的な問題として押し寄せている暴走族たちの間ではそもそも大規模な抗争事件など起こりようがなかった。

 熾烈な縄張り争いが繰り広げられた時代は既に遠く、小競り合いを除けば〝現役〟として乱闘に興じる者などはごく僅かであろう。〝プロ〟のMMA選手として拳をふるい続ける城渡マッチは例外中の例外なのだ。

 つまるところ、恭路は警察の機動隊とも互角に渡り合ったという『武運崩龍ブラックホール』最盛期への憧憬や〝武闘集団〟という響きに酔い痴れているだけである。


「負け惜しみくらいはちゃんと呼吸いきしてから言いなって。ほらほら、がんばっ」


 秋葉原の中心部にて幕を開けた戦いは、今やの寅之助と恭路の一騎討ちという構図に定まろうとしていた。〝短ラン〟に〝ボンタン〟という昭和の不良ツッパリが好んだ服装と、平成のサブカルチャーから飛び出した扮装コスプレの対峙はそれ自体が異文化同士の相剋とも呼ぶべき趣であった。

 この場にて様々な運命が交錯していた。無鉄砲という言葉が短ランを着て闊歩しているかのような御剣恭路も〝城渡総長〟のもとへ行き着くまでに重いものを幾つも背負ってきたのだろう。

 時代劇のように〝人斬り〟などとうそぶいたことは割り引くとしても、大正から昭和にかけて北米アメリカにまで勇名を馳せた伝説的な剣士の技と『寅』の一字を継いだことは事実であり、瀬古谷寅之助も森寅雄タイガー・モリという一つの歴史を背負っている。

 架空フィクションの世界と錯覚しそうな出来事が一気に押し寄せてきた恰好であり、夢見がちな人間であったならそれだけでも舞い上がってしまうだろう。これに対してキリサメは「余所でやってくれ」という手厳しい一言を心の中で呟くのみであった。二人が背負った運命も立場も何もかも切り捨てたのである。

 普段から何事にも無感情なこの少年は、自分にとって必要がないと判断したものは一つとして拾い上げようとしない。それ故に同士討ちという衝撃的な事実と共に語られた『こうりゅうかい』の名もおぼえていなかったのだ。

 恭路と関わりが深い『てんぐみ』の名も遠からず頭の中から風化するだろう。わざわざ記憶に留めておく理由が見当たらないのだ――昭和という黄昏と暴力の時代に生まれた〝武闘組織〟が己のうちにて決して小さくはない意味を持つようになるとは、このときのキリサメにはまだ知る由もなかった。


「昭和の流行っていえば、学生運動潰しにも差し向けられたんだっけ、『てんぐみ』って。指定暴力団ヤクザがアレに介入するなんて、が想像できて最高にキナ臭いねぇ」

「……やっぱり……知ったかぶりじゃねーか……クソが……学生運動をツブすのに……駆り出されたのは……『てんぐみ』じゃなくて……局長の〝あの人〟で――」


 『てんぐみ』に対する罵声しか発しない口を塞ごうと重い肉体からだを引き摺って蹴り技の姿勢に移る恭路であったが、それより僅かに早く寅之助が上体を屈めた。先読みの緊急回避としてもタイミングが余りに不自然であり、何の真似かと訝った直後、彼の視界が真っ黒な影で覆われてしまった。

 不意に投げ込まれた〝何か〟が顔面にめり込んでいた。風を裂く音が己の後頭部に迫っていると気付いた寅之助は速やかに回避動作を取ったのだが、彼の上体がった空間から突如として飛び込んできた物体など恭路には反応できるはずもなく、鼻血を噴くような痛手を被ったわけだ。


「な、何なんだよ、一体全体――」


 己の身に起きたことが全く理解できず、迸る鼻血もそのままに面食らっていた恭路は、次いで寅之助から無防備の腹部に蹴りを入れられてしまった。

 脇腹や腰を抉るような蹴りではなく、足の裏でもって突き飛ばされたのだ。視界に捉えた寅之助はへその辺りを蹴り付けた際に生じた反動と膝の屈伸を掛け合わせて後方へ大きく飛び退すさっている。

 それから一秒と経たない刹那、大きくよろめいた恭路の頬に一陣の烈風が吹き付けた。金属の塊が硬い地面に撥ね返るような音がこれを追い掛け、彼は耳鳴りに呻いた。


「サメちゃんもやるねぇ。恭ちゃんを巻き込んでもお構いナシじゃないの」

「……巻き込まれるほうが悪い」


 着地した先で竹刀を左脇に挟み、皮肉に満ちた拍手を披露する寅之助へ舌打ち混じりで応じたのは恭路の猛攻を傍観していたはずのキリサメである。砂埃を舞い上げながら瞬時にして二人の間へ割り込み、『聖剣エクセルシス』を縦一文字に閃かせたのだ。

 建設用のシートに覆われたビルの壁に甲高い音を跳ね返したのは、依然として鞘代わりの麻袋に納められたままの禍々しい刃であった。

 寅之助と恭路の間で不毛としか言いようのない応酬が長引いた為、最大の当事者でありながら蚊帳の外に置かれてしまったキリサメは、敵味方の区別なくまとめて薙ぎ払ってもおかしくない状況にも関わらず、『聖剣エクセルシス』を右肩に担ぎ直して二人を静観し続けていた。

 この構図にこそキリサメは勝機を見出したのである。サイズが合わずに邪魔でしかなかったヘルメットを左手一つで頭から引き剥がし、寅之助が自分の背中を向けた瞬間にを投擲したのだ。

 そうして命中を確認する前に地面を蹴って跳ね、先んじて投げ付けたヘルメットを追い掛ける恰好で間合いを詰めていく。その最中に両手で構えた『聖剣エクセルシス』を寅之助の脳天目掛けて一切の手加減もなく振り落とした次第である。

 結局は攻め手の全てを見破られ、恭路だけがの餌食となってしまったが、キリサメが狙いを定めたのはあくまでも寅之助ただ一人であった。


「今のはすがだいらでオレが使った技じゃねーか……てめーまでパクリかよ……いや、アマカザリはともかく……『てんぐみ』は何もパクッてねぇがな……っ!」

「……もうハテングミは聞き飽きた……」


 いちいち答える必要もなかったので聞き流したが、飛び道具で相手を怯ませてから更に威力の高い攻撃を仕掛ける戦法など誰でも考えるものだ。それこそ故郷ペルーの貧民街では一〇歳にも満たない子どもでさえ常套手段として用いている。

 キリサメの場合は『聖剣エクセルシス』で斬りかかると思わせておいて、掌中に忍ばせておいた石を投げつけることもあった。これによって姿勢を崩し、同時に標的の注意を正面へと引き付けるわけだ。

 確かに恭路はすがだいら高原にける路上戦ストリートファイトでヘルメットを投擲し、次いで『ロンドン・コーリング』のジャケットへ倣うかのようにV字シェイプのエレキギターを振り落としている。しかし、彼は無様にも仕損じたではないか。そのような相手から猿真似パクリ呼ばわりされるのは、さしものキリサメも心外であった。


「恭ちゃんさぁ、ボクにお礼くらいあっても良いんじゃないのかな~? ボクが助けてあげなかったら、キミ、サメちゃんの得物で頭蓋骨やられてたと思うよ。袋の中身は知らないけど、それ、めちゃくちゃ重いんでしょ?」

「同じ言葉を繰り返させるな。巻き込まれるほうが悪い」

「なーるほど……こいつが蹴っ飛ばしてなかったら……アマカザリはオレを巻き添えにしたってワケな……はいはいはいはい……てめー、トチ狂うのもいい加減に――」


 先程の蹴りが持つ意味を寅之助から明かされた恭路は、キリサメに向かって怒鳴り声を張り上げようとしたが、結局は肺一杯に吸い込んだ息を無意味に吐き出してしまった。

 全く注意を向けていなかった方向から飛び込んできた異音が鼓膜を叩き、その驚愕が憤激そのものを断ち切ったのである。

 カメラのシャッター音が工事用フェンスの内側に幾つもこだましていた。それも現物による機械音ではなく、電子音による再現と呼ぶほうが正確に近い。

 芸能人タレントの記者会見にも匹敵するほどシャッター音が折り重なる方角へ振り向くと、路上ストリートライブに勤しんでいた女性シンガーを先頭に二〇人ほどの野次馬がゾク車によって突き破られたフェンスの穴から工事現場を覗き込んでいるではないか。

 正確にはこの場で展開する乱闘騒ぎを興味本位で見物しているわけだ。

 それも無理からぬ話であろう。サブカルチャーの聖地には不似合いとも思えるゾク車が工事用フェンスを突き破り、その内側にて物騒極まりない事件が発生したのである。通りすがりの人々が集まらないはずもなく、誰もが種々様々の携帯電話をかざしていた。改めてつまびらかとするまでもないが、シャッター音を鳴らしているのはこの文明の利器である。

 三人を順繰りに指差しつつ無責任な勝敗予想を語らい、いっそ三つ巴で殴り合えと言わんばかりに熱を帯びた眼差しでもって煽り立てるのだ。優男イケメンの寅之助には女性たちから恍惚とした声援まで送られており、はち切れんばかりに興奮した様子は『天叢雲アメノムラクモ』のリングを取り囲む観客を彷彿とさせた。


「い、いつの間に……こんなに……集まって来やがった……⁉」

「さっきからずっと張り付いていただろ。あんた、気付かなかったのか」

「気付くわけねーだろ……こっちは必死に踏ん張って……闘ってたんだぜ……」

周囲まわりの状況を見落とすくらい視野が狭いから恭ちゃんはクソ雑魚なんだよ?」

「出逢ってから……まだ三〇分も経っていねぇようなヤツに……雑魚呼ばわりされる筋合いなんか……ねぇぜ……ッ!」


 『ガンドラグーンゼロしき』が突入した直後から女性シンガーがフェンスの穴を覗き込んではいたものの、それが野次馬と呼んでも差し付けがないほど群がるようになったのは恭路が喚き声を引き摺りながら『あらがみふうじ』の技を披露し始めた頃である。

 そもそも――だ。異文化同士の相剋とも呼ぶべき趣が注目を集めないはずもない。恭路も寅之助も人目を引くような出で立ちなのだ。写真映えするからこそ、これを取り巻いた野次馬たちも携帯電話のカメラを起動させずにはいられないのだった。

 自分たちをねぶる視線が増えていく経緯をキリサメと寅之助は把握していた。その上で取るに足らないことと気に留めなかったのだ。興味本位の人間がどれだけ群がっていようともキリサメには全く関心がない。寅之助の始末が公開処刑に変わっただけのことである。


「衆人環視の中でボクの脳天を砕こうとしたワケだよね。サメちゃんってば情け容赦なくて良いカンジだよ。ボク的にはもっともっと血も涙もないヤバさが欲しいけどさ」

「人が群がってきたから何だと言うんだ。不利になるのはお前のほうだろう? もう逃げ場なんかないぞ。警察が駆け付けた時点で本当の終わりだ。……制裁を警察なんかに任せておくつもりもないけどな」

「――つか、自然な流れで横入りしてくんじゃねーよ、アマカザリ! このケンカ、オレが買ったっつっただろが! こいつだけは……こいつだけは許しちゃおけねぇんだッ!」


 乱れに乱れていた呼吸をようやく整えた恭路は、『聖剣エクセルシス』の一振りをもって割り込んできたキリサメを押し退けて再び寅之助に突っ込もうとしたが、左手にもナックルダスターを装着したところで短ランの後ろ襟を掴まれ、その場に引き倒されてしまった。


「あんたの事情は僕には関係ない。あんたがこだわるハテングミとやらも知ったことじゃない。みーちゃんを取り戻す。それだけだ」

「それはそれっ! これはこれッ!」

「……協力してくれると言ったのは御剣氏、あんたのほうだろう?」

「手前ェで巻き込んどいて、どういう言い草だ、この野郎ぉっ!」

「さっきから言っているだろう。嫌なら帰ってくれて構わない」

「だーかーら! こいつはもうオレのケンカなんだっつーの! それよりてめー、さっき発音おかしかったぞ⁉ ひょっとして漢字分かってねぇな⁉ 『天をも制覇する』と書いて『てんぐみ』だ! 二度と忘れるんじゃねぇッ!」


 半ばまで閉じた双眸から漏れ出す凄絶な妖気にてられて思わず竦みそうになる恭路であったが、後頭部の痛みを堪えたように今度は踏み止まった。

 実際には未稲救出というキリサメの急務に割って入ったのは恭路のほうなのだが、何事にも一直線な彼は大切なものをことごとく貶めた寅之助の顔面に制裁の拳でも叩き込まない限り、収まりが付かないだろう。


「大体よォ、未稲本人がビルの中にもいねェんだから取り戻すも何もねーだろが」

「……どういう意味だ? 御剣氏、何を言っているんだ?」

「ビルの中には人っ子一人いねぇっつってんだ。入れるトコは片っ端から探したが、未稲は影も形もなかったぜ」

「探し――何だと……っ?」


 恭路が何を喋っているのか理解できなかったキリサメはほんの一瞬ばかり眉根を寄せ、ビルの中には誰もいないという報告ことばを反芻したのちに疑問とは別の意味で顔を顰めた。


「……道理でいつまでも帰ってこないと思った……」

「気ィ回してやったんじゃねーか。これで心置きなくれるだろ。いや、こいつをブッ殺すのはオレだけどよォ!」

「……やっぱりさっき、寅之助とまとめて薙ぎ払っておくべきだったな……」


 ゾク車でもって正面玄関に突入してから寅之助の背後に飛び出してくるまで恭路は数分を要したが、停車に手間取ったわけではなく、捕らえられた未稲を捜し求めて商業ビルの内部を駆け回っていたようだ。

 機転を利かせてくれたこと自体は有難かったものの、キリサメからすればもっと早く報告を聞かせてして欲しかった。先程の一撃が寅之助の頭部を捉えていたら、本当の八方塞がりに陥ったはずである。

 寅之助を退けてから『デザート・フォックス』をも探し当てて始末しようと考えていたのだが、もはや、竹刀もろとも彼の脳天を打ち砕くことができなくなった。何としても生け捕りにして未稲の居場所を聞き出さなければ、本来の目的を果たせなくなるのだ。

 それがキリサメには面倒であった。『聖剣エクセルシス』という禍々しい刃を振るうに当たって標的の肉体からだを破壊し尽くすことに躊躇いはないが、絶命しないよう加減するのは非常に骨が折れるのである。


「サメちゃんさぁ、今、『生きたまま捕まえるのは大変なんだぞ』って恭ちゃんにムカついたでしょ? さすが〝国家警察の犬〟は発想が違うねぇ。経験者は語るってヤツ?」


 背後から心臓を掴まれるような一言に驚き、恭路に対する苛立ちまで吹き飛んだキリサメは再び寅之助を睨み据えた。険しい眼差しが「どういうことだ?」と言外に詳しい説明を求めている。


「未稲ちゃんは大事な人質なんだよ? 別の場所へ隠すのは当たり前じゃん。それに『デザート・フォックス』さんだって殺し合いやってる隣でのは無理でしょ。ボクでも萎えちゃうよ」


 求めていた答えとは全く違ったが、キリサメの脳裏にまたしても新たな疑問が浮かび上がった。恭路の報告ことばへ寅之助が首を頷かせたことで商業ビルの内部に未稲が居ないことは確定されたわけだが、先程の電話では共犯者デザート・フォックスも彼の間近に控えているような印象を受けたのだ。

 何しろ寅之助たちが仕出かしたのは明確な犯罪行為である。通話を終えた直後に別の場所へ移したとも考えにくい――が、悠長に質している暇はなかった。未稲の命が関わっている以上、両足でも圧し折って彼女の居場所を吐かせるにしても速やかに終わらせなくてはならない。


「今頃は未稲ちゃんも快楽の世界にどっぷりじゃないかな? 『デザート・フォックス』さんってば大張り切りで、この日の為におクスリまで揃えてたもん」

「寅之助ッ!」


 知覚を麻痺させる薬物ドラッグの使用まで仄めかした寅之助に対し、キリサメの双眸に宿る妖気が再び激しさを増した。これを浴びせられたのが恭路であったなら『八雲道場』を出発する間際のように恐れおののき、腰を抜かしたことであろうが、寅之助は怯むどころか、肌を刺すような剥き出しの殺気をも心地よさそうに受け止めていた。

 鞘代わりの麻袋から解き放たれ、ノコギリ状の禍々しい刀身が露となった『聖剣エクセルシス』すら口笛を吹いて歓迎している。

 これは寅之助ばかりではなかった。船のオールにも見える不思議な形状の武器が晒された途端に野次馬からも囃し立てるかのような歓声が起こったのだ。「あれってマヤ・アステカ文明のマクアフティルじゃん! 日本で実物を拝めるなんて!」と刀剣の種類を言い当てた者もいる。

 恐怖によって漏れるどよめきなどではなかった。『天叢雲アメノムラクモ』で例えるならば、穴の向こうから滑り込んできたのは希更・バロッサの飛び膝蹴りに対する観客たちの感嘆の溜め息にも近い。彼らは日本刀とは一線を画す物珍しい武器マクアフティルに見惚れているわけだ。

 これがペルーの『非合法街区バリアーダス』で暮らす人々であったなら真逆の反応を示したはずである。野次馬の中にはキリサメのことを死神スーパイなどと恐れる人間はおらず、『聖剣エクセルシス』なる銘で呼ばれる武器マクアフティルがどれほどおぞましいモノかも知らない。だからこそ無邪気に騒いでいられるのだった。


「――日本人ハポネスって頭の中までお気楽極楽だね。暢気っていうか、サミーの本性を知らないんだから当たり前かな。逆に言えばのにぴったしな国とも言えるね」


 恭路とは反対側に浮かび上がった砂色サンドベージュ幻像まぼろしがスペイン語で何事かを囁いているように聞こえたが、今度もキリサメは黙殺した。

 想い出の彼方に渡った砂色サンドベージュの少女は寅之助に不意打ちを仕掛けようとする間際にも目の前に現れ、「にもそんな風に必死になってくれた? ファーストキスの相手だからあのコだけ特別なの?」と顔を覗き込んできたのだ。

 『ナスカの地上絵』を模様として編み込んだスカーフで右腕を吊っている幻像まぼろしを突き破る恰好でヘルメットを投げ付け、掻き消したつもりであったのだが、今日は執拗に纏わり付いてくるらしい。


(ベタつく関係はゴメンだって言ったのはだろ。……このまま僕を行かせてくれ)


 どれほど会いたいと焦がれても声を聞くことさえ叶わないと思っていたのに、今だけは全存在が疎ましい――キリサメは身のうちにてのた打ち回る矛盾した想いを心の奥底へと押し込んだ。幻像まぼろしと見つめ合おうものなら未稲救出に逸る精神こころまでもが故郷ペルーの砂嵐に埋もれてしまうだろう。


「それがインカに伝わる聖なる剣ってヤツか⁉ 思った以上にデケェな! つーか、それでブッ叩いたのに折れなかったのか、あの竹刀⁉ 中に鉄芯でも仕込んでんのか⁉」


 殺陣道場『とうあらた』のワークショップでキリサメと一緒になったという小日向義助から『聖剣エクセルシス』のことも聞かされていた恭路が驚愕の声を張り上げた。

 その過剰にやかましい声を嫌がったのだろうか、間もなく砂色サンドベージュ幻像まぼろしはキリサメの視界から姿を消したが、これを残念に感じている時間などあろうはずもない。目を輝かせてノコギリ状の刃を観察している寅之助に睨み返しながら、長細い麻袋をジーンズのベルトへ挟み込んでいく。

 恭路の示した反応がキリサメにも理解できないわけではない。平べったい石の板を上下に一枚ずつ重ね、一振りで標的の骨をも砕くよう改造を施した武器マクアフティルでさえ寅之助の竹刀を破壊することはできなかったのだ。四ツ割の竹片とこれを束ねる紐状の鹿革、つるで組んだ刀身には目立った損傷すら見受けられない。

 重量おもみと衝撃を巧みに受け流す寅之助の力量がキリサメの背筋に冷たい戦慄を走らせた。もはや、砂色サンドベージュ幻像まぼろしに惑わされている状況ではないのだ。


「ええい、仕方ねぇな! オレもちぃっとばっかし折れてやらァよ! もう一遍、『クロスクラッシュ』と行こうじゃねぇか! 二人がかりで一気にケリを――」


 ナックルダスターを嵌めた左右の拳を叩き付け、己が先行すると言わんばかりに前のめりとなった矢先、恭路の顔面へ再び〝何か〟が飛来した。

 反射的に両手を伸ばし、眉間にぶつかった物を受け止めてみると、ヘルメットよりも遥かに軽い感触が手のひらに伝わった。

 携帯電話スマホである。竹刀のツカを握っていない左手を大きく振り下ろしたような姿勢から察するに持ち主は寅之助であろう。彼は唖然呆然と立ち尽くす恭路に向かって片目を瞑りつつ、「後で返して頂戴ね。落として壊さないでよ」と一方的に言い付けている。


「起動するとすぐに『ユアセルフ銀幕』の画面へアクセスされるようになってるからね。プレイリストの順番通りに動画を再生してみて。『てんぐみ』と同じくらい面白いものが拝めるハズだよ」

「はあああぁぁぁァァァッ⁉」

「メールとか覗き見しちゃダメだよ。ボクは構わないけど、照ちゃんに殺されるからね」


 『ユアセルフ銀幕』とは全世界に登録者ユーザーを抱える動画配信サイトである。

 北米アメリカ最大のMMA団体である『NSB』や『天叢雲アメノムラクモ』の試合内容を解説する熱田ミヤズのような有名企業の専門チャンネルだけでなく、機材と環境さえ整っていれば民間人でも自由に動画ビデオ投稿アップロードすることができるのだ。

 恭路がギタリストを務めるロックバンド『げき』もくだんのサイトにて演奏の動画ビデオを公開している。システムにも馴染みがあり、『プレイリスト』という用語も即座に理解できたのだが、闘いの最中に視聴を勧められた意味が分からず、携帯電話スマホの液晶画面と寅之助の顔を交互に見比べるばかりだった。

 一方の寅之助は恭路の混乱やキリサメの視線を置き去りにし、携帯電話スマホを投げ渡した左手を野次馬の先頭に立つ女性シンガーへと向け、人差し指と中指を打ち鳴らして自分のほうに意識を引き付けた。


「これから始まる〝げきけん〟に相応しいアップテンポのBGMをお願いしますね。演奏がキマらないとボクらも気持ちがノッてきませんから」

「げきけ――は? えっ? 私ぃ⁉」


 突然の要請リクエストに女性シンガーは大きく口を開け広げたまま目を丸くしている。たまたま商業ビルの前で路上ストリートライブを行っていただけであって、寅之助と演奏の段取りなど打ち合わせたおぼえもないのだ。少し前までアコースティックギターを爪弾いていたので彼がフェンスの内側に侵入する瞬間さえ目撃していなかった。

 その上、要請リクエスト自体が余りにも抽象的なので、どのような曲を奏でれば寅之助に応えられるか、頭の中でまとまらない様子である。

 寅之助の一言は野次馬たちの間にも思い掛けない波紋を呼んだ。女性シンガーも三人の〝仲間〟であると盛大に勘違いしたようで、手拍子や口笛でもって彼女に演奏を求め始めたのだ。つまるところ、剣劇チャンバラに音楽を付ける演奏家と見なされてしまったわけである。


「成る程、彼らは〝げきけんこうぎょう〟を平成に甦らせたのですね。お嬢さん、ますます貴女の演奏が重要になりますよ。お互いの剣を打ち合う音だけでは催し物として華がありません」

「説明台詞っぽい切り口で始まったけど、そもそも〝ゲキケンコウギョウ〟っていうのが何だか分かりませーんっ!」

「剣術の在り方が少しずつ変わり始めた明治維新後に盛んに行われた見世物です。武士の世が終わって廃れ始めた剣術の価値をもう一度、全国に知らしめる為、幕末以来の名だたる剣豪たちが参加したと聞いております。彼らは古い時代からの使者なのでしょう」

「つまり、サムライ魂みたいな何か⁉ よ、よっしゃあッ! 前後の脈絡とかもうわっかんないけど、そういうことなら戦闘曲メドレーで行ってみよーか! 練習ナシのぶっつけ本番だから失敗にはツッコミもナシの方向でぇっ!」


 物知りな見物客が披露した〝げきけんこうぎょう〟の解説に頷き返した女性シンガーは自らの頬を叩いて気を引き締めるなりアコースティックギターを掻き鳴らし始めた。断ろうと思えば断れたはずだが、周囲の熱気に飲まれて後に引けなくなったのだろう。

 彼女が奏でる激しい旋律に野次馬たちは誂え向きとばかりに沸き立ったものの、捧げられた側の三人はがアニメシリーズ『かいしんイシュタロア』の劇中にて使用される戦闘シーン専用の音楽であることを理解していなかった。

 それだけにキリサメも恭路と共に当惑するばかりであった。この場で繰り広げられているのが命のやり取りであることに誰一人として気付いていない様子なのだ。

 東京の下町で生まれ育った亡き母から「喧嘩は江戸の華」などと聞かされていたが、この野次馬たちも血飛沫が舞うさまを娯楽として見物するつもりなのだろうか。ペルーで亡くなった母も近所で揉め事が起こるたびに勇んで飛び出していったものである。

 覗き見根性が旺盛なだけでなく、本人も殴り合いを辞さないくらい喧嘩好きであった。


「……何のつもりだ?」

「最初は人目につかないビルの中にご案内しようって考えていたんだけど、サメちゃんたちのお陰で別の閃きを貰ったよ」

 寅之助の返事は質問に対する回答こたえなどではなかった。キリサメは無関係な野次馬まで戦いに巻き込んだ理由をただしたのである。明確にこれを示す言葉以外は求めていなかった。

「電ちゃんとは長野で〝鬼ごっこ〟したんだよね? ボクともしてくれるかい?」

「……ふざけるのもいい加減にしろよ。大体、あのときも――」


 茶目っ気たっぷりに片目を瞑って舌を出すや否や、寅之助は野次馬が群がるほうへと勢いよく駆け出した。彼らを突き抜けるようにして穴の外に飛び出そうというわけだ。

 キリサメも寅之助の背中を見送るわけにはいかず、不本意ながら〝鬼ごっこ〟へ付き合う羽目になった。それだけではない。二人に道を譲った野次馬までもが歓声を引き摺りながら後を追い掛け始めたのである。

 ただ一人――恭路だけが工事用フェンスの内側に取り残されている。もはや、アコースティックギターの音色を遠くに聞くのみであった。


「オ、オレはどうすりゃ良いんだァ……」


 当惑を持て余しながら他人の携帯電話スマホを起動させて液晶画面を覗き込むと、すぐに『ユアセルフ銀幕』のサイトが表示され、次いで反政府デモとおぼしき映像が再生された。

 ペルーの言語ことばどころか、小中学校で習うレベルの英語すら覚束ない恭路には投稿者が添えた説明文など全く読めなかったが、動画ビデオの題名にはスペイン語で『七月の動乱』と明記されていたのである。

 液晶画面では暴徒同然の市民とプロテクターに身を包んだ警官隊が市街地の十字路にてぶつかり合っている。いわゆる、騎馬警官までもが最前線に駆り出されており、恭路には合戦の二字以外にたとえる言葉が思い付かなかった。



 商業ビルの工事現場から飛び出した寅之助は竹刀のツカを左の逆手で握り、刀身を背中側に回す恰好で秋葉原の街を駆け抜けていく。その背中を追い掛けるキリサメは抜き身の状態となった『聖剣エクセルシス』を右肩に担ぎ、二つに折り畳んでベルトへ差し込んだ麻袋を尾羽根のように揺らしていた。

 古い時代の武道を体得した点こそ共通しているものの、電知と寅之助の間にはやはり明確な違いがあるのだとキリサメは強く感じていた。それは柔道と剣道ひいては文献からの復古と先人からの継承といった差異を指すのではない。

 道中で殴り合いも挟んだが、電知の場合は同じ〝鬼ごっこ〟でも燃え滾る魂を体現しようというのか、小さな身体で跳ねるように駆けていたが、寅之助は全力疾走しながらも姿勢を真っ直ぐに保ち続けているのだ。芯となる棒を背中に通しているのではないかと錯覚してしまいそうになるのだが、腰から上は微動だにしていなかった。

 恭路の猛攻を避け切った動作うごきからも察せられたのだが、瀬古谷寅之助という剣士は一定の〝型〟に当て嵌めた身のこなしが四肢の隅々まで行き届いている様子であった。或る意味にいて様式美の領域ともいえるだろう。

 その上、速度までもが一定に保たれているのだ。互いの声や息遣いが聞こえる一方、それぞれの得物を突き出しても決して届かないという絶妙の距離感のまま二人は行き交う買い物客たちの間隙をすり抜け、週末の歩道を秋葉原とは反対の方角へと直走る。

 寅之助の背中に『聖剣エクセルシス』を投擲することも考えはしたが、『かいしんイシュタロア』のファンイベントによる影響なのか、夕暮れの足音が近付きつつある時間帯にも関わらず街に人が多いので迂闊に得物を振りかぶることさえ叶わなかった。

 ノコギリ状の刃を喰い込ませ、片足のアキレス腱だけでも引き裂くことができれば確実に有利となるだろうが、狙いを誤ろうものなら無関係の人間を巻き込んでしまう。飛び道具を使いこなせるキリサメにも重量おもみのある『聖剣エクセルシス』を全速力で走りながら投擲し、尚且つ命中させられる自信はなかった。

 未稲救出という急務を抱えた情況ではあるものの、だからといって無分別になって良いわけではない。これを判断できるだけの理性は保っているのだ。


秋葉原このまちで通り魔事件があったことは知ってるかい?」


 キリサメでさえ名称を聞いたことがある大手家電量販店が立ち並ぶ大通りへ入り、高架橋の真下を潜ろうかというとき、寅之助は急に不穏当なことを語り始めた。背後うしろを振り向くことはなかったが、すれ違う他人ひとへ聞かせるはずはなく、話の内容からして独り言の類でもあるまい。

 都道四三七号線に面した歩道である為、風変わりとしか表しようのない〝鬼ごっこ〟へ奇異の目を向ける人々の声だけでなく車道から飛び込んでくる無数のエンジン音にも阻害されて聞き取りにくかったが、彼は肩越しに通り魔事件と述べたのだ。


「……何年か前に起きた無差別殺傷事件のことか……?」

「日本との関わりも深いって聞いてたからひょっとしてとは思ったんだけど、やっぱりペルーでも報じられていたんだね」

「……知り合いの日系人も騒いでいたからな……」


 当該する事件にキリサメは確かに聞きおぼえがあった。二〇〇八年六月に発生し、日本中をしんかんさせた〝凶行〟は海を渡った地球の裏側でも大々的に報じられたのだ。

 路上に捨てられた新聞を読んだのか、ひとづてに聞いたのかは忘れてしまったが、犠牲者が片手では数え切れないことだけは二〇一四年となった現在いまも記憶に留めている。

 〝過去の悪夢〟として仕舞い込むには余りにも生々しく、僅かに記憶を紐解いただけで心が引き裂かれてしまうほどに惨たらしい。事件の是非に関わらず、平成史に残さなくてはならない〝凶行〟の一つであった。


「寅之助、……もしかして、その事件現場は――」


 背中へ突き立てられたキリサメの問い掛けには答えず、寅之助は目と鼻の先に見えている交差点を無視するかのようにガードレールを飛び越え、車道へ侵入していった。

 その様を歩道から目の当たりにした誰もが自殺行為と咎めるのではなく驚嘆の声を上げている。青信号ということもあって絶え間なく行き交っている自動車の間隙を器用にすり抜けていったのだ。後続する恰好で車道に立ち入ったキリサメも同様である。肩に担いだ『聖剣エクセルシス』を車体に接触させないよう寅之助以上に身のこなしがはやい。

 初めて日本に降り立った豪雪ゆきの日にも強風にさらわれてしまった未稲の傘を回収するべく車道へ飛び込んでいるが、それに匹敵するほどの無茶といえよう。

 合奏にもたとえられる無数のクラクションや運転手ドライバーの怒号を背中で受け止めつつ車道を横断したキリサメは、唖然としている歩行者たちを掻き分け、寅之助が吸い込まれていった路地裏へと自らも足を踏み入れた。

 何やら如何わしい商品を取り扱っていそうな雰囲気の古本屋と、開店休業のような飲食店の間に広がる狭い一本道であった。元から自動車の進入は禁止されているが、自転車同士が行き違うことさえ難儀しそうである。

 怪しげなジャンクショップや個人経営の電気店が肩を寄せ合うような恰好で立ち並んでおり、『かいしんイシュタロア』を始めとするアニメキャラクターの看板があちこちに設置された賑々しい大通りとは雰囲気が全く異なっている。

 長い間、シャッターが開けられた形跡の見られない古式マッサージ店の軒先に至って、ようやく寅之助は足を止めた。改めてつまびらかとするまでもないことであるが、閉じたままのシャッターに赤いスプレーで描かれた卑猥な絵が目に留まったという理由わけではない。


「サメちゃんが生まれ育ったスラム街もこんな感じの場所だったのかな? ブラジル風に言えば『ファヴェーラ』、ペルーだと『バリアーダス』――だっけ?」


 竹刀のツカを逆手で握り、刀身を背面に回したままキリサメへと振り返った寅之助は、普段から半ばまで閉ざされている彼の瞼を全開にさせるようなことを口走った。

 自分たちが立つ秋葉原の路地裏をペルーの『非合法街区バリアーダス』と比較し始めたのだ。そればかりか、生まれ育った場所という一言でキリサメの精神こころに踏み込んできた。

 尤も、寅之助の見立ては的外れも良いところである。陽の光が遠慮なく降り注ぐ大通りと違って背の高い建物に遮蔽される分、どうしても薄暗くなってしまう――が、一本道に沿って立ち並んでいるのは朽ちかけた掘っ立て小屋などではない。

 サン・クリストバルの丘に広がる『非合法街区バリアーダス』や、他殺体がゴミ溜めに放り投げられていても警察すら気に掛けることがない格差社会の底と比べれば天国にも等しい。一八歳未満は手に取ることさえ許されないグラビア雑誌もジャンクパーツも、キリサメから言わせれば〝富める者〟の趣味に過ぎないのである。

 日秘では路地裏にうごめく〝闇〟そのものが全く違う――それがキリサメの結論であるが、わざわざこれを寅之助に伝えるような義理もなく、これ見よがしに口を引き締めることでキリサメは返答こたえに代えた。

 この場にける問題は寅之助が『非合法街区バリアーダス』の認識を誤っていたことではない。キリサメがペルーという過酷な格差社会の中でどのように生きてきたのか、未稲にも電知にも話していない部分まで掴んでいると仄めかしたことである。


向こうペルーじゃ命の値打ちもびっくりするくらい安いんだろうね。人身売買も横行していたように聞いているよ」

「……どっちも否定はしない」

「ところ変わって、ここは日本。れっきとした法治国家のね。そして、二〇〇八年から一〇年と経っていない秋葉原のド真ん中でもある。そこで物騒極まりないな物を振り回すことがどれだけ際どいのか、〝あの事件〟を知っているサメちゃんには分かるよね?」


 寅之助は二〇〇八年に起きた通り魔事件について再び繰り返した。

 秋葉原という街で刃物に類される武器を振り回し、返り血を浴びることのをキリサメに突きつけたいのだろう。かつての〝凶行〟の再現など絶対に許されないのである。

 それにも関わらず、サブカルチャーの聖地を再び血でけがそうというのか――寅之助はこのことを言外にただしているのかも知れない。数多の命を吸い尽くしてきた『聖剣エクセルシス』を携えるキリサメは、これ以外の受け止め方を思い付かなかった。


「……お前はどこまで僕のことを知っているんだ……?」


 だからこそ、キリサメは問い返さずにはいられなかった。薄々と感じてはいたが、この青年は電知などよりも遥かに己の身辺について詳しいかも知れないのだ。むしろ、知り過ぎているようにも思える。

 そうでなければ何の脈絡もなくペルーの警察組織について言及するはずがないのだ。恭路の不手際に顔を顰めていたとき、寅之助はキリサメのことを〝国家警察の犬〟などと侮辱的な声色で呼んだのである。

 何よりも寅之助はノコギリ状の刃を無数に並べた『聖剣エクセルシス』を目の当たりにして驚きもおののきもしなかったのだ。野次馬のように騒ぎ立てるようなこともなかった。マヤ・アステカ文明が興った中米にて『マクアフティル』と呼称される変わった形状の刀剣や、その持ち主がキリサメであることまであらかじめ認識していた証拠といえるだろう。

 それはつまり、公になるのが望ましくない素性を暴かれたことにも等しいわけである。


「労働者の権利を踏み躙る法律に叛逆せよっていう去年一番大きな反政府デモ――現地では『七月の動乱』って呼ばれているんだっけ? 結構な犠牲者も出たんだってね」

「……一体、どうやって〝あの日〟のことを――」


 アコースティックギターの音色と大勢の足音が風に乗って聞こえてくるような状況下で寅之助から投げ掛けられた言葉にキリサメはいよいよ絶句した。

 応じる言葉など一つとして紡げないほどに打ちのめたと表すほうが正確に近いだろう。

 今まで岳や未稲に確認を取ったこともなかったのだが、日本のマスメディアでも二〇一三年に故郷ペルーで発生した大規模な反政府デモが取り上げられたのだろうか――報道を除いて寅之助が『七月の動乱』の詳細を掴む手段などキリサメには思い付かなかった。

 尤も、これはキリサメの想像力が及ばなかっただけであり、驚くべき真相が隠されていたというわけでもない。


「今はネット社会だよ? サメちゃんが暮らしていた時期のペルーをちょちょいっと検索してみただけさ。例のデモは外務省の安全情報ページにだって概略あらましが記載されているし。さすがに詳しい内容ことを調べるのは骨が折れたけどね。ネット上の百科事典にも外国語でしか書かれてなかったし。翻訳ページを駆使してコツコツ読み解くしかなかったもん」


 キリサメへの返答こたえに代えて自らをデジタルネイティブと称した寅之助は「アナログ丸出しな電ちゃんと違って文明の利器に慣れてるもん」とも言い添えた。


「何か手掛かりになりそうな動画でも転がってないかって『ユアセルフ銀幕』を漁ってみたら『ベテルギウス・ドットコム』っていうネットニュースに行き着いてね。あそこまで体当たりな取材は他にないでしょ。『七月の動乱』の最前線に突撃したんだもん」


 煽り立てるかのような眼差しを向けられるまでもなく寅之助が何を言いたいのか、キリサメには察しがついていた。

 『ユアセルフ銀幕』にてネットニュースを配信している民間運営のチャンネル――『ベテルギウス・ドットコム』のことは〝文明の利器〟に明るくないキリサメも知っている。

 知っているどころの話ではない。これを運営する日本人記者・ありぞのが動乱の舞台となった首都リマにて現地取材を敢行している最中、キリサメは身辺警護ボディーガードを務めたのである。

 まさしく有薗思穂は『七月の動乱』の最前線へと自ら身を投じていた。

 数万もの群衆が〝大統領宮殿〟に押し寄せる少し前――港町カヤオで働く大勢の港湾労働者が銃器密輸に関わって殺害された。独自に調査を進めた有薗思穂はる反政府組織による粛清であったことを突き止め、国家警察と連携する形で事件の首謀者とも接触を図ったのである。

 その最中に『七月の動乱』が勃発し、反政府組織の手引きによって国内へ運び込まれた銃器はデモ隊の中でも特に過激な一派の手に渡ってしまった。全ての果てに待ち構えていた結末を見届けるまで有薗思穂は最前線に立ち続けたのだ。

 収録した映像の大半はペルー国家警察に事件の証拠として押収されてしまったが、怒れる市民と警官隊が首都の中心部で衝突する模様など国内のニュースでも放送されるような映像だけは有薗思穂の手元に残された。これらを編集した動画ビデオが『ベテルギウス・ドットコム』のチャンネルから配信された次第である。

 こそが寅之助の手掛かりになったというネットニュースなのだろう。


「念には念を入れてスペイン語でも検索したら予想的中ドンピシャ。現地の人が別の角度アングルから撮影したらしい動画ビデオも発見できたよ。フードを被って顔を隠していたけど、『聖剣それ』は間違えようがないよねぇ。ていうか、サメちゃん、乗馬もイケるんだね」


 幸運と感心するべきか、執念と恐れるべきか、寅之助はペルーの政治中枢たる〝大統領宮殿〟に程近い大きな十字路にて繰り広げられた大混戦の映像をも発見したようである。

 この当時、キリサメは反政府組織の拠点から銃器の引き渡し場所へ急行しなければならなくなり、国家警察に借り受けた馬を駆っていた。目的地はアメリカ大陸最古にして最大の闘牛場――そこに最速最短で到達する為、大規模なデモの間隙を縫うようにして最激戦地を真っ直ぐに突き抜けたのである。

 寅之助の感想はなしから察するに、おそらくはその姿を誰かに撮られていたのだろう。ビデオカメラは有薗思穂ただ一人の特権ではないのだから、共有サイトに動画ビデオを投稿されたとしても何ら不思議ではなかった。


「サメちゃんのコトを〝国家警察の犬〟って扱き下ろす現地のブログもあったなぁ。最初に読んだときには誰のコトだか気付かなかったんだけど、今まさにキミが担いでる硬くて太くておっきいヤツがブログに書いてあった目撃情報とぴったり合致してね。『強盗の常習犯のクセして警察に媚びを売る恥知らず。ペルーに巣食う寄生虫』だってさ。インターネットの翻訳は変換機能が怪しいから、これは単なる誤訳かもだけどさ」


 ペルーの公用語に精通しているのならまだしも、完全な手探りで自分の足跡を辿ってきたという寅之助に対して、キリサメはおぞましさを通り越してただただ呆れ返っていた。

 通話の最中、故郷ペルーける二〇一四年現在の最低賃金を引き合いに出したのも「キミのコトなら調べ尽くした」という挑発であったのかも知れない。


(……どこまでもこいつは……ッ!)


 身のうちから溢れ出すのは一等激しい妖気である。

 決死の思いで辿り着いた闘牛場にてキリサメと有薗思穂を待っていた結末まで把握した上で、全く同じ〝受難〟を再現したわけである。

 未稲を砂色サンドベージュの少女に見立てたことは明白であり、だからこそキリサメの身は憤怒いかりに打ち震えるのだ。

 過去に関わりのあった〝武闘組織〟を〝殺人集団〟と貶められて激昂した恭路と何も変わらなかった。キリサメにとって想い出の彼方へと去った幻像まぼろしとは、彼にとっての『てんぐみ』というわけである。


「労働階級の怒りを煽って内乱を起こさせようとしたのが『エスパダス』とかいう革命家被れ――だっけ? 国家警察の長官も反政府組織そいつらとの癒着がバレて逮捕されたってペルー日本大使館のホームページに書いてあったよ。スケールが映画並みに壮大でボクの頭じゃ理解しきれなかったけどね」


 断片的な情報をどのような手順で組み合わせ、パズルのように完成させていったのか。これを厭味なくらい丁寧に解き明かしていくのは、当然ながらキリサメの怒りを更に煽る為である。

 荒む心を見透かされている事実が不愉快で仕方ないのに寅之助の挑発ことばを聞き流せず、湧き起こる激情も抑えられないのだ。それがまた堪らなく悔しかった。


「ところでサメちゃんってばどーして危険極まりないデモのド真ん中にいたんだい? 馬を走らせるってことはどこかに向かっていたハズだよね」

「……黙れ……」

「はてさて、一体、〝何〟を目指していたのか――ボクなりに推理を働かせて目撃された場所とその周辺を線で結び合わせてみたよ。サメちゃんにとってのをね」

「……黙れと言っている……」


 〝あの日〟のことを振り返ってはならないと自分自身に何度も何度も言い聞かせるキリサメであったが、寅之助の言葉によって記憶の扉が開かれ、その深淵から忌まわしい悪夢が引きずり出されてしまう。

 長大な壁で富裕層が暮らす高級住宅地と貧民層の居住区が隔てられた『非合法街区バリアーダス』にて革命家被れエスパダスと対峙し、国家警察と共に決戦へ及んだキリサメは勝利という結果すら時代の激流の前には何の意味も為さず、人の命などはもっと儚く砕かれてしまうと思い知らされたのだ。


「ボクらと大して変わらない女の子が例の闘牛場で犠牲になったんだよね。……あれはさすがに気分の良いモンじゃなかったな。向こうの警察もビニールシートくらい用意してあげれば良かったのに。幾らなんでも遺体を新聞紙で覆うってのは――」

「――黙れッ!」


 砂色サンドベージュの少女が幻像まぼろしに変わる前の姿が――子供じみた口喧嘩をしたまま仲直りもできずに見送った後ろ姿が脳裏を掠めた刹那、キリサメは野獣の如き吼え声と共に『聖剣エクセルシス』を振りかざした。

 寅之助を生け捕りにしなければ未稲を救い出すことが困難になるという理屈と、二〇〇八年にこの街で起きた〝凶行〟を訴える理性を破壊の衝動にも等しい憤怒いかりが凌駕し、魂を焦がすほどの妖気が肉体を支配していた。

 頸椎に狙いを定めた一撃は命中すれば確実に寅之助を死に至らしめたであろうが、禍々しい刃は風を裂くことさえなかった。瞬きよりもはやく竹刀の剣先を喉元に突き付けられ、『聖剣エクセルシス』を振り落とさんとする寸前で反射的に上体を逸らしてしまったのだ。

 竹刀のツカを左の逆手で握った寅之助は刀身を背面へ回されていたはずである。それが一瞬の内に右の順手へと持ち替え、半身を大きく開きながら片手一本を直線的に突き出す姿勢となっていたのだ。

 いわゆる、『片手突き』であった。機先を制してキリサメの身動きを封じることが目的であったので敢えて直撃させなかったようだが、本気で打ち込まれていれば虎の牙さながらに喉笛を食い破られたに違いない。


・ルデヤ・ハビエル・キタバタケ――今となっては口にするのも憚られる名前も知っているよ。新聞紙で覆い隠された女の子の亡骸が『ユアセルフ銀幕』で世界中に晒されていることもね」

「……な……に……」


 その瞬間にキリサメの胸を深々と貫くものがあった。無論、それは竹刀の剣先より浴びせられた風圧などではない。

 呆けたように立ち尽くすキリサメの両手から『聖剣エクセルシス』が滑り落ちていった。アスファルトの路面に撥ね返った甲高い音は鼓膜まで達していても脳が認識しないだろう。

 想い出の彼方に去った砂色サンドベージュの少女はという名前どころか、最期の有り様まで全世界に晒されたという。『ユアセルフ銀幕』に投稿アップロードされた動画ビデオはインターネットに接続する環境さえあれば、誰でも自由に視聴することができるのだ。

 寅之助が闘牛場の駐車場付近に横たえられたを晒し者にしたわけではない。心ない誰かが撮影した映像を偶然に発見しただけであるが、四肢の隅々まで憤怒いかりで満たしたキリサメにそのような理屈で歯止めが掛けられるはずもなかった。

 身のうちではち切れた破壊の衝動を目の前の人間に叩き付ける――ただそれだけである。


「サメちゃんってばやっぱり強引。涼しげな顔で肉食獣っぷりを隠すなんてホントにテクニシャンだねぇ」


 喉元に突き付けられていた剣先を左掌でもって押し返すや否や、キリサメは半歩ばかり踏み込みつつ対の拳を突き入れていった。腰の捻りを効かせ、速度も十分に乗っている。皮肉としか表しようもないが、直線的な一撃ストレートパンチにはすがだいら高原の合宿にて電知と共に励んだ訓練の成果が認められた。

 力任せに弾き飛ばされた寅之助も着地を待たずに体勢を立て直し、斜めの軌道を描くようにして竹刀を打ち込んでいく。己の胸部を狙って突き込まれてくる右拳を空中にて迎え撃とうというわけだ。

 キリサメの双眸も竹刀の軌道は正面から捉えている。己の右拳を叩き落とさんとする意図も読み取っている。だからこそ腕を引き戻そうとはしなかった。敢えて下腕を打たせ、刀身の静止を見極めるなり対の左手を伸ばしていく。

 左の五指にて刀身を掴んだキリサメは、これを己の元へと強引に引き付けながら再び対の拳を構えた。真剣であったなら五本の指が全て切断されたかも知れないが、四ツ割の竹片で組まれた刀身にはその心配がない。即ち、渾身の力で引っ張ることができるわけだ。

 急激な力の作用によって寅之助の上体が俄かに傾いた。その顔面へ再び直線的な一撃ストレートパンチを繰り出し、鼻骨を粉砕するつもりであった。


「試合が近いのに無茶するねぇ。破れかぶれは感心しないよ、サメちゃん」


 寅之助は竹刀を通して上体に伝う力の作用には逆らわなかった。無闇に抗えば重心が己の意思を離れ、完全に姿勢を崩してしまうことを経験で知っているのだ。

 『あらがみふうじ』あるいは『しんけん』と呼ばれる技に一度も直撃を許さなかったように彼の身のこなしは精密そのものである。命中する寸前まで引き付けてから首を真横に振り、キリサメの右拳をもかわしてみせた。恭路の打撃よりも鋭かった為に頬を僅かに掠めたが、ダメージと呼ぶ程ではない。

 首から上で巧みな回避動作を披露しつつ、下肢では反撃を仕掛けている。左の足裏でキリサメの右膝を踏み付け、反対に姿勢を崩そうと試みたのだ。

 続けて半歩ばかり踏み込み、彼の右足首に己の左踵を引っ掛けていく。互いの足を絡めて鎌の如く払い、その場にキリサメを横転させようというわけだ。

 からこのような技を仕掛けられるとは想像もしていなかっただけにキリサメは完全に虚を衝かれてしまった。刈り取られる寸前に右足を引き抜いたことで横転だけは免れたものの、それが為に軸足一本で姿勢を維持するような恰好になったのだ。

 地に伏せて獲物を狙う虎がこのような好機を逃すはずもない。寅之助は比喩でなく本当にキリサメの懐深く飛び込んでいった。

 これもまたではない。両腕を十分に伸ばせなくては竹刀も満足に振るえないわけだ。折り畳んだ右腕から繰り出されたのは肘打ちである。


「それは反則だろう。少なくとも剣道じゃない」

「ご明察。『剣道じゃない』ってトコまで含めてね」


 両手で竹刀のツカを握ったまま右肘を突き出してきた寅之助に対し、キリサメは『コンデ・コマ式の柔道』を初めて目にした瞬間の希更と同じことを口走っていた。

 素早く軸足を入れ替え、左膝を突き上げることでを弾き飛ばしたものの、立て続けに剣道家らしからぬ攻撃を仕掛けられた当惑は憤激いかりをも上回っている。僅かに間合いを離した寅之助に反撃の横蹴りを放ったが、上手く狙いを定められずに逃してしまった。

 それはつまり、に戻ったことも意味している。先程のような片手突きを警戒して追撃を踏み止まったキリサメは両腕をだらりと垂れ下げながら寅之助の出方を窺い始めた。今度は彼のほうが地に伏せる虎となったわけだ。

 不意に襲い掛かった当惑はキリサメの四肢を支配していた破壊的な衝動をも断ち切ったのである。僅かばかり理性が呼び戻されたが為にキリサメは自分の呟きを嘲り、唇を噛んだ。

 寅之助が語った名前――・ルデヤ・ハビエル・キタバタケにどうしても触れたくなくて前後の脈絡とは無関係のことを咄嗟に呟いていたのだ。咄嗟に飛び出したものとはいえ、これでは現実逃避であろう。

 その様子を眺める寅之助は竹刀のツカを再び左の逆手で握り、四ツ割の竹片でもって拵えた刀身を背面に回していた。


「……今のは電知と同じ『あて』……か」


 キリサメには寅之助が悪ふざけのつもりで反則技を仕掛けたとは思えなかった。

 立て続けに足を攻めて動きを鈍らせ、これに対する反応によって姿勢を崩した上で肘を突き込むという身のこなしは流麗そのものであり、一つの体系として完成されていた。僅かとて乱れなかった足の運び方が修練を経て体得した技であることを証明している。

 そして、それは『コンデ・コマ式の柔道』に組み込まれた『あて』と同質の術理及び戦法に基づいていた。肘打ちを放つ際の踏み込み方などは電知の動作うごきに近似しているくらいであった。


「お前と電知は本当に幼馴染みなんだな。……嫌というほど痛感したよ」


 剣とやわらの違いこそあれども二人は共に武道を志す者同士である。ひょっとすると肩を並べてに『あて』の稽古に励んでいたのかも知れない。キリサメの口から滑り落ちていった呟きに対する返答こたえのつもりなのか、寅之助はこれ見よがしに口の端を吊り上げている。


「電ちゃん風に言えば、『タイガー・モリ式の剣道』ってトコかな。正確には森寅雄タイガー・モリが生きていた時代の剣道なんだけどね。当時はまだ『剣道』とも呼ばれていなかった――そんな時代の古い技だよ」


 受け取り方によっては漫画やアニメの剣豪が発する決め台詞のようでもあり、寅之助が森寅雄タイガー・モリの名に一礼するよりも早く背後で大きな歓声が起こった。

 幾つもの弦が乱れ飛ぶような激しい旋律が先程から背中に届いているのだから、わざわざ振り返って確かめるまでもない。商業ビルに群がっていた野次馬たちがとうとう追い付いたのである。

 しかも、背後から圧し掛かってくる疎ましい声は大通りへ駆け出す前と比べて格段に大きくなっているではないか。寅之助の肩越しに一本道の向こうを窺えば、二手に分かれて回り込んできたと思しき人々も見受けられた。

 周囲を見回すまでもなく野次馬の数が倍近くに増えていることは察せられた。市街地を駆け抜けていく珍妙な〝鬼ごっこ〟を目撃して興味を引かれたのだろう。工事用フェンスから飛び出す前に寅之助自ら〝げきけん〟と宣言したこともあり、二人芝居と勘違いされている可能性も高かった。


「やっぱこれ、ファンタジーRPGロープレのデモンストレーションじゃね? ブレザーのほう、さっき見掛けたときは甲冑姿の騎士と一緒だったもんよ。今日、アキバで新作発表会なんてあったっけ? 今日のイベントなんて『かいしんイシュタロア』のトークくらいしか思いつかないけど」


 野次馬たちの会話に耳を澄ませば、キリサメの予想が概ね当たっていることも確認できた。彼らが口にした甲冑姿の騎士とやらに心当たりはないものの、パソコンゲームを原作とするキャラクターのブレザーで扮装した少年剣士と、マヤ・アステカ文明の刀剣マクアフティルを携えた薄気味悪い少年が秋葉原という虚構との境目が曖昧な世界にて対峙しているのだ。

 およそ現実とは思えない場景であり、何らかのと錯覚してしまうのは無理からぬことであろう。


「一般人の女の子がどうして国家警察との銃撃戦に巻き込まれなきゃいけなかったのか、そこまではボクにも分からない。調べがついたのはせいぜい名前と年齢くらいだったけど、同い年くらいのコの他にサメちゃんが闘牛場へ向かう理由が見当たらないのも事実でしょ。それでボクの推理力が冴えたんだけど、やっぱり目当てはちゃんだったみたいだね。我ながら名推理だよ。ところで、彼女とは一体、どういう関係――」

「――は僕の幼馴染みだ。……だから、……だから〝あの日〟のことは二度と口にしないでくれ。あいつの為にも、遺された家族の為にも……」


 寅之助から目を逸らして俯き加減となったキリサメは喉の奥から掠れた声を絞り出すだけでも苦しかった。何かを口にするたびの亡骸を砂色サンドベージュの想い出から掘り起こし、世界中へ晒すような気持ちになってしまうのだ。

 これ以上、たった一人の大切な幼馴染みについて触れて欲しくなかった。相手が寅之助だから口を噤むよう求めているのではない。望んでもいない銃撃戦に巻き込まれて犠牲となったの墓を暴き、見世物にするような真似など誰にもして欲しくなかった。

 これほどまでに人の尊厳を弄ぶ行為など他にあろうはずがない。


「今はもう痛みも何もかも忘れて……せめて安らかに永眠ねむっていて欲しいんだ……」


 辺り一面に響き渡る怒号ではなく正面の相手にしか聞こえないほど小さな慟哭を洩らしたキリサメは、足元に転がっている『聖剣エクセルシス』から寅之助へと目を転じた瞬間に全く言葉を失ってしまった。

 視線を巡らせた先に捉えたのは彼が初めて見せる表情かおであった。

 電知や恭路など自分以外の誰かを無慈悲に翻弄し、激烈な反応を示した相手を嘲笑うだけであった青年が後悔の念を滲ませていたのである。見えざる手によって感情の回路サーキットを切り替えられたとしかキリサメには思えなかった。

 それほどの豹変であったのだ。現在いまの寅之助は紛れもなく己の失言を恥じ入っているが、ほんの数秒前までは良心という言葉すら知らないかに思われたのである。

 余人に曝け出すべきではない面相を自覚したのか、キリサメが双眸を瞬かせる間に先程までのような薄笑いを浮かべたが、もはや、享楽家の立ち居振る舞いすらままならない。

 内面から滲み出す底意地の悪さと顔面に貼り付けた作り笑いくらいは何事にも無感情なキリサメであろうと見分けられるのだった。


「地獄に落ちちゃったら、安らかにオヤスミってのは無理なんじゃない。サメちゃんの幼馴染みってコトは同じ境遇のコなんでしょ? ペルーの冥界事情なんか知らないけど、日本だったら閻魔大王から極楽浄土とは正反対の世界へ送られるハズだよね、うん」


 寅之助の声は慟哭を吐き出した瞬間のキリサメと同じくらい弱々しかった。哀願にも近い言葉を心ない挑発でもって撥ね付けようとしたらしいが、今は他者を嘲るだけの力が感じられず、虚勢の域を出ていない。

 遺された人々が抱える苦しみの形に触れてしまったことを心の底から悔やんでいるのではないかとキリサメには思えた。それはつまり、真っ当な人間にのみ宿る良心を寅之助も捨ててはいなかったということである。

 他者の慟哭を受け止められる人間でありながら、どうして未稲の心身をけがすような事態を引き起こしたのか。狂乱の背景を理性でもって推し量ること自体が誤りであると重々承知はしているのだが、瀬古谷寅之助という矛盾の塊がキリサメにはどうしても理解できなかった。これでは二重人格としか考えられないではないか。

 ついに寅之助までもが押し黙ってしまった。作り笑いで取り繕いながらも次に紡ぐべき言葉を見失ってしまった様子である。

 遠巻きに見守る野次馬たちは「もっとガシガシ打ち合わなきゃ面白くないぞ~」と無責任に囃し立てながら、膠着状態に陥った二人を携帯電話のカメラ機能でもって遠慮なく撮影している。返り血を浴びたほうがSNSで盛り上がるという不謹慎な声までシャッター音に混じっていた。


(……毒を食らわば皿まで――か。いっそまとめて叩き潰してやろうか……)


 二〇〇八年に発生した通り魔事件を考えれば、彼らが撮影した写真はキリサメにとって致命的な証拠となるだろう。目の前で繰り広げられているのが現代に甦った〝撃剣興行みせもの〟などではなく正真正銘の殺し合いだと気付いた瞬間、歓声は絶望の悲鳴に変わるはずだ。


「そうだよな、やっぱアレ、来月デビューする『天叢雲アメノムラクモ』の新人選手ルーキーだよな? 経歴が怪し過ぎるからバロッサみてーな『客寄せパンダ』かと思ったけど、めちゃくちゃ動けてるじゃんよ! 城渡みたいな〝賞味期限切れ〟なんかメじゃねーよ!」

「どっかに隠しカメラが設置されてんじゃね? 表木だっけ? あのPV作ってる人、法律に引っ掛かりそうなムチャクチャなコトも平気でやってるもんな」

「じゃあ、これって『天叢雲アメノムラクモ』のゲリラ撮影か? おいおいおいおい、ま~た常識ねェコトやらかしてんのかよ! 深夜番組の体当たりロケみたいなノリ、嫌いじゃないぜ!」


 誰かがキリサメの正体に気付き、これを受けて野次馬たちは更に盛り上がった。この頃になると界隈の人々も軒先へと姿を現し、キリサメと寅之助を興味深そうに眺めている。

 今から始まる〝げきけん〟は野次馬たちが期待する〝興行〟から掛け離れたものであり、来月のデビュー戦を自ら叩き壊す〝凶行〟である。城渡マッチとの約束を破り、養父たちの期待を裏切ることにも等しかった。

 それら全てを飲み込んだ上でキリサメはアスファルトの路面に横たわる『聖剣エクセルシス』のツカを握り直し、その先端を依然として沈黙し続ける寅之助の鼻先に突き付けたのだ。

 全身から溢れ出した妖気がノコギリ状の禍々しい刃を満たしている。

 変調の理由など質しているときではない。今、己が何を為すべきなのか、二度とは忘れまい。秋葉原という町で暴力性の顕現あらわれを拾い上げたことが何を意味するのか、これを認めた寅之助が両肩を震わせたのもキリサメの見間違いではないはずだ。

 もはや、寅之助は視線を交わそうともしないのである。

 言葉巧みに他者の心を揺さぶり、狂気に駆り立てる所業などは故郷ペルーを混乱に陥れ、ひいてはを冥界の門へといざなった男――『エスパダス』と似ているように思えたのだが、平和な法治国家に生まれ育った〝日本人ハポネス〟だけに善かれ悪しかれ何万もの市民を弄んだテロリストほど人の命と死を割り切ることができないらしい。

 その事実に何故だか安堵を覚える自分がキリサメには不思議でならなかった。


「そーだよ、サミー。生きてちゃいけない存在は根絶やしにしなくちゃ。一人でも仕留め損ねたらみたいな〝犠牲者〟が増えちゃうもん。そんなの、ダメだよね?」


 野次馬でも寅之助でもなく、砂色サンドベージュ幻像まぼろしが――想い出の彼方に消えたはずの故郷ペルー言語ことばで笑い、『聖剣エクセルシス』の刀身を人差し指でもって楽しそうに撫でていた。

 血で穢れた忌むべき刃に幼馴染みが触れるたび、脳裏を掠める未稲の笑顔がひび割れた写真立てのように軋み音を響かせるのだった。


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