その8:急行~爆走×爆熱×爆裂!友情合体クロスクラッシュ!!
八、急行
耳を澄ませば春から夏へと移ろう波音が聞こえてくる夜――御剣恭路は油と埃の臭いが充満したガレージの一角にて黙々と作業に没頭していた。
大型バイクの修理である。シャシーから取り外されたエンジンは部品単位まで細かく分解され、一つひとつがぶつかり合わないよう間隔を空けて作業台の上に置かれている。
クランクケースを手元に移し、カバーと重なり合う部分を
鼻の下に髭を蓄え、額に鋭利な剃り込みを入れた金髪のパンチパーマという凶暴な人相とは裏腹に仕事には真面目一徹に取り組んでいるのだろう。
ツナギ姿の恭路が一人寂しく佇んでいるのは城渡マッチが経営するバイク店に併設されたガレージである。居候の身である彼は都内の
金属を擦る音へ秒針の旋律を合わせる壁掛け時計は二三時を指していた。
そこに腹鳴りまで混じった。喧しい腹を黙らせようと左右の拳を何度も叩き付ける恭路であったが、空になった胃を誤魔化せるはずもなく、喉の奥から溢れ出す切ない溜め息も止められなかった。
少しばかりやつれたように見えるのは空腹の
作業の邪魔にならないようガレージの片隅へ追いやられている〝ゾク車〟――バイク全体を一匹の龍に見立てた『ガンドラグーン
このとき、標的とされたキリサメは長野の地方プロレス団体『まつしろピラミッドプロレス』の合宿に参加している最中だった。つまり、恭路は彼らの活動まで妨げてしまったわけである。
無論、それは城渡本人が望んだことではなく、恭路一人の暴走だ。キリサメに同行していた麦泉から連絡を受けて事態を把握した城渡は大勢の人たちに迷惑を掛けた舎弟へ償いとして
『まつしろピラミッドプロレス』から城渡の側へと身柄を引き渡された恭路は有無を言わさずに湘南の自宅まで連行され、このガレージで正座のまま数時間に亘って叱られ続けたのである。
怒号を張り上げたのは城渡一人ではない。彼に同道して
城渡より僅かに年上で、四十路に入ったばかりの特攻隊長は一〇代前半の頃から敵対する暴走族チームとの抗争に明け暮れてきた筋金入りの武闘派である。六気筒のモンスターバイクで突撃し、相手を車体ごと薙ぎ倒すことから破壊神の如く恐れられていた。自分を追跡してきた白バイに飛び掛かり、高速回転する後輪でもって車体を真っ二つにした話は湘南の暴走族たちの間で語り草となっている。
迷惑を被ったキリサメ当人から寛大な措置を求められていなかったら特攻隊長は不始末を仕出かした舎弟と自身のモンスターバイクを鎖で括り付け、一晩中、首都高を引きずり回したに違いない。何しろ血も涙もない男なのだ。自分に立ちはだかる敵を撥ね飛ばすことも躊躇わないのである。
バイクを駆使した戦いを恭路に教えたのも
特攻隊長よりも遥かに恐ろしいのが副長の二本松だ。彼は淡々とした口調で恭路に仁義というものを説いていたが、その間にも全身から凄まじい殺気を漂わせており、恭路は寿命が縮む思いであった。
キリサメの直訴もあって親衛隊長解任などの処罰はなく、城渡から脳天に握り拳を落とされるだけで済まされたものの、正座から解放される頃には生え際の後退を確かめてしまうほど恭路は疲弊し切っていた。負けん気だけは桁外れの青年が心身ともに打ちひしがれるくらい三人の幹部は厳しかったのである。
それだけ恭路の仕出かした不始末は深刻ということだ。
「――オレなりに人の道っつーモンを教えてきたつもりだったけどよ、どうやら何も伝えられてなかったらしいな。お前の親父にも面目立たねぇぜ……」
敬愛してやまない城渡が最後に吐き捨てた呟きに恭路の心は深く抉られ、鼓膜へ蘇る度に溜め息混じりで項垂れてしまう。それは彼にとって死刑宣告よりも重い言葉なのだ。特攻隊長も総長の一言に大きく首を頷かせていた。
いっそ破門を言い渡されたほうが気は楽であろう。誰よりも尊敬する相手に自分のことで後悔の念を抱かせてしまったのだ。これに勝る苦しみなど恭路には思い付かなかった。
気持ちがどんどん落ち込んでいき、ついには作業にも身が入らなくなってしまった恭路は右手に握っている
落胆の二字を背中に貼り付けている恭路の後頭部が強烈に揺さぶられたのは、今まさに喉の奥から空気を吐き出し終えようという間際のことである。
「なっ、なんだよ、一体――」
突然のことに慌てふためき、足元で撥ね返った甲高い音に目もくれず咳込みながら背後を振り返った恭路は、店舗も兼ねた母屋とガレージを繋ぐドアの辺りに慣れ親しんだ顔を見つけるなり両手を垂直に伸ばして直立不動の態勢となった。
麦畑のように明るい茶髪を肩甲骨の辺りまで自然に伸ばしたその人は城渡の妻――
「あ、
「なぁに畏まってるんだよ。雅彦はともかく私はあんたに腹なんか立ててないってのに」
日付が変わるまで一時間を切ったというのに
次に恭路の双眸が捉えたのは彼女が両手で持つ木製のトレイであり、その上に鎮座する大きなチーズバーガーだった。二枚に切り分けられた丸いパンも、その間に挟まれたハンバーグも焼きたてのようだ。食材の中には香辛料も含まれているのだろう。ほんの少し吸い込んだだけで唾液が溢れ出す香りが空きっ腹を刺激した。
その途端に一等大きく鳴いた腹を両手で押さえ、それでも鎮まらないことが恥ずかしくなって俯いたとき、恭路は足元に転がっている缶ビールに気付いた。
僅かに窪んでいるこれを後頭部に投げ付けられたのだ。
「溶けたチーズが冷めて固まっちまうと台無しだ。意地張ってないでさっさと食べな」
「で、でも、姐さん……」
「さっき本人にも確認してきたけど、雅彦だってあんたにメシ抜きの刑なんか言い渡してないだろ。剛たちにハンストで抗議したいってンなら話は別だけど?」
「そ、そんなことッ! ……するわけねェッス。今度のコトはオレが全部悪いんで……」
「素直に反省できるのがあんたの良いところだよ」
言葉遣いは少しばかり乱暴だが、そこには確かな愛情が感じられる。城渡たちに続いて
感情表現の激しさなど行動の一つひとつが極端な恭路は何時でも元気が有り余っている同世代以上に燃費が悪く、
空腹で真っ先に弱るのは
夕食の支度が整ったと
不始末の報いとはいえ、実の親より慕う相手から無視され続ける状況は「こうなったのもアマカザリの
心身とも限界まで追い詰められているときに大いなる優しさで包まれた恭路は
食事にわざわざ缶ビールが付けられたのはそろそろ仕事を切り上げて休めという無言の指示であろう。しかも、
既に二回ほど留年して
城渡夫妻の優しさを噛み締めるようにして瞑目し、次いで深く深く首を頷かせた恭路は双眸を開きながら
苦笑いでこれを受け止めた
その途端に双眸から熱い雫が溢れ出したが、両手が塞がっているので拭うことも隠すこともできない。
「雅彦の
真隣にパイプ椅子を並べて腰掛けた
「大胆にも程があるよ。まさか、雅彦の対戦相手をバイクで轢こうとするなんてね」
「聞いたんスね、今度のこと……」
「てゆーか、あんたの書き置き見つけたときから大変だったさ。雅彦の奴、リーゼントをキメんのすら忘れて取り乱しまくってたよ。それは呼び出された剛も一緒だったけどね」
「オレ、そんなヘンなコト、書きましたっけ?」
「言葉足らずにも程があるっての。雅彦なんて行先は青木ヶ原の樹海だって早とちりしてあんたの故郷に――山梨まで単コロ飛ばしたくらいさ。剛も一昨日だけで神奈川を何周したか分からないよ」
世界最強と信じて疑わない〝総長〟へ挑戦するのに相応しいか否か、
加えて誰にも気取られない夜明け前の出発だ。人生を悲観して蒸発したと勘違いされても不思議ではあるまい。
「……雅彦から聞いてないかもだけど、剛の呼び掛けで『
「……
『
総長と副長ばかりか、仲間たちにまで大変な迷惑を掛けていたのである。次の集会では額づいて詫びなくてはなるまい。その場で袋叩きにして貰わなければ二度と彼らのことを仲間と呼べないほどの罪悪感が恭路の心を埋め尽くしていた。
「……少しは懲りたみたいだね」
両頬に食べ物を含んだまま嗚咽するという幼児のような姿で恭路は頷き返した。
もはや、不遇の原因をキリサメに押し付けてはいられなかった。
「雅彦はあんたのコトが可愛くて仕方ないんだよ。あのバカには腹が立つコトだってたくさんあると思うけどさ、そこだけは酌んでやって欲しいね」
「あたしだって同じさ」と頭を撫でられ、既に一杯となっている口の中へフライドポテトまでねじ込まれた恭路はますます声を詰まらせた。改めて
「一〇年ひと昔――いや、二〇年前だってちと苦しいか。あたしらの若い頃は湘南をブイブイ言わせてた
「……ちっとも応えられてねェッスよ……昨夜だって副長にも特攻隊長にも永久追放にしたろうかって脅されまくったし……きっと総長だって……オレ……今度という今度は愛想尽かされたんじゃねェッスかね……」
「
「……ホント……すんませんッス……」
自分たちの子ども――そういって下腹部を撫でる
城渡夫婦の間に血を分けた子どもがいない理由を詮索したことはなかった。恭路が教えられたのは二人の馴れ初めくらいである。
今でこそ主婦業が板に付いている
その縁から男女の関係となり、
法律を無視した危険行為でもって社会への反発を示す暴走族そのものが今では時代錯誤と見なされ、相手にされなくなっている。一九八〇年代には毎日のように繰り返されていた縄張り争いが昨今では滅多に発生しないのは、それ自体が暴走族チームの減少と同じ意味を持つからである。
必然的に若手不足となり、世代交代に失敗した挙げ句、辞めるに辞められない中年層が肩を寄せ合うチームも珍しくなかった。『
つまり、恭路のような若者は希少種といっても過言ではない。
「これくらいのコトでへこたれるんじゃないっての、あんたらしくもない。最後の一線は越えずに
「……
生来の怠け癖もあって遅刻や無断欠席が多い上に成績も学年の底辺から数えたほうが早い恭路は毎年のように単位が足りず、学生服のまま成人式を迎えてしまったのだが、どれだけ回り道をしても高校だけは卒業するよう城渡から厳しく言い渡されていた。
この約束があったればこそ年下たちに混じって教室の机に齧り付いているわけだ。そうでなければ退屈で無味乾燥な高校など遥か昔に自主退学しているだろう。二回も留年すると入学当時から親しくしていた
かつて城渡たちが袖を通した物と同じ学生服を着続けるのは、それ自体が総長の恩に報いたいという直向きな想いであった。
そこまで考えているのなら学業にも真面目に取り組むべきだろうと二本松から注意されたこともあるが、それはまた別の話である。
「それもまた別の話だよ。あたしが言ってるのは昨夜のコトさ。あんた、剛が相手でも口を割らなかったんだって? 恭路のお陰で雅彦はメンツを保てたようなモンだ」
「……あっ、あれは別に――」
苦笑交じりで紡がれた〝別の話〟から恭路は
このガレージに何時間も正座させられた昨夜のことであるが、叱責の合間に二本松から城渡の対戦相手――キリサメ・アマカザリの練習内容について問い質されたのである。
「――まさか、
二本松は声色こそ落ち着き払っていたものの、キリサメ攻略の手掛かりとなり得る有益な情報がもたらされなかった
「副長ともあろう人が何の冗談スか⁉ ンなこと、
自身が所属する暴走族チームの副長から恫喝された恰好であるが、恭路は一瞬たりとも
二本松の問い掛けに対する答えを持ち合わせていなかったわけではない。『まつしろピラミッドプロレス』の強化合宿を手伝うように命じられた後、キリサメの稽古を至近距離で観察する機会にも恵まれたのだ。
合宿場である山荘の庭に設置されたプロレスのリングにて空閑電知と共に行った打撃練習は最も印象に残っている。
最初の内は白い
誤って直撃を被ればたったの一撃で意識を刈り取られる恐れもある。一打必倒の戦慄はパンチからキックの練習に切り替えた後も変わらなかった。
小技を経由して的確に攻め手を組み立てれば対戦相手にとっては相当な脅威となるだろうが、キリサメはこうした打撃の基礎を疎かにしてきたらしい。それどころか、速度重視で動作の小さいパンチやリーチの長い直線的な
目付きの悪さを見咎めて難癖をつけてくる素人が相手ならばともかく、仮にも〝プロ〟の肩書きを背負う選手にあからさまな急所狙いが届くはずもあるまい。風変わりな柔道衣を纏っている電知のほうが打撃は遥かに巧みであった。
一打必倒に逸って両腕をむやみやたらと振り回すのは恭路も同様であるが、己の拙劣ほど本人は気付かないものである。〝ドングリの背比べ〟という自覚もないままキリサメのことを胸中にてせせら笑っていたものの、変化のときはそれから間もなく訪れた。
「長野でおれの
「相手の姿勢を崩して柔道の投げに持っていくのが電知の
「
「……そうだったな。あの痛みはまだ
電知の実演や指導を吸収する内にキリサメも少しずつ複数のパンチやキックを打ち分けられるようになっていった。
横薙ぎのパンチを敢えて電知に
粗削りな部分が多いことは否めないが、小技と大技を組み合わせるという思考も徐々に馴染みつつある。己の両拳を見つめながら首を頷かせたのは成長の実感であろう――城渡総長との対戦に相応しい条件が一つずつ満たされていく過程を恭路は己の双眸でもって確かめていた。
「イイ感じに仕上がってきたじゃねーか、キリー! 今くらいの回し蹴りならマッチの野郎だって一溜まりもないぜッ!」
「おいこら、おっさん! 人の台詞を横から
「横で見守ってるからこそ分かるモンがあるんだよ! 自慢の
リングサイドにて打撃訓練を見守っていたのは古銭の刺繍を水玉模様に似せて全体へあしらうという奇抜な陣羽織を纏った八雲岳である。
電知が翳すミットへの打撃を
立ち技系の格闘技団体の『
だが、恭路は口を真一文字に引き締めることで
キリサメには果たすべき義理などない。迷惑を掛けたことへの罪滅ぼしとして二本松の指示に逆らったわけでもない。それどころか、息子がやりたいことへ全力で付き合ってくれる〝父親〟の存在が眩しく、己の境遇を振り返って妬ましくなったくらいだ。
数年前まで生まれ故郷の山梨で暮らしていた恭路は『
伝え聞いた噂によれば横浜でアジア系マフィアと縄張り争いを演じる暗黒街の
幼い頃に両親が離婚した為に実母とも連絡が取れず、親戚もいない湘南へ独りぼっちで放り出される形となったとき、温かく迎え入れてくれたのが城渡夫妻であった。
その恩は海よりも深く、山よりも高い。城渡へ報いることができるのなら恭路は泥でも毒でも喜んで呑むつもりだ――が、二本松が求めるような告げ口を喜んでもらえるとはどうしても思えなかった。
だから、恭路は口を噤んだ。『
キリサメとの試合に向けた二本松の作戦立案には貢献できるかもしれないが、同時に卑劣な告げ口は城渡に対する最大の侮辱であり、裏切りであった。恭路が尊敬し、その背中を追い掛ける総長は如何なる相手にも正々堂々と立ち向かう
これ以上、城渡を失望させたくなかった。何よりも実父のように人の道を踏み外すわけにはいかない。結局、二本松から追及を受けることはなく、合宿に関する質問もすぐに打ち切りとなったのだが、今でも恭路はその
対戦相手の弱点を聞き出そうとした二本松を「クソみてェな真似すんな」と一喝し、黙らせたのも城渡その人だったのである。
「――総長のメンツを守るってェのは誰もがやってる当たり前のコトですし、別に褒められるようなモンでもねェッスよ?」
「あんたのそういうトコロがね、みんな、憎めないんだよ」
大仰なくらい首を傾げる恭路に
彼は副長から心根を試されたことに全く気付いていない。回り道が多くとも直向きな恭路はまさしく人として越えてはならない〝最後の一線〟を無意識に守っていたのである。
そこに御剣恭路という青年の性情が顕れ、彼を取り巻く誰もが安堵するのだった。
当の恭路は口の中へ一気に詰め込んだフライドポテトを飲み下そうと缶ビールの
「
「そうしまッス」
悲惨としか表しようのないこの有り様も城渡の思し召しに違いない――
『タイガー・モリ』と呼ばれた伝説の剣道家――森寅雄の系譜を継ぐ
このときには恭路をも呑み込む〝汚染〟が既に始まっていたのだ。
多大な迷惑を掛けてしまった仲間たちには『
恭路としては甚だ不本意であるが、これを撥ね付けるわけにもいかず、仕方なく湘南から『八雲道場』へ『ガンドラグーン
それが五月半ばの週末のこと――未稲がゲーミングサークルのオフ会に出掛けた当日であった。恭路は謝罪に訪れた直後、シート後部へ無理矢理に跨ったキリサメから秋葉原まで向かうよう強いられた次第である。
未だかつて聞いたことがないほど激烈な語調と、何よりも双眸から漂わせる妖気に
最初こそ「オレはタクシーじゃねぇんだぞ。カネ取るぞ、クソッたれが」と舌打ちを続けていたものの、話を聞く内に事態の深刻さを認識し、黙って従うようになった。キリサメに対する贖罪というよりも義憤に駆られたのである。
普段の無感情とは正反対の強硬な態度になってしまうのはそれだけ逼迫している証しであり、キリサメの心情を
「――それじゃ未稲のヤツ、そのナントカっつうガキの人質になっちまったのかよ」
「……人質なんて生易しいものじゃない。今頃、みーちゃんはヤツラの嬲り物に……」
「人の背中でクソ生々しいハナシをすんじゃねぇよ! 日本にはな、『信心深けりゃイワシの頭も泳ぎ出す』って諺があるんだ!」
「ひょっとして『イワシの頭も信心から』と言いたいのか?」
「悪いほうに考えてっとマジでその通りになっちまうってこった! 手前ェの目で確かめたワケでもねェのに最悪のシナリオを決め付けるなっての!」
「……何でもかんでも前向きに考えるあんたらしいな……」
「よ、よせやい、てめー! 急に褒められたら照れちまうぜ!」
「……話の噛み合わない相手がここにも一人……」
麻袋に納まったままの『
焦る余り、キリサメは無防備の状態で出発を促したのだが、彼は危険行為すら愉しむべくしてバイクを乗り回す暴走族ではない。紛れもなく〝一般人〟である。同乗こそ了承したものの、恭路も安全の確保だけは譲らなかった。
非常識や無神経を絵に描いたような青年が紡ぐとは信じられない正論で押し切られてしまったキリサメは言い訳もできずに屋内まで戻り、大災害に備えて納戸へと仕舞われていた防災用品の中から熱硬化性樹脂のヘルメットを発見したわけである。
玄関や窓の施錠も改めて言い付けられたのだが、本来、為さねばならないことから掛け離れた日常の動作を行う間に身の
世界中の誰よりも分別を欠いているとしか思えない
調子付かせると鬱陶しい
剥き出しの頬に受ける風が初夏の暑さを
半ばまで閉ざされた双眸に獰悪な妖気を湛えるキリサメが跨ったゾク車は代々木公園横の都道四一三号線を駆け抜けようとしていた。
未稲の身を案じれば今にも破壊的な衝動が暴発しそうになるのだが、その一方で恭路の肩越しに吹き付けてくる風を涼しく、心地良いものと認識もしている。
ごく普通の人間らしい感受性と、肩に圧し掛かる暴力性の
「快楽目的の愉快犯っつうコトは何となく伝わってきたがよ、未稲が
一方の恭路はゾク車のハンドルを握りながら
未稲が狙われた理由も幾度か問われたものの、キリサメ自身が寅之助の真意を測り兼ねているので答えようがない。背景が全く不明瞭のまま、キリサメたちを置き去りに深刻な事態だけが進行し続ける構図であった。
「……こういうことを仕出かすような人間には見えなかったんだけどな……」
「出たよ、お約束の台詞! マジにイカレた真似する輩ってのは見た目は案外、ソフトな印象なんだよ。そういうヤツが急にスイッチ入ってバカの暴走特急に成り下がるんだぜ」
「そんなの、ただの偏見だろ……」
恭路の見立てを一言で切り捨てるキリサメではあるものの、思い当たる節がないわけではない。
そういう意味では『組織』のリーダーと寅之助は似ていなくもない。前者は貧富の格差に蝕まれる
人は見た目では判らない――言葉にすれば簡単だが、欺かれた側からすれば相手が秘めた悪意に気付けなかったことを悔やんでも悔やみきれないのであった。
「こういうときこそオレの名推理が唸るぜ。手前ェの犯罪に酔いしれる野郎は一人でシコシコお楽しみってパターンが大半だ。
「経緯なんかどうでもいい。寅之助も『デザート・フォックス』も五体満足で返すつもりはない。他にも協力した人間がいるなら残らず捜し出す。この話を聞いてみーちゃんのことを虚仮にするヤツがいるなら、そいつらもまとめて叩き壊す」
「ヤキ入れる
「そこまで手を貸してもらおうとは思ってない」
「てめーの為じゃねぇ、こいつは総長の為だ! ……とにかく次の試合が取り止めになるようなバカだけはやるなよな。総長の顔に泥塗ったらマジで承知しねぇぜ」
「……善処はする……」
曖昧な返事に恭路は「何だよ、煮え切らねぇッ!」と一等大きな舌打ちを披露した。
恭路が言うように報復の対象を際限なく拡大させていけば必ず警察が動く。日本MMA界を代表する『
事情はどうあれ〝プロ〟のMMA選手が『暴力』を振るうことに変わりはないのだ。
しかし、未稲が人質に取られ、あまつさえ深い傷を負わされた以上は己の立場も所属も投げ捨てて救出に全身全霊を傾けるしかない。
恭路の警告など右耳から入って左耳へ素通りする有り様であった。
彼がハンドルを握っているゾク車も並走する自動車の隙間を強引にすり抜けていく。神宮外苑への進行方向を案内する青い標識の真下を潜り、荒い運転に対するクラクションを背にして青山通りをひたすら突き進むのだ。
それから数分と経たない内にキリサメを乗せたゾク車は江戸時代の名残を現代に伝える巨大な
視界に映り込む町並みがおよそ一五〇年前には
反対に恭路は〝公僕〟へ張り合おうとしている。十字路で左折する際にも速度を殆ど落とさず急激に曲がり、甲高い音とタイヤの
警視庁・捜査一課のどこかに
何しろ御剣恭路は暴走族チームの親衛隊長なのだ。「ヘルメットを被らないと警察に捕まるって注意してきたのは誰だよ」というキリサメの溜め息も改造が施されたマフラーの爆音によって咬み砕かれていた。
他に選択肢はなかったものの、この青年に頼ったのは間違いではなかったかと、キリサメは己の判断を疑い始めた。万が一にも警察官に捕まれば、それだけ未稲救出が遅れるということだ。そして、それは何もかもが手遅れになることをも意味している。
ましてや寅之助には警察などに通報しないよう明確に指示されているのだ。同乗者のキリサメだけが事情聴取を免れるはずもなく、法治国家日本とは相容れない『
何か一つでも打つ手を誤れば全てが破綻するという不安を更に煽ろうというのか、エンジンやマフラーで爆ぜる〝龍の嘶き〟は快調そのものであった。
「そもそも、てめーが何やってんだっつう話だぜ? 男のクセに女の一人も守れねェでどうすんだ、バカ野郎が。股にぶら下げたモンは飾りかよ? 未稲が
「……というか、どうして、みーちゃんを呼び捨てにしているんだ? 返答次第によってはあんたの股も引き裂くことになるぞ」
「矛先、こっちかよ⁉ 余裕がないにも程があるだろ! いや、余裕がなくて当たり前なんだけどよォッ!」
先程からキリサメも気になっていたのだが、恭路は未稲のことを馴れ馴れしく呼び捨てにしているのだ。『デザート・フォックス』の一件もあり、自分の知らないところで親密になっていたのかと、どうしても反応が過敏になってしまうのである。
「
「せめて、『さん』を付けて呼べよ。友人でもないのに調子に乗るな」
「うっせぇな! どう呼ぶかはオレの勝手だ! でも、てめーのことだけは下の名前じゃ呼んでやらねぇ! ンな気色悪いことしたら舌が腐っちまわァッ!」
「こっちだって願い下げだ」
未稲は野卑を絵に描いたような恭路のことが苦手だと話していた。剃り込みの深い金髪のパンチパーマは見る者に強い圧迫感を与える上、酒と煙草で焼けたダミ声は鼓膜が痛くなるほど
「いずれにしたって未稲は知った顔だ。話を聞いちまったからには見捨てられねぇよ。万が一のコトになっちまったら寝覚めが悪ィしよ」
「悪いほうに考えていたら、その通りになってしまうと誰が言った? 悪い運気を呼び寄せるような真似はしないでくれ」
「へいへいへいへい、悪かったな! どこまでも可愛げのねぇクソガキだぜ!」
だからこそ、キリサメも恭路という青年を信じて協力を要請できたのである。
「インチキ
「……電話番号を知らない。そもそも僕は携帯電話だって持っていない」
「肝心なときに使えねぇな! 人質取られたときは短期決戦が一番なのによ! 取り囲んで押し切る為の頭数もままならねぇってか!」
「数を集めたって意味もないだろ。足並みが揃わずに取り逃がしたら最悪じゃないか」
「とにもかくにも、まずはオレらのタッグで主犯格をツブしちまおう! 二人の力を合わせりゃ通せぬ無理はありゃしねぇぜッ!」
さしものキリサメにもこれには唖然としてしまった。闘いでは何の役にも立たないと見なしている相手から実力伯仲と思われていたわけだ。「使えないのはあんたのほうだ」と心の中で毒づいてしまうのも無理からぬことであろう。
何しろ
それにも関わらず、自分たちは力量に
「足手まといになるから要らないよ。秋葉原まで連れて行ってくれるだけで良いんだ。そうしたら帰ってくれて構わない」
「要るだろ⁉ 伝説の『
「じゃあ、ベルト代わりのチェーンを寅之助の足に巻き付けてくれ。飛び道具を外したら直接、しがみ付いて足止めするんだ。その間に『
「状況考えて喧嘩売れよ、てめーッ! 振り落とすぞッ⁉」
率直な戦力外通告を受けて激烈に憤慨する恭路は、キリサメと同じようなヘルメットを被っていなかったら血が滲むくらい金髪のパンチパーマを掻き毟ったことだろう。現実を認識できないまま果てしなく己の力量を見誤っているらしい。
しかし、キリサメも前言は撤回しない。足手まといとなり得る人間を伴った場合、未稲救出を仕損じる
「みーちゃんは僕が救い出す。何があっても、この僕が……ッ!」
喉の奥から絞り出された一言に秘めたる決意を感じ取った恭路は怒鳴り声を飲み下し、『ガンドラグーン
己の力量を見誤りはしても、妖気という形で双眸から溢れ出す焦燥を酌み取れないような恭路ではないのだ。
「しっかり掴まってろよ、アマカザリ! 限界ブッちぎりで飛ばすぜッ!」
「……すまない……」
恭路は赤信号を無視して交差点を突っ切り、行き交う自動車の間隙をすり抜けることで
奇跡的にもキリサメを乗せたゾク車は交通法に違反し続けながらパトカーの追跡を受けることなく御茶ノ水を抜けて秋葉原へと入った。
キリサメが同地を訪れるのはこれが初めてだが、新作ゲームの発売日を告知する大きな看板や、アニメ作品の挿入歌を延々と流し続ける関連グッズの販売店など市街地の様子はペルーの首都・リマの中心部に所在する富裕層向けの
テレビアニメやゲームといった日本のサブカルチャーは欧米諸国を中心に世界中で爆発的に波及しており、その熱狂は南米をも飲み込んでいる。リマ市内に
近似する風貌で呼び込みに励む女性を見つけて想い出したが、同施設のメイド喫茶で食事を
「
「
「……親父がアニメ好きでよ。オレもガキの頃にゃ『
「……僕は『ビルドリラー』が好きだった」
「フツーに詳しいな⁉ つーか、『ビルドリラー』形態が好みとか通じゃねーか!」
「あのアニメはペルーでも放送されていたんだ。最終回まで観たハズだけど……」
「ちょっとだけてめーに親近感が湧いちまったぜ。お前、インカ文明の剣術をカジッてんだろ? 『ビルバンガーT』の必殺技は真似できねぇのかよ⁉」
「インカの剣術なんか知らないし、そもそも『
「それだよ、それそれそれッ! てめー、この野郎ッ! 『ビルバンガー』ファンって、何でもっと早く言わねーんだよォッ!」
「……言わなきゃ良かったって、今、後悔しているよ……」
日秘で分かち合える話題も、恭路がテレビアニメを好んでいることも意外な発見だが、バイクを駆る本人が秋葉原という街に土地勘があることこそ何より頼もしかった。『八雲道場』を出発してから二〇分と経っておらず、まさしく最速最短での到達といえよう。
「青春の『ビルバンガー』談義は用事を全部済ませた後でゆっくりやろうや。……指定されたビルは一つしか思い当たらねぇ。そこに突っ込むぜ! 臨戦態勢、整えとけよッ!」
「ああ、……いつでもいける」
町並みが急速に流れてゆく秋葉原の只中にてキリサメは二〇一三年の
あらゆる状況が一年前と酷似しているのだ。今は
『組織』は〝大統領宮殿〟に向ける銃器を
〝あのとき〟は自ら手綱を捌いていたので
(……僕はまた失うのか――)
秋葉原の町並みは〝あのとき〟の記憶を容赦なく抉り出すのである。『
何処からか耳に飛び込んでくる『
ペルーで信仰されているキリスト教にとって極めて大切な一週間――『
キリストの受難から復活に至る数々の伝承を巨像で表した宗教行列は夜が明け切らない内から蝋燭だけを頼りに動き始める。無数の燈火によって暗闇の中に浮かび上がる受難劇は心臓が揺さ振られるほどに荘厳であった。同道する音楽隊も
夜明け前の空に掲げられた聖なる光を見つめながら、いつしか少女と手を繋ぎ、自然と互いの指を絡め合っていたのだ。
それもまた
(――
かつて味わったものと同じ〝受難〟が再び繰り返されようとしている。
〝あのとき〟は自身が駆る馬の
「〝
「アマッちだけじゃない。
日本でネットニュースサイトを運営しているという記者の想い出が
誰かを守れる力とやらが何の意味も
「さすが
追憶の水底に沈み、二〇一三年七月の
未稲の安否以外を考えられる余裕など少しもなかったが、不意に声を掛けられたこともあって恭路の示した方角へ視線を巡らせてしまった。
歩道に見つけたのは外国から来日したと
片割れのほうはアフリカ
隣を歩くポンチョ姿の青年と比べて服装そのものに奇抜さはないが、サブカルチャーの聖地とも呼ばれる秋葉原の只中では場違いにしか見えず、着こなしという点では恭路に肩を並べるだろう。
最も強く違和感を覚えたのは首の後ろに引っ掛けられた
ひょっとすると
「……あれは……義足――か?」
「あァん? 今、何かボソボソ喋ったんか? 腹から声出さねーと聞こえねーぞ」
「いや、……何でもないよ、何でも……」
キリサメはガードレールの向こうに捉えたドレッドヘアーの青年を我知らず凝視していた。無論、見憶えのある顔ではない。スラックスの裾から僅かに覗いた右足首が陽の光を反射し、眩いほど煌めいたことに驚いたのである。
上等そうな革靴とスラックスの間に見えたのは機械仕掛けと見紛う鋼鉄の足――いわゆる、義足であった。
交錯はほんの一瞬である。数秒と経たない内に通り過ぎてしまったので視線を交わすどころか、互いの顔をしっかりと確認することさえ叶わなかった。
それ故にポンチョ姿の青年が怪訝な顔で振り返り、嘶きとも
仮に
しかし、青年の瞳は龍に見立てて改造が施されたバイクではなく、そこに跨った人間の後ろ姿しか映していない。
彼に釣られる恰好でゾク車へと視線を巡らせたドレッドヘアーの青年も同様である。僅かに形が崩れた蝶ネクタイを片手で直しつつ、「さすがは聖地アキバ、文明発祥の地だけあるな。町を歩けばコスプレに当たる。これほどまでに胸躍る場所が世界のどこにあるものか」と、感慨深そうに首を頷かせていた。どうやら自分たちが同じような印象を他者へ与えていることに無自覚であるらしい。
「コスプレに反応するとは『カリエンテ』にしては珍しいな。
「カートゥーンの催し物を大いなる神託って崇め奉る奴、お前くらいしか見ないからな」
「しかし、
「この服をコスプレと混同するのは勘弁してくれ。先祖代々、永く引き継いできた物なんだ。『それを軽んじる者とは今すぐ手を切れ』って
「魂の共鳴でないなら、一体、何が気に掛かったと言うんだ、カリエンテ?」
「今のバイク、二人乗りだったろ?
相棒から『カリエンテ』と呼ばれた青年は幼さが残った顔を顰め、次いで大仰に首を傾げてみせた。
「ほほう? カリエンテもあの少年に惹き付けられたのか。魂の共鳴は俺たちの間にこそ生じていたと見える」
「意外だな。おかしな恰好のライダーに反応したのかと思っていたよ。子どもの頃に観た日本のカートゥーンの――確かそう……『
「改造学ランも確かに興味深いが、俺の魂を震わせたのは後ろの少年が肩に担いだアレだよ。袋の中身はおそらく刀剣の類だろう。それも曰く付きのな」
「そこまではボクも見抜いていなかったけど、……どうして分かるんだ? ボクは農具でも買った帰りじゃないかって思ってたよ」
「意味ありげな
「……お前に感心した一秒前の自分を棒で引っ叩いてやりたいよ」
ドレッドヘアーの青年が述べたのは洞察力ではなく空想にも等しい思い込みだったが、ポンチョ姿の
「カリエンテだって同じだろう? 遥かなる浪漫が心を貫いたのだろう?」
「全ッ然違うわ! 顔だっ! あのコの顔に見
「社交パーティーで挨拶でもしたのではないか? それならば、カリエンテと同じように何処かの御曹司というわけだな――伝説の剣を携えた貴種流離譚か……
「いや、〝実家〟のほうじゃないな。もっと別のところで見掛けた気がするよ。〝
〝見憶えのある少年〟にまつわる情報を記憶の奥底より引っ張り出そうと奮闘する相棒を置き去りにして、ドレッドヘアーの青年は正面に見据えたアニメショップへと歩を進めていく。
もはや、耳を澄ませても〝龍の嘶き〟は聞こえなかった。
「足を止めていないでさっさと行くぞ、
「寝言は寝て言えよ。
「だから、それを探そうと言っているのではないか」
「ちょっと待てよ、お前! 合衆国大統領相手に何を持っていくつもりだよ⁉ ただでさえ〝ボクたち〟はホワイトハウスと微妙な関係なのに、これ以上の厄介事を抱えたら開拓時代に逆戻りし兼ねないぞ!」
「
「その確信に満ちた眼差しをやめろってば!」
珍妙な取り合わせということもあって如何なる立場であるのかは傍目には判らないが、この騒々しい二人組はアメリカ合衆国の政治を司る国家中枢――ホワイトハウスへの表敬訪問が決まっているそうだ。
相棒が呆れ果てるのは当然だろう。ドレッドヘアーの青年は超大国の大統領への贈答品を秋葉原にて見繕うつもりであったようだ。そして、それこそが何より望まれていると信じて疑わない様子である。
もはや、風と共に去っていった少年の面影を追い掛けている場合ではなかった。
手に持っていた棒切れの先端で相棒の脇腹を小突いたポンチョ姿の
「
「それ、初耳だぞ⁉ お前……お前、何やってんの⁉」
「文化交流だ」
「文化交流って――間違っていないのが癪だなァ!」
文化交流の是非を巡る言い争いがサブカルチャーの聖地にて繰り広げられている。認識が余りにも食い違っている為、同じ結論に到達するとは考えられない場景を高校生くらいと
その視線に気付き、ドレッドヘアーの青年は「何か用か」と己の顔を左右の人差し指で示した。すかさずポンチョ姿の
「どうかしたのかな、少年! 見ての通り、我々は
「また安請け合いを……」
「ひょっとして『ナチュラル・セレクション・バウト』のンセンギマナ選手じゃありません……か? 人違いでしたら本当にすみません! でも、あの……バンダナに『ダイダロス』って書いてあるしっ!」
控え目に探るような眼差しに対し、青年は
「
「――ってことはやっぱし今日のファンイベントの為にアメリカから⁉ いや、アフリカ大陸から直行コースかもですけどぉっ!」
「無論のこと。
「マジでガチオタなんですね! キャラ作ってるワケじゃなくて感激だ~ッ!」
予想の的中を喜んで左右の拳を握り締める少年の目は、ドレッドヘアーの青年が首の裏に引っ掛けたヘッドフォンへと向けられている。
彼が愛好するテレビアニメに
「真実とは神々の瞳にのみ映る――そうは思わないかな、少年?」
「うおおおぉぉぉッ!
「キミの声援が俺の拳に宿っていたわけだな。ありがとう、日本の友よ! 『
「……日本に居ながらどうやって試合を視聴しているのか、そっちのほうがボクには興味深いね。デビュー戦はプレリミナリィカード扱いだったし、
英語ではなく日本語で紡がれた『カリエンテ』の
改めて
その様子を遠巻きに眺める人々は黒豹の如き
二人の傍らでは『カリエンテ』と呼ばれたポンチョ姿の青年が辟易とした調子で頭を掻いている。『
「もしかしたら来るのかなって期待はしていたんですけど、まさか、本当にンセンギマナ選手とお会いできるなんて……本当、夢を視てる気分です……ッ!」
「キミも
「是非!
「……気持ちの良い返事に水を差すようで申し訳ないんだけど、こいつの言う通りにしていたらアメリカとルワンダの国交問題にまで発展し兼ねないんだよ。そうでなくてもホワイトハウスと揉めたら『NSB』にも迷惑が掛かる。くれぐれも自重してくれ」
早くも肩を組み始めたドレッドヘアーの青年とそのファンには
「あの! 一つだけお願いを聞いて貰えないでしょうか!」
「どんと来い! お礼をケチるほど心の寂しい男じゃないぞ!」
「ンセンギマナ選手の右足に……触らせて貰えませんか……? あの、いえっ! ふざけるなって仰るなら手を引っ込めますけども……っ!」
「それくらい、お安い御用だよ。試合用でなくて、すまないがな!」
少年の頼み事に迷いなく首を頷かせた青年はスラックスの裾を勢いよく捲り上げ、右足を膝下辺りまで晒し、次いで革靴の踵を打ち鳴らした。
そこに現れたのは厚手のカバーで覆われた義足である。正面には『
神の降臨に立ち合った司祭の如く全身を震わせ、畏れ多いといった調子で義足に触れた少年はすぐさま恍惚の表情となり、「こ、これが『NSB』に旋風を巻き起こした黄金の右足なのか……
「試合用の義足じゃないって本人も話しているのにな。見た目からして今日は
日本語ではなく英語でもって紡がれた『カリエンテ』の
『ナチュラル・セレクション・バウト』――通称『NSB』。それはキリサメたちが所属し、八雲岳が統括本部長を務めている『
*
『ガンドラグーン
普段は袖の長さが肘の辺りまでしかない風変わりな
首に引っ掛けた手拭いには『空閑組』なる
浅草の下町に明治初期から続く老舗工務店が電知の勤め先であり、単純明快な社名からも察せられるように生を
高校に通っていない電知は家業を手伝いつつ
声優を本業としながらMMAに挑戦した希更・バロッサを半端者と詰ったことに大いなる矛盾が生じているのだが、彼もまた〝兼業格闘家〟のひとりなのである。
この日は
これを
やや遅い昼食が一段落し、『空閑組』の親方――つまり、電知の実父である――が週内の業務が全て終わった旨を宣言したのは一六時まで残り一〇分を切った頃であった。
『空閑組』の場合、職人たちが鮨詰め状態となった車輛で事務所と現場を往復しているのだが、今日の電知は日暮里まで
「――
「あれ? 電源切ってなかったっけ、おれ。上棟式の最中にならなくて良かったぜ」
そのパンギリナンが電知の
電知のことを『若』と呼ぶフィリピン人のこの男は、アジア圏から選手が集う中国のMMA団体『
二回り近く
『若』という呼び名を耳にしたらしい施主が
パンギリナンの説明によれば、
主演俳優が唄い上げるこの歌は番組名がそのまま曲名となっており、最高の盛り上がりを迎える
「……どういうこった? なァ、パンギリナン、こいつはどーゆーコトだと思う?」
「自分は、ちょっと……。ご友人のことは、若のほうが、お詳しいでしょう」
「そーなんだよ。詳しいからこそワケ分かんね~んだわ」
眉間に皺を寄せるのは無理からぬことであろう。
一度、パンギリナンと顔を見合わせてから小首を傾げ、改めて液晶画面を覗き込み、再び「どういうこった?」と目を丸くした。
記憶違いでなければ、今日は上下屋敷と秋葉原へ繰り出すと聞いていたのだ。恋人と過ごしている最中に何の用事があって電話など掛けてきたのか。最悪の場合、デートを邪魔したと上下屋敷から恨まれるかも知れない。
そのような状況にも関わらず、敢えて連絡を入れてきたのだから本当の急用という可能性も捨てきれない。工務店のトラックの陰まで移動した電知は施主の視界に入らないよう隠れつつ
「上下屋敷にフラれちまったから愚痴聞いてくれっつー電話だったら速攻で切るぜ。こちとら
開口一番で牽制すると、子どもの頃から聞き慣れた笑い声が返事の代わりに耳の中へ滑り込んできた。どこか狭い所にでも居るのだろうか、いつまでも鼓膜へこびり付くような残響が気に掛かった。
いずれにせよ、空閑電知という名前を電話帳から選び、通話を求めていることが確定されたわけである。
視線の先では二階建ての大きな骨組みが初夏の風を受け止めている。一階の和室を広くしてあるのが特徴で、ゆくゆくは地方住まいの老親を呼び寄せて一緒に暮らすことを考えているそうだ。大黒柱も頑丈であり、大嵐をも撥ね除ける良い家になるだろうと、電知は完成前から確信していた。
(……得意気になってどーすんだ。親方なんてガラじゃねーだろうが)
寅之助の笑い声が止むまでの間、電知は大工としての己の仕事を無意識に振り返り、次いで
今回も無事に上棟式まで辿り着いたことを誇らしく感じてしまったものの、〝職人〟とは全く異なる〝道〟を志しているのだから、大工の
明治時代に海を渡り、世界中で他流試合を繰り広げた伝説的な柔道家、
あくまでも家業は手伝いであり、路銀稼ぎの手段に過ぎない。『空閑組』も安泰と考えている施主が真意を知れば親不孝者と呆れ返るかも知れないが、
あるいは
「女心がクソほど分からない
「死ぬほど反省してるんだから、封印したい記憶を掘り返すなよっ」
「電ちゃん周辺で浮いた話っていえば、近頃はサメちゃんとの急接近くらいでしょ。何というか、二人とも度胸あるよねぇ。『
「女に興味がないのは否定しねぇがよ、だからっつって別に男好きってワケでもねぇぞ。おれはキリサメ個人とダチになったんだ。『
「そーゆー需要も世の中にはあるみたいだよね。大人気間違いナシだよ、電ちゃんたち」
「うるせぇなァ、需要って何の話だよ。意味分かんねーし。つか、ダベりたいだけならマジで切るからな。さっきも言ったようにおれだってヒマじゃ――」
「――そのサメちゃんに思いっ切りケンカ売ったんだよ。一応、電ちゃんには伝えておいたほうが良いかと思ってさ」
「……あァん?」
数分にも及ぶ笑い声を挟んだ
上下屋敷と秋葉原へ出掛けたはずの人間が下北沢の『八雲道場』を住まいとしているキリサメと
ひょっとすると寅之助は最初から秋葉原には居なかったのかも知れない――電知はそのように考え始めていた。
「唐突過ぎて話の流れが一ミリも読めねーよ。キリサメのヤツにケンカ売っただと? 妙なちょっかいでも出して怒らせたのかよ。お前の性格上、それ以外に考えられねーし」
「サメちゃんのコトなら何でもお見通しって感じかな? 何だか妬けちゃうなぁ~」
「気色悪いコトを抜かすんじゃねぇぞ、大バカ野郎。キリサメに冗談が通じねぇってのは顔を一目見りゃ分かるじゃねーか。……仕方ねぇから一緒に謝ってやらァ。とっとと仲直りしちまえよな。好き嫌い激しそうだから拗れると厄介かもだぜ、あいつ」
穏やかならざる気配を感じ取ったらしいパンギリナンが不安そうに見つめてきたが、電知は撤収準備を進めている『空閑組』の職人たちを指差し、「おれのことは心配いらないから
「お前のことだから『MMAなんて今どき流行らない』とか厭味飛ばしてキレさせたんだろ? デビュー戦の前だって分かっていながらよォ。……ンなことやってっから真っ当なダチがいねーんだよ。数少ないダチまで手前ェで減らしてどーすんだ。おれだってお前の面倒なんかいちいち見てらんねーんだぞ」
電知は詳しい事情を尋ねる前から寅之助が発端だろうと決め付けていた。これもまた互いの
沖縄クレープの移動販売先で鉢合わせるという出逢いのきっかけこそ偶然であったが、その場で寅之助のことをキリサメに紹介したのは自分である。二人が決裂しそうになっているのであれば仲裁しないという選択肢は持ち得なかった。
付き合いの長さなどは関係ない。電知にとってはキリサメも寅之助も掛けがえのない友人なのである。
「ボクのほうから挑発したんだし、当たらずとも遠からずってトコかな。ただし、もっと効率的な
「あいつ、ボケーッとしてるようで沸点低いんだからマジで気を付けろよな。おれたちも八雲の娘を囲もうとしたら――」
八雲の娘――未稲について言及しようとする間際、電知は呻いて言葉を失った。これより前に寅之助は「効率的な
電池はキリサメのように寅之助の言行を理解できなかったわけではない。一瞬で意図を読み取れるほど彼のことを熟知していればこそ次に紡ごうとした言葉を憚ったのである。
「……お前、また悪知恵働かせたんじゃねーだろうな?」
罪状を確かめるような言葉に返されたのは、愉悦の二字以外には
耳障りな残響を伴う
「さっきサメちゃんを呼び出したところなんだよ。
「おれまで引っ張り込むなッ! つーか、キリサメだって試合が近いんだよ! てめーの趣味なんぞにあいつを付き合わせるんじゃねぇッ!」
「サメちゃん、きっとボクのコトを本気で殺しに来るんだろうなぁ。電ちゃんと互角に渡り合った
「話を聞けよ、ボケェッ!」
施主の存在も忘れ、電知は
未稲の名前を口にする寸前で息を飲んだのは、彼女まで寅之助の悪巧みに巻き込まれたのではないかと直感したからである。
秋葉原の電気街を散策するキリサメの姿は想像できないが、食事の最中でさえ
これに加え、瀬古谷寅之助という
「中野のカラーギャングとやり合ったときみてェにくだらねー真似をしたんじゃねーだろうな⁉
「……やっぱり電ちゃんはさすがだなぁ。サメちゃんだけじゃなくてボクのことも何でもお見通しなんだもん。サメちゃんとの浮気は許してあげようじゃないの」
「冗談言ってる場合じゃねェコトにそろそろ気付けよなッ!」
己の歪み切った
「電ちゃん、今日は地鎮祭だか上棟式の日だったよね? 仕事上がりで良いから
「一方的な与太話に付き合わされて賭けもクソもあるか! 何を企んでいやがる⁉」
未だに掴み切れていない寅之助の狙いを質そうとする声は、横から割り込んできた轟音によってことごとく押し退けられてしまった。
それは幾つかの段階に分かれていた。まず〝何か〟が突き破られ、やや遅れて金属の板を無造作に折り重ねるような甲高い音が鼓膜を突き刺した。高い位置に取り付けられた工事用の足場が崩れ、何枚も地上へ落下したときに同じような音を聞いた
「――クロスクラッシュッ!」
金属音が収まるより早く勇ましい吼え声も続いた。
アニメやテレビゲームの登場キャラクターは作中に
酒やタバコで焼けた声は御剣恭路のもので間違いあるまい。回転数の上がったエンジンと改造を施したマフラーが奏でる耳障りな爆音は一度でも聞けば決して忘れはしない。彼が跨るゾク車の〝嘶き〟であった。
いよいよ電知は頭痛が酷くなってきた。寅之助とは全く接点のない恭路までもが巻き込まれているとすれば悪だくみの被害がどの範囲まで及ぶのか、想像もつかないのだ。
「
「こンの……大バカ野郎ォッ!」
鼓膜を劈く轟音に負けないほどの大声を張り上げた直後、通話が一方的に打ち切られてしまった。すかさず寅之助の電話番号に掛け直したが、呼び出し音として設定された流行りの歌だけが虚しく続くのみである。もはや、着信に応じることはないだろう。
共犯の可能性が捨てきれない上下屋敷に連絡を取ろうとしたものの、こちらは電源自体を切っているようで呼び出し音すら鳴らなかった。電話帳に登録していない『八雲道場』をインターネットで検索し、記載されていた電話番号にも掛けたが、想像した通りに応答はない。
寅之助の企みに関わってしまったと予想される人々への連絡を諦め、舌打ちと共に顔から
「……若、何が、一体……?」
今度こそ不穏な気配を感じ取って心配そうに歩み寄ってきたパンギリナンへスニーカーを投げ渡した電知は
施主の視界に入ろうとも構わず作業服から
『八雲道場』に設置された固定電話を家族の誰も取らないのだ。それはつまり、己の予想が的中している可能性が跳ね上がったということである。
状況を飲み込めないまま呆然と立ち尽くすパンギリナンから引っ手繰ったスニーカーを履き直そうとするものの、動揺が伝う指先では上手くいかない。面倒とばかりにこれを地面へ放り出した電知は素足の状態で
秋葉原のどこかに居るということと、トンネル内部で物音を立てた際に生じるような残響くらいしか手掛かりがない。居場所の特定には程遠いが、それでも飛び出さずにはいられなかった。片付けがまだ終わっていないと呼び掛ける
剥き出しの爪先を車輪へ巻き込む危険性も高いので素足で自転車を漕ぐ行為は禁じられているが、試合直前の稽古まで諦めなくてはならないほどの事態が発生した今、自分と同じような顔に目を転じるのも煩わしいのだ。
「寅の野郎がまたバカやらかしたみてェでな! 尻拭いに行ってくらァ! 晩メシは家で食うからおれの分のカレー丼を残しとくよう母ちゃんに伝えといてくれや!」
「最悪のタイミングを狙いやがって……幾らなんでもシャレにならねぇだろうがッ!」
口の端から漏れ出した電知の憤りが風に溶けていく。
寅之助がキリサメに興味を抱いたときには、確かにその可能性も考えはした。幼馴染みの性情など知る由もない
もはや、己が悪だくみの黒幕に仕立て上げられる可能性など考えてはいない。電知が避けたいのはデビュー戦を控えたキリサメと寅之助が真っ向から激突する事態のみである。
電知は伝説的な剣道家――
電知が
だからこそ、
日本が誇るサブカルチャーの聖地を満喫する人々の賑々しさが工事用フェンスを飛び越えて伝わってくる。工事現場のすぐ近くでは女性シンガーがアコースティックギターを爪弾きながら力強い歌声を披露しているが、それが『
秋葉原の雰囲気に馴染む
しかし、彼自身は秋葉原という華やかな町並みを楽しめなくとも喜色満面である。これから幕を開けるだろう血の色の〝宴〟に期待が膨らんでいるのだ。
電知との通話を妨げるようにして割り込んできたのがバイクのものと
最初は場違いな暴走族と考えて意にも介さなかったのだが、エンジンとマフラーの爆音は商業ビルへと徐々に近付いてくる。冷静さを欠いた声のみでしか確認できないものの、バイクを見つけた女性シンガーも
「バイクを乗り回す露出狂って! しかも、そこまでしてハダカを見せびらかすワリには貧弱丸出しじゃない! 欲求と胸板の厚みが釣り合ってないわ!」
彼女が張り上げた素っ頓狂な声に寅之助は笑いそうになってしまった。一体、どういう出で立ちをしているのだろうか。
二重の爆音にも負けない悲鳴をきっかけにして寅之助は電知から教わった話を想い出した。
壁に立て掛けておいた竹刀のツカを帆布製の袋の上から握った寅之助は薄笑いを浮かべつつ屋外へと歩を進めていく。
工事用フェンスの一部が弾け飛んだのはその直後である。工事に要する資材などの搬入口から攻め寄せてくると予想していたが、〝露出狂〟は更に過激な手段を取ったわけだ。
車体を一匹の龍に見立てて改造されたゾク車が地面に散らばるフェンスの残骸を踏み越えて一直線に突っ込んでくる。〝短ラン〟と呼ばれる変形の学生服を素肌へ
ゾク車のシート後部に腰掛けているのはキリサメ・アマカザリその人である。彼の要請を受けた城渡が差し向けたのかは分からないが、脳裏を過った予想の通り、
「ビルの
ゾク車のハンドルを握る
御剣恭路は生身の人間をゾク車で撥ね飛ばすことに少しの躊躇も覚えない――彼が
「――見さらせ、推定四〇年モノの直伝奥義ッ! その名もクロスクラッシュッ!」
急いで秋葉原まで駆け付けるよう念を押して電知との通話を打ち切り、
後輪で轢き殺せないと見極めたときには前輪を縦一文字に振り落とし、バイクの重量で押し潰すつもりなのだろう――二段構えの攻撃を看破した寅之助は車体と接触する寸前まで引き付けてから真横に跳ね飛び、掠り傷一つ受けることもなくこれを避け切った。
「クソッたれめ! 結局、
標的を捉え切れなかったゾク車――『ガンドラグーン
〝露出狂〟にしておくには惜しい
しかし、己の真横を通り過ぎていった
片方が正面から攻め寄せ、そちらに標的の意識を集中させている間にもう片方が空中から奇襲を仕掛ける――恭路が『クロスクラッシュ』と称した連携攻撃の術理を寅之助は瞬時にして見極めたのである。
「お誂え向きって感じのヘルメットだね。ボクの為にわざわざ選んでくれたのかい?」
キリサメが地上に落とす影と寅之助の瞳が交錯し、風を斬る音が防災用のヘルメットを揶揄する声まで巻き込んで秋葉原の空に轟く。
右の五指にてツカを握り、対の左手を刀身に添え、急降下の勢いを乗せて振り落とされた『
どちらの剣も鞘の如く細長い袋の中に納まったままであるが、そこに漲らせた意志はただ一つのみ――工事用のシートで覆われたビルに撥ね返る乾いた音は、まさしく開戦を告げる
「
「瀬古谷……寅之助ェッ!」
己の〝牙〟を剥き出しにして寅之助を睨み据えるキリサメの瞳は半ばまで閉じた
スポットライトに導かれてMMAのリングへ臨む『ケツァールの化身』などではない。
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