その8:急行~爆走×爆熱×爆裂!友情合体クロスクラッシュ!!

 八、急行



 耳を澄ませば春から夏へと移ろう波音が聞こえてくる夜――御剣恭路は油と埃の臭いが充満したガレージの一角にて黙々と作業に没頭していた。

 大型バイクの修理である。シャシーから取り外されたエンジンは部品単位まで細かく分解され、一つひとつがぶつかり合わないよう間隔を空けて作業台の上に置かれている。

 クランクケースを手元に移し、カバーと重なり合う部分を油砥石オイルストーンでもって丹念に磨いていく。現在いまは改造を施した学ランではなく、油汚れが斑模様のように染み込んだ青いツナギに身を包んでいた。

 鼻の下に髭を蓄え、額に鋭利な剃り込みを入れた金髪のパンチパーマという凶暴な人相とは裏腹に仕事には真面目一徹に取り組んでいるのだろう。油砥石オイルストーンを持つ軍手も良く使い込まれていてボロボロだった。

 ツナギ姿の恭路が一人寂しく佇んでいるのは城渡マッチが経営するバイク店に併設されたガレージである。居候の身である彼は都内の島津十寺工業高校シマコーに通いつつ、夕方から城渡の仕事を手伝っているのだ。今日もメンテナンスの依頼が入り、翌日からエンジン部品の交換を行う段取りとなっている。

 金属を擦る音へ秒針の旋律を合わせる壁掛け時計は二三時を指していた。

 そこに腹鳴りまで混じった。喧しい腹を黙らせようと左右の拳を何度も叩き付ける恭路であったが、空になった胃を誤魔化せるはずもなく、喉の奥から溢れ出す切ない溜め息も止められなかった。

 少しばかりやつれたように見えるのは空腹のではない。実際、僅か一日の内に三キロも体重が落ちてしまったのだ。

 作業の邪魔にならないようガレージの片隅へ追いやられている〝ゾク車〟――バイク全体を一匹の龍に見立てた『ガンドラグーンゼロしき』ですがだいら高原に乗り付けた恭路は、敬愛する城渡総長の対戦相手として相応しいかを試すべく新人選手キリサメ・アマカザリ路上戦ストリートファイトを挑み、その勢いが空回りして無残に自滅していた。

 このとき、標的とされたキリサメは長野の地方プロレス団体『まつしろピラミッドプロレス』の合宿に参加している最中だった。つまり、恭路は彼らの活動まで妨げてしまったわけである。

 無論、それは城渡本人が望んだことではなく、恭路一人の暴走だ。キリサメに同行していた麦泉から連絡を受けて事態を把握した城渡は大勢の人たちに迷惑を掛けた舎弟へ償いとしてくだんの合宿を手伝うよう命じ、これが終了する間際にすがだいら高原へ到着した。

 『まつしろピラミッドプロレス』から城渡の側へと身柄を引き渡された恭路は有無を言わさずに湘南の自宅まで連行され、このガレージで正座のまま数時間に亘って叱られ続けたのである。

 怒号を張り上げたのは城渡一人ではない。彼に同道してすがだいら高原へ赴いた副長の二本松剛に続き、『武運崩龍ブラックホール』が誇る特攻隊長までもが駆け付けていた。恭路は自身が属する暴走族チームの幹部全員から吊るし上げを食らったわけだ。

 城渡より僅かに年上で、四十路に入ったばかりの特攻隊長は一〇代前半の頃から敵対する暴走族チームとの抗争に明け暮れてきた筋金入りの武闘派である。六気筒のモンスターバイクで突撃し、相手を車体ごと薙ぎ倒すことから破壊神の如く恐れられていた。自分を追跡してきた白バイに飛び掛かり、高速回転する後輪でもって車体を真っ二つにした話は湘南の暴走族たちの間で語り草となっている。

 迷惑を被ったキリサメ当人から寛大な措置を求められていなかったら特攻隊長は不始末を仕出かした舎弟と自身のモンスターバイクを鎖で括り付け、一晩中、首都高を引きずり回したに違いない。何しろ血も涙もない男なのだ。自分に立ちはだかる敵を撥ね飛ばすことも躊躇わないのである。

 バイクを駆使した戦いを恭路に教えたのもくだんの特攻隊長であった。己の技を誤った形で使われたわけであり、教え子を軌道修正する為には死ぬより過酷な折檻を加えるだろう。

 特攻隊長よりも遥かに恐ろしいのが副長の二本松だ。彼は淡々とした口調で恭路に仁義というものを説いていたが、その間にも全身から凄まじい殺気を漂わせており、恭路は寿命が縮む思いであった。

 キリサメの直訴もあって親衛隊長解任などの処罰はなく、城渡から脳天に握り拳を落とされるだけで済まされたものの、正座から解放される頃には生え際の後退を確かめてしまうほど恭路は疲弊し切っていた。負けん気だけは桁外れの青年が心身ともに打ちひしがれるくらい三人の幹部は厳しかったのである。

 それだけ恭路の仕出かした不始末は深刻ということだ。


「――オレなりに人の道っつーモンを教えてきたつもりだったけどよ、どうやら何も伝えられてなかったらしいな。お前の親父にも面目立たねぇぜ……」


 敬愛してやまない城渡が最後に吐き捨てた呟きに恭路の心は深く抉られ、鼓膜へ蘇る度に溜め息混じりで項垂れてしまう。それは彼にとって死刑宣告よりも重い言葉なのだ。特攻隊長も総長の一言に大きく首を頷かせていた。

 いっそ破門を言い渡されたほうが気は楽であろう。誰よりも尊敬する相手に自分のことで後悔の念を抱かせてしまったのだ。これに勝る苦しみなど恭路には思い付かなかった。

 気持ちがどんどん落ち込んでいき、ついには作業にも身が入らなくなってしまった恭路は右手に握っている油砥石オイルストーンを無言で見つめ、一等大きな溜め息を零した。

 落胆の二字を背中に貼り付けている恭路の後頭部が強烈に揺さぶられたのは、今まさに喉の奥から空気を吐き出し終えようという間際のことである。


「なっ、なんだよ、一体――」


 突然のことに慌てふためき、足元で撥ね返った甲高い音に目もくれず咳込みながら背後を振り返った恭路は、店舗も兼ねた母屋とガレージを繋ぐドアの辺りに慣れ親しんだ顔を見つけるなり両手を垂直に伸ばして直立不動の態勢となった。

 麦畑のように明るい茶髪を肩甲骨の辺りまで自然に伸ばしたその人は城渡の妻――たすくである。旋毛から毛先に至るまで黒髪と見える部分はない。持って生まれた地毛なのだ。


「あ、あねさんッ!」

「なぁに畏まってるんだよ。雅彦はともかく私はあんたに腹なんか立ててないってのに」


 日付が変わるまで一時間を切ったというのにたすくは未だにエプロンを着けたままである。

 次に恭路の双眸が捉えたのは彼女が両手で持つ木製のトレイであり、その上に鎮座する大きなチーズバーガーだった。二枚に切り分けられた丸いパンも、その間に挟まれたハンバーグも焼きたてのようだ。食材の中には香辛料も含まれているのだろう。ほんの少し吸い込んだだけで唾液が溢れ出す香りが空きっ腹を刺激した。

 その途端に一等大きく鳴いた腹を両手で押さえ、それでも鎮まらないことが恥ずかしくなって俯いたとき、恭路は足元に転がっている缶ビールに気付いた。

 僅かに窪んでいるを後頭部に投げ付けられたのだ。


「溶けたチーズが冷めて固まっちまうと台無しだ。意地張ってないでさっさと食べな」

「で、でも、姐さん……」

「さっき本人にも確認してきたけど、雅彦だってあんたにメシ抜きの刑なんか言い渡してないだろ。剛たちにハンストで抗議したいってンなら話は別だけど?」

「そ、そんなことッ! ……するわけねェッス。今度のコトはオレが全部悪いんで……」

「素直に反省できるのがあんたの良いところだよ」


 言葉遣いは少しばかり乱暴だが、そこには確かな愛情が感じられる。城渡たちに続いてたすくにも叱声を浴びせられるだろうと身を強張らせていた恭路は思いがけない優しさに触れて涙腺が緩んでしまい、ツナギの袖で両目を拭った。

 たすくから受け取ったトレイにはチーズバーガーだけでなく細切りのフライドポテトやトマトサラダを盛り合わせた皿も載せられている。夕食のテーブルに並んだものを運んできてくれたのだろう。

 げんこつを脳天に落とされた直後ということもあり、四六時中、背中を追い掛けていたいと願ってやまない〝総長〟とさえ顔が合わせ難く、彼が起床する前に登校していた。その途中にコンビニへ立ち寄って菓子パンを頬張り、昼食は校内の食堂で具が殆どないカレーライスを平らげたが、帰宅してから五時間以上も水の一滴とて口にしていなかった。

 感情表現の激しさなど行動の一つひとつが極端な恭路は何時でも元気が有り余っている同世代以上にが悪く、間食おやつを挟んだとしても一九時には胃袋が空になってしまう。今日はチョコレート入りのマシュマロすら食べていないのだ。

 空腹で真っ先に弱るのは肉体からだではなく精神こころのほうであった。その上、城渡はガレージでの作業中も無口であり、業務連絡以外は殆ど喋ってもくれない。全身から怒れる気配を漂わせている相手に気安く話し掛けられるほど恭路も無神経ではなかった。

 夕食の支度が整ったとたすくから伝えられ、城渡が引き上げた後も恭路はガレージに留まり続けたのだが、母屋へ続くドアを開ける間際にも彼は振り返らなかった。夜の海岸線へランニングに繰り出す様子も半分ほど開いたシャッターの向こうに覗けたものの、やはり、舎弟こちらの様子など一瞥もしなかった。

 不始末の報いとはいえ、実の親より慕う相手から無視され続ける状況は「こうなったのもアマカザリのだ」と心の中でキリサメに逆恨みをぶつけ、自分を慰めていないとたちまち気が狂ってしまうほど苦しいものである。

 心身とも限界まで追い詰められているときに大いなる優しさで包まれた恭路は返答こたえの代わりに鼻水を啜ることしかできなかった。

 食事にわざわざ缶ビールが付けられたのはそろそろ仕事を切り上げて休めという無言の指示であろう。しかも、たすくが投げ付けてきたのは城渡が愛飲する銘柄ラベルだ。この事実ことに何も感じないほど恭路も鈍感ではない。

 既に二回ほど留年して二十歳はたちを超えているとはいえ、仮にも現役の高校生相手に飲酒を勧める是非はともかくとして――それは城渡の気遣いに他ならなかった。

 城渡夫妻の優しさを噛み締めるようにして瞑目し、次いで深く深く首を頷かせた恭路は双眸を開きながらたすくへと向き直り、改めてこうべを垂れた。

 苦笑いでこれを受け止めたたすくから促されるまま休憩用のパイプ椅子に座った恭路は、生唾を飲み込んだのちにチーズバーガーへと齧り付く。牛挽き肉にはカレー粉が程よく練り込まれており、深夜二三時には背徳的な香りが鼻孔を駆け抜けていった。

 その途端に双眸から熱い雫が溢れ出したが、両手が塞がっているので拭うことも隠すこともできない。

 二十歳はたちを超えて人前で涙を零すことなど本当は逃げ出したいくらい恥ずかしいのだが、城渡夫妻にだけは幼い感情をさらけ出してしまうのだ。心の中で自分自身を甘ったれと叱り付けても後から後から頬を流れてゆく熱い雫は抑えられなかった。

 なみだあじとでもたとえるべきか――口の中に広がったモノを恭路は二度と忘れまいと誓った。


「雅彦の拳骨ゲンコは効いたろ?」


 真隣にパイプ椅子を並べて腰掛けたたすくから柔らかく頭を撫でられた恭路は、チーズバーガーを頬張りつつも恥ずかしげに俯き、普段の彼を知る者が見たら仰天するくらい素直に頷き返した。


「大胆にも程があるよ。まさか、雅彦の対戦相手をバイクで轢こうとするなんてね」

「聞いたんスね、今度のこと……」

「てゆーか、あんたの書き置き見つけたときから大変だったさ。雅彦の奴、リーゼントをキメんのすら忘れて取り乱しまくってたよ。それは呼び出された剛も一緒だったけどね」

「オレ、そんなヘンなコト、書きましたっけ?」

「言葉足らずにも程があるっての。雅彦なんて行先は青木ヶ原の樹海だって早とちりしてあんたの故郷に――山梨まで単コロ飛ばしたくらいさ。剛も一昨日だけで神奈川を何周したか分からないよ」


 たすくが苦笑を洩らした通り、恭路はすがだいら高原へ発つ前に一通の書き置きを城渡夫妻宛てに残していた。

 世界最強と信じて疑わない〝総長〟へ挑戦するのに相応しいか否か、新人選手キリサメ・アマカザリの力量を試すという目的まで明かしてしまうと途中で阻止される可能性が高い為、乱雑に千切った大学ノートの紙片には「先立つ不孝を許して下さい」とだけ書き殴ったのである。

 加えて誰にも気取られない夜明け前の出発だ。人生を悲観して蒸発したと勘違いされても不思議ではあるまい。


「……雅彦から聞いてないかもだけど、剛の呼び掛けで『武運崩龍ブラックホール』の全員があちこち飛び回ったんだよ。みんな、なりふり構わずにアンタを探していたんだ。あたしだって電話番さえなきゃ倉庫から単コロ引っ張り出してたよ」

「……本当マジッスか……」


 『武運崩龍ブラックホール』に緊急招集が掛けられたことは初耳であった。こうしてたすくから教わらなければ、おそらくは永遠に知らないままであっただろう。だから、叱責を受ける場に特攻隊長まで駆け付けたのだ。

 総長と副長ばかりか、仲間たちにまで大変な迷惑を掛けていたのである。次の集会では額づいて詫びなくてはなるまい。その場で袋叩きにして貰わなければ二度と彼らのことを仲間と呼べないほどの罪悪感が恭路の心を埋め尽くしていた。


「……少しは懲りたみたいだね」


 両頬に食べ物を含んだまま嗚咽するという幼児のような姿で恭路は頷き返した。

 もはや、不遇の原因をキリサメに押し付けてはいられなかった。


「雅彦はあんたのコトが可愛くて仕方ないんだよ。あのバカには腹が立つコトだってたくさんあると思うけどさ、そこだけは酌んでやって欲しいね」


 「あたしだって同じさ」と頭を撫でられ、既に一杯となっている口の中へフライドポテトまでねじ込まれた恭路はますます声を詰まらせた。改めてつまびらかとするまでもなく、それは物理的に喉が詰まりかけているからではない。


「一〇年ひと昔――いや、二〇年前だってちと苦しいか。あたしらの若い頃は湘南をブイブイ言わせてた暴走族ゾクも今じゃブームの過ぎたテーマパークと一緒だし、人も寄り付かないから世代交代だってこのザマさ。気合いが入ってるあんたのことはみんなも頼もしいんだよ。勝手に期待寄せてるだけだし、気負わなくたって構わないけど」

「……ちっとも応えられてねェッスよ……昨夜だって副長にも特攻隊長にも永久追放にしたろうかって脅されまくったし……きっと総長だって……オレ……今度という今度は愛想尽かされたんじゃねェッスかね……」

本気マジで追い出すつもりなら昨夜の内にここから叩き出してるだろ。……恭路、あんたはのたった一人の子どもなんだ。それだけは胸張って欲しいモンだね」

「……ホント……すんませんッス……」


 の子ども――そういって下腹部を撫でるたすくから恭路は目を逸らした。

 城渡夫婦の間に血を分けた子どもがいない理由を詮索したことはなかった。恭路が教えられたのは二人の馴れ初めくらいである。

 今でこそ主婦業が板に付いているたすくだが、若かりし頃には暴走族レディース総長ヘッドとして大勢の仲間を腕っぷし一本で率いていたのだ。城渡の『武運崩龍ブラックホール』とも同盟を結び、真夜中の海岸線を駆け抜けて共に湘南を席巻したそうである。

 その縁から男女の関係となり、現在いまの恭路と同じ年齢の頃に結婚まで至ったという。

 たすくは近頃の暴走族事情にも言及していたが、最も深刻な問題点は仲間たちの顔ぶれを見れば瞭然であろう。最年少の恭路と他のメンバーは一回り以上も年齢が離れているのだ。たすくのチームに至っては遥か昔に解散しており、現在いまでは集会の性質も主婦同士の交流会に変わっていた。

 法律を無視した危険行為でもって社会への反発を示す暴走族そのものが今では時代錯誤と見なされ、相手にされなくなっている。一九八〇年代には毎日のように繰り返されていた縄張り争いが昨今では滅多に発生しないのは、それ自体が暴走族チームの減少と同じ意味を持つからである。

 必然的に若手不足となり、世代交代に失敗した挙げ句、辞めるに辞められない中年層が肩を寄せ合うチームも珍しくなかった。『武運崩龍ブラックホール』もその内の一つなのだ。

 つまり、恭路のような若者は希少種といっても過言ではない。たすくより語られた仲間たちの〝期待〟とは暴走族の高齢化という極めて現実的な問題と表裏一体なのである。


「これくらいのコトでへこたれるんじゃないっての、あんたらしくもない。最後の一線は越えずにスジだって通してんだ。いつも通りにしてれば良いよ」

「……スジッスか……? どうッスかね、もう自信折られまくってて……。ただ総長と約束したんで高校中退だけは避けなきゃって思ってるッス。退学なんか喰らった日にゃマジでここから追い出されちまいますよ」


 生来の怠け癖もあって遅刻や無断欠席が多い上に成績も学年の底辺から数えたほうが早い恭路は毎年のように単位が足りず、学生服のまま成人式を迎えてしまったのだが、どれだけ回り道をしても高校だけは卒業するよう城渡から厳しく言い渡されていた。

 この約束があったればこそ年下たちに混じって教室の机に齧り付いているわけだ。そうでなければ退屈で無味乾燥な高校など遥か昔に自主退学しているだろう。二回も留年すると入学当時から親しくしていた仲間ツレや下級生は先に卒業し、腫れ物へ触るように接してくる同級生には気軽な話し相手すらいなくなってしまうのである。

 かつて城渡たちが袖を通した物と同じ学生服を着続けるのは、それ自体が総長の恩に報いたいという直向きな想いであった。

 そこまで考えているのなら学業にも真面目に取り組むべきだろうと二本松から注意されたこともあるが、それはまた別の話である。


「それもまた別の話だよ。あたしが言ってるのは昨夜のコトさ。あんた、剛が相手でも口を割らなかったんだって? 恭路のお陰で雅彦はメンツを保てたようなモンだ」

「……あっ、あれは別に――」


 苦笑交じりで紡がれた〝別の話〟から恭路はたすくの言わんとしていることを悟った。

 このガレージに何時間も正座させられた昨夜のことであるが、叱責の合間に二本松から城渡の対戦相手――キリサメ・アマカザリの練習内容について問い質されたのである。


「――まさか、すがだいらくんだりまで行って手ぶらってワケじゃないだろうな、御剣? キリサメ・アマカザリがどういう選手なのか、そこまで見逃したっていうなら今すぐ念仏を唱え始めるんだな。顔に二つ付いてる目が節穴ではないのなら、雅彦のセコンドに報告すべきことがあるだろう?」


 二本松は声色こそ落ち着き払っていたものの、キリサメ攻略の手掛かりとなり得る有益な情報がもたらされなかった場合ときには更なる折檻も辞さないと恭路に凄んでいた。


「副長ともあろう人が何の冗談スか⁉ ンなこと、っちまったらそれこそオレは総長に顔向けできなくなっちまいますよ! オレがアマカザリ狙ったのはヤツが総長とり合う器かどうか確かめる為ッ! 副長は総長の器に泥水注げっつーんですかッ⁉ 特攻隊長に八つ裂きにされたってオレは何も吐きませんよッ!」


 自身が所属する暴走族チームの副長から恫喝された恰好であるが、恭路は一瞬たりとも躊躇ためらわずに回答を拒否していた。保留ではなく完全に拒絶したのである。



 二本松の問い掛けに対する答えを持ち合わせていなかったわけではない。『まつしろピラミッドプロレス』の強化合宿を手伝うように命じられた後、キリサメの稽古を至近距離で観察する機会にも恵まれたのだ。

 合宿場である山荘の庭に設置されたプロレスのリングにて空閑電知と共に行った打撃練習は最も印象に残っている。

 最初の内は白い指貫オープン・フィンガーグローブを嵌めた両拳をただ力任せに振り回しているようにしか思えず、どこからどう見ても素人同然であった。無論、威力そのものが侮れないことは恭路も認めている。電知が翳した分厚い標的まと――ミットへ突き刺さる音は背筋が寒くなるほど重く、頭部や肝臓といった急所を正確に狙い撃ちしているようでもあったのだ。

 誤って直撃を被ればたったの一撃で意識を刈り取られる恐れもある。一打必倒の戦慄はパンチからキックの練習に切り替えた後も変わらなかった。

 小技を経由して的確に攻め手を組み立てれば対戦相手にとっては相当な脅威となるだろうが、キリサメはこうした打撃の基礎を疎かにしてきたらしい。それどころか、速度重視で動作の小さいパンチやリーチの長い直線的な一撃ストレートなどを打ち分けるという発想そのものを持ち合わせていない様子であったのだ。

 目付きの悪さを見咎めて難癖をつけてくる素人が相手ならばともかく、仮にも〝プロ〟の肩書きを背負う選手にあからさまな急所狙いが届くはずもあるまい。風変わりなを纏っている電知のほうが打撃は遥かに巧みであった。

 一打必倒に逸って両腕をむやみやたらと振り回すのは恭路も同様であるが、己の拙劣ほど本人は気付かないものである。〝ドングリの背比べ〟という自覚もないままキリサメのことを胸中にてせせら笑っていたものの、変化のときはそれから間もなく訪れた。


「長野でおれのあてを何発も喰らっただろ? アレを想い出してやってみろよ」

「相手の姿勢を崩して柔道の投げに持っていくのが電知のあてじゃなかったか? 僕は相手と組み合って戦うのがそんなに得意じゃないよ」

肉体からだけっつったばかりだろ~? あては組技への中継ぎじゃなくてピンでも十分に勝負できるモンだって、厭になるくらい刻んでやったじゃねぇか」

「……そうだったな。あの痛みはまだ肉体からだの奥に残っている」


 電知の実演や指導を吸収する内にキリサメも少しずつ複数のパンチやキックを打ち分けられるようになっていった。指貫オープン・フィンガーグローブからパンチングミットに嵌め直し、改めてあてを受けたこともあって彼の動作うごきを模倣するところから始まったのだが、数分と経たない内に要点を掴み、自身の技へと応用し始めた。

 横薙ぎのパンチを敢えて電知に防御ガードさせ、その場に釘付けとした上で強引に踏み込み、己の拳を受け止めている腕を押し退ける形で肘打ちにまで繋げるなど打撃訓練を開始した直後にはキリサメ本人にも想像できなかったはずである。

 粗削りな部分が多いことは否めないが、小技と大技を組み合わせるという思考も徐々に馴染みつつある。己の両拳を見つめながら首を頷かせたのは成長の実感であろう――城渡総長との対戦に相応しい条件が一つずつ満たされていく過程を恭路は己の双眸でもって確かめていた。


「イイ感じに仕上がってきたじゃねーか、キリー! 今くらいの回し蹴りならマッチの野郎だって一溜まりもないぜッ!」

「おいこら、おっさん! 人の台詞を横からるんじゃねーよ! キリサメの打撃を受けてんのはおれなんだぜっ⁉」

「横で見守ってるからこそ分かるモンがあるんだよ! 自慢の養子むすこだぜ、キリーはよ!」


 リングサイドにて打撃訓練を見守っていたのは古銭の刺繍を水玉模様に似せて全体へあしらうという奇抜な陣羽織を纏った八雲岳である。

 養父ちちの声によってますます奮い立ったのだろう。キリサメが放った蹴りは切れ味を一等増したように思えた。



 電知が翳すミットへの打撃をもって証明されたMMA選手としての伸び代は認めざるを得ない。しかし、所詮は付け焼刃に過ぎず、総長との実力の差を埋めたとは言い難い。それが恭路の結論であった。

 立ち技系の格闘技団体の『こんごうりき』ではなく敢えて総合格闘技MMAの世界で――『天叢雲アメノムラクモ』のリングで打撃を磨き上げてきた城渡がその利点を生かして畳み掛ければ経験キャリアで劣るキリサメなど苦もなく完封できるはずだ。

 すがだいら高原で観察した強化合宿の様子を明かし、作戦に反映させれば城渡の勝利は盤石となるだろう。総長のセコンドを務める二本松にもを期待されたのである。

 だが、恭路は口を真一文字に引き締めることで返答こたえに代えた。

 キリサメには果たすべき義理などない。迷惑を掛けたことへの罪滅ぼしとして二本松の指示に逆らったわけでもない。それどころか、息子がやりたいことへ全力で付き合ってくれる〝父親〟の存在が眩しく、己の境遇を振り返って妬ましくなったくらいだ。

 しんけんなどと称する古武術――『あらがみふうじ』を中途半端に伝授して何処かに蒸発した実父と八雲岳は大違いである。

 数年前まで生まれ故郷の山梨で暮らしていた恭路は『きょうへい』という名の実父が起こした酷く下らない事件の所為せいで親子ともども居場所を失い、夜逃げ同然で首都圏まで移る羽目になった。その挙げ句、恭平は息子一人を旧知の城渡のもとへ置き去りにし、行方を眩ませてしまったのである。

 伝え聞いた噂によれば横浜でアジア系マフィアと縄張り争いを演じる暗黒街の首領ドンから灰皿代わりに使われているそうだ。比喩でなく本当に頭で葉巻の火を受けているという。

 幼い頃に両親が離婚した為に実母とも連絡が取れず、親戚もいない湘南へ独りぼっちで放り出される形となったとき、温かく迎え入れてくれたのが城渡夫妻であった。

 その恩は海よりも深く、山よりも高い。城渡へ報いることができるのなら恭路は泥でも毒でも喜んで呑むつもりだ――が、二本松が求めるような告げ口を喜んでもらえるとはどうしても思えなかった。

 だから、恭路は口を噤んだ。『武運崩龍ブラックホール』への背信を問い詰められ、殴り飛ばされることまで覚悟して歯も食いしばった。

 キリサメとの試合に向けた二本松の作戦立案には貢献できるかもしれないが、同時に卑劣な告げ口は城渡に対する最大の侮辱であり、裏切りであった。恭路が尊敬し、その背中を追い掛ける総長は如何なる相手にも正々堂々と立ち向かうおとこ快男児ひとなのだ。

 これ以上、城渡を失望させたくなかった。何よりも実父のように人の道を踏み外すわけにはいかない。結局、二本松から追及を受けることはなく、合宿に関する質問もすぐに打ち切りとなったのだが、今でも恭路はその瞬間ときの決断が誤りとは思っていなかった。

 対戦相手の弱点を聞き出そうとした二本松を「クソみてェな真似すんな」と一喝し、黙らせたのも城渡その人だったのである。


「――総長のメンツを守るってェのは誰もがやってる当たり前のコトですし、別に褒められるようなモンでもねェッスよ?」

「あんたのそういうトコロがね、みんな、憎めないんだよ」


 大仰なくらい首を傾げる恭路にたすくは目を細めた。

 彼は副長から心根を試されたことに全く気付いていない。回り道が多くとも直向きな恭路はまさしく人として越えてはならない〝最後の一線〟を無意識に守っていたのである。

 そこに御剣恭路という青年の性情が顕れ、彼を取り巻く誰もが安堵するのだった。

 当の恭路は口の中へ一気に詰め込んだフライドポテトを飲み下そうと缶ビールのプルタブを開け、その瞬間に勢いよく噴き出した大量の泡を頭から被っていた。

 たすくが放り投げて地面へ落下したときに内部が振動され、今になって炭酸が大爆発を起こした次第である。


作業こっちの後片付けはあたしがやっとくから、あんたはもう風呂入って寝な」

「そうしまッス」


 悲惨としか表しようのないこの有り様も城渡の思し召しに違いない――たすくと顔を見合わせた恭路はアルコール臭くなったパンチパーマを掻きつつ一際大きな笑い声をガレージの天井に撥ね返すのだった。



 『タイガー・モリ』と呼ばれた伝説の剣道家――森寅雄の系譜を継ぐとらすけとキリサメ・アマカザリの出逢いから少しばかり時間を遡った夜のことである。

 このときには恭路をも呑み込む〝汚染〟が既に始まっていたのだ。

 多大な迷惑を掛けてしまった仲間たちには『武運崩龍ブラックホール』の集会にて陳謝し、己が仕出かした不始末も一部始終を説明した。その折にメンバー全員からキリサメ・アマカザリにも改めて詫びるよう促されたのだ。

 恭路としては甚だ不本意であるが、これを撥ね付けるわけにもいかず、仕方なく湘南から『八雲道場』へ『ガンドラグーンゼロしき』を走らせたのだった。

 それが五月半ばの週末のこと――未稲がゲーミングサークルのオフ会に出掛けた当日であった。恭路は謝罪に訪れた直後、シート後部へ無理矢理に跨ったキリサメから秋葉原まで向かうよう強いられた次第である。

 未だかつて聞いたことがないほど激烈な語調と、何よりも双眸から漂わせる妖気におののいてキリサメのに従った為、恭路はここに至る経緯を秋葉原への道中にて説明された。

 最初こそ「オレはタクシーじゃねぇんだぞ。カネ取るぞ、クソッたれが」と舌打ちを続けていたものの、話を聞く内に事態の深刻さを認識し、黙って従うようになった。キリサメに対する贖罪というよりも義憤に駆られたのである。

 普段の無感情とは正反対の強硬な態度になってしまうのはそれだけ逼迫している証しであり、キリサメの心情をおもんばかることができないほど恭路も鈍感ではなかった。


「――それじゃ未稲のヤツ、そのナントカっつうガキの人質になっちまったのかよ」

「……人質なんて生易しいものじゃない。今頃、みーちゃんはヤツラの嬲り物に……」

「人の背中でクソ生々しいハナシをすんじゃねぇよ! 日本にはな、『信心深けりゃイワシの頭も泳ぎ出す』って諺があるんだ!」

「ひょっとして『イワシの頭も信心から』と言いたいのか?」

「悪いほうに考えてっとマジでその通りになっちまうってこった! 手前ェの目で確かめたワケでもねェのに最悪のシナリオを決め付けるなっての!」

「……何でもかんでも前向きに考えるあんたらしいな……」

「よ、よせやい、てめー! 急に褒められたら照れちまうぜ!」

「……話の噛み合わない相手がここにも一人……」


 麻袋に納まったままの『聖剣エクセルシス』を右肩に担ぎ、左手一本で恭路の腰にしがみ付くキリサメは自宅いえの納戸から引っ張り出した防災用の白いヘルメットを被っている。大きさからして岳の物であろう。前方へ僅かに迫り出したツバの上には安全第一という標語スローガンが横書きの形で刷り込まれていた。

 焦る余り、キリサメは無防備の状態で出発を促したのだが、彼は危険行為すら愉しむべくしてバイクを乗り回す暴走族ではない。紛れもなく〝一般人〟である。同乗こそ了承したものの、恭路も安全の確保だけは譲らなかった。

 非常識や無神経を絵に描いたような青年が紡ぐとは信じられない正論で押し切られてしまったキリサメは言い訳もできずに屋内まで戻り、大災害に備えて納戸へと仕舞われていた防災用品の中から熱硬化性樹脂のヘルメットを発見したわけである。

 玄関や窓の施錠も改めて言い付けられたのだが、本来、為さねばならないことから掛け離れたを行う間に身のうちを食い破りそうだった焦燥感が和らぎ、ほんの少しではあるものの、キリサメは冷静さを取り戻していった。

 世界中の誰よりも分別を欠いているとしか思えない青年おとこから落ち着くようたしなめられた恰好で何とも腹立たしいが、瀬古谷寅之助や『デザート・フォックス』に対する敵意と比べて遥かに小さな煩わしさを感じられるということは、それだけ精神的なゆとりが生じた証拠である。

 調子付かせると鬱陶しい種類タイプの人間だと分かっているので、に関して礼を述べるつもりはなかったが、を促した恭路の助言がる種の救いとなったことは間違いないのだ。

 剥き出しの頬に受ける風が初夏の暑さをいっときばかり忘れさせてくれた。残像が空へ滲むような勢いで通り過ぎていく木々は新緑真っ盛りということもあって青空に映えている。

 半ばまで閉ざされた双眸に獰悪な妖気を湛えるキリサメが跨ったゾク車は代々木公園横の都道四一三号線を駆け抜けようとしていた。

 未稲の身を案じれば今にも破壊的な衝動が暴発しそうになるのだが、その一方で恭路の肩越しに吹き付けてくる風を涼しく、心地良いものと認識もしている。

 ごく普通の人間らしい感受性と、肩に圧し掛かる暴力性の顕現あらわれ――『聖剣エクセルシス』の重量おもみが交わり、吐き出しようのない渦と化している。心と肉体とを結び合わせる感覚が分裂してしまったかのようであった。


「快楽目的の愉快犯っつうコトは何となく伝わってきたがよ、未稲が標的マトになった意味がさっぱりだぜ。逆恨みでもないってんだろ? ますますワケ分かんねーよ」


 一方の恭路はゾク車のハンドルを握りながらしきりに首を傾げている。キリサメから事件の経緯を説明された現在も瀬古谷寅之助という犯人おとこについて輪郭さえ掴めていないのだ。

 未稲が狙われた理由も幾度か問われたものの、キリサメ自身が寅之助の真意を測り兼ねているので答えようがない。背景が全く不明瞭のまま、キリサメたちを置き去りに深刻な事態だけが進行し続ける構図であった。


「……こういうことを仕出かすような人間には見えなかったんだけどな……」

「出たよ、お約束の台詞! マジにイカレた真似する輩ってのは見た目は案外、ソフトな印象なんだよ。そういうヤツが急にスイッチ入ってバカの暴走特急に成り下がるんだぜ」

「そんなの、ただの偏見だろ……」


 恭路の見立てを一言で切り捨てるキリサメではあるものの、思い当たる節がないわけではない。

 故郷ペルーいて『七月の動乱』とも呼ばれるようになった二〇一三年の大規模な反政府デモを影で操り、民間人を武力革命の尖兵に仕立て上げようとした『組織』のリーダーは聖人君子と見紛うばかりの佇まいであったのだ。

 そういう意味では『組織』のリーダーと寅之助は似ていなくもない。前者は貧富の格差に蝕まれる祖国ペルーを憂いて落涙する高潔さを見せながら、将来的に反乱分子となり得る民間人の〝き〟を画策した国家警察の前長官とも癒着していたのである。

 人は見た目では判らない――言葉にすれば簡単だが、欺かれた側からすれば相手が秘めた悪意に気付けなかったことを悔やんでも悔やみきれないのであった。


「こういうときこそオレの名推理が唸るぜ。手前ェの犯罪に酔いしれる野郎は一人でシコシコお楽しみってパターンが大半だ。単独犯ピンじゃねェのが臭いぜ。共犯者ってのも誑かされてるだけかもよ」

「経緯なんかどうでもいい。寅之助も『デザート・フォックス』も五体満足で返すつもりはない。他にも協力した人間がいるなら残らず捜し出す。この話を聞いてみーちゃんのことを虚仮にするヤツがいるなら、そいつらもまとめて叩き壊す」

「ヤキ入れる標的マトを絞れっつってんだ、バカ野郎! 絨毯爆撃なんかやってみろ、総長との試合までブッ飛ぶだろうが! せめて主犯格をシメるだけにしとけっつの! 他の連中はオレが引き受けてやらないでもねーからよ!」

「そこまで手を貸してもらおうとは思ってない」

「てめーの為じゃねぇ、こいつは総長の為だ! ……とにかく次の試合が取り止めになるようなバカだけはやるなよな。総長の顔に泥塗ったらマジで承知しねぇぜ」

「……善処はする……」


 曖昧な返事に恭路は「何だよ、煮え切らねぇッ!」と一等大きな舌打ちを披露した。

 恭路が言うように報復の対象を際限なく拡大させていけば必ず警察が動く。日本MMA界を代表する『天叢雲アメノムラクモ』の所属選手が暴力沙汰を起こしたと知れば、鹿しか刑事など喜々として捜査に乗り出すだろう。

 事情はどうあれ〝プロ〟のMMA選手が『暴力』を振るうことに変わりはないのだ。

 しかし、未稲が人質に取られ、あまつさえ深い傷を負わされた以上は己の立場も所属も投げ捨てて救出に全身全霊を傾けるしかない。現在いまのキリサメは城渡マッチをデビュー戦のリングに待たせているという意識すら放り出していた。

 恭路の警告など右耳から入って左耳へ素通りする有り様であった。

 彼がハンドルを握っているゾク車も並走する自動車の隙間を強引にすり抜けていく。神宮外苑への進行方向を案内する青い標識の真下を潜り、荒い運転に対するクラクションを背にして青山通りをひたすら突き進むのだ。

 それから数分と経たない内にキリサメを乗せたゾク車は江戸時代の名残を現代に伝える巨大なほりの近くまで到達した。東京で暮らすようになって三ヶ月が経とうとしているが、自宅以外に殆ど用事のないキリサメは自ら散策に出掛けるようなこともなく、首都の中心部を訪れるのも初めてであった。

 視界に映り込む町並みがおよそ一五〇年前にはじょうの一部であったことすら彼は知らない。半蔵門といった標識の意味も理解わかってはいないのだ。『ガンドラグーンゼロしき』は内堀通りに竜の嘶きともたとえるべきマフラー音を響かせているのだが、そこから鹿しかの属する警視庁が近いこともキリサメは把握していなかった。

 反対に恭路は〝公僕〟へ張り合おうとしている。十字路で左折する際にも速度を殆ど落とさず急激に曲がり、甲高い音とタイヤの痕跡あとをアスファルトの路面に焼き付けていた。

 警視庁・捜査一課のどこかに鹿しかのデスクまで届くことはないが、桜田門周辺を巡邏パトロールしている警察官に発見されようものなら間違いなく交通法違反で咎められるだろう。先程から清々しいくらい法定速度を超過しているのだ。恭路は安全とは言い難い運転を自覚しつつ、わざわざ〝公僕〟を挑発したわけである。

 何しろ御剣恭路は暴走族チームの親衛隊長なのだ。「ヘルメットを被らないと警察に捕まるって注意してきたのは誰だよ」というキリサメの溜め息も改造が施されたマフラーの爆音によって咬み砕かれていた。

 他に選択肢はなかったものの、この青年に頼ったのは間違いではなかったかと、キリサメは己の判断を疑い始めた。万が一にも警察官に捕まれば、それだけ未稲救出が遅れるということだ。そして、それは何もかもが手遅れになることをも意味している。

 ましてや寅之助には警察などに通報しないよう明確に指示されているのだ。同乗者のキリサメだけが事情聴取を免れるはずもなく、法治国家日本とは相容れない『聖剣エクセルシス』を担いでいる理由までただされることは間違いない。

 何か一つでも打つ手を誤れば全てが破綻するという不安を更に煽ろうというのか、エンジンやマフラーで爆ぜる〝龍の嘶き〟は快調そのものであった。


「そもそも、てめーが何やってんだっつう話だぜ? 男のクセに女の一人も守れねェでどうすんだ、バカ野郎が。股にぶら下げたモンは飾りかよ? 未稲がさらわれるのを指咥えて見てたのと同じだぜ」

「……というか、どうして、みーちゃんを呼び捨てにしているんだ? 返答次第によってはあんたの股も引き裂くことになるぞ」

「矛先、こっちかよ⁉ 余裕がないにも程があるだろ! いや、余裕がなくて当たり前なんだけどよォッ!」


 先程からキリサメも気になっていたのだが、恭路は未稲のことを馴れ馴れしく呼び捨てにしているのだ。『デザート・フォックス』の一件もあり、自分の知らないところで親密になっていたのかと、どうしても反応が過敏になってしまうのである。


すがだいらンときにヤツと雑用係を組まされたろ。八雲って名字が親子で二人じゃねーか。下の名前で呼び分けなけりゃ、どっちがどっちか分からねーだろ」

「せめて、『さん』を付けて呼べよ。友人でもないのに調子に乗るな」

「うっせぇな! どう呼ぶかはオレの勝手だ! でも、てめーのことだけは下の名前じゃ呼んでやらねぇ! ンな気色悪いことしたら舌が腐っちまわァッ!」

「こっちだって願い下げだ」


 未稲は野卑を絵に描いたような恭路のことが苦手だと話していた。剃り込みの深い金髪のパンチパーマは見る者に強い圧迫感を与える上、酒と煙草で焼けたダミ声は鼓膜が痛くなるほどやかましい。一緒に合宿の手伝いをしている間も生きた心地がしなかったそうだ。


「いずれにしたって未稲は知った顔だ。話を聞いちまったからには見捨てられねぇよ。万が一のコトになっちまったら寝覚めが悪ィしよ」

「悪いほうに考えていたら、その通りになってしまうと誰が言った? 悪い運気を呼び寄せるような真似はしないでくれ」

「へいへいへいへい、悪かったな! どこまでも可愛げのねぇクソガキだぜ!」


 すがだいら高原で接触したときにも感じたが、言行は常軌を逸していても、その心意気に邪まなものは混じっていない。先日は尊敬してやまない城渡総長の為に自らをなげうち、現在いまは未稲救出に力を尽くしている。前者と比して後者とは大して親しくもないのだが、付き合いの長さなど彼には些末なことなのだろう。

 だからこそ、キリサメも恭路という青年を信じて協力を要請できたのである。


「インチキじゅうどうのチビとは連絡つかねーのかよ? 長野住まいの覆面レスラーは無理でもアイツなら呼び出せるんじゃねェ?」

「……電話番号を知らない。そもそも僕は携帯電話だって持っていない」

「肝心なときに使えねぇな! 人質取られたときは短期決戦が一番なのによ! 取り囲んで押し切る為の頭数もままならねぇってか!」

「数を集めたって意味もないだろ。足並みが揃わずに取り逃がしたら最悪じゃないか」

「とにもかくにも、まずはオレらのタッグで主犯格をツブしちまおう! 二人の力を合わせりゃ通せぬ無理はありゃしねぇぜッ!」


 さしものキリサメにもこれには唖然としてしまった。闘いでは何の役にも立たないと見なしている相手から実力伯仲と思われていたわけだ。「使えないのはあんたのほうだ」と心の中で毒づいてしまうのも無理からぬことであろう。

 何しろすがだいら高原の路上戦ストリートファイトでは勝手に転んで頭部を強打し、そのまま失神してしまう有り様だったのだ。怒涛のように猛襲されたが、一度たりとも直撃を被ったおぼえがない。寅之助と交戦することになり、万が一にも恭路が絶体絶命の窮地へ追い込まれたときには迷わず見捨てるつもりであった。

 それにも関わらず、自分たちは力量にいて肩を並べていると信じて疑わない様子なのだ。路上戦ストリートファイトの結果を踏まえてそのような結論に行き着いたとすれば、慢心を通り越して天才の領域といえるだろう。ほんあいぜんの言動と同じようにキリサメには理解できなかった。


「足手まといになるから要らないよ。秋葉原まで連れて行ってくれるだけで良いんだ。そうしたら帰ってくれて構わない」

「要るだろ⁉ 伝説の『しんけん』だぞ⁉ 『あらがみふうじ』なんて最強の援軍だろうが!」

「じゃあ、ベルト代わりのチェーンを寅之助の足に巻き付けてくれ。飛び道具を外したら直接、しがみ付いて足止めするんだ。その間に『聖剣エクセルシス』を叩き落とすから巻き込まれないように気を付けてくれ」

「状況考えて喧嘩売れよ、てめーッ! 振り落とすぞッ⁉」


 率直な戦力外通告を受けて激烈に憤慨する恭路は、キリサメと同じようなヘルメットを被っていなかったら血が滲むくらい金髪のパンチパーマを掻き毟ったことだろう。現実を認識できないまま果てしなく己の力量を見誤っているらしい。

 しかし、キリサメも前言は撤回しない。足手まといとなり得る人間を伴った場合、未稲救出を仕損じる危険性リスクが一気に跳ね上がるわけだ。それだけは断じて避けたかった。


「みーちゃんは僕が救い出す。何があっても、この僕が……ッ!」


 喉の奥から絞り出された一言に秘めたる決意を感じ取った恭路は怒鳴り声を飲み下し、『ガンドラグーンゼロしき』を更に加速させていく。今度は〝公僕〟への反発ではない。キリサメの思いに応える為であった。

 己の力量を見誤りはしても、妖気という形で双眸から溢れ出す焦燥を酌み取れないような恭路ではないのだ。


「しっかり掴まってろよ、アマカザリ! 限界ブッちぎりで飛ばすぜッ!」

「……すまない……」


 恭路は赤信号を無視して交差点を突っ切り、行き交う自動車の間隙をすり抜けることで返答こたえに代えた。肩越しに何か言葉を掛けたところで無数に鳴り響くクラクションが押し流したはずである。

 奇跡的にもキリサメを乗せたゾク車は交通法に違反し続けながらパトカーの追跡を受けることなく御茶ノ水を抜けて秋葉原へと入った。

 キリサメが同地を訪れるのはこれが初めてだが、新作ゲームの発売日を告知する大きな看板や、アニメ作品の挿入歌を延々と流し続ける関連グッズの販売店など市街地の様子はペルーの首都・リマの中心部に所在する富裕層向けの商業施設ショッピングセンターを彷彿とさせた。

 テレビアニメやゲームといった日本のサブカルチャーは欧米諸国を中心に世界中で爆発的に波及しており、その熱狂は南米をも飲み込んでいる。リマ市内にいても日本作品に由来するイベントが定期的に開催されるほどなのだ。

 くだん商業施設ショッピングセンターでは地球の裏側からやって来たサブカルチャーの専門店が軒を寄せ合っていた。それらは日々の生活に余裕がなければ手を出せないだ。〝富める者〟の道楽とは無縁であり、足を踏み入れたことも過去に一度きりなので、その場所が『ペルーのアキバ』と呼ばれていることもキリサメは知らなかった。

 近似する風貌で呼び込みに励む女性を見つけて想い出したが、同施設のメイド喫茶で食事をったこともある。客のことを「ご主人様」と呼ぶウェイトレスの〝ご奉仕〟を心ゆくまで満喫した同行者とは異なり、キリサメにとっては十余年の人生の中で最も気持ちが落ち着かない飲食店であった。


秋葉原アキバも久々だな。駅前なんかは随分と変わっちまったらしーが、とりあえず行けば何とかなるだろ。街全体が大改造されたワケじゃねぇし」

以前まえにも来たことがあるのか? ……意外だな。こういう雰囲気は苦手そうなのに」

「……親父がアニメ好きでよ。オレもガキの頃にゃ『せいれいちょうねつビルバンガーT』っつうロボットアニメにはハマッてなぁ。……親父に連れられて何回か遊びに来たんだ。『ビルバンガー』なんて知らねぇよな?」

「……僕は『ビルドリラー』が好きだった」

「フツーに詳しいな⁉ つーか、『ビルドリラー』形態が好みとか通じゃねーか!」

「あのアニメはペルーでも放送されていたんだ。最終回まで観たハズだけど……」

「ちょっとだけてめーに親近感が湧いちまったぜ。お前、インカ文明の剣術をカジッてんだろ? 『ビルバンガーT』の必殺技は真似できねぇのかよ⁉」

「インカの剣術なんか知らないし、そもそも『ちょうねつしんくうオーラざん』のパワーには専用の剣バンガーバスタードでなきゃ耐え切れないんじゃないのか」

「それだよ、それそれそれッ! てめー、この野郎ッ! 『ビルバンガー』ファンって、何でもっと早く言わねーんだよォッ!」

「……言わなきゃ良かったって、今、後悔しているよ……」


 日秘で分かち合える話題も、恭路がテレビアニメを好んでいることも意外な発見だが、バイクを駆る本人が秋葉原という街に土地勘があることこそ何より頼もしかった。『八雲道場』を出発してから二〇分と経っておらず、まさしく最速最短での到達といえよう。


「青春の『ビルバンガー』談義は用事を全部済ませた後でゆっくりやろうや。……指定されたビルは一つしか思い当たらねぇ。そこに突っ込むぜ! 臨戦態勢、整えとけよッ!」

「ああ、……いつでもいける」


 町並みが急速に流れてゆく秋葉原の只中にてキリサメは二〇一三年の故郷ペルーで起きた『七月の動乱』を想い出していた。

 あらゆる状況が一年前と酷似しているのだ。今は砂色サンドベージュ幻像まぼろしとなった少女も大規模な反政府デモに巻き込まれ、くだんの『組織』が一部急進派の為に用意した銃器の受け渡し場所まで連れていかれたのである。

 『組織』は〝大統領宮殿〟に向ける銃器を首都リマに所在するアメリカ大陸最古にして最大の闘牛場へ運び入れていた。国家警察の対テロ部隊がそこに突入すれば、命を削り合う銃撃戦に発展するのは必至――考えられる最悪の事態から少女を救い出すべく一年前の今頃も馬を駆っていたのだ。

 〝あのとき〟は自ら手綱を捌いていたので現在いまとは跨る位置が真逆であり、合戦さながらの反政府デモに分け入ることもない。しかし、『聖剣エクセルシス』を担いで守るべき存在ひとのもとに急行する状況は〝大切な少女〟が生命の危機に瀕していることまで含めて同じであった。


(……僕はまた失うのか――)


 砂色サンドベージュ幻像まぼろしとなった少女とは『ペルーのアキバ』にも一緒に出掛けたのだ。メイド喫茶でスープパスタを頬張る姿は今でも鮮明に想い出せる。

 秋葉原の町並みは〝あのとき〟の記憶を容赦なく抉り出すのである。『かいしんイシュタロア』のトークイベントを案内する看板があちこちに設置されているが、くだん商業施設ショッピングセンターでも同作のフェアが開催されていたはずだ。

 何処からか耳に飛び込んでくる『かいしんイシュタロア』の主題歌までもが少女との想い出を揺り動かすのである。

 ペルーで信仰されているキリスト教にとって極めて大切な一週間――『聖週間セマナ・サンタ』では聖書に記された受難劇が巨像によって再現されるのだが、これを大勢で担ぎ、市内を練り歩いて大聖堂カテドラルへと向かう『聖行列プロセシオン』も少女と二人で見物していた。

 キリストの受難から復活に至る数々の伝承を巨像で表した宗教行列は夜が明け切らない内から蝋燭だけを頼りに動き始める。無数の燈火によって暗闇の中に浮かび上がる受難劇は心臓が揺さ振られるほどに荘厳であった。同道する音楽隊も場面シーンに即して神聖な旋律を奏でており、耳を澄ませた者は邪念の一切が拭われていく。

 夜明け前の空に掲げられた聖なる光を見つめながら、いつしか少女と手を繋ぎ、自然と互いの指を絡め合っていたのだ。

 それもまた砂色サンドベージュの向こうに消えた想い出である。


(――に続いてみーちゃんまで……僕は守れないのか……ッ⁉)


 かつて味わったものと同じ〝受難〟が再び繰り返されようとしている。

 〝あのとき〟は自身が駆る馬の後部うしろに日本から訪れた女性記者を乗せていた。反政府デモの裏側にてうごめく『組織』を共に探ったその人は、全ての果てに「諦めないで」とキリサメに訴えたのである。


「〝〟がどんなに苦しくても、自分の命をちっぽけなものだと割り切ったり、亡くしたあの子と同じで幸せにはなれないんだと〝未来これから〟を諦めないで――誰かを守れるその力で何ができるのか、考えることだけは止めないで欲しい。……それが遺された者の務めだから……ッ!」


 身辺警護ボディーガードの依頼主でもあった女性記者は、生まれ育った環境を理由にして運命を切り開く勇気を諦めないで欲しいとペルーを発つ寸前まで繰り返していた。「世界も人生も、そんなに捨てたもんじゃないからッ!」と、耳から離れなくなるくらい何度も諭されたのだ。


「アマッちだけじゃない。ッちだって、みんなみんな――生まれ育ちで幸せになる権利が決まるなんてことは絶対に有り得ない! ……生き続ける限り、いつか絶対に幸せだって噛み締める瞬間がやって来るッ!」


 ありぞのという名前が泣き腫らした顔と共に想い出された。砂色サンドベージュ幻像まぼろしとなった少女の為に涙を流してくれた女性ひとであった。

 日本でネットニュースサイトを運営しているという記者の想い出がる種の発作のように脳裏へ甦るのは、決して手放さないよう彼女に訴えられた〝可能性〟が瀬古谷寅之助によって摘み取られようとしているからだ。

 誰かを守れる力とやらが何の意味もしていない――寅之助がもたらした悪夢の筋書きはキリサメにとって受難あのときの再現にも等しいのである。


「さすが秋葉原アキバってな感じだな。外国人のコスプレイヤーまで居るぜ」


 追憶の水底に沈み、二〇一三年七月の故郷ペルーまで遡っていたキリサメの意識は、恭路の呟きに反応して二〇一四年の秋葉原に還ってきた。

 未稲の安否以外を考えられる余裕など少しもなかったが、不意に声を掛けられたこともあって恭路の示した方角へ視線を巡らせてしまった。

 歩道に見つけたのは外国から来日したとおぼしき二人組である。恭路がたとえた通り、確かに扮装コスプレと見えなくもない。褐色の肌を持つ青年のほうはサボテンを模った複雑なビーズ刺繍が施されたポンチョを纏っている。細長い棒切れを肩に担ぎ、そこに古びたズタ袋を吊るして歩く姿は古い西部劇映画から飛び出してきたかのようである。

 片割れのほうはアフリカ出身うまれであろうか――胸元まで掛かる長い髪をドレッドヘアーに編み上げ、真っ赤なバンダナを巻いていた。見る者に黒豹の如き精悍な印象を与える佇まいであるが、何故だかタキシードで全身を包んでいる。

 隣を歩くポンチョ姿の青年と比べて服装そのものに奇抜さはないが、サブカルチャーの聖地とも呼ばれる秋葉原の只中では場違いにしか見えず、着こなしという点では恭路に肩を並べるだろう。

 最も強く違和感を覚えたのは首の後ろに引っ掛けられた密閉型クローズドのヘッドフォンだった。バンドの部分が透明という珍しい品をキリサメは『ペルーのアキバ』で見たことがあったのだ。同地の商業施設ショッピングセンターに所在するアニメショップで『かいしんイシュタロア』の関連商品として陳列されていた物だろう。

 ひょっとすると同作イシュタロアのファンイベントを見物するべく秋葉原まで駆け付けたのかも知れない。綺麗に包装された薔薇の花束を指貫式のドライバーグローブを嵌めた両手でもって大切そうに抱えているが、登壇予定という出演者にでも捧げるつもりであろうか。


「……あれは……義足――か?」

「あァん? 今、何かボソボソ喋ったんか? 腹から声出さねーと聞こえねーぞ」

「いや、……何でもないよ、何でも……」


 キリサメはガードレールの向こうに捉えたドレッドヘアーの青年を我知らず凝視していた。無論、見憶えのある顔ではない。スラックスの裾から僅かに覗いた右足首が陽の光を反射し、眩いほど煌めいたことに驚いたのである。

 上等そうな革靴とスラックスの間に見えたのは機械仕掛けと見紛う鋼鉄の足――いわゆる、義足であった。

 交錯はほんの一瞬である。数秒と経たない内に通り過ぎてしまったので視線を交わすどころか、互いの顔をしっかりと確認することさえ叶わなかった。

 それ故にポンチョ姿の青年が怪訝な顔で振り返り、嘶きともたとえるべき轟音を残して走り去っていったゾク車を見つめていることにキリサメは全く気付いていなかった。

 仮にキリサメの側も後方うしろへと振り向き、ポンチョ姿の青年と視線が交わったとしても奇天烈なゾク車を珍しそうに眺めているとしか思わなかったはずである。歩道を行き交う人々の中にも同じような反応が散見されるのだ。

 しかし、青年の瞳は龍に見立てて改造が施されたバイクではなく、そこに跨った人間の後ろ姿しか映していない。

 彼に釣られる恰好でゾク車へと視線を巡らせたドレッドヘアーの青年も同様である。僅かに形が崩れた蝶ネクタイを片手で直しつつ、「さすがは聖地アキバ、文明発祥の地だけあるな。町を歩けばコスプレに当たる。これほどまでに胸躍る場所が世界のどこにあるものか」と、感慨深そうに首を頷かせていた。どうやら自分たちが同じような印象を他者へ与えていることに無自覚であるらしい。


「コスプレに反応するとは『カリエンテ』にしては珍しいな。聖地アキバの風は無趣味なお前にもときめきを運んでくれるというコトか。それでこそ我が相棒。共に女神イシュタル生命波動ティアマトに酔い痴れよう。大いなる神託のときは間もなくだ」

「カートゥーンの催し物を大いなる神託って崇め奉る奴、お前くらいしか見ないからな」

「しかし、聖地アキバの民はどうかな? お前の出で立ちは『マコシカ』の民が纏う時空の衣に通じるものがある。神託を預かりし者と思い、女神イシュタルの信徒はお前を目指して集うかも知れないな。そのときは俺も喜んで跪こう」

「この服をコスプレと混同するのは勘弁してくれ。先祖代々、永く引き継いできた物なんだ。『それを軽んじる者とは今すぐ手を切れ』って精霊スピリットから怒鳴られてしまうよ。バッドランズならともかく、カートゥーンのほうのマコシカなんてボクは一ミリも知らないし、自分がコスプレ状態なのかも分からないんだからな」

「魂の共鳴でないなら、一体、何が気に掛かったと言うんだ、カリエンテ?」

「今のバイク、二人乗りだったろ? 後部うしろに跨ってた男の子がちょっと、ね……」


 相棒から『カリエンテ』と呼ばれた青年は幼さが残った顔を顰め、次いで大仰に首を傾げてみせた。

「ほほう? カリエンテもあの少年に惹き付けられたのか。魂の共鳴は俺たちの間にこそ生じていたと見える」

「意外だな。おかしな恰好のライダーに反応したのかと思っていたよ。子どもの頃に観た日本のカートゥーンの――確かそう……『せいれいちょうねつビルバンガーT』っていうのにあんな服装のキャラが出ていたおぼえがあるし」

「改造学ランも確かに興味深いが、俺の魂を震わせたのは後ろの少年が肩に担いだだよ。袋の中身はおそらく刀剣の類だろう。それも曰く付きのな」

「そこまではボクも見抜いていなかったけど、……どうして分かるんだ? ボクは農具でも買った帰りじゃないかって思ってたよ」

「意味ありげな代物モノは伝説の武器と相場が決まっているだろう? 粗末な袋に包まれた神話の剣――これこそ覇道にして王道だ」

「……お前に感心した一秒前の自分を棒で引っ叩いてやりたいよ」


 ドレッドヘアーの青年が述べたのは洞察力ではなく空想にも等しい思い込みだったが、ポンチョ姿の青年カリエンテは聞こえよがしの溜め息を吐くばかりで根拠不在の大胆過ぎる想像力を戒めるようなこともない。「また始まった」とでも言わんばかりの反応からして両者の間では日常的に繰り返されているやり取りなのだろう。


「カリエンテだって同じだろう? 遥かなる浪漫が心を貫いたのだろう?」

「全ッ然違うわ! 顔だっ! あのコの顔に見おぼえがあるんだよ。どこで見たのかは想い出せないんだけど。気のせいじゃないハズなんだよなぁ」

「社交パーティーで挨拶でもしたのではないか? それならば、カリエンテと同じように何処かの御曹司というわけだな――伝説の剣を携えた貴種流離譚か……聖地アキバには物語が詰まっている」

「いや、〝実家〟のほうじゃないな。もっと別のところで見掛けた気がするよ。〝実家そっち〟関係だったら厭でも顔を記憶に刷り込むから……」


 〝見憶えのある少年〟にまつわる情報を記憶の奥底より引っ張り出そうと奮闘する相棒を置き去りにして、ドレッドヘアーの青年は正面に見据えたアニメショップへと歩を進めていく。

 もはや、耳を澄ませても〝龍の嘶き〟は聞こえなかった。


「足を止めていないでさっさと行くぞ、相棒カリエンテ神託トークイベントの開演までに何としても『かいしんイシュタロア』のポスターを入手するんだ。そこに女神イシュタルからサインを入れて貰うのが俺たちに課せられた特命ミッションなのだぞ」

「寝言は寝て言えよ。催し物トークイベントに付き合わされるだけでも迷惑なのに、この上、買い物なんてやってられるか。そんな時間があるなら来週の表敬訪問に持参する土産の品を探せよ」

「だから、を探そうと言っているのではないか」

「ちょっと待てよ、お前! 合衆国大統領相手に何を持っていくつもりだよ⁉ ただでさえ〝ボクたち〟はホワイトハウスと微妙な関係なのに、これ以上の厄介事を抱えたら開拓時代に逆戻りし兼ねないぞ!」

創造女神イシュタルのサイン入りポスターだぞ? 喜ばない人間がこの世にいるものか。お前のご祖先様も精霊スピリットたちも未来への架け橋と認めてくれるだろう。『かいしんイシュタロア』のテーマは相互理解なのだから」

「その確信に満ちた眼差しをやめろってば!」


 珍妙な取り合わせということもあって如何なる立場であるのかは傍目には判らないが、この騒々しい二人組はアメリカ合衆国の政治を司る国家中枢――ホワイトハウスへの表敬訪問が決まっているそうだ。

 相棒が呆れ果てるのは当然だろう。ドレッドヘアーの青年は超大国の大統領への贈答品を秋葉原にて見繕うつもりであったようだ。そして、それこそが何より望まれていると信じて疑わない様子である。

 もはや、風と共に去っていった少年の面影を追い掛けている場合ではなかった。

 手に持っていた棒切れの先端で相棒の脇腹を小突いたポンチョ姿の青年カリエンテは「こういう場合は生まれ故郷の品を持っていくのが常識だっ!」と強い口調で説き聞かせた。

 青年カリエンテは「ホワイトハウスとは微妙な関係にある」と述べていたが、褐色の肌や先祖代々に亘って継承し続けてきたというビーズ刺繍の装束ポンチョが示す通り、ネイティブ・アメリカンの末裔なのだろう。相棒を睨む瞳は青く、異なる〝血〟も混ざっているらしい。


母国ルワンダの大統領へ挨拶したときは『かいしんイシュタロア』のオフィシャルムックとフィルムコミックを手土産にしたが、大層喜ばれたぞ。あの感動をアメリカにも伝えよう」

「それ、初耳だぞ⁉ お前……お前、何やってんの⁉」

「文化交流だ」

「文化交流って――間違っていないのが癪だなァ!」


 の是非を巡る言い争いがサブカルチャーの聖地にて繰り広げられている。認識が余りにも食い違っている為、同じ結論に到達するとは考えられない場景を高校生くらいとおぼしき少年が窺っていた。

 その視線に気付き、ドレッドヘアーの青年は「何か用か」と己の顔を左右の人差し指で示した。すかさずポンチョ姿の青年カリエンテが我が身を盾に代えて立ちはだかろうとしたが、当の相棒はこれを制して少年のほうに自ら歩み寄っていく。


「どうかしたのかな、少年! 見ての通り、我々は異邦人エトランゼ聖地アキバの道案内は難しいが、それ以外の相談には喜んで乗るぞ!」

「また安請け合いを……」


 相棒カリエンテとの間で飛び交っていたのは英語だが、ドレッドヘアーの青年が右手を挙げつつ少年に発したのは日本語である。しかも、日本人と遜色がないほど流暢であった。


「ひょっとして『ナチュラル・セレクション・バウト』のンセンギマナ選手じゃありません……か? 人違いでしたら本当にすみません! でも、あの……バンダナに『ダイダロス』って書いてあるしっ!」


 控え目に探るような眼差しに対し、青年は束ねた髪ドレッドヘアーが浮き上がるくらい力強く頷き返した。その途端に少年は目を輝かせ、左右の手のひらを重ね合わせながら飛び跳ね始めた。恋する乙女のようになってしまうくらい感激しているわけだ。


女神イシュタルが携えし『神槍ダイダロス』は相互理解の象徴だ。その穂先が引き合わせてくれた巡り逢いもまた運命デスティニー。少年よ、我らの心を満たす衝動を希望と呼ぶのだ」

「――ってことはやっぱし今日のファンイベントの為にアメリカから⁉ いや、アフリカ大陸から直行コースかもですけどぉっ!」

「無論のこと。女神イシュタルの信徒としてその降臨を――希更様の神託トークライブを見届けないわけにはいくまい。カリフォルニアから吹く風に乗ってやって来たよ!」

「マジでガチオタなんですね! キャラ作ってるワケじゃなくて感激だ~ッ!」


 予想の的中を喜んで左右の拳を握り締める少年の目は、ドレッドヘアーの青年が首の裏に引っ掛けたヘッドフォンへと向けられている。

 彼が愛好するテレビアニメにいて、は主人公たちの変身に欠かせないキーアイテムであった。ヘッドフォン型の神器を媒介として異世界の神々と同化し、その力をもってして人型機動兵器ヒューマノイド・ロボットのようにも見える甲冑や武具を具現化するという設定なのだ。


「真実とは神々の瞳にのみ映る――そうは思わないかな、少年?」

「うおおおぉぉぉッ! ときとうせつなの台詞丸暗記だ~ッ! すッげ! 本物ガチだッ! あのあの! 試合、デビュー戦からずっとネットで追い掛けてます!」

「キミの声援が俺の拳に宿っていたわけだな。ありがとう、日本の友よ! 『神槍ダイダロス』の導きに心から感謝を捧げよう。そして、次なる勝利も我が友に約束しよう!」

「……日本に居ながらどうやって試合を視聴しているのか、そっちのほうがボクには興味深いね。デビュー戦はプレリミナリィカード扱いだったし、PPVペイ・パー・ビューでも配信していないハズだけど、『ユアセルフ銀幕』辺りに違法アップロードされた動画ヤツじゃないだろうねぇ」


 英語ではなく日本語で紡がれた『カリエンテ』の指摘ツッコミも耳に入っていないのか、少年は信徒ファンの間でのみ通じるであろう専門用語や登場人物の名前を引用しながらドレッドヘアーの青年と大いに盛り上がっている。

 改めてつまびらかとするまでもなく、二人が話題にしている作品は希更・バロッサが主演を務めるアニメシリーズ『かいしんイシュタロア』である。少年が言及した通り、これから同作の舞台ともなった宮崎県の物産館アンテナショップにて出演者やスタッフが登壇するファンイベントが開催されるのだ。

 その様子を遠巻きに眺める人々は黒豹の如き青年ンセンギマナの正体が分からないのだろう。芸能人タレントと遭遇したかのように興奮し、サインまで頼み込む少年に誰もが首を傾げていた。何をそんなに有難がっているのか、少しも理解できないわけだ。

 二人の傍らでは『カリエンテ』と呼ばれたポンチョ姿の青年が辟易とした調子で頭を掻いている。『かいしんイシュタロア』に興味のない彼もまた置いてきぼりとなっていた。


「もしかしたら来るのかなって期待はしていたんですけど、まさか、本当にンセンギマナ選手とお会いできるなんて……本当、夢を視てる気分です……ッ!」

「キミも神託トークライブに行くのなら一緒にどうだ? もしも、聖地アキバに詳しいのなら道案内も頼みたい。我らが聖典のフェアをやっているショップはないだろうか?」

「是非! ! ンセンギマナ選手の力になれるなら本望ですッ!」

「……気持ちの良い返事に水を差すようで申し訳ないんだけど、こいつの言う通りにしていたらアメリカとルワンダの国交問題にまで発展し兼ねないんだよ。そうでなくてもホワイトハウスと揉めたら『NSB』にも迷惑が掛かる。くれぐれも自重してくれ」


 早くも肩を組み始めたドレッドヘアーの青年とそのファンには相棒カリエンテの溜め息など聞こえてはいないだろう。


「あの! 一つだけお願いを聞いて貰えないでしょうか!」

「どんと来い! お礼をケチるほど心の寂しい男じゃないぞ!」

「ンセンギマナ選手の右足に……触らせて貰えませんか……? あの、いえっ! ふざけるなって仰るなら手を引っ込めますけども……っ!」

「それくらい、お安い御用だよ。試合用でなくて、すまないがな!」


 少年の頼み事に迷いなく首を頷かせた青年はスラックスの裾を勢いよく捲り上げ、右足を膝下辺りまで晒し、次いで革靴の踵を打ち鳴らした。

 そこに現れたのは厚手のカバーで覆われた義足である。正面には『かいしんイシュタロア』の主人公――『あさつむぎ』が『神槍ダイダロス』を構えたワッペンが縫い付けられており、足首部は金属のつぎが剥き出しとなっていた。

 神の降臨に立ち合った司祭の如く全身を震わせ、畏れ多いといった調子で義足に触れた少年はすぐさま恍惚の表情となり、「こ、これが『NSB』に旋風を巻き起こした黄金の右足なのか……女神イシュタルにも通じる波動が沁み込んでくるぅ!」と感嘆の溜め息を零した。


「試合用の義足じゃないって本人も話しているのにな。見た目からして今日は黄金ゴールドじゃないし、そもそも日常生活用と使い分けるって普通に考えたら気付きそうなものだけどさ」


 日本語ではなく英語でもって紡がれた『カリエンテ』の指摘ツッコミは、言語ことばとして通じるか否かという以前に少年の脳が認識していないだろう。『NSB』の試合用や日常生活用ということは関係なく、少年は慕ってやまない『ンセンギマナ選手』の右足から伝わってくる感動を噛み締めているのだ。

 『ナチュラル・セレクション・バウト』――通称『NSB』。それはキリサメたちが所属し、八雲岳が統括本部長を務めている『天叢雲アメノムラクモ』と合同大会コンデ・コマ・パスコアを共催することが決まった北米アメリカ最大の総合格闘技MMA団体である。

 くだんの少年は『ンセンギマナ』という名前に彼の肩書きである『選手』を付け、誇らしそうに呼んでいた。



                   *



 『ガンドラグーンゼロしき』の嘶きも幼馴染みの哄笑も届くことがない日暮里の空の下で、空閑電知は一仕事を終えて帰り支度を進めていた。当然ながら友人たちの間で穏やかならざる事態が起きているとは知る由もない。

 普段は袖の長さが肘の辺りまでしかない風変わりなじゅうどうに身を包んでいるのだが、今日は長袖のシャツに作業用ベストを羽織り、ポケットが多い厚手のズボンを穿いている。裾が膝下九センチ程度というどう下穿ズボンとは輪郭シルエットからして大きく異なっていた。

 首に引っ掛けた手拭いには『空閑組』なる社名なまえが青く染め抜かれている。

 浅草の下町に明治初期から続く老舗工務店が電知の勤め先であり、単純明快な社名からも察せられるように生をけてからこんにちまで暮らしている実家であった。

 高校に通っていない電知は家業を手伝いつつ地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』の選手として『コンデ・コマ式の柔道』を磨いているわけだ。

 声優を本業としながらMMAに挑戦した希更・バロッサを半端者と詰ったことに大いなる矛盾が生じているのだが、彼もまた〝兼業格闘家〟のひとりなのである。

 この日はじょうとうしきであった。建物の基本となる柱や梁などの骨組みが出来上がり、屋根の最も高い位置へむなという部材を取り付ける際に無事の完成を祈願して執り行われる儀式のことである。

 これをもって工事は一つの節目を迎え、施主は建築に関わる職人たちへ食事や酒を振る舞い、慰労と激励を行う習わしとなっている。未成年の電知は身内以外の目もあるので飲酒こそ控えたものの、アメリカのホームパーティーを彷彿とさせる分厚いビーフステーキはたらふく頬張っていた。

 やや遅い昼食が一段落し、『空閑組』の親方――つまり、電知の実父である――が週内の業務が全て終わった旨を宣言したのは一六時まで残り一〇分を切った頃であった。

 『空閑組』の場合、職人たちが鮨詰め状態となった車輛で事務所と現場を往復しているのだが、今日の電知は日暮里まで愛車ママチャリで直行していた。地下格闘技アンダーグラウンドの試合が来週に迫っており、最終調整を図るべく旧中川の河川敷で同じ『E・Gイラプション・ゲーム』に所属する仲間――パンギリナンと模擬戦スパーリングを行う予定なのだ。仕事を終えたらすぐに稽古へ臨めるよう普段のじゅうどうもドラムバッグに納めて持参している。


「――わか、電話が、鳴ってます。電話、みたいです」

「あれ? 電源切ってなかったっけ、おれ。上棟式の最中にならなくて良かったぜ」


 そのパンギリナンが電知の携帯電話スマホを持って駆け寄ってきたのは、仕事用の地下足袋から『ハルトマン・プロダクツ』の社名が刷り込まれたスニーカーへと履き替えた直後のことであった。

 電知のことを『若』と呼ぶフィリピン人のこの男は、アジア圏から選手が集う中国のMMA団体『りょうざんぱく』から日本の地下格闘技アンダーグラウンド団体へとした風変わりなキックボクサーである。現在は大工として『空閑組』に勤めており、『若』が暮らす事務所兼自宅にも居候しているのだった。

 二回り近く年齢としが離れた少年を純粋に慕って『若』と呼んでいるわけだが、跡取り息子を直接的に意識させる敬称は『空閑組』の同僚たちにも瞬く間に広まってしまい、周囲まわりから冷やかされる度に電知は頭や頬を掻いていた。

 『若』という呼び名を耳にしたらしい施主が親方ちちおやに向かって「次期親方も順調に育っているようで『空閑組』も安泰ですね」と話す声が聞こえたときにはさすがに頭を抱えそうになったが、パンギリナンの真摯な気持ちが伝わってくるので無碍にもできず、礼を述べて携帯電話スマホを受け取った。

 パンギリナンの説明によれば、愛車ママチャリのカゴに放り込んでおいたドラムバッグの中で着信音を奏でていたらしい。彼の掌中より聴こえてくるのは昭和四四年から二年間に亘って放送され、日本中に空前の柔道ブームを巻き起こしたドラマシリーズの主題歌である。

 主演俳優が唄い上げるこの歌は番組名がそのまま曲名となっており、最高の盛り上がりを迎える部分サビでもを一直線に押し出している。


「……どういうこった? なァ、パンギリナン、こいつはどーゆーコトだと思う?」

「自分は、ちょっと……。ご友人のことは、若のほうが、お詳しいでしょう」

「そーなんだよ。詳しいからこそワケ分かんね~んだわ」


 眉間に皺を寄せるのは無理からぬことであろう。携帯電話スマホの液晶画面に表示されていたのは幼馴染み――瀬古谷寅之助の名前である。

 一度、パンギリナンと顔を見合わせてから小首を傾げ、改めて液晶画面を覗き込み、再び「どういうこった?」と目を丸くした。

 記憶違いでなければ、今日は上下屋敷と秋葉原へ繰り出すと聞いていたのだ。恋人と過ごしている最中に何の用事があって電話など掛けてきたのか。最悪の場合、デートを邪魔したと上下屋敷から恨まれるかも知れない。

 そのような状況にも関わらず、敢えて連絡を入れてきたのだから本当の急用という可能性も捨てきれない。工務店のトラックの陰まで移動した電知は施主の視界に入らないよう隠れつつ携帯電話スマホを耳にあてがった。


「上下屋敷にフラれちまったから愚痴聞いてくれっつー電話だったら速攻で切るぜ。こちとら他人ひとの色恋に首突っ込んでいられるほど暇じゃねェんだ」


 開口一番で牽制すると、子どもの頃から聞き慣れた笑い声が返事の代わりに耳の中へ滑り込んできた。どこか狭い所にでも居るのだろうか、いつまでも鼓膜へこびり付くような残響が気に掛かった。

 いずれにせよ、空閑電知という名前を電話帳から選び、通話を求めていることが確定されたわけである。

 視線の先では二階建ての大きな骨組みが初夏の風を受け止めている。一階の和室を広くしてあるのが特徴で、ゆくゆくは地方住まいの老親を呼び寄せて一緒に暮らすことを考えているそうだ。大黒柱も頑丈であり、大嵐をも撥ね除ける良い家になるだろうと、電知は完成前から確信していた。


(……得意気になってどーすんだ。親方なんてガラじゃねーだろうが)


 寅之助の笑い声が止むまでの間、電知は大工としての己の仕事を無意識に振り返り、次いで携帯電話スマホを持つ右手とは対の五指にて頭を掻いた。

 今回も無事に上棟式まで辿り着いたことを誇らしく感じてしまったものの、〝職人〟とは全く異なる〝道〟を志しているのだから、大工の業務しごとへ思い入れが強くなってしまうのは未練を残すようで好ましくないのである。

 明治時代に海を渡り、世界中で他流試合を繰り広げた伝説的な柔道家、前田光世コンデ・コマ――電知は大いなる先達に倣う覚悟を固めている。いずれは水平線の彼方に旅立ち、己の技がどこまで通じるのか、まさしく命懸けで試すつもりなのだ。

 あくまでも家業はであり、路銀稼ぎの手段に過ぎない。『空閑組』も安泰と考えている施主が真意を知れば親不孝者と呆れ返るかも知れないが、前田光世コンデ・コマが生きた明治時代と同じじゅうどうを纏うということは、それ自体が工務店の跡取りとして一生を終えるつもりはないという意思表示であり、格闘たたかいに死ぬ覚悟は親方ちちおやにも同僚なかまたちにも伝えてある。

 あるいは森寅雄タイガー・モリ――伝説的な剣道家の系譜を現代に受け継ぐ寅之助こそが己の志に最も近い場所にるのだろうと電知は思っている。


「女心がクソほど分からないでんちゃんに恋のお悩み相談なんかしないさ。VDヴァレンタインデーに貰った手作りチョコを『お菓子メーカーに踊らされる軟弱者め』とか何とか抜かして女の子に突き返したのは小学何年生のときだっけ?」

「死ぬほど反省してるんだから、封印したい記憶を掘り返すなよっ」

「電ちゃん周辺で浮いた話っていえば、近頃はサメちゃんとの急接近くらいでしょ。何というか、二人とも度胸あるよねぇ。『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』の架け橋になりたいの? 実は二人ともボクらに隠れてお付き合いしていたりして?」

「女に興味がないのは否定しねぇがよ、だからっつって別に男好きってワケでもねぇぞ。おれはキリサメ個人とダチになったんだ。『天叢雲アメノムラクモ』も『E・Gイラプション・ゲーム』も関係あるかよ」

も世の中にはあるみたいだよね。大人気間違いナシだよ、電ちゃんたち」

「うるせぇなァ、需要って何の話だよ。意味分かんねーし。つか、ダベりたいだけならマジで切るからな。さっきも言ったようにおれだってヒマじゃ――」

「――そのサメちゃんに思いっ切りケンカ売ったんだよ。一応、電ちゃんには伝えておいたほうが良いかと思ってさ」

「……あァん?」


 数分にも及ぶ笑い声を挟んだのちに発せられた寅之助の言葉を受けて、電知は口を大きく開け広げてしまった。

 上下屋敷と秋葉原へ出掛けたはずの人間が下北沢の『八雲道場』を住まいとしているキリサメといさかいを起こしたというのだ。何らかの用事があって秋葉原へ赴いたキリサメと電気街の片隅で遭遇し、言い争いになったとでもいうのだろうか。

 ひょっとすると寅之助は最初から秋葉原には居なかったのかも知れない――電知はそのように考え始めていた。他者ひとを欺くことに良心の呵責を覚えない人間タイプということは、幼馴染みという言葉によって示される付き合いの長さから腹立たしいほど理解わかっているのだ。


「唐突過ぎて話の流れが一ミリも読めねーよ。キリサメのヤツにケンカ売っただと? 妙なちょっかいでも出して怒らせたのかよ。お前の性格上、それ以外に考えられねーし」

「サメちゃんのコトなら何でもお見通しって感じかな? 何だか妬けちゃうなぁ~」

「気色悪いコトを抜かすんじゃねぇぞ、大バカ野郎。キリサメに冗談が通じねぇってのは顔を一目見りゃ分かるじゃねーか。……仕方ねぇから一緒に謝ってやらァ。とっとと仲直りしちまえよな。好き嫌い激しそうだから拗れると厄介かもだぜ、あいつ」


 穏やかならざる気配を感じ取ったらしいパンギリナンが不安そうに見つめてきたが、電知は撤収準備を進めている『空閑組』の職人たちを指差し、「おれのことは心配いらないから同僚むこうを手伝え」と目配せでもって伝えた。


「お前のことだから『MMAなんて今どき流行らない』とか厭味飛ばしてキレさせたんだろ? デビュー戦の前だって分かっていながらよォ。……ンなことやってっから真っ当なダチがいねーんだよ。数少ないダチまで手前ェで減らしてどーすんだ。おれだってお前の面倒なんかいちいち見てらんねーんだぞ」


 電知は詳しい事情を尋ねる前から寅之助が発端だろうと決め付けていた。これもまた互いの為人ひととなりを誰より把握している幼馴染みの直感である。

 沖縄クレープの移動販売先で鉢合わせるという出逢いのきっかけこそ偶然であったが、その場で寅之助のことをキリサメに紹介したのは自分である。二人が決裂しそうになっているのであれば仲裁しないという選択肢は持ち得なかった。

 付き合いの長さなどは関係ない。電知にとってはキリサメも寅之助も掛けがえのない友人なのである。


「ボクのほうから挑発したんだし、当たらずとも遠からずってトコかな。ただし、もっと効率的なを使ったけどね。電話口でブチギレるサメちゃんの声、電ちゃんにも聞かせてあげたかったよ。〝プロ〟は〝プロ〟でも格闘家じゃなくて裏社会のプロっぽかったね」

「あいつ、ボケーッとしてるようで沸点低いんだからマジで気を付けろよな。おれたちも八雲の娘を囲もうとしたら――」


 八雲の娘――未稲について言及しようとする間際、電知は呻いて言葉を失った。これより前に寅之助は「効率的なを使った」と述べたのである。二つの言葉が頭の中でいびつに結び付いた瞬間、電知はこれまでにない胸騒ぎを覚えた。

 電池はキリサメのように寅之助の言行を理解できなかったわけではない。一瞬で意図を読み取れるほど彼のことを熟知していればこそ次に紡ごうとした言葉を憚ったのである。


「……お前、また悪知恵働かせたんじゃねーだろうな?」


 罪状を確かめるような言葉に返されたのは、愉悦の二字以外にはたとえようがない哄笑わらいごえであった。ただそれだけで電知は己の予想が的中したことを悟ったのだ。

 耳障りな残響を伴う哄笑わらいごえ厄介事ろくでもないことの前触れであると、電知は長年の経験から身に沁みて理解わかっている。


「さっきサメちゃんを呼び出したところなんだよ。下北沢シモキタから秋葉原アキバまで電車を使って三〇分くらい? もうちょっとしたら到着かな? 今度の一件、電ちゃん主催の挑戦者決定戦だって吹き込んでおくね。友達と信じてたヤツが実は黒幕だったなんてさ、すごく劇的な結末だと思わない?」

「おれまで引っ張り込むなッ! つーか、キリサメだって試合が近いんだよ! てめーの趣味なんぞにあいつを付き合わせるんじゃねぇッ!」

「サメちゃん、きっとボクのコトを本気で殺しに来るんだろうなぁ。電ちゃんと互角に渡り合った異境ペルーの喧嘩技――想像しただけで背筋がゾクゾクしちゃうよ」

「話を聞けよ、ボケェッ!」


 施主の存在も忘れ、電知は携帯電話スマホに向かって怒鳴り声を叩き付けてしまった。

 未稲の名前を口にする寸前で息を飲んだのは、彼女まで寅之助の悪巧みに巻き込まれたのではないかと直感したからである。

 秋葉原の電気街を散策するキリサメの姿は想像できないが、食事の最中でさえ携帯電話スマホを操作してしまうほど文明の利器に染まった彼女ならば同地で寅之助に遭遇しても不思議ではない。

 これに加え、瀬古谷寅之助という青年おとこが目的の為には他者に惨たらしい危害を加えることさえ躊躇わない性情なのだと電知は厭になるくらい知っている。それどころか、血を見るたびに嗜虐性が煽られる人間タイプであろうとも感じていた。


「中野のカラーギャングとやり合ったときみてェにくだらねー真似をしたんじゃねーだろうな⁉ クサれた真似ばっかしてっとマジで周りから誰もいなくなっちまうぞ⁉」

「……やっぱり電ちゃんはさすがだなぁ。サメちゃんだけじゃなくてボクのことも何でもお見通しなんだもん。サメちゃんとの浮気は許してあげようじゃないの」

「冗談言ってる場合じゃねェコトにそろそろ気付けよなッ!」


 己の歪み切った精神こころを真っ直ぐに叱り飛ばしてくれる電知の言葉が寅之助には心の底から嬉しいのだろう。子どものように無垢な声を発したことからして、この場に居合わせていたら勢いよく抱き着いてきたに違いない。


「電ちゃん、今日は地鎮祭だか上棟式の日だったよね? 仕事上がりで良いから秋葉原アキバまで骨を拾いに来ておくれ。サメちゃんとボク、どっちが骨にされているか、ラーメンの奢りでも賭けてみるかい? ……あっ、ボクのほうが殺されちゃったら勝ち負けの判定ジャッジを下しても意味ないのか~。残念っ!」

「一方的な与太話に付き合わされて賭けもクソもあるか! 何を企んでいやがる⁉」


 未だに掴み切れていない寅之助の狙いを質そうとする声は、横から割り込んできた轟音によってことごとく押し退けられてしまった。携帯電話スマホをあてがう側とは対の左耳で捉えたのではない。幼馴染みの声を咬み砕いて右耳に流れ込んできたのである。

 は幾つかの段階に分かれていた。まず〝何か〟が突き破られ、やや遅れて金属の板を無造作に折り重ねるような甲高い音が鼓膜を突き刺した。高い位置に取り付けられた工事用の足場が崩れ、何枚も地上へ落下したときに同じような音を聞いたおぼえがある。重い鋼材がコンクリートで撥ね返った際に生じる反響まで酷似していた。


「――クロスクラッシュッ!」


 金属音が収まるより早く勇ましい吼え声も続いた。

 アニメやテレビゲームの登場キャラクターは作中にいて必殺技の名称を叫ぶことも多いのだが、空耳の類でなければ同じようなダミ声が携帯電話スマホの向こうから聞こえてきたのである。これに前後してバイクのエンジン音が少しずつ近付いていたが、電知はどちらにも聞きおぼえがあった。

 酒やタバコで焼けた声は御剣恭路のもので間違いあるまい。回転数の上がったエンジンと改造を施したマフラーが奏でる耳障りな爆音は一度でも聞けば決して忘れはしない。彼が跨るゾク車の〝嘶き〟であった。

 いよいよ電知は頭痛が酷くなってきた。寅之助とは全く接点のない恭路までもが巻き込まれているとすれば悪だくみの被害がどの範囲まで及ぶのか、想像もつかないのだ。


単車アシを捕まえる程度の知恵は回るみたいだね。それじゃ電ちゃん、また後で。お客様をお迎えしなくっちゃ――」

「こンの……大バカ野郎ォッ!」


 鼓膜を劈く轟音に負けないほどの大声を張り上げた直後、通話が一方的に打ち切られてしまった。すかさず寅之助の電話番号に掛け直したが、呼び出し音として設定された流行りの歌だけが虚しく続くのみである。もはや、着信に応じることはないだろう。

 共犯の可能性が捨てきれない上下屋敷に連絡を取ろうとしたものの、こちらは電源自体を切っているようで呼び出し音すら鳴らなかった。電話帳に登録していない『八雲道場』をインターネットで検索し、記載されていた電話番号にも掛けたが、想像した通りに応答はない。

 寅之助の企みに関わってしまったと予想される人々への連絡を諦め、舌打ちと共に顔から携帯電話スマホを引き剥がした電知は次に紐を締め直したばかりのスニーカーを脱ぎ捨てた。


「……若、何が、一体……?」


 今度こそ不穏な気配を感じ取って心配そうに歩み寄ってきたパンギリナンへスニーカーを投げ渡した電知は愛車ママチャリへと駆け寄り、ドラムバッグからじゅうどうを引っ張り出した。

 施主の視界に入ろうとも構わず作業服からじゅうどうに替えた為、同僚には珍妙な行動を笑われ、親方ちちおやには注意を飛ばされたが、そのようなことを気にしている場合ではなかった。

 『八雲道場』に設置された固定電話を家族の誰も取らないのだ。それはつまり、己の予想が的中している可能性が跳ね上がったということである。

 状況を飲み込めないまま呆然と立ち尽くすパンギリナンから引っ手繰ったスニーカーを履き直そうとするものの、動揺が伝う指先では上手くいかない。面倒とばかりにこれを地面へ放り出した電知は素足の状態で愛車ママチャリのサドルに跨った。

 秋葉原のどこかに居るということと、トンネル内部で物音を立てた際に生じるような残響くらいしか手掛かりがない。居場所の特定には程遠いが、それでも飛び出さずにはいられなかった。片付けがまだ終わっていないと呼び掛ける親方ちちおやの声が背中へ届いたときには既にペダルを踏み込んだ後である。

 剥き出しの爪先を車輪へ巻き込む危険性も高いので素足で自転車を漕ぐ行為は禁じられているが、試合直前の稽古まで諦めなくてはならないほどの事態が発生した今、自分と同じような顔に目を転じるのも煩わしいのだ。


「寅の野郎がまたバカやらかしたみてェでな! 尻拭いに行ってくらァ! 晩メシは家で食うからおれの分のカレー丼を残しとくよう母ちゃんに伝えといてくれや!」


 電知むすこの返事を受けて親方ちちおやは口を噤んだ。次に紡ごうとしていた注意ことばを飲み込んだとたとえるべきかも知れない。『空閑組』の誰もが去りゆく背中に同情の眼差しを向けていた。寅之助が大変な問題児であることは浅草界隈に広く知れ渡っているわけだ。


「最悪のタイミングを狙いやがって……幾らなんでもシャレにならねぇだろうがッ!」


 口の端から漏れ出した電知の憤りが風に溶けていく。

 愛車ママチャリ後部うしろにキリサメを乗せて走ったのはほんの数日前――寅之助を彼に紹介した日のことである。沖縄クレープの甘い香りが漂うフードトラックの前で談笑したときには両者が敵対する事態など想像もしていなかった。

 寅之助がキリサメに興味を抱いたときには、確かにその可能性も考えはした。幼馴染みの性情など知る由もないキリサメに対して身辺を警戒するよう呼び掛けもしたのだ。実際に顔を合わせた両者が友好的に語らう姿を確かめて安堵してしまったのだが、どうやらしょうわるに化かされていただけであったらしい。

 もはや、己が悪だくみの黒幕に仕立て上げられる可能性など考えてはいない。電知が避けたいのはデビュー戦を控えたキリサメと寅之助が真っ向から激突する事態のみである。

 電知は伝説的な剣道家――森寅雄タイガー・モリの技と名を受け継いだ幼馴染みの力量ちからを誰よりも熟知しているのだ。



 電知が愛車ママチャリで漕ぎ出すより少し前――寅之助は工事用フェンスの内側で〝龍の嘶き〟を聞いていた。全面改修が最終段階に向かって進む商業ビルは『かいしんイシュタロア』のキャラクターたちが描かれたによって四方を囲われており、週末は工事自体も休みなのでひとが全くない。

 だからこそ、頭頂部あたまのてっぺんから爪先あしのさきまで工事関係者には見えない人間でも建設用のシートで大半が覆われた建物の内部に容易く忍び込めたわけである。その上、ビルの正面玄関には扉の類は未だに設置されていないのだ。

 日本が誇るサブカルチャーの聖地を満喫する人々の賑々しさが工事用フェンスを飛び越えて伝わってくる。工事現場のすぐ近くでは女性シンガーがアコースティックギターを爪弾きながら力強い歌声を披露しているが、それが『かいしんイシュタロア』の主題歌『イン・ゴッデス・ウィー・トラスト』であることに寅之助は全く気付いていなかった。

 秋葉原の雰囲気に馴染む扮装コスプレをしておきながら、寅之助自身はサブカルチャーの聖地とも呼ばれる街にも何ら価値を見出していない。正面入口の近くに置いてあった工事用のバケツを椅子代わりにして腰掛け、携帯電話スマホを介して日暮里に居る幼馴染みと通話はなす姿は、生命力に満ち溢れた世界から独りで取り残されたように見えなくもなかった。

 しかし、彼自身は秋葉原という華やかな町並みを楽しめなくとも喜色満面である。これから幕を開けるだろう血の色の〝宴〟に期待が膨らんでいるのだ。

 電知との通話を妨げるようにして割り込んできたのがバイクのものとおぼしき激しいエンジン音である。

 最初は場違いな暴走族と考えて意にも介さなかったのだが、エンジンとマフラーの爆音は商業ビルへと徐々に近付いてくる。冷静さを欠いた声のみでしか確認できないものの、バイクを見つけた女性シンガーも路上ストリートライブを中断して慌てふためているらしい。


「バイクを乗り回す露出狂って! しかも、そこまでしてハダカを見せびらかすワリには貧弱丸出しじゃない! 欲求と胸板の厚みが釣り合ってないわ!」


 彼女が張り上げた素っ頓狂な声に寅之助は笑いそうになってしまった。一体、どういう出で立ちをしているのだろうか。

 二重の爆音にも負けない悲鳴をきっかけにして寅之助は電知から教わった話を想い出した。すがだいら高原の合宿先に城渡が率いる暴走族チームの一人が乗り込み、キリサメに襲い掛かったというのである。〝総長〟の忠実なる舎弟であり、同時に奇天烈な風貌であったと幼馴染みは語っていたはずだ。

 壁に立て掛けておいた竹刀のツカを帆布製の袋の上から握った寅之助は薄笑いを浮かべつつ屋外へと歩を進めていく。携帯電話スマホ越しに電知から「話を聞けや、ボケェッ!」と怒鳴られている最中のことだ。

 工事用フェンスの一部が弾け飛んだのはその直後である。工事に要する資材などの搬入口から攻め寄せてくると予想していたが、〝露出狂〟は更に過激な手段を取ったわけだ。

 車体を一匹の龍に見立てて改造されたゾク車が地面に散らばるフェンスの残骸を踏み越えて一直線に突っ込んでくる。〝短ラン〟と呼ばれる変形の学生服を素肌へじかに羽織った姿を〝露出狂〟と言い表した感性センスには脱帽の一言しかなかった。

 ゾク車のシート後部に腰掛けているのはキリサメ・アマカザリその人である。彼の要請を受けた城渡が差し向けたのかは分からないが、脳裏を過った予想の通り、くだんの舎弟が加勢に駆け付けたのだろう。


「ビルの内部なかでなくいきなり遭遇と来たもんだ! あの優男だな、アマカザリッ⁉」


 ゾク車のハンドルを握る青年ライダー――恭路は狙うべき標的から目を離さず後部うしろに向かって何事か話しかけている。彼の声は無駄に大きいので鮮明に聞こえるが、キリサメがどのように答えたのかは凄まじい爆音に遮られて寅之助の耳まで届かなかった。しかし、この状況を踏まえれば両者のやり取りなど容易く察せられるというものだ。

 御剣恭路は生身の人間をゾク車で撥ね飛ばすことに少しの躊躇も覚えない――彼がすがだいら高原の路上でキリサメを轢き殺そうとした話も電知は寅之助に聞かせていた。


「――見さらせ、推定四〇年モノの直伝奥義ッ! その名もクロスクラッシュッ!」


 急いで秋葉原まで駆け付けるよう念を押して電知との通話を打ち切り、携帯電話スマホをブレザーのポケットに仕舞った寅之助は、前輪を高々と持ち上げた状態で突っ込んでくるゾク車を口笛でもって迎えた。

 後輪で轢き殺せないと見極めたときには前輪を縦一文字に振り落とし、バイクの重量で押し潰すつもりなのだろう――二段構えの攻撃を看破した寅之助は車体と接触する寸前まで引き付けてから真横に跳ね飛び、掠り傷一つ受けることもなくを避け切った。


「クソッたれめ! 結局、美味オイしいトコはアマカザリの独り占めかよ――」


 標的を捉え切れなかったゾク車――『ガンドラグーンゼロしき』はそのまま扉のない正面入口を潜り、ビルの内部まで入り込んでしまった。激しくタイヤを擦る音が屋内から響いてきたが、巧みにハンドルを操作して何処かに衝突する事態だけは免れたようだ。

 〝露出狂〟にしておくには惜しい腕前ライディング・テクニックだと、寅之助は称賛の口笛を贈った。

 しかし、己の真横を通り過ぎていった青年ライダーのほうに振り返ることはない。恭路が車体を傾けた瞬間、寅之助の双眸は〝龍の尾〟とでもたとえるべき大きな背もたれバックレストを蹴って跳ね飛ぶキリサメの姿を捉えていたのだ。

 片方が正面から攻め寄せ、そちらに標的の意識を集中させている間にもう片方が空中から奇襲を仕掛ける――恭路が『クロスクラッシュ』と称した連携攻撃の術理を寅之助は瞬時にして見極めたのである。


「お誂え向きって感じのヘルメットだね。ボクの為にわざわざ選んでくれたのかい?」


 キリサメが地上に落とす影と寅之助の瞳が交錯し、風を斬る音が防災用のヘルメットを揶揄する声まで巻き込んで秋葉原の空に轟く。

 右の五指にてツカを握り、対の左手を刀身に添え、急降下の勢いを乗せて振り落とされた『聖剣エクセルシス』を竹刀でもって受け止めた寅之助は、両腕に伝う衝撃に愉悦し、これ以上ないほど歓喜の笑い声を迸らせた。

 どちらの剣も鞘の如く細長い袋の中に納まったままであるが、そこに漲らせた意志はただ一つのみ――工事用のシートで覆われたビルに撥ね返る乾いた音は、まさしく開戦を告げるの代わりであった。


秋葉原アキバへようこそ、サメちゃん。肝心なときには焦らさず速攻だなんてキミってば本物のテクニシャンだね」

「瀬古谷……寅之助ェッ!」


 己の〝牙〟を剥き出しにして寅之助を睨み据えるキリサメの瞳は半ばまで閉じたまぶたの向こうで禍々しく歪んでおり、血に餓えた猛禽類そのものだ。

 スポットライトに導かれてMMAのリングへ臨む『ケツァールの化身』などではない。砂色サンドベージュの少女が想い出の彼方へと消えた『七月の動乱』まで魂を巻き戻した姿は『聖剣エクセルシス』に支配される破壊の眷属としかたとえようがなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る