その10:始動~いざ契約!総合格闘技のリングへ!

 一〇、始動


 テレビ番組の制作には編集と呼ばれる工程が不可欠である。全編生中継といった特別体制でもない限りは放送時間が定められている為、撮影したテープをそのまま全て使うことはできないのだ。決められた時間内に収め、なおかつ視聴者が満足してくれるような作品へ仕上げるには撮影テープの中から必要な場面のみを取捨選択しなくてはならなかった。

 番組の内容あるいは制作スタッフの意向にそぐわない映像を排除していくのも編集上の作業である。これが余りにもであった場合、偏向報道と批判されてしまうのだ。

 それはスポーツ番組にいても同様であり、編集の手が加えられるのは必然だった。

 格闘技イベントを取り上げる場合はRラウンド間のインターバルや試合終了後の仕切り直しが視聴者の目に触れることは皆無である。テレビの前の視聴者は選手たちの試合を求めているのであって、それ以外は不要と判断されてしまうのだ。そして、そのような場面こそスポンサーのCMコマーシャルを挿入する絶好の機会というわけであった。

 『天叢雲アメノムラクモ』は生中継でも地上波でもなく、録画した映像に編集を加えた上で衛星放送にて公開されている。かつて一時代を築いた日本MMAも、今では国内外の格闘技を幅広く取り上げる有料チャンネル『パンプアップ・ビジョン』の一番組プログラムに過ぎないのだ。

 首都圏を離れて長野で開催された第一二回興行は試合内容が充実していたこともあって番組に寄せられる反応も悪くはなかったのだが、唯一、編集の仕方については抗議めいた電話が入り、放送直後にはインターネット上でも物議を醸したのである。

 槍玉に挙げられたのはセミファイナルを飾った八雲岳とバトーギーン・チョルモンの一戦だった。兼ねてよりチョルモンは『天叢雲アメノムラクモ』のビジネス志向に疑義を唱えており、リング上で統括本部長と如何なる決着をつけるのか、開催前から注目が集まっていた。

 そして、迎えた直接対決の折、チョルモンは試合中にも関わらず「興収目的の『客寄せパンダ』など使うべきではない」と岳を面罵したのである。

 ところが、衛星放送時には該当する場面の一切が省かれていたのだ。チョルモンの罵声によって試合が中断したというのに、そうした事実など最初からなかったかのような編集が施されていた次第である。

 言わずもがな、放送されたのは生中継ではなく試合当日に収録された映像である。出場選手の意見表明すら不要なものと見なされ、排除されたわけだ。

 多目的アリーナで実際の成り行きを見ていた観客たちは〝呟き〟めいた短文を投稿する形式のSNSを中心にすぐさま論争を始めた。

 『客寄せパンダ』を苦々しく思っていた一部のファンはチョルモンを英雄視し、岳の態度や運営側、放送チャンネルへの批判バッシングを強め、擁護の意見を述べる人々との罵り合いにまで発展していったのである。

 これに食い付いたのが地上波放送の定番ともいうべきワイドショーだった。

 下世話の極みというべきか、彼らはほんの些細な揉め事でも恐るべき嗅覚で探り出し、面白おかしくはやし立てる。偏った番組構成と非難されても仕方のない編集は、死肉を喰らうハゲタカの如きワイドショーにとって最高の餌というわけだ。

 それならば、有識者と称して出演するコメンテーターは食い残しに群がる野良犬のような存在であろうか。昼下がりに放送された或る番組でもスポーツ・ルポライターの肩書きを背負った中年の男が訳知り顔で持論を展開させている。


「私は『天叢雲アメノムラクモ』の前身――『バイオスピリッツ』の頃から彼らの方針を熟知していますが、何一つ進歩が見られませんね。一体、何の為に再結成したのか。所詮、彼らがやっているのは格闘技じゃありません。カネ儲けですよ、カネ儲け。お粗末にもほどがあるし、あんな連中にスポーツ・エンタテインメントを語って欲しくありませんね」


 ぜにつぼまんきちという名前をテロップにて示されたこの男性は歯に衣着せぬ物言いと耳障りな悪口を履き違えているようだった。を執拗に追い回し、罵倒という名の打擲ちょうちゃくでもって弄んでいるようにしか聞こえないのである。

 神経質そうな顔が紅潮しているのは、おそらく自己陶酔の表れであろう。

 しかも、冗長な発言コメントは途中から支離滅裂と化している。『天叢雲アメノムラクモ』の体制を構造的欠陥などと批判していたはずなのに途中から急にチョルモンを扱き下ろし始めたのである。

 彼の言う構造的欠陥を先に指摘したを――だ。


結果リザルドを見れば丸分かりの通り、試合の内容も一秒毎に低レベル化しています。角界を追放された『はがね』なんかに頼らなくちゃならない辺り、契約してくれる選手がもういないんじゃないでしょうか? マワシの代わりにトランクスを穿かせたってダメなものはダメ! 蚊が止まるくらいスローなパンチがヒットする人なんかいませんよ。私自身がリングに上がって証明したいくらいです」


 偏った編集はともかくとして、もと横綱と日本MMAの先駆者の一戦も試合内容自体は高い評価を得ているのだが、この男の耳には持論を妨げる情報は一切入らないらしい。

 おそらくは『天叢雲アメノムラクモ』とその関係者が個人的に気に喰わないだけなのだろう。チョルモンのことを試合会場で揶揄した観客もいたが、物事を歪んだ目でしか見られない銭坪の論理は素人の野次をも下回っている。

 『天叢雲アメノムラクモ』の解説ということであれば格闘技雑誌パンチアウト・マガジンが動画配信サイト『ユアセルフ銀幕』にて同じ趣旨の番組を提供している。『あつミヤズ』という〝キャラクター〟の奇抜さとは裏腹に古今東西の格闘技を知り尽くした運営スタッフによる分析はマニアックなファンをも唸らせていた。

 MMAを心から愛する人間が生み出したあつミヤズと比べて、銭坪の発言コメントは公衆便所の床に誰かが書き殴っていった陰口と大差がないのである。


「あの無様な男が〝西の鬼馬鋼〟なんて呼ばれていた頃に〝東〟で綱を張っていた『おろし』は今だって現役! 堂々たる横綱として君臨し続けていますよ! そもそも両横綱と並び称するのがおかしい! 太刀颪ぜきへの――いいえ、角界全体への冒涜です!」


 鬼馬鋼チョルモンと比較して太刀颪なる現役横綱を賛美したいようだが、『天叢雲アメノムラクモ』の在り方という主題から著しく脱線しており、そこに私情以外を見つけることは難しかった。

 ここまで来ると理不尽ではなく下劣の類である。同席する他のコメンテーターたちも辟易したような面持ちで銭坪から視線を逸らしていた。

 ただ一人――頭髪を短く刈り込んだ精悍な男性だけは怒気を隠そうともせずに銭坪の横顔を睨み続けている。

 ソチ五輪開催中は特別レポーターとして現地に滞在し、競技中継では音声おとが割れるほど熱い声援を送っていた男である。義憤の二字を貼り付けた顔が画面に大写しとなった際には『十種競技デカスロンもと五輪オリンピック金メダリスト』という肩書きが『キング』なる愛称ニックネームと共にテロップで表示されていた。

 現役を退いて久しいものの、世界を相手に闘ったアスリートとしてスポーツ・ルポライターの侮辱的な物言いが許し難い様子だ。


「大体ね、鬼馬鋼は酒の呑み方一つ取ったって品格が――」


 半ば言い掛かりの様相を呈してきた銭坪の顔が液晶画面から消えた。見るに堪えないとばかりにテレビ自体の電源が切られた次第である。


「こーゆーワケのわからない人たちに絡まれるような世界だけど、本当にやっていけそうかい? 精神的にもタフでなきゃキツいよ」


 書類などが乱雑に積み重ねられたデスクにテレビのリモコンを放り出し、僅かに空いている箇所へ頬杖を突いた中年の男性は、目の前に立つ少年に覚悟をただした。

 一瞬たりとも迷わずに頷き返したのは、キリサメ・アマカザリその人である。



 MMAへの挑戦を決意した夜からおよそ一週間――桜が満開に咲き誇る四月初旬のる昼下がりにキリサメは岳と麦泉に伴われて『天叢雲アメノムラクモ』を主催するスポーツプロモート企業『サムライ・アスレチックス』の本社を訪問していた。勿論、未稲も付き添っている。

 渋谷の雑居ビル二階に構えたオフィスはガラス張りの正面玄関をくぐった途端に圧迫感が押し寄せてきた。ただでさえ狭苦しい空間へ数名の社員スタッフを無理矢理に詰め込み、更に各人のデスクをパーティションで仕切っているのだから、それも無理からぬことであろう。

 壁一面を埋め尽くすポスターとスケジュール表はモザイク柄のように極端な色彩を作り出している。言わずもがなポスターは大半がスポーツや格闘技の物で、そこに刷り込まれた選手から常に見張られているような錯覚を覚えるくらいだった。

 端的に表すならば、気持ちが全く落ち着かない。「よくこんな場所で仕事ができるものだ」とキリサメは社員スタッフたちに感心してしまったほどである。ここまで居心地の悪い空間は彼の人生にいて初めてなのだ。

 名実ともに日本MMAを代表する『天叢雲アメノムラクモ』の本拠地とは思えない――それが『サムライ・アスレチックス』に対する第一印象である。


「ゴチャゴチャしていて悪いね――と言っても興行の前後よりは片付いてるんだけど」


 床に放置された段ボールにつまずかないよう注意しつつキリサメたちを案内する麦泉のデスクもこのオフィスに設置されていた。

 『サムライ・アスレチックス』のオフィスでは担当部門ごとに専用のデスクが割り当てられる。つまり、麦泉一人だけでマネジメント部を切り盛りしているということだ。他の社員たちも相当な激務であろうことが察せられた。


「キミがアマカザリ君ですね。岳さんや麦泉くんから話は伺っていますよ、……色々ね」

「……あの――初めまして……」

「そう畏まらないで良いのですよ。今日は面通しのようなものですから」


 椅子から立ち上がってキリサメを迎えたのは五〇代半ばとおぼしき背広姿の男性である。

 口元の皺が大きく形を変えるような笑みを浮かべているのだが、例えば相手の全てを受け止める麦泉の柔和さとは異なり、彼は他者の意思を丸ごと包み込んでしまうほどの存在感を伴っている――その男と相対したキリサメは畏怖すら感じていた。

 握手を求められたときなど何の抵抗もなく応じてしまったのだ。初対面の人間に己の手を無防備のまま差し出すことは控えてきたというのに、警戒心そのものを溶かされたようであった。


「同じ会場に居ても顔を合わせる機会は滅多にないから未稲さんとも久し振りですね。私のほうは一方的に拝見していましたけどね」

「なッ……えッ⁉ ど、ど、どこでッ⁉」

「それは勿論、長野興行のときですよ。岳くんがリングへ上がる前にご家族のこともカメラで映したでしょう? 衛星放送パンプアップ・ビジョンでもそこはカットされずに残っていたのですよ」

「やっぱりかぁ、やっぱりソレですかぁ……。できることなら統括本部長の名前を濫用してでも永久に封印したいくらいなの、触れないで貰えると嬉しいです、はい……」

「それは残念。ご要望とあらば胸の奥に仕舞うとしましょう」


 くだんの男性から親愛をもって話し掛けられた未稲は頬を紅潮させつつ俯いたが、その反応にもキリサメは嫉妬ではなく納得のほうが先行してしまう。

 耳から伝って心臓を鷲掴みにする美声の持ち主であり、こくびゃくのコントラストが鮮やかなゴマ塩頭と鼻の下へ僅かに蓄えたチョビ髭は得も言われぬ色気を醸し出しているのだ。

 手渡された名刺にはしょうがいさいもんきみたかと記されており、控え目に添えられた代表取締役専務という肩書きが社長に次ぐ地位であることを示している。

 渉外部とは読んで字の如く外部との交渉を担う部門だ。必要に応じて全国のどこにでも飛び出せるよう常に背広を着込んでいるのだろう。デスクの横にはアタッシュケースまで置かれており、直立不動の佇まいなどさながら秘密諜報員ジェームズ・ボンドのようである。

 事実、紳士然とした物腰とは裏腹の曲者なのだろうとキリサメは感じている。見る者の心を掴んで離さない笑顔を浮かべながらも瞳の奥で何を考えているのか、全くといって良いほど読めないのだ。

 ここまで腹の底が計り知れないのは故郷ペルーで親交のあった国家警察の警部ワマンくらいだった。対テロの専門家に比肩するほど隙を見せないとは、どれだけの修羅場を潜ってきたのか。

 キリサメは自然と背筋が伸びていた。エアコンの故障を疑うほどに空気が淀み切ったオフィスではあるものの、ここはやはり日本MMAの筆頭たる『天叢雲アメノムラクモ』の本拠地なのだ。少数精鋭という例えの通り、『サムライ・アスレチックス』は大規模な興行を取り捌けるプロフェッショナルの集まりなのだろう。


「折角だから我らが仲間たちを一人ずつ紹介したいところですが、ここはスケジュールが詰まっている社長を優先してあげましょうか――」


 一切の指示に逆らえなくなるような美声でもって案内されたのは、不可思議なオフィスで最も目を引く空間であった。

 擦りガラスで仕切られた小部屋である。ドアには『社長室兼応接室』と記されたプラスチック製のプレートが貼り付けてあり、キリサメたちはそこに通された。

 囲いの内側には来客を迎え入れる為のガラステーブルと、これを挟む形で革張りのソファが設えられている。液晶テレビの真隣へ置かれた本棚には月刊の格闘技雑誌パンチアウト・マガジンが創刊号から最新号まで収蔵されていた。

 囲いの中でも一番奥まった場所にるのが社長用のデスクである。

 「士道不覚悟は切腹」なる物々しい文言が大書された掛け軸と木製の台座に差し込まれた大小一揃いの日本刀、そして、『天叢雲アメノムラクモ』のロゴマークが刷り込まれたポスターを背にする恰好でデスクに向かっていた男性が気さくな調子でキリサメたちを出迎えた。


「よォ、おいでなすったな」


 柴門と同じ五〇代半ばくらいであろうか。埃一つ付着していないシャドーストライプの背広を着こなし、髪の毛も綺麗に整えてある彼とは正反対に腕まくりしたワイシャツもサスペンダーで吊ったスラックスもくたびれて皺くちゃになっている。

 大きく禿げ上がったひたいと、頭頂部へすだれ状に散らばった薄毛かみのけ、小さな双眸とは釣り合いの取れない大きな瞳でキリサメを見据えるこの男性こそ『サムライ・アスレチックス』代表取締役社長、ぐちいくなのである。

 立ち居振る舞いの全てが見る者の心を掴む柴門に対し、オフィス内の淀んだ空気を塊にして中年男性の形へねたような人物とたとえるべきか。交渉上手な専務のように背広の胸ポケットへシルクのハンカチを差し込む洒落っ気など持ち合わせていないのだろう。

 キリサメが渋谷の本社に樋口を訪ねた理由はただ一つ――『天叢雲アメノムラクモ』の出場選手として契約を取り交わすことである。既に岳と麦泉を中心に交渉が進められており、今日は最終確認を行う段階だった。

 『天叢雲アメノムラクモ』へ挑戦する為にはどのような課題を与えられてもキリサメは全て引き受けるつもりだった。体力測定を求められたならフルマラソンだろうと完走してみせる。スパーリングで実力を示すよう言い渡されたときには相手が百獣の王だとしても喜んで闘おう。

 それ程の覚悟で対面に臨んだキリサメにとって、差し向かいに腰掛けた樋口の返事ことばは余りにも意外であった。


「――おう、その意気や良し! これからよろしくな、アマカザリ君!」


 ワイドショーというよりも銭坪の下劣な独演会を観終えたのち、改めて意思確認を行った樋口はキリサメが首を頷かせるや否や、出迎えたときと同じくらい軽い調子で契約成立を言い渡したのである。

 体力測定どころか、面接試験すらなかったのだ。さすがにこの筋運びは拍子抜けというものであり、キリサメは口を開け広げたまま固まってしまった。

 日雇いのアルバイトでも、もう少し畏まって話すだろう。右隣に座った未稲も唖然呆然と固まっており、得意満面といった調子で腕組みしているのは左隣の岳だけである。


「おいおい、どうした? 間抜け面しちまって。何か不満でも――あ、ファイトマネーのことかい? マッチメイクだって始まっちゃいないんだから、今日のところはおカネの話は抜きにしようよ。小遣いなら岳ちゃんにねだっとくれ」

「人をケチンボみたいに言うなよ。毎月、ちゃ~んとあげてるって!」

現代いまのコは五〇〇円ワンコインじゃ満足しないんだからグレないよう注意しなよ。かと言って、大盤振る舞いもまた良くない。岳ちゃん、そういうバランス感覚がゼロだろ?」

「やもめ暮らしが親子の関係コトを語るかねェ。お説教の前に離婚歴を数えろっつの」

はお互い様だろ、甲斐性ナシめ」


 社長という立場にも関わらず、樋口は岳と砕けた調子で笑い合っている。統括本部長という肩書きを背負っているのだから当然かも知れないが、『サムライ・アスレチックス』と岳は本当に長い付き合いのようである。

 今日もワイシャツに薄手の陣羽織を合わせているのだが、誰一人としてそのことに驚いてはいなかった。社長から社員スタッフに至るまで皆が奇抜な出で立ちに慣れているわけだ。


「あの――彼は別に即物的な話をしたいんじゃないと思いますよ。プロテストとかトライアウトみたいなコトもなく即採用になったから戸惑ったんじゃないかなって」


 呆然と固まり続けるキリサメに代わって、彼が思っていることを未稲が代弁していく。

 プロテストもトライアウトも〝適性検査〟という点にいては同義である。前者がライセンス発効に要する試験であるのに対し、後者の意味合いは入団試験で、どちらにも共通するのは〝この世界〟で通じるだけの実力が備わっているかどうかの判別だ。

 それを確認しないことには選手登録などできようはずもなかった。幾ら安全性に配慮したルールに則っているとはいえ、総合格闘技MMA肉体からだを張った真剣勝負であることに変わりはなく、半端者のままリングに上がろうものなら命に関わるのである。

 それなのに樋口は「ないない、ンなもんないよ」と、素人にも不可欠であろうと分かる審査を簡単に否定してしまった。


「リングに上がったら誰もがプロで誰もが平等だよ――っていうのは建前でな、ご覧の通り、『サムライ・アスレチックス』は少数精鋭でやってるからトライアウトみたいなコトまで手ェ回んないんだよ」

「会場設営だって大会ごとにバイト使って動かしてるしな。毎度、東京から駆け付けてくれるフリーターもいるけど、そーゆー人にばっかり頼っちゃいられねぇし、基本的には自転車操業丸出しだよ。このレベルの人手不足なんて、ぶっちゃけ会社として有り得ねェ」


 岳が言い添えた説明によれば興行イベントの運営すら『サムライ・アスレチックス』の正規社員スタッフではなく、現地で数日ほど雇い上げる大量のアルバイトに頼っているそうだ。

 これもまた地域振興の一環であるらしいが、統括本部長が自らの口で「人材不足による自転車操業」と言い切るほどなのだから、企業としては構造的欠陥にも等しいだろう。


「まさか、そんな理由で……」

「あんまり明け透けに言わねないで、『目を見て強さを見抜いた』とか何とか、尤もらしい雰囲気にしとけばよかったかなぁ。第一印象、最悪になったかい?」


 適性検査を行わない理由が余りにも杜撰ずさんだったので、またしてもキリサメは絶句した。

 あれだけルールを細かく定めている『天叢雲アメノムラクモ』なのに、これを主催する人間たちは酷く無責任と思えたのだ。


「まぁまぁ、そう思い詰めんなって。スカウトで『天叢雲アメノムラクモ』に引っ張って来るにせよ何にせよ、最後は選手の実力次第。酷な話だけど、試合にならないくらい役立たずだったら選手のほうからリングを去っていくからね」


 でんぽうな物言いをドアの近くに立つ柴門から咳払いでもって諫められた樋口は、極めて繊細な髪型を庇うようにして頭頂部あたまを掻いた。


「……俺たち主催側にできるのはキミら選手を信じて送り出すだけってコト。どこそこの格闘大会に出場した経験があるとかどーとか、経歴キャリアを調べ上げてからスカウトすることも少なくないがね。いや、そっちのほうが多いかな」

「僕の場合はどうなるんでしょう? 自分で希望したんですから何らかの試験があるんだろうって思っていました。こっちもそのつもりだったし……」

「岳ちゃんの推薦って扱いが落としどころかなァ。俺に言わせりゃ、それがベストだよ。の秘蔵っ子ってな宣伝でも打てば世間はすんなり受け入れてくれるモンさ」


 樋口の語った広報戦略に理解が及ばず、何ともたとえようのない面持ちで固まり続けるキリサメの隣では未稲もまた不安そうに首を傾げている。

 父のMMA活動をサポートしている未稲とはいえ、選手契約の場に立ち合うのは今回が初めてである。だからこそ審査を軽んじる『サムライ・アスレチックス』の体制へ疑念を抱かずにはいられなかったのだ。

 彼女はキリサメの身に宿った喧嘩殺法の凄まじさを目の当たりにしており、『天叢雲アメノムラクモ』に所属している選手とも十分に渡り合えると確信している。しかし、初対面の樋口にはどこにでもいるような少年にしか見えないはずなのだ。

 格闘技経験そのものを持たず、実力が全く測れない人間をMMAのリングへ上げることに不安はないのだろうか。


「……『八雲岳の秘蔵っ子』――か。まさか、もう一度、そんな呼び方を耳にするとは思わなかったけどね……」


 柴門の隣に立ち、樋口の話を黙って聞いていた麦泉はこの場の誰よりも複雑そうな表情を浮かべている。むしろ、「顔を歪めた」と表すほうが正確かも知れない。

 前例をほのめかすような言い方が気に掛かったキリサメであるが、委細を尋ねるよりも先に岳が横槍を入れてきた。


「お前らの仲良くなった希更・バロッサに声掛けたときだってテストはなかったんだぜ。向こうも自信満々で即決って感じだったしよ」

「彼女も友人の――『天叢雲アメノムラクモ』と契約している有力選手の推薦がありましたからね。おまけに『バロッサ・フリーダム』というとびきりの名門ジムがバックボーン。〝格闘家としての経験〟を除けば『八雲道場』の看板があるアマカザリくんと条件は一緒です」

「そして、『天叢雲アメノムラクモ』はそれを受けれた――公任ちゃんの言う通りさ。ペルーはどうだか知らないが、日本じゃ推薦と面接で試験も免除になるんだよ」


 懊悩の二字を顔面に貼り付けたような麦泉を気遣わしげに見守る柴門だが、スポーツプロモート企業としての方針は樋口と共有しており、社長かれの発言にも首を頷かせた。


「ほらな? キリーも難しいコト考えねぇで、ラッキーって思っときゃイイんだって」

「……そんなものでしょうか」


 岳に答えながらキリサメは自分もまた希更・バロッサと同じ『客寄せパンダ』のように扱われるのだろうと考えていた。無論、それでも構わない。


「……キリサメ君は最年少選手ということになるんだね。年齢のことでMMA日本協会が騒ぎそうだけど……」

を口実に審判団云々と内政干渉してきそうだが、協会あいつらの言うことなんかいちいち真に受けてたら身体がたないぞ。第一、以前まえにもアマカザリ君と同じ年齢としでデビューした選手がいるじゃないか。何か言われたら、前例出して押し切っちまえば良いのさ」

以前まえって言ったって一〇年も昔のことですし、そもそも『天叢雲アメノムラクモ』とは無関係じゃないですか、〝彼〟は。……というか、〝彼〟のような前例があるから心配なのに……」


 樋口から返された返答こたえに麦泉の顔はますます暗くなっていく。『八雲岳の秘蔵っ子』という肩書きとは別に最年少選手のほうにも前例があるようだ。

 そして、その事実は麦泉にとって一等苦いものであったらしい。


「――ンま、試合の放送時間とか細かいところは対戦カード組んでから詰めれば良いだろうさ。早い時間に試合を持ってくれば労働基準法で突っつかれることもないハズだしな。後は文多ちゃんと公任ちゃんの腕次第よォ」

「前途ある若者の為に力を尽くす仕事は喜びも一入ですよ」

「ですが、柴門さん――いえ、社長。……これはそんなに単純な話じゃありません。成人前の子どもを選手として登用する危険性リスクはもっと慎重に考えるべきかと」


 依然として複雑そうな表情を浮かべ続ける麦泉は、キリサメのMMA参戦について諸手を挙げて賛成することはできないと改めて繰り返した。

 麦泉の心情とは裏腹に『最年少選手』なる触れ込みは『八雲岳の秘蔵っ子』と同じくらい耳目を集めそうである。『客寄せパンダ』としての宣伝効果も抜群だろう。


「これからいよいよガツンと盛り上げなきゃいけない時期なんだ。『天叢雲アメノムラクモ』のみんなで一致団結していこうや!」


 麦泉の心情を察したのか、それとも部下の気持ちを蔑ろにして自分の考えだけを優先させているのか、樋口は「今こそ一丸になろう!」と軽々しく言い放った。


「絶対王者――ゴーザフォス・シーグルズルソンの帰還が間近に迫っているんだ。お膳立てを万全に整えてやらないとゴーザフォス本人は勿論、ファンが納得しないからな!」

「ゴーザ……? やたら強そうな名前ですね」


 樋口の語った『ゴーザフォス』という名前にキリサメは聞きおぼえがない。長野興行には参加していなかった選手だろう。そのときに配布されたパンフレットにも名前は載っていなかったはずである。


「我が『天叢雲アメノムラクモ』が誇る絶対王者だよ。アイスランド出身の巨人――あるいは『海皇かいおう』なんてイカした呼び方をするファンも多いな。……ときにアマカザリ君はヴァイキングって聞いたことがあるかい?」

「確かヨーロッパのほうの海賊……ですよね」

「そう、そのヴァイキングの末裔なんだよ、シーグルズルソンはね。デカい船で乗り付けていって暴れ回った海賊の遺伝子ってヤツか? これがもうバカみたいに強いんだよ」


 樋口から語られる『海皇かいおう』ゴーザフォスの情報にキリサメは少し前のめりとなった。

 『天叢雲アメノムラクモ』はこれから自分が生きていかなくてはならない世界なのだ。そのリングで勝ち残っていくのに必要なことはどんな小さな情報ものでも拾っていかなくてはならない。

 貧民街で研ぎ澄ませてきた感覚が、今、新たな戦場に反応しているのだった。


「ヴァイキングの末裔なんて、それだけでも手強そうですね。……ゴーザフォス・シーグルズルソン――か……」

「実際に化け物レベルなんだ。オレも何回か対戦したけど、情けねぇ話、一度も勝ったことがねぇ。苦戦はさせられても最後まで詰め切れなくてよ」

「岳氏が? まさか、そんな……」

「元々――ってゆーか、今でもそっちのほうが本職なんだろうけど、ゴーザフォスは『グリマ』の研究者なんだよ」


 ゴーザフォスを『海皇かいおう』たらしめる『グリマ』について柴門は「アイスランド・レスリングですよ」と補足説明を言い添えた。


「コレがまた厄介なんだわ。ネットで調べたくらいしかオレも知識がねぇんだけど、このグリマ、ヴァイキングの時代にも盛んだったってハナシでな。現代いまのスポーツ化されたモンじゃなく古流おおむかしの技まで再現してきやがるんだ」

「敢えてスポーツのほうを引き合いに出したということは……」

「おう。『海皇かいおう』のグリマは試合に勝つ為じゃなく敵を倒す為の技っつーコトだ」


 ゴーザフォス・シーグルズルソンの姿を見たことがなく、彼が極めたというヴァイキングのレスリング――グリマについても詳しくないキリサメだが、岳でも勝てない相手と聞いたことで〝絶対王者〟の脅威を現実のものとして感じられた。

 『海皇かいおう』は誰よりも強い。その認識をもってキリサメの表情が引き締まっていった。


「岳ちゃんが『海皇かいおう』に勝てるかね~。自分の年齢トシ考えろとしか言えないな。シーグルズルソンよりもっとジジィだってコト、忘れてないかい?」

「まだまだ! ま~だまだらせてもらうぜェ!」

「その前にタファレルとの頂上決戦スペシャルマッチだって。老いぼれは後回し、後回し。シーグルズルソンだってタファレルとりたがってんだから」


 『海皇かいおう』ゴーザフォスとの再戦に意欲を燃やす岳に樋口の反応は冷ややかだった。

 あろうことか日本MMAの先駆者を老いぼれ呼ばわりし、現在の『天叢雲アメノムラクモ』でスーパースターの称号を欲しいままにするブラジル人選手、レオニダス・ドス・サントス・タファレルとゴーザフォスの対戦を優先させるつもりのようだ。

 絶対王者たる『海皇かいおう』ゴーザフォスと、MMAの次世代を担うであろうレオニダスによる頂上決戦スペシャルマッチは『天叢雲アメノムラクモ』の存在感を全世界に示す為の切り札とまで樋口は熱弁している。

 麦泉の補足説明によれば今まで両者の対戦が成立しなかったことには、やむにやまれぬ事情があったそうだ。

 かつて日本には『バイオスピリッツ』という格闘技団体が存在した。一九九〇年代から二〇〇〇年代半ばまで日本に空前のMMAブームをもたらした『天叢雲アメノムラクモ』の前身である。

 『海皇かいおう』は『バイオスピリッツ』の時代から絶対王者として君臨し続けていた。神の領域としかたとえようのない圧倒的な強さの前に何人ものMMA選手が屈服させられたのだ。

 樋口の話によると『バイオスピリッツ』初代王者にして、岳の前に統括本部長を務めていた選手もシーグルズルソンの前に撃破されたという。

 それ以来、『海皇かいおう』は絶対的な高みに座しているそうだ。

 シーグルズルソンには『海皇かいおう』以外にも異名がある。〝地球史上最強の生物〟――彼こそが最強の男と推す声には地球上の誰もが頷くとまでうたわれていた。

 人気の低迷に伴って『バイオスピリッツ』が解散されたのちは世界中の格闘技大会を渡り歩いていたが、二〇一一年の『天叢雲アメノムラクモ』旗揚げに際して日本MMA界へ電撃復帰。第一回となったチャリティー興行にいて全く衰えがないことを見せつけたのである。

 『バイオスピリッツ』を観て育ち、『天叢雲アメノムラクモ』以降から日本MMAに乗り込んだレオニダスは絶対王者の背中を常に追いかける立場であったのだ。

 そして、去年――ようやくマッチメイクが成立しかけたが、折悪くゴーザフォスの家族に不幸があり、対戦が予定されていた興行と合わせて二大会の参加を辞退したのである。

 皮肉な筋運びだが、絶対王者不在という穴を埋める大役がレオニダスへ委ねられることになり、これによって彼はスーパースターへの階段を駆け上がった次第である。

 それだけにレオニダスはシーグルズルソンを倒さなければならなかった。常に自分の先を歩いていた『海皇かいおう』に勝利してこそスーパースターの地位と名声を初めて不動のものにできるのだ。

 そして、止まっていた時間がついに動き出す。『海皇かいおう』ゴーザフォスから樋口宛てに連絡が入り、次の興行から完全復活する意向が伝えられたのである。

 しかし、復帰戦の相手はレオニダスではなかった。

 別の選手との一戦を通じてゴーザフォスに空白期間ブランクを埋めて貰い、万全の状態になったところで改めてレオニダスとのマッチメイクを行うというのが樋口の算段であった。

 誰もが待ち望んだ頂上決戦スペシャルマッチへの布石としても次の興行では大々的に『海皇かいおう』の帰還を打ち出し、何としてもこれを成功させたかった。

 それは柴門とて同じであり、だからこそ社長の意向を尊重しているのだ。

 地方振興の理念から『天叢雲アメノムラクモ』は全国各地の運動施設で〝旅興行〟を行う形態を取っており、柴門は開催地の選定や現地との交渉を一手に担っている。

 『天叢雲アメノムラクモ』の外交官とも呼ぶべき柴門は東日本大震災から三年目を数える今年――復興支援プロジェクトの一環として興行開催の候補地に岩手県奥州市を強く推していたのだ。

 柴門の提案を受けて樋口は開会式の演出にヴァイキングの海賊船を取り入れることを閃いた。東北の海から着想を得たわけだ。その設計図が今まさに机上に広げてある。

 成功にかける熱意が少しばかり空回りしているようにも思えるが、全てはファンの望む頂上決戦スペシャルマッチの為であり、これによって『天叢雲アメノムラクモ』を更に飛躍させたいのだ。


「ライバルってヤツですか。……でも、追う側と追われる側じゃ対等な立場とも言えないのか。じゃあ、的外れな例えだったかな……」


 ゴーザフォスとレオニダスの因縁を麦泉から聞かされたキリサメは、思わず小首を傾げたくなった。

 岳に対して憤りをぶつけるチョルモンにも首を傾げたのだが、リングの内外で人間関係が交錯する状況は彼にとって理解に苦しむものであった。

 試合終了後、互いの健闘を称え合うという選手たちのには違和感を覚えたものだが、ただリングの上で殴り合い、勝ち負けを競うだけでは済まないようなのだ。

 闘いの場に人間同士の結び付きが持ち込まれることをキリサメは煩わしいとしか思えなかった。


「『海皇かいおう』シーグルズルソンはまさしくヴァイキングの王様さ。『天叢雲アメノムラクモ』も、一個前の総合団体も、……いや、世界中の格闘技大会をアイツは征服して回っていやがる。海賊船で乗り付けていって王冠をブンるようなモンだよ。……地球史上最強の生物ってアダ名はダテじゃない」


 『海皇かいおう』に対して畏怖の念を表す樋口であったが、その直後、「でも、いつまでも絶対王者に居座ってもらっても面白くねぇ。そろそろ潮時だよ」と正反対のことを口走り、キリサメと未稲を困惑させた。

 『天叢雲アメノムラクモ』に君臨する絶対王者の帰還を華々しく盛り上げようと言ったのは、この男ではなかっただろうか。


「一〇年以上、MMAの世界に居座ってんだよ、この絶対王者は。しかも、今日まで黒星も殆どナシ。強さってのは〝飽き〟と表裏一体でね。……そろそろ古狸に退いて貰わないと後がつかえちまって仕方ねぇ」


 ゴーザフォスのことを露骨に邪魔者呼ばわりした樋口は、つぶらな瞳に妖気とたとえるのが似つかわしい光を湛えていた。

 『サムライ・アスレチックス』代表取締役社長という肩書きを持つ樋口であるが、前職は格闘技雑誌『パンチアウト・マガジン』の編集長であり、MMAの世界にいてはプロモーターをも兼業している。

 マッチメイクを取り仕切る立場からゴーザフォスの独走状態を捉えた樋口は、これをMMAという〝業界〟の停滞と感じているようだ。


「この間の長野大会、アマカザリ君もリングサイド齧り付きで観戦したんだろう? そのときに何か感じなかったかい?」

「何かと言われても、何でしょう」

「ベテラン選手の多さだよ。新陳代謝の悪そうなおっさんばっかりが顔揃えていて、息苦しかったんじゃないかな」


 樋口から具体例を挙げられてキリサメは納得したように頷き返した。

 確かに『天叢雲アメノムラクモ』はベテラン層が充実している。日本MMAの先駆者である岳は言うに及ばず、三〇代後半から四〇代半ばの選手が七割以上を占めているのだ。城渡マッチという選手も改造学生服のような衣装とは裏腹に四〇路よそじに手が届くのである。


「キリサメ君は聞いたこともないと思うけど――『天叢雲アメノムラクモ』の前に『バイオスピリッツ』というMMA団体があったんだよ。現在いまの『天叢雲アメノムラクモ』は選手もスタッフも当時と殆ど一緒でね。社長は勿論、僕も柴門さんもそうだし、センパイはその頃から統括本部長を務めていたんだ」

「私の場合は現在いまのほうが職域が拡がっていますね。最近のホテル暮らしも気楽で良いのですが、『バイオスピリッツ』をやっていた頃は自宅から東京ドームや武道館に通わせて貰っていましたよ」


 当時から渉外担当であったという柴門の説明によれば、『バイオスピリッツ』の興行イベントは東京や神奈川といった首都圏を中心に開催されていたそうだ。幾度か遠征もあったが、基本的には愛知や大阪など東京から移動し易い土地が選ばれている。

 首都圏を軸に据えている点が〝旅興行〟である『天叢雲アメノムラクモ』との最大の違いと言えよう。


「ベテラン選手が多いから試合も良い意味で安定してるし! 応援してくれるみんなも嬉しいと思うぜ? 『往年の選手が今も頑張ってる姿に勇気づけられる』って声援こえもたくさん貰うしな。それだけ長く付き合えるのはお互いに幸せじゃねェか!」

「選手の高齢化ってのは格闘技イベントにとっちゃ致命的だよ」


 ベテラン層の厚さについて、まるで宝物を披露するかのように熱弁し続ける岳に対し、樋口は現実的シビアに切り込んだ。


「あの『海皇かいおう』でさえ、もう良いトシだ。後に待ってるのは下り坂だけ。みっともない動きが見え始めたら、あっという間にファンは離れていくのさ。いつまでも老いぼれに依存してたら『天叢雲アメノムラクモ』だって廃れる一方だよ」

「……社長、これから『天叢雲アメノムラクモ』で頑張っていこうって子の前で、そんな身も蓋もないことを言わないで下さい……」

「違うぜ、文多ちゃん。『これから』だから、敢えて言っておくんじゃないか」


 身を乗り出した樋口は、期待の大きさを伝えようとキリサメの肩を強く叩いた。


「ようやくタファレルが育ってきたくらいで若手はまだまだパンチが足りねぇ。ベテラン組のせいで『天叢雲アメノムラクモ』全体の空気が淀んでるってコトさ」

「これまで『天叢雲アメノムラクモ』に貢献されてきた方の前で余りにも失礼では」


 またしてもでんぽうな物言いを柴門から窘められる樋口であったが、今度は咳払いを受けても止まらない。キリサメの隣で俯き加減となった未稲など眼中にないような勢いである。


「そこでアマカザリ君やバロッサ君みたいに若くてイキのいい子に現状をブチ破ってもらいたいんだ。……安定感? 違う違う、『こいつは何をやらかすのか分からない』っていうスリルが格闘技の醍醐味なんだからよ。ジャイアントキリング上等さ」


 「なぁ、岳ちゃん」と同意を得ようとする樋口であったが、それは日本MMAの先駆者に対する最大限の厭味であろう。さしもの岳もそっぽを向いてしまった。

 樋口以外の人間が居た堪れなくなるような空気が垂れ込めたところで、社長室兼応接室のドアがノックされた。

 社長の返事を待って入室してきたのは、思わず見惚れてしまうような美女である。

 自己主張の強い肉体をパンツスーツに包み、書類の束が収納されたファイルを脇に抱える姿はキャリアウーマンを絵に描いたようでもある。歩を進める度に揺れる絹糸のような黒髪は臀部に掛かって煽情的な趣を醸し出していた。

 『サムライ・アスレチックス』の社員スタッフおぼしき女性をキリサメは不思議そうに見つめている。自分たちの後に外から入ってきたのだろうか。先程までオフィス内にはいなかった顔なのだ。


(……日系人か? いや、……違う? 発声イントネーションも日本人のそれと同じみたいだし――)


 見憶おぼえとは別の違和感もキリサメのなかに生じていた。黒髪や顔立ちなど日本人にしか見えないのだが、〝何か〟が違う。ペルーで混血の日系人を目にしたときのような感覚が立ち上がったのである。


「……男の子ってだからイヤだよ……」


 女性を凝視したことで妙な誤解を与えたと思ったキリサメは、未稲の両肩に手を添えながら「他の女に関心なんかないよ」と釈明した。これはこれで相手を勘違いさせてしまう言葉であるが、当人は未稲の顔が真っ赤に染まったことにも気付いていない。

 「天然スケコマシ……」という呟きすら彼の耳には入っていないだろう。


「あるぇ~? こんな、前からいたっけ?」


 その女性は『サムライ・アスレチックス』と深い繋がりのある岳でさえ初対面だった。

 にわかに張り詰めた空気を切り替えるべく敢えておどけた調子で岳が訊ねると、樋口は何とも例えようのない薄笑いを浮かべた。好色スケベという言葉がよく似合う笑い方だった。

 社長の肩書に似つかわしくない態度を戒めようというのか、それとも別の思惑でもあるのか、柴門は一等冷たい眼光を樋口に浴びせた。

 これに気付いた樋口は何とも気まずそうな咳払いを挟んだ。


「まだ紹介してなかったっけ? ちゃん。ちょっと前から新しく働いて貰うことになった俺の秘書だよ。『コンデ・コマ・パスコア』を控えてますます忙しくなるから手が回らないトコをサポートして欲しくてね」


 樋口より語られた日米合同大会の名称なまえを引き金として、キリサメは心に広がっていく波紋を少し前に感じたことを想い出した。

 日本人のようで、どこか違って見える不思議な面立ちとたとえるべきか――リトル・トーキョーで岳と共同記者会見を開いた『NSB』代表、イズリアル・モニワをテレビ越しに見つめた際にも樋口の秘書に対するモノと同じような違和感を覚えたのである。

 日野目一二三という名前を聞く限り、イズリアルと違って純粋な日本人に間違いないだろう。だからこそキリサメのなかで戸惑いが大きくなっていくのだった。


「社長秘書だぁ~? エロビデオのタイトルにありそうなモン、雇いやがって~!」

「センパイ、そういう発言はセクハラですよ。……未稲ちゃんだっているのに……」

「つーか、お前から言ってやれよ、文多。『社長好みのべっぴんさんですネ』ってな!」


 老残の身のように扱われた仕返しとばかりに「見ろよ、鼻の下が伸びてら」と冷やかす岳だったが、当の樋口は日野目から渡された書類に目を通した途端、表情を一変させた。

 只ならぬ気配を感じ取った一同が表情を引き締めていると、樋口は手に持っていた書類を岳のほうへと差し向け、次いでキリサメの顔を覗き込んだ。


「アマカザリ君さ、ちょっと小遣い稼ぎしてみないか? ……次の興行でさ」

「――ど、どういうコトだよ、こりゃあ……」


 岳の口かられた呻き声は樋口に対する追及ではなく、受け取った書類に記されていた情報への驚愕だった。想像を絶する急展開に慌てふためく彼は書類と樋口の顔を交互に見比べながら「どういうことだよ⁉」と、同じ言葉を繰り返し続けている。


「どうしたんですか、センパイ? ……あの、社長、何が一体……」

「冗談じゃないぜ、文多! お見舞いのフルーツ盛り合わせを手配してくれ、公任!」

「簡単に仰いますが、贈答品にも相手に合わせた等級がありますので、どの程度の品が必要なのか、まず指定して頂きましょう」

「先に手配しなくちゃならないのは補欠選手だろう、岳ちゃん。だから、アマカザリ君に声掛けたんだ。……ビェールクト・ヴォズネセンスキーが道場破りに壊されちまったよ」

「道じょ――はいィ⁉」


 岳の手より奪い取った書類に目を通した麦泉は、そのまま膝から崩れ落ちてしまった。

 慌てて駆け寄る柴門だったが、体調を訊ねることさえはばかってしまうほどに顔面は蒼白であり、殆ど急病人のようである。


「ビェールクト・ヴォズネセンスキーって、あのコマンドサンボの……?」


 未稲が口にし、岳と樋口が同時に頷いたヴォズネセンスキーとは次回のマッチメイクが決定したばかりの『天叢雲アメノムラクモ』契約選手であった。



 城渡マッチが『サムライ・アスレチックス』の本社に呼び出されたのは首都圏の桜が散り際を迎えようとしている頃である。

 目的のオフィスビルへと向かう桜並木の坂道を彼は不機嫌そうに肩を揺すらせながら闊歩していた。上体を大きく前方に折り曲げ、誰彼構わずに睨み付ける姿は巷に溢れる不良学生と全く変わらない。

 ヒサシのように前方へ突き出したリーゼント頭は、非行に走る少年少女と同じく社会への反骨精神を形にしたものであろう。凶暴性が高いトレードマークには先程から桜の花びらが風に乗って纏わり付いており、城渡はこれを一枚ずつ腹立たしげに剥がしている。

 ある意味にいては幼稚性が抜け切れていないとも言い換えられるだろうが、当の城渡は学生を称して通じるような年齢を大昔に超えていた。

 数年の内には四〇代に手が届いてしまう。妻帯者でもある。そのような年齢の人間に相応しい態度とは言い難いわけだ。

 三〇代後半にして暴走族チームの総長を現役で務めている為か、気持ちだけは若いつもりであり、『天叢雲アメノムラクモ』の試合でも改造が施された学ランを着用し、反抗期の少年のように荒々しく振る舞っているのだった。

 勿論、今日はリングの外なので服装も普段通りだ――が、所属団体の社長との面談に適している物とは言い難い。学ランの代わりに青いツナギを着込んでいるのだ。いわゆる、作業着であろうか、あちこちに黒い油汚れが飛び散っていた。

 歩道のタイルを革靴で蹴り付けながら進むなか、山吹色のツナギを制服ユニフォームにしている宅配業者の青年とすれ違ったが、こちらは客先での応対時に不潔と感じられない程度には小奇麗である。

 アホウドリをかたどったロゴマークがツナギの背中に刷り込まれたその業者は同業界の最大手であり、社員教育も行き届いているのだ。これに対して対して城渡のツナギからは汗の臭いまで漂っていた。それ自体が大人おとなない態度といえよう。


「いっそ『つるぎ』からけしかけられたみてェにカチコミ行ってみっか! ハンパな気合いでやってんじゃねェって分からせてやるのもアリじゃねェか⁉」


 城渡は『サムライ・アスレチックス』から連絡を受けて以来、同じ調子で憤怒いかりをぶち撒け続けていた。

 樋口の秘書を名乗る女性の話によれば、次回の興行で対戦するはずであったロシア人選手がジムを訪れた道場破りに惨敗し、全治三ヶ月もの重傷を負わされたというのである。

 ついては別の選手と対戦カードを組み直すので相手側と面談して欲しい――それが『サムライ・アスレチックス』の要請であった。

 これほど人を馬鹿にした話などなかろう。憤激した城渡は当初の対戦予定であった選手の容体を確かめることもなかった。試合を控えた身でありながら軽々に道場破りと立ち合い、あまつさえ故障させられてしまうとは同じ〝戦士〟として情けなかった。

 彼が怒りを向けるのは、対戦カードを台無しにした道場破りでも、補欠選手を宛がおうとする『サムライ・アスレチックス』でもなく、一番の被害者であろうロシア人選手のほうであったのだ。

 瞬間的に逆上した城渡は電話口に向かって理不尽にも怒鳴り散らしてしまったのだ。

 試合でセコンドを務める長年の親友――ほんまつつよしも同行しているが、彼は電話相手への謝罪として沖縄クレープ店の紙箱を携えている。

 紙箱の表面に刷り込まれた『がんじゅ~い』という名称なまえは、都内住まいの耳聡い者なら誰もが知っている。フードトラックによって移動販売が行われている沖縄クレープだ。

 謝罪の品であれば菓子折りを用意するのが定番だが、テレビ番組で大々的に紹介されるほど人気を博している甘味スイーツのほうが喜ばれるだろうと二本松が気を回したのである。

 普通は長時間も並んでようやく買い求められる品だが、フードトラックを運転して都内各所を巡っている店主とは城渡も二本松も古馴染みであり、下拵えを行う調理場で焼き立てを用意して貰ったのだ。

 スイーツ系の『チンビン』とスナック系の『ポーポー』両方が箱の中にぎっしりと詰まっている。これもまた誠意の形であった。


「社長の秘書で間違いないんだな、まさひこ? 面談の前にとにかく謝り倒すんだぞ」

「頭なんか下げられっかよ! 大体、オレを舐めてるのは向こうじゃねーか⁉」

「そんな言い逃れは通用せんぞ。今度のことはお前のほうが絶対に間違っている。スジが通らない話はお前が一番嫌いなコトじゃないか。雅彦、そうだろう?」

「だ、だけどよォ……」


 リングネームではなく『雅彦』と本名で城渡のことを呼び、その短気を宥めるのもセコンドの務めであった。彼の荒っぽい性格を熟知している二本松はどちらの側に非があったのか、理詰めで諭していった。

 二本松は城渡が率いる暴走族チームにいて副長を務めている。どのような言葉を選べば親友の心に最も響くのか、長年の付き合いから熟知しているわけだ。

 事実、二本松に窘められて野卑そのものであった態度を徐々に緩めていた。


「でもよぉ、樋口のおっさんから軽く見られてるっつーのは事実じゃねーか。新人にオレの相手をさせるとか言ってやがったぜ」

「次がMMAデビューだったな。詳細は面談のときに話すということだが……」

「……まさか、この間のアイドルみてェなヤツ、掴まされるんじゃねェだろうな。そんときゃ速攻で帰るぜ!」

「今回は事情が事情だ。代理だって急遽決まったんだろう。お前には不本意かもしれないが、相手は仮にも『天叢雲アメノムラクモ』の後輩だ。大人おとなになってやれ」

「舎弟の面倒見るだけでも忙しいんだぜ、オレ」

「そう言いながら、何だかんだいって面倒見良いじゃないか、お前は」

「……ンなことはねェよ」


 リーゼント頭の先端を指先でいじりながら愚痴る城渡を励ました二本松は、ホウキの如く垂直に立てた髪の生え際辺りを掻き、次いでデニムジャケットのポケットへ両手を突っ込みながら重苦しい溜め息を零した。

 親友かれが苛立つのも無理はないと、二本松が誰よりも一番分かっていた。

 数日前――第一二回興行の模様がるワイドショーで取り上げられたのだが、くだんの試合で手痛い敗北を喫した城渡はコメンテーターを務めるスポーツ・ルポライターの銭坪満吉から早々に引退すべきと扱き下ろされていたのである。


「体力・気力ともに最低まで落ち込んだ〝不良債権〟をお情けで抱え続ける『天叢雲アメノムラクモ』にハングリー精神を求めるのは無意味でしょう」


 それは城渡にとって禁句だった。年齢による力の衰えを一番に実感しているのは他ならぬ彼自身なのだ。そして、連敗続きという現実から目を逸らすことは許されなかった。

 常に意識し続けている〝引退〟の二字を他人から――よりにもよって銭坪から突き付けられて心穏やかでいられるはずもあるまい。

 城渡はやり場のない苛立ちを持て余していた。しかし、それでも己自身のことである。どれほど腹が立っても銭坪の暴言も一つの事実として堪えることができた。

 危険なのは本人ではなく、むしろ舎弟たちのほうであった。城渡が率いる湘南の暴走族チーム――『武運崩龍ブラックホール』のメンバーは公共の電波で総長をする銭坪に依然から恨みを抱いており、〝不良債権〟と貶められたことを引き金に暴発寸前まで陥ったのだ。

 親兄弟以上に城渡総長を慕う舎弟たちには、彼の名誉を傷付けられることが何よりも許せないのである。

 長野興行の直後には動画配信サイトで活動するMMA解説の〝キャラクター〟――『あつミヤズ』にまで城渡は技術の拙劣を批判されていた。くだん動画ビデオは瞬く間に舎弟たちへ広まり、怒りの炎は天を焦がさんばかりに強まった。

 それから間を置かず『天叢雲アメノムラクモ』の主催側にまで屈辱的な扱いを受けたことは、銭坪を闇討ちすべしと息巻く舎弟たちを何とか抑えてきた二本松副長にとってまさしく最悪の追い撃ちである。

 あつミヤズを運用する『パンチアウト・マガジン』と『天叢雲アメノムラクモ』はといっても過言ではないほど深く関わり合っているのだ。城渡を慕う者たちの敵意が『サムライ・アスレチックス』へ集中するのは自明であった。

 城渡は冗談めかして話していたが、彼が命じれば『武運崩龍ブラックホール』のメンバーは持ち得る総力を結集して渋谷のオフィスビルを強襲することだろう。

 最も激しく怒り狂っているのは、先程も城渡が触れた『御剣』という青年だった。

 額に鋭角な剃り込みの入った金髪のパンチパーマを掻き毟り、次いで「新人野郎が総長の相手に相応しいかどうか、オレが確かめてやりますよ!」などと喚きながらV字型シェイプのエレキギターをデタラメに鳴らしたのである。

 首都圏でも特に荒んでいると噂される島津十寺工業高校シマコーに通う『御剣』は、城渡の暴走族チームと『げき』なるロックバンドを掛け持ちしていた。


「総長に恥を掻かせたクソカスどもをこのままにしといて良いンスか? いいや、良いワケあってたまっかよ! 『天叢雲アメノムラクモ』の連中にも銭坪のブタ野郎にもヤキ入れなきゃ気が済まねぇ! 一まとめにっちまいましょうや!」


 銭坪の闇討ちを最後まで主張していたのも、あつミヤズによる城渡批判を仲間たちへ広めたのも、エレキギターを掻き鳴らす青年である。いよいよ分別を失ったらしく、狐目を更に吊り上げては朝から晩まで物騒なことを口走る有り様であった。

 今朝も『サムライ・アスレチックス』の本社まで同行して樋口を一発殴ってやると気炎を上げていたのだ。城渡から叱り飛ばされて学校へ向かったはずだが、密かにいてくるのではないかと二本松は警戒が解けなかった。

 総長の期待に応えたいと逸る余り、所属チーム内でさえ問題児扱いされてしまう彼は、放っておくと何を仕出かすのか、全く分からないのである。

 一年生と三年生のときにそれぞれ一度ずつ留年している為、今年で成人式を迎える年齢でありながら現在も高校生という『御剣』はひたすらに猪突猛進であった。その上、何事も腕力で解決しようとする短絡的な思考回路の持ち主なのだ。

 幾ら腹に据え兼ねることがあるとはいえ、『天叢雲アメノムラクモ』に関わる人間へ危害を加えるのは逆恨み以外の何物でもあるまい。

 暴走としかたとえることのできない過激な言行の数々は、誰よりも総長を敬愛していればこそである。そして、それも無理からぬことであろうと二本松も理解わかってはいる。

 城渡マッチは湘南海岸に面した場所でバイク店を経営している。『御剣』はそこで住み込みのアルバイトをしながら高校へ通っているのだ。

 本名をつるぎきょうという青年は孤児同然の身の上であり、城渡は父親代わりにも等しかった。

 何しろ城渡が卒業した島津十寺工業高校シマコーをわざわざ選ぶくらいなのだ。それだけ一途な青年には城渡を貶されることが我慢ならないのである。

 恭路くらい後先を考えずに突き進むことができたなら、どれだけ気持ちが楽になるだろうかと二本松は肩を竦めた。

 人はいつまでも無頼を気取ってはいられない。二本松もまた潮時という二字を強く意識していた。

 右手に携えた沖縄クレープは古馴染みがである。

 フードトラックで移動販売を行っている店主は『天叢雲アメノムラクモ』の前身団体――『バイオスピリッツ』に参加していたMMA選手であり、城渡とは戦友とも呼ぶべき関係なのだ。

 現役引退後は生まれ故郷である沖縄の甘味スイーツを極め、『一度のしくじりから大逆転した有名人』といった触れ込みでテレビ番組に招かれるほど大成していた。今や彼のことを格闘家としておぼえている人間のほうが少ないだろう。

 MMAという文化が日本から途絶えていた空白期間に格闘技とは別の事業に転向し、最も成功した人物といっても過言ではあるまい。

 MMAの最前線で命を張っていた時代と比べて贅肉が豊かになった姿は、リングを去った後の在り方を城渡に示していた。

 そして、それが間近に迫っていることを厭でも二本松に意識させるのだ。

 城渡は既にバイク店経営という基盤を確立しているので、そこに収まる以外の選択肢もないだろう。二人三脚でMMA人生を闘ってきた相棒として〝その瞬間〟を最良の形で迎えさせてやりたかった。

 ふと見上げた桜の木は花見の季節を終えて殆ど散り掛けており、新たなつぼみが綻ぶまで文字通りにいろを失うのだ。若葉の頃を待つ侘びた風情に相棒が重なって仕方なかった。

 それでも二本松は相応の対戦相手が相棒に用意されるだろうと信じていた。

 何しろ今回は不測の事態による仕切り直しなのだ。加えて、城渡マッチという男は前身の時代から日本MMAに貢献してきたベテランでもある。

 危険行為を除いてあらゆる格闘たたかいが有効となる『天叢雲アメノムラクモ』だが、その中で一つの技術にこだわり抜くことも認められている。腕力自慢の城渡はパンチを中心に立った《スタンド》状態での打撃を徹底して磨いてきた。その硬派なスタイルを支持するファンも多い。

 道場破りにやられてしまったとはいえ、当初の対戦相手であったビェールクト・ヴォズネセンスキーもスター選手の一人なのである。コマンドサンボをベースにした戦術を駆使し、『天叢雲アメノムラクモ』では七戦全勝という輝かしい実績を誇っていた。その上、ロシアの山岳部隊に所属する現役軍人という肩書きまでプロフィールには添えられている。

 それほどの選手の代理である。MMA初参戦の新人とはいえども、他の格闘技大会の連覇といった経歴の持ち主が選ばれなくてはおかしかった。

 それならば日本MMAの古豪ベテランである城渡とも釣り合いが取れ、彼のプライドも傷付かずに済むであろう。

 だから、社長室兼応接室のソファに座るキリサメを見つけても、最初は職場体験に訪れた高校生か、大学を卒業したばかりの新入社員としか思わず、気にも留めなかったのだ。

 ところが、少年の隣には統括本部長の八雲岳が腰掛けている。傍らには麦泉文多も控えている。

 そこで城渡と二本松は樋口の秘書から電話で伝えられたことを想い出した。ヴォズネセンスキーの代理を務める選手は『八雲岳の秘蔵っ子』だというのだ。

 ようやく自分に宛がわれた選手の正体を悟った城渡は二本松が抑える前に「人を舐めるのも大概にしとけや、コラァッ!」と逆上した。


「こいつは何の冗談だ⁉ 秘蔵っ子ぉ⁉ 親戚のお子さんの間違いじゃねーのかァ⁉ こんなガキをオレにぶつけようってのか⁉ あァん⁉」


 自身のデスクに腰掛けている樋口に向かって城渡はあらん限りの怒号を浴びせた。彼の傍らには秘書の日野目も控えているのだが、この時点で謝罪の沖縄クレープなど頭から完全に抜け落ちていた。

 ヴォズネセンスキーの代理として不相応どころか、格闘技の経験もないように見える子どもを相手に闘おうものなら、世間の笑い物になるだけだろう。銭坪には「弱過ぎて試合をしてくれる選手がいなくなった」と嘲笑されるに決まっている。

 そればかりは城渡のプライドが許さなかった。どうあっても折り合いが付けられそうにない屈辱的なマッチメイクであった。

 同じ暴走族の仲間から『狂犬』などと恐れられる御剣恭路がこの場に居合わせたなら、どくの指輪を嵌めた拳でもって樋口の前歯を叩き折っていただろう。

 この筋運びには二本松とて頭に血が上りそうなのだ。しかし、自分まで怒りを露にすれば相棒はいよいよ歯止めが利かなくなるだろう。それだけは絶対に避けなければならないと必死になって堪えているのだ。

 本音を言えば、樋口の身を仰向け状態で肩に担ぎ、弓なりに反らせて背骨を圧し折りたいくらいだった。


「いきなりガン飛ばしはナシにしようぜ、マッチ。キリーの実力はオレが保障するって。こいつ、こう見えてスゲェんだからよ!」

「身贔屓で語られたって何の説得力もねーんだよッ! あんたはすっこんでろ!」


 怒り狂う城渡を窘めようとする岳であったが、取り付く島もない。


「つーか、てめーもッ! ボケ~ッとしてねぇで言い返してこいや、クソガキィッ! そういうスカした態度が一番、ナメてんだよッ!」

「舐めるも何も、僕だって困ってるんですよ、こんなことになって……」


 城渡の口から飛び散る唾へ迷惑そうに顔を顰めたキリサメは、密かに電知のことを想い出していた。『コンデ・コマ式の柔道』を標榜する少年も目の前の男性と同じような調子で口汚く喚いていたはずだ。

 キリサメとて無感情に時間ときが過ぎるのを待っているわけではない。彼もまた困惑した状態でソファに座らされているのだった。

 キリサメの眉間に皺が寄る原因も『サムライ・アスレチックス』からの電話である。数日前に麦泉を通して樋口から連絡が入り、城渡陣営と面談の場を持って欲しいと一方的に言い渡されたのだ。

 さしもの岳もこれには面食らってしまった。彼が最初に考えていた構想では数回先の興行から養子キリサメを参戦させるつもりだったのだ。その間に多くの試合を観戦し、MMA自体に対する理解を深め、体力作りなど必要な訓練を積ませようと考えていたのである。

 しかし、ビェールクト・ヴォズネセンスキーの故障によってそれらも全て吹き飛んだ。

 彼は次の興行にいて城渡マッチとのマッチメイクが成立していたのだが、全治三ヶ月という深刻な負傷によって出場そのものが不可能となった。その補欠リザーバーとしてキリサメに出場が打診され、これを引き受けることになったのである。

 準備期間の短さに目眩を覚えたキリサメではあるものの、これから世話になる樋口から拝み倒されては承諾せざるを得なかった。


「無理は承知で依頼したんだからマッチメイクは責任を持って自分が取りまとめる。悪いようにはしないから、任せておいてくれ」


 このように樋口は断言したのだ。それにも関わらず、急に正反対のことを言い出した次第である。

 電話越しに聞かされた説明によると、無名の新人選手ルーキーとの対戦に城渡陣営が難色を示したというのだ。これを解消するべく面談の場を設けたいとのことであったが、指定された日時に出掛けてみれば城渡はいきなり喧嘩腰ではないか。

 聞く耳を持たないといった剣幕で喚かれるようでは、マッチメイクどころか、話し合いすら難しいように思えた。


(……確かにじゃやっていけそうにないな……)


 初めて面会したときに樋口から掛けられた言葉を厭でも想い出す。どうやら『天叢雲アメノムラクモ』では無責任なマスコミにだけ警戒していれば安全というわけではなさそうだ。本当の意味で頑丈タフでなければ容易く潰されてしまうのだろう。

 樋口には最初から両陣営の仲立ちを行うつもりなどなかったとしかキリサメには考えられない。敢えて正面から双方を激突させ、その混乱へ乗じる形で事態を収拾させようと企んでいるに違いない。

 強引としか表しようのない力業に巻き込まれたのだから、城渡が怒り狂うのも当然だ。


(……こんな人、見たことがない……)


 策略や弁舌で人の心を動かそうとする狡猾な人間は故郷ペルーでも山ほど目にしてきた。ときには『聖剣エクセルシス』で打ち祓うこともあった。

 しかし、樋口のような形の豪腕は未だかつて会ったことがない。ともすれば無責任と紙一重なのだ。強いて挙げるなら亡き母が最も近いだろうか――さしものキリサメも畏れを抱かずにはいられなかった。


「とにかく座れ、雅彦。こちらの坊ちゃんも騙されて連れて来られたみたいだ。ここは社長の言い分を聞くだけ聞いてみよう。……大義名分があったほうが暴れ易いだろう?」


 このままでは埒が明かないと判断した二本松は、城渡を無理矢理にソファへと押し込み、自分もその隣へ腰を下ろした。

 城渡はキリサメと、二本松は岳と、それぞれ向かい合う恰好である。

 柴門は奥州市まで出張している為に今日は同席していない。未稲もまた外せない約束があって欠席である。新しく仲間入りしたプレイヤーの歓迎会をネットゲームの世界にて開催するのだが、その幹事を引き受けてしまって色々と忙しいそうだ。

 選手契約と同じくらい重大な日にも関わらず、趣味ネットゲームを優先されてしまったキリサメは少しばかり恨めしくも感じたが、未稲の交友関係に口出しする権利までは持っていないと己に言い聞かせている。

 これは他の誰でもない自分自身の〝闘い〟なのだ。例え未稲が傍らに居てくれなくとも己の意志ちからもって城渡と相対するしかない。


「まずはこいつを見てくれ。そこからでないと話も始められない」


 二本松の機転によって面談の場が整ったと認めた樋口は、おもむろに自分のデスクから立ち上がり、両陣営の間に設置されたガラステーブルへ書類の束を置いた。


「あァんッ⁉ クソガキの履歴書なんざ見たくもねェッ!」

「ヴォズネセンスキーをやっちまったヤツの情報だよ。ウチはロシアに支社なんかねぇからツテを使ってな。調べられるだけ調べてみたんだよ」

「ツテっつーか、オレの師匠だろ~が。老体にムチャさせんなっつーの」


 正面の城渡から睨み据えられているような状況では尋ねることもままならないが、岳の語った『師匠』とは、彼に忍術の極意を授けた人物なのであろうか。忍者だけに現代でも隠密のような仕事をこなすのだろうか。

 キリサメが伝え聞いた忍者とは戦乱の世で諜報活動を遂行していたはずだ。


「師匠も随分と骨折ってくれたよ。読んでおくだけの値打ちはあると思うぜ」


 そういう岳も、隣の席で忍者に思いを馳せているキリサメも机上の資料には先んじて目を通していた。

 飄然ひょうぜんと現れた道場破りだけに性格や身元などは判然としなかったようだが、それでもロシアを訪れる以前の戦歴などが箇条書きで記されていた。

 欧米の武道場やジムに何の前触れもなく現れては看板選手に勝負を挑んでいる。

 『天叢雲アメノムラクモ』や『NSB』といったの格闘大会に出場した記録は確認されていない。

 鋭く激しい打撃で動きを封じ、アクロバティックな投げ技や関節技で勝負を決める。

 相手を倒した後、金銭や看板を要求することはない。

 純粋な腕試しを目的として世界巡業めいたことをしているように思われる。

 彼が道場を襲来するようになったのは、ここ一、二年のこと。

 これらがくだんの道場破りについて現時点で判明していることであった。もう一つ付け加えるならば、名前は『ばくおうまる』というそうだ。


「……日本人なのですか?」


 書類に添えられた一枚の写真を手に取った二本松は、眉間に皺を寄せつつ首を捻っている。爆煌丸という日本風の名前は、おそらくリングネームのような通称ものであろうが、隠し撮りされた物と思しき写真を見る限り、肌の色や顔立ちは東洋系のである。

 黒い胴衣は下のみを穿き、そこに帯を締めているのだが、剥き出しの上半身はボディービルダーもかくやと思われるほどに逞しい。胸や肩の筋肉などは異常でいびつといえるほどに大きく盛り上がっているのだ。

 栗色の髪の毛は坊主刈り。そこに締めた鉢巻は眉間の部分に怒れる鬼の顔が染め抜かれている。彫りが深い顔は不気味なほどに涼しげであった。


「写真で見る感じだとそれっぽく見えるんだが、流暢な英語を話したそうだし、東洋系ってこと以外は判別しにくいようだ。……向こうの事務局は認めなかったが、どうやら『NSB』の選手も何人か壊されているそうだよ」

「……シリアルキラーみたいな男ですね――」


 樋口による説明を受けて、二本松は低く呻いた。腕試しが目的とはいえ、世界各地の道場あるいはジムを荒らし回るなど異常な執念と言えなくもないのだ。


「――いや、これと似た人物が他にも居たな。確かそう……『アップルシード』だ。世界中のあちこちで腕試しをしているって社長あなたの所の雑誌で読んだ気がしますよ」

「正確には昔の勤め先だよ。今でも仲良く付き合っちゃいるがね」


 同じように荒唐無稽な話を二本松は他所よそでも聞いたおぼえがあった。

 『アップルシード』と呼ばれる流浪のストリートファイターが昨今の格闘技界を騒がせているのだが、ヴォズネセンスキーを撃墜した道場破りとくだんの人物が二本松の中で結び付いた次第である。


「……例の『アップルシード』と同一人物という可能性は?」

「そこら辺も師匠は探ってくれたみたいなんだけどよ、何しろ『アップルシード』自体が未確認動物UMAみたいなモンだろ? 手掛かりが少なすぎて結論出せねェってさ」

「真田忍群の目を誤魔化すとは相手もやりますね」

「昔にゃすっらっって呼ばれた真田の忍者もネッシーみたいのが相手じゃ分がわりィさ」


 マッチメイクの話し合いという本来の目的から横道に脱線している状態なのだが、突如として現われた謎の格闘家には二本松も興味を惹かれてならなかった。


「ときにキミたち、『ヨーロピアン柔術』って聞いたことがあるかい?」

「ねェよ、ンなのッ!」

「……『ブラジリアン』じゃなくて『ヨーロピアン』ですか? いえ、勉強不足で申し訳ないが、そんな柔術は一度も聞いたことがありませんね」


 樋口が触れた『ヨーロピアン柔術』なる格闘技について、城渡は不機嫌そうにそっぽを向き、二本松は興味深げに話の続きを促した。


「ちょっと前に『パンチアウト・マガジン』でも取り上げたんだが――伝統派空手風の打撃にド派手な投げや組技を融合させたような格闘技なんだよ。名前の通りの欧州ヨーロッパ生まれ。向こうには大きな連盟もある。調査レポートにも書いてあるが、岳のお師匠さんの調べから自分なりに推理して、爆煌丸とかいう道場破りはそのヨーロピアン柔術の使い手ではないかと仮説に行き着いたんだよ」

「師匠にも欧州そっちのルートで探りを入れてもらったんだけどよ、向こうの連盟に問い合わせても、そんな名前の選手はいねぇって返されちまってな」

「この写真は手掛かりにはならなかったのですか? かなりの証拠だと思いますが?」


 二本松の質問に対して、岳と樋口は揃って首を横に振った。


欧州むこうの連盟にも日本こっちの格闘技団体にも片っ端から訊いてみたさ。だけど、返ってくる応えはどこも一緒。『写真の男には見おぼえがない』とな。これだけだ」

「モグリの格闘家は別に珍しかねぇが、しゃかりき道場破りに励むくらいだから面が割れててもおかしくねぇんだけどな。の傍らになっちまうけど、もうちょい師匠も粘ってくれるみてぇだし、今は続報待ちって状況だな」

「その間にも被害者だけが増えていく――そういうわけですか……」


 連続通り魔事件を追う刑事が捜査本部に集まり、自分たちの無力を嘆く――爆煌丸の正体について考え込む二本松たちの姿は刑事ドラマにありがちな光景を彷彿とさせた。


「ンなこたぁ、どーでもいいんだよ! 井戸端会議に酔ったワケじゃねぇんだ!」


 格闘技談義に花を咲かせていた人々を順繰りに睨み付けた城渡はリーゼント頭を激しく震わせながら再び怒声を張り上げた。


「長々ダラダラとワケわかんねーコトを喋りやがって! 今の話がマッチメイクと何の関係があったんだ⁉ 剛までノッてんじゃねーよ! ビェールクトの野郎は弱ェから道場破りに負けた! それだけのコトだろーがッ! それで結論出てんだろーがよッ!」


 我慢の限界に達した末の爆発だが、城渡の主張こそ正しいとキリサメも頷いている。

 自分たちはマッチメイク成立の為に集まったのだ。ここは連続通り魔事件の捜査本部などではなく、『天叢雲アメノムラクモ』を主催するスポーツプロモート会社の一室なのである。


「この青っちろいクソガキがマジでオレとやり合えるだけの資格を持ってんのか、まずはそいつを確認してからじゃねーか? そうでなけりゃマッチメイクなんかできねーだろ!」


 やおらソファから立ち上がった城渡は、差し向かいのキリサメにも自分に続くよう顎で促した。

 応じて立ち上がったキリサメの身体を城渡は頭頂から爪先まで凝視していく。


「この際、年齢のこたァ目ェ瞑ってやるぜ。……昔にもてめーと同じ年頃くらいのガキが選手になってたからよォ」

「……それなら、僕が出場しても問題ないんじゃありませんか?」

「ケッ――なんにも知らねェガキがここぞとばかりに抜かすんじゃねぇや。……性懲りもなく同じ〝過ち〟を繰り返そうとしてるウスラバカどもに呆れて物が言えねぇな」


 城渡が言及したのは一〇年前に自分と同じ年齢でMMAデビューしたという『バイオスピリッツ』の選手のことであろう。〝子ども〟とのマッチメイクに難色を示すのは、どうやらプライドだけの理由ではなさそうである。

 『最年少選手』の前例として挙げられた選手が何らかの災いに巻き込まれ、そのことが城渡の中で引っ掛かっているのだと、詳しい顛末を知らないキリサメにも察せられた。


「城渡さんの懸念は尤もですが、キリサメ君のことは『サムライ・アスレチックス』のほうでしっかりとサポートしますし、何より以前とは状況が――」

「――当たり前だ、このタコッ! マジで同じ失敗をやらかしやがったら、〝あいつ〟の為にもてめーらをブッ潰すッ!」


 口を挟もうとする麦泉を一喝で黙らせた城渡は再び盛大に鼻を鳴らし、次いで「前例まえのヤツと比べて、てめーはヒョロ過ぎらァ」とキリサメの体躯をせせら笑った。


「会社でサポートだとかほっざいてやがるがよォ、一人前になるまで下積みしてた〝あいつ〟とは気合いの入れ方が違うんじゃねーの? ……てめー、ちゃんと試験テストはクリアしたんだろうなァ?」

「……いいえ」

「『八雲岳の秘蔵っ子』だけに特別待遇ってか。良いご身分だなッ!」

「僕も試験テストを受けるつもりでいたのですけど、樋口氏から『そんなことをやってる暇はない』と言われてしまって……」

「あァんッ⁉」


 キリサメの返答に驚いた城渡は、次いで『サムライ・アスレチックス』のさんを咎めるように樋口を睨み付けた。当の社長はトボけた調子で顔を背けたが、二本松まで顔を顰めている辺り、ろくな審査もないまま選手が採用される状況は、既にリングへ上がっている人間から見ても大問題であるらしい。


「……背中に掛けられた物は『ダモクレスの剣』の代用と思っていたのですが、……どうやら見込み違いだったようですね。それとも灯台下暮らしというものですかな」

「二本松ちゃんはキツいなァ~」

「そうですか? これでもまだ抑えているほうですよ。……御社が伊達や酔狂で『サムライ』を名乗っているに過ぎないのであれば話は別ですがね」


 厳寒地に吹き付ける夜風のほうがまだ温かく感じられる二本松の声が樋口を突き刺した

 社長用のデスクの背後には台座に差し込まれた大小一揃いの日本刀が置かれ、その真上には「士道不覚悟は切腹」と大書された掛け軸がある。

 今、この状況こそ掛け軸の文言に反しているのではないかと二本松は追及していた。

 切腹とは武士にとって究極的な責任の取り方でもある。現代にいて『サムライ』と同等の覚悟を問い質すほど城渡の相棒は静かに憤怒しているのだ。

 穏やかならざる空気を感じ取ったキリサメも「やっぱり問題だったんじゃないか」と心の中で呻くのだった。


「こうなってくると何もかもが怪しいな! 大体、このガキ、まともに殴り合いなんかできんのかよ? 如何にも〝お坊ちゃん〟ってなツラでボンヤリしてやがるぜ⁉」

「……体付きのことなら、今ここでシャツを脱げばよろしいでしょうか」

「バカがッ! ガタイの話じゃねえッ! タフかどうかっつー話だッ!」


 城渡はツナギのポケットから紙巻きタバコの箱を引っ張り出し、口に銜えた一本に安物のライターで火を点けた。

 『サムライ・アスレチックス』が所在するビルは全面禁煙となっている。例外は認められないといって止めようとする麦泉に紫煙を吹き付けて黙らせた城渡は、先端が赤く明滅する紙巻きタバコをキリサメに手渡した。

 無理矢理に紙巻きタバコを押し付けられる形となったキリサメは城渡の意図が全く理解できず、ただ呆然と立ち尽くすのみである。


「……未成年ですから、こういう物は遠慮したいんですが……」

「吸えっつってんじゃねーんだよ! 根性を見せてみろってんだよッ!」


 そういってツナギの袖を捲った城渡は黒い染みが焼き付いた腕をキリサメの眼前にかざしてみせた。どうやら火傷の痕らしいが、一個一個は小さく、それが斑模様のようにあちこちに散らばっている。


「てめーがマジにタフなヤツなら、火の熱さにだって耐えれるよなぁ⁉」

「ちょ、ちょっと待てよ、マッチ! キリーに『根性焼き』させようってのか⁉」

「これくらいも我慢できねぇような弱虫にオレの相手が務まるかよッ!」


 城渡がキリサメに求めている行為ことを悟った岳はさすがに腰を浮かせた。

 『根性焼き』とは火の付いた紙巻きタバコの先端を皮膚に押し当てて我慢強さを試すという危険な行為である。何秒間、熱さに耐えられるのかを競うわけだ。

 かつては不良学生の間で盛んに行われた度胸試しの一つであり、城渡の腕に見られる斑模様は往時の痕跡というわけだ。

 改めてつまびらかとするまでもないが、これによって皮膚は醜く焼け焦げてしまう。一度でも紙巻きタバコを押し付けると黒ずんだ痕跡を消し去ることは難しかった。

 再生不可能なほどに重度化した火傷は、いわば過ちの烙印なのである。


「いい加減にしてください、城渡さん! あなたはキリサメ君に一生ものの傷を負わせるつもりですか⁉ その責任をあなたが取れるんですか⁉ 取れないでしょう! 彼はまだ二〇歳はたちにもなっていないんです! そんな若者にマイナスにしかならないことを強いるなんて――そんな人間こそ『天叢雲アメノムラクモ』には必要ない! あなたとの契約自体を解除しても良いのですよ⁉」


 自分と同じリングに上がりたければ誰よりもタフである証拠を提示しろと城渡は言う。主張自体は何も間違ってはいないが、その手段として根性焼きを強要するのは暴挙以外の何物でもなく、普段は温厚な麦泉も双眸を血走らせながら食って掛かった。

 今度ばかりは城渡から睨まれても怯まない。麦泉はキリサメの将来まで考えて反抗しているのだ。根性焼きの痕は消せない――そのことによって被る損害を思えば、何があっても阻止すべきであった。

 それこそが子どもを見守る大人の務めなのだと麦泉は信じている。


「根性なんてモンは手前ェの勇気で示すもんであって、誰かに押し付けられるモンじゃない。そうじゃないのか、雅彦? 〝昔のこと〟を持ち出して正論かました気になってるみたいだが、今のお前はスジが通っちゃいないぜ」

「る、るせぇ! そもそもひん曲がってたスジを通す為にオレは心を鬼にしてだなぁ!」


 当然、二本松も暴挙を阻止する側に回る。

 相棒にまで反対されたことによって城渡当人も意固地となりつつあり、言い争いは押し問答の様相を呈していた。


「あっ――」


 そのとき、社長の傍らに控えていた日野目が重大な事態に気付いたような声を上げた。

 彼女が見据える先に視線を巡らせていくと、今まさにキリサメが自分の左腕に紙巻きタバコを押し当てようとしているではないか。

 大人たちが押し合いへし合いを演じている間に城渡から突き付けられた課題テストを済ませるつもりであったらしく、その動きには迷いがなかった。


「バッ――何やってんだ、てめーッ⁉」


 逸早く飛び出した城渡がキリサメの手から紙巻きタバコをもぎ取った。


「あっ、あがががががががががッ!」


 余りにも慌てていた為に指先で弾いてしまった紙巻きタバコは、一度、天井近くまで吹き飛んだのち、城渡の頭へ深々と突き刺さった。


「親から貰った身体を粗末に扱うんじゃねェッ!」


 思いも寄らない場所を火傷する羽目になった城渡は、一頻ひとしきり悶絶したのちに支離滅裂な怒鳴り声を張り上げた。


「根性焼きしろってアマカザリ君に言ったのはお前さんのほうだろ」

「オ、オレだってマジにやれなんて思ってねーよ! いわゆる一つの『チキン・ラン』みてーなってモンだ! ギリギリまで粘って根性見せたら、別にオレは……」

「チキン・ゲームのことか? それならそうと、先に言っといてやれよ」


 樋口からの指摘ツッコミに城渡は「そ、そこまで甘やかす理由はねぇ……」と口籠った。

 彼らの言うチキン・ゲームも度胸試しの一種である。

 特に城渡が考えていた『チキン・ラン』は危険度が高い。バイクや自動車に乗った競争者が互いに向かって疾走し、先にブレーキを掛けたほうが敗北という背筋が寒くなるようなルールなのだ。正面衝突を恐れてハンドルを切っても臆病者チキンと罵られるわけだ。

 ギリギリの一瞬で相手の根性を上回る――それができた者の勝ちという理屈だった。

 二台で並走して壁や崖に突っ込んでいくパターンもある。この場合も勝利条件は同じであり、追突や落下といった生死を分ける一線を超えても敗北と見なされるのである。

 尤も、本物のチキン・ランを強要されたところでキリサメは躊躇ちゅうちょなく応じ、これに勝利したことであろう。

 それほどの決意を秘めて、城渡の前に立っているのである。


「誰に何と言われても僕は『天叢雲アメノムラクモ』に出場します。それを認めて貰えるのなら、僕は何だってやる」


 未稲との誓いを果たす為、期待を寄せてくれる岳や樋口へ報いる為――キリサメは覚悟を湛えた瞳でもって城渡を見据えていた。

 自分を支えてくれる人たちへ恩を返す為ならば、肌に一生ものの火傷を負うことさえキリサメは怖くはなかった。


「……西と同じようなタンを切りやがってよ……」


 覚悟の強さが城渡にも伝わったのであろうか――暫く睨み合ったのち、彼は奇妙な言葉を引き摺りながらキリサメに背中を向けた。

 そして、残り火が燻る紙巻きタバコを右手でもって握り潰す。


「ビビッて逃げたら承知しねぇからな。それだけは忘れんなよ」


 城渡の触れた関西人とやらが誰のことを指しているのかは判然としなかったが、照れ臭そうな声と、何となく居心地悪そうに肩を揺するさまがマッチメイクの了承を表していた。

 城渡の気持ちを察した二本松は垂直に握った右手をキリサメのほうに突き出し、「『次はリングで会おう』って意味さ」と、片目を瞑りつつ親指を立てて見せた。

 樋口の仕打ちは言語道断だが、城渡が今度の対戦カードを受けれた以上、相棒としてはそれを尊重するのみである。

 何よりも二本松自身、キリサメの真摯な態度を好ましく思い始めている。

 自分たちの半分も生きていないだろうに目標へとひた走る誠実さと強靭さ、いざというときに己の命を懸けるだけの勇気を兼ね備えている様子だ。彼と同じ年齢としの頃を振り返ってみれば城渡と一緒に単車バイクへと跨り、やり場のない鬱憤をアスファルトで踏み潰していただけである。

 御剣恭路もキリサメのように腹が据わってくれたなら、どれほど気が休まるだろうと思わずにはいられなかった。


「よーしよしよしよしッ! これにてマッチメイク成立よォッ! 『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長がビシッと見届けたぜェッ!」


 決然と立ち続けるキリサメと城渡の背中を交互に見比べながら、岳はとろけるような笑顔を見せた。それは心の底から昂揚した表情かおであった。

 へそ曲がりで強情っ張りな城渡にキリサメ・アマカザリという男が認めて貰えた――そのことが養父にとって何よりも誇らしいのだ。



 かくして『天叢雲アメノムラクモ』第一三回興行――奥州の闘いにいて、南米から舞い降りた新星と日本MMAの歴史を体現する古豪が拳を交えることになったのである。


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