その10:始動~いざ契約!総合格闘技のリングへ!
一〇、始動
テレビ番組の制作には編集と呼ばれる工程が不可欠である。全編生中継といった特別体制でもない限りは放送時間が定められている為、撮影したテープをそのまま全て使うことはできないのだ。決められた時間内に収め、なおかつ視聴者が満足してくれるような作品へ仕上げるには撮影テープの中から必要な場面のみを取捨選択しなくてはならなかった。
番組の内容あるいは制作スタッフの意向にそぐわない映像を排除していくのも編集上の作業である。これが余りにも作為的であった場合、偏向報道と批判されてしまうのだ。
それはスポーツ番組に
格闘技イベントを取り上げる場合は
『
首都圏を離れて長野で開催された第一二回興行は試合内容が充実していたこともあって番組に寄せられる反応も悪くはなかったのだが、唯一、編集の仕方については抗議めいた電話が入り、放送直後にはインターネット上でも物議を醸したのである。
槍玉に挙げられたのはセミファイナルを飾った八雲岳とバトーギーン・チョルモンの一戦だった。兼ねてよりチョルモンは『
そして、迎えた直接対決の折、チョルモンは試合中にも関わらず「興収目的の『客寄せパンダ』など使うべきではない」と岳を面罵したのである。
ところが、衛星放送時には該当する場面の一切が省かれていたのだ。チョルモンの罵声によって試合が中断したというのに、そうした事実など最初からなかったかのような編集が施されていた次第である。
言わずもがな、放送されたのは生中継ではなく試合当日に収録された映像である。出場選手の意見表明すら不要なものと見なされ、排除されたわけだ。
多目的アリーナで実際の成り行きを見ていた観客たちは〝呟き〟めいた短文を投稿する形式のSNSを中心にすぐさま論争を始めた。
『客寄せパンダ』を苦々しく思っていた一部のファンはチョルモンを英雄視し、岳の態度や運営側、放送チャンネルへの
これに食い付いたのが地上波放送の定番ともいうべきワイドショーだった。
下世話の極みというべきか、彼らはほんの些細な揉め事でも恐るべき嗅覚で探り出し、面白おかしく
それならば、有識者と称して出演するコメンテーターは食い残しに群がる野良犬のような存在であろうか。昼下がりに放送された或る番組でもスポーツ・ルポライターの肩書きを背負った中年の男が訳知り顔で持論を展開させている。
「私は『
神経質そうな顔が紅潮しているのは、おそらく自己陶酔の表れであろう。
しかも、冗長な
彼の言う構造的欠陥を先に指摘した味方を――だ。
「
偏った編集はともかくとして、もと横綱と日本MMAの先駆者の一戦も試合内容自体は高い評価を得ているのだが、この男の耳には持論を妨げる情報は一切入らないらしい。
おそらくは『
『
MMAを心から愛する人間が生み出した
「あの無様な男が〝西の鬼馬鋼〟なんて呼ばれていた頃に〝東〟で綱を張っていた『
ここまで来ると理不尽ではなく下劣の類である。同席する他のコメンテーターたちも辟易したような面持ちで銭坪から視線を逸らしていた。
ただ一人――頭髪を短く刈り込んだ精悍な男性だけは怒気を隠そうともせずに銭坪の横顔を睨み続けている。
ソチ五輪開催中は特別レポーターとして現地に滞在し、競技中継では
現役を退いて久しいものの、世界を相手に闘ったアスリートとしてスポーツ・ルポライターの侮辱的な物言いが許し難い様子だ。
「大体ね、鬼馬鋼は酒の呑み方一つ取ったって品格が――」
半ば言い掛かりの様相を呈してきた銭坪の顔が液晶画面から消えた。見るに堪えないとばかりにテレビ自体の電源が切られた次第である。
「こーゆーワケのわからない人たちに絡まれるような世界だけど、本当にやっていけそうかい? 精神的にもタフでなきゃキツいよ」
書類などが乱雑に積み重ねられたデスクにテレビのリモコンを放り出し、僅かに空いている箇所へ頬杖を突いた中年の男性は、目の前に立つ少年に覚悟を
一瞬たりとも迷わずに頷き返したのは、キリサメ・アマカザリその人である。
MMAへの挑戦を決意した夜からおよそ一週間――桜が満開に咲き誇る四月初旬の
渋谷の雑居ビル二階に構えたオフィスはガラス張りの正面玄関を
壁一面を埋め尽くすポスターとスケジュール表はモザイク柄のように極端な色彩を作り出している。言わずもがなポスターは大半がスポーツや格闘技の物で、そこに刷り込まれた選手から常に見張られているような錯覚を覚えるくらいだった。
端的に表すならば、気持ちが全く落ち着かない。「よくこんな場所で仕事ができるものだ」とキリサメは
名実ともに日本MMAを代表する『
「ゴチャゴチャしていて悪いね――と言っても興行の前後よりは片付いてるんだけど」
床に放置された段ボールに
『サムライ・アスレチックス』のオフィスでは担当部門ごとに専用のデスクが割り当てられる。つまり、麦泉一人だけでマネジメント部を切り盛りしているということだ。他の社員たちも相当な激務であろうことが察せられた。
「キミがアマカザリ君ですね。岳さんや麦泉くんから話は伺っていますよ、……色々ね」
「……あの――初めまして……」
「そう畏まらないで良いのですよ。今日は面通しのようなものですから」
椅子から立ち上がってキリサメを迎えたのは五〇代半ばと
口元の皺が大きく形を変えるような笑みを浮かべているのだが、例えば相手の全てを受け止める麦泉の柔和さとは異なり、彼は他者の意思を丸ごと包み込んでしまうほどの存在感を伴っている――その男と相対したキリサメは畏怖すら感じていた。
握手を求められたときなど何の抵抗もなく応じてしまったのだ。初対面の人間に己の手を無防備のまま差し出すことは控えてきたというのに、警戒心そのものを溶かされたようであった。
「同じ会場に居ても顔を合わせる機会は滅多にないから未稲さんとも久し振りですね。私のほうは一方的に拝見していましたけどね」
「なッ……えッ⁉ ど、ど、どこでッ⁉」
「それは勿論、長野興行のときですよ。岳くんがリングへ上がる前にご家族のこともカメラで映したでしょう?
「やっぱりかぁ、やっぱりソレですかぁ……。できることなら統括本部長の名前を濫用してでも永久に封印したいくらいなの、触れないで貰えると嬉しいです、はい……」
「それは残念。ご要望とあらば胸の奥に仕舞うとしましょう」
耳から伝って心臓を鷲掴みにする美声の持ち主であり、
手渡された名刺には
渉外部とは読んで字の如く外部との交渉を担う部門だ。必要に応じて全国のどこにでも飛び出せるよう常に背広を着込んでいるのだろう。デスクの横にはアタッシュケースまで置かれており、直立不動の佇まいなどさながら
事実、紳士然とした物腰とは裏腹の曲者なのだろうとキリサメは感じている。見る者の心を掴んで離さない笑顔を浮かべながらも瞳の奥で何を考えているのか、全くといって良いほど読めないのだ。
ここまで腹の底が計り知れないのは
キリサメは自然と背筋が伸びていた。エアコンの故障を疑うほどに空気が淀み切ったオフィスではあるものの、ここはやはり日本MMAの筆頭たる『
「折角だから我らが仲間たちを一人ずつ紹介したいところですが、ここはスケジュールが詰まっている社長を優先してあげましょうか――」
一切の指示に逆らえなくなるような美声でもって案内されたのは、不可思議なオフィスで最も目を引く空間であった。
擦りガラスで仕切られた小部屋である。ドアには『社長室兼応接室』と記されたプラスチック製のプレートが貼り付けてあり、キリサメたちはそこに通された。
囲いの内側には来客を迎え入れる為のガラステーブルと、これを挟む形で革張りのソファが設えられている。液晶テレビの真隣へ置かれた本棚には月刊の
囲いの中でも一番奥まった場所に
「士道不覚悟は切腹」なる物々しい文言が大書された掛け軸と木製の台座に差し込まれた大小一揃いの日本刀、そして、『
「よォ、おいでなすったな」
柴門と同じ五〇代半ばくらいであろうか。埃一つ付着していないシャドーストライプの背広を着こなし、髪の毛も綺麗に整えてある彼とは正反対に腕まくりしたワイシャツもサスペンダーで吊ったスラックスもくたびれて皺くちゃになっている。
大きく禿げ上がった
立ち居振る舞いの全てが見る者の心を掴む柴門に対し、オフィス内の淀んだ空気を塊にして中年男性の形へ
キリサメが渋谷の本社に樋口を訪ねた理由はただ一つ――『
『
それ程の覚悟で対面に臨んだキリサメにとって、差し向かいに腰掛けた樋口の
「――おう、その意気や良し! これからよろしくな、アマカザリ君!」
ワイドショーというよりも銭坪の下劣な独演会を観終えた
体力測定どころか、面接試験すらなかったのだ。さすがにこの筋運びは拍子抜けというものであり、キリサメは口を開け広げたまま固まってしまった。
日雇いのアルバイトでも、もう少し畏まって話すだろう。右隣に座った未稲も唖然呆然と固まっており、得意満面といった調子で腕組みしているのは左隣の岳だけである。
「おいおい、どうした? 間抜け面しちまって。何か不満でも――あ、ファイトマネーのことかい? マッチメイクだって始まっちゃいないんだから、今日のところはおカネの話は抜きにしようよ。小遣いなら岳ちゃんにねだっとくれ」
「人をケチンボみたいに言うなよ。毎月、ちゃ~んとあげてるって!」
「
「やもめ暮らしが親子の
「バツ印はお互い様だろ、甲斐性ナシめ」
社長という立場にも関わらず、樋口は岳と砕けた調子で笑い合っている。統括本部長という肩書きを背負っているのだから当然かも知れないが、『サムライ・アスレチックス』と岳は本当に長い付き合いのようである。
今日もワイシャツに薄手の陣羽織を合わせているのだが、誰一人としてそのことに驚いてはいなかった。社長から
「あの――彼は別に即物的な話をしたいんじゃないと思いますよ。プロテストとかトライアウトみたいなコトもなく即採用になったから戸惑ったんじゃないかなって」
呆然と固まり続けるキリサメに代わって、彼が思っていることを未稲が代弁していく。
プロテストもトライアウトも〝適性検査〟という点に
それを確認しないことには選手登録などできようはずもなかった。幾ら安全性に配慮したルールに則っているとはいえ、
それなのに樋口は「ないない、ンなもんないよ」と、素人にも不可欠であろうと分かる審査を簡単に否定してしまった。
「リングに上がったら誰もがプロで誰もが平等だよ――っていうのは建前でな、ご覧の通り、『サムライ・アスレチックス』は少数精鋭でやってるからトライアウトみたいなコトまで手ェ回んないんだよ」
「会場設営だって大会ごとにバイト使って動かしてるしな。毎度、東京から駆け付けてくれるフリーターもいるけど、そーゆー人にばっかり頼っちゃいられねぇし、基本的には自転車操業丸出しだよ。このレベルの人手不足なんて、ぶっちゃけ会社として有り得ねェ」
岳が言い添えた説明によれば
これもまた地域振興の一環であるらしいが、統括本部長が自らの口で「人材不足による自転車操業」と言い切るほどなのだから、企業としては構造的欠陥にも等しいだろう。
「まさか、そんな理由で……」
「あんまり明け透けに言わねないで、『目を見て強さを見抜いた』とか何とか、尤もらしい雰囲気にしとけばよかったかなぁ。第一印象、最悪になったかい?」
適性検査を行わない理由が余りにも
あれだけルールを細かく定めている『
「まぁまぁ、そう思い詰めんなって。スカウトで『
「……俺たち主催側にできるのはキミら選手を信じて送り出すだけってコト。どこそこの格闘大会に出場した経験があるとかどーとか、
「僕の場合はどうなるんでしょう? 自分で希望したんですから何らかの試験があるんだろうって思っていました。こっちもそのつもりだったし……」
「岳ちゃんの推薦って扱いが落としどころかなァ。俺に言わせりゃ、それがベストだよ。あの八雲岳の秘蔵っ子ってな宣伝でも打てば世間はすんなり受け入れてくれるモンさ」
樋口の語った広報戦略に理解が及ばず、何とも
父のMMA活動をサポートしている未稲とはいえ、選手契約の場に立ち合うのは今回が初めてである。だからこそ審査を軽んじる『サムライ・アスレチックス』の体制へ疑念を抱かずにはいられなかったのだ。
彼女はキリサメの身に宿った喧嘩殺法の凄まじさを目の当たりにしており、『
格闘技経験そのものを持たず、実力が全く測れない人間をMMAのリングへ上げることに不安はないのだろうか。
「……『八雲岳の秘蔵っ子』――か。まさか、もう一度、そんな呼び方を耳にするとは思わなかったけどね……」
柴門の隣に立ち、樋口の話を黙って聞いていた麦泉はこの場の誰よりも複雑そうな表情を浮かべている。むしろ、「顔を歪めた」と表すほうが正確かも知れない。
前例を
「お前らの仲良くなった希更・バロッサに声掛けたときだってテストはなかったんだぜ。向こうも自信満々で即決って感じだったしよ」
「彼女も友人の――『
「そして、『
懊悩の二字を顔面に貼り付けたような麦泉を気遣わしげに見守る柴門だが、スポーツプロモート企業としての方針は樋口と共有しており、
「ほらな? キリーも難しいコト考えねぇで、ラッキーって思っときゃイイんだって」
「……そんなものでしょうか」
岳に答えながらキリサメは自分もまた希更・バロッサと同じ『客寄せパンダ』のように扱われるのだろうと考えていた。無論、それでも構わない。
「……キリサメ君は最年少選手ということになるんだね。年齢のことでMMA日本協会が騒ぎそうだけど……」
「それを口実に審判団云々と内政干渉してきそうだが、
「
樋口から返された
そして、その事実は麦泉にとって一等苦いものであったらしい。
「――ンま、試合の放送時間とか細かいところは
「前途ある若者の為に力を尽くす仕事は喜びも一入ですよ」
「ですが、柴門さん――いえ、社長。……これはそんなに単純な話じゃありません。成人前の子どもを選手として登用する
依然として複雑そうな表情を浮かべ続ける麦泉は、キリサメのMMA参戦について諸手を挙げて賛成することはできないと改めて繰り返した。
麦泉の心情とは裏腹に『最年少選手』なる触れ込みは『八雲岳の秘蔵っ子』と同じくらい耳目を集めそうである。『客寄せパンダ』としての宣伝効果も抜群だろう。
「これからいよいよガツンと盛り上げなきゃいけない時期なんだ。『
麦泉の心情を察したのか、それとも部下の気持ちを蔑ろにして自分の考えだけを優先させているのか、樋口は「今こそ一丸になろう!」と軽々しく言い放った。
「絶対王者――ゴーザフォス・シーグルズルソンの帰還が間近に迫っているんだ。お膳立てを万全に整えてやらないとゴーザフォス本人は勿論、ファンが納得しないからな!」
「ゴーザ……? やたら強そうな名前ですね」
樋口の語った『ゴーザフォス』という名前にキリサメは聞き
「我が『
「確かヨーロッパのほうの海賊……ですよね」
「そう、そのヴァイキングの末裔なんだよ、シーグルズルソンはね。デカい船で乗り付けていって暴れ回った海賊の遺伝子ってヤツか? これがもうバカみたいに強いんだよ」
樋口から語られる『
『
貧民街で研ぎ澄ませてきた感覚が、今、新たな戦場に反応しているのだった。
「ヴァイキングの末裔なんて、それだけでも手強そうですね。……ゴーザフォス・シーグルズルソン――か……」
「実際に化け物レベルなんだ。オレも何回か対戦したけど、情けねぇ話、一度も勝ったことがねぇ。苦戦はさせられても最後まで詰め切れなくてよ」
「岳氏が? まさか、そんな……」
「元々――ってゆーか、今でもそっちのほうが本職なんだろうけど、ゴーザフォスは『グリマ』の研究者なんだよ」
ゴーザフォスを『
「コレがまた厄介なんだわ。ネットで調べたくらいしかオレも知識がねぇんだけど、このグリマ、ヴァイキングの時代にも盛んだったってハナシでな。
「敢えてスポーツのほうを引き合いに出したということは……」
「おう。『
ゴーザフォス・シーグルズルソンの姿を見たことがなく、彼が極めたというヴァイキングのレスリング――グリマについても詳しくないキリサメだが、岳でも勝てない相手と聞いたことで〝絶対王者〟の脅威を現実のものとして感じられた。
『
「岳ちゃんが『
「まだまだ! ま~だまだ
「その前にタファレルとの
『
あろうことか日本MMAの先駆者を老いぼれ呼ばわりし、現在の『
絶対王者たる『
麦泉の補足説明によれば今まで両者の対戦が成立しなかったことには、やむにやまれぬ事情があったそうだ。
かつて日本には『バイオスピリッツ』という格闘技団体が存在した。一九九〇年代から二〇〇〇年代半ばまで日本に空前のMMAブームをもたらした『
『
樋口の話によると『バイオスピリッツ』初代王者にして、岳の前に統括本部長を務めていた選手もシーグルズルソンの前に撃破されたという。
それ以来、『
シーグルズルソンには『
人気の低迷に伴って『バイオスピリッツ』が解散された
『バイオスピリッツ』を観て育ち、『
そして、去年――ようやくマッチメイクが成立しかけたが、折悪くゴーザフォスの家族に不幸があり、対戦が予定されていた興行と合わせて二大会の参加を辞退したのである。
皮肉な筋運びだが、絶対王者不在という穴を埋める大役がレオニダスへ委ねられることになり、これによって彼はスーパースターへの階段を駆け上がった次第である。
それだけにレオニダスはシーグルズルソンを倒さなければならなかった。常に自分の先を歩いていた『
そして、止まっていた時間がついに動き出す。『
しかし、復帰戦の相手はレオニダスではなかった。
別の選手との一戦を通じてゴーザフォスに
誰もが待ち望んだ
それは柴門とて同じであり、だからこそ社長の意向を尊重しているのだ。
地方振興の理念から『
『
柴門の提案を受けて樋口は開会式の演出にヴァイキングの海賊船を取り入れることを閃いた。東北の海から着想を得たわけだ。その設計図が今まさに机上に広げてある。
成功にかける熱意が少しばかり空回りしているようにも思えるが、全てはファンの望む
「ライバルってヤツですか。……でも、追う側と追われる側じゃ対等な立場とも言えないのか。じゃあ、的外れな例えだったかな……」
ゴーザフォスとレオニダスの因縁を麦泉から聞かされたキリサメは、思わず小首を傾げたくなった。
岳に対して憤りをぶつけるチョルモンにも首を傾げたのだが、リングの内外で人間関係が交錯する状況は彼にとって理解に苦しむものであった。
試合終了後、互いの健闘を称え合うという選手たちの慣れ合いには違和感を覚えたものだが、ただリングの上で殴り合い、勝ち負けを競うだけでは済まないようなのだ。
闘いの場に人間同士の結び付きが持ち込まれることをキリサメは煩わしいとしか思えなかった。
「『
『
『
「一〇年以上、MMAの世界に居座ってんだよ、この絶対王者は。しかも、今日まで黒星も殆どナシ。強さってのは〝飽き〟と表裏一体でね。……そろそろ古狸に退いて貰わないと後が
ゴーザフォスのことを露骨に邪魔者呼ばわりした樋口は、つぶらな瞳に妖気と
『サムライ・アスレチックス』代表取締役社長という肩書きを持つ樋口であるが、前職は格闘技雑誌『パンチアウト・マガジン』の編集長であり、MMAの世界に
マッチメイクを取り仕切る立場からゴーザフォスの独走状態を捉えた樋口は、これをMMAという〝業界〟の停滞と感じているようだ。
「この間の長野大会、アマカザリ君もリングサイド齧り付きで観戦したんだろう? そのときに何か感じなかったかい?」
「何かと言われても、何でしょう」
「ベテラン選手の多さだよ。新陳代謝の悪そうなおっさんばっかりが顔揃えていて、息苦しかったんじゃないかな」
樋口から具体例を挙げられてキリサメは納得したように頷き返した。
確かに『
「キリサメ君は聞いたこともないと思うけど――『
「私の場合は
当時から渉外担当であったという柴門の説明によれば、『バイオスピリッツ』の
首都圏を軸に据えている点が〝旅興行〟である『
「ベテラン選手が多いから試合も良い意味で安定してるし! 応援してくれるみんなも嬉しいと思うぜ? 『往年の選手が今も頑張ってる姿に勇気づけられる』って
「選手の高齢化ってのは格闘技イベントにとっちゃ致命的だよ」
ベテラン層の厚さについて、まるで宝物を披露するかのように熱弁し続ける岳に対し、樋口は
「あの『
「……社長、これから『
「違うぜ、文多ちゃん。『これから』だから、敢えて言っておくんじゃないか」
身を乗り出した樋口は、期待の大きさを伝えようとキリサメの肩を強く叩いた。
「ようやくタファレルが育ってきたくらいで若手はまだまだパンチが足りねぇ。ベテラン組のせいで『
「これまで『
またしても
「そこでアマカザリ君やバロッサ君みたいに若くてイキのいい子に現状をブチ破ってもらいたいんだ。……安定感? 違う違う、『こいつは何をやらかすのか分からない』っていうスリルが格闘技の醍醐味なんだからよ。ジャイアントキリング上等さ」
「なぁ、岳ちゃん」と同意を得ようとする樋口であったが、それは日本MMAの先駆者に対する最大限の厭味であろう。さしもの岳もそっぽを向いてしまった。
樋口以外の人間が居た堪れなくなるような空気が垂れ込めたところで、社長室兼応接室のドアがノックされた。
社長の返事を待って入室してきたのは、思わず見惚れてしまうような美女である。
自己主張の強い肉体をパンツスーツに包み、書類の束が収納されたファイルを脇に抱える姿はキャリアウーマンを絵に描いたようでもある。歩を進める度に揺れる絹糸のような黒髪は臀部に掛かって煽情的な趣を醸し出していた。
『サムライ・アスレチックス』の
(……日系人か? いや、……違う?
「……男の子ってコレだからイヤだよ……」
女性を凝視したことで妙な誤解を与えたと思ったキリサメは、未稲の両肩に手を添えながら「他の女に関心なんかないよ」と釈明した。これはこれで相手を勘違いさせてしまう言葉であるが、当人は未稲の顔が真っ赤に染まったことにも気付いていない。
「天然スケコマシ……」という呟きすら彼の耳には入っていないだろう。
「あるぇ~? こんな
その女性は『サムライ・アスレチックス』と深い繋がりのある岳でさえ初対面だった。
にわかに張り詰めた空気を切り替えるべく敢えておどけた調子で岳が訊ねると、樋口は何とも例えようのない薄笑いを浮かべた。
社長の肩書に似つかわしくない態度を戒めようというのか、それとも別の思惑でもあるのか、柴門は一等冷たい眼光を樋口に浴びせた。
これに気付いた樋口は何とも気まずそうな咳払いを挟んだ。
「まだ紹介してなかったっけ?
樋口より語られた日米合同大会の
日本人のようで、どこか違って見える不思議な面立ちと
日野目一二三という名前を聞く限り、イズリアルと違って純粋な日本人に間違いないだろう。だからこそキリサメの
「社長秘書だぁ~? エロビデオのタイトルにありそうなモン、雇いやがって~!」
「センパイ、そういう発言はセクハラですよ。……未稲ちゃんだっているのに……」
「つーか、お前から言ってやれよ、文多。『社長好みのべっぴんさんですネ』ってな!」
老残の身のように扱われた仕返しとばかりに「見ろよ、鼻の下が伸びてら」と冷やかす岳だったが、当の樋口は日野目から渡された書類に目を通した途端、表情を一変させた。
只ならぬ気配を感じ取った一同が表情を引き締めていると、樋口は手に持っていた書類を岳のほうへと差し向け、次いでキリサメの顔を覗き込んだ。
「アマカザリ君さ、ちょっと小遣い稼ぎしてみないか? ……次の興行でさ」
「――ど、どういうコトだよ、こりゃあ……」
岳の口から
「どうしたんですか、センパイ? ……あの、社長、何が一体……」
「冗談じゃないぜ、文多! お見舞いのフルーツ盛り合わせを手配してくれ、公任!」
「簡単に仰いますが、贈答品にも相手に合わせた等級がありますので、どの程度の品が必要なのか、まず指定して頂きましょう」
「先に手配しなくちゃならないのは補欠選手だろう、岳ちゃん。だから、アマカザリ君に声掛けたんだ。……ビェールクト・ヴォズネセンスキーが道場破りに壊されちまったよ」
「道じょ――はいィ⁉」
岳の手より奪い取った書類に目を通した麦泉は、そのまま膝から崩れ落ちてしまった。
慌てて駆け寄る柴門だったが、体調を訊ねることさえ
「ビェールクト・ヴォズネセンスキーって、あのコマンドサンボの……?」
未稲が口にし、岳と樋口が同時に頷いたヴォズネセンスキーとは次回のマッチメイクが決定したばかりの『
城渡マッチが『サムライ・アスレチックス』の本社に呼び出されたのは首都圏の桜が散り際を迎えようとしている頃である。
目的のオフィスビルへと向かう桜並木の坂道を彼は不機嫌そうに肩を揺すらせながら闊歩していた。上体を大きく前方に折り曲げ、誰彼構わずに睨み付ける姿は巷に溢れる不良学生と全く変わらない。
ヒサシのように前方へ突き出したリーゼント頭は、非行に走る少年少女と同じく社会への反骨精神を形にしたものであろう。凶暴性が高いトレードマークには先程から桜の花びらが風に乗って纏わり付いており、城渡はこれを一枚ずつ腹立たしげに剥がしている。
ある意味に
数年の内には四〇代に手が届いてしまう。妻帯者でもある。そのような年齢の人間に相応しい態度とは言い難いわけだ。
三〇代後半にして暴走族チームの総長を現役で務めている為か、気持ちだけは若いつもりであり、『
勿論、今日はリングの外なので服装も普段通りだ――が、所属団体の社長との面談に適している物とは言い難い。学ランの代わりに青いツナギを着込んでいるのだ。いわゆる、作業着であろうか、あちこちに黒い油汚れが飛び散っていた。
歩道のタイルを革靴で蹴り付けながら進む
アホウドリを
「いっそ『
城渡は『サムライ・アスレチックス』から連絡を受けて以来、同じ調子で
樋口の秘書を名乗る女性の話によれば、次回の興行で対戦するはずであったロシア人選手がジムを訪れた道場破りに惨敗し、全治三ヶ月もの重傷を負わされたというのである。
ついては別の選手と対戦カードを組み直すので相手側と面談して欲しい――それが『サムライ・アスレチックス』の要請であった。
これほど人を馬鹿にした話などなかろう。憤激した城渡は当初の対戦予定であった選手の容体を確かめることもなかった。試合を控えた身でありながら軽々に道場破りと立ち合い、あまつさえ故障させられてしまうとは同じ〝戦士〟として情けなかった。
彼が怒りを向けるのは、対戦カードを台無しにした道場破りでも、補欠選手を宛がおうとする『サムライ・アスレチックス』でもなく、一番の被害者であろうロシア人選手のほうであったのだ。
瞬間的に逆上した城渡は電話口に向かって理不尽にも怒鳴り散らしてしまったのだ。
試合でセコンドを務める長年の親友――
紙箱の表面に刷り込まれた『がんじゅ~い』という
謝罪の品であれば菓子折りを用意するのが定番だが、テレビ番組で大々的に紹介されるほど人気を博している
普通は長時間も並んでようやく買い求められる品だが、フードトラックを運転して都内各所を巡っている店主とは城渡も二本松も古馴染みであり、下拵えを行う調理場で焼き立てを用意して貰ったのだ。
スイーツ系の『チンビン』とスナック系の『ポーポー』両方が箱の中にぎっしりと詰まっている。これもまた誠意の形であった。
「社長の秘書で間違いないんだな、
「頭なんか下げられっかよ! 大体、オレを舐めてるのは向こうじゃねーか⁉」
「そんな言い逃れは通用せんぞ。今度のことはお前のほうが絶対に間違っている。スジが通らない話はお前が一番嫌いなコトじゃないか。雅彦、そうだろう?」
「だ、だけどよォ……」
リングネームではなく『雅彦』と本名で城渡のことを呼び、その短気を宥めるのもセコンドの務めであった。彼の荒っぽい性格を熟知している二本松はどちらの側に非があったのか、理詰めで諭していった。
二本松は城渡が率いる暴走族チームに
事実、二本松に窘められて野卑そのものであった態度を徐々に緩めていた。
「でもよぉ、樋口のおっさんから軽く見られてるっつーのは事実じゃねーか。新人にオレの相手をさせるとか言ってやがったぜ」
「次がMMAデビューだったな。詳細は面談のときに話すということだが……」
「……まさか、この間のアイドルみてェなヤツ、掴まされるんじゃねェだろうな。そんときゃ速攻で帰るぜ!」
「今回は事情が事情だ。代理だって急遽決まったんだろう。お前には不本意かもしれないが、相手は仮にも『
「舎弟の面倒見るだけでも忙しいんだぜ、オレ」
「そう言いながら、何だかんだいって面倒見良いじゃないか、お前は」
「……ンなことはねェよ」
リーゼント頭の先端を指先で
数日前――第一二回興行の模様が
「体力・気力ともに最低まで落ち込んだ〝不良債権〟をお情けで抱え続ける『
それは城渡にとって禁句だった。年齢による力の衰えを一番に実感しているのは他ならぬ彼自身なのだ。そして、連敗続きという現実から目を逸らすことは許されなかった。
常に意識し続けている〝引退〟の二字を他人から――よりにもよって銭坪から突き付けられて心穏やかでいられるはずもあるまい。
城渡はやり場のない苛立ちを持て余していた。しかし、それでも己自身のことである。どれほど腹が立っても銭坪の暴言も一つの事実として堪えることができた。
危険なのは本人ではなく、むしろ舎弟たちのほうであった。城渡が率いる湘南の暴走族チーム――『
親兄弟以上に城渡総長を慕う舎弟たちには、彼の名誉を傷付けられることが何よりも許せないのである。
長野興行の直後には動画配信サイトで活動するMMA解説の〝キャラクター〟――『
それから間を置かず『
城渡は冗談めかして話していたが、彼が命じれば『
最も激しく怒り狂っているのは、先程も城渡が触れた『御剣』という青年だった。
額に鋭角な剃り込みの入った金髪のパンチパーマを掻き毟り、次いで「新人野郎が総長の相手に相応しいかどうか、オレが確かめてやりますよ!」などと喚きながらV
首都圏でも特に荒んでいると噂される
「総長に恥を掻かせたクソカスどもをこのままにしといて良いンスか? いいや、良いワケあってたまっかよ! 『
銭坪の闇討ちを最後まで主張していたのも、
今朝も『サムライ・アスレチックス』の本社まで同行して樋口を一発殴ってやると気炎を上げていたのだ。城渡から叱り飛ばされて学校へ向かったはずだが、密かに
総長の期待に応えたいと逸る余り、所属チーム内でさえ問題児扱いされてしまう彼は、放っておくと何を仕出かすのか、全く分からないのである。
一年生と三年生のときにそれぞれ一度ずつ留年している為、今年で成人式を迎える年齢でありながら現在も高校生という『御剣』はひたすらに猪突猛進であった。その上、何事も腕力で解決しようとする短絡的な思考回路の持ち主なのだ。
幾ら腹に据え兼ねることがあるとはいえ、『
暴走としか
城渡マッチは湘南海岸に面した場所でバイク店を経営している。『御剣』はそこで住み込みのアルバイトをしながら高校へ通っているのだ。
本名を
何しろ城渡が卒業した
恭路くらい後先を考えずに突き進むことができたなら、どれだけ気持ちが楽になるだろうかと二本松は肩を竦めた。
人はいつまでも無頼を気取ってはいられない。二本松もまた潮時という二字を強く意識していた。
右手に携えた沖縄クレープは古馴染みが作り上げたものである。
フードトラックで移動販売を行っている店主は『
現役引退後は生まれ故郷である沖縄の
MMAという文化が日本から途絶えていた空白期間に格闘技とは別の事業に転向し、最も成功した人物といっても過言ではあるまい。
MMAの最前線で命を張っていた時代と比べて贅肉が豊かになった姿は、リングを去った後の在り方を城渡に示していた。
そして、それが間近に迫っていることを厭でも二本松に意識させるのだ。
城渡は既にバイク店経営という基盤を確立しているので、そこに収まる以外の選択肢もないだろう。二人三脚でMMA人生を闘ってきた相棒として〝その瞬間〟を最良の形で迎えさせてやりたかった。
ふと見上げた桜の木は花見の季節を終えて殆ど散り掛けており、新たな
それでも二本松は相応の対戦相手が相棒に用意されるだろうと信じていた。
何しろ今回は不測の事態による仕切り直しなのだ。加えて、城渡マッチという男は前身の時代から日本MMAに貢献してきたベテランでもある。
危険行為を除いてあらゆる
道場破りにやられてしまったとはいえ、当初の対戦相手であったビェールクト・ヴォズネセンスキーもスター選手の一人なのである。コマンドサンボをベースにした戦術を駆使し、『
それほどの選手の代理である。MMA初参戦の新人とはいえども、他の格闘技大会の連覇といった経歴の持ち主が選ばれなくてはおかしかった。
それならば日本MMAの
だから、社長室兼応接室のソファに座るキリサメを見つけても、最初は職場体験に訪れた高校生か、大学を卒業したばかりの新入社員としか思わず、気にも留めなかったのだ。
ところが、少年の隣には統括本部長の八雲岳が腰掛けている。傍らには麦泉文多も控えている。
そこで城渡と二本松は樋口の秘書から電話で伝えられたことを想い出した。ヴォズネセンスキーの代理を務める選手は『八雲岳の秘蔵っ子』だというのだ。
ようやく自分に宛がわれた選手の正体を悟った城渡は二本松が抑える前に「人を舐めるのも大概にしとけや、コラァッ!」と逆上した。
「こいつは何の冗談だ⁉ 秘蔵っ子ぉ⁉ 親戚のお子さんの間違いじゃねーのかァ⁉ こんなガキをオレにぶつけようってのか⁉ あァん⁉」
自身のデスクに腰掛けている樋口に向かって城渡はあらん限りの怒号を浴びせた。彼の傍らには秘書の日野目も控えているのだが、この時点で謝罪の沖縄クレープなど頭から完全に抜け落ちていた。
ヴォズネセンスキーの代理として不相応どころか、格闘技の経験もないように見える子どもを相手に闘おうものなら、世間の笑い物になるだけだろう。銭坪には「弱過ぎて試合をしてくれる選手がいなくなった」と嘲笑されるに決まっている。
そればかりは城渡のプライドが許さなかった。どうあっても折り合いが付けられそうにない屈辱的なマッチメイクであった。
同じ暴走族の仲間から『狂犬』などと恐れられる御剣恭路がこの場に居合わせたなら、
この筋運びには二本松とて頭に血が上りそうなのだ。しかし、自分まで怒りを露にすれば相棒はいよいよ歯止めが利かなくなるだろう。それだけは絶対に避けなければならないと必死になって堪えているのだ。
本音を言えば、樋口の身を仰向け状態で肩に担ぎ、弓なりに反らせて背骨を圧し折りたいくらいだった。
「いきなりガン飛ばしはナシにしようぜ、マッチ。キリーの実力はオレが保障するって。こいつ、こう見えてスゲェんだからよ!」
「身贔屓で語られたって何の説得力もねーんだよッ! あんたはすっこんでろ!」
怒り狂う城渡を窘めようとする岳であったが、取り付く島もない。
「つーか、てめーもッ! ボケ~ッとしてねぇで言い返してこいや、クソガキィッ! そういうスカした態度が一番、ナメてんだよッ!」
「舐めるも何も、僕だって困ってるんですよ、こんなことになって……」
城渡の口から飛び散る唾へ迷惑そうに顔を顰めたキリサメは、密かに電知のことを想い出していた。『コンデ・コマ式の柔道』を標榜する少年も目の前の男性と同じような調子で口汚く喚いていたはずだ。
キリサメとて無感情に
さしもの岳もこれには面食らってしまった。彼が最初に考えていた構想では数回先の興行から
しかし、ビェールクト・ヴォズネセンスキーの故障によってそれらも全て吹き飛んだ。
彼は次の興行に
準備期間の短さに目眩を覚えたキリサメではあるものの、これから世話になる樋口から拝み倒されては承諾せざるを得なかった。
「無理は承知で依頼したんだからマッチメイクは責任を持って自分が取りまとめる。悪いようにはしないから、任せておいてくれ」
このように樋口は断言したのだ。それにも関わらず、急に正反対のことを言い出した次第である。
電話越しに聞かされた説明によると、無名の
聞く耳を持たないといった剣幕で喚かれるようでは、マッチメイクどころか、話し合いすら難しいように思えた。
(……確かにまともな神経じゃやっていけそうにないな……)
初めて面会したときに樋口から掛けられた言葉を厭でも想い出す。どうやら『
樋口には最初から両陣営の仲立ちを行うつもりなどなかったとしかキリサメには考えられない。敢えて正面から双方を激突させ、その混乱へ乗じる形で事態を収拾させようと企んでいるに違いない。
強引としか表しようのない力業に巻き込まれたのだから、城渡が怒り狂うのも当然だ。
(……こんな人、見たことがない……)
策略や弁舌で人の心を動かそうとする狡猾な人間は
しかし、樋口のような形の豪腕は未だかつて会ったことがない。ともすれば無責任と紙一重なのだ。強いて挙げるなら亡き母が最も近いだろうか――さしものキリサメも畏れを抱かずにはいられなかった。
「とにかく座れ、雅彦。こちらの坊ちゃんも騙されて連れて来られたみたいだ。ここは社長の言い分を聞くだけ聞いてみよう。……大義名分があったほうが暴れ易いだろう?」
このままでは埒が明かないと判断した二本松は、城渡を無理矢理にソファへと押し込み、自分もその隣へ腰を下ろした。
城渡はキリサメと、二本松は岳と、それぞれ向かい合う恰好である。
柴門は奥州市まで出張している為に今日は同席していない。未稲もまた外せない約束があって欠席である。新しく仲間入りしたプレイヤーの歓迎会をネットゲームの世界にて開催するのだが、その幹事を引き受けてしまって色々と忙しいそうだ。
選手契約と同じくらい重大な日にも関わらず、
これは他の誰でもない自分自身の〝闘い〟なのだ。例え未稲が傍らに居てくれなくとも己の
「まずはこいつを見てくれ。そこからでないと話も始められない」
二本松の機転によって面談の場が整ったと認めた樋口は、おもむろに自分のデスクから立ち上がり、両陣営の間に設置されたガラステーブルへ書類の束を置いた。
「あァんッ⁉ クソガキの履歴書なんざ見たくもねェッ!」
「ヴォズネセンスキーをやっちまったヤツの情報だよ。ウチはロシアに支社なんかねぇからツテを使ってな。調べられるだけ調べてみたんだよ」
「ツテっつーか、オレの師匠だろ~が。老体にムチャさせんなっつーの」
正面の城渡から睨み据えられているような状況では尋ねることもままならないが、岳の語った『師匠』とは、彼に忍術の極意を授けた人物なのであろうか。忍者だけに現代でも隠密のような仕事をこなすのだろうか。
キリサメが伝え聞いた忍者とは戦乱の世で諜報活動を遂行していたはずだ。
「師匠も随分と骨折ってくれたよ。読んでおくだけの値打ちはあると思うぜ」
そういう岳も、隣の席で忍者に思いを馳せているキリサメも机上の資料には先んじて目を通していた。
欧米の武道場やジムに何の前触れもなく現れては看板選手に勝負を挑んでいる。
『
鋭く激しい打撃で動きを封じ、アクロバティックな投げ技や関節技で勝負を決める。
相手を倒した後、金銭や看板を要求することはない。
純粋な腕試しを目的として世界巡業めいたことをしているように思われる。
彼が道場を襲来するようになったのは、ここ一、二年のこと。
これらが
「……日本人なのですか?」
書類に添えられた一枚の写真を手に取った二本松は、眉間に皺を寄せつつ首を捻っている。爆煌丸という日本風の名前は、おそらくリングネームのような
黒い胴衣は下のみを穿き、そこに帯を締めているのだが、剥き出しの上半身はボディービルダーもかくやと思われるほどに逞しい。胸や肩の筋肉などは異常で
栗色の髪の毛は坊主刈り。そこに締めた鉢巻は眉間の部分に怒れる鬼の顔が染め抜かれている。彫りが深い顔は不気味なほどに涼しげであった。
「写真で見る感じだとそれっぽく見えるんだが、流暢な英語を話したそうだし、東洋系ってこと以外は判別しにくいようだ。……向こうの事務局は認めなかったが、どうやら『NSB』の選手も何人か壊されているそうだよ」
「……シリアルキラーみたいな男ですね――」
樋口による説明を受けて、二本松は低く呻いた。腕試しが目的とはいえ、世界各地の道場あるいはジムを荒らし回るなど異常な執念と言えなくもないのだ。
「――いや、これと似た人物が他にも居たな。確かそう……『アップルシード』だ。世界中のあちこちで腕試しをしているって
「正確には昔の勤め先だよ。今でも仲良く付き合っちゃいるがね」
同じように荒唐無稽な話を二本松は
『アップルシード』と呼ばれる流浪のストリートファイターが昨今の格闘技界を騒がせているのだが、ヴォズネセンスキーを撃墜した道場破りと
「……例の『アップルシード』と同一人物という可能性は?」
「そこら辺も師匠は探ってくれたみたいなんだけどよ、何しろ『アップルシード』自体が
「真田忍群の目を誤魔化すとは相手もやりますね」
「昔にゃ
マッチメイクの話し合いという本来の目的から横道に脱線している状態なのだが、突如として現われた謎の格闘家には二本松も興味を惹かれてならなかった。
「ときにキミたち、『ヨーロピアン柔術』って聞いたことがあるかい?」
「ねェよ、ンなのッ!」
「……『ブラジリアン』じゃなくて『ヨーロピアン』ですか? いえ、勉強不足で申し訳ないが、そんな柔術は一度も聞いたことがありませんね」
樋口が触れた『ヨーロピアン柔術』なる格闘技について、城渡は不機嫌そうにそっぽを向き、二本松は興味深げに話の続きを促した。
「ちょっと前に『パンチアウト・マガジン』でも取り上げたんだが――伝統派空手風の打撃にド派手な投げや組技を融合させたような格闘技なんだよ。名前の通りの
「師匠にも
「この写真は手掛かりにはならなかったのですか? かなりの証拠だと思いますが?」
二本松の質問に対して、岳と樋口は揃って首を横に振った。
「
「モグリの格闘家は別に珍しかねぇが、しゃかりき道場破りに励むくらいだから面が割れててもおかしくねぇんだけどな。本業の傍らになっちまうけど、もうちょい師匠も粘ってくれるみてぇだし、今は続報待ちって状況だな」
「その間にも被害者だけが増えていく――そういうわけですか……」
連続通り魔事件を追う刑事が捜査本部に集まり、自分たちの無力を嘆く――爆煌丸の正体について考え込む二本松たちの姿は刑事ドラマにありがちな光景を彷彿とさせた。
「ンなこたぁ、どーでもいいんだよ! 井戸端会議に酔ったワケじゃねぇんだ!」
格闘技談義に花を咲かせていた人々を順繰りに睨み付けた城渡はリーゼント頭を激しく震わせながら再び怒声を張り上げた。
「長々ダラダラとワケわかんねーコトを喋りやがって! 今の話がマッチメイクと何の関係があったんだ⁉ 剛までノッてんじゃねーよ! ビェールクトの野郎は弱ェから道場破りに負けた! それだけのコトだろーがッ! それで結論出てんだろーがよッ!」
我慢の限界に達した末の爆発だが、城渡の主張こそ正しいとキリサメも頷いている。
自分たちはマッチメイク成立の為に集まったのだ。ここは連続通り魔事件の捜査本部などではなく、『
「この青っ
やおらソファから立ち上がった城渡は、差し向かいのキリサメにも自分に続くよう顎で促した。
応じて立ち上がったキリサメの身体を城渡は頭頂から爪先まで凝視していく。
「この際、年齢のこたァ目ェ瞑ってやるぜ。……昔にもてめーと同じ
「……それなら、僕が出場しても問題ないんじゃありませんか?」
「ケッ――なんにも知らねェガキがここぞとばかりに抜かすんじゃねぇや。……性懲りもなく同じ〝過ち〟を繰り返そうとしてるウスラバカどもに呆れて物が言えねぇな」
城渡が言及したのは一〇年前に自分と同じ年齢でMMAデビューしたという『バイオスピリッツ』の選手のことであろう。〝子ども〟とのマッチメイクに難色を示すのは、どうやらプライドだけの理由ではなさそうである。
『最年少選手』の前例として挙げられた選手が何らかの災いに巻き込まれ、そのことが城渡の中で引っ掛かっているのだと、詳しい顛末を知らないキリサメにも察せられた。
「城渡さんの懸念は尤もですが、キリサメ君のことは『サムライ・アスレチックス』のほうでしっかりとサポートしますし、何より以前とは状況が――」
「――当たり前だ、このタコッ! マジで同じ失敗をやらかしやがったら、〝あいつ〟の為にもてめーらをブッ潰すッ!」
口を挟もうとする麦泉を一喝で黙らせた城渡は再び盛大に鼻を鳴らし、次いで「
「会社でサポートだとかほっざいてやがるがよォ、一人前になるまで下積みしてた〝あいつ〟とは気合いの入れ方が違うんじゃねーの? ……てめー、ちゃんと
「……いいえ」
「『八雲岳の秘蔵っ子』だけに特別待遇ってか。良いご身分だなッ!」
「僕も
「あァんッ⁉」
キリサメの返答に驚いた城渡は、次いで『サムライ・アスレチックス』の
「……背中に掛けられた物は『ダモクレスの剣』の代用と思っていたのですが、……どうやら見込み違いだったようですね。それとも灯台下暮らしというものですかな」
「二本松ちゃんはキツいなァ~」
「そうですか? これでもまだ抑えているほうですよ。……御社が伊達や酔狂で『サムライ』を名乗っているに過ぎないのであれば話は別ですがね」
厳寒地に吹き付ける夜風のほうがまだ温かく感じられる二本松の声が樋口を突き刺した
社長用のデスクの背後には台座に差し込まれた大小一揃いの日本刀が置かれ、その真上には「士道不覚悟は切腹」と大書された掛け軸がある。
今、この状況こそ掛け軸の文言に反しているのではないかと二本松は追及していた。
切腹とは武士にとって究極的な責任の取り方でもある。現代に
穏やかならざる空気を感じ取ったキリサメも「やっぱり問題だったんじゃないか」と心の中で呻くのだった。
「こうなってくると何もかもが怪しいな! 大体、このガキ、まともに殴り合いなんかできんのかよ? 如何にも〝お坊ちゃん〟ってなツラでボンヤリしてやがるぜ⁉」
「……体付きのことなら、今ここでシャツを脱げばよろしいでしょうか」
「バカがッ! ガタイの話じゃねえッ! タフかどうかっつー話だッ!」
城渡はツナギのポケットから紙巻きタバコの箱を引っ張り出し、口に銜えた一本に安物のライターで火を点けた。
『サムライ・アスレチックス』が所在するビルは全面禁煙となっている。例外は認められないといって止めようとする麦泉に紫煙を吹き付けて黙らせた城渡は、先端が赤く明滅する紙巻きタバコをキリサメに手渡した。
無理矢理に紙巻きタバコを押し付けられる形となったキリサメは城渡の意図が全く理解できず、ただ呆然と立ち尽くすのみである。
「……未成年ですから、こういう物は遠慮したいんですが……」
「吸えっつってんじゃねーんだよ! 根性を見せてみろってんだよッ!」
そういってツナギの袖を捲った城渡は黒い染みが焼き付いた腕をキリサメの眼前に
「てめーがマジにタフなヤツなら、火の熱さにだって耐えれるよなぁ⁉」
「ちょ、ちょっと待てよ、マッチ! キリーに『根性焼き』させようってのか⁉」
「これくらいも我慢できねぇような弱虫にオレの相手が務まるかよッ!」
城渡がキリサメに求めている
『根性焼き』とは火の付いた紙巻きタバコの先端を皮膚に押し当てて我慢強さを試すという危険な行為である。何秒間、熱さに耐えられるのかを競うわけだ。
かつては不良学生の間で盛んに行われた度胸試しの一つであり、城渡の腕に見られる斑模様は往時の痕跡というわけだ。
改めて
再生不可能なほどに重度化した火傷は、いわば過ちの烙印なのである。
「いい加減にしてください、城渡さん! あなたはキリサメ君に一生ものの傷を負わせるつもりですか⁉ その責任をあなたが取れるんですか⁉ 取れないでしょう! 彼はまだ
自分と同じリングに上がりたければ誰よりもタフである証拠を提示しろと城渡は言う。主張自体は何も間違ってはいないが、その手段として根性焼きを強要するのは暴挙以外の何物でもなく、普段は温厚な麦泉も双眸を血走らせながら食って掛かった。
今度ばかりは城渡から睨まれても怯まない。麦泉はキリサメの将来まで考えて反抗しているのだ。根性焼きの痕は消せない――そのことによって被る損害を思えば、何があっても阻止すべきであった。
それこそが子どもを見守る大人の務めなのだと麦泉は信じている。
「根性なんてモンは手前ェの勇気で示すもんであって、誰かに押し付けられるモンじゃない。そうじゃないのか、雅彦? 〝昔のこと〟を持ち出して正論かました気になってるみたいだが、今のお前はスジが通っちゃいないぜ」
「る、るせぇ! そもそもひん曲がってたスジを通す為にオレは心を鬼にしてだなぁ!」
当然、二本松も暴挙を阻止する側に回る。
相棒にまで反対されたことによって城渡当人も意固地となりつつあり、言い争いは押し問答の様相を呈していた。
「あっ――」
そのとき、社長の傍らに控えていた日野目が重大な事態に気付いたような声を上げた。
彼女が見据える先に視線を巡らせていくと、今まさにキリサメが自分の左腕に紙巻きタバコを押し当てようとしているではないか。
大人たちが押し合いへし合いを演じている間に城渡から突き付けられた
「バッ――何やってんだ、てめーッ⁉」
逸早く飛び出した城渡がキリサメの手から紙巻きタバコをもぎ取った。
「あっ、あがががががががががッ!」
余りにも慌てていた為に指先で弾いてしまった紙巻きタバコは、一度、天井近くまで吹き飛んだ
「親から貰った身体を粗末に扱うんじゃねェッ!」
思いも寄らない場所を火傷する羽目になった城渡は、
「根性焼きしろってアマカザリ君に言ったのはお前さんのほうだろ」
「オ、オレだってマジにやれなんて思ってねーよ! いわゆる一つの『チキン・ラン』みてーなってモンだ! ギリギリまで粘って根性見せたら、別にオレは……」
「チキン・ゲームのことか? それならそうと、先に言っといてやれよ」
樋口からの
彼らの言うチキン・ゲームも度胸試しの一種である。
特に城渡が考えていた『チキン・ラン』は危険度が高い。バイクや自動車に乗った競争者が互いに向かって疾走し、先にブレーキを掛けたほうが敗北という背筋が寒くなるようなルールなのだ。正面衝突を恐れてハンドルを切っても
ギリギリの一瞬で相手の根性を上回る――それができた者の勝ちという理屈だった。
二台で並走して壁や崖に突っ込んでいくパターンもある。この場合も勝利条件は同じであり、追突や落下といった生死を分ける一線を超えても敗北と見なされるのである。
尤も、本物のチキン・ランを強要されたところでキリサメは
それほどの決意を秘めて、城渡の前に立っているのである。
「誰に何と言われても僕は『
未稲との誓いを果たす為、期待を寄せてくれる岳や樋口へ報いる為――キリサメは覚悟を湛えた瞳でもって城渡を見据えていた。
自分を支えてくれる人たちへ恩を返す為ならば、肌に一生ものの火傷を負うことさえキリサメは怖くはなかった。
「……どっかの関西人と同じような
覚悟の強さが城渡にも伝わったのであろうか――暫く睨み合った
そして、残り火が燻る紙巻きタバコを右手でもって握り潰す。
「ビビッて逃げたら承知しねぇからな。それだけは忘れんなよ」
城渡の触れた関西人とやらが誰のことを指しているのかは判然としなかったが、照れ臭そうな声と、何となく居心地悪そうに肩を揺する
城渡の気持ちを察した二本松は垂直に握った右手をキリサメのほうに突き出し、「『次はリングで会おう』って意味さ」と、片目を瞑りつつ親指を立てて見せた。
樋口の仕打ちは言語道断だが、城渡が今度の対戦カードを受け
何よりも二本松自身、キリサメの真摯な態度を好ましく思い始めている。
自分たちの半分も生きていないだろうに目標へと
御剣恭路も
「よーしよしよしよしッ! これにてマッチメイク成立よォッ! 『
決然と立ち続けるキリサメと城渡の背中を交互に見比べながら、岳は
へそ曲がりで強情っ張りな城渡にキリサメ・アマカザリという男が認めて貰えた――そのことが養父にとって何よりも誇らしいのだ。
かくして『
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