第二章 ゲットセット

総合格闘家デビューへの道は一日にしてならず・オレ流修行編スタート!

その1:殺陣~ブルース・リーの拳

 一、殺陣たて


 アクション映画に限定されたことではないが、戦闘描写を含む映像・舞台作品に於いては、これを指導・監修する専門家が必ずといって良いほど参加している。

 日本では古くから時代劇や特撮作品が盛んであり、迫真の大立ち回りが目玉の一つとして取り上げられる場合も多い。古今東西の武術とその表現方法に精通した専門家が細かな所作などを役者や監督に指導し、臨場感溢れる名場面を作り上げていくのだ。

 役者の個性を見極め、彼らが秘めた能力を最大限に引き出し、一瞬の緊張を劇的に変化させることで本当に命のやり取りをしているかのようにのだった。

 こうした専門家が担当する領域は殺陣たてあるいはと呼ばれていた。

 『チャンバラ』という一つの美学が花開いた日本では殺陣の専門家は欠くべからざる存在であり、演劇の黎明期よりがれてきた技術を指南する道場も数多く開かれている。

 『華斗改メかとうあらため』という看板を掲げた殺陣道場が最も有名であろう。

 何しろ時代劇ファンの間では知らない人間がいないといわれるほどの名道場なのだ。殺陣の世界に於いて巨人と謳われる長谷はせがわだいぜんが主宰し、数え切れないほどの俳優が〝魅せる立ち回り〟の極意を学んでいた。

 ともすれば伝統芸能にも似た厳めしい印象が先行して若い世代からすると敷居が高いようにも感じられるのだが、『華斗改メかとうあらため』に限らず多くの道場は正規の練習生以外を対象とした体験会ワークショップを実施し、殺陣の世界を身近に感じて貰おうと努めている。

 ワークショップへの参加者は老若男女様々だった。本格的な殺陣を教わりたいと志願する人間ばかりではなく、例えば子どもたちは漫画やアニメに登場するけんかくや忍者になりきることができると大喜びであり、チャンバラの動きを取り入れたエクササイズなど健康志向の体験コースまで用意されているのだ。

 今日も『華斗改メかとうあらため』は演劇スタジオを借り切り、ワークショップを開催していた。

 指導を取り仕切るのは三〇歳を少しばかり超えた殺陣師、こんどうである。初めて殺陣に触れる人を対象とした体験コースということもあって参加者の殆どが一〇代だった。教える側も教わる側も、若い顔ぶればかりなのだ。

 近藤が講師を務めるのは今日が初めてではなく、年少者向けの指導も慣れている――そのはずであったが、現在いまは油が切れた機械のように一挙手一投足がぎこちなかった。

 死線を潜り抜けた剣豪の如く引き締まった顔面に不似合いな緊張まで滲ませている。

 一〇代の参加者が多いこともあって、スタジオ内には保護者も控えているのだが、どういうわけか、その中に日本MMAの第一人者たる八雲岳が混ざっていたのである。

 彼がMMAへ参加するよりも以前まえ――プロレス団体に属して繰り広げた異種格闘技戦を観て育ち、『超次元プロレス』に惚れ込んだ近藤にとっては雲上の人が突如として降臨したようなものなのだ。とても冷静ではいられなかった。

 毎週日曜日、一年間に亘って放送される大型連続時代劇には合戦シーンなどで危険な立ち回りを引き受けるスタントとして幾度も出演し、剣劇チャンバラの海外公演で大役を張ったこともある。場数を踏んで人並み以上の胆力を身に付けた近藤だったが、その自信は脆くも崩れ去ったわけである。

 一方の岳は若き殺陣師を驚愕させている自覚もなく、無精髭を生やした上にジャージ姿という緊張感の欠片もない出で立ちだった。

 勿論、背中に六文銭が刺繍された薄手の陣羽織をジャージの上から着込んでいる。はプロレス一本の時代からのトレードマークであり、戦国武将の如き姿に胸を焦がしてきた近藤をときめかせるには十分なのである。

 少しばかり時間を巻き戻した長野市松代でのこと――ペルーの貧民街で培った喧嘩殺法をもって『天叢雲アメノムラクモ』に出場したいと願い出たキリサメに対し、彼の潜在能力ポテンシャルに注目していた岳は「待ってました」といわんばかりに快諾した。

 さすがは現代を生きる忍者というべきか、そこからの行動は迅速だった。選手登録に必要な手続きを麦泉に託し、主催者の承認とデビュー戦のマッチメイクまで取り付けると、「我に策あり」といってキリサメを『華斗改メかとうあらため』のワークショップへいざなったのだ。

 つまるところ、今日の岳は他の保護者と同じ立場に過ぎないのである。

 多忙な養父に余計な手間を取らせては申し訳なく、キリサメは自分一人で参加するつもりだった。日本へ移り住んでからふたつき近く過ぎており、今では公共交通機関を使うことにも慣れた。何の支障もなく東京で暮らせるようになった証拠といえるだろう。

 だからこそ、キリサメはワークショップへの同行を固辞したのだが、結局は養子の才能が覚醒する瞬間を見逃したくないという岳本人に押し切られてしまった。

 今度のことは往年の銀幕スター、ばんどうつまさぶろうの主演映画から着想を得たそうだ。

 岳が観たのは大正時代に撮られた無声サイレント映画で、上映時間の大部分を主人公とこれを狙う襲撃者との剣劇が占めていた。当然ながら台詞は皆無に等しく、物語の展開は画面内の俳優たちから読み取るしかない。

 それにも関わらず、物語として必要な情報が全て正確に伝わってくるという。零落を余儀なくされる慟哭の表情かお、次々と襲い掛かってくる刺客を切り抜けなくてはならない決死の太刀筋、心身が削り取られて徐々に弱っていく身のこなし――主人公の不遇を伝説的なスターたちは見事に演じ切っていた。

 『天叢雲アメノムラクモ』のリングで闘う為に必要なことが剣劇スターの姿に詰まっているとまで岳は豪語していた。そして、これを現代に伝えるのが殺陣道場であるという。

 デビュー戦に向けて打ち込むべきはMMAのトレーニングであって剣劇の勉強ではないはずだが、そこまで養父ちちが熱弁するのだから間違いあるまい。キリサメは微かな疑問を振り捨てて首を頷かせた。

 この話を一緒に聞いていた未稲も即決でキリサメと同じ体験コースへ申し込んだ。


「うんうん、井の頭公園まで一人でスケッチに行けるようになったのは最初の頃に比べたら急成長だよ。下北沢シモキタ暮らしもバッチリだと思う。それでも、まだまだ心配が尽きないんだよね。例のワークショップは新宿だし、誰かが傍に付いてたほうが絶対安心だよ」


 このように尤もらしい理由を述べる未稲であったが、それが建前ということは家族の誰もが理解わかっている。

 ワークショップの広告には『殺陣によるエクササイズ効果』が明記されており、数日前に風呂場から聞こえてきた未稲の悲鳴と奇妙なくらい一致するのだった。彼女と入れ違いで脱衣場に入ったキリサメは置き去りにされた体重計を己の双眸で確認している。

 現在、未稲が最も熱中しているのは『エストスクール・オンライン』という仮想空間上の『学校』で様々な事件イベントを解決していく大規模多人数同時参加型RPGロールプレイングゲームである。

 未稲はそこで知り合った同好の士たちと〝ゲーミングサークル〟を組んでいた。読んで字の如く色々なゲームを楽しもうという趣旨のグループだ。

 そのオフ会が近々都内で開かれることになっており、贅肉が気になる肢体からだを少しでも引き締めておきたいというのが乙女の本音である。

 キリサメのことが心配という言葉も嘘ではない。新宿に所在する演劇スタジオへ足を運んでからも父の発案に納得しておらず、ことあるごとに疑問を口にしていた。


「キリくん、ホントに大丈夫なの? イヤならちゃんと言ったほうが良いよ。お父さん、思い込んだらどこまでも一直線だし。てゆーか、他にやっとくべきトレーニングがあるんじゃないかなぁ。試合が決まったからには一秒だって無駄にできないんだよ」

「そんなに心配しないで、みーちゃん。これは僕自身が決めたことなんだ。何かあっても責任は自分自身で取る。それに岳氏なら間違ったことはしないよ」

「……わたしにはお父さんのツケを払わされるキリくんの姿がえるようだよ……」


 当のキリサメから岳の判断を信じると宣言されてしまったのだから、もはや、未稲も不服を呑み込んで従うしかなかった。

 父のやり方に首を傾げる一方で、未稲はジャージを新調するほど気合いを入れてワークショップに臨んでいる。本当の目的ねらいも瞭然であろう。

 誰よりも念入りに柔軟体操をしていく姿にはキリサメも苦笑を禁じ得なかった。ときには日常生活よりも優先されてしまうネットゲームとその仲間ゲーミングサークルに複雑な気持ちを抱いていないわけではないが、己の身を削るほど趣味へ没入するところまで愛しく思えるのだ。

 そして、それは父娘がとても良く似ていることを意味していた。何事も大雑把な岳へ反発し続ける未稲にこそ彼の遺伝子を強く感じるわけである。


「今からでも遅くないから文多さんにちゃんとした練習メニュー組んで貰わない? MMA選手のマネジメントって、そういうのも業務しごとに入ってるし、文多さん、もとレスラーだからお父さんみたいな失敗はないと思うよ?」

「自分の父ちゃんがプロレスパンツ履いてることを忘れたんか? 何も始まっていねェ内から失敗って決め付けるのは感心しね~ぜ!」

「岳氏なら悪いことにはならないって、みーちゃんを見ていれば理解わかるんだけどな」

「なんで⁉ 私のどこを見てそんな結論になったの⁉ こんなボンクラ親父と同レベルにされるのはさすがに有り得ないよッ!」

「お前、そこは喜ぶトコだろ~。嬉しいコトを言ってくれるぜ、この孝行息子めがァ」

「マジでやめて! 年頃の女の子にはセクハラ発言以上の禁句だよッ!」


 周囲まわりを呆れさせるほど騒がしい〝家族〟から安らぎを受け取れるようになった自分がキリサメには妙に可笑しかった。



 体験コースはプログラムの説明や殺陣という仕事の基本的な解説などを挟んで殺陣師二人による実演から始まった。

 スタジオの片隅に控えていた三〇代半ばの講師が槍を脇に構えて近藤の前まで歩を進め、その穂先を彼に向けた。対する近藤は腰に白い帯を締めた上で鞘を差し込み、そこから一瞬で白刃を抜き放つ。

 スタジオの天井は高く、槍刀を振り回しても照明を壊すようなことはない。つまり、何の気兼ねもなく大きな動作うごきができるということだ。

 両者は互いの武器のリーチを測るかのように少しずつ間合いを詰め始めた。既に近藤はプロの表情かおであり、相手の槍を鋭く睨み据えている。

 近藤はうちがたなと呼ばれる物を、相対する男は両手で振り回し易い長さの槍を握っている。後者も腰に白い帯を巻き、そこに小刀を差していた。

 スタジオ内の空気も自然と張り詰めていく。今から本気で斬り合うのではないかと誰もが錯覚してしまうほど二人の気魄は凄まじいのだ。

 つかを握り直すや否や、一気に踏み込もうとする近藤であったが、その機先を制するように槍が繰り出された。

 二度、三度と連続して突き込まれてくる穂先を鍔元で弾いた近藤は白刃でもって槍の柄を押さえ、次いで己の手首を回転させた。この動作の中に巻き込む形で相手の得物を撥ね上げようというのだ。

 穂先が天井を向くと今度は石突が近藤に襲い掛かった。巻き上げられた状態から半円を描くような恰好で槍を構え直し、掌の中で柄を滑らせて反撃の体勢を整えたのである。

 足元を脅かされると見て取った近藤は僅かに後方へ下がって石突を避け、続けて柄を踏み付けにした。全体重を掛けることで完全に抑え込もうというのだろう。

 相手の側はこの状況を巧みに利用した。穂先の真下を掌で押し込み、長い柄を近藤に向かって振り落としたのだ。踏み付けにされた部位を軸に据え、梃子の原理を働かせた。

 一本の長い鈍器と化した柄を刃先で受け止めた近藤は石突から足を離した。

 押し込まれる力は強く、両足で踏ん張らなければ競り負けると判断したのだが、これは失策であったかも知れない。相手は自由となった石突を擦り上げ、近藤が腰に巻いた帯へ引っ掛けると、その身を素早く投げ落としたのである。

 スタジオ内をどよめきが包んだ。変幻自在の槍捌きは言うに及ばず、転がるようにして受け身を取り、片膝立ちで刀を構え直した近藤の身体能力にも皆が驚かされていた。

 そこに再び穂先が突き込まれる。床に突けた膝と対の足裏でもって巧みに全身を滑らせた近藤は刀身の側面――しのぎを槍の柄に擦らせながら間合いを詰めていく。

 槍はリーチにいて刀より優れているが、その長さゆえ完全に懐まで飛び込まれると取り回しが難しくなり、絶対的に不利となる。そして、それこそが近藤の狙いに違いない。

 相手はすぐさま槍を放り捨て、腰の白帯に差した小刀を逆手で抜いた。今まさに飛び込んでくる近藤と斬り結ぶつもりなのだ。


「えいっ」

「おうっ」


 気合いの吼え声と共に両者が馳せ違う。二振りの刃が交錯し、一瞬の沈黙ののちに近藤のほうが倒れた。迎撃の小刀のほうが僅かに早く胴を薙いでいたようだ。

 間もなくスタジオの天井が無数の悲鳴を撥ね返した。人が斬り殺される瞬間を目の当たりにしたのだから取り乱してしまうのも当然であろう。


「きゅ、救急車呼ばなきゃ!」


 未稲の叫び声を受けて起き上がった近藤は満面の笑みを浮かべている。

 この瞬間、刀も槍も銀箔で細工した芝居用の小道具であることを誰もが忘れてしまったわけだ。本当に死んでしまったと勘違いさせられる演技になったことは勝る喜びであり、まさしく「役者冥利に尽きる」の一言であった。

 事実、近藤の右手から滑り落ちた刀はたまはがねの刃とは思えないほど軽い音を立てたのだ。相手が放り出した槍もまた同様である。これで人の命が奪えるとは思えなかった。


「つまり、これが殺陣の真髄ということです。時代劇に出てくる刀や血糊は、極端な話、全てウソなんですよ。そのウソにどこまで真実味を持たせられるか、実際には出ていない血しぶきを受け手に想像して貰えるか――そこが殺陣師の腕の見せ所です」


 人差し指と中指でもってつかを挟み、刀身をくるりと回しながら鞘に納めた近藤は、殺陣の醍醐味について「ウソをリアルに変えること」と説いた。

 事実、スタジオに居合わせた誰もが芝居を本当の斬り合いと間違えてしまったのだ。そこまでの臨場感を醸し出せる技術は〝プロフェッショナル〟に相応しいものであり、近藤と相手役を務めた講師に盛大な拍手が送られた。


「手に汗握るとはこのことだね。テレビゲームでも『モーションキャプチャー』っていう技術で人間のリアルな動きを再現してるんだけど、さすがにパターン化されたヤツとは迫力が違うなぁ。これこそ生きた動きってヤツだね」


 誰より逼迫した悲鳴を上げたこともあって、未稲は居た堪れないといった面持ちで身を縮めている。


「岳氏の試合だって生きた動きじゃないか」

「それとこれとは別なの。講師の先生もいってたでしょ、ウソの世界だって。チャンバラもテレビゲームも、同じウソの世界のコトだもん。『天叢雲アメノムラクモ』とは同じにできないよ」

「……分かったような、分からないような……」


 相変わらず独特な未稲の発想に小首を傾げるキリサメも、近藤たちの殺陣には度肝を抜かれていた。

 立ち回りを見学している最中、二人の武器が模造品であることをキリサメは完全に失念していた。闇夜の中で隠し武器を見抜くほどの眼力を持っていながら他の人々と同じように近藤が斬り捨てられたと錯覚したのである。

 それほどまでに見事な殺陣であった。

 両者が浮かべた鬼の形相には演技と思えないほどの殺気が宿っていた。これがキリサメに対して向けられていたら、もしかすると心の〝闇〟が反応していたかも知れない。


(プロって凄いんだな。ああいう風に目を血走らせたヤツは貧民街で腐るほど見てきたけど、それと殆ど変わらないんだからな……)


 傍目には本物の刃が直撃したようにしか見えない。そして、それこそが殺陣の要点だと近藤は語っていった。

 芝居用の小道具だからといって確実に安全ということではなく、渾身の力で相手に当ててしまうと大きな怪我にも繋がり兼ねない。刀を振るう場合にも掠めるか否かの紙一重を見極めなくてはならないそうだ。

 相手の負傷を恐れ、明らかに刀身が接触しない距離で芝居をしてしまうと緊張感が消え失せ、受け手の気持ちも冷めてしまう。真剣勝負と思わせるギリギリの距離感でこそ殺陣は完成すると近藤は熱弁し、実際にその真髄を披露したのであった。

 勿論、斬られる側にも高度な技術が求められる。散り様の演技が平易では立ち回りのカタルシスも台無しというものであり、「どう死ぬか」に心血を注ぐ者も多いのだ。斬られた瞬間の仰け反り方を神業の領域にまで磨き上げ、海外雄飛を成し遂げた名優もいる。

 殺陣とは一人で行うものではない。紙一重で刃を当てずに魅せる側と、最高の死に様で受け手の心に命の儚さを伝える側――双方の技術が完璧に噛み合わさった瞬間ときに初めて成り立つのである。


「チャンバラという言い方だと大したこともないように聞こえるでしょうが、お芝居とはいえ命を奪い合うことに変わりはありません。それを軽く考えてはいけないと長谷川先生から常々言われていました」


 近藤は講釈の中で殺陣道場『華斗改メかとうあらため』の創始者――長谷川大膳の言葉を例に引いた。

 彼の師匠は一年間に亘って放送される大型連続時代劇にいて三作目から殺陣指導を担当している。高度な立ち回しが必要とされるシーンでは自ら出演することもあり、幕末を題材とした作品では京都・近江おうみで坂本龍馬を暗殺する刺客の役を三度も務めている。

 半世紀にも及ぶ同番組の歴史を支え、生きた伝説とまで讃えられる殺陣師の門人である近藤は「命のやり取りをとして見せるからには怪我するような振り付けだけは絶対にいけない」と、師の教えを幾度か繰り返した。


「何しろ刃物を向け合っているのと同じですし、事件現場をただ見せられたって皆さんも怖いだけですよね。私たちが表現したいのは時代を超えて人の心を感動させるサムライの魂――それを芸術として昇華させるのが殺陣師の理想であり、心意気です」


 即ち、剣に生きたサムライの歴史に触れる機会が殺陣道場のワークショップなのである。

 今回のプログラムでは近藤たちが演じたような二人一組による殺陣の模倣に長い時間を取っている。上手に身体を動かす秘訣や見せ方の工夫も指導するのだが、チャンバラの面白さを味わって貰うことが一番良い体験になるだろうと『華斗改メかとうあらため』は考えていた。

 今回のワークショップには芝居の小道具ではなく本物の木刀が用いられている。それだけに使い慣れた物が望ましく、応募要項で持参を呼び掛けていた。どうしても用意できなかった参加者には本赤樫を削り出した物が貸与されている。

 貸し出された木刀を握る参加者は殺陣道場のワークショップどころか、武道にも縁のなかった人間が殆どである。武器と呼ばれる物へ触れた経験もない人々に近藤はつかの握り方から丁寧に指導していく。

 最初は殺陣師の指導を受けつつ恐る恐るといった調子で振り回していた参加者たちも次第に木刀同士を打ち合わせる甲高い音へ快感を覚えるようになっていった。

 いきなり派手な立ち回りをこなせるはずもないので、チャンバラの真似事を行う程度ではあるものの、そうした基礎の会得に皆が目を輝かせて喜んでいるのだ。

 これこそがワークショップの醍醐味である。

 大勢の参加者の中でも特に目立っているのがキリサメだ。

 彼が麻袋に収納して持参したのは最も手に馴染んだ得物――『聖剣エクセルシス』であった。

 ノコギリ状の刃や石の板を取り外し、木製のパーツだけで組み立ててある為、船のオールとしか見えないはずだが、リング状のつかがしらなどが人目を引いてしまうのか。擦れた痕跡や汚れによって原形を留めていないとはいえ、表面には不思議な紋様まで彫り込まれている。

 しかし、参加者たちは『聖剣そちら』に好奇の目を向けているわけではない。キリサメ本人を感心したような面持ちで見つめていた。


「と、とぉ~うっ!」


 未稲が貧弱な腕で木刀を振り抜き、狙いを誤っても当たるか当たらないかという紙一重をキリサメのほうで見極め、上手にかわして斬られた演技を披露しているのだ。

 相変わらず感情の起伏は乏しいものの、致命傷になったとおぼしき場所を掻きむしりながら無言で崩れ落ちる姿は、自分の身に何が起きたのか理解するまでの一瞬のも含めて絶妙だった。刃物で殺された犠牲者を何人も見てきたキリサメならではの演技といえよう。

 目を開いたまま死後硬直のような動作まで見せたときには、さしもの近藤も「それは殺陣っていうより殺人事件だな」と口元を引きらせていた。

 反対にキリサメが『聖剣エクセルシス』を振るう側になると、誰かが称賛の口笛まで吹き始めた。

 普段と比べて刀身自体が軽量なので『聖剣エクセルシス』も片手一本で振り回すことができる。風を裂いて乱れ飛ぶ打ち込みもくうに残像を映しているのではないかと錯覚するほどはやいのだ。

 ダイエット目的で参加した未稲がいていけるはずもなく、最後にはただ木刀を持っているだけの置物と化していた。


「未稲も少しはキリーに打ち返せよ。それじゃ殺陣になんねーだろ。お前だって父ちゃんの血を引いてんだから絶対に才能あるって!」

「お父さんと一緒にしないでって、さっきから何度も言ってるでしょうがッ!」


 未稲は能天気な声援を飛ばしてくる父が憎たらしくて仕方なかった。日本MMAの先駆者の遺伝子を持ち、『天叢雲アメノムラクモ』と直接関係する仕事も引き受けているとはいえ、武術や格闘技の経験など皆無に等しいのである。

 学校のカリキュラムによって柔剣道が体育の選択科目に含まれる場合もある。しかし、未稲は通信制の高校に進学し、中学の三年間も大半を保健室で過ごしていた。これまで自らが武道を学ぶ機会を得られなかったのだ。

 自宅の道場に置いてある物を持参したが、木刀自体を握ったのも今日が初めてだった。轟然と繰り出される『聖剣エクセルシス』へ武道未経験者が反撃を試みるのは不可能に近いだろう。


(こンのバカ親父……通信簿出せ出せってうるさいクセして娘の運動神経なんか全ッ然把握してないんだなぁ……)


 今日の夕飯を岳の嫌いなもので揃えるという報復しかえしを頭の中で練り上げつつ、キリサメが満足するのを待つしかなかった。

 当然ながらキリサメも本気で未稲を叩きのめそうというわけではない。直撃する寸前には『聖剣エクセルシス』を止め、素早く引き戻していた。

 問題はそこから先である。何時まで経っても攻撃が止まらないのだ。斜めの軌道を描くように『聖剣エクセルシス』を振り落としたかと思えば次の瞬間には別の角度からの斬り上げに転じ、更には真正面から丸みを帯びた先端を突き入れようとする――嵐のような打ち込みを幾度も幾度も繰り返しているのだった。

 彼女の鼻から丸メガネが吹き飛びそうになったのは一度や二度ではない。

 キリサメが筆舌に尽くし難い死線を潜り抜けてきた人間であることを未稲は改めて実感させられた。首筋や脳天など人体急所を寸分の狂いもなく狙ってくるのだ。膝や脛を脅かすのは足を折って動きを封じ、確実に標的を仕留める為であろう。

 寸止めでなかったなら、何度、致命傷を受けたか分からない。

 例え女性であろうとも容赦なく殴るキリサメのことだ。未稲が泣き喚いて懇願でもしない限り、自分から『聖剣エクセルシス』を引くことはあるまい。

 視界に入ったことで気付いたが、殺陣の実演で槍を操っていた講師も彼の『聖剣エクセルシス』を興味深そうに凝視しているではないか。

 本職の殺陣師にまで注目されるほど優れていることは未稲にも理解できるが、これを受ける側としては「見物などしていないで交代して欲しい」と叫びたくて仕方がなかった。

 今にも腰を抜かしそうな未稲の願いが通じたのか、近藤から一〇分間の休憩時間が告げられ、ようやくキリサメの動きが止まった。

 その途端に彼女が膝から崩れ落ちたのは言うまでもあるまい。

 急に痩せこけたようにも見えるが、それは精神的な疲弊なのでワークショップへ参加する一番の目的であったダイエットの効果は定かではない。


「大丈夫?」

「ンなわけないでしょッ! これってただのワークショップなのね⁉ キリくん、体験会なのにマジになり過ぎ! 女の子相手に本気で斬り掛かってくるなんて……何かあったとき、責任取れるの⁉」


 ズレ落ちそうな丸メガネを掛け直しつつ未稲は溜まりに溜まった怒りを大噴火させた。


「何かあったら僕が責任取るよ」

「だッ! だから、そーゆー台詞は天然ボケでも言うべきじゃないんだってェ!」


 注意を飛ばそうとして自爆する羽目になった未稲は真っ赤に茹で上がった顔を弱々しく俯かせた。

 キリサメに他意がないことは分かっているが、それでも「責任取る」などという台詞を正面切ってぶつけられてしまうと、乙女としてはどうにも堪らないのである。

 冷やかすような父の笑い声が一等憎たらしかった。


「まずは上々だぜ。キリーの『聖剣それ』、ペルーで『黄猿団ギャング』を蹴散らしたときは超重量スーパーヘビー級の武器に見えたけど、スピード勝負もイケるのな。おまけに精密射撃と来たもんだ。ホント、隠し玉が多くて飽きねェよ」


 休憩時間となった為、待機していた保護者たちも飲み物やタオルを差し入れようと自分の子どもへと歩み寄っていく。岳もそれに倣ってキリサメと未稲のもとまでやって来た。

 彼の瞳もキリサメの太刀筋を正確に見極めていたようで、すこぶる上機嫌である。


「あれだけのモンを見せつけたんだから当たり前だけどよォ、キリーの潜在能力ポテンシャルには他の連中もブッたまげてたぜ。歓声まで上げてな。未稲も聞いてただろ?」

「耳澄ませる余裕なんかあったと思うッ⁉」


 先程とは別の意味で顔を真っ赤にする未稲の怒号こえを受け流した岳は愉快そうにキリサメの肩を叩き、「オレの目に狂いはなかったぜ!」と昂奮した調子で首を頷かせている。

 キリサメにも周囲まわりの声など聞こえていなかった。殺陣の世界は目の覚めるようなことばかりで純粋に惹き込まれているのだ。

 暴力を振るわない点にいては貧民街で繰り返されてきた〝実戦〟とは正反対だが、それにも関わらず、命のやり取りに匹敵する技術が求められる不思議な世界なのだ。

 ルール上で安全性の確保を図るMMAのことを最初は茶番のように感じていたキリサメなのに、近藤たちの殺陣をものとは思えなかった。

 立ち合った両者が相手を斬る気魄を――殺気を漲らせていた為であろうか。

 ショーアップされたプロレスでも相手に殺意を示すような発言が飛び出すものの、あらかじめ用意された筋書き通りの進行と察せられるので、事故以外で死者が出ることもないだろうと安心しながら観戦していられる。

 殺陣師とて本当に相手を斬り捨てるわけではない。暴力性という点ではプロレスのほうが遥かに高いのだ。「ウソにどこまで真実味を持たせられるか」ということを役割としているのだから、死の気配から限りなく遠いと言えなくもなかった。

 それにも関わらず、キリサメは殺陣の世界に畏れを抱いていた。近藤たちと同じを眺めたかったからこそ一心不乱に『聖剣エクセルシス』を振るい続けたのである。

 人の命を奪う技を研究しながらも殺陣師はこれを美の領域にまで昇華していた。

 日本刀は人を斬る為の武器だが、同時に見る人の心を惹き付けてやまない極上の美術品でもある。殺陣師は日本刀と同じ精神の体現者ともいえよう。

 一方の自分キリサメは貧民街で人を殺傷する技術ばかりふるっていた。そうしなければ生き抜けなかったからだ。

 『暴力』を振るって生きる糧を得ることと、チャンバラによって人の心を震わせることは決して相容れない。それでもキリサメは不思議な共感を覚えずにはいられなかった。


(ペルーにも殺陣師の道場があったら、……僕もこんな風にはなってなかったのかな。いや――サーカスや演劇の学校にだって目が向かなかったんだから、結局は同じか……)


 ない物ねだりにも似た憧憬が心に滲んでいることもキリサメは自覚していた。

 近藤たちは人を斬るという凄まじい気魄を極限まで膨らませながらも完全に制御コントロールしていたが、これもまた彼にとっては驚愕の一言だったのである。

 キリサメにとって殺意とは、ひとたび、剥き出しになれば相手を仕留めるまで鎮めてはならないものだった。どこに伏兵が潜んでいるかも知れない貧民街では気を緩めること自体が命取りにも等しいわけである。

 母との死別から日本に渡るまで常に殺気を纏わせ続けてきたようなものであった。それほどであったにも関わらず、これを制御コントロールできるとは夢にも思わなかったのだ。

 岳が未稲むすめの疑問を退けてまで自分のことをワークショップへ連れ出したのは、殺陣師の精神に触れさせる為であったのかも知れない。


「――良けりゃあ、俺っちが相手を代わろうか?」


 岳の真意を分析していたキリサメに一人の青年が声を掛けた。真新しい木刀を肩に担いでいるということは引率の保護者ではなく参加者の一員であろう。


「とんでもねぇモン、見させて貰って燃えたけど、女の子相手にゃキツ過ぎるっしょ。キミだって本気じゃやれねェと思うし。いわゆる一つの『お近づきのしるし』ってヤツ?」

「……はい?」


 年の頃は二〇代半ばであろうか。今回の参加者の中で最年長と思しき男である。

 モスグリーンの頭髪をパイナップルの葉のような形に固めており、最初から悪目立ちはしていたのだが、こちらから関わる理由もないので今まで無視を決め込んでいた。

 他の参加者がジャージなど運動に適した服装であるのに対し、彼一人だけが派手なアロハシャツである。

 おまけにネックレスやブレスレットなどで過剰に飾っていた。アクセサリーの類は木刀を振るう際に引っ掛かる可能性もあって危ないのだ。パンフレットにもそのような服装は望ましくないと注意書きが添えられていた。

 人の話に耳を傾けない手合いということは一目瞭然だった。外見で為人ひととなりを判断するのは軽率に近いだろうが、キリサメの経験上、このような人間は往々にして素行が疑わしい。

 関わり合いにならないよう黙殺するつもりであったのに、相手のほうから寄って来てしまったのである。互いの距離が僅かに近付いただけで香水と混ざった整髪料の臭いが鼻腔を刺激し、キリサメはせそうになった。

 間近で確かめると生え際辺りの頭髪が黒い。染料を使ってモスグリーンに変えているらしいが、性格の表れか、染め方が大雑把なのだ。

 やけに馴れ馴れしい青年のことなどキリサメは全く見覚えがない。それとなく目配せで訊ねてみたが、強烈な香りに顔を顰めている未稲も首を横に振った。

 全身の血が沸騰したばかりの彼女は内側に籠った熱を逃がそうとジャージの上着うえを脱いでいるが、露となったシャツの前面に刷り込まれた「不審者を装うヘタレはケツの穴にブチ込むべし」という文言フレーズは偶然と思えないほど状況に合致している。


(……故郷リマでこんなヤツに絡まれたら、鼻でも潰してお帰り願うところだけど……)


 先ほど口笛で煽ってきたのもこの青年だろう。未稲相手に『聖剣エクセルシス』を振るうさまを見物していたようなことも仄めかしたのだ。


「――誰かと思えば、こひなっちゃんじゃねーか」


 万が一、未稲に言い寄ろうとした場合は二本指で双眸を突かなければならないだろう。迎撃を想定して身を乗り出そうとするキリサメだったが、その矢先に岳が割って入った。


「何時になったら気付いてくれるのかって半べそ間近でしたよ。存在自体を忘れられてたら向こう三年寝込むトコでしたね」

「勿体ぶらずフツーに話しかけてくりゃいいじゃねぇの。つーか、スタッフジャンパー着てねぇと、案外、分からねぇもんだなァ」

「もう三年の付き合いじゃねぇっすか。そろそろ顔パスで頼んますよ~」


 『こひなっちゃん』なる愛称で呼び掛けつつ親しそうに談笑する辺り、岳とこの青年は旧知の間柄のようだ。

 キリサメと未稲に向き直った青年は軽佻浮薄を体現するかのように片目を瞑り、「俺っちはなたすけってんだ。今後ともヨロシコ~」と、おどけた調子で自己紹介を始めた。


先日こないだ衛星放送パンプアップ・ビジョンにもチラッと映ってたけど、二人ともご家族だよね? 俺っちも八雲さんには世話になっててさぁ――あ、つまり、俺っちも二人とファミリーみたいなモンだよな! 運命感じる急接近じゃん?」

「オレっていうか、世話してんのは『サムライ・アスレチックス』だろ。こないだも事務所でお前さんの話をしたばっかりだよ」

「えー、いつッスか~? くしゃみ五連発キメた日かなぁ~」


 すっかり置いてきぼりにされたキリサメと未稲は、怪しむような視線を小日向に送り続けている。岳から自己紹介を促されなかったなら、そのまま口を利かなかっただろう。


「……キリサメ・アマカザリです」

「おうおう! かっくいーじゃん、それ! 名乗り方にこだわり持ってる系?」

「こだわりっていうか……日系ペルー人なので……」

「あ、やっぱしそうなん? 中米だか南米だかの剣だよね、キミが持ってるソレ。RPGロープレで一回使ったくらいだから詳しくね~んだけど、確か『マクアフティル』って名前。実物をこの目で見る日が来るとは思わなかったけどさ!」


 さしものキリサメも『聖剣エクセルシス』のことを知っている人間とワークショップで一緒になるとは想像しておらず、少しばかり面食らってしまった。

 その上、何やら不思議な呼び方を用いているではないか。


「マク……? それは『聖なる剣』という意味なのですか?」

「いや、俺っちも『マクアフティル』がどーゆー意味なのかは、さすがに知らないんだけどね。なになに? キミのもの、何かの曰く付きなん? それとも何かのなまえ持ち?」

「ええ、まぁ――そんなところです……」

「ひょっとして剣の師匠から託された伝説の武器だったりして? すげ~、マジでファンタジーの世界じゃん! 古代遺産にホーリーソード的ななまえを付けるのも詩人だねェ」


 呆れるくらい口が達者な青年に対して、キリサメは「あんな男、断じて師匠なんかじゃない」と心の中で強く反論した。

 想い出すだけでも忌々しい前の持ち主はともかく――どうやら小日向は『聖剣エクセルシス』を正確に分類する名称を知っているようだ。

 船のオールにしか見えない武器を指して、彼は『マクアフティル』と呼んでいた。前の持ち主は『聖剣エクセルシス』と名付けていたので、すらキリサメには初耳である。

 中米辺りから持ち込まれたとおぼしきこの武器には同地の言語ことばで『聖なる剣』を意味するなまえがあり、これを前の持ち主がラテン語に翻訳したのではないかと考えたのだが、小日向の反応を見る限り、『エクセルシス』と『マクアフティル』は同義ではなさそうだった。

 やはり、前の持ち主が自分勝手に気取った名前を付けただけらしい。


(あの男のやりそうなことだ。……あいつも悪知恵と同じくらい口が良く回ったな)


 今日まで砕け散らなかったのが不思議なくらい酷使してきた得物に目を落としながら、キリサメは心の中で前の持ち主の感性センスをせせら笑った。


「えと……八雲未稲っていいます。八雲岳と血が繋がってるほうが私のほうで――」

「――『ろくもんせんたいへい』ッ!」


 キリサメから自己紹介を引き継いだ未稲は、余人には意味不明な大声を小日向より浴びせられ、中途半端に遮られた言葉をそのまま喉の奥へと飲み込んだ。

 何の前触れもなく小日向が口にしたのは未稲が運営するブログのタイトルだった。読んで字の如くMMA選手としての八雲岳の活動報告を行っている。諸事情――というよりもキリサメの所為せいで長野興行後の更新は些か遅れてしまったものの、広報戦略の一つとして有効に機能しており、ゆくゆくは彼のことも取り上げる予定となっていた。

 キリサメが初陣を飾る前後には岳個人から『八雲道場』全体の公式ブログへリニューアルされることだろう。


「知ってる知ってる! ブログも毎日チェックさせて貰ってるんスよ! 管理人サマとじかに話せるってだけでワークショップに来た甲斐があるってモンさぁ! ちなみに俺っち、『サイコスター』って名義ハンドルネームで書き込みもしてるんスけど、おぼえてくれてます? 何度か返信も貰って嬉しかったな~」

「あ……、ど、どうも……ありがとうございます……お父さんもそこまで楽しんで貰えたら本望じゃないかと……」


 話を聞く限り、どうやら彼はくだんのブログの愛読者であるらしい。『サイコスター』という名前ハンドルネームも記憶にあったようで、未稲は居心地の悪そうな表情で立ち尽くしている。

 インターネット上で少しばかり繋がりがあるだけの相手と現実の世界で不意に遭遇し、そのことに薄気味悪さを感じているわけだが、目を逸らして俯き加減となった心情にも気付かないのか、小日向は馴れ馴れしくも未稲の右肩に手を置き始めた。


「違う違う、今は八雲さんじゃなくて娘さんのハナシでしょ。一日にどういうトレーニングをやってるとか、どんなメシを食ってるとか――ファンが知りたい選手の〝日常〟を漏れなく分かり易くまとめてくれるんだもん。格闘技雑誌パンチアウト・マガジンの記者顔負けの才能だぜ~」

「あっ、えっと……はあ……」


 未稲の頬が強張るのを見て取ったキリサメは小日向の手を引き剥がすべく身を乗り出した――が、両者の受け答えから脳裏に一つの疑問が浮かび上がり、我知らず岳へと目を転じてしまった。


「……そういえば、僕の場合、養子縁組ってことになってるんでしょうか?」

「おお? ここに来て書類とか手続きとかってェ堅苦しいハナシかァ? 細けェことはどうだって良いじゃね~か! キリーは八雲家ウチのコだよ!」

「良いなあ、八雲さんのアバウトなトコ、俺っちの憧れなんスよ~」

「憧れなくたって、こひなっちゃんは十分に人生アバウト野郎だぜ~」


 岳と小日向は互いの肩を叩き合いつつ笑っているが、キリサメ本人からすれば日本での身分に関わることなのだ。軽々しく扱われては敵わなかった。

 岳に至っては養子縁組の件を曖昧に誤魔化したようではないか。


「父を変な風におだてないで貰えません? すぐ調子に乗って困るんですから……」

「さっすが管理人サマ、しっかり者でなきゃ務まらないか! キリーってアレだよな、未稲ちゃんの尻に敷かれてんだろ? なんかそーゆー気配がするよ」

「……成る程。あなたの狙いはみーちゃんの尻ですか」

「今の流れから何でそっちにブッ飛ぶの⁉ 勘違いにしたって中学生男子の妄想みたいでちょっとアレだよ、キリくん!」


 自己紹介を返した直後から小日向は岳に倣って『キリー』と愛称ニックネームで呼んできた。

 八雲家への養子入りについて法的な手続きを済ませたか否かを追求しなければならないのだが、横から割り込んできた不快感にその気持ちまで折られてしまった。


(……まさか、空閑電知あいつ以上に鬱陶しい人間がこの世界に存在するなんて……)


 長野での路上戦ストリートファイトの折、執拗に食い下がってきた電知も煩わしくて仕方なかったが、この小日向という青年は段違いだ。気まずげに俯いたままの未稲から了解も得ずに木刀を取り上げたのである。


「俺っちのと合わせて二刀流! 一回やってみたかったんだよ、『二礼二拍手』! 新品おニューのコイツ――『きょうかんけん』のお披露目式にはもってこいだぜ!」


 『きょうかんけん』とは新調したばかりという木刀のなまえなのだろう。ひょっとするとキリサメの『聖剣エクセルシス』に触発されて、たった今、考え付いたのかも知れない。


「……勘違いに勘違いを重ねまくった挙げ句、僅か一部分しかカスッてませんけど、みやもと武蔵むさしの『てんいちりゅう』を名乗りたいことだけは辛うじてりました……」


 周りの参加者から注がれる生暖かい視線に耐え兼ねた未稲は、両手で顔面を覆いながら小日向の誤用を指摘した。

 蚊の鳴くような声であったので小日向本人の耳まで届いてはいないだろう。しかし、未稲には訂正を求めるつもりなどなかった。二刀流で名高い宮本武蔵の流派は『てんいちりゅう』が正しいという指摘ツッコミも口から無意識に洩れただけであって、でき得ることなら彼とは二度と喋りたくないのである。

 それが叶わないと分かっていればこそ未稲は頭が痛かった。

 彼がブログの愛読者である以上、この先もインターネット上での交流は続けなければならないのだ。父の評判まで落とし兼ねないので邪険に扱うこともできない。これほど憂鬱なことはなかった。

 半永久的に苦痛が続くことを約束されたかのような未稲は言うに及ばず、キリサメもまた彼女と同時に重苦しい溜め息を吐き捨てた。

 小日向義助という青年は本当に自分の都合でしか物事を考えられないようである。好意的な言い方をすればマイペースだろうが、未稲の辛そうな顔を見てしまったこともあってキリサメには傍若無人としか呼べなかった。

 岳も同じようなタイプであり、話が噛み合わない瞬間も多い。しかし、小日向の場合は会話以前の問題のように思えるのだ。この青年と正確に意思の疎通を図ることは不可能だろうとキリサメは早々に諦めた。

 いつも以上に無感情で小日向と相対したキリサメは、逆手に構えた『聖剣エクセルシス』で轟々と素振りを始めた。会話の通じない相手には早急に退場して貰おうと考えたわけである。

 この前後には近藤から休憩時間の終了が告げられていた。


「……では、お願いします」

「おうよ! ど~んと任せなさい!」


 意気揚々といった調子でキリサメの前に立つ小日向であったが、数秒後には未稲と交代したことが失敗であったと思い知らされた。

 シャツの袖から伸びた腕は貧弱で、同い年の女子と比べても小柄な未稲は胆力が足りなかった為に立ち竦んでしまったのだろうと小日向は勝手に結論付けていた。

 自分なら絶対に耐え切れる。隙を突いて反撃してやろうと自信を胸に臨んだわけだが、『聖剣エクセルシス』の乱れ打ちに晒された瞬間から身じろぎ一つできなくなってしまったのである。

 安全ベルトを装着せずに乗り込んだジェットコースターより遥かに怖い――小日向は何度となく悲鳴を上げた。

 近藤たちによる実演を真似て逆手で『聖剣エクセルシス』を振り抜いていくキリサメは小日向に対しては寸止めでは済まさなかった。二刀流と称して両手に握り締めた木刀へ船のオールのような刀身を直接叩き付けたのだ。


「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ! マジで死んじゃうって! 俺っち、削られてない? 削り殺されようとしてないィ⁉」

「下手に動くと頭に当たるから気を付けて下さい。木刀だけを狙うようにしてますけど、そこから外れたら命の保障はできないので」

「お聞きになりましたか、皆さん⁉ 殺人予告頂いちゃいましたよ!」


 改めて詳らかとするまでもなく、これは未稲を怖がらせたことへの制裁だ。『聖剣エクセルシス』が完全な形であったらノコギリ状の刃を木刀に喰い込ませて床に引き倒したことだろう。

 右の逆手に構えた『聖剣エクセルシス』で横薙ぎを見舞うや否や、一度、つかから五指を離し、素早く左の順手に持ち替えて刀身を斜めに振り落とす――ほんの一瞬たりとも乱れ打ちを止めることはなかったが、頭蓋骨を砕いてやりたい衝動を抑えられるようになったのだから、八雲家に迎えられて随分と落ち着いたものである。

 結局、小日向が腰を抜かすまで三分も掛からなかった。

 放心したようにひっくり返っている彼の顔を覗き込んだ岳は「根っからの格闘バカのクセしてヤワだなァ、こひなっちゃんはよぉ~」と冷やかし混じりに大笑いした。


「オレってるのが専門ってワケじゃないじゃね~っスか。ちょいと色気出してみましたけど、人間、向き不向きはどうしようもねぇッスわ」


 二振りの木刀を放り出しながら床の上に転がった小日向は『聖剣エクセルシス』と向き合うまでの威勢と比べて余りにも無様である。その姿に溜飲を下げた未稲は心の中でキリサメに拍手喝采を送った。

 この先、ブログ内で不愉快な気持ちにさせられても今日の醜態を想い出してやり過ごせるだろう。性格の悪さを自覚しつつも口元が綻ぶのをどうしても抑えられなかった。


「棒立ち状態だったのに全身汗びっしょりだわ。古代インカ文明の伝説に残るけんってのはマジでハンパねぇな。これぞ『聖なる剣』ってカンジだぜ」

「ちょっと待って下さい。インカの剣舞なんて、一体、どこから出てきたんですか」

「おうおう、良いって良いって。〝表〟の世界には決して知られちゃいけない幻の秘剣なんだろ? 俺っち、口はカタいほうだから他所には絶対に漏れないよ」

「さっきのは古代文明と全く関係ないし、『聖なる剣』だって前の持ち主が勝手にそう呼んでいただけで、こんなのはインカの遺産でも何でもないんですよ」

「えぇッ⁉ 無関係なのか⁉ あんまり鮮やかなモンだから、オレはてっきりアンデス地方に伝わる剣の舞とばかり!」

「……岳氏まで乗らないで下さい……」


 大の字になって寝転んだまま、小日向は岳と顔を見合わせて愉しそうに笑った。未稲が「もっと深刻に打ちひしがれるべきでしょ」と眉根を寄せるくらい陽気であった。

 当たり前であるが、夢心地の小日向や岳が言うようなインカ文明の剣術などキリサメは手本にした憶えがない。そもそも、同文明に伝統武術が存在するのかも把握していない。

 格差社会の最底辺を生き抜く内に標的あいての急所を狙い撃つ技術が身に付いただけなのだ。それを小日向と岳はアンデス地方に伝承される剣舞などと勘違いし、身勝手な想像を膨らませている。

 インカ文明が遺したモノなど、それこそ伝説の時代に征服者コンキスタドールの手によって狩り尽くされている――と、キリサメは心の中で悪態をいた。


「さてさて、そろそろオレたちは退散するとしようぜ。他の参加者みんなの邪魔になっちまう。こひなっちゃんも暫く立てねーだろ?」

「サンキューっス! やっぱし俺っちはオーディエンスがお似合いですな!」


 介抱を引き受けた岳は小日向の右足首を無造作に掴むと、彼の身を壁際まで引き摺っていった。


本気ガチで大したタマだよ、キリー! 古代インカ仕込みの潜在能力ポテンシャルはこの俺っちが認めてやるぜ! 絶対『天叢雲アメノムラクモ』に出場しろよ! お前ならイケるとこまでイケるって!」


 岳に引き摺られつつ、いつぞやの孔たいじんと同じような言葉を掛けてきた小日向に対し、キリサメは適当の二字を体現するかのような相槌を打った。機械的に首を頷かせるだけであって、彼の声など右の耳から左の耳へと素通りさせている。

 岳と小日向がどういった類の知り合いであるかのは分からずじまいだった。仕事関係と受け取れるような発言もあったが、わざわざ養父に確かめるつもりはない。そもそも彼は二度と接触したくない相手なのだ。


「……あれ? 小日向さんが脱落ドロップアウトしたってコトは……」

「またみーちゃんに相手して貰って良いかな。さっきと違って今度は二刀流もできるよ」

二刀流そーゆースキルは〝ネトゲ〟の中だけにしておきたいんだけど⁉」


 床の上に転がっていた二振りの木刀をキリサメから差し出された直後、未稲の悲鳴がスタジオ内に響き渡った。



 壁に掛けられた時計が一七時を示す頃、近藤からワークショップの終了が告げられた。

 最後に全員で柔軟体操を行ったのちに解散となったが、参加者たちは誰もが充実したように笑い合っている。激しい運動を終えた直後と思えないほど溌溂はつらつとしているのだ。

 ただ単に代謝機能が向上したというだけではないだろう。殺陣という日常生活の中では縁遠い世界に触れたことでスタジオに入る前よりも視野が広くなり、得難い経験に激しく昂揚しているのである。

 それはつまり、ワークショップの大成功を意味していた。

 へ巻き込まれる羽目になった未稲は心身ともに疲れ果ててしまったが、一心不乱に殺陣の模倣へ打ち込むキリサメを見つめている内に自然と頬が緩んでくる。

 前衛芸術のようなスケッチくらいしか趣味を持たない彼が珍しく関心を示したものである。家族にとっては大事件ともいえよう。

 夢中になる余り、周りが見えなくなっているのだろう。キリサメは解散後も近藤の相手役を務めた殺陣師に様々な質問をぶつけている。

 講師の左胸に付けられた名札ネームプレートには『ひめ』と、性格が透けて見えるような角張った筆致で記入されている。可愛らしい苗字とは正反対の厳つい印象の男性であった。

 殺陣道場『華斗改メかとうあらため』のロゴマークが入ったジャージの上からでも瞭然なくらい全身の筋肉で盛り上がっており、身長もキリサメと比べて頭二つ分は大きい。岳にも匹敵するような偉丈夫なのだ。

 その姫若子を見上げながらキリサメは〝殺気の制御コントロール〟に関する具体的な助言を得ようと粘り続けていた。


「あ~ら、キリーは向こうに夢中みたいだなぁ。何なら男同士でメシでも行こうかって誘いたかったんだけどなぁ~。しゃ~ねぇ、俺っちがよろしく言ってたって未稲ちゃんから伝えておいてくんない?」


 持参した木刀を杖の代わりに使って何とか立っている小日向から言伝ことづてを頼まれた未稲は努めて恭しい態度で首を頷かせた。

 無遠慮かつ過剰に馴れ馴れしく接してくる手合いは生理的に受け付けないのだが、ぞんざいに扱って恨みを買えば、自身が運営するブログの読者投稿欄にどのような罵詈雑言を書き込まれるか、分かったものではない。

 一日の大半をインターネットの中で過ごす彼女にとって現実世界リアルの事情が仮想空間バーチャルに割り込んでくることは〝自分の居場所〟を侵害されるようで何よりも忌々しい。

 しかしながら、くだんのブログは彼女個人が楽しむ為に開設したものではない。小日向が八雲岳というMMA選手のファンを称する以上、父の評判を守る為にも本音とは正反対の態度で接しなくてはならなかった。

 怨恨でもってブログをけがされようものなら、連鎖的に他のファンまで心が離れてしまうだろう。一日の内に相当な人数が出入りし、あらゆる情報を隅々まで閲覧しているのだ。

 慇懃無礼とも受け取れるほど遜った態度に満足したらしい小日向は、おぼつかない足取りでスタジオの玄関に向かっていった。結局、彼は消耗する為だけにワークショップへ参加したようなものであった。

 二刀流を気取ったところまでは調子も良かったものの、乱れ飛ぶ『聖剣エクセルシス』の前に気持ちが折れた後は岳の隣へ腰掛けて雑談に興じるばかり。つまるところ、腰を抜かして復帰できないまま終了時間を迎えたのである。

 見学も有意義には違いないが、それでは木刀を新調し、『きょうかんけん』という仰々しいなまえまで付けた意味もなくなってしまうだろう。


「心底興味を持ってくれたみたいだね。ありがたい限りだよ」


 歩いて帰れそうもない小日向の為にタクシーを手配し、併せて他の参加者とその保護者を送り出した近藤はとろけるような笑みを浮かべていた。

 彼の視線の先には熱心に話し込むキリサメと姫若子の姿がある。

 ワークショップの目的は殺陣師の世界に興味を持ってもらうことである。キリサメのように居残ってまで質問をしてくれる人間は、むしろ大歓迎なのだ。

 演劇スタジオは撤収の手間も計算して一八時まで借りている。それまでは〝サービス残業〟も可能というわけだ。姫若子の都合にもよるが、近藤は時間の許す限り、キリサメに付き合うつもりだった。

 姫若子もまたこの少年に強く関心を惹かれているようだ。他の参加者に殺陣の段取りを指導しつつ、『聖剣エクセルシス』の軌道を幾度も双眸で追っていた。無論、近藤も独特な太刀捌きには目を見張っていたのだ。

 木刀とは掛け離れた異形の剣に相応しいの剣舞ではないかという小日向の妄想は他の人間も共有していたわけである。

 しかしながら、剣舞これを披露する相手役にキリサメが恵まれていたとは言い難く、不完全燃焼であることは傍目にも分かった。だからこそ姫若子も進んで〝サービス残業〟に応じているのだが、当のキリサメから寄せられる質問は返答に困るほど風変わりだった。

 この少年は殺陣の技巧よりも気魄の出し入れに執心しているのだ。


「――殺気の制御コントロールと来たか。これはなかなか難題だな。自分も半人前なので、……さて、どう答えたら良いものか……」


 暫く思案したのち、姫若子は近藤へと顔を向け、眼差しでもって何事かを訊ねた。

 これに力強く頷き返した近藤は保護者が座っていたパイプ椅子を黙々と片付け始めた。スタジオの撤収は自分が引き受けるのでキリサメの相手を任せたい――満ち足りたような笑顔はそのように告げている。

 これを受けて姫若子はキリサメをスタジオの中央まで誘った。近藤と二人で殺陣を実演した場所である。


「……私は口下手でね。上手く言葉にできそうもないから、実際に感じ取って貰おうと思うのだが、どうだろう?」


 キリサメと差し向かいとなった姫若子は思いも寄らないことを提案した。

 突然の成り行きにはキリサメも困惑を隠し切れない。殺陣道場のワークショップにも関わらず、いつの間にやら手合せでもしようかという筋運びになっているではないか。

 意図を測り兼ねてポカンと立ち尽くしているキリサメに対して、口元に薄い笑みを浮かべた姫若子は「キミの得意なヤツでいい」と促した。


「……得意なヤツっていうのは……」

「マクアフティルの打ち込みを見ていて気付いたんだ。剣道や剣術とも違う独特のクセがあったし、どちらかというと棍棒か何かで叩くような動きに近い。一定のパターンにハマったものでなく、キミにとって一番やり易いものを見せてくれ」

「……その前にお訊ねしたいんですが、マクアフティルっていうのはそんなに有名なんですか? 自分では良く分からないんですけど……」

「これでも殺陣師の端くれだ。古今東西の武具は一通り頭に入っているよ。まさか、木刀持参の要請にマクアフティルを持ってくる人間がいるとは思わなかったがね。自分が聞いた話だと刀身には石で拵えた刃が並んでいると聞いたが、それは自宅かな?」

「凶器を持ってくるワケにはいきませんから」

「一度、完成版を拝んでみたいものだ」


 自分では由来すら知らなかった呼称を他の人々がこぞって口にしている状況がキリサメには何とも不思議だった。

 おそらく姫若子はマクアフティルという武器の正しい形状を思い描くことができるのだろう。先程の口振りから察するに、小日向もテレビゲームなどを通して石の刃が整然と並ぶ姿を見たことがあるようだ。

 キリサメの場合は標的えものを破壊し易そうな鉄片や石の板をデタラメにねじ込んでいるだけであった。模倣と考えるのは腹立たしいが、前の持ち主も同じように歪なノコギリとして組み立てていたのである。

 マクアフティルと呼ぶに足る正式な形状であったなら、あるいは『聖なる剣』というなまえも似つかわしくなるのだろうか。


(……形だけ取り繕ったって、何の意味もないよな――)


 結局のところ、『聖剣エクセルシス』という矛盾と皮肉に満ちたなまえには最も相応しいと、キリサメは自嘲の薄笑いを浮かべた。己が背負う得物はノコギリ状の刃を取り外したところで血にけがれた罪の証拠あかしでしかないのだ。


「使い込まれたマクアフティルを見ても分かるが、……何かがあるのだろう?」

「心得っていうか、何というか――一応、『我流』なんですけど、少々……」


 心の奥底を探る言葉を受けて自分が編み出したものは『聖剣エクセルシス』と同じ『暴力』に過ぎないと吐き捨てそうになったキリサメは、その寸前で『我流』という表現に置き換えた。

 己の手が罪にまみれていることは自覚わかっているが、『暴力』などと卑下すれば傍らの未稲を悲しませてしまうだろう。そこで己のふるう技についてキリサメは咄嗟に『我流』と別の言い回しに替えたのだ。

 事実、キリサメは自己流で闘い方を編み出してきたのだから全くの嘘ではあるまい。


「うんうん、キリくんの『我流』がどんな殺陣になるのか、私もすっごく興味あるよ」

「ん……」


 『聖剣エクセルシス』を預かるつもりで両手を差し出した未稲も『我流』という言い換えを好ましく感じている。彼が自分の気持ちを案じてくれたことも察しており、嬉しさと気恥ずかしさで頬が火照って仕方なかった。

 彼女が満足してくれたことを認めたキリサメもまた胸を撫で下ろした。

 その一方で『聖剣エクセルシス』を引き受けようという未稲の厚意に応じられず、くらい懊悩が心を突き刺している。

 石の板を取り外してある分、普段よりも遥かに軽いので彼女の細腕でも持つことはできるだろう。しかし、元の色が分からなくなるくらい刀身が吸い込んだ血の量を思えば、そこに刻まれた〝罪〟と未稲を接触させるようなものである。

 何よりも『聖剣それ』は自分にとって掛けがえのない〝血〟を啜った呪いの剣なのだ。

 そうかと言って右手に携えたままでは姫若子の迷惑になり、また未稲にも余計な不安を与えてしまうだろう。ならば、取り得る選択肢はただ一つである。キリサメは己の〝罪〟の証拠あかしを躊躇いがちに差し出した。


「決まったようだな。……では、少し合わせてみよう」


 実際に拳を交えるではなく、あくまでも殺陣として――と姫若子は念を押した。つまり、寸止めで互いの技を出し合おうというのである。

 未稲に『聖剣エクセルシス』を渡してとなったキリサメは姫若子に了承の旨を伝えながら両腕をだらりと垂れ下げた。

 その状態で相手の出方を窺い始めたのだ。不意打ちで標的を潰すことに重点を置く喧嘩殺法では武術家・格闘家が取るような構えを必要としていない。これこそがキリサメ流の臨戦態勢ファイティングポーズというわけである。


「とりあえず、私から手本を見せるとしよう――」


 自然体で立つことがキリサメの構えと理解したらしい姫若子は、おもむろに徒手空拳の構えを取った。左半身を開き、右の手足を両方とも前に出すという独特の構え方である。

 そこから速射砲の如く右拳を突き出していく。しかも、腕を伸ばす最中に五指を開いたのである。顔面を狙った一撃は紛れもなく目突きであった。

 目玉を抉られると直感したキリサメは咄嗟に両腕を交差させ、これを持ち上げることで攻撃を弾こうとしたが、その動きよりも姫若子のほうが数段速く、頭部を横に振って避けることさえ間に合わなかった。

 しかし、彼の双眸が光を失うことはなかった。最初に寸止めと約束した通り、姫若子は瞳に触れるか否かというところで右腕を引いたのである。

 これは殺陣なのだ――と脳が想い出す前に肉体のほうが先に動いていた。目突きを視認したことでキリサメの左足が反応し、咄嗟に蹴りを放とうとしたのだ。


「いい反応だ!」


 姫若子はキリサメの動きを約束破りと咎めず、むしろ反応速度を称賛した。目下の人間を評価する年長者らしい言葉といえよう。

 あるいは「年長者」ではなく「上位者」と言い換えるべきかも知れない。今まさに蹴り技に移ろうとしていたキリサメの左足――その膝の側面に姫若子の右足があった。

 今度も寸止めではあったが、人並み以上に優れていると自分で称賛した反応速度を凌駕し、彼の足を脅かしたのである。


「す、すみません、僕……」

「気にするな。本気の動作うごきで窮地に即応できることも命を守るには大切だ。キミにはスタントの才能もありそうだぞ」


 姫若子の迎撃を確かめて己の過ちに気付いたキリサメは慌てて蹴り足を引き戻した。

 この場合はというほうが正しいだろう。


「……褒められたように感じられないのはちょっと悔しいですね……」


 よろめくような恰好で数歩ばかり後退ずさり、その最中に深呼吸を挟んだキリサメの背には大量の冷や汗が噴き出していた。

 たった二度、〝手本〟を見せられただけだというのに、紛れもない〝実戦〟であった電知との路上戦ストリートファイトより遥かに緊迫しているのだ。

 銃や刃物が日常の風景に溶け込むような貧民街でも味わったことがない戦慄だった。命の危険に晒されて湧き起こる恐怖とは根本的に異なっているのだ。

 今の姫若子は殺気を全く纏っていなかった。近藤との実演の際には芝居の小道具を持ちながらも「人を斬る」という研ぎ澄まされた気魄を放ち、見る者を圧倒したのだが、今度はその対極を披露したのである。

 攻撃に伴う気配を完全に抑え込んでいた。だからこそ、キリサメの心に巣食う〝闇〟は少しもうずかなかったのだ。

 やる気のないパンチには何も宿らないので当然ながら〝闇〟が反応することはない。しかしながら、姫若子の技は速射砲のように鋭く、直撃を被ろうものなら間違いなく失明させられていただろう。これが〝実戦〟であったなら、ローキックで膝を脅かしたのちに顔面を潰すハイキックまで繋げていたかも知れない。

 人の命を奪う武技わざを研究しながら、これを美の領域に研ぎ澄ませるのが殺陣師である。今し方、姫若子が見せた動作うごきもそのことわりに則っているわけだ。

 殺気を感じ取ることができず、双眸でしか相手の動きを見極められない以上、キリサメは後手に回らざるを得なかった。

 その後も姫若子との殺陣は続いたが、キリサメは殆ど何もできなかった。未稲や小日向の立場とそっくり入れ替わってしまったわけだ。疾風怒濤の四連続攻撃に晒されたときなどは二人と同じように棒立ちのまま固まったほどである。

 鋭くパンチを叩き込み、続けてこめかみを裏拳で打ち、さらには水平に閃く手刀を首に見舞っていく――立て続けに同じ腕をしならせる技は殺陣でなければ致命傷になっていただろう。手刀の次に繰り出された最後の肘打ちは、振り子の要領で全体重を乗せるものであり、その一撃だけでも脳震盪を起こし兼ねないのだ。

 せめてもの抵抗とばかりに直線的なパンチを繰り出しても攻防一致の動作で容易く封じられてしまう。互いの腕を重ね合わせるような状態を作り出した姫若子は下腕でもってキリサメの肘を抑え込みつつ、一方的に拳を突き入れてくるのだ。

 寸止めだけに肉体的なダメージこそないものの、風圧でもって頬を撫でられる度にキリサメには虚脱感が押し寄せていた。

 何の自慢にもならないことだが、貧民街で研いだ喧嘩殺法が全く通じなかった相手など過去に一人もいない。『コンデ・コマ式の柔道』を称し、技にいては桁違いの完成度を誇った電知とも互角に渡り合えたのだ。

 しかし、現在いまはパンチの一つも満足に打てなくなっている。キックを放とうにも予備動作の段階で断ち切られてしまう。ここまで完全に封殺されることはキリサメにとって〝生きる術〟を否定されるようなものであった。


「キ、キリくん、大丈夫~?」


 未稲はキリサメの精神メンタルを案じていた。

 姫若子なる殺陣師は相当に格闘技の修練を積んできた様子だ。そして、『天叢雲アメノムラクモ』には彼のような猛者がひしめいている。体系として完成された格闘技には『我流』などでは歯が立たないと自信を喪失してしまったなら、リングに上がることは不可能であろう。

 岳もまたキリサメの様子を見守っている。この少年に秘められた潜在能力を誰よりも評価している彼は冷や汗を流し続ける娘とは正反対に不敵な笑みを浮かべていた。この経験がキリサメに更なる進化を促し、『天叢雲アメノムラクモ』のリングで通用する〝戦士〟へ飛躍していくと信じて疑わないのである。

 むしろ、岳は姫若子に驚かされていた。殺陣の実演を見学していたときから只者ではないと思っていたが、キリサメに手も足も出させない技の数々は想像以上だった。


「あいつ、ただの殺陣師じゃねぇだろ。『日本のブルース・リー』を名乗っても誰だって納得するだろうぜ」

「――ふへあ⁉ あ、ああ……そうですね、姫若子さんはかなりいますよ。実際、学生時代には八雲さんが仰ったようなあだ名で呼ばれていたそうですけど、社会人になってからは一旦中断したと聞いています」


 キリサメたちの邪魔にならない場所を掃除していた近藤は雲上の人に話しかけられて再び緊張の頂点に達したが、言葉を交わす内に少しずつ慣れていき、間もなく落ち着いて受け答えができるようになった。


「アレで脱サラ組なのかよ。そうは見えねぇ肉体ガタイだな」

「格闘技自体は二年ちょっと前から本格的に再開したみたいなんですよ。『華斗改メかとうあらため』に入ったのは一年半くらい前だったかなぁ……」

「殺陣師になりたくて脱サラしたワケじゃねぇの?」

「格闘技経験を生かせる仕事ってコトで殺陣師に行き着いたみたいですね。『華斗改メかとうあらため』は事務所プロダクションもやっているのでスタント担当のエキストラでそこそこ仕事ありますし」


 近藤が語ったように『華斗改メかとうあらため』のスタント部は数日前にも大型連続時代劇の撮影に参加していた。

 二〇一四年に放送される作品は戦国時代を題材にしている為、敵味方が入り乱れるという危険な合戦シーンも多い。そのようなときこそ近藤や姫若子の出番というわけだ。

 とよとみのひでよしの天下統一を支えた名軍師を演じる主演俳優は自身のスタントを必要としないほど武芸に精通しているのだが、奇しくも殺陣の相手役を務めた姫若子とは同じ師匠に学んだ間柄であり、休憩時間は近藤も交えて格闘技談義に花を咲かせていた。


「あくまでも格闘技がメインなんですよ、姫若子さんの中では」


 聞けば聞くほど面白い経歴の持ち主だと岳は感心した。

 そこまで真剣に打ち込んでいるのなら日本国内で開催される格闘技大会に出場しても良いだろう。彼ほどの力量であれば引く手数多に違いなく、岳自身、『天叢雲アメノムラクモ』の選手としてスカウトしたいくらいだった。


「……ただ、ちょっとのめり込み過ぎっていうか、盛大に前のめりっていうか。自宅の庭をトレーニング用に改造しちゃったんですよ。何回かお邪魔したんですけど、手作りのアスレチックが目白押しでスゴいんです」

「うッわ、何だよ、それ! 羨ましいじゃねーか!」

「……だからってワケじゃないけど、家庭のほうでも色々あったみたいで――」


 そこまで語ったところで近藤は慌てて口を噤んだ。我知らず同僚の家庭事情まで喋ってしまったのである。

 自分の過失を責め、追い詰められたような表情を浮かべる近藤を気遣った岳は、彼が口を滑らせた部分には一切触れず、「後でちょっと紹介してくれねェ? そんなにすげェアスレチックがあるんなら、是非ともお宅訪問してみたいからよ」とトレーニング環境のことにだけ注目した。

 これには近藤も救われたような表情かおになり、ありったけの感謝を込めてこうべを垂れた。


(姫若子……か――黒河内からも聞いたコトねぇし、関係ないとは思うがなァ……)


 近藤の失言に聞かなかった芝居ふりを決め込む一方、岳は頭の中で姫若子という男の経歴を振り返っていた。

 二年前といえば地下格闘技アンダーグラウンド団体『E・Gイラプション・ゲーム』が結成された頃でもある。

 一瞬、彼もメンバーではないかという想像がよぎったものの、安定した生活を捨ててまで地下格闘技アンダーグラウンドに身を投じるとはさすがの岳にも考えられなかった。

 そもそも、『E・Gイラプション・ゲーム』の旗揚げの時期から姫若子の〝脱サラ〟まで半年ほど開いているのだ。ならば、両者の間に接点などなかろう。単なる思い過ごしに決まっている――そう結論付けたいのだが、へ出場していないにも関わらず、自宅を改造するほどトレーニングへ打ち込むことがどうにも引っ掛かるのだった。



 時計の針が一八時に差し掛かる頃、ようやく姫若子の〝サービス残業〟が終わった。結局、制限時間に急き立てられるまでキリサメに付き合ったわけだ。その頃には撤収作業も済んでおり、二人が殺陣の実演に興じた場所へモップを掛けるのみであった。

 姫若子から殺陣の稽古を付けられている間、キリサメは殆ど何もできなかった。力尽きるまで彼の妙技に翻弄され、今は床の上に身体を放り出している。寸止めの約束もあって負傷したわけではないが、心身ともすっかり疲れ果てていた。

 伝説の柔道家の技を再現したという電知との路上戦ストリートファイトでも思い知ってはいたが、我流の喧嘩殺法など正規の格闘技にはまるで通用しない――突きつけられた〝現実〟に対する虚脱感は確かに大きいが、それ以上に全身を満たす疲労が心地良かった。

 貧民街に於ける生存闘争では決して味わうことのできない清々しさである。

 身のうちから炎が噴き出してくるようだった。この熱は岳の試合を観戦した直後に感じた昂揚と良く似ている気がした。


「キミの知りたがっていた殺気の制御コントロールがどういうものか、少しは伝わっただろうか? 本当なら理論から入るべきなのだろうが、……恥ずかしい話、私自身も言葉で説明できる程の理解には至っていなくてね」

「あれで未完成なんですか? 信じられないな……」

「本当に奥深い世界だよ。道は果てしなく遠いが、それだけ取り組む甲斐もある」

「……想像もつきません……」


 隣に腰を下ろした姫若子の言葉にキリサメは寝転んだまま静かに頷いた。

 今日の経験を自分なりに分析し、吸収していかなくてはならないが、殺気の制御コントロール――つまり、気魄の練り方の一端に触れたことは間違いない。

 繰り出す技の数々は背筋が冷たくなるほど実戦的だが、姫若子の顔に険しさはなく、むしろ柔らかかった。顔付きを変えただけで完成するほど単純ではなかろうが、そこに殺気を抑制する手掛かりが隠されているはずだ。

 姫若子が示してくれたことは何もかも咀嚼したかった。殺気を抑えることによる戦術上の有用性も身をもって学んだのである。

 目突きのフェイントを仕掛けられたとき、キリサメは反射的に本気の蹴りを打とうとしてしまった。殺陣ということも忘れて身体が反撃に動いていたのだ。

 そこには抜き身の殺気が伴っている。これを感知され、次に打つ手を先読みされたのだろう。気魄の出し入れを完璧に使いこなせていたなら、後から動いた姫若子の蹴りが先に到達するという事態も避けられたはずである。

 それこそが殺陣師たちの宿す日本刀の如き精神性の賜物だとキリサメは感じ入った。

 この一時間、姫若子は刃を鞘に納めたまま刀を振るっていたようなものである。「人を斬る」という圧倒的な気魄を纏わずとも優れた技で相手を制することはできるのだ。


(世界は広いな――というか、僕が狭い世界で腐っていただけなんだけど……)


 キリサメはスタジオの天井を見つめながら深く息を吐いた。

 ワークショップに連れ出してくれた岳の気持ちに応え、長時間に亘って付き合ってくれた『華斗改メかとうあらため』の二人へ報いる為にも、ここで学んだことを是非とも血肉に変えなくてはならない――その決意を込めた深呼吸であった。

 床の上に身を横たえた直後、スポーツドリンクとタオルを差し出してくれた未稲も喜ばせたい。貧民街で培った技は悪しき『暴力』ではなく、生き抜く為に必要なすべであったことを証明する誓いも果たしたい。

 今のキリサメには、それが生きていく理由の全てなのだ。


「想い出しただけでも身震いしますよ。あんな物凄いモノ――何という格闘技を習ったんですか?」


 キリサメから尋ねられた姫若子は気恥ずかしそうにはにかんだ。己の身に叩き込んだ技を褒められることが照れ臭いのだろう。


「そんなに大袈裟に構えるものでもないんだが――私が学んだのは『せっけんどう』というものだよ。世間一般には『ジークンドー』という呼び方のほうが通っているかな」

「もしかして、ブルース・リーの?」


 キリサメへ寄り添うように座っていた未稲が『ジークンドー』に反応を示し、姫若子もまた『ブルース・リー』という名前に頷いて見せた。

 『截拳道ジークンドー』とは稀代の映画俳優にして伝説的な武術家――ブルース・リーが創始した近代格闘技である。

 ブルース・リーが三二歳で早世したのは一九七三年のことであるが、彼が完成させた格闘技術と哲学は愛弟子たちによって引き継がれ、今なお全世界で普及し続けている。

 即ち、姫若子もブルース・リーの系譜を受け継ぐ一人というわけだ。


「ジークンドー使いなんて……ホント、キリくんが壊されなくてよかったよぅ……」


 未稲が心の底から安堵の溜め息を零したのも無理からぬ話であった。

 キリサメ相手にも一端を披露したが、ジークンドーは〝実戦〟を想定して練り上げられた格闘術であり、その真髄は相手に何もさせないまま瞬く間に倒すことにある。

 ほぼ密着した状態から標的を打ち砕くという人智を超えた絶技まで存在するとも未稲は聞いていた。それだけにキリサメの無事を奇跡としか思えなかったのだ。


「みーちゃんは大袈裟だな。本当の殴り合いじゃないのに、怪我なんかしないよ」

「怪我もそうだけど、精神こころのほうだって心配なの。ワークショップで気持ちが折れたらどうしようって、そればっかり考えてたんだから。『天叢雲アメノムラクモ』にだってこーゆースゴい人が大勢いるんだし……」

「そればかりは実際にリングに上がらないと、どうなるか分からないよ」

「……『天叢雲アメノムラクモ』? キミ、『天叢雲アメノムラクモ』に出場するのかい?」


 今度は姫若子が驚く番だった。まだ高校生くらいであろう少年が日本MMAの頂点と目される『天叢雲アメノムラクモ』へ出場するというのだから双眸を見開くのも当然かも知れない。


「他の子たちとは動きが違うと思っていたけど、まさか、プロだとは……」

「この間、契約を済ませたばかりで、まだ実感もありませんよ。一応、デビュー戦も決まりましたが……」

「そうか、『天叢雲アメノムラクモ』に……か――」


 何か思うところでもあったのか、腕組みしながら幾度か頷いたのち、姫若子は「不躾な質問かもしれないが――」と切り出した。

格闘技雑誌パンチアウト・マガジンに来年末と書いてあった気がするんだが、『天叢雲アメノムラクモ』、かなり大掛かりなイベントをやるそうだね。確か、そう――『コンデ・コマ・パスコア』という……」

「『NSB』っていうアメリカのMMA団体との合同イベントなんですけど……」


 キリサメに代わって答えたのは未稲である。

 正式に参加選手として契約したとはいえ、彼はまだ『天叢雲アメノムラクモ』について無知といっても良い。『NSB』との合同大会である『コンデ・コマ・パスコア』のことを訊ねられても答えようがないと思ったのだ。


「そんな大会を取りまとめた立役者が『華斗改メかとうあらため』のワークショップに興味を持ってくれるとは思わなかったからね。うちの近藤くんも舞い上がっていたよ」

「お父さん、いちいちうるさいからご迷惑をお掛けしたんじゃないでしょうか……」


 大昔から憧れていたと熱弁する近藤にサインを頼まれ、彼のシャツへ自分の名前と格言を豪快に書き込んでいく岳の様子を窺ったのち、姫若子は未稲とキリサメに視線を戻した。


「……その『コンデ・コマ・パスコア』とやらに『アメリカン拳法』の使い手が出場すると風の噂で聞いたんだが、キミたちは何か知らないか?」

「アメリカン拳法……? いえ、僕は今、初めて聞いたくらいです」

「ブラジリアン柔術のモジり……ですか? 胡散臭さ炸裂なんですけど、本当にあるんですよね、そんな名前の格闘技?」


 キリサメと未稲は揃って首を傾げた。キリサメばかりでなく、父の活動をサポートする為に格闘技のことも勉強している未稲ですら『アメリカン拳法』は初耳であった。何しろ実在を疑ってしまったくらいである。


「アメリカン拳法なんていうとデタラメに作られた格闘技と思えるだろうけど、戦前に日本から南の島に渡った古武術がルーツらしいのだよ」


 そう語る姫若子の双眸は、まさしく海の向こうに思いを馳せている様子であった。


「私も又聞きだから、そこまで詳しくはないのだがね。日系ハワイ移民の子孫が家伝の武術を発展させて本土に伝えたのがアメリカン拳法の発祥ということだ」


 変わった名称の格闘技の歴史を紐解いた姫若子は「日系移民の子孫――つまり、アメリカン拳法の祖は『けんぽうさい』あるいは『ミトセ』と名乗ったそうだよ」とも言い添えた。

 『ミトセ』――と、姫若子に釣られるような形でキリサメは復唱した。

 やはり、ミトセという名前にもアメリカン拳法にも聞き覚えはない。それは未稲も同じであり、双眸を瞑りながら記憶の底をさらっている様子だった。


「掴みどころもない話を聞かせて悪かったね。知らないのなら構わないんだ。ただのこだわりなんだよ、私個人のね」

「……こだわりというのは?」

「因縁というヤツかな。……いや、〝この道〟を志した人間の運命とも言い換えられるのかも知れん」


 キリサメから何をこだわっているのかを尋ねられた姫若子は僅かに俯き加減となり、次いで自嘲気味に笑った。


「私が学んだジークンドーにとってアメリカン拳法は古い因縁の相手でね。憎しみ合っているわけではないんだが、……何というか、そう――いわゆる『仮想敵』なんだよ」

好敵手ライバル……でしょうか。ちょっと的外れかな、この例えは……」

「当たらずとも遠からずといったところだな」


 絶対王者として日本MMA界に君臨し続ける『海皇ゴーザフォス』と、その玉座を狙うレオニダスなど『天叢雲アメノムラクモ』にも因縁の対決はあるらしいが、それはあくまで選手同士のこと。異なる格闘技の間でも同様の関係が発生することにキリサメは驚かされた。


「……ミトセ……」

「――盛り上がってるとこ、すまねェんだが、ちょいと駆け足で帰り支度を済ませなきゃなんねーみたいだぜ。ぼちぼちケツを引っ叩かれそうだ」


 アメリカン拳法の祖という名前を繰り返したキリサメに岳から声が掛かった。一八時を過ぎたので、そろそろ演劇スタジオを閉じなければならないというのだ。

 その背後では近藤が岳直筆のサインに目を輝かせている。


「名残惜しいが、これでお開きだな。今日は楽しかったよ、ありがとう」

「お礼は僕のほうが言うべきですよ。本当にありがとうございました」


 未稲に支えられながら立ち上がったキリサメは、姫若子にこうべを垂れ、長時間に亘って付き合ってくれたことへ感謝を述べた。

 求められた握手にも素直に応じ、いずれまたワークショップに参加することを約束したのである。ゆくゆくは『華斗改メかとうあらため』の道場も訪ねるよう誘われたが、キリサメはこれに喜んで応じるつもりだった。

 そこでキリサメは、あることを想い出した。


「……そういえば、僕のこと、ちょくちょく覗いてましたよね」


 未稲や小日向を相手に『聖剣エクセルシス』をふるっていたときから姫若子に凝視されていたのだ。殺陣の模倣へ夢中になってはいたが、自分に注がれる視線に気付かないほどキリサメも鈍感ではない。

 これもまた貧民街で研ぎ澄ませた感覚である。何をしているときでも周囲の情報を常に取り込んでいなければ、瞬く間に死に捕まってしまうのだった。


「……バレていたか」

「あれだけ見られていたら誰だって気が付きますよ」


 姫若子は正面に立つ少年から視線を逸らし、気まずそうに頬を掻いた。


「……いや、なに……知り合いに似ていたのでね。もしや――と思ったんだよ」


 明らかに目を泳がせており、含みのある言い方でもあったのだが、姫若子のことを疑う理由などキリサメは持ち得ず、余計な詮索は控えることにした。


「今日は……今日は人生最良の日だッ!」


 感極まった近藤の雄叫び通り、実り多き一日だったのである。で十分だろう。


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