その9:古傷~死神は少女に誓う

九、古傷


 旅館から歩いて数分のところに大きな神社がある。観光ガイドによると、年に一度、松代では江戸時代の大名に扮した行列が町を練り歩く大きな祭りがあるらしい。その折に休憩場所としても使われるそうだ。

 田舎独特の風景というべきか、真夜中ともなると境内にも周辺の道路にも人影がない。

 境内には公園も併設されており、鉄棒やブランコといった遊具も幾つか置かれていた。この周辺だけはポールライトによって夜でも互いの顔を確認できる程度には明るい。

 キリサメと未稲の二人は、その光のもと、子ども用のブランコに隣同士で腰掛けていた。

 彼の場合はそこに座らされたというべきかも知れない。夜の松代を彷徨っているところを未稲に捕まり、神社ここまで連行されたのである。

 黙ってブランコを漕ぐ未稲の隣ではキリサメが俯いたまま何も喋らずにいる。錆びた鎖が擦れ、軋む音だけが夜の神社にだましていた。


「どこか行くアテがあったのかな?」

「え……?」


 正面を向いてブランコを漕ぎながら、未稲は努めて穏やかな声で訊ねた。


「だって、家出……するつもりだったんでしょ?」

「家出っていうか、その……」


 答えに窮したキリサメは膝の上に乗せてあるナップザックを無意識に抱き寄せ、大弱りといった様子で地面を見つめている。神社の境内であるから当然といえば当然なのだが、東京の街並みのようにアスファルトや敷石で覆われておらず、剥き出しの地面には草花がまばらに咲いていた。

 しかし、そこには未稲に返すべき答えなど埋まってはいない。視線を足元に落とすのは彼女を直視できないが為の逃避に過ぎなかった。

 いつまでも黙りこくっていることはキリサメにとっても苦痛である。何とか問い掛けに答えようとするのだが、どうしても声を絞り出せない。

 ブランコの近くには小さな手水舎が設置されている。さすがにそこが凍結する程ではないものの、春の訪れを遠く感じる長野の夜空は一分二分と刻む度に寒さが増していく。

 少年と少女の間に垂れ込める空気もまた冷たくこおっているように感じられた。


「私の――家族の前で派手な殴り合いをして居辛くなった。もう家出するしかないって考えちゃったんだよね。……違うかな?」

「……どうして……」


 未稲の言葉を受け止めたキリサメは弾かれたように上体を引き起こし、次いで彼女の横顔を窺った。

 双眸は驚愕に見開かれている。心の奥底で思っていたことを完全に見透かされたのだから大仰な反応になってしまうのも無理からぬ話であろう。


「私、ニブいほうだけど、それくらいは分かるよ。てゆーか、他に思い浮かばないし」


 そのように思い詰めてしまった原因が電知との路上戦ストリートファイトであることまで言い当てられたキリサメは、躊躇ためらいがちに首を頷かせた。

 いつしか未稲はブランコを止め、キリサメの言葉を噛み締めるかのように夜空を見上げていた。

 多目的アリーナが所在する市街地よりも星々の瞬きが眩しく感じられる。

 あの路上戦ストリートファイトでキリサメが披露した喧嘩殺法は本当ならば衆目に晒したくないものなのだろう。だからこそ、誰から褒められても喜ぶことはなく、『暴力』と忌々しそうにも吐き捨てたのだ。

 事実、あれは武芸の類ではなく人を殺傷する為だけに練られた技だったのである。判断を一つでも誤れば、電知は処置室ではなく霊安室のベッドに横たわっていただろう。

 しかし、未稲にはキリサメの技を単なる『暴力』とは思えない。彼は危難が迫った〝家族〟を守ろうとしたに過ぎないのである。それだから、見せたくないモノでもふるわなければならなかったのだ。


「キリサメさんに助けてもらって嬉しかったよ、私」


 それは未稲の偽らざる本心であった。家族の為にふるわれた拳を忌み嫌う理由などあるまい。感謝以外の言葉など持ち得なかった。


「キリサメさんがいなかったら、私、きっとあの四人に誘拐されてたもん。バロッサさんだってどうなってたか分かんないし」

「……僕なんか、そんな……」

「もう! 『僕なんか』じゃなくて、キリサメさんのお陰なの! だから、ありがとう。私とバロッサさんを助けてくれて本当にありがとう。一人で二人分のお礼を言っちゃったけど、あの人だって絶対に同じ気持ちだよ」


 礼を述べられたキリサメの側は呆けたような顔をさらしている。彼の中では乱暴の限りを尽くしただけであり、感謝される理由が全く見つからないようだ。


「怖く……なかったですか? だって僕は――」

「ちっとも怖くなんかないよ。怖いって思ってる人をこんな暗い場所に連れてくる? 何をされちゃうか、分かんないのに」


 自らを貶めるような言葉を紡ぎそうだったキリサメを未稲は「怖くない」と遮った。

 〝家族〟を守り切った行動だけは絶対に否定して欲しくなかった。それは彼自身の心を痛めつけることに他ならないのだ。

 未稲の優しさに触れたキリサメは眩しげに横顔を見つめたのち、膝の上のナップザックに額を押し当てた。

 隣の少女は余りにも眩しくて、〝闇〟から這い出した自分のような人間はその横顔を瞳に映す資格すら持ち得ないとはばかったのだ。


「……僕は……僕が怖いです……」


 喉の奥から絞り出された声は悲しいくらいに空虚であった。

 どのように言い繕ったところで『暴力』に変わりはない。人を傷付け、死に至らしめる為だけに暴れ狂う力――誤魔化しなど通じないくらい重い真実が『暴力』という二字に秘められていると、キリサメは誰よりも分かっているつもりだった。

 その真実から目を背け、正しいことのように偽るなどキリサメ自身が許せなかった。

 同じ闘いであっても岳がチョルモンと繰り広げたMMAの試合は純粋に胸が高鳴った。今なら観客たちが『天叢雲アメノムラクモ』へ熱狂する理由も分かるような気がするのだ。キリサメとて『超次元プロレス』に魅入られて血肉が沸騰したのである。

 人を惹き付け、熱くさせる岳の闘いと自分の『暴力』は正反対だった。

 強い相手と技を競い合い、互いの健闘を称え合うようなスポーツマンシップなど最初から存在していない。標的は弱いほど片付け易い。そのようにしか考えられなかった。

 幾度か電知から浴びせられた批難は全て正しい。目を狙うことも、女性に手を上げることも、卑劣な行為であると理屈では分かっているのだ。

 それなのに『暴力』をふるっている最中には罪悪感など微塵も起こらない。更にいえば、喧嘩が終わった現在いまも罪の意識は絶無である。キリサメにとっては『いけないこと』も単なる理屈として割り切れてしまうのだった。

 脳が痺れ、虫の這うような感覚が四肢に甦ると身も心もたちまち〝闇〟に呑み込まれてしまう。理屈などという不確かなモノなど容易く砕け散るのだ。

 心身を蝕む冷たい〝闇〟こそが『暴力』に続く道であり、その果ては貧民街の裏路地と地続きのように繋がっていた。

 〝闇〟の最果てでは、『暴力』こそが絶対的に確かなモノであり、自分の命を守る為の唯一のであった。

 『暴力』を振るうことは飯を喰らうことと同義であり、いちいち何かを感じる必要もない。「殴られる相手の気持ちを考えよう」などという道徳的な戒めは平和な社会でのみ許されるに他ならず、そこに意味など見出せなかった。

 一つの現実として、『暴力』にすがらなければ生きていけない〝闇〟がある。その中で命の糧にもならない道徳や理屈に何の値打ちがあるというのか。

 〝闇〟を自然の摂理のように考えてしまえる己自身がキリサメには薄気味悪かった。

 貧民街の〝闇〟の中を独りぼっちで歩いていたときには、そのような感情は一度も湧かなかった。母のはかもりを気取って集合墓地で寝泊まりしていたときなどは、何時いつ、誰に襲われるか分からないような緊張状態が睡眠中も続いていたのである。

 それなのに〝闇〟こそが自分の帰るべき場所だとキリサメには思えてならない。命が幾つあっても足りないような暴力の巣窟こそ似つかわしい。所詮、平和な日本に居場所などなかったのだ――と。

 それが今は変わってしまった。未稲も岳も、自分のような人間を家族と呼んでくれる。麦泉も親身になってくれる。〝闇〟の底から見上げるキリサメにとって彼らの笑顔はどうしようもなく眩しかった。

 自分を迎えてくれた人々は心にを持つことが許される平和な社会で生きている。心の一番深い部分まで〝闇〟に蝕まれた自分は、光に満ち溢れた世界とは決して相容れない。いつまでも縋り付いていれば、必ず彼らに災いをもたらすだろう。

 電知たちとの路上戦ストリートファイトを通じて己のうちに宿った〝闇〟の深さを思い知ったのである。

 平和な社会では認められない『暴力』しかふるうことができず、それどころか、何かの弾みで殺意が噴き出してしまう。それがキリサメ・アマカザリという野獣ケダモノの生態なのだ。

 だから、八雲家から離れるしかないと決心したのだ。故郷ペルーには戻れず、さりとて日本には他に頼る人もいないが、未稲たちを傷付ける前に離れなければならなかった。

 それが自分のような野獣ケダモノを拾ってくれた人たちへの恩返しだと信じたのである。

 それなのに未稲は去ろうとする背中を追いかけてきた。これまで自分の行動へ歯止めを掛けてくれた人に今度も見つかってしまった。


「――知らない町を、それもこんなド深夜に一人で歩くのは危ないよ」


 未稲から引き留められた瞬間、何故か安堵してしまった自分自身に戸惑ったのである。


「……不思議に思わなかったんですか? 僕がやってしまったこと、全部を……」

「喧嘩慣れのコト? 格闘技をやってるって話は聞いてなかったから最初はビックリしたよ。でも、癖ってヤツかなぁ。すぐにキリサメさんの闘い方が面白くなってきちゃったんだよね。荒っぽく見えるのに動きにムダがなくて……正直、超カッコ良かったよ!」

面白おもしろ――はい……?」

「あーゆーのって何ていうのかな? 見たことない格闘技だったよ。ボクシングっぽくもあったけど、ペルーの格闘技はさすがに聞いたことないなぁ~」


 己のうちに渦巻いていた懊悩すら忘れて顔を上げたキリサメは、口を開け広げた状態で稲の横顔を見つめた。

 いつものことと言ってしまえばそれまでなのだが、今度も彼女の発想は奇抜であった。『暴力』に感謝したかと思えば、人を破壊する為だけの荒っぽい喧嘩殺法を「面白い」と評したのである。


「……ちっとも面白いものじゃないですよ……」


 思わず頭を掻いたキリサメは再び足元に視線を落とした。

 先程は未稲からの問い掛けに何も答えられず、苦し紛れに地面を眺めていたのだが、今度は少し違う。ポールライトによって照らされた小石を数えながら、次に伝えるべきことを頭の中で整理しているのだ。


「……自然と身についたんです。……貧民街とか裏路地は無法地帯だったから――」


 そこでキリサメは言葉を区切った。

 二人の間に暫しの沈黙が訪れる。

 しかし、先を急かされるようなことはない。この沈黙こそが未稲の気遣いであると悟ったキリサメは視線を水平に戻した。

 故郷ペルーの格差社会に巣食っていたものとは違う暗闇を見据えた彼は、今こそ『暴力』の本質について打ち明けるときだと覚悟を決めたのだ。

 そうでなければ、ここまで心を砕いてくれた未稲に申し訳が立たなかった。


「――母さんが亡くなった後、僕は人に『暴力』を振るってカネを得ていました。迷い込んできた旅行客や、気まぐれにゴミ溜めを覗きにきた金持ち連中を狙ったり、酷いときは同じ貧民街の住民を襲ったりして……」


 キリサメが切り出したのは罪の懺悔であった。

 母が開いた私塾で他の子どもたちと一緒に授業を受けてはいたものの、職に結び付くような専門的な知識は得ておらず、貧民街に一人遺された後のキリサメには生計を立てられるだけの能力など身についていなかった。

 つまり、貧民街で岳を襲撃した少年強盗団や日系人ギャング団と同じ犯罪ことでしか生きる糧を手に入れられなかったのだ。物心つく前から知っていた同い年の少女もを生業としており、盗品を闇市ブラックマーケットで売り捌いて何とか食い繋いでいたのである。

 無論、貧困という境遇に責任をなすり付けるつもりはなかった。幾ら職を得るのに必要な知識が備わっていなかったとはいえ、肉体からだは人より丈夫に育ったのだ。

 親しくしていた知人と同じように貿易港で働くという選択肢もあったはずである。荷物運びは何時でも人手が足りなかった。他にもカネを稼ぐ手立てがあると知りながら最も簡単な方法へ逃避したに過ぎなかった。

 〝悪〟の所在を求めるならば、自分の心の弱さでしかない――そのような意識を抱いていればこそ、人生の歯車を狂わせた原因として貧困を挙げられないのだ。


「僕のほうが逆に襲われることも多かったです。刃物を持った大人たちから一日中、逃げ回ったこともありますよ。襲って襲われてを繰り返す内に、どう殴れば一発で相手を倒せるか、腕を捻って組み伏せたほうが手っ取り早いとか、……そんなことばかり考えるようになりました」


 無人島に漂着した人間が文明とかけ離れた環境に順応し、知恵を絞ってサバイバル生活を送るようなものである。大自然の中で生き抜く為には洞窟を我が家とし、食べられる野草を試し、動物や魚を獲る方法も編み出していくだろう。

 キリサメが貧民街で培い、研ぎ澄ませたモノは無人島で暮らす為に必要な道具を作っていくことと少しも変わらなかった。火のおこし方を考えるのと殺傷の技を編み出すのは試行錯誤という点にいて同義であろう。


「一日一日を切り抜ける間に人の壊し方が馴染んでいったんです。……『聖剣エクセルシス』――リマから持ってきた〝仕事道具〟だって同じですよ」


 足元から少し大きめの石を拾い上げたキリサメは、これを掌中に握って振り落とすような仕草を見せた。

 手首のスナップも効かせたは電知の頭を殴った際と全く同じである。路上戦ストリートファイトでは頭突きを見舞った直後に追撃として重ねていたが、本来は拳ではなく石を叩き付ける技であったのだ。

 キリサメは掌中の石を鋭く投げた。それから一秒にも満たなかっただろうか。少し遅れて乾いた音が辺りに響いた。夜の闇に塗り潰されているのでブランコの位置からは殆ど分からないのだが、風を裂いた石は社殿の近くに立つ大きな古木に当たったようだ。

 無論、これは偶然などではあるまい。闇夜の中であっても狙った的には確実に命中させられるのだろう。何しろ上下屋敷の靴に仕込まれた隠し武器をも見破る眼力である。


「同じ首都リマでも金持ちが暮らす中心街はともかく、貧民街に治安なんてありませんでしたから、どこで誰に襲われるか、分からなかったんです。……日本に来るまで『熟睡』って言葉も忘れていましたから」


 ブランコから立ち上がったキリサメは、おもむろにシャツを脱いだ。

 ギョッとして腰を浮かせそうになる未稲であったが、それも一瞬のことである。すぐに表情を引き締め、「……痛みはないんだよね?」と控えめに尋ねた。

 数時間を置いて再び露となったキリサメの上半身には、電知との路上戦ストリートファイトで刻まれた真新しい傷や青痣とは別に無数の古傷が散見される。これについて痛みがぶり返してはいないかと確かめたのである。


「全部塞がっていますから、大丈夫です。貧民街の闇医者に診て貰いましたけど、医師免許はともかく腕は確かだったし……」


 今度も未稲の双眸は銃で撃たれたと思しきあとに釘付けとなった。縫合跡も生々しい刺し傷を見る限り、内臓まで傷付けられたこともあるのではないだろうか。

 それらのきずあとは日本で安穏と暮らしている人間には想像もつかないものばかりである。


「ギャング紛いの連中に目を付けられて殺されそうになったこともあります。そこまで来ると、……後はもうどちらか片方が潰れる以外には終わらない……」


 大人のみで構成された強盗団に捕まって半殺しにされかけたこともあるとキリサメは明かした。複数の人間から蹴られ続けて意識を失いそうになったときなどは相手のふくらはぎを噛み千切って血路を開いたという。

 取っ組み合いになった相手の骨をへし折ったことは数知れず、怨恨から襲ってきた者は幾度も返り討ちにした。二度と報復など考えなくなるよう執拗に恐怖を植え付けた。どうしようもなく餓えたときには弱々しい老人を襲って金銭を奪った――と、キリサメは淡々と語っていく。


「船のオールみたいなゴツい武器ヤツは護身用だったのかな――って質問はヤボだよね。思いっ切り〝仕事道具〟って言ったもんね」

「前の持ち主は気取って『聖なる剣』と呼んでいましたが、矛盾以外の何物でもありませんよ。……こんなにも穢れたモノに何を言ってるんだか……」


 『聖なる剣』という命名自体が痛烈な皮肉であった。

 自室に置いてきた『聖剣エクセルシス』は二枚の平べったい木の板を鋭く研いだ石や鉄片と共に重ね合わせてノコギリのように繰り出すという原始的な構造の武器である。刀身全体を黒く変色させているのは斬撃によって削り取られた人間のあぶらや鮮血に違いなく、聖遺物のような呼び名など全く似つかわしくなかった。


「古代インカの遺産っぽい見た目だったよねぇ。ひょっとすると伝説の剣だったりして」

「何度も修理や部品の付け替えをしてるから伝説も何もあったもんじゃありませんけど、仮に未稲氏の言う通りならメキシコの遺産でしょうね。前の持ち主は向こうから流れてきた人間だったので……」

「マヤとかアステカ辺りのシロモノかなぁ。ネットで調べてみよっかなぁ」

「お好きなように……」


 なまえの響きからして未稲のような連想に至るのはごく自然であろうが、改めてつまびらかとするまでもなくアーサー王のエクスカリバーのような古代いにしえの英雄伝説に登場する神秘の遺産などではない。

 所詮は喧嘩殺法の延長――人を壊す為だけに振るわれる〝仕事道具〟に過ぎなかった。


「メキシコの遺産だとしたら僕には間違いなく天罰が下りますよ。……前の持ち主だって裁きを受けたのですから――」


 どれだけの血を吸ったのか知れない『聖剣エクセルシス』にも触れていくキリサメだったが、前の持ち主に言及したところで独白が途切れた。


「――それでも……母さんに『生きろ』と言われたから、僕は……」


 ようやく絞り出されたキリサメの声は今にも消えそうなほどはかなかった。

 未稲から背けた顔は血の気がすっかり失せ、唇などは病的な色に変わっている。亡き母について触れたとき、身体が拒絶反応としか思えない変調をきたしたのだ。


「……どんなことをしてでも生き延びろと……あの日……母さんが僕に……」


 もう一つだけ、どうしても未稲に明かさなくてはならないことがあった。

 『聖なる剣』と称すること自体が神へのぼうとくにも等しい〝仕事道具〟の正体である。

 禍々しさを形にしたような刃が〝誰〟を斬殺せしめたのか――これだけは隠しておけないと決心したはずなのに、言葉を紡ぐという命令自体を脳が拒否しているようであった。

 肉体を蝕む苦悶は、その反動としか考えられなかった。

 これまで伏せてきたことを何もかも打ち明ければ、もしかしたら、未稲にも見限ってもらえるかも知れない。〝闇〟に帰ろうとしても二度と引き留めはしないだろう。

 それが最良の選択だと理屈では分かっているのに未稲から突き放されることを本能が恐れているのだ。そして、それ故に最後の秘密を口に出せなかった。

 刃物や銃を向けられようとも何も感じないのに、一月ひとつき前までは名前も知らなかった少女に背を向けられることが耐えられないのだと、キリサメは苦悶の中で自覚した。

 他人ひととの繋がりなど求めてこなかった自分がどうして誰かに執着してしまうのか。その理由はキリサメ本人にも分からない。

 『暴力』の応酬が当たり前の〝闇〟の底では、他人ひととは敵でしかなかったのである。


(……〝あいつ〟にだって、こんな気持ちなんか……)


 不意に幼馴染みの幻が脳裏を掠めた。

 葬式帰りの喪服のようにも見える黒ずくめの少女とは互いの体温を知るほどに近しい存在であったが、それでも道をたがえることに恐怖おそれは抱かなかった。いずれは離れ離れになるだろうという諦念が両者の間に横たわっていたのである。

 事実、〝その日〟を迎えたときにも涙の一粒さえ流さなかったのだ。

 自動車に撥ねられた直後のような痛ましい有り様の幻は、皮肉や揶揄を飛ばすこともなくキリサメを見つめ返していた。肩甲骨の辺りで結び合わせ、折れた右腕を吊るスカーフだけが〝何か〟を静かに訴えている。

 彼は幼馴染みと揃いのスカーフを故郷ペルーのである。


「――大丈夫だよ、キリサメさん」


 傷だらけの幻を掻き消し、キリサメの意識を現実世界に引き戻したのは未稲の声と体温であった。

 未稲に正面から抱きしめられ、その体温に包まれ、「大丈夫」とささやいて貰えた瞬間、キリサメは自分でも驚くほどに安らいでいた。


「言いたくないことは言わなくても良いんだよ。そんなの、誰だって一緒なんだから。言わなくたって分かり合えるのが家族だよ」


 自分の胸の中にキリサメの頭を掻き抱いた未稲は、母親が我が子へ教え諭すかのように優しく言葉を紡いでいく。

 ペルーでの壮絶な経験を打ち明けられたとき、彼女は恐怖や嫌悪感を覚えなかった。ただ彼の歩んできた道が哀しかった。

 命というものをぼうの石程度にしか感じない残虐な人間であったなら、『暴力』以外に生きるすべがなかったことを誇らしげに語っただろう。腕力に物を言わせて生きてきたと自慢したに違いない。

 彼はどうか。声を詰まらせるまで喋り方は酷く淡々としており、感情が入り込む隙間もなかった。未稲はそこにキリサメという少年の慟哭を感じ取ったのである。

 生き抜くことと『暴力』が結び付く〝闇〟の世界に順応せざるを得なかったのだろう。そして、変わらざるを得なかった自分に懊悩を繰り返し、いつの間にか、無感情でしかいられなくなった――それこそがキリサメを蝕む苦しみの形なのだと未稲は捉えていた。

 『ユアセルフ銀幕』で配信されるネットニュースなどから得た断片的な情報と、これに基づく漠然としたイメージに囚われてキリサメが生まれ育った故郷ペルーを危険な土地と思い込んできたのだが、未稲は〝現実〟の姿をまるで理解していなかった。

 何をもって平和ではないと断じるのか、そこまで想像が及ばなかったといっても良い。

 貧富の差という想像を絶する世界には『生きる手段としての暴力』が根差しており、それ故に『危険』の二字が付き纏う。血と罪にけがれてでも生きるべきか、腹の足しにもならない正義感を選んで死ぬべきか、極限の生存闘争が絶えず繰り広げられているのだ。

 しかし、そのような〝闇〟の中でしか生きられない人間がいる。危険と常に隣り合わせという穏やかならざる世界にしか居場所がない人間もいる。その〝現実〟がキリサメの前に立ちはだかっていた――それだけのことなのだ。

 だから、未稲はキリサメのふるう技を『暴力』とは思わない。

 それは生きる為の闘いなのだ。平和な社会でしか通用しない道徳心から〝闇〟を覗き、生存闘争を『悪』と切り捨てることなど、どうしてできようか。


「キリサメさんはずっと闘い続けていたんだね。寝てるときも気を張り続けて……そりゃ強いわけだよ」


 ふと未稲はキリサメを抱き締める力を強めた。


「屋根の上にいると落ち着くって、ちょっと前に話してくれたよね。あそこが危ない場所だって自覚はあったのかな?」

「……あれくらいの高さは慣れています」

「幾ら慣れていても足を滑らせたら命が危ないってコトは?」

「……それはまぁ、……一応……」

「だからね、私、キリサメさんは危険な場所じゃないと落ち着かないんだって思ってた。車道に飛び出したのも、電信柱に登ったのも、そういうことかなって」


 ほんの一瞬、キリサメの身体が胸の中で震え、次いで小さな笑い声をらした。自分自身を嘲るような苦笑いであった。

 以前に軍事ミリタリーマニアのデザート・フォックスから教わった通りである。

 同じ症状に悩まされる戦争帰りの兵士も多いそうだが、長期間に亘って緊張状態を強いられてきた人間は急に安全な環境に移されると情緒不安定に陥るというのだ。「これもまた戦争の後遺症と呼ぶべきものであります」と、デザート・フォックスは電子メールにて語っていた。

 キリサメも危険の中でしか落ち着けない状態となっていた。〝帰還兵〟という極端な見立ては、実は大きく間違っていなかったということである。


「……本当に僕はどうしようもありませんね。あらゆることで未稲氏を困らせてる……」


 未稲の胸に顔を埋める〝帰還兵〟の声は、何時にも増して虚ろだった。


「……麦泉氏には進学を勧められたけど、こんなに物騒な生徒を受け入れてくれる学校なんかあるわけないし、商売をやれるような頭脳アタマもありません。……人を殴ることしか能がない役立たずなんか、あの家に居てはいけないから……だから、僕は――」

「――キリサメさん、一つ思い違いしてるよ」


 自分を卑下しないで欲しいという未稲の祈りは、穏やかな声を通じてキリサメの心に伝わっていく。戒めの中に込められた願いが響いたからこそ貧民街の〝帰還兵〟は口を噤んだのである。


「自分には『暴力』しかないって何回も言うけど、私はあれを『暴力』だなんて思わないな。全然違うものだよ」

「……『暴力』以外のなんだっていうんですか……」

「本当の『暴力』は見ていて気持ちの良いものじゃないでしょ? 私だったら目を逸らしちゃうよ。……でもね、キリサメさんの闘いは違ったんだ。『E・Gイラプション・ゲーム』のチビ助と勝負していたときなんて、もしかしたら、お父さんの試合と同じくらい燃えたかも。あの瞬間、私のは確かに熱くなってたんだから」

「いえ、ココって言われても……」

「今、キリサメさんが押し付けられてる部分のことだよ」


 そう言いながら未稲は「ここで『押し付けるほど膨らんでない』とか指摘ツッコミかましたら台ナシだから、思い切ってスルーしようね」とも釘を刺す。


「あのチビ助だって一緒。最初はアブない理由で突っ込んできたけど、いつの間にか、キリサメさんと闘うことをすっごく楽しんでたもん。フツー、『暴力』振るわれて喜ぶ人なんかいないよ。……闘うほうも、見ているほうも、テンションの限界を突き抜けるような名試合だった――ほら、キリサメさんってばお父さんと変わんないじゃん」

「……僕が……? あんなものが……?」

「間違いなくキリサメさんにしかできない試合だったよ。私、入場チケット買ってもいいくらい。バロッサさんは勿論、孔のおじいちゃまだって褒めてたでしょ?」

「あれは褒めてたんですか……」


 岳が『天叢雲アメノムラクモ』のリングで披露する『超次元プロレス』とは違い、貧民街で編み出した『暴力』などは人を怯えさせるだけのものだと思っていた。誰かの心を熱くさせることなど絶対に有り得ないはずだったのだ。

 それなのに、未稲は父の試合と同じくらい昂揚したと言い切ってくれたのである。

 彼女に言われて振り返ってみると、『E・Gイラプション・ゲーム』の刺客であるはずの電知も最後には所属団体の事情を放り出し、「面白い喧嘩」を楽しみたいと笑っていた。その様子に「目的と手段がごちゃ混ぜになってないか」と呆れ返ったものだ。


「『天叢雲アメノムラクモ』に限らないけど、MMAのリングはね、ただ闘う為だけの場所じゃないの。闘いを通して何かを表現する舞台であるんだよ。相手に勝つことじゃなくて、試合内容そのもので何を表現するか、そこに美学を持ってる選手も少なくないんだから」

「……まるで演劇みたいな話ですね。どちらかというと、ダンスに近いのかな……」

「MMAはね、そういう舞台と同じように感動を伝えられるの。キリサメさんの技でしか表現できることだって必ずあるよ。現に私は感動をバシッと受け取ったもん」

「……どんな力も使い方次第ということですか?」

「使う人の心次第ってトコかな。ペルーではどうだったか分からないけど、今のキリサメさんは自分の〝力〟との向き合い方が変わったんじゃないかな? ……どうかな?」


 彼女の胸の中で頷きながら、キリサメは自分の心の中で「変えてくれたのは未稲氏なんですよ」と静かに呟いている。

 八雲未稲という少女は、心を蝕む〝闇〟を知られたくないと思った相手なのだ。


「だったらさ、それはもう『暴力』なんかじゃないよ、うん。みんなに胸張って自慢して良いキリサメさんだけの〝力〟だよ」


 〝戦士〟にとって不可欠な『心技体』の三本柱が誰よりも優れたキリサメに相応しいことは、未稲にはたった一つしか思い浮かばなかった。

 キリサメを解放した未稲は、次いで彼の双眸を正面から見据えた。


「MMAに――『天叢雲アメノムラクモ』に出てみない?」


 未稲の言葉を受けて、キリサメは眠れる獅子ともたとえるべき双眸を大きく見開いた。

 驚愕するなと強いるほうが無理であろう。未稲は岳と同じリングに上がれというのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』のルールでは選手の安全性を考慮して目潰しも金的も禁じられている。そうした反則行為でこそ実力を発揮するような野獣ケダモノをMMAのリングに放つなど、どう考えても真っ当な判断ではなかろう。


「孔のおじいちゃまじゃないけど、私の目にもキリサメさんはめちゃくちゃスジが良いように見えたよ。あれだけの柔道家と互角に渡り合う戦闘力を生かさないのは絶対に勿体ないって」

「……人前で振るったら大変なことになりますよ、あんな『暴力』――」

「――『暴力』じゃない……でしょ?」


 凛と強く、けれども優しい声でキリサメの自己否定を押し止めた未稲は、おもむろに彼の右手を取ると、自分の両手でもって包み込んだ。


「今でも屋根の上や電柱のほうが落ち着く?」

「……これからは屋根の上じゃなくてリングに上がれっていうこと……かな?」

「そうして貰ったほうが私的には嬉しいかな。ご近所さんから警察呼ばれる心配もなくなるし、あと家計も助かるしぃ~」


 家計を預かる未稲ならではの冗談にキリサメも苦笑せずにはいられなかった。そもそもテレビゲームに対する浪費を窘められていたのは彼女のほうであろう。

 今度は自分でも笑っていることが察せられるくらいに表情筋が動いていた。


「家計というより未稲氏個人の必要経費じゃないんですか? 一昨日の晩も岳氏から無駄遣いだって言われてましたけど、あれって要は使い込みなんでしょう」

「ひ、人聞き悪いなぁ~! あれはその……期間限定の再ドロップを逃したら次はない覚悟っていうか――だって松阪牛サマだよ⁉ 私が遊び始める前のイベントで配布されてたレアカードなんだよぅ~!」


 肉や魚の脂を擬人化した〝ガチャゲー〟であり、そこに登場する男性キャラクターたちの人気によって食肉消費量が全国的に右肩上がりと熱弁されても、キリサメには全く意味が分からなかった。

 説明の中には幾度も「期間限定」という謳い文句が出てきたが、おそらくはその文言フレーズに惑わされて平常心を失い、父から呆れられるような金額を注ぎ込んでしまったのだろう。

「そ、それを言うなら、お父さんの浪費癖だって人のこと、言えないくらいヤバいんだからね⁉ 誰彼構わず調子に乗ってご馳走しまくるから一ヶ月の稼ぎがぶ勢いだし! 今夜だって心配だよっ! それに比べたら私の一〇〇連ガチャなんて可愛いもんだよ!」


 またしても笑った顔が可愛いと冷やかされてしまったが、左右の人差し指を擦り合わせつつ必死になって誤魔化す姿を見せられては堪え切れるものではなかろう。


「……私はカウンセラーでも何でもないから、正しい診断かは分からないけど、緊張状態が落ち着くのなら『天叢雲アメノムラクモ』は最高の場所だと思うんだ。そういう欲求を試合で発散すれば普段は落ち着いていられるんじゃないかな。……どうだろ?」

「ガス抜きみたいなコトですか? どうかと訊かれても試したことがないから……」


 確かに貧民街で『暴力』を振るった直後は気持ちが落ち着いたと言えなくもなかったのだが、それは一つの危地を切り抜けたという瞬間的な安堵であって未稲が唱えるような効果があったとは思えない。


「それにホラ、緊張できる場所を一つでも持っておくのもいいんじゃないかな? 危ないコトをしたくなっても『もう少しすれば試合がある』って我慢できるかもだし。日々のトレーニングで欲求自体が解消されたら、それはそれでオーライじゃん!」

「……相変わらず理論がブッ飛んでますね」


 奇想天外な思考は今に始まったことではないが、これは極め付けといえよう。

 日本へ移り住み、故郷ペルーと異なる平和な社会へ身を置いて以来、うちなる〝闇〟を持て余してきたのだが、未稲のような〝発散〟は一度たりとも考えたことがなかったのだ。

 もしも、本当に〝闇〟を抑えておけるのであれば、試す価値は大いにあるだろう。


「大胆不敵なアイディアだったら、私に任せといて! 〝ネトゲ〟仲間たちにも飛び道具担当って言われてるからね! 全然、褒められてる気がしないけど!」


 胸を張るような恰好で一頻り笑った後、未稲はキリサメの肩に両手を乗せ、真っ直ぐに互いの視線を交えた。


「……私はキリサメさんの歩んできた道が間違いじゃないことを証明したい。今までキリサメさんを生かしてくれたその力は胸を張れる誇りなんだって、『天叢雲アメノムラクモ』で確かめて欲しい。……それが一番の理由だよ」

「未稲氏がそう言うのなら――そんな風に思える日が来るのなら……」


 何のちゅうちょもなく未稲の言葉に頷けることがキリサメ自身にも不思議で仕方がなかった。彼女に「暴力じゃない」と諭されると、あたかもそれが真実のように心へ馴染むのだ。

 どうして、この少女の言葉は心の一番深い場所まで響くのだろう。未稲が示す道は何時だって〝闇〟をも拭い去る光で満たされているのだ。

 いつだって未稲は〝闇〟から自分を救ってくれる。心からの安らぎを与えてくれる。そして、相容れない存在であるはずの自分を変えようとしてくれている。

 もはや、未稲のことを〝他人〟とは考えられなかった。


「傘を拾ってくれた雪の日に続いて通算二度目だった〝アレ〟も喧嘩の中で編み出したものだったりするのかな?」

「……〝アレ〟って言うのはテントみたいな車庫から飛び降りた直後あとの――」

「あの〝アレ〟だよ。私の目の錯覚じゃないなら、あそこまで人間離れした動きは空前絶後だもん。『天叢雲アメノムラクモ』のリングでも間違いなくキリサメさんだけの最終兵器ラストリゾートになるよ」

最後の行楽地ラストリゾート? 一体、どういう意味かは分かりませんが、……〝アレ〟については僕にも上手く説明できないんです。自分で考えた技なんかじゃありませんし……」

「技じゃないってコトは能力強化系? 五感や第六感を超えた七つ目の感覚みたいなヤツだったりして。それとも、インカ文明に伝わる神秘の呼吸法とか?」

「……僕自身にも良く分からないって、話したばかりなんですけど……」


 路上戦ストリートファイトいて脳が死の危険を認識したこと瞬間に発動された〝隠し玉〟――神速の領域にも達する動きを適切に解き明かせる言葉をキリサメは持ち合わせていなかった。己が身に宿った異能ちからを隠す為に口を噤んだのではなく、何とも表しようがないのである。

 それどころか、自分の意志で発動を操作コントロールすることさえ叶わない有り様だった。


(今日なんか何回も死を覚悟したのに、目覚めよと呼ぶ声が聞こえたのはたった一度きりだもんな。本当、猫みたいに気まぐれでどうしようもない……)


 電知と組み合ったまま簡易ガレージから飛び降りたことが引き金となったわけだが、その瞬間ときのことを振り返るたび、キリサメは腹の底から震えそうになる。

 死神スーパイに捕まると視認したのは瞬きよりも短い時間だった。その一瞬だけ身のうちに宿るものを解き放ち、冥府へ葬送おくられることを免れた次第である。

 瞬間的な発動で済んだからこそ肉体からだへの反動も最小限に抑えられたのだ。もしも、〝あの状態〟が長時間に亘って持続していたなら全身が千切れ、身動き一つ取れなくなっていたはずだ。そして、最後には『コンデ・コマ式の柔道』の餌食にされたことだろう。

 発動の確率さえ定まらない異能ものを頼りにして勝てるほど〝実戦〟は甘くない――そのように考えるキリサメの顔を未稲は怪訝そうに覗き込んでいた。


「曰く有りげ……なのかな? そ~ゆ~のも全然アリだよ! 例えば『天叢雲アメノムラクモ』にもあいぜんさんっていう女性ひとがいるんだけど、生まれ持った絶対音感とこっぽうの技を組み合わせた不思議な様式スタイルなの。キリサメさんもで行ってみよっか!」

「言いたくないことは言わなくても良い。それが〝家族〟だって言ってくれたのは、どこのどちらさんでしたっけ?」

「あ、あうぅ――それを持ち出されると何も言えなくなっちゃうなぁ。でも、『天叢雲アメノムラクモ』に殴り込みを掛けるならインパクトあったほうが絶対にウケが良いし……」


 己自身の言葉を引き合いに出された未稲は一瞬だけ口ごもってしまったものの、キリサメに宿った異能モノへの関心はついに断ち切れず、控え目ながら質問を重ねようとした。


(……何でもかんでも母さんの声が引き金っていうのも、どうかと思うけどな――)


 答え難いことを誤魔化すにはどうするべきか――これについてキリサメの母はたった一つの方法しか息子に授けていなかった。あるいは質問者を黙らせる強硬手段と呼ぶべきかも知れない。


「ちょっ、また――」


 未稲の頬を両手で挟んだキリサメは、母から教わった通りに多弁な口を塞いだ。

 一日の内に二度も唇を奪われるという衝撃に打ちのめされた未稲は思考回路が焼き切れてしまい、腰を抜かしてへたり込むしかなかった。



 孔普麗、カリガネイダーの二人と別れ、岳と麦泉が旅館に戻って来たのは深夜とは言い難い時間帯である。時計の針は四時過ぎを示しており、もはや、早朝と呼ぶほうが相応しい頃であった。

 岳たちはキリサメを含めた三人使用の和室へ泊ることになっている。彼を起こしてしまわないよう努めて静かに入室したのだが、どういうわけか、玄関と客室の間を仕切る襖からは光が漏れているではないか。

 あと何時間かすれば日の出を迎えるというのに、まだキリサメは起きているようだ。


「なんでェなんでェキリーのヤツ、一人で晩酌してたんかぁ~? それとも、おピンクなチャンネルにかじり付きだったりして⁉ ンな寂しいコトしてね~でカラオケに来りゃ良かったのによぉ~。なァ、文多、そ~思うだろっ⁉」

「ちょっと……センパイっ! 静かに! 電気消し忘れただけかも知れないでしょう!」


 泥酔した勢いに任せて大笑いする岳の脇腹を肘で小突いた麦泉が襖を開けると、客室ではキリサメと未稲が行儀よく正座しているではないか。

 理由は判然としないが、父の帰りを待っていたのは明白である。

 入院こそ免れはしたものの、電知から激しいダメージを刻まれたことに変わりはなく、身体を休めなくてはいけないとキリサメを窘める麦泉であったが、その声は岳の高笑いに吹き飛ばされてしまった。

 例えキリサメが寝ていなかったとしても加減のない喚き声は隣室の迷惑である。せめて声量を落とすよう麦泉は身振り手振りまで交えて岳に促したが、全身から酒の匂いを漂わせている男に通じるはずもなく、「キレッキレの動きならオレだって負けてねぇぞ!」などと言って全身を大きく揺さぶり始めた。

 隣室に宿泊している客や旅館の従業員が怒鳴り込んで来ないことが不思議なくらいである。幾重にも連なる山々から太陽が顔すら出していない早朝にも関わらず、岳はパンク・ロックの一曲ナンバーを唄い始めたのだ。

 インディーズ・シーンのカリスマとも呼ばれるパンクバンド、エスエム・ターキーの代表曲である『キャサリン』であった。

 ペルーの集合墓地でキリサメと初めて出会ったとき、一種の〝符丁〟として口ずさみ、数時間前にもカラオケボックスで唄い上げたばかりである。

 ある意味にいてキリサメと岳とを結び付けた歌というわけだ。

 今、その歌声に対して少年は神妙な面持ちで耳を傾けている。普段のキリサメであったなら迷惑の二字を顔面に貼り付け、これを隠そうともしないはずだが、今日に限っては押し黙ったまま噛み締めているようではないか。

 その様子に麦泉の不安は一等膨らんでいった。


「おうおうおう、なんだなんだ⁉ 父ちゃんの知らねー内にハートがドッキンドッキンするみてェなときめきイベントまで進んじゃったのか、おめーら⁉」


 畳の上に腰を下ろした岳は両足の裏を打ち鳴らすことによって隣同士に座るキリサメと未稲を冷やかしたが、どちらも真剣な表情を崩さない。

 二人とも只ならぬ雰囲気を纏っていた。未稲に至ってはキリサメの手を握り締めながら父の顔を見据えているのだ。

 その未稲と頷き合ったのち、キリサメは深呼吸を一つ挟んで口を開いた。


「――岳氏にお願いがあります」

「おうッ! なんでも言ってみィッ!」

「僕を『天叢雲アメノムラクモ』に出場させて下さい――総合格闘技MMAに挑戦したいんです」


 ペルーから日本までずっと誰かに流され続け、何事にも無感情であったキリサメが初めて自分の想いを表したのである。

 岳の隣でキリサメの訴えを聞いていた麦泉は我知らず双眸を見開いていた。

 一緒に居るということは未稲から何らかの影響を受けたのだろうが、キリサメ自身の瞳が今までとは全く異なって見えたのだ。相変わらず瞼が半ばまで落ちているものの、そこに宿した光は間違いなく強さを増している。

 路上戦ストリートファイトの勝利に浮かれて調子に乗り、軽率にMMAへの挑戦を表明したのではない。そのことはすぐに察せられた。彼なりに悩み、考え抜いた末の結論なのであろう。

 キリサメの瞳にて煌めく光の名は、決意というのである。


「……来るべきときが、来てしまった……いや、これはもっと最悪な――」


 岳が熱心に誘い続ければ、養子という立場からもいずれキリサメは断り切れなくなるだろうと麦泉は予想はしていた。それならば、無理強いを理由に反対することもできたのだが、彼が自らの意志でMMA参戦を直訴した以上、差し出口自体が難しくなってしまう。

 今まで危険な環境で生きてきたキリサメには『天叢雲アメノムラクモ』ではなく〝正業〟に就いて欲しいと願っていた麦泉にとって、それは大いなる誤算であった。

 キリサメの背中を押したとしか思えない未稲の様子を窺い、目配せでもって最善の選択か否かを訊ねてみれば、彼女もまた覚悟を決めた面持ちで頷き返すのだ。

 この場にいては〝大人おとな〟の訓戒ことばなど何の意味も為さないだろう。麦泉も漫然ぼんやりと年齢を重ねてきたわけではない。例えそれが誤った〝道〟であろうとも、大冒険に臨まんとする若者が決意の一歩を踏み出そうという瞬間とき、年長者の説得が彼らの心に届かないことを経験で知っている。

 だからこそ、麦泉は双眸をつむるしかなかった。

 何よりもキリサメは新しい〝道〟へ進もうとしている。どのような花が開くとも分からない内から可能性の芽を摘み取ってしまうのは〝大人おとな〟として正しい選択ではあるまい。


「あッるぇ~⁉ 『未稲さんを僕に下さい』って話じゃねーの⁉ つまんねーなァ~!」


 酔いが回っていたでつい冗談めかしたことを口走ってしまったが、今の言葉を誰よりも何よりも待ち望んでいたのは彼である。

 キリサメと『天叢雲アメノムラクモ』の縁を結び付けるつもりでバトーギーン・チョルモンとの試合に臨んだといっても過言ではないのだ。そして、その試合がおきとなったことは紛れもない事実であった。

 本懐を遂げた岳は改めてキリサメに向き直ると、一〇代の少年のような――あるいは目の前の養子むすこよりも純粋で幼い笑顔を弾けさせた。


「キリー、お前を世界で一番強い男にしてやるぜッ!」

「そこまでは結構です。空閑電知どこかのバカみたいな誇大妄想はうっとうしいだけなので」

「そこはお前、素直に頷くトコじゃねェ⁉ 世界最強は全ての格闘家の夢なんだぜッ!」


 養父ちちの手がキリサメの肩を掴んでいる。痛いくらいに食い込んでくる両の五指と、そこから伝わる熱い想いを彼は決して忘れないだろう。

 生まれて初めて自らの意志で運命を変えたキリサメ・アマカザリの横顔を未稲は誇らしげに見守っていた。



 『天叢雲アメノムラクモ』第一二せん~信州から明けて翌日の長野市内は春の息吹を肌にも感じられるような晴天であった。

 まるでキリサメの新しい出発を祝うかのようであったが、折角の青空も病院のベッドへ強制的に留め置かれているでんは窓から仰ぐ程度しか楽しめなかった。

 路上戦ストリートファイトで折られた鼻骨やボルトを踏んだ拍子に甲まで貫通してしまった右足など重傷を負った部位などの経過を確かめる為、今日の午後までは院内で休むよう治療に当たった医師から厳命されている。

 朝方に一度は脱走を試みたものの、東京から長野まで漕いできた自転車ママチャリはキリサメに壊されたまま手付かずであり、おまけに他の三人が宿泊しているビジネスホテルまで運ばれていた。移動手段を完全に失ってしまったわけだ。財布などを詰め込んだドラムバッグも左右田に預けた為、新幹線に飛び乗ることもできない。

 仕方なく携帯電話スマホでパンギリナンに連絡を取ってみれば、電知に退院許可が出るまでは孔普麗と共に長野市内を観光するそうだ。ベッドを引き払う頃には『E・Gイラプション・ゲーム』から迎えの自動車が到着し、そこで合流する段取りとなっている。

 こうなると八歩塞がりである。六人部屋の窓際に宛がわれた自分のベッドまで戻ってきた電知は最終的な検査までの間、暇を持て余すことになった。

 日曜日の午前中ということもあって気持ちが妙に落ち着かない。普段であれば稽古に励んでいる時間帯なので、朝食まで済むといよいよ手持ち無沙汰になるわけだ。暇潰しの腕立て伏せも看護師に見つかり、厳重に注意されてしまった。

 テレビ視聴用のプリペイドカードは十分に残高が残っているが、ベッドに寝転んでいること自体が苦痛な電知には宝の持ち腐れでしかない。チャンネルを順番に切り替えてはみたが、やはり興味を引かれる番組には行き当たらなかった。


「希更・バロッサが出演てるアニメってコレかァ? 別に義理もクソもねぇが――」

「――『かいしんイシュタロア』は深夜放送だよ。おまけに新作つぎ放送期間シーズンはずっと先みたいだし。第二シーズンまでの分は『ユアセルフ銀幕』で配信されてるらしいから、どうしても観たいならそっちでどうぞ。パソコンに齧り付きの『電ちゃん』なんて想像つかないけどさ」


 たまたまテレビ画面に映った女の子向けのアニメをぼんやりと眺め始めた直後、電知の背中を『電ちゃん』という愛称が叩いた。

 絡みついてくる蛇のように馴れ馴れしい声の主が誰なのか、双眸で視認するまでもなく電知には分かった。だからこそリモコンが掌中から滑り落ちるくらい驚かされたのだ。

 上体を撥ね起こして振り返ってみれば、予想通りの人物がベッドのすぐ近くに立っているではないか。悪趣味というべきか、背を向けて寝そべっている人間に気付かれないよう声を殺して忍び寄ってきたわけである。

 それはつまり、のちに『てんのう』と呼ばれる電知にさえ気配を勘付かせない力量の持ち主ということだ。

 老舗和菓子店の紙袋を左手に提げた青年は『電ちゃん』と呼び付けた相手と比べて二回りは背が高く、すらりとした細身でもある為、やや童顔な電知と同い年でありながら大人びて見えた。

 日曜日にも関わらず学生服ブレザーに身を包み、紙袋を持つ左手とは対の右肩に帆布製の竹刀袋を担いでいた。地に伏せる虎の刺繍が同室の入院患者たちの目を引き付けている。

 眉間の中央で左右に分けた髪は頬に掛かるくらい長く、その形が崩れないよう整髪スプレーで固めてあるらしい。襟足のみを刈り上げたさまは本人のこだわりというより坊主頭の名残のように思えた。

 部活への所属は定かではないものの、剣道を志す者であることだけは間違いあるまい。


「例の『イシュタロア』、古式フラダンスなんかもアクションシーンに取り入れてるみたいだよ。さっきちょっと携帯電話スマホで観たけど、電ちゃんの技にも参考になるかもね」

「てめ――『とら』ァッ⁉」

「大部屋で喚いたら迷惑だよ、電ちゃん。せめて無様な負けっぷりを煽られてからにしておくれ。その為だけに新幹線に飛び乗ったんだからさ」


 電知から『寅』と呼ばれた青年は路上戦ストリートファイトの結果を揶揄しようと甲高い笑い声を上げた。他の入院患者の迷惑になってはならないと電知を窘めておきながら、自分自身では静かにするつもりがないらしい。

 東京へ帰る前にキリサメが病室を訪ねてくれるのではないかと期待していた電知は、その想いを裏切る来訪者へ露骨としか表しようのない溜め息を吐き捨て、また辟易とした表情を浮かべている。


「しっかし、よくぞここまでってくらいボロカスだねぇ。電ちゃんがじゅうどう以外を着てるトコだって、ボク、中学卒業以来だよ」

「笑いたきゃ笑いな。てめーのクソみたいな性格が分かってりゃ痛くも痒くもねェ」

「相変わらずツレないなぁ。それじゃ煽り甲斐がないよ」

「ガキの頃からの腐れ縁だろ~がよ。悪趣味なんざ、すっかり馴れっこだぜ」


 『寅』から飛ばされたいやの通り、現在の電知はさすがにじゅうどうを脱ぎ、治療に適した病衣パジャマへ替えている。全治一〇日程度では済まない痛手ダメージを受けた鼻や左眉には分厚いガーゼが宛がわれ、穴の開いた右足の甲と左の下腕も包帯でもって幾重にも覆われていた。


「お前こそ何で日曜日に学生服ブレザーなんだよ? イカれてんのは昔ッからだが、とうとう曜日の感覚までブッ壊れたか?」

「午後から剣道クラブの練習があるんだよ。新幹線のお陰で強行軍みたいなトンボ返りができるのは有難いね。電ちゃんたちも原始人みたいなコトしてないで、いい加減に文明の使い方を覚えなよ」

「ケッ――そとヅラだけは一等賞のセンセってかァ? お前がガキんちょ相手に剣道を教えてるのが今でも信じられねェぜ。殺人マシーンでも育てるつもりかよ」

「子どもは良いもんだよ。『健全な魂は健全な肉体にこそ宿る』っていう言葉は彼らの為にあるようなものさ」

「お前がまず健全じゃねェんだよ」


 ブレザーの左胸に縫い付けてある校章は『寅』というこの青年が東京都内に所在するさんじゅくがくえんの生徒であることを示していた。

 『寅』は自身が通う高校の剣道部には所属せず、縁のある小学校で子どもたちを相手に外部コーチを務めているのだ。

 幾ら日曜日とはいえ、指導先の小学校へ私服で赴くことは望ましくないと考え、学生服ブレザーに身を包み、ネクタイを締めた次第である。

 持ち歩こうにもかさ張って仕方がない防具一式は長野駅に設置されたロッカーへ預けている。電知に対する態度は軽佻浮薄そのものだが、剣道には真摯に臨んでいるらしい。


「……つーか、何でおめーが……?」

「昨夜、てるちゃんから電話を貰ったんだよ。八雲岳の弟子とやらにボコられたって聞かされたら負け犬見物――もとい、お見舞いに行かないわけにはいかないっしょ」


 『寅』が口にした『照』とは、この場には居ない上下屋敷の愛称である。彼女は本名を上下屋敷てるというのだ。

 二人が非常に親しい間柄であることは電知も承知していた。上下屋敷を通じて『寅』が入院先を知ったことについても「大体、察しが付くぜ」と驚かなかった。


じゃなくて『イシュタなんとか』ってアニメのほうだよ。お前が希更・バロッサのファンだったなんて今の今まで知らなかったぜ」

「そりゃ当然だよ。『イシュタロア』のことを調べ始めたのは昨夜からだもん」

「……はァ? 意味分かんねーぞ!」

「ちょっと必要になってね。クラブ帰りにレンタルビデオ屋へ寄るのを忘れないようにしなくちゃ。共通の話題は大事にしないとね」


 教え子たちの間でくだんのアニメシリーズが流行り始めたのだろうか――と小首を傾げる電知に向かって『寅』が紙袋を放り投げた。

 表に刷り込まれているのは老舗和菓子店のロゴマークだが、袋の中身は食べ物ではなく衣類やタオルである。それが自分の持ち物であることを電知は即座に理解した。


「幾ら理解あるご両親だからって言って、あんまり心配掛けちゃダメだぞぉ~」

「よ、余計なお世話だ、クソったれ……」


 痛い所を突かれた電知はあおあざの痛々しい頬を掻きつつ小さな呻き声をらした。

 つまるところ、『寅』は長野行きの新幹線へ乗り込む前に電知の自宅に立ち寄り、家族から着替えなどを預かってきたわけである。

 二人は小学生の頃から共に過ごし、幼馴染みなのだ。電知の家族としても息子の荷物を安心して託せるのだった。


「おばさんから預かった入院費も紙袋の中だから振り回して落とさないようにね。紛失くしたら怪我とは別の意味で退院できなくなるよ」

「うるせぇ、うるせぇ! 世話焼き女房みてェな口を叩くな!」

「僕のハニーは照ちゃんだけさ。その照ちゃんやキミをブッ飛ばしたっていうコ、まだ長野に居るのかな? 興味を引かれて仕方ないよ」


 『寅』が『E・Gイラプション・ゲーム』を返り討ちにした少年――キリサメ・アマカザリに触れた瞬間、電知は口の端を愉しげに吊り上げた。


「面白いなんてもんじゃなかったぜ。何しろ『コンデ・コマ式の柔道』にも普通にいてきやがったからな。お陰で病院のベッドに転がされちまったんだけどよ、……また一つ、世界最強への道が楽しくなったぜェ」


 コークスクリューフックで撥ね飛ばされる間際など全身の血が沸騰したものである。互いに組み合うような恰好で簡易ガレージから飛び降り、そのまま真っ逆様に急降下するつもりであったのに、気付いたときには想定外の位置へと叩き付けられていたのだ。

 その瞬間の記憶を電知は持っていなかった。映画のフィルムでたとえるならば途中でコマが飛んでしまったかのような急展開だったのである。余りにもはやかった為に脳の認識が間に合わなかったのかも知れない。

 あれこそが八雲未稲のいう〝切り札〟に違いなかった。

 下穿ズボンの裾は膝下九センチ程度、上衣うわぎの袖は肘の辺りまでしかない一風変わったじゅうどうに身を包んで地下格闘技アンダーグラウンドのリングに臨む電知は、これまで何人もの猛者と闘い、『コンデ・コマ式の柔道』をもって勝利を掴んできた。

 場外乱闘も含めて拳を交えた相手は数知れないが、人間の限界を完全に凌駕する神速はやさなど過去に一度も経験したことがなかった。戦歴に黒星が付いた悔しさよりも超えるべき目標を得られた喜びのほうが遥かに上回っている。

 桁外れに面白い好敵手と鎬を削ってこそ最強への道は開けるはずだ。


「いつも眠そうな顔みたいだし、見た目は人畜無害っぽいよね、彼。てゆーか、屋根の上とか電柱へ登っている間に撃ち殺しておけば、電ちゃんも恥掻くコトもなかったんじゃないの? 〝キミらの子分〟、違法改造したモデルガンも売り捌いてるんでしょ」


 『寅』の言葉を受けて電知は目を丸くした。おそらくは顔も見たことがないはずのキリサメの特徴を極めて正確に列挙したのである。上下屋敷はありとあらゆる情報を話してしまったのだろうか。


「――ああ、ボクと照ちゃんとの間には秘密なんかないけど、この件にはノータッチね。キリサメ・アマカザリの情報コトは〝キミらの舎弟〟から聞き出したんだよ」


 幼馴染みの直感ともいうべきか、電知の脳裏に生じた疑問を即座に察した『寅』は彼が最も欲しがっている答えを冗談めかして語っていく。

 このときに『寅』が口にした〝舎弟〟とは『E・Gイラプション・ゲーム』が昨年末から揉めていた東京中野区のカラーギャングのことである。全面対決の折には電知エースが先陣を切って立ち向かい、後腐れを残さないよう手を尽くした上で完膚なきまでに叩き伏せている。

 勝敗が決した後は済し崩し的に舎弟のような関係になってしまっていた。実際、『八雲道場』で新生活を始めたキリサメのことを仮想敵として見張らせていたのである。

 両団体の抗争にも『寅』は関与したのだが、個人的な理由から当初はカラーギャングの一味となり、乱闘の最中に『E・Gイラプション・ゲーム』へ寝返るという支離滅裂な行動を取っていた。

 くだんのカラーギャングは関東で大勢力を誇る指定暴力団ヤクザの後ろ盾を良いことに非道の限りを尽くしてきた無法者アウトローの群れであり、裏切り者の『寅』も報復対象となっていたはずだ。


「舎弟にしたおぼえはねーよ。……〝上〟からのお達しとやらでパシリでも何でもやらせてくれっつってよォ。今度の落とし前らしーが、さんざん付きまとわれて迷惑してんだぜ。あんなクサれた連中とは付き合いたくもねぇってのに」

「誰も指詰めるような事態にはならなかったんだし、落とし所としちゃ妥当でしょ」

「暢気に言ってんじゃねーっつの。……お前の話だって奴らから聞いてるぞ。路上で何人も半殺しにしたそうじゃねーか」

「人聞きが悪いよ。電ちゃんみたいに自分から襲い掛かったワケじゃないのにさ。命を狙われたら反撃して当然でしょ。救急車は呼んであげたんだから感謝して貰いたいね」

「……大好きなセンセがカーボン竹刀使って人の喉をブッ潰したなんて聞いたら、教え子たちが泣くぜ」

「小さな頃に悪の味をおぼえといたほうがバランスの良い人間に育つってもんだよ」

「さっきと言ってるコトが違ェだろがッ!」


 本来、剣道とは人を傷付けてはならないものであるはずだ。剣士としての心構えを全否定する『寅』の物言いや、違法改造したモデルガンなどという犯罪じみた話を聞くともなしに聞いてしまった患者たちは怯えたような目を二人に向けている。

 引きった顔の人々を「散れ散れ、こりゃ見世物じゃねーんだよ」と睨み付けた電知は『寅』の右手を掴み、院内の喫茶店へといざなった。

 長野市内で最も大きな病院だけに売店や食堂といった施設も充実している。治療の為に栄養管理が徹底されている入院患者ならともかく、電知の場合は食事制限を課せられてはいない。人目をはばかる会話の為に喫茶店を利用しても怒られることはあるまい。

 どうせなら退院前に喫茶店のメニューを試しておきたいという気持ちもある。


「トンボ返りって言ったよね。渡す物も渡したからおいとましようと思ってたのに。ボク、照ちゃんのお誘いだって断ってきたんだよ? それなのに電ちゃんとお茶してたって知られたら刺され兼ねないよ」

「るせぇな、一杯くらい良いだろ。病院食は健康的過ぎて物足りねェんだ」

「しかも、電ちゃんの言う『一杯』ってコーヒーじゃなくてカツカレーでしょ。朝っぱらからそんな重いモン、良く食べる気になるよねぇ」

「分かった分かった。おノロでも何でも聞いてやるから付き合いやがれ」


 並んで歩くと電知と『寅』は年の離れた兄弟のようにも見える。どちらが兄でどちらが弟なのかは改めてつまびらかとするまでもないだろう。

 若い女性看護師たちは見目麗しい『寅』とすれ違う度に黄色い声を上げていた。病室で話していたときにも入り口から覗き見する女性が電知の視界に入っていた。

 そうした姿が視界に入るたび、電知は肩を竦めている。異性から持てはやされる幼馴染みが妬ましいのではない。彼の為人ひととなりを知り尽くしていればこそ、優等生を絵に描いたような外見に惑わされる人々が憐れでならないのだ。

 性格破綻とさえ思っている。年齢一桁の頃より親しく付き合っている間柄だが、電知は切磋琢磨のもとにこの『寅』から命を狙われているようなものであった。『E・Gイラプション・ゲーム』と敵対していたカラーギャングにくみしたのも幼馴染み同士の殺し合いが目的である。


「それにしても、キリサメ・アマカザリ君か――大事なハニーまでお世話になっちゃったんだし、一度くらいご挨拶に行かなきゃね」


 廊下を進む道すがらキリサメへの接触をほのめかした『寅』を電知は横目で睨んだ。


「てめー、まさかちょっかい出すつもりじゃねーだろうな? ドン・キホーテ野郎――キリサメをブッ倒すのはおれなんだぜ。横入りは遠慮しとけ、コラ」

「ハニーをやられた仕返しは四人がかりで一人をボコるつもりだった電ちゃんよりずっと真っ当じゃないかな?」

「あ、揚げ足取んな!」

「ボクの場合、照ちゃんと電ちゃんの仕返しもあるけど――血が騒いだって言うのが本音かな。……前田光世コンデ・コマ先生の背中を追い掛けるキミなら理解わかってくれるよね」

もりとら先生――『タイガー・モリ』か。おれがあいつに感じた熱さは『おまえ』が背負うモンにも通じるハズだぜ。そいつは間違いねェ」

「以心伝心で嬉しいな」

「だからっつって余計なコトしたら承知しねぇぞ。おれが背負ったモンも目指す場所も、あいつと共にるんだからよ。お互いの〝道〟を邪魔するような真似は粋じゃねェぜ」

「はいはい、電ちゃんの欲張りは筋金入りだもんね。キミからそこまで執着して貰えるキリサメ・アマカザリ君に妬けちゃうよ」


 片目をつむって笑う青年は軽薄そのものであるが、彼が『寅』という一字と共に背負っているモノは電知が甦らせた『コンデ・コマ式の柔道』に勝るとも劣らない。

 電知が『タイガー・モリ』と口にした瞬間、窓の向こうの青空へと抜けていった名に彼は恭しくこうべを垂れたのである。

 大正から昭和に掛けて勇名を馳せた伝説の剣道家――『タイガー・モリ』こともりとら

 比類なき剣腕うでを示したてんらんあいを皮切りに、海を渡った先で体得したフェンシングにいても全米をしんかんさせ、大戦せんそうの影響による開催断念の憂き目にさえ遭わなければ五輪オリンピックという晴れの舞台で史上最高の栄誉に輝いたであろうと云われている。

 世界剣道選手権の発足にも貢献し、名実ともに近現代の剣士たちへ一本の〝道〟を開いた偉大なる礎であった。

 『寅』こととらすけ――電知と肩を並べて歩くこの青年は森寅雄タイガー・モリ直系の教え子を祖父に持ち、大いなる先人が生きた時代のを『寅』の一字と共に受け継いでいた。

 戦乱の時代に興った古流剣術などではなく『古い時代の剣道』を――だ。

 前田光世コンデ・コマの柔道を文献などから復活させた電知とは『古い武道』を現代でふるう同志ということにもなるだろう。

 自分以外には互角の勝負すら有り得ないと信じていた運命の片割れがどこの馬の骨とも分からない少年に敗れたのである。決闘の場に立ち合い、自らも叩き伏せられた上下屋敷の話によれば、電知を撃破したのは滅茶苦茶な喧嘩殺法であったという。

 相手から〝一本〟を取ることで勝ち星を稼ぐ〝試合〟ではなく、互いの血肉を喰らい合う〝実戦〟が自分のあずかり知らないところで繰り広げられたのだ。それはつまり、寅之助が電知に望み、今日まで果たし得なかった殺し合いを横取りされたことをも意味している。


「彼は良いなァ。……ウン、良いなァ~」

「おうとも! あんなヤツは見たことねェよ!」


 嫉妬というくらい情念が湧き起こるほどに羨ましかった。「横入りは遠慮しろ」と電知当人から釘を刺されても素直に頷けるものではなかった。


「ところで電ちゃんは〝ネトゲ〟に興味ないかな? 架空のマンモス校で冒険する『エストスクール・オンライン』を昨夜から始めたんだけど、良ければ一緒に遊ばない?」

「お前、昨日、何か変な占い師にでも引っ掛かったんじゃねーだろうな。そんな一度に新しい趣味を始めるなんざ怪しいにも程があるぜ」


 またしても話題を変えた幼馴染みに電知は猜疑の目を向けた。

 寅之助の言動は普段からおかしいのだが、昨日までは関心もなかったであろうアニメシリーズやネットゲームへ急にのめり込むとは不自然以外の何物でもない。


「面白そうなゲーミングサークルにも加入したしね。ロンメル将軍みたいな名前ハンドルネームの人を筆頭に先輩の皆サンも親切でさ。照ちゃんも誘ったし、電ちゃんも気が向いたらどうぞ」

「悪ィけど、お前が何を喋ってんのか、さっぱりだぜ。そもそも〝ネトゲ〟ってのがおれには分かんねーし。ゲーミングサークル? オクラホマミキサーの一種かよ?」

「まァ、世の中には色んながあるってコトさ」


 電知の双眸には不気味としか映らない薄ら笑いを浮かべながら、寅之助は喫茶店の扉を開けた。



 『森寅雄タイガー・モリが生きた時代の剣』を現代に受け継ぐ瀬古谷寅之助が『てんのう』と呼ばれることはない――が、その身に叩き込まれた古いは彼らと肩を並べ、『聖剣エクセルシス』を握るキリサメ・アマカザリとも奇妙な因縁で結ばれていく。


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