その8:高鳴~アメリカン拳法の祖、ジェームズ・ミトセ

八、たかなり


 〝こうたいじん〟――その本名はこうれい。大陸では既に絶えたとされる太極拳の一派を正統に受け継いだ老師であり、台湾武術界に君臨する偉大な巨星であった。

 齢一〇〇に手が届くというにも関わらず、杖一本でかくしゃくと飛び回る白髭の古老は大陸の伝説に現われる稀代の思想家、こうの子孫とわれている。動乱の時代を経て台湾に根を下ろし、アジア圏の格闘技界に豊富な人脈を持つことから〝大人たいじん〟と敬われていた。

 キリサメの言葉ではないが、まさしく仙人のような存在なのだ。

 時代が変わる過程で失われた伝統武術の復古に残りの生涯を捧げると公言する古老は、他国の植民地支配といった弾圧によって衰退していたインドシナ半島の格闘技界に惜しみない援助を行っていた。

 彼の尽力によって再興された伝統武術は数知れず、それ故にアジア格闘技界の顔役として尊崇を集めていた。

 その一方で次世代の発掘にも熱心である。何しろ日本の地下格闘技アンダーグラウンドにまで自ら足を運び、所属選手ともじかに交流を含めるくらいなのだ。また台湾とは複雑な関係にある大陸のMMA団体『りょうざんぱく』とも交渉を持ち、アジア各国の有力な新人格闘家ルーキーと引き合わせるなど、文字通りに国の垣根を超えて東奔西走していた。

 『天叢雲アメノムラクモ』の旗揚げにも孔普麗は携わっている。以前かつての所属選手に参加を呼び掛け、東日本大震災の復興支援という八雲岳の志を後押ししたのだった。流暢な日本語にも彼らの親交の深さが表れている。

 現代の武術・格闘技界にいて〝こうたいじん〟の名を知らぬ者はいないとまで畏敬されており、アジアのみならず欧米にまでその偉業は伝わっていた。

 大巨人とも呼ぶべき存在を迎えるからにはぜいの限りを尽くした極上の宴席せきを設けるべきであろうが、その名を世界に轟かせているはずの古老は、現在いま、場末のカラオケボックスの一室で冷凍食品とおぼしきチキンナゲットを摘まんでいる。

 長細いグラスに注がれた炭酸飲料をストローで啜る老人は、格闘技界にとってかけがえのない要人という立場でありながらボディーガードさえ伴っていないのだ。

 何物も恐れず、己の身を敢えて無防備に晒す剛毅な在り方へ感服した様子の赤備あかぞなえ人間カリガネイダーは「猛烈モーレツに感動してるッス! 人生で一番の幸せッス!」とむせび泣きながら自身が所属する『まつしろピラミッドプロレス』の団体歌を唄い上げていた。

 幾ら通信カラオケとはいえ地方プロレス団体のテーマソングなど配信していないので完全なるアカペラなのだが、声量こえの大きさもあって聞き応えは十分である。

 そのカリガネイダーはマスクこそ残しつつも、赤備あかぞなえ人間を象徴するスパッツから所属団体のロゴマークが刷り込まれたシャツとジーンズに替えていた。


こうたいじんが『NSB』の窓口になってくれて、ホント、心強いッスね! いや、自分が出場するわけじゃないッスけど! 『コンデ・コマ・パスコア』の成功は約束されたようなものでありますッ!」


 カリガネイダーがマイクを片手に熱弁した通り、台湾を拠点とする孔普麗が長野市内へ姿を現わしたのは偶然や気まぐれなどではなかった。

 現在いまの彼は〝台湾武術界の重鎮〟とは別の肩書きを背負っている。『ナチュラル・セレクション・バウト』特別顧問兼アジア地域担当スーパーバイザー。アメリカではその呼び名で通っているのだ。

 『ナチュラル・セレクション・バウト』――通称『NSB』。来年に『天叢雲アメノムラクモ』と合同大会を開くことが決定しているアメリカ最大規模のMMA団体である。

 発足前後から『NSB』に注目していた孔普麗は、団体首脳陣とも早い段階から接触を図っており、運営についての助言やアジア系の格闘家の発掘といった面で現代表を手助けしていた。

 しかし、それはあくまでも外部協力者という形であり、スタッフの一員として同団体に関わるつもりはなかった。孔普麗の支援を受けたことがおおやけに報じられたこともない。

 やけに長い肩書きを背負うようになったのは、ここ半年足らずのことだ。

 『コンデ・コマ・パスコア』の共催に当たって、アジア圏に豊富な人脈を持つことと、何よりも八雲岳と親しい間柄であることを見込まれて、『天叢雲アメノムラクモ』と『NSB』のパイプ役を要請されたのである。

 日米のMMAが真っ向から勝負する機会を心待ちにしていた孔普麗は、現代表に全面的な協力を快諾。今回、来日したのも『天叢雲アメノムラクモ』側の興行の視察と、きたるべき合同大会『コンデ・コマ・パスコア』に向けた意見交換が主な目的だった。

 その最中にキリサメと電知の路上戦ストリートファイトへ遭遇した次第である。

 ロビーに詰めていた『天叢雲アメノムラクモ』のスタッフに依頼して観客席のカリガネイダーを呼び出し、事態を収拾する為に力を借りたのだが、この社会人レスラーは偉大なる〝たいじん〟から指名されたという事実だけで感極まっていた。

 路上戦ストリートファイトの舞台となった自動車整備工場から程近い病院までキリサメたちを送り届け、カラオケボックスに合流したカリガネイダーは、孔普麗から感謝の言葉を掛けられた瞬間に人目もはばからず泣きじゃくったのだ。

 日本MMAの先駆者たる八雲岳が直々にコーチを務めるという地方プロレスへ孔普麗の興味が向かないはずもなく、過去にも幾度か長野市内の練習場を覗いていた。

 全国規模の興行を打てるわけでもない地方の社会人レスラーにとっては関心を持って貰えただけでも夢のようなことであるのに、〝こうたいじん〟は数回しか言葉を交わしていない男の名前を――それもリングネームと本名の両方を憶えていたのだ。

 片田舎で純朴に育ってきたカリガネイダーが「自分、もうここで死んでもいいッ!」と歓喜の雄叫びを上げたのは無理からぬ話であろう。

 〝大人たいじん〟と畏敬されてはいるものの、当人は気さくで愉快な人物であった。地下格闘技アンダーグラウンドと地方プロレスの人間を有名選手ビッグネームや巨大組織の首脳陣と隔てるようなことがなく、誰とでも平等に接し、安酒を酌み交わすのだ。

 贅沢を好まない古老には、むしろ場末のカラオケボックスのほうが心地好かった。

 カリガネイダーのホームグラウンドであり、八雲家が宿を取った長野市まつしろのカラオケボックスへ赴いた孔普麗は上機嫌でムード歌謡を唄い、フライドポテトを頬張っている。

 その寛いだ様子にも純朴な社会人レスラーは感極まったのだった。

 「地元まで気に入っていただけるなんて、自分はもう言葉がありません!」と全身を震わせるカリガネイダーを愛おしそうに見つめたのち、孔普麗は同席している岳と麦泉へ静かにこうべを垂れた。


「あ、頭をお上げください、こうたいじん!」

「文多の言う通りだぜ! おやっさんに頭なんか下げられたら、こっちのほうが困っちまわァ! つーか、夢見が悪いったらありゃしねェ!」


 対戦相手チョルモンの指で突かれて充血した右目を見開く岳は大慌てだ。試合中は首の付け根の辺りで結わえていた髪も戦国武将の如きまげに戻しており、これが上下に大きく揺れている。

 現在いまの岳はプロレスパンツからワイシャツにスラックスという普段着へ替えており、陣羽織もまたリングへの入場時とは異なっていた。背中にカリガネという渡り鳥を刺繍したは『まつしろピラミッドプロレス』へ技術指導を行う際に用いる物だ。同じ紋様がカリガネイダーの眉間でも煌めいている。


「せめてもの誠意じゃ。……今宵のこと、よしなに取り計らってやってくれい」


 すっかり恐縮してしまった岳と麦泉に対し、孔普麗はなおこうべを垂れ続けた。


「確かに電知らは行き過ぎたかも知れぬが、武を愛する心はどこまでも真っ直ぐよ。〝本物〟の芽を潰してしまうのは如何にも惜しいのよ」

「それこそ、おやっさんの取り越し苦労だぜ。黒河内くろこうちにはオレのほうから電話しといたからよ。怪我人の退院を待って迎えの車を寄越すってさ。例によって例の如くナァナァで済ませるつもりだよ」

「……『サムライ・アスレチックス』的には、あんまりよろしくないことなのですけど、社長にもに処理するよう指示されましたので。ご安心ください」

「すまぬな、二人とも。恩に着るぞ」


 孔普麗は日本MMAの旗頭たる『天叢雲アメノムラクモ』にも、格闘技を一途に愛する者たちが集った『E・Gイラプション・ゲーム』にも、等しく期待を寄せている。刑事事件や裁判沙汰に発展して片方が再起不能のダメージを被るか、あるいは共倒れになるような事態は絶対に避けたいわけだ。

 自分の家族が危険に晒されたのだが、今回も岳は警察に通報しなかった。『E・Gイラプション・ゲーム』の代表を務めるヴィクター黒河内とは古馴染みであり、荒くれ者たちを束ねていかなくてはならない苦労も理解しているつもりだった。

 団体代表としての誠意も認めている。今夜の闘いに巻き込まれてしまった自動車整備工場には先方が望むだけの損害賠償を支払うそうである。


「それよりも! おやっさん、スラム仕込みの喧嘩殺法をもっと教えてくれよ!」

「やぶさかではないが、お主、養子せがれのことならば怪我の具合をもっと気にするべきではないか? 先刻まで診療台の上にったのじゃぞ」

「面会謝絶だったら呑みには来ねぇって。宿もすぐ近くだ。何かあったら未稲から連絡入るし、大丈夫だって! キリーのフィニッシュは何だったんだ? よォよォ?」

「……センパイの――何というか、……底抜けの楽天性は時々、その……人間界の常識を軽く超えてくるんですよね……」


 電知たち次世代の可能性をつまらない揉め事で閉ざしたくないという想いも孔普麗と共有している――が、それらを些末なこととして捨て置いてしまうくらい岳を興奮させたのがキリサメの路上戦ストリートファイトであった。

 思いがけず一部始終を見届けることになった孔普麗の話によれば、自転車で東京から長野までやって来たという『E・Gイラプション・ゲーム』の少年たちが希更・バロッサに因縁をつけ、更にはその場に居合わせただけのキリサメへと矛先を転じて路上戦ストリートファイトに及んだそうなのである。

 希更のことは興収目的のタレント起用と忌み嫌い、キリサメのことは岳の弟子と誤解して前々から付け狙っていたという。『NSB』と共催するへの抗議の意味で『天叢雲アメノムラクモ』の関係者を攻撃するつもりだったと、電知本人の口からも語られていた。

 電話で黒河内から聞いた限りでは『E・Gイラプション・ゲーム』が刺客を差し向けたわけではなく、電知たち四人が勝手に暴発しただけのようだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』の出場選手どころか、無関係の人間キリサメにまで被害が及んだことを重く見た黒河内は償いとして電知たちに然るべき罰則ペナルティを科すと話していた。

 岳のほうから宥めていなければ、もしかすると電知たちは四人まとめて『E・Gイラプション・ゲーム』から追放されたかも知れない。しかし、そのような事態は攻撃を受けた『天叢雲アメノムラクモ』の側も望んでいないのである。


「オレとしちゃあ電知に感謝してるんだよ。息子を覚醒させてくれたよーなもんじゃん。スゴかったんだろーな、キリーのヤツ」


 携帯電話ガラケーの向こう側に岳は意味不明なことばかり口走っていた。


「オレ、何でそんなときにセレモニー会場で間抜けヅラ晒してたんだろうなぁ。てか、誰もビデオとか撮ってねぇのかな。今の携帯電話ケータイって動画も簡単に撮れるんだろ? 電知のツレが隠し撮りしてたら密かに横流ししてくんねぇか? 観たくて観たくて仕方ねぇ!」


 怪我の具合より殴り合いのほうを注目されてしまう養子キリサメが憐れでならないと黒河内から呆れられたが、父親としての責任を忘れるくらい路上戦ストリートファイトを見逃したことが口惜しいのだ。

 悔しくて仕方がないと言い換えるべきかも知れない。鍛え上げられた肉体に〝戦士〟としての才能を秘めているとは考えていたものの、電知を返り討ちにすることまでは予想していなかったのである。

 明治時代に海を渡って欧米を経巡り、各地の強豪へ異種格闘技戦を挑み続けた無敗の柔道家――まえみつ。その別名を冠した『コンデ・コマ式の柔道』を使う電知はキリサメと同い年ながら『E・Gイラプション・ゲーム』を代表する選手に育ちつつある。

 間違いなく格闘技界の次世代を担うであろう相手を撃破したというのだから、岳の血潮が沸騰するのは無理からぬことであろう。

 黒河内との通話が終わった後も、病院へキリサメと未稲を迎えに行った後も、子どもたちを宿所まで送ってカラオケボックスに合流した後も――興奮は一向に鎮まらなかった。


「例の〝仕事道具〟を持ってなくたって十分にれるんじゃね~か。『黄猿団ギャング』をブッ飛ばしたときは出し惜しみしてたのかよ。くっそ~、ニクいヤツだぜ!」


 マイクを持つことも忘れて熱く語り続けるさまに孔普麗は「根っからの格闘バカめ」と愉快そうに微笑み、隣に座る麦泉は複雑そうに顔を歪めた。


「それ以前に僕がもっと気を回していたらキリサメ君と未稲ちゃんを危ない目に遭わせずに済んだんです。引率者失格だ……」


 病院で検査を受けたキリサメは頭部の深刻な損傷ダメージや骨の異常は確認されなかった。打撲と裂傷の手当てを施された程度で、強制的に入院させられた電知とは違って二時間も経たない内にとなった。

 だからこそ岳も孔普麗を囲む席に加わっていられるのだ。もしも、病床ベッドに縛り付けられるような重傷であったなら、カラオケボックスには主賓とカリガネイダーの二人しか居なかったことだろう。実際、「キリサメが病院に担ぎ込まれた」と麦泉を経由して孔普麗からしらされた瞬間、顔面蒼白の岳は顎が外れそうになるくらい大口を開け広げたのだ。


「いやいや、結果的に文多はベストだったって。例の闘いがなかったらキリーはいつまでも羽撃はばたけなかったと思うぜ。お前のお陰で踏ん切りがついたと思うな、オレは!」

「……センパイ……」


 責任を痛感してうなれた麦泉は岳の言葉で励まされるどころか、当惑と驚愕をぜにしたような表情に変わり、重苦しい溜め息を吐いた。


「自分は最後ケツのほうしか見れなかったんスけど、正直、彼のファイトには身震いしてしまいましたよ。八雲先生のお弟子さんじゃないって聞いてビックリしたくらいです。……あれは只者じゃない」

「だろ⁉ 宮沢チャンもそう思うだろ⁉」

「八雲先生、自分はカリガネイダーッス!」


 神妙な様子で相槌を打つカリガネイダーに対して孔普麗は前のめりとなり、「先々が楽しみじゃよ。あれは伸びるぞ。間違いなく伸びる人材じゃ」と白髭を撫でた。

 古老は路上戦ストリートファイトを終えたキリサメ当人にも『天叢雲アメノムラクモ』で闘う日を楽しみにしていると声を掛けていた。反則行為など基本的なルールを教えなくてはならないが、電知を返り討ちにした喧嘩殺法も、これを振るう身体能力も頭抜けており、今すぐにでもMMAのリングで通用すると見込んでいた。

 ともすれば枯れた古老おいぼれが若者に抱く一種の妄念のように聞こえなくもない話を岳は子どものような無邪気さで信じている。

 誇張の入った妄想ではなく現実に鮮血の大激闘であったことは病院で面会した電知とキリサメ、双方の負傷を見れば瞭然である。何よりも岳自身が地球の裏側でキリサメの喧嘩殺法に触れているのだ。孔普麗の話を嘘だと疑う理由がなかった。

 『聖剣エクセルシス』こそ携えてはいないものの、日系人ギャングの『ざるだん』を退けたときに匹敵するか、あるいはそれ以上の路上戦ストリートファイト地下格闘技アンダーグラウンドのエースと繰り広げたのだろう。それを思えばたぎらずにはいられないのだ。

 キリサメの闘いを目にした人間と、一度も見たことのない人間の差もあるのだろうが、麦泉は際限なく熱量を高めていく岳に懐疑の眼差しを向けていた。

 息子キリサメが『天叢雲アメノムラクモ』のリングへ上がる姿を見たい――その願望は孔普麗よりも先に岳のほうが口にしていたのである。



 『天叢雲アメノムラクモ』長野大会から少しばかり時間を巻き戻したソチ五輪パラリンピック閉会式当日のことだ。

 バトーギーン・チョルモンとの試合に向けた最終調整を打ち合わせる為、八雲家を訪れた麦泉は岳と二人してリビングルームのテレビに釘付けとなっていた。

 画面には一〇日間の祭典を締めくくるセレモニーが映し出されていた。岳は各国選手団の健闘を称え、同時に世界最高の競技を支えたスポーツ用補装具にも胸を熱くしていた。

 五輪パラリンピックのスポンサーに名を連ね、競技会場の各所にもロゴマークが掲げられた『コンソラトゥール・アルカナ』なる医療・福祉機器メーカーが開発した物である。潜在能力ポテンシャルそのものを拡張させるほどの完成度を誇り、世界中のアスリートから愛されていた。

 医療先進国のフランスでも最大規模の企業を率いるのは同国の名門、バッソンピエール家だ。メダル争いでは他国におくれを取ったものの、オリンピックには一族から何人もの代表選手を送り込んでおり、ソチ五輪全体を通して大きな話題となっていたのだ。


「人間の可能性って底なしだよな。肉体からだ一つで勝負してる身としちゃあ、こんなに誇らしいことはないぜ」


 未来への希望が形となって現れた光景を眩しそうに眺める岳が大仰なことを口走ったとき、麦泉は感受性豊かな彼が頭の中で世界平和の一大叙事詩でも思い描いたのだろうとしか思わなかった。

 それが誤りと悟ったのは僅か数秒後のこと。ろくもんせんの陣羽織――地球の裏側にいても着用した物――を纏った岳は、テレビ画面へ視線だけ巡らせながら別のところに心を向かわせていたのである。


「……オレはキリーの可能性にも賭けてみてェ」

「以前に話していた絵画教室のことですか? シャイな子だから焦ってはいけませんよ」

「いや、そっちじゃねぇよ。あいつの可能性――〝戦士〟としての才能さ。オレはな、キリーを『天叢雲アメノムラクモ』のリングに上げたいんだ」

「なッ――」


 この場にキリサメ本人が居合わせたなら、果たして如何なる反応を示したであろうか。

 彼は養父から借り受けた手裏剣を自宅で模写していた。未稲も同席していなかったが、こちらは明け方近くまでネットゲームに興じていた為、太陽が西へ傾き始めるような時間になってもベッドから起き上がれない。

 たった一人で信じ難い発言を受け止めるしかなかった麦泉は、テレビのスピーカーより流れてくる華やかなファンファーレを頬で受け止めながら唖然呆然と固まり続けた。


「……冗談でしょう?」

「マジだ。おおマジだ」

「冗談ですよね?」

「オレには真っ向勝負しかできねぇってコト、お前が一番良く知ってるだろ」

「だから、困っているんじゃないですか……」


 岳の表情かおは真剣そのものだった。

 それでいて視線はテレビ画面から離さず、麦泉に横顔だけを晒し続けるのは心のどこかで後ろめたく感じている証拠であろう。いつもなら大切なことを話すときには相手の瞳を真っ直ぐに見つめる男なのだ。


「彼が育った環境のことも、スラムでの大立ち回りのことも〝耳タコ〟ってくらいセンパイから聞かされましたし、……正直、その話をいつか持ち出すとは思っていました」

「さッすが相棒、話が早いぜ!」

「でも、それはキリサメ君を――いいえ、彼のを裏切ることにも等しいんじゃありませんか? ……もう暴力に頼らなくても良いんだって、彼に約束したんですよね?」

「だから、悩んでるんじゃねーか。持って生まれた才能を押さえ付けてまで他の仕事に就けたり、学校ガッコに通わせるのが本当に良いコトなのかってよォ」

「悩むことが違うでしょう」


 岳なりにキリサメの将来を考えていることは理解わかったものの、今の話を聞く限りでは養父としての自覚を欠いているとしか思えない。だからこそ養子にとって最も望ましい選択肢を用意してやるべきだと再考を促したのだ。


「お前の言う通り、あいつをもう一度、闘わせるのは気が引けるよ。――っていうか、雪於には呪われるかも知れねェし、〝向こう〟へ渡ったときなんか見里さんからボコボコにされちまうだろうぜ」

「そこまで分かっていて何故?」

「だから、それがあいつの可能性ってハナシさ。キリーのヤツ、オレの仕事にすげェ興味を持ってる。誰も居ない道場にまで忍び込むんだぜ? よっぽどじゃねェか。そんな気持ちを押さえ付けるなんて、やっぱり正しいとは思えねェんだ」


 結局、麦泉の訴えは岳に全く伝わらなかった。それどころか、「あなたはどこまでバカなんですか」という暴言が喉の奥から飛び出しそうになってしまった。

 キリサメが『天叢雲アメノムラクモ』に関心を抱き始めたように岳は熱弁しているが、おそらくは一方的な思い込みであろうと、麦泉は真に受けなかった。長い付き合いだ。今度も早とちりに違いないと決め込んでいたのである。


「……次の興行イベントで齧り付きの特等席を確保したのは、その為でしたか……」

おう! 父ちゃんの試合を一番近い場所で観戦して貰ってよォ、それでキリサメのハートに火を付けようって作戦だぜ! キリサメが手前ェの意志でつんなら誰にも止めることはできねぇだろ⁉ こんなに燃えるこたァねぇだろうがッ!」

「……じゃあ、センパイ。それでが納得すると思いますか? キリサメ君が自ら選ぶ道だとしても、僕らは危険を売り物にする仕事なんですよ?」

「雪於も見里さんも天国からキリーの決意に感動するさ! 決まってんだろ!」

「僕が言っているのはじゃなくて。……ああ、もうっ!」


 話を大幅に割り引いて聞いていた麦泉ではあるものの、岳の妄想は留まるところを知らず、とうとう閉口させられてしまった。

 テレビ画面に映り続ける閉会式の内容が全く上滑りしてしまうほどの呆れ方といっても差し支えない。


「オレにはやっぱり我慢ならねぇよ、文多。キリーの可能性はきっと『天叢雲アメノムラクモ』で花開くんだ。そうでなけりゃペルーであいつの才能を見せ付けられた巡り合わせにも説明がつかねェし。サン・クリストなんたらっつー神様だか仏様だかのお導きに違いねェ!」


 己の決意を言葉として紡ぐ間に昂揚が頂点に達したのだろう。麦泉と向き合った岳は二つの瞳に燃え滾る炎の如き輝きを宿していた。


「長々と良く分からないコトを並べてくれましたけど、結局はセンパイのワガママじゃないですか……」


 自分の唇から滑り落ちた溜め息の大きさを麦泉は鮮明におぼえていた。

 ひとたび、何かを決めたなら良くも悪くも直向きな岳のことである。説得を試みたところで聞く耳さえ持ってくれないだろう。時間を置いても冷静にはならないだろうから文多の選択肢はただ一つ――キリサメに対して自分自身の我がままを無理強いし始めたとき、体当たりで食い止めるのみであった。



 岳の思い込みをたとえるには『暴走』の二字こそ最も似つかわしいだろう。『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』の代理戦争を引き受ける羽目になったキリサメが電知たちを退けたのは、自分の試合を観戦して闘争本能に火が付いた為だと信じて疑わないのである。

 その想いを抱いてチョルモンを撃破した岳には本懐を遂げたような心地というわけだ。

 麦泉は断固として岳の意向に反対するつもりである。路上戦ストリートファイトの終盤を目撃したというカリガネイダーは両者の有り様を語るときに声が著しく小さくなるのだが、それ自体が結論であった。

 ひとのない自動車整備工場で血みどろの激闘を演じたキリサメは、先端が鋭く尖った鉄パイプで電知を突き刺そうとしたらしいのだ。これを仕損じるや否や、電知を羽交い絞めにしたまま高い場所から飛び降りようとしたそうである。

 電知の身をコンクリートの地面に投げ捨てるといった生易しいものではない。急降下の勢いを利用して脳天を砕くつもりだったのだろうと、孔普麗は白髭を撫でながら話していたが、麦泉には彼のように感心はできなかった。

 いずれも確実に相手の命を奪う攻撃だ。細かく確認はしなかったが、キリサメの動きに躊躇ためらいがなかったのでカリガネイダーは怯んでしまったのだろう。『ざるだん』との乱闘にけるキリサメの大暴れを聞かされたなら、それくらいは察しが付く。

 『スラム仕込みの喧嘩殺法』などと興奮するのは軽率以外の何物でもないわけだ。それは岳が考えているよりも遥かに深刻な環境で生きてきた証拠なのである。

 尚更、命を切り売りする〝世界〟から遠ざけるべきだと麦泉は考えていた。

 当のキリサメは『天叢雲アメノムラクモ』に参戦する意思はないと否定し、己がふるった技も「ただの暴力です」と忌々しげに吐き捨てたと聞いている。その事実が彼の動揺を慰めていた。

 だからこそ、キリサメの『暴力』を孔普麗から伝え聞いた麦泉は岳と異なる反応を示したのだ。


「フィニッシュがコークスクリューってのがまたシブいぜ! 今度、スパーリングに付き合ってもらおうかなァ! キリーってば徒手空拳ステゴロもイケイケじゃんよ」


 能天気に喜ぶのが岳で、少年の行く末を案じるように表情を曇らせたのが文多である。

 『E・Gイラプション・ゲーム』のエースに通用するほど高度な格闘技術を『暴力』と言い捨てるからには人目を憚る〝秘密〟を抱えている可能性も高い。そのような状況下で格闘技興行イベントに引っ張り出すべきではあるまい。


「儂も老いさらばえた故、ついつい昔のことを想い出してしまうのじゃが、……キリサメ君の姿に『祇園ぎおんの雑草魂』が重なったのじゃよ。〝あの頃の彼〟と年齢も近かろう」


 追憶に浸る孔普麗がこぼした言葉を受けて、キリサメの行く末を思い悩んでいた麦泉は不意打ちでも喰らったかのように肩を震わせた。

 孔普麗は仙人のような白髭の向こうから『祇園の雑草魂』なる言葉を発した。誰かに付けられたものであろう通称よびなを――だ。


こう大人たいじん、『祇園の雑草魂』というのは何でしょうか?」


 極めて印象的な言葉に興味を示したカリガネイダーは身を乗り出し、これに触れて欲しくなかった麦泉のほうは眉間に皺を寄せながら孔普麗の様子を窺っている。


「……ほう? 〝あやつ〟を知らぬ世代も増えてきたということか……」


 玩具を前にした子どものように相好を崩す岳を一瞥し、古老は炭酸飲料で喉を潤した。

 そうして過去を懐かしむように孔普麗は双眸を細めた。


「……今となってはおぼえておる人間のほうが少なかろうな。あれから一〇年は過ぎたであろか――当時の日本MMA界にいて最年少選手として脚光を浴びた青年じゃよ」

「そんなMMA選手が⁉ お恥ずかしい話ですが、自分、全く記憶にないッス!」

やっこさんがふるう拳法――『りゅうみょうけん』っつーんだけどよォ、そりゃあ、大したモンだったんだぜ。……懐かしいじゃねーか、『祇園の雑草魂』。今頃、どこで何やってんだかよ」


 岳もまた『祇園の雑草魂』と呼ばれる人物を懐かしんでおり、古老の話にもいちいち首を頷かせている。その様子から二人とも親しい間柄であったようだ。


「話はガラッと変わるけど、宮沢チャンは『アップルシード』っつう格闘家の噂を聞いたことがあるかい?」

「八雲先生、自分はカリガネイダーですって。……ええっと、世界中を旅して各地の強者つわものたちと腕比べしているストリートファイターでしたよね。格闘技雑誌パンチアウト・マガジンのコラムで読んだ程度しか知らなくて申し訳ないんですが……」

「そいつはオレだって同じさ。格闘技界にとって『アップルシード』はツチノコと同じレベルだよ。どの記者も足取りなんか殆ど掴めてねェ。いまどき、世界を旅して回る格闘家っつうトコまで含めて浪漫ロマンに満ちた存在だよなァ」


 岳が『祇園の雑草魂』の次に挙げたのは昨今の格闘技界で話題になっている人物だ。

 全世界を股に掛けて自分より強い格闘家を訪ね歩いている事跡ことや、『アップルシード』なる通称よびなだけはどこからともなく聞こえてくるのだが、インターネットの情報共有ツールが発達した二〇一四年にも関わらず、写真の一枚すら出回っていなかった。

 格闘技関連の雑誌上では前田光世コンデ・コマの再来などと持てはやされてはいるものの、横顔の輪郭を誰も語らないので都市伝説同然の存在と化しているのだ。何しろ人種も年齢も国籍も性別さえも、本人の情報は何一つとして判明していないのである。

 微かな足音くらいしか聞こえず、実在すら疑われる〝怪人〟に好奇心を駆り立てられた岳はジョッキに並々と注がれた生ビールを呷り、「ゆくゆくは『天叢雲アメノムラクモ』のリングに招きてェって考えてんだ。世界最高の腕自慢ならコレで決まりィ!」と豪快に笑っていた。

 直近の手掛かりは東欧・ウクライナにあった。

 折しも同国ではロシアと欧州連合EUのどちらと通商条約を締結するかを巡って深刻な混乱が続いている。騒乱鎮圧を目的としてロシアが軍事介入を開始したのは今月一日のこと。この侵攻はウクライナ領であるクリミア半島にも及んだ。

 このとき、クリミア半島は大いなる岐路に立たされていた。即ち、ウクライナ本国に留まるか、ロシアに編入されるかという二択である

 住民投票の結果、クリミア半島はウクライナより独立し、ロシアの連邦内への帰属が決定された。平和の祭典であるソチ五輪パラリンピック閉会翌日の出来事であった。

 無論、全ての住民が独立宣言を支持したわけではなく、投票の前後には同地を去る者が相次いだ。そして、くだんの『アップルシード』は緊張状態が続く東欧へと渡り、クリミア半島からウクライナまで避難した人々を訪れたという。

 この情報がインターネットの世界で一日の大半を過ごす未稲を通して岳に伝えられたのは数日前のことである。短文つぶやき形式でメッセージを投稿するSNSにて何人かが『アップルシード』という名前を挙げていたのだ。

 未確認の目撃情報である為に信憑性は疑わしく、SNSに書き込まれた内容では目的を読み取ることもできなかったが、現時点で確認し得る足取りとしてはこれが最新である。


「ど、どうしてそんな危険地帯まで出張ったんスかね。……いや、まさか、ロシアの傭兵になったってんじゃ……」


 優れた対戦相手を捜し求めるにしても霞をんで生きてはいけず、海を渡るにも路銀が必要である。『アップルシード』の足跡から窺う限りでは打ち負かした相手から金銭を奪い取るようなこともなさそうだ。

 生計を立てる手段を考えたカリガネイダーはロシア軍に雇われたのではないかという結論に至り、悪寒に身震いした。親露派の武装組織が砂塵を巻き上げながら戦車を駆る映像はニュースで幾度も流れている。自分の身に置き換えて砲撃に晒される状況を想像してしまったわけである。

 架空フィクションの世界では王道的ポピュラーな題材だが、路銀を稼ぐ方法まで含めてストリートファイターの実態が分からないカリガネイダーは突拍子もない考えにすっかり迷い込んでいた。


「宮沢チャン、面白ェコトを考えるな! 悪くねェ推理だと思うぜェ!」

「マジッスかぁ⁉」

「実はな、さっき出てきた『祇園の雑草魂』こそ『アップルシード』その人なんじゃねぇかって、オレはずっとニラんでんだよ。風のウワサじゃ放浪のストリートファイターも拳法家だって聞いたしな!」

「で、ですけど! それだけの材料で同一人物と決め付けるのはアブなくないッス?」

「……『祇園の雑草魂』――そう呼ばれた〝彼〟は若い頃から路上戦ストリートファイトで鳴らしておったのじゃよ。その異称の通り、京都の裏路地でのォ」


 孔普麗は『祇園の雑草魂』なる人物の経歴を引用しつつ、岳の話に首を頷かせた。


「野試合を法律で認める国は皆無に等しかろうがな、それはまことの意味で命を張ることにも通ずるのよ。誰もたすけてはくれず、おのが腕のみを頼みにせねば生き抜けぬ。……果てしなく孤独な戦じゃよ。されど、死を恐れ、これに克つ精神を養うにはおのが身を〝闇〟になげうつしかない。〝戦士〟の才は〝ほむら〟の外にて鍛錬できるものでなし」

「キリーだってきっと同じさ! オレぁ、両方の闘いをこの目で見てるんだぜェ~!」

「うむ。現在いまはまだ粗削りでも、いずれ必ず『りゅうみょうけん』と肩を並べよう」


 同じ格闘技にも関わらず、己が身を置く地方プロレスとは余りにも掛け離れた〝世界〟にすっかりおののいたカリガネイダーは、大きな身体を縮めながら押し黙っている。彼が臨むのはあくまでもショーアップされたリングであり、比喩でなく本当に互いの命を削り合う〝実戦〟ではないのだ。

 竦み切った様子のカリガネイダーを置き去りにして、岳と孔普麗は再びキリサメの才能ことを語らい始めた。彼とストリートファイターたちを結び付けずにはいられないらしい。

 二人の様子を窺う麦泉は不安以外の感情を全く浮かべていなかった。


「キリサメ君ならば、……いや、今のおぬしらであれば〝彼〟のときと同じてつは――」

「――『E・Gイラプション・ゲーム』との乱闘よりも僕には『NSB』の動向が気掛かりですよ。最近のモニワ代表は如何ですか、孔大たいじん?」


 一〇年前のMMA選手である『祇園の雑草魂』について更に踏み込もうとする孔普麗を麦泉の声が強引に制した。

 先程からひっきりなしにビールを注文し続けている岳が酔いに任せて「前例あいつがいるんだから問題ねぇよな! キリーを『天叢雲アメノムラクモ』でデビューさせちまえ!」と口走らない内に別のことへ意識を向けさせようと試みたのだ。

 だからこそ無礼を承知で話を遮り、北米アメリカで最大の規模を誇るMMA団体代表――イズリアル・モニワの話題を切り出したのである。

 『センパイ』と呼ぶ相手の為人ひととなりを誰よりも理解している麦泉ならではの機転であった。


「相も変わらず『鉄の女』として堂々と振る舞っておるよ。先週のことじゃが、向こう《アメリカ》のスポーツ紙で本当に『MMA界のサッチャー』と書かれたわい。彼女にフラダンスを教えずに育てた両親はハワイ出身うまれの名折れとも添えてな」


 麦泉の胸中を察した孔普麗は何とも例えようのない苦笑を浮かべながら『NSB』代表の近況を語り始めた。


「団体運営に関しては改革派路線なのにマーガレット・サッチャーにたとえられるなんてこれ以上ない皮肉ですね。までイギリス式に合わせなくても良いのに」

「前代表の追放先が英国という点も気の利いたかいぎゃくじゃな。……メディア女王傘下の新聞記者は小憎らしいほど知恵が回るわい」


 イズリアル・モニワではなく『NSB』の〝前代表〟へ言及した瞬間、孔普麗が忌々しそうに唸った。決して口には出すまいと心に決めていた禁句を無意識に零してしまい、自己嫌悪が押し寄せているような表情だった。

 古老の胸の内を推し量った岳と麦泉もまた口を真一文字に結んでいる。

 白い眉毛の向こうから溢れ出す憎悪に気圧されたといっても良い。一世紀に近い生涯の中で時代の荒波に揉まれ、解脱に至ったような古老とは思えない激情を露にしたのだ。

 ほんの数分前までここがカラオケボックスであることを忘れるくらい格闘技談義に花を咲かせていたのに、それが急激にしぼんでしまった形である。通信型の機器には次の予約など登録されておらず、カリガネイダーも所在なげにマイクを握るばかりだった。

 四人の真上に設置されたミラーボールも空転し続けているようなもので妙に物悲しい。岳が追加注文したビールやオードブルを運んできた店員も先程までの盛り上がりが嘘のような沈黙に面食らっていた。


「……上に立つ者の責任を忘れて『NSB』の信頼を失墜させた男――あれと違って今の代表は『NSB』を我が子のように愛しておるのじゃ」


 店員の背中を愛想良く見送った孔普麗はドアが閉ざされた音を合図に再び口を開いた。

 前代表を格闘技界のがんとまで扱き下ろした孔普麗は、その男が病原体のように巣食っていた頃の『NSB』とは一度も接触しなかった。

 くだんの男から交渉を求められても頑なに拒んだほどである。


「そう――モニワ代表にとって『NSB』は我が子も同然よ。愛情の深さ故に厳しく絞め付けねばならぬことも多い。儂のような古い人間とは話が噛み合わずに討論に及ぶことも少なくない」

「それでもあの方に賭けたのは『天叢雲こちら』の代表に勝るとも劣らない発想力や、プロモーターとしての手腕に感心したからですか? 興行イベントの演出も斬新かつ大胆ですよね。何よりMMAそのものを進化させようと心血を注いでいますし……」

「いかぬぞ、文多。『鉄の女サッチャー』と肩を並べる魂の強さを忘れておるわい。崩壊寸前の『NSB』を立て直した豪腕で格闘技を未来に進めるのじゃ」


 そこで話を区切った孔普麗は表情を硬くしたまま岳に向き直った。


「覚悟せよ、岳。モニワ代表のに容赦はない。お主に一番弟子をぶつけるつもりよ」

「それは……嫌がらせというか、精神攻撃では……」


 岳よりも先に麦泉のほうが先に表情を変え、苦しげに呻いた。

 一九九〇年代半ばに産声を上げた日本MMAは視聴率の低迷や不祥事が重なったことで二〇〇〇年代に地上波放送が途絶えてしまった。これによってMMAというジャンルそのものが国内で衰退し、選手たちも活動の場を海外に求めざるを得なくなった。

 当時、『八雲道場』に在籍していた男はMMAの申し子と謳われながらも岳と袂を分かち、日本を離れて『NSB』と契約。『天叢雲アメノムラクモ』の旗揚げにも応じなかった。孔普麗から日本への復帰を促されても決して首を縦に振らなかったのだ。

 それこそが岳の一番弟子――しんとうである。

 師匠と同じプロレスをベースとして一〇年も海外で戦い続ける実力派の日本人選手だ。『NSB』にいては『フルメタルサムライ』なる異称で畏怖されており、アメリカのメディアでは「もはや、師匠の八雲岳ガク・ヤクモなど足元にも及ばない」と評価されていた。


「……その話、〝例の男〟が一枚噛んでいるってコトはありませんよね?」


 師弟対決という《趣向》の背後関係を探る麦泉の声は重苦しい。


「これはあくまでもモニワ代表の発案じゃ。儂が知る限りでは『スカヴェンジャー』は関与しておらぬ」

「……無礼な質問をお許し下さい。あの人の場合、『天叢雲こちら』に何を仕掛けてくるか、分かったものではありませんから、つい……」

「バカだなァ。『あにィ』がンな陰険な真似するかっつーの。裏で何かやるっつってもアレだぞ、きっとオレとの対戦を藤太に譲ったとか、そーゆー感じだと思うぜェ!」

「……センパイ……」


 孔普麗が口にした『スカヴェンジャー』なる人物に複雑な感情を抱いている様子の麦泉を遮った岳は、口の端をこの上なく楽しそうに吊り上げている。憂鬱そうな後輩とは対照的に『あにィ』などと親しげに呼んでいた。

 その温度差が麦泉の表情を更に暗くしているようだった。


「差し金だろうと針金だろうと関係ねぇぜ。おやっさん、オレ以外にこんな面白ェカードを回すなってモニワさんに頼んどいてくれ! 藤太なら相手にとって不足はねぇぜ!」


 師弟対決の場が整いつつあることを知らされた岳は、ショックを受けるどころか、心の底から闘魂が燃え上がっているようだ。これほど面白いことはないのだろう。


「センパイ一人で楽しんでないで周りの人のことを考えて下さいよ。藤太とーたを相手に闘うのがどういうことなのか。……未稲ちゃんたちがどう思うか、考えて下さい」


 歯を見せて笑う岳に顔を顰めてしまった麦泉は、わざとらしく胃の辺りを摩った。


「そんなお前、何年も昔のことを気にしてるわけねーだろ。考え過ぎだっての」

「センパイが考えなさ過ぎなんですよ。藤太とーた相手にこんなことは言いたくないですけど、未稲ちゃんにとってはお母さんがいなくなった原因なんですから……」

「お前が母ちゃんの代わりをしてくれてんじゃん」

「……センパイ、僕なら何を言っても怒らないと思ってます?」

「す、すまねぇ……」


 ビールジョッキを片手に大盛り上がりだった岳とは正反対に麦泉のほうは進士藤太の存在を〝因縁の師弟対決〟などと割り切れない様子である。

 複雑な事情が横たわっていることは明らかであり、これを察したカリガネイダーは「自分、席外してたほうがイイッすか?」と更に身を縮めた。静かな叱声を受ける恩人を見ているのは非常に気まずくもあるのだ。


「――我らがモニワ代表は本当に格闘技史を塗り変えるやも知れぬぞ? お主らもリトル・トーキョーで新しき時代の息吹を感じたじゃろう」

「……そんなモニワ代表のことが気に喰わなくて仕方のない野党の議員もいましたね」

「それはお主らとて同じことじゃろう。東京都知事になり損ねた変わり者の話はラスベガスまで届いておるぞ。……いや、胸糞の悪いはやめておこう。下らぬ横槍を根こそぎ吹き飛ばすような風が『NSB』に起こっておるのじゃ」


 席を立ちかけたカリガネイダーを目配せでもって押し止めた孔普麗は突き刺すような空気を換えるべく他の選手について語り始めた。


きたるべき『コンデ・コマ・パスコア』で最高の祝福を受けるのは岳でも双方の王者チャンピオンでもなくルワンダの青年おとこやも知れぬぞ」

「名前は確か、ンセンギマナだとか――ここ最近、特に注目を集めている若手選手でしたよね。左足が義足と伺いましたけど……」

「左様。……紛争の折に片足を失って以来、義足で暮らしておると聞く」


 孔普麗が口にした『紛争』という言葉を麦泉は――否、この場の誰もが神妙な面持ちで受け止めている

 およそ二〇年前のことである。

 アフリカ大陸中部に位置するルワンダ共和国で凄惨な紛争が繰り広げられた。一九九〇年から武力衝突を伴う内戦が勃発ぼっぱつし、開戦から三年後に一旦は終息を見たものの、政治的混乱が悪化する中、事態は一九九四年に至って虐殺ジェノサイドという最も深刻な局面へ突入した。

 とても一言では語り尽くせない様々な要因があり、それらが集束した〝人間の闇〟ともたとえるべき悲劇のもと、同じ故郷ルワンダに生まれた者が隣人を死に追いやらねばならない狂乱は一〇〇日に及んだ。

 そして、この間に国民の一〇人に一人が命を失ったのである。正確な犠牲者数は今なお確定されていない。その事実こそが殺戮さつりくの凄まじさを示していた。

 虐殺ジェノサイドは生き延びた人々へ余りにも大きな爪痕を残した。狂乱の最中に起こってしまった拷問などによって国民の一割が手足を欠損し、取り返しのつかない障がいを負ったのだ。

 この国家的悲劇を胸に刻んだ上でルワンダの民は未来の可能性へと向かっていた。

 再び一致団結したルワンダは戦後数年で目覚ましい復興を遂げ、全世界から『アフリカの奇跡』と讃えられたのである。

 現地在住の日本人技師を中心に義股装具製作所が設置され、ここで作られた義足を装着する青年がMMA選手となり、『NSB』にて台頭しつつあると孔普麗は語った。

 祖国に生きる同胞の誇りを背負い、MMAの最激戦地たるアメリカで敢闘し続けているというのである。それもと対等のルールで――だ。


「新しき時代の息吹とはこのことだぜ! 良いじゃねぇか、オレは大賛成だよ! 人間は何だってできるって信じてるもんよォッ!」


 麦泉から窘められてしょげ返っていた岳も一気に活力を取り戻し、日本MMA先駆者の顔となって孔普麗の言葉に強く頷いた。

 身体的なハンデを克服して闘う『NSB』の若き精鋭のことは岳も耳にしていた。

 リトル・トーキョーでイズリアル・モニワと共同記者会見へ臨んだ際にもタイミングさえ合えば面談を申し入れようと考えていた。義足の格闘家と語らうことは同じ境遇の者にMMAへの道を拓く手掛かりになるだろうと期待したのである。

 『天叢雲アメノムラクモ』と『NSB』による合同会見が開かれた当時、くだんの選手は武者修行の旅に出掛けてしまっていたので話を聞くことは叶わなかったのだが、それでもイズリアルの意向を全面的に支持するつもりであった。

 『コンデ・コマ・パスコア』にいて義足の選手が良き先例を示すことができたなら、まさしくMMAは新しき時代に近付くことだろう。それはとても意義深いことだ。ルール設定など繊細な配慮を要するだろうが、何よりも岳は人間の可能性を信じている。

 激動の時代から未来へひた走る義足の格闘家について語り続ける孔普麗は、炭酸飲料で喉を潤し、「驚くなかれ」と皆の顔を順繰りに見回していった。


「先日、ようやっと食事を共にする機会が得られたのじゃが、その青年、ルワンダを訪れたる旅人から『アメリカン拳法』を奨励されたそうなのじゃよ」


 アメリカン拳法――『ケンポーカラテ』あるいは『アメリカンカラテ』とも呼称される近代格闘技である。

 東洋系武術を起源としており、空手や柔術、拳法など種々様々な技術を取り入れながら一つの体系として完成させたものであった。打撃・投げ・関節技を兼ね備えていることは言うに及ばず、倒れた相手に対する容赦ない追撃など〝実戦〟を想定した技も多い。

 いわば、現代総合格闘技術の先駆けとも呼ぶべき様式スタイルなのである。

 岳も義足の格闘家の試合を動画ビデオで視聴したが、円軌道を描く動作うごきの中に相手を呑み込み、殆ど何もさせないまま撃破する絶技に目を見張ったものだ。

 試合後のインタビューでは、そのさまを八角形のオクタゴンに逆巻く旋風とたとえていた。


「旅人は己の拳法を手ほどきすることはなかったそうじゃが、縁のある道場に彼を紹介してのぉ。修行留学の名目で渡米し、見事にアメリカン拳法を極めたというワケじゃ」

「なあ、おやっさん、ひょっとすると。その旅人っつーのが――」

「左様。……ルワンダの青年こそが『ミトセ』に通じる道筋そのものであったのじゃ」


 『ミトセ』――という岳の言葉を受けて、孔普麗は蕩けるような面持ちで頷いた。


「おやっさんはホント、『ミトセ』にご執心だなァ~」

「おぬしらとて気になるじゃろう? 日本から海を渡って飛躍した武術の系譜じゃぞ」

「当たり前よォ! 真田忍者の端くれとしても興味深いったらありゃしねぇぜ!」


 身を乗り出しながら頷き返す岳とは対照的に、カリガネイダーのほうは三人の会話に殆どいていけず、マスクの向こうで眉間に皺を寄せていた。改めてつまびらかとするまでもなく、孔普麗が『ミトセ』とやらに執着している理由すら彼は知らないのだ。


「そこまで仰るからには、孔たいじん、ようやく『ミトセ』の尻尾を掴んだのですか?」

「間に合うようであれば、『コンデ・コマ・パスコア』に招聘したいくらいじゃ――」


 そこまで言って、孔普麗は麦泉に向けて頭を振った。口元には自嘲を込めた薄笑いが浮かんでいる。


「――此度こたびは難しかろうがの。『ミトセ』の系譜が未だ絶えておらぬことは判明した。されど、それで尻尾を掴んだとは言えぬ」

「気ィ持たせんなって、おやっさん。結局、どーなったんだい?」

「居場所までは特定できなんだよ。ルワンダの彼もアメリカで別れてからの足取りは全く分からんそうじゃ。諸国漫遊でもしておるのかと儂なりに調べてみたが、……どうも数年前まで日本で服役しておったそうなのじゃ」

「ふ、服役ッスか?」


 『ミトセ』が人の名前であることをようやく理解し始めたカリガネイダーも「服役」の一言にはさすがに強い反応を示した。


「……野試合で人を殺めたそうなのじゃ」

「人――えっ⁉ 人を……ッ⁉」

「日本の古武術家と立ち合った末に……な。『ミトセ』本人も病床から半年は起き上がれなかったと聞くが、これも定かではない」

「そ、そんなマンガみたいな話、本当にあるんスね……」

「申したばかりじゃろう? 法のもとに野試合を認める国など絶無に等しいとな」


 報道された記憶がないのだが、俗に『あい』などと呼ばれる境地ものであったのだろうか。

 観客に楽しんで貰う為だけに身体を張っている社会人レスラーには想像もできない世界であった。ショーアップされた興行イベントが前提であるカリガネイダーは当然ながら真剣勝負セメントの経験もない。


「刑期は既に終えたとは聞いておる。折角、日本まで足を運んだのでな、『ミトセ』が服役しておったという刑務所や担当弁護士も訪ねてみるつもりじゃよ。もう少し早くに収監の事実を掴めておれば、手間が省けたのじゃが……」

「言い方は悪ィかも知れねえけど、ケチなコソ泥とかでパクられたんじゃなくて良かったよな。命のやり取りってんならムショに入ってても納得できらァ。おやっさん、マジで発見できたら真っ先に連絡してくれよ。『天叢雲アメノムラクモ』でスカウトしてェ!」


 『あい』の話に目を輝かせた岳は勢いよくビールジョッキを呷った。

 先ほど話題に上っていた流浪のストリートファイターと共に『ミトセ』なる武術家も彼の興奮を大いに煽ったようである。


「『天叢雲アメノムラクモ』から出場をオファーするのはともかく、……センパイ、今みたいなコトを未稲ちゃんとキリサメ君の前では言っちゃダメですからね。くれぐれも注意してください」

「返す返すも口惜しいわい。『ジェームズ・ミトセ』の系譜はアメリカン拳法の祖。同じく海を渡り、世界で闘った『コンデ・コマ』の名を冠する大会に最も相応しかろうに」


 アメリカン拳法の祖、ジェームズ・ミトセ――と、孔普麗は語った。

 『ミトセ』の系譜というものがアメリカ武術界の先駆けであろうことはカリガネイダーにも察せられたが、一般社会人としてのモラルから一つの疑問を消せないのだ。

 いかなる理由があろうとも、殺人という前科を持った人間を〝表〟の社会のリングに招いて良いのか。カリガネイダーには倫理に反しているようにしか思えなかった。


「……自分、頭悪いから分からないんスけど、どうして孔たいじんは『ミトセ』って人を追いかけているんスか? 長いこと、捜し回っているみたいッスよね?」

「さて、どう説明したらよいものか。……強いていうならば武術家のさがよ。老いさらばえても消すことのできぬ、な」


 カリガネイダーからの問いかけに「ジェームズ・ミトセとは同じ一九一六年生まれなのじゃよ。左様な相手には親しみを抱くものじゃろう」と含み笑いしたのち、孔普麗はカラオケのリモコンを手に取った。


「これこれ、歌が止まっておるぞ。どれ、儂も追加で一曲行ってみるかの」

「おっ? やっちゃうかい、おやっさん! そろそろ西田ひかるってモンじゃねぇか?」

「ひかるちゃんは儂の青春ゆえ外すワケにはいかぬな」

「青春て! おやっさんの青春時代に西田ひかるなんか生まれてねーだろ!」

「バカにするでないぞ。本人がそう思っておる内はずっと青春なんじゃ」


 台湾に根を下ろしたとは思えないほど孔普麗は日本の文化に明るかった。

 老若男女と交流を深めるには、ありとあらゆることにアンテナを張っていなければならないのだろう。一〇〇歳に手が届くほどの古老にも関わらず、思考も足腰も丈夫でいられる秘訣がにあるようだった。

 ようやくカラオケボックスらしい喧噪が戻ってきたが、衝撃的な話を聞かされたばかりのカリガネイダーは愛想笑いも作れなくなっている。

 地方プロレスの花形である以前に市役所勤めのなのだ。双方が覚悟を決めた『あい』とはいえ、全ての果てに絶命という結末があるという事実に動揺を禁じ得なかった。


「……『ミトセ』……」


 初めて聞いた武術家の名をカリガネイダーは震える声で繰り返した。





 かつて一〇万ごくの城下町として栄えた長野市松代は町全体が史跡のような風情溢れる土地であった。藩の運営を担った重臣の屋敷や藩主の霊廟もその面影を残しており、一年に一度は大名行列が練り歩く大きな祭りが催される。

 遥か昔の戦国時代――甲斐のたけしんげんが越後のうえすぎけんしんとの決戦に備えて築いたかい城は後年のちに松代城と名を改めて藩政の要となり、近年には見事な城門が再建されて脚光を浴びている。

 武田信玄に仕え、上杉軍との大合戦で命を落とした伝説の軍師・やまもとかんすけはるゆきゆかりの史跡も点在し、また明治維新の立役者たちを育てた思想家・しょうざんの故郷ということもあって歴史のロマンに思いを馳せる人たちを惹き付けてやまないのだ。

 岳たちが飲み騒いでいるカラオケボックスから徒歩で一〇分も掛からない場所にも史跡の町に似つかわしい古風な趣の旅館が建っており、八雲家はそこを定宿としていた。

 市営体育館を練習場にしている『まつしろピラミッドプロレス』への出張指導や、かつて岳が忍術修行をしていたみなかみやまを訪ねるときには必ずこの旅館を使っている為、未稲もすっかり慣れているのだが、今夜ばかりは気持ちが落ち着かない。顔馴染みとなった従業員にも「なんだか浮足立ってるみたい」と茶化されたくらいである。

 数名を収容できる和室を一人きりで使用していることが原因なのではない。キリサメの容態が気になって眠れないということでもない。彼の診察に当たった医師は十分に検査を行った上で入院の必要がないと太鼓判を押してくれたのだ。

 現在いまは男部屋で身体を休めている。何かあればすぐに内線でしらせるよう言い付けてあるので、未稲もそこまで神経を尖らせてはいなかった。

 壁に掛けられた古時計の針は午前一時を指している。興行会場に程近い病院を出て旅館に着いたのは日付が変わる少し前であったから、未稲は一時間近く一人で唸り続けているわけだ。

 『NSB』を代表して『天叢雲アメノムラクモ』の視察に訪れたという古老――孔普麗を接待するべく近所のカラオケボックスに繰り出した父は、朝方まで戻ってこないのではないだろうか。

 統括本部長の立場も理解はしているが、『E・Gイラプション・ゲーム』の襲撃を受けて養子むすこが負傷した直後だというのに余りにも能天気であり、麦泉が随行していることを差し引いても呆れて物が言えなかった。

 辺りは静寂に包まれている。昂った気持ちを落ち着けるには最適の環境といえようが、それでも未稲の心臓は早鐘を打ち続けるのだ。深呼吸を繰り返しても全く無意味という有り様である。

 溜め息の数を憶えることは早い段階で放棄していた。

 尤も、父への憤りから神経が昂っているわけでもない。家長としての自覚を疑ってしまうような無責任は今に始まったことではなく、一つ一つを気にしていては身がたないくらいなのだ。


「ダメだぁ、ダメだぁ、ダメダメだぁ~」


 未稲は父の試合内容などを報告するブログの運営を任されている。リングサイドでしか確認できない情報を臨場感たっぷりに綴ることから人気もすこぶる高く、未稲も八雲岳のファンに応えようと試合当夜の内に更新を行っていた。

 今夜もそのつもりでノートパソコンを持ち込み、記事の執筆へ取り掛かったのだが、これが一向に捗らないのだ。

 筆の停滞以前に父がどのような攻防を繰り広げたのか、それ自体が頭から抜け落ちており、手書きのノートに記されたメモを頼りに記憶を穿り返す始末であった。

 未だかつてない事態である。今までは記者のつもりで観戦に臨み、対戦者同士の息遣いや筋肉の膨らみ方まで事細かに記憶へ刻んできたのだ。

 ところが、今夜は空っぽ同然の状態に陥っている。スランプとも違う状況に戸惑っているのは他ならぬ未稲自身であり、液晶画面の前でただただ途方に暮れていた。

 起動されたワープロソフトは白紙のまま微動だにしていない。


「チョルモンさんがラフプレーっぽかったのは何となくおぼえてるんだけどなぁ……。細かいディティールがボヤけるっていうか、う~ん……」


 比喩でなく本当に頭を抱えたのち、このまま懊悩しているだけでは埒が明かないと判断した未稲は電子の原稿用紙から異なる画面へと切り替えた。



 アクセスした先は全世界に登録者ユーザーを抱える動画配信サイト『ユアセルフぎんまく』である。

 テレビゲームの攻略映像や民間人シロウトによるニュース番組など動画ビデオと名の付くファイルが数え切れないくらい投稿アップロードされており、未稲も暇さえあれば面白そうなものを漁っていた。

 一時期は大声で相手を驚かせては逃げ惑うという珍妙な遊戯の動画ビデオが大流行したが、現在、特に話題を呼んでいるのはクリミア出身のネットアイドルであろうか。アニメ本編も顔負けの力強いダンスと共に『かいしんイシュタロア』の主題歌を唄い上げる姿に魅せられた人間は全世界で五〇〇〇名を数えている。

 動画を投稿しているのはアマチュアだけではない。近年では専用チャンネルを開設する有名企業も増えていた。『NSB』も上位選手の試合を中心に配信を行っているのだ。

 MMAの記事を書き進める〝カンフル剤〟を求めて未稲がアクセスしたのは生放送を中心に映像配信を行っているチャンネルであった。

 『ユアセルフ銀幕』では完成品とも呼ぶべき動画ビデオを投稿するだけでなく、機材と環境さえ整えればテレビ局と同じような生放送番組を配信することも可能なのだ。

 ここ数年で流行の兆しを見せ始めているのはリアルタイムで三次元描画されるキャラクターを用いた動画ビデオだった。高度な機材を駆使して配信者の動作や表情をコンピューターに取り込み、これを反映させることによって架空バーチャル存在キャラクターでありながら生身の人間と同等の息遣いを実現させたのである。

 それはもはや、仮想空間に誕生した〝もう一つの生命〟といっても過言ではない。

 未稲の目当ては格闘技専門の月刊誌『パンチアウト・マガジン』が運営するチャンネルだ。既に番組は始まっており、画面内に表示される累計放送時間は三〇分を過ぎていた。

 サイト名そのままに映画館のスクリーンを模した画面内で大暴れしているのは一人の少女である。正確には〝そのように描画されたキャラクター〟とたとえるべきか。

 おそらくは巫女が用いるころもをモチーフにしたものと思しき若草色の装束に身を包み、正面に据え置かれたカメラ――そのようななのだろう――にはつらつとした笑顔を振り撒いている少女は名称なまえを『あつミヤズ』という。

 動き易さを重視して袴の代わりにスパッツを履き、着物の前面も大きく開けている。あどけなさを残した顔立ちには不釣り合いと思えるほど大振りな胸部はタンクトップで覆われているのだが、この最も目を引く部位には雑誌名がプリントされており、『パンチアウト・マガジン』に帰属する〝キャラクター〟であることを殊更強調していた。

 綺麗に割れた腹筋は仮想空間にて最強の格闘家ということを表しているのだろうか。


「打撃オンリーでやってきたロートルの末路なんて惨めなモンですよ。『天叢雲アメノムラクモ』が何の為に総合格闘技を名乗ってンのかってカンジ。ぶっちゃけ、わんぱく相撲のほうがまだ技のバリエーションがありますよ。中性脂肪が気になるお年頃野郎が運動不足を解消したいだけなら早起き野球でどうぞ」


 生身の人間に負けないくらい柔軟に形を変える口から発せられるのは押し付けがましく感じられるほど愛くるしい声だ――が、これによって紡がれるのは格闘技術の検証だ。その上、やけに毒舌だった。

 自分の身の丈と同じ大きさの人形を一本背負いで転がしたミヤズは、滑らかとは言い難い動きで背後まで回ると、を抱え込むような恰好で首を絞めた。

 やけに光沢のある質感からしてビニール人形として描画されているのだろう。表面にはミヤズを模倣したと思しき絵柄が刷り込まれている。

 本人との対比を強調しているのか、同じデザインの衣装は紫色であり、肌は陽にけたかのようは浅黒い。目付きも険しくなっているのだが、利き手と反対側に筆を握ったとしか思えない絵柄である為、凄味を感じ取るのは非常に難しかった。

 しかも、ビニール人形こちらは〝キャラクター〟ではなく完全な物体オブジェクトなので無反応つ無抵抗である。物言わぬに口数の多い少女が絞め技を仕掛ける姿は滑稽そのものだった。

 ミヤズは長野冬季五輪の多目的アリーナで繰り広げられた城渡マッチとアンヘロ・オリバーレスの試合を仮想空間にて再現しているのだ。しかも、会場に詰めていた解説担当者と同じくらい技術検証が細かい。


「はい、ここがポイントですね~。そこ、処理落ち気味で動きカクカクとか言わな~い。オリバーレス選手の投げは城渡選手にとって予想以上に速かったんでしょうね。あの人、受け身をカンペキ取り損なってましたから。あの瞬間、意識に空白が生じたんだとミヤズ的には思いますよぉ。でなけりゃ、ふにゃふにゃの人形ばりに無抵抗で背後バック取られて首まで絞め落とされるとかクソ間抜けはしませんもの」


 番組視聴者への反論を挟みつつ攻防の要点を解き明かしていくミヤズであるが、出で立ちが奇抜であるが為に真面目腐った発言がどうしても荒唐無稽に聞こえてしまう。

 何しろ和洋折衷と呼ぶには無理のある着こなしなのだ。巫女のころもを意識しながらも袖が取り外されて肩は剥き出しとなっており、両拳にはMMAで用いられる指貫オープン・フィンガーグローブを装着していた。右手が青で左手は白といった具合にそれぞれ色違いである。

 山吹色の長い髪は右耳の上辺りで一つに結わえているのだが、紐の部分に差し込まれたかんざしのような飾りは身を転がす度に床にめり込んでしまっている。

 無論、これらは仮想空間への三次元描画に過ぎない。従って地面と接触した髪飾りが折れるようなこともないのだ――が、製作者の趣味こだわりなのか、現実の世界と同じように重力が働いている処理を施してあった。

 四肢を大きく動かす度、上下左右に揺れる胸の双丘は異様に生々しく、そういった現象と縁のない未稲は思わず舌打ちをしてしまった。


「力攻めで押し切ろうというのが城渡選手の作戦だったみたいですけど、以前まえにも調子こいて返り討ちに遭いませんでしたっけ? 二〇〇一年一一月に東京ドームでライジン・クルベ選手と対戦したときですよ、ええ。テレフォンパンチをねじ込もうとした挙げ句、脇固めで仕留められた試合から成長が見られないとかマジ有り得ねっつの」


 今夜の興行イベントいて技術解説を担当していた男との最大の違いは、生身であるか、架空バーチャルであるかという表層的なことではない。ミヤズは一〇年以上前の試合を例に引いて城渡の稚拙さを指摘しているのだ。

 何しろ『天叢雲アメノムラクモ』結成より遥か昔の大会である。彼女ミヤズが口にした『ライジン・クルベ』も前身となった団体の契約選手であって現在は所属していなかった。未稲でさえ「そんな古い選手、もう誰もおぼえてないって」と呟いてしまったのだ。

 東日本大震災のチャリティー興行以降に日本MMAへ触れたファンには馴染みのない名前であり、「現役引退後は『NSB』所属選手のトレーナーを務めている」といった旨の補足説明が画面に表示されなければ、意味不明のまま置いてきぼりになっただろう。

 マニア向けの解説といった趣のあるミヤズに対して、『天叢雲アメノムラクモ』の正規な解説担当者は初めてMMA興行イベントを観戦する人たちにも伝わるような言葉を丁寧に選んでいるわけだ。

 そもそも、『あつミヤズ』は初心者向けのチャンネルではない。『天叢雲アメノムラクモ』と公式に提携して興行イベント後に試合内容を総括する〝業務〟を請け負っているのだが、格闘技雑誌パンチアウト・マガジンを購読するほどMMAに精通したファンがターゲットである為、も桁違いなのである。

 『天叢雲アメノムラクモ』に関連する広報活動という点にいては〝商売敵〟も同然だが、肝心の試合内容が記憶から抜け落ちている今、未稲には他に頼るものがなかった。

 本来、『あつミヤズ』とは雑誌の販促キャンペーン用に作られた〝キャラクター〟なのだが、愛らしい姿からは想像もつかないマニアックな格闘技解説が大好評を博し、半ば独立したコンテンツとして運用が開始されたという経緯があった。

 人気の秘訣は滑稽さにあると考えられていた。彼女ミヤズは『じんぐう』などと通称される空間で〝活動〟しているのだが、どこからどう見ても四畳半程度のアパートなのだ。築数十年だろうか。割れた窓ガラスをダンボールで補強するなど派手な衣装との落差も激しかった。


「どうせ打撃勝負を決め込むならテイクダウン取ってパウンドの一つや二つ――」


 偉そうな物言いで床を殴った直後、画面の向こうから壁を叩くような効果音が聞こえてきてミヤズは肩を震わせた。隣の部屋から苦情が入ったという設定のようで視聴者に断りを入れたのち、一度、カメラに映らない画面端へと姿を消した。

 四畳半の『じんぐう』に聞こえてくるのは隣の住民に対する謝罪である。壁に向かって深々とこうべを垂れているのか、時折、突き出された臀部が画面端に見え隠れしている。

 アパート暮らしのわびしさが笑いを誘い、また溢れんばかりの生活感に視聴者は親しみを抱くのだろう。企業系チャンネルの中でも群を抜く登録者数を誇っていた。

 『ユアセルフ銀幕』最大の特徴は配信される動画ビデオへ視聴者が自由にコメントを書き込むことができる点であった。これは視聴者全員の再生画面へリアルタイムで表示されるシステムとなっており、そこから表現する側と閲覧する側による双方向のコミュニケーションが生み出されているのだ。

 ミヤズの生放送に限って言えば、技術解説に対する反応よりも彼女の愛らしさや素っ頓狂な言行に悶えるような声が目立っていた。

 画面を埋め尽くすほどのコメントをぼんやりと眺める未稲は今にも集中力が途切れそうだった。架空バーチャルの隣人への詫びを済ませたミヤズは番組再開を宣言し、やがて希更・バロッサの試合まで辿り着いたのだが、どうしても身が入らない。

 父が臨んだ第五試合セミファイナルの検証も間近というところで視聴意欲が消え失せてしまった未稲は『じんぐう』と同じ畳の上に身を投げ出した。

 希更は病院には同行せず、自動車整備工場で別れている。市内の宿所で待機しているというマネージャーを念の為に呼び出すと話していたので、ひょっとすると所属事務所を通して『E・Gイラプション・ゲーム』に抗議するかも知れない。その場合は『天叢雲アメノムラクモ』の主催側も絡んでややこしい事態に陥るだろう。


「……あの四人はバロッサさんを潰そうとしてたんだし、事務所通してやり合って貰うのが筋っちゃ筋だけどさぁ~、最初から〝大人の対処〟ゴリ押しだったらキリサメさんの闘いもなかったワケで――」


 独り言を繰り返しつつ瞼を閉じると、父の試合ではなくキリサメの路上戦ストリートファイトが浮かんだ。

 これでは気持ちが落ち着くはずもなかった。無意識の内に両手で頬を包むと焼けた鉄のように火照っている。そして、そのことを実感した瞬間、一種の共鳴のように身のうちから高熱が噴き上げてきた。

 心臓の鼓動も未稲自身が驚くくらいに加速していく。その高鳴りと共に次々と甦るのは『コンデ・コマ式の柔道』を称する『E・Gイラプション・ゲーム』の少年選手――空閑電知と互角以上に渡り合うキリサメの勇姿であった。

 岳を殺すつもりでリングに上がったのであろうチョルモンよりも危険な闘い方であり、女性相手だろうが容赦のなく殴り飛ばすさまは筋金入りのストリートファイターにしか見えなかった。

 死人が出なかったことを奇跡と思えるほど凄まじい潰し合いだったのである。

 キリサメ本人は『暴力』の一言で切り捨てたが、『天叢雲アメノムラクモ』のプロ選手をも凌駕するであろう電知を退けてしまうなど一つの格闘スタイルとして完成されていた。

 少なくとも未稲の目にはそのように映ったのだ。

 大柄な左右田を仕留めるべく頭部と喉元に全体重を掛けて一気に蹴倒した瞬間などは父の『超次元プロレス』を重ねてしまったほどである。

 だからこそ、路上戦ストリートファイトのあらましを聞いた岳は大興奮し、あの孔たいじんでさえ「『天叢雲アメノムラクモ』で闘う日を楽しみにしている」と期待を寄せたのであろう。そのことに迷いなく頷けるくらい未稲はキリサメの闘いに魅せられていた。

 いっそキリサメの路上戦ストリートファイトをブログの記事にしようとまで考えたのだが、そんなことをすれば傷害事件として〝炎上〟するだけである。警察に通報されることは間違いない。

 だが、そこには確実に〝本物の闘い〟があったのだ。MMAでも地下格闘技アンダーグラウンドでもない、最も原始的で、血の臭いに満ちた命のやり取りを未稲は目の当たりにしたのである。


「……キリサメさん……」


 背筋を滑り落ちた冷たい汗から引き出されるようにキリサメの名を呟いた未稲は、我知らず右の人差し指で唇を撫でていた。

 その瞬間、湯上りのように全身が真っ赤に染まり、丸メガネを放り出すと奇声を発しながら畳の上を転がった。テーブルの足に眉間をぶつけてしまったが、浸透していく鈍痛さえも現在いまの未稲には冷却材代わりのようで心地良かった。

 未だに信じられないが、キリサメに唇を奪われたのである。自分に女としての魅力など感じていないのだろうと思っていた少年から一方的な口付けを受けてしまったのである。

 未稲には人生で初めての経験だった。含みのある言い方が引っ掛かりはしたものの、どうやらキリサメのほうも同様らしい。

 彼の感覚では騒ぐほどもないようななのだろうが、普通に考えれば脳が沸騰するくらいの一大事である。無論、キリサメ本人は大変な事態とは思っていない様子であり、それが未稲には悔しかった。

 唯一の救いは彼の母が「ありがとうの気持ちと一緒に舌をねじ込め!」などと余計な入れ知恵をしていなかったことだろうか。


「私にだって良い人の人や二人いるって言うのに、急にどうしてこんな……。キ、キス一発で恋多き女にされちゃったのかなぁ。だとしたら、もうキリサメさんのばか! 罪作りのスケコマシ! 恋のチェックメイトに持ち込まれちゃって、私、どーなっちゃうの⁉」


 自己陶酔の強い妄想に浸りながら転がり続けた未稲は、テレビの置かれた台に脛を強打してしまい、今度は激痛でのた打ち回ることになった。


「……キリサメさん……」


 痛みが引いて一瞬の静寂が訪れたとき、未稲は先ほどよりも熱っぽい声でキリサメの名前を呟いた。

 電子メールの受信をしらせる音声ガイドが流れたのは、丁度、そのときである。

 寝転びながら丸メガネを掛け直してノートパソコンに目を転じると、ネットゲームで知り合った男友達のアイコンが画面に表示されていた。軍事ミリタリーマニアらしく戦車のプラモデルの写真なので一目で分かるのだ。

 ハンドルネームの『デザート・フォックス』もドイツの伝説的な軍人に由来しているそうである。

 身を起こして受信したメールの内容を確かめてみると、件名には『ペルーという戦場からの帰還兵』と記されていた。

 ここに至る経緯を説明しておらず、また最初に不安を訴える形で相談したのだから当然であるが、この男友達の中ではキリサメは今も〝人外の境地〟という扱いのようだ。

 今なおテロが横行するような国からやって来た人間は、精神の構造すら常人から懸け離れている――それが今日までの未稲とデザート・フォックスの共通認識であった。


「あれから〝ペルーの帰還兵〟はどうなったのでありましょうか? 何か変わったことはなかったでありますか。オフ会もそう遠くないコトですし、心配しているであります」


 デザート・フォックスはメールの中で幾度も同じ質問を繰り返していた。

 〝帰還兵〟と一つ屋根の下で暮らさなければならない状況を案じてくれているのか、はたまた〝人外の境地〟に対する興味本位なのか。

 親しく付き合っていながらもデザート・フォックスとは一度も会ったことがない。しかし、チャットやメールのやり取り、何よりもネットゲームで一緒に遊ぶ限り、真摯な好青年という印象が強いので、おそらく純粋に心配しているのだろう。

 その気遣いはとても嬉しく感じているが、わだかまりが解消された直後に〝家族〟のことを化け物扱いされてはさすがに不愉快なのだ。

 身勝手で理不尽と思いつつも胸に垂れ込めていくドス黒いもやを未稲は抑えられず、溜め息混じりにメールフォルダを閉じた。

 断片的な情報以外に判断材料もないのに勝手なことを言わないで欲しい――と、思わず書き殴りそうになっていた。だから、ソフト自体を遮断する以外になかったのである。


「……明日、落ち着いてからにしよう、うん……」


 男友達デザート・フォックスは五月に都内で開く予定のオフ会にも触れていた。

 現在、未稲が最も熱中しているのは『エストスクール・オンライン』という仮想空間上の『学校』で様々な事件イベントを解決していく大規模多人数同時参加型RPGロールプレイングゲームである。

 未稲はそこで知り合った同好の士と〝ゲーミングサークル〟を組んでいる。読んで字の如く色々なゲームを楽しもうという趣旨のグループであった。

 『アンヘルチャント』というハンドルネームで参加している未稲は、今のところ、ゲームで遊ぶことだけに留まっているものの、プレイ内容を収録した動画ビデオあるいは生放送番組を『ユアセルフ銀幕』で配信するメンバーもおり、ゆくゆくは自分でも挑戦してみたいと考えている。

 デザート・フォックスも戦車を題材にしたシミュレーションゲームの動画ビデオ投稿アップロードしているのだが、そこに吹き込まれた実況解説の声がとても渋く、初めて聴いたときには腰を抜かしてしまったほどである。

 ずっと憧れていた青年に初めて会える――ゲーミングサークル結成以来、初めてのオフ会を一日千秋の想いで待ち侘びていたのに、それが急激に萎んでいくようであった。

 ノートパソコンの画面では依然として熱田ミヤズの生放送が続いている。いつの間にか父の試合が終わり、第六試合ファイナルまで進んでいるではないか。

 メインイベントの主人公は現在の『天叢雲アメノムラクモ』にいてトップスターの座に君臨するブラジル人選手――レオニダス・ドス・サントス・タファレルである。

 棒立ち状態のまま画面に固定されたビニール人形へダンスのように華麗な蹴り技を次々と見舞ったミヤズは、最後の一撃で倒れたに組み付き、関節技の再現を試みる。

 うつ伏せに倒れたビニール人形の右腕を両手で捻り上げたのだが、描画の精度がミヤズの技に追い付いていないのか、双方の肘が有り得ない咆哮に曲がってしまっていた。


「ちょっとコラ! 乙女の秘密をガン見すんな! セクハラで訴えるぞ、貴様らァ!」


 生身の人間であったなら肘の関節が使い物にならなくなるところだが、床にめり込む髪飾りと同じように架空バーチャルの〝キャラクター〟である彼女は全くダメージがない。ビニール人形の腕を反り返らせた拍子に自分の首まで大きく回転し、顔が背中側に向いてしまっても支障はないのである。

 三次元描画では珍しくない現象であり、番組視聴者にも好意的に受け止められているようだ。ハプニングを歓迎し、煽り立てるコメントが一斉に溢れた。

 尤も、試合内容に照らし合わせると誇張とは言い難いものがあった。麦泉から詳細を教わったのだが、レオニダスは対戦相手の悲鳴を耳にしながらも関節技を緩めず、降参ギブアップの寸前で右肩を外してしまったというのである。

 一歩間違えれば反則負けになっていただろう。それにも関わらず、レオニダスのファンたちは大喝采を以て勝利を称えたという。そのさまは狂信者のようであったそうだ。


「……夜中に胸クソ悪いこと連発はマジ勘弁だよねぇ……」


 ブログの記事を書く為に『ユアセルフ銀幕』へアクセスしておきながら第五試合セミファイナルの再現を見逃したわけだが、視聴意欲が戻らなければ結局は同じことであろう。

 天井へ意識を飛ばした未稲はノートパソコンの画面を見ることさえ億劫おっくうになっている。

 メールの返信もブログの更新も諦めた未稲は胸中のもやを浄化するべく旅館を出た。とにかく外の空気を吸いたかった。

 しかし、夜の街へ散歩に出掛けた彼女は空気ではなく息を呑むことになる。

 「キリサメが来てから一日たりとも心が休まらない」と、以前にもデザート・フォックスに愚痴っていたが、その状況自体が未だに続いていると再確認させられたのである。

 玄関を出て間もなく未稲は向かい側の歩道にキリサメの後姿を見つけた。

 激しい路上戦ストリートファイトを繰り広げた直後だけに精神が昂って眠れず、自分と同じように散歩へ出掛けたのかと一瞬は考えたのだが、近くに立つ赤信号の点滅で照らされた彼は、丸顔のマスコットキャラクターが刷り込まれたシャツにジーンズという普段着姿であった。

 自分のように旅館が用意した浴衣で寛いでいたわけではない。しかも、旅行用の荷物が納めてあるだろう小さなナップザックを肩に担いでいるではないか。

 未だにカラオケボックスへ入り浸っている岳から呼び出されたという様子でもなさそうである。それならば、荷物を纏める必要はあるまい。


「――キリサメさんっ!」


 言い知れぬ胸騒ぎを感じた未稲は、血相を変えて彼の背中を追い掛けた。


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