その7:本気~コンデ・コマから総合格闘技へ

 七、本気


 格闘技の試合とルール無用の殺し合いを大別する条件として直感的に武器使用の有無を挙げる人間は決して少なくないだろう。竹刀しない長刀なぎなたといった武道具を用いるものであれば別だが、徒手空拳の格闘技者が何らかの得物を握った場合、これを取り巻く人間の目には〝凶器〟として映るわけだ。

 仮に武器術と体術と組み合わせる流派であったとしても、これを監督する機関の公認に基づいて執り行われる〝試合〟では防具着用の義務化など選手たちの安全を確保することが大前提となるのである。

 防具プロテクターも満足に装着していない生身の相手に向かって〝凶器〟を叩き付け、その生命を侵害することは〝試合〟のルール以前に法律で禁止されている。それすら踏み越えた先で破壊の本能を解き放つからこそ〝殺し合い〟と断じられてしまうのだった。

 刑法へ抵触するような行為に審判レフェリーを派遣する組織など在るわけがない。私的な立会人が勝敗を見定める場合もあるが、法的根拠を持たない以上、おおやけになればと共に容疑者の一人として身柄を拘束されるだろう。決闘罪にも問われるに違いない。

 闘いの場にいて〝凶器〟を振るうことは法律違反と表裏一体ということである。

 ショーアップされたプロレスでは敢えて試合に〝凶器〟を持ち込み、事前に設定された筋書きに従ってを盛り上げることも多い。しかし、それはショープロレスという大枠があって初めて成り立つものであり、相手を倒す〝手段〟になってはならないのだ。

 それならば、未稲たちの目に映るキリサメの姿はどうか――脳天目掛けて縦一文字に振り落とされた鉄パイプが観客を楽しませる為の小道具でないことは、電知が立っていた場所に撥ね返った鈍い音を聞けば明らかであろう。

 コンクリートの地面には新たな亀裂が走っている。そこに手加減など微塵も感じられなかった。頭蓋骨を粉砕するべく渾身の力を込めているのだ。

 誰かの通報を受けてこの場に警察が駆け付けても双方が手に何も持っていなければ〝ただの殴り合い〟という釈明が成り立つだろう。

 しかし、二人の足元には完全なる殺意の証拠が生々しく刻まれているのだ。


「せ、せめて頭は外してあげてね、キリサメさ~ん。明日の朝刊に載るような事態だけはさすがに困っちゃうから~」

が彼の本気スタイルならあたしたちも腹括って見届けなくっちゃね。電知むこうだって物言いを付けてこないんだし」

「有無を言わせぬって感じなんですけどっ?」


 過剰な暴力を抑えるようキリサメに呼び掛けながらも未稲は自分の要求に無理があることを理解わかっていた。希更から指摘されるまでもない。簡易ガレージの内部なかに転がっていた鉄パイプを拾うことでようやく電知との差を縮められたのである。

 を手離せば逆転の芽がついえることはキリサメも自覚しているのだろう。だからこそ「善処します」というそっない返事ことばで受け流されてしまったのだ。


(それにしても手慣れてるなぁ。ボロ袋の中身もあんな風に振り回してたのかな……)


 先端が鋭く尖った鉄パイプを手にして以来、キリサメは素手のみで闘っていたときとは比べ物にならないほど身のこなしが機敏になり、攻守の組み立て方も巧みになっている。

 体系化された武器術のように洗練されてはおらず、見ようによっては鉄の棒をデタラメに振り回しているだけと思えなくもなかった。

 事実、薙ぎ払った直後の隙も大きい。飛び退すさることで鉄パイプから逃れ、着地と同時に再び間合いを詰めてきた電知から組み付かれることも少なくないのだ。

 それにも関わらず、現在いまは瞬間移動にも等しい電光石火の投げ技を凌ぎ始めていた。

 つい先程まで電知が動いた直後には視界を回転させられたのだが、左腕を掴まれて一本背負いに持ち込まれようとも対の手で握った鉄パイプの先端をコンクリートの亀裂に挟み入れ、これを支点に据えて己の身を巻き取ろうとしていた力の作用に抗うのである。

 それは電知自身に起きた変調にるところも大きい。彼は地面にばら撒かれた小さな機械部品を素足で踏み付けているのだが、投げを仕掛けるべく踏ん張りを利かせた瞬間にこれらが横滑りし、技の拍子を乱されてしまった。

 電知の技は鋭さが著しく損なわれ、もはや、瞬間移動とは言い難い。反対にキリサメは付け入る隙を見出したのである。


「面白いことを考えやがるぜ! 〝実戦〟じゃ全部の手段が有効だもんなッ!」

小狡ずるいだけだ。大したものじゃない」


 一本背負いの完成を〝小細工〟の合わせ技で崩されてしまった電知はキリサメの左腕から両手を引き剥がしつつ旋回し、身を翻す最中さなかに次なる狙いを右肩へ絞った。

 頭部を殴られても先端で貫かれても、ただ一撃で致命傷となり得る鉄パイプをすり抜けるように左腕を伸ばし、この〝凶器〟を握る側の肩を五指でもって押し付けた電知はキリサメの上体が傾くや否や、側頭部目掛けて右肘を繰り出した。

 固く冷たい地面へしこたま叩き付けられたこともあり、キリサメは身のこなしが鈍っている――が、一瞬で投げ落とすのではなく横回転を経て打撃に転じるという大きな動作うごきであった為、視認してからでも十分に迎撃の手立てを整えられた。

 このときにも電知は機械部品で足を滑らせ、技の完成が僅かに遅れてしまっている。それどころか、危うく膝を屈しそうになったのだ。平べったいナットを幾つも踏んだ状態で急旋回したのだから自明というものであろう。

 スニーカーを履いているキリサメは小さな部品が足の裏に食い込むことも少なく、横滑りが発生するような攻撃も控えている。速度に勝り、また四肢の可動うごきが技の要となる電知にこそ不利な環境を足元へ作り出した次第であった。

 それ故、電知の肘鉄砲にも反応することができたのである。鋭く尖った先端を握り、鉄パイプを左手へと持ち替えたキリサメは、小指の側から突き出している部分を肘が半ば折り畳まれた状態で繰り出し、正面に見据えている胴を抉った。

 外から内へ鉄の棒切れをようなものである。最初から体勢に無理があり、加えてこちら側は先端にT字型の金具ジョイントが嵌めてある為、相手の身を喰い破ることは叶わない。

 電知は風変わりなじゅうどうの下に防具プロテクターを装着しているわけでもないが、鉄製の金具ジョイントをただ押し付けただけでは肋骨に亀裂を入れることもできなかった。

 それもキリサメの判断だった。この状況では最短最小の動作で電知を突き飛ばし、横薙ぎの肘鉄砲から逃れることがダメージよりも優先すべきことなのだ。

 姿勢が崩れかけたとはいえ、電知の技が依然として俊敏であることに変わりはない。今し方の肘打ちは鼻先を掠める程度で済んだが、一瞬でも回避動作が遅れていれば頬を惨たらしく抉られたのは間違いなかった。

 ダメージの影響で身のこなしが鈍りつつある状況――電知との間に横たわる不足を複数の小細工を駆使して補っているわけだ。

 そして、キリサメは距離という名の物理的な差も手に持った武器で粉砕しようとする。

 すぐさま右の順手に持ち替えた鉄パイプを内から外へ水平に振り抜いたものの、電知は身を屈めることで一閃これかわし、姿勢を低く保ったままキリサメに突進していった。風切る音が頭上を通り過ぎるよりも速い反撃だった。

 鉄パイプを右の逆手に構え直したキリサメは斜めの軌道を描くようにして鋭利な先端を繰り出した。このとき、T字型の金具ジョイントを握る形となっている。肩のバネを引き絞って電知の小さな身体を貫こうとしたのだ。


「私の話、一個も聞いてないね⁉ リアル神槍ダイダロスはマズいよ、キリサメさんっ!」

「行っちゃえ、リアル神槍ダイダロス! あさつむぎが太鼓判を押しちゃうよ~」


 未稲から投げ込まれた制止の声では鉄パイプの勢いを抑えることはできない。むしろ、そこに混じった希更の口笛のほうがキリサメの心情に寄り添っていたと言えるだろう。

 キリサメに組み付くつもりであった電知は攻め手を切り替え、上体を撥ね起こしながら迫りくる鉄パイプに掌底を叩き付ける。傍目には相手キリサメのほうがあてを受け止めたように見えるだろうが、実際はその反対だ。己を突き刺そうとする動作うごきを押さえ込んだのである。

 順手に握り直した鉄パイプを右の爪先で蹴り上げ、電知を撥ね飛ばしたキリサメはなおも彼を追い掛け、着地して間もないところを狙って鋭い先端を突き立てようとする。

 再び逆手に持ち替えられた鉄パイプの先端がくうを裂いて地面へ火花を撒き散らす頃には電知は後方に逃れている。

 地面へ垂直に突き立てた鉄パイプを軸に据え、己の身を勢いよく前方へ突き出したキリサメは続けて腰を捻り込み、今まさに上体を起こそうとしている電知の延髄を変則の回し蹴りでもって追い掛けた。

 死角から急所を狙ってくる蹴りが背筋に冷たい戦慄を走らせる一方、曲芸じみたキリサメの身軽さに電知の心は大いに躍っていた。


「ジャンプ力の次は『はし乗り』みてーな軽業と来たもんだ! てめー、やっぱし〝あのあまかざり〟の親戚なんだろ⁉ 伝説的な『とび』のよォ!」

「この期に及んでまだワケの分からないことを――」


 己の身を地面に放り出すことで延髄への奇襲をかわした電知は、次いでキリサメを支えている鉄パイプを蹴倒し、その流れの中で彼の右腕を掴もうとした。片手一本でも捕獲すればを挿むようにして左右の足を首に引っ掛け、頸動脈を絞め込むことができるのだ。

 顎の下へめり込ませるように肩を宛がえば、相手は自らの三角筋で首が絞まる。

 更に左の五指でもって手首を掴み、対の右手で直接的に鉄パイプを押さえてしまえばキリサメの上半身は潰したも同然だ。堪らず得物を突き放したときには両手を使って彼の右肘関節を可動域の反対側へと反り返らせるだけであった。

 電知の狙いを見極めたキリサメは、姿勢を崩しながらも腕が捕まる前に間合いの外まで退すさり、同時に鉄パイプを縦一文字に振り落とした。


「――ンなこと言ったって、あの血を継いでるとしか思えねーんだよ」


 およそ七〇センチという得物の長さを生かし、相手には手も足もでない間合いから撃墜しようと図ったわけだ――が、振り落とされてくる鉄パイプを「真剣白刃取りの稽古なら死ぬほど積んでらァ!」と吼えつつ左右の掌で挟んだ電知は、両足が地面に着くや否や腰を捻り込み、キリサメを投げ捨ててしまった。

 無理な姿勢から仕掛けた為に今までの投げ技よりも威力は低く、大したダメージは見込めなかった。事実、キリサメは即座に起き上がり、反撃の蹴りを試みようとした。

 そして、蹴り足を繰り出す間際で踏み止まった。ボルトなどが背中へ食い込むのも構わずに地面を転がって間合いを取ろうとした電知は、その最中にも相手の出方を注視していたらしく、キリサメの動きを認めるなり片膝立ちで迎撃態勢を整えたのである。

 不用意に蹴りなど撃とうものなら四肢のいずれかを掴み返され、今度こそ投げ技や寝技の餌食となったはずだ。


「……大体、僕には『はし乗り』が何なのかも分からないぞ……」


 俄かに足を止めたキリサメは深呼吸と共に電知への返答こたえを吐き捨てた。


「読んで字の如く背の高いはしを使った伝統芸能だよ。その頂点てっぺんで逆立ちしたりとかな。ガキの頃、親父に連れられて日本橋のぞめしきを見物したんだけどよ、そのときにデパート前ではし乗りをやってくれた『とび』の動きとてめーはメチャクチャ似てんだ」


 再び差し向かいとなったキリサメに対し、彼の技とも重なるという『はし乗り』について電知は熱心に語り始めた。

 長いはしを用いた離れ業の数々は正月ともなると全国各地で盛んに披露されるのだが、ペルーで生まれ育った〝日系人〟のキリサメには日本の新春を彩る風物詩など知る由もなく、類似点を指摘されても偶然たまたまとしか答えようがないのだ。

 そもそも電知が口にしたぞめしきという言葉自体、キリサメには何を意味しているのか分からないのである。


「橋の上で梯子はしごに登った――と? ……どういう状況だよ」

「天然ボケにも程があんだろ! いや、そのまんまの名前が付いた橋もあるっちゃあるけどよ! 東京に日本橋ってェ町があるんだよ! ……本当の本当に知らねーのか?」

「逆に良くそこまで僕が何かを知っている可能性に賭けられるものだと感心する」

「だってよォ、さっきみてェなモンを見せられると偶然とは思えなくってよォ~」


 『とび』などという聞きおぼえのないモノとの関わりを執拗にたずねてくる電知にはさしものキリサメも辟易していた。あてや投げ技を受けた拍子に風化しかけていた記憶が呼び覚まされるといった劇的な筋運びもない。


「何でそんな余裕ぶっこいて駄弁だべってられんだよ、てめーら……」


 互いの出方を窺いながら言葉を交わすキリサメと電知に向かって溜め息を吐いたのは、依然として左右田の肩に担がれている上下屋敷だった。

 尤も、紅が引かれていない唇から滑り落ちていったのは呆れや憤りなどではなく、感嘆のである。

 ひとのない自動車整備工場へ移って以来、優勢を保ち続けている電知がこのまま一方的に押し切ると考えていた彼女にとってキリサメの善戦は想定の範囲外なのだろう。互角の勝負どころか、今では形勢を逆転しつつあるのだ。


「この少年、鉄棒を、持ってから、動きが、かなり、変わった気が、するな」

「ああ」


 キリサメを高く評価するパンギリナンと左右田にも無意識に頷き、その直後に慌てて首を横に振る上下屋敷だったが、どれだけ思考あたまの中で言い訳を並べようとも、もはや、彼の実力を認めないわけにはいかなかった。

 何よりも背筋が凍るようなキリサメの猛攻にてられており、「『E・Gうち』のエースが負けるもんか! シケたこと抜かすなや!」と強がる声は隠しようがないくらい震えていた。

 パンギリナンが指摘した通り、鉄パイプを拾う前後で少年キリサメの身のこなしは全くといって良いほど異なっていた。しかし、それは武器を得たことで優位に立ったという単純な理屈はなしではないはずだ。

 おそらくはこれこそがキリサメの本気――というよりも本来の様式スタイルなのだろう。あるいは精神メンタルを置く〝次元〟が変わったと表すべきなのかも知れない。そして、希更の瞳もパンギリナンや左右田とを映していた。

 キリサメは先端が鋭く尖った鉄パイプを一秒たりとも躊躇ためらわずに電知目掛けて突き込んでいる。威嚇などではなく小柄な少年の身を本気で貫通させようとしている。そこには他者の命に対する気遣いなど微塵も存在しないのだ。


(敵はブッ壊して当然――ムエ・カッチューアにも通じる精神スピリットよね。……と言いつつ、あそこまでエグい真似、現代人のあたしにはちょっと自信ないけどさ)


 洋の東西を問わず〝古流〟を冠する格闘術に殺傷の面が色濃いことは誰にも否めまい。

 こんにちの如く腕比べに重点を置いた〝競技〟ではなく、いくさいて敵兵をほふるべくして編み出された技術なのだから、相手の命を重んじる必要など求められていないのである。

 格闘技の在り方が近現代へと向かう流れの中、希更が会得したムエ・カッチューアも日本での普及に当たっては安全面に配慮したルールを設けざるを得なかったのだが、古来より受け継がれる様式スタイルでは目突きなどの危険行為が全て認められていた。

 本来のムエ・カッチューアはグローブすら装着しない。薬品などを用いて硬度を高めた布や縄を両拳に巻き、防具プロテクターの類も用いずに生身で――死にたくなければ自分が強くなるしかない。ある意味にいて他者の命を割り切ってしまえるような精神を幼少の頃から叩き込まれてきたのである。

 キリサメが鉄パイプと共に掴んだのは他者の命を駆逐する為に必要な精神メンタルであろうと、希更は共感にも似た心で捉えている。そして、それ故に少年のうちにてうごめく〝本性〟を誤りなく見極めたのだ。

 簡易ガレージ内のスチール棚より持ち出した機械部品を忍者の『まきびし』の如く広範囲に散乱させ、電知の素早さを封じ込めるなど〝実戦〟に慣れているのは疑いないが、キリサメに〝古流〟の技を見出すことは難しい。

 諸流派のように体系化された〝型〟を踏襲しているわけではなく、直面した状況に即した動作をツギハギしているようなものであった。好意的にたとえるならば臨機応変、真逆の言い方ではまとまりを欠いたデタラメなもの――個々の技の完成度や殺傷力はさておき、典型的な喧嘩殺法に違いないのだ。

 しかし、その精神メンタルは確実にムエ・カッチューアと同じ〝次元〟に立っていた。それはつまり、キリサメもまた他者の命を割り切ることができる人間ということである。

 そういう意味では電知は時代を遡っていると言えなくもなかった。高度に競技化された現代柔道から敢えて外れ、前田光世コンデ・コマしるべとしてに回帰しているのだ。

 前田光世の師匠であり、柔道の祖たるのうろうは「やわらを極めたければ古流をやれ」という訓示を後進たちへのこしたとされるが、まさしく電知は先達の教えに殉じていた。

 キリサメ・アマカザリと空閑電知――二人の少年がのちに『てんのう』と呼ばれることになるとは現在いまの希更には想像も及ばない。だが、別々の〝道〟を歩みながらも〝実戦〟の在り方に極めて近い価値観を持っていることだけは正確に見極めていた。

 双方ともルールという名の安全圏から出ようとしない〝競技〟のことを〝実戦〟とは見做していないのである。


「マジでマズめの事態になったらお姉さんが本家本元の『神槍ダイダロス』で食い止めるわ――とか何とか思ってはいたんだけど、じゃ『神槍ダイダロス』ならぬ横槍になるだけだわね」

「……へ?」

「むっちゃ笑顔で堪能してるのを邪魔しちゃいけないしねェ~」

「こ、これはその――」


 おもてに貼り付けた表情を隣に立つ希更から冷やかされた未稲は、そのときになってようやく己の口元が愉しげに歪んでいることを自覚した。鼻から下を両手で覆い隠したものの、頬の火照りまではどうしても誤魔化せない。

 八雲岳という日本を代表する格闘家のもとに生まれた娘の〝ごう〟とでも呼ぶべきであろうか――人命が脅かされるような気配で満たされているにも関わらず、凶器を振り回して轟々と風を薙ぐキリサメの勇姿に未稲は心が躍って仕方がなかったのである。

 正義の味方が悪役相手に大立ち回りを繰り広げるといった劇的な筋運びではなく、抜き身の暴力が荒れ狂うおぞましい場景でありながら――だ。


「気付いてなかったみたいだけど、頭部アタマ狙っちゃダメとか呼び掛けてる最中だってニッコニコだったよ。言ってるコトとやってるコトがバラバラで軽くいちゃったし」

「――あ、やっぱしオレの見間違えじゃなかったか。このチンクシャ、とうとうアタマがどうかしちまったのかって思ったぜ」

「そっ、そんなにヒドい表情じゃなかったでしょ⁉ ハナシってるでしょっ!」

「てめーのチチとおんなじだ、ボケが。真っ平らのまんまイジッちゃいねーよ」

「今の流れと全く関係ないたとえだし、そもそもってコレだよッ!」


 希更と上下屋敷の指摘ツッコミに未稲は心の底から愕然としていた。

 死者が出てしまうような事態だけは避けて欲しいと再三に亘って呼び掛けておきながらキリサメが解き放った暴力性に誰よりも深く酔いれていたわけだ。

 勿論、理性の面では凶器による急所への攻撃は身を挺してでも止めるべきだと分かっているのだ。本当に誰かの命が奪われたときには父の格闘家人生ばかりか、『天叢雲アメノムラクモ』というMMA団体までもが連帯責任で崩壊させられてしまうだろう。

 マスコミの中には善悪や背景など道徳にるモノ一切を捨て置き、世間の批難が集中するような対象を徹底的に食い荒らす良心なき〝ハゲタカ〟も少なくない。

 群衆の注目ニュースバリューが持続する限りは理不尽に批判バッシングを繰り返すような者たちの餌食になってはならないと思考あたまでは分かっているのだが、本能の面ではネットゲーム仲間から『ペルーの帰還兵』ともたとえられたキリサメが身のうちに〝何〟を秘めているのか、その全てを見届けたいという欲求が溢れ出しそうなのだ。

 相容れない存在に対する恐怖は、今や渇望にも似た好奇心に反転していた。


「親子揃って趣味悪過ぎじゃねーかよ。手前ェを庇ってくれた王子サマがボコられるトコをニタニタと見物するなんて」

「よくもそこまでブッ飛んだ誤解ができるもんですね――あっ、なるほど! そんな王子サマすら近くにいないから嫉妬ジェラシってるんですね? お陰様で人生初の勝ち組気分です。本当にありがとうございました」

「ナメんな、居るわ! ……あ、いや――『王子サマ』って言い切っちゃって良いのか、かなり微妙なヤツだけど……」

「歯切れの悪さからして妄想確定じゃないですか。ど~せジョナサン事務所のタレントでしょ? ああいうのも広い意味では王子サマですけど、印刷丸出しのメッセージカード貰うだけで『私だけ特別』みたいに考えちゃうのは痛々しいったらありゃしないですよ」

「気ままな決め付けで失礼なコトばっか抜かしやがって! アイドル事務所なんぞに興味あるかァッ! マジで先にブッ殺してやろうか、あァんッ⁉」


 上下屋敷を相手に不毛な言い争いを始めた未稲と、前者を肩に担いでいる左右田の迷惑そうな顔を交互に笑い飛ばした希更は「見せられたら燃えずにはいられないもんね」と共感めいたことを述べつつ、腹の底では正反対の思惑を捏ね繰り回していた。

 電知が命の危機に瀕した瞬間、自身の主演アニメ『かいしんイシュタロア』の中で主人公が振るう武具――『神槍ダイダロス』になぞらえた膝蹴りで割り込むつもりだった。

 希更自身もキリサメの勇姿に心をときめかせている。できることならば、このまま決着まで見届けたいとも願っているのだが、その前に彼女はアイドル声優なのである。まかり間違って傷害致死事件まで発展してしまうと、さすがに都合が悪いのだ。


(……さいは投げられた――どう転ぶにしても始末はつけなきゃなんだし、今くらいは『ヒエロス・ガモス』を味わうとしますかねぇ)


 目の前の勝負がどのように転がっていくのか、希更にも予想が立てられなかった。

 現在いまは足場の悪さによって身のこなしが鈍っている電知だが、おそらくは数分と経たない内に順応し、瞬間移動ともたとえるべき技の冴えを取り戻すことだろう。

 電知が体勢を立て直すまでに勝敗を決することができるか、あるいはダメージを与えるだけ与えて、互角に渡り合える状態を維持できるか――それがキリサメの分かれ道だ。

 展開こそ読めないものの、目の前で繰り広げられている勝負がMMA選手にとって得難い糧になることだけは希更も確信していた。

 電知が大いなるしるべと仰ぐ前田光世コンデ・コマは世界各地で闘い続けた末にブラジルへと辿り着き、同地に『柔術』を伝えた。この伝説的な柔道家の教えから技と精神スピリットを磨き上げた者たちは〝ありとあらゆる格闘技術〟を解き放つルールへと向かっていった。それは前田光世コンデ・コマが挑み続けた他流試合より更に自由な戦場であった。

 『バーリトゥード』と呼ばれるこの様式スタイル北米アメリカへと渡り、こんにちに至って総合格闘技MMAという形に洗練されていった――即ち、『コンデ・コマ式の柔道』とは『天叢雲アメノムラクモ』ひいてはこれと結び付いた『NSB』の歴史を紐解くモノとも呼べるのだ。

 そして、そこに相手の命を守る約束事ルールの介在し得ない喧嘩殺法が交わろうとしている。

 いくさにて真価を発揮した〝古流〟と同じ精神スピリットもって解き放たれた暴力性まで含めて、キリサメと電知は現代の格闘家が進むべきみちの体現者に他ならない――そう思えてならない希更は我知らず背筋を伸ばしていた。


「う~ん、モヤモヤしていけねぇや。親父を通して日本橋のほうに探り入れてみっかな」

「……無駄話は終わりだ。これ以上、あんたの悪趣味に付き合ってはいられない」

「違いねェ! お楽しみはこれからだもんなァ!」

「……そういう意味で言ったんじゃない……」


 キリサメの溜め息が夜の冷気と混じって溶けるより早く間合いを詰めた電知は、鉄パイプと右手首をまとめて押さえるべく両腕をしならせた。

 機械部品ので地面を蹴った拍子に少しばかり足が滑り、瞬間移動と呼べるほどの速度には達しなかったのでキリサメの目にも突進してくる動作うごきを全て見極められた。

 電知が得意とする戦法からしてあてを経由せず直接的に組み付くのは珍しい。そこに不穏な気配を感じ取ったキリサメは掴まれる危険も顧みず、鉄パイプを僅かに突き出した。

 速射砲ともたとえるべき素早い刺突つきは眉間を穿つことが目的ではなく、電知の出方を窺う為に仕掛けた罠である。

 首を横に振ることで先端これかわした電知は右手でもって鉄パイプを掴むと更に深く踏み込み、これと同時にキリサメの右腋下から背面へと左腕を回した。

 ジーンズのベルトを掴まれてしまったキリサメは電知の頭部に左掌を押し付け、投げ技に持ち込まれまいと力ずくで引き剥がそうとした――その瞬間に電知の動きが変わった。

 キリサメの重心が前方へ進んだときである。投げを仕掛けると思わせておいて彼の身を自分のほうに引っ張り、姿勢を崩したところで鉄パイプから右の五指を離した。

 無防備の状態を電知の前に晒すこととなったキリサメの肝臓が悲鳴を上げる。鋭角に突き立てられた右拳が先程の報復しかえしを果たしたわけだ。

 普段から半ばまで閉ざされているキリサメの双眸が更に細くなった。あおあざが広がっている腹部のダメージに加えて肝臓へあてを受けたことで呼吸が止まりかけたのだ。

 キリサメの口から滑り落ちた呻き声を引き裂くようにして電知は追撃の左ローキックを仕掛けていく。

 二重の激痛によって肺の機能が喪失うしなわれそうになり、拳と同様に鋼鉄の如く鍛え上げた脛で右膝をも揺さぶられたキリサメは、全身を軋ませていたダメージもあってその場に崩れ落ちてしまった。

 冷たい地面に片膝を突く恰好となったキリサメであるが、下肢が瞬間的に脱力しただけであって意識まで断ち切られたわけではない。冷気をじかに感じる膝小僧を軸に据えて急速旋回し、右側面から一方的に攻め寄せてくる電知へ反撃を試みた。

 未稲の悲鳴を受け止めたのは旋回中の横顔であった。

 ジーンズの生地もろとも膝が擦り剥け、鮮血が地面に輪を描いたが、これを代償に遠心力を得ることができた。螺旋の如き力の作用を十分に生かすべく腰を捻り込み、引き戻された直後の蹴り足を鉄パイプで薙ぎ払おうとしたのである。

 膝でも脛でも、右足のどこかに命中させれば電知の素早さを更に減退できるだろう。

 対する電知もキリサメの挙動うごきを抜かりなく見極めている。彼の側からすれば頭部あたまが狙い易い位置まで下がっているわけだ。引き戻したばかりの左足でこれを撃ち抜こうと、今まさに前回し蹴りの体勢に移ろうとしていた。


「ただじゃコケないド根性、腰抜けカラーギャングに見習わせてやり――」


 キリサメの反撃を見て取った電知はすぐさま緊急回避へ切り替えたが、後方へ飛び退こうとした瞬間、またしても小さな部品に足元を掬われてしまった。

 両膝のバネを利かせるべく地面を踏み締めた拍子に足を滑らせて尻餅を付いた電知は、それが為に風を薙ぐ横一文字で足を壊されずに済んだのだが、極めて不利な状況へ陥ったことに変わりはない。

 絶好の機会を見逃すはずもないキリサメは、今度こそ電知を仕留めようと鉄パイプを両手で握り直し、これを鋼の牙に見立てて振り落とした。

 忌々しい機械部品が至るところに食い込むのも構わず、丸めた身を後方に転がすことで鋼の牙から逃れ続ける電知だが、追いすがるキリサメも攻撃の手を決して緩めない。

 二人の少年が通り過ぎた後に舞い散る火花が一本の道を作っていた。


「さっきの技もそうだけど、転げ回るのが趣味なんだな。前世はタイヤじゃないか?」

「ちゃんと冗談も言えるんじゃねェか。味も素っ気もない人形じゃなくて安心したぜ!」

「皮肉と冗談を取り違えるバカと話すだけ無駄だな」


 電知は大したものでもない言葉から〝人間らしさ〟を感じ取り、相好を崩しているが、キリサメとしてはまさしく無感情に〝敵〟の排除を図っているだけなのだ。

 何かを考えるとすれば、偶然から手にした鉄パイプが本来の得物である『聖剣エクセルシス』よりも軽くて小回りが利くということくらいであろうか。

 木と石の板を二枚ずつ組み合わせた重量とは感覚からして掛け離れている為、少しでも気を抜くと五指の隙間をすり抜けそうになるのだが、速度に長じた電知へぶつけるにはそれくらいの軽量かるさで丁度良い。

 逃れる電知と追い掛けるキリサメ――やがて両者は簡易ガレージの間近まで迫った。

 退路を断って畳み掛ける好機と見て取ったキリサメは、突き立てていた鉄パイプを引き戻しつつ右足でもって電知の尻を蹴り飛ばし、解体途中の乗用車に彼の身を叩き付けた。

 ボンネットに乗り上げるほどの勢いで乗用車とぶつかった電知は、もはや、後方には逃げられない。一足飛びで間合いを詰めたキリサメは大上段に構え直した鉄パイプを渾身の力で振り落としていく。


「まだまだァ! そんなもんじゃ最強の夢には届かねーぜ!」

「……いちいち癪だよ、あんた……」


 結局、跳躍の勢いを乗せた縦一文字は赤錆だらけのボンネットへ新たな傷を刻むのみに留まった。

 肝心の電知は横へ跳ね飛び、難を逃れている。自分が打ち上げられていたボンネットにやや遅れて鉄パイプをめり込ませたキリサメを手拍子交じりで挑発し、まくあいの鬼ごっこを再び繰り返そうとした。

 簡易ガレージの付近には機械部品が殆ど飛び散っておらず、電知も本来の素早さを十分に発揮できる。横薙ぎ、刺突つき――と、キリサメが立て続けに繰り出す追い撃ちも危なげなくかわせるわけだ。

 斜めの軌道を描く一撃を掻い潜ってキリサメに飛び掛かった電知は鉄パイプと右手首を両の五指にて強く掴み上げ、やや変則的な一本背負いを仕掛けた。

 幾度も同じ技を受けていればキリサメにも電知のが読めるようになってくる。一瞬ののちには視界が回転しているだろうと直感し、咄嗟の判断で鉄パイプから手を離した。

 これによって相手キリサメの得物を制していた電知の右手は空回りのような状態に陥った。片側の捕獲がすっぽ抜けたわけであり、必然的に技の拍子も乱れてしまう。


「小手先じゃねェ技ってのを、もうちょい見せてやろうかァ――」


 電知は即座に仕切り直しを図った。鉄パイプを空中に放り捨てるや否や、依然として掴んだままのキリサメの片腕を強く引っ張り、これと同時に右胸辺りに背中を押し当て、無防備となった鳩尾目掛けて右肘を叩き込んだ。

 片手のみで投げを打つものと身構えていたキリサメは流れるように変化していく技に反応し切れず、深手を負った腹部にも響くような一撃を許してしまった――が、互いが密着した状態とは、即ち彼にとっても反撃が可能な間合いということである。

 空中うえから降って来た鉄パイプを逆手の状態で掴み直したキリサメは、小指の側より突き出した先端を電知の太腿に刺し込もうとした。厄介極まりない脚力を封じようというのではない。動脈を食い破って死に至らしめようというわけだ。


「てめーの技は小手先じゃなかったよな! ましてやハンパな遊戯おあそびでもねェ! だから、心底面白ェッ!」

「……その悪趣味はどうにかならないのか……」


 キリサメの右手首から左の五指を離し、前方へ飛び込むようにして跳ねた電知は大腿動脈に致命傷を受けることなく鋼の牙から逃げ切った。

 間合いが離れたことで鬼ごっこが再開されるのだろうと周囲の人々は直感していたが、当のキリサメは同じ状況に付き合う気など毛ほども持ち合わせていない。

 簡易ガレージのすぐ近くには数台の自転車が停めてある。その中でも特に重そうなママチャリへ狙いを定めたキリサメは鉄パイプを後輪に差し込み、スポークへ引っ掛けるようにして車体を丸ごと持ち上げた。

 それだけではない。前輪の真上に設置されたカゴへ放り込まれているドラムバッグもろとも電知に向かって投擲したのである。


「おれの『ワイルウェフごう』がァッ!」


 これを見て取った電知は昂揚した調子から一変して悲鳴を上げた。『ワイルウェフごう』なる車名なまえを絶叫したということは、ママチャリの持ち主は彼なのだろう。

 一緒に停めてあるのは『E・Gイラプション・ゲーム』のメンバーたちが所有する自転車ものと見て間違いなさそうだ。宙を舞う『ワイルウェフごう』まで含めて、丁度、四人分である。


(――というか、どうして自転車チャリなんだ? こいつら、長野で暮らしてるのか?)


 電知目掛けて急降下していくママチャリにキリサメは一つの疑問を抱いていた。

 今までのやり取りから電知たちが東京在住であることは察している。それだけに自転車を使おうと考えた意味が分からない。人力にて漕がなくてはならない以上、行動範囲も限られるはずではないか。せいぜい都心程度であろうとキリサメは想像している。

 だが、電知は自らのママチャリを乱暴に扱われて悲鳴を上げていた。

 それほどまでに強い愛着を示したからにはレンタルした物ではないだろう。あるいは『E・Gイラプション・ゲーム』は長野市内にも支部があり、現地での移動手段として東京から四人分の自転車を運んだのかも知れない。

 不可解とばかりに小首を傾げたキリサメに対し、自転車の持ち主である電知は自分の愛車を受け止めようと必死の形相で身構えている。

 しかし、彼に向かって勢いよく急降下しているのは決して軽量な物体ではない。小柄な電知はたちまち押し潰され、愛する『ワイルウェフごう』ごとコンクリートの地面に叩き付けられてしまった。

 僅かに遅れてドラムバッグが頭部あたまを直撃するという余禄おまけ付きだ。


自転車チャリンコなんかに気ィ取られてる場合か、ボケかまし! 次が来るぞ!」


 上下屋敷の怒声が轟く頃にはキリサメは追い撃ちを完成させようとしていた。投擲したママチャリを追い掛けるようにして自らも一等高く跳ね飛び、鋼の牙に見立てた鉄パイプを突き立てたのである。

 愛着の強さからママチャリへ意識を向けざるを得なかった電知ではあるものの、轟然と飛び込んでくるキリサメの影は上下屋敷の警告を受けるまでもなく見極めていた。


「これでもまだ――あんたのしぶとさには腹が立ってきたよ」

「ド根性はてめーの専売特許じゃねーぜ、ドン・キホーテ野郎」


 器用にも両足の指でもって自転車のフレームを掴んだ電知は下肢の筋力のみで重量のあるママチャリを持ち上げ、チェーン全体を覆うカバーを盾に代えた。車名なまえを付けるほど気に入っており、また重要な移動手段アシであるが、今はそれらにこだわってはいられまい。

 勢いよく振り落とされた鋼の牙はアルミ製のカバーを貫き、電知の双眸も先端を確認したが、それでも胸元には届かなかった。


「足の指使った〝隠し芸〟は『じんつう』の十八番なんだけどよォ。見様見真似の借り物にしちゃ上出来だろ」

「……じんつう……?」

「『神に通じるモノ』と書いて『神通』ってな。旧日本海軍の軽巡洋艦と同じ名前だよ。本人曰く、軍艦そいつが由来ってワケじゃねぇらしーがな」


 予想だにしない手段で鋼の牙を受け止められてしまったキリサメは一歩たりとも退かず、力ずくでこれを押し込もうとする。

 対する電知は徐々にめり込んでくる先端を見据えながら「お目当ての心臓は逃げも隠れもしねェぜ!」と挑発を飛ばし、反攻に転じるタイミングを計っていた。

 死の危険が鼻先まで迫っているというのに愉悦の表情を浮かべる電知には未稲も希更も揃って感服させられた。

 ここに至るまで彼は勇猛というよりも無謀な挑戦を繰り返してきたようなものだった。

 幾ら思慮を欠いているとはいえ、命を脅かされていることに無自覚ではないはずだ。鉄パイプが頭部あたまに命中すれば、ただ一撃だけでも即死の可能性が高い。そして、それは過激なルールに基づいて運営される『E・Gイラプション・ゲーム』とも異なる恐怖なのだ。

 心臓を凍り付かせるような戦慄さえ己を世界最強への道に前進させる糧として歓迎しているわけである。


「……あのチビ助、前田光世コンデ・コマの継承者みたいなことを自称してるけど、……その意志っていうか、何よりも強い勇気を心に継いだのかも知れないわね」

「確か――前田光世コンデ・コマは柔道修行と同時にブラジルのアマゾンを開拓していましたよね。何時、命を落とすか分からない奥地を切り拓くには恐怖に克つ強い心が欠かせません」


 希更が言わんとしていることを察した未稲は、前田光世コンデ・コマが地球の裏側にいて柔術普及とは別に成し遂げたもう一つの功績を例に引きつつ首を頷かせた。

 何物も恐れずに立ち向かう勇気――その精神こそ電知が時代ときを超えて前田光世コンデ・コマから受け取った最大の武器であろう。事実、彼はとうくつの魂を体現しているのだ。

 日本から海を渡った開拓移民の同志を導き、奥地アマゾンを開拓した前田光世コンデ・コマは胸に勇気を燃やしていた。伝説的な柔道家と同じ熱量が電知を紙一重の死地まで踏み込ませていく。


「……別にコンデ・コマとこの人は師弟関係でも何でもないんですから、勇気云々だって痛々しい思い込みの一言で済んじゃいますけどね」

「それを言っちゃ始まんないわよ~」


 隣に立つ希更から苦笑されてしまうほど電知の扱いが厳しい未稲ではあるものの、闘いの場では精神の在り方が勝敗を左右することは理解わかっている。類稀なる勇気で心身を鍛え上げた電知は窮地に陥ろうとも踏み止まることができるだろう。

 一方のキリサメはちりあくたを片付けるかのように無感情を貫いており、電知と同じ勝負強さを宿しているとは考えにくかった。


(自己暗示みたいに曖昧なものへ頼らなくても叩き潰せるって信じて――)


 胸中に垂れ込めた不安も、彼はきっと吹き飛ばしてくれるだろうと、己に言い聞かせていた未稲の目の前でキリサメの身がまたしても冷たい地面に転がされた。

 ママチャリの一部を食い破った鉄パイプ――力が拮抗するその一点を電知は巧みに反らし、急激に生じた力の作用でキリサメは文字通りに振り回されてしまったのである。


「よっしゃ、これでキマりだろ! 『八雲道場』もおしまいだぜッ!」


 胸の辺りで握り拳を作った上下屋敷は気早にも勝利宣言を始めた。

ママチャリもろとも転がされた際、キリサメは電知に対する不足を補ってきた鉄パイプを巻き取られてしまったのだ。

 鮮血で濡れそぼった右膝を地面に突けつつ上体を撥ね起こしたキリサメは、これと連動して地面を擦らせるような恰好で右拳を振り上げていく。いわゆる、アッパーカットであるが、先程は打撃と見せ掛けておいて人差し指と中指を用いた目突きを繰り出している。

 双眸から光を奪われては敵わないと警戒する電知は、目突きと打撃のどちらかを見極めるべくギリギリまで引き付けようと試みた――が、この二択が判断と目測を誤らせた。

 拳が顎先まで達するか否かという寸前で僅かに後方へ下がったのだが、この直後、内側へ握り込んでいる人差し指と中指の隙間から〝何か〟が突き出しているのを見つけた。

 片膝を突いた瞬間に素早く拾い上げた長いボルトを掌中に隠し持ち、不意打ちを図った次第である。

 慌てて両腕を交差させ、迫りくる右拳を受け止めようとするものの、目測を誤った上に反応が遅れたのでは如何ともし難い。互いの腕が衝突したことで軌道も僅かに逸れ、目玉を突かれることだけは辛うじて避けたものの、傷が塞がり切っていない左眉を再び抉られてしまい、ドス黒い飛沫が散った。

 そこから流れ込む鮮血が電知から視界の半分を奪っていく。これを見て取った上下屋敷は先程の勝利宣言が嘘のように絶句し、彼女の身を肩に担いでいる左右田も眉間に皺を寄せたながら「ああ……」と呻き声をらした。

 有利と不利が秒刻みで入れ替わるような攻防だった。鉄パイプは取り落としたところで戦闘の継続自体に支障をきたさないが、流血で片目が開かなくなる状態は極めて深刻だ。もはや、キリサメは決着を迎えるまで電知にを拭う暇も与えないだろう。

 しかし、それでも電知は立ち止まらない。足元の機械部品に斑模様の塗装を施しながらキリサメへと突っ込んでいく。


「何を、心配する、理由がある。ここからが、〝若〟の、本番では、ないか」


 パンギリナンが二人の仲間を奮い立たせるような言葉を発したときには、電知の左ミドルキックがキリサメの右脇を揺さぶっていた。

 キリサメ挙動うごきを制する一撃だった。ママチャリのすぐ近くに転がった鉄パイプを拾い上げようとする出鼻を挫いたのだ。

 蹴り足を引き戻すや否や、半歩ばかり間合いを詰めた電知は彼の意識がダメージを受けた部位へ向いている間に左側頭部目掛けて横薙ぎの右拳を叩き込む。こめかみを貫いて脳まで達した衝撃によって、さしものキリサメも膝から崩れ落ちそうになった。

 苦悶の声を噛み殺すことで何とか踏み止まったキリサメは一方的に畳み掛けられている状況をひっくり返し、せめて相討ちの乱打戦まで持ち込むべく反撃の拳を突き入れた。

 右拳で狙うのは腹部である。掌中には依然として長いボルトを握り込んでおり、これを刺し入れて腹筋を裂こうというわけだ。

 現在いまの電知は足場の悪さにも順応し、本来の速度を取り戻しているが、肉体からだに穴の一つや二つでも穿ってやれば身のこなしも鈍くなるだろう。

 こうした隠し武器の使い方も故郷ペルーで身に付いたものだった。錆びた釘やガラスの破片などを掌中に忍ばせておいて、意識の外から刺し込んでやるのだ。例え仕留め損なったとしても大抵の人間は心理的に動揺し、怖気付いてしまうのである。


「さっきの一発で終わりじゃねェとは思ってたからな。気構えできてりゃいたかねェさ」


 ところが、電知は動転するどころか、腹部を狙ってきたボルトを左の下腕でもって受け止めた。当然ながら防御ブロックした部位には刺し傷を負ってしまったが、鮮血が噴き出すのも構わずに同じ側の手で右肩の辺りを押さえる。

 同時に右の五指でもってキリサメの左肘辺りを掴んだ電知は、彼の懐へ背中を押し当てるようにして全身を捻らせ、次いで互いの右足を重ねる。すかさず相手側の足首を払い、捕獲していた左腕を一気に引き付けた。

 気付いたときには夜空を仰ぐ体勢となっていたキリサメには分からなかったが、電知は地面から浮き上がった彼の身を腰へ乗せるようにしてその場に投げ落としたのである。無防備となった延髄は右足甲で撥ね飛ばされた。


「お……あ……ッ!」


 冷たい地面を転がされながらも何とか左手を突いて勢いを減殺し、即座に上体を起こそうとするキリサメだったが、追い掛けてきた蹴りを右の下腕で防御ガードした拍子に掌からボルトを落としてしまった。

 武器となり得る物を全て失った恰好だが、新しいボルトなどを見繕っていられる状況でもない。蹴りで撥ね飛ばされていた右腕を肩のバネでもって素早く引き戻し、次いで傾きかけた体勢を力ずくで揺り動かし、生じた勢いに乗せて上から下に拳を振り落とした。

 猫の手のようにも見える不思議なパンチは今度も直撃の瞬間に手首のスナップを効かせている。握り締めた指と掌底で電知の頭部を揺さぶったが、この一撃へ合わせるように速射砲ともたとえるべき直線的な突きが飛び込んできた。

 傍目にはキリサメが望んだ通りの相討ちと見えたであろう。しかし、結局は電知に競り負けたようなものであった。

 正面から突き込まれてくる右拳を眉間で受け止めつつ、急激に前進していく力の作用で押し戻そうと図ったのだが、当の電知は命中する寸前に五指を開き、掌底でもってキリサメの頭突きを押さえ付けた。

 キリサメの拳が電知の左眉辺りに赤黒い花火を咲かせた瞬間、両者の動きが一瞬だけ静止した。キリサメの右側頭部が左ハイキックで撥ね飛ばされたのは額に押し付けられていた掌底が離れた直後のことである。

 鼓膜に響く軋み音には首が捩じれたかと錯覚させられたが、その最中にも反撃を仕掛けることはできる。右足裏を押し当てるように蹴りを加え、力任せに電知を引き剥がした。


「良いカンジに昂揚アガッてきたじゃねーの。格闘家の気構え、ちゃんと伝わったか?」

「片目が見えていないのにどうやって――いや、シャツを着ていなくても関係ないという理屈と一緒か……」


 それはつまり、片側の視界を塞がれようとも密着状態に持ち込んでしまえば電知には何の支障もないということだ。


「おうとも、理解わかってきたようで嬉しいぜ。前田光世大先生の魂はもブチ破れるんだからよォ!」


 打撃系の格闘家に肩を並べるほど鍛え抜かれた電知の拳は、純粋な殴り合いでも十分に通じるだろう。

 事実、彼は先程も「あては組技への中継ぎではなく、単体でも十分に闘える」と誇らしげに語っていた。が『あて』と呼ばれる技法の神髄なのだろうか。こちらの身動きを確実に制する一撃を打ち込み、続けて骨身が軋むほど重いダメージを刻んでくるのだ。

 電知はあてからあてへと連携させている。

 改めてつまびらかとするまでもないが、キリサメも格闘戦を経験するのはこれが初めてではない。殴り合いに慣れた者はフェイントを織り交ぜてきた。イランの拳法を使うニット帽の男は攻守の組み立てを誤ってしまうほどトリッキーな技で畳み掛けてきた。

 過去に拳を打ち込まれた者たちと比べるまでもなく、電知がふるあての技法は段違いの精度を誇っていた。しかも、無闇な乱れ打ちではない。相手の呼吸を読み、極めて訓練された狙撃手スナイパーのような精密射撃を一発ずつ確実に叩き込んでくる。

 相討ちさえ困難なほどキリサメは翻弄されていた。電知が最も得意とする投げに警戒していると組技の応用で姿勢を崩され、〝本命〟のあてを突き立てられてしまうのだ。

 あおあざが痛ましい腹部へ重い一撃を重ねられたら、それが致命傷となるだろう。


「さすがにこれで終わりだろ。思った以上にてこずっちまったが、『E・Gイラプション・ゲーム』のエース、面目躍如ってところだな」


 改めて電知の――否、『E・Gイラプション・ゲーム』の勝利を確信して握り拳を突き上げた上下屋敷を眺めながら希更は「チビ助が〝エース〟ってコトは別に〝ジョーカー〟もいるのかしら」と彼女の呟きに反応を示した。

 電知と肩を並べるような猛者が他にも所属しているとすれば、いよいよ『E・Gイラプション・ゲーム』のことを〝アマチュア〟の格闘技団体とは言い難くなる。ましてやプロとアマを分けるのは興行の規模でもないのだ。MMAデビューの以前まえから一流の格闘技者であった希更はそのことを実感と共に理解している。

 『天叢雲アメノムラクモ』のリングに臨むプロのMMA選手と比較しても『コンデ・コマ式の柔道』は全く遜色がないことを希更の隣に立つ未稲も認めていた。ここまで頭抜けた技の冴えを見せ付けられては、『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長の娘としても認めざるを得なかった。

 今夜の興行でじょうわたマッチと対戦したアンヘロ・オリバーレスは祖国スペインの代表として夏季五輪に出場し、柔道で金メダリストに輝いたいくさこうじゃであるが、あてと投げ技、組技を巧みに変化させていく電知のほうがプロを冠する彼より数段優れているように思えるのだ。

 『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』の間で繰り広げられている〝抗争〟は双方の上層部による駆け引きもあり、これまでは選手同士が激突するような状況は避けられてきた。

 希更が襲撃されたことは異常にして緊急事態であり、危うい均衡が初めて破られそうになった瞬間だったのだ。キリサメが割り込んで〝代理戦争〟を引き受けてくれなかったら余計に状況はこじれていただろう。


(……こんなこと、絶対に口に出せないけど――この人たちが会場に殴り込んできたら大恥掻くのは私たちのほうかもだね……)


 無関係のキリサメを『天叢雲じぶんたち』の厄介事に巻き込んでしまって申し訳なく思う反面、彼が希更と代わってくれたことを未稲はぎょうこうのようにも捉えていた。

 未稲自身も『E・Gイラプション・ゲーム』所属選手が闘う姿を目にするのは初めてである。『天叢雲じぶんたち』はプロの格闘技団体という自負があり、心のどこかで地下格闘技アンダーグラウンドそのものを素人アマチュアのサークル活動のように低く値踏みしていたことは否めなかった。

 これほどまでに手強い相手とは、完全に想定外だったのである。

 今回の興行では対戦相手との実力差が余りにも開いていた為、希更は潜在能力ポテンシャルの半分も発揮していないだろう――が、そのことを差し引いて考えてみても、電知を返り討ちにする姿は想像できなかった。

 父を筆頭とするトップ選手たちであっても苦戦は必至であろう。生半可な実力の持ち主が襲撃されようものなら惨敗は免れまい。

 何より歯痒がゆいのは『天叢雲アメノムラクモ』の側に勝利を得る為の条件がないことだ。

 その本質はともかくとして〝アマチュア〟へ分類される者たちにMMAの〝プロ〟が倒されたと知れ渡ればマスコミの嘲笑に晒され、興行など二度と催せなくなるだろう。仮に統括本部長が出張っていって事態を収束させたとしても〝世間〟の目には大人が子どもを殴ったように見えるはずだ。

 そして、その瞬間に『天叢雲アメノムラクモ』というブランドは地に墜ちる。

 〝世間の目〟がプロとアマをどのように見るか――そこまで考慮した上で『天叢雲アメノムラクモ』は『E・Gイラプション・ゲーム』と正面切って衝突することを回避し続けてきたのである。

 それだけに〝代理戦争〟を担う羽目になったキリサメの立場は特殊だった。彼はMMA選手ではないので、万が一、電知に倒されたとしても『天叢雲アメノムラクモ』自体の敗北ではないという釈明が成り立つのだ。

 無論、その為には自動車整備工場ここから希更を無傷で逃がすことが大前提である。


(……私、最低サイテーだな。キリサメさんは私たちを庇ってくれているのに……)


 『天叢雲アメノムラクモ』に関わる人間としての胸算用は無意識の内に行ってしまったものだが、それは〝代理戦争〟を背負わされたキリサメを踏み躙るようなものであり、未稲は心から自分の短慮を恥じ、心の中で彼に詫びた。


「てめーもどんどん燃え上がれ! 見果てぬ夢を生きるってのは! 未来へ向かう力そのまんまだぜッ!」


 当事者の一人である電知は『天叢雲アメノムラクモ』の趨勢まで考える未稲とは真逆の様子だった。

 おそらくは『E・Gイラプション・ゲーム』のエースという立場も、『コンデ・コマ』という神聖なる名前を金儲けに利用されて逆上したことさえ頭から抜け落ちているのだろう。

 もはや、憤怒を叩き付けているのではなかった。今はただキリサメ・アマカザリという好敵手に巡り逢った歓喜で身も心も打ち震えているのだ。

 昂り切った吼え声を引き摺りながら、電知は真っ直ぐに好敵手キリサメへと突っ込んでいく。


「そろそろケリつけろや! 『E・Gイラプション・ゲーム』完全勝利の前祝いだァッ!」


 上下屋敷の大声が耳に届くよりも早く右ローキックを繰り出した電知は、キリサメの左膝が軋むのと同時に蹴り足を引き戻し、入れ違いのような形で同じ側の拳を突き入れた。

 左膝への一撃で足さばきそのものを止められてしまったキリサメは次に襲ってくる右拳のあてこそが電知の〝本命〟であろうと直感している。トドメを刺すつもりなら自分でも手酷く悪化したことが瞭然な腹部を狙うはずだ。

 すかさず右膝を突き上げてあてを凌ごうとするキリサメだったが、風を裂く速度とは裏腹に命中した拳には殆ど力が込められていなかった。「拳を軽く押し当てた」と表すのが最も正確に近いだろう。

 ここに至ってフェイントに幻惑されたことを悟ったキリサメは、軸に据えている左足でもって後方に飛び退こうと試みたが、ローキックの影響が抜け切っていない上、投げ技によるダメージが蓄積された肉体からだでは反応がまるで間に合わず、膝のバネを振り絞る前に右腕を掴まれてしまった。

 突き刺すような激痛によって呼吸が困難な状態となっている現在いまのキリサメは、他の軽傷な部位を切り捨ててでも腹部を庇ってしまう。その反射を逆に利用されたのだ。

 さすがは『E・Gイラプション・ゲーム』のエースというべきか。猪突猛進に見えて試合運びを緻密に組み立てている。あるいは思考に基づいて計算しているのではなく、格闘技者としての本能が最も望ましい〝道筋〟へと導いているのかも知れない。

 いずれにせよ、キリサメはあての効果を恐れる心理まで突かれていた。そして、そのことを後悔する頃には右腕を引っ張られて上体が傾き、肩越しに背面まで回された対の手で腰のベルトをも掴まれている。

 この流れの中で電知は右腕に対する拘束をも変化させていく。腋の下を潜るようにして自身の左腕を滑り込ませ、五指でもって首の付け根を押さえたのだ。

 上半身を完全に押さえ込まれたと戦慄した直後、キリサメの両足は夜空そらへと引っこ抜かれていた。まるで入れ違いのように地面へと身を放り出し、冷たいコンクリートの地面に背を付けた電知から後方に投げ捨てられたのである。

 電知は更なる加速を見せた。互いの腕を絡めたまま自身も素早く回転し、キリサメに覆い被さった。帯を掴むことによって彼の足を地面から引き抜いた五指も身を転がすなかに別の場所へと移している。

 電知の両手が己の右腕を掴んでいる――関節技に持ち込まれることを警戒したキリサメは身を強張らせたが、彼の狙いは肘でも肩でもなかった。拘束を振り解こうともがく力を利用され、上体を勢いよく引き起こされてしまったのである。


「〝競技〟だったら転がしたところで一本勝ちだろうが、おれたちがやってるのは五体凶器の真剣勝負ガチンコだ。てめェがブッ潰れるまで終わりゃしねぇぜ」


 先程の攻防にける電知の言葉が不意に蘇った。くだんの声が鼓膜を叩いたときと殆ど同じ筋運びなのだ。案の定、次の瞬間には竜巻の如き一本背負いで投げ落とされてしまった。


わりィが、降参は認めねぇぜ! 地獄か極楽か、てめぇがどっちかにブッ飛ぶまでおれは止まらねーからよォッ!」


 「やはり」というべきか、電知はキリサメが想い出したばかりの言葉を繰り返した。

 冷たい地面に転がっているキリサメの身を更に引き起こすと、今し方とは向きを変えて再び一本背負いを仕掛ける――宣言の通り、五体をバラバラに破壊し尽くすまで高い位置から投げ落とし続けるつもりなのだろう。

 四度目を数えようとも電知はちゅうちょなくキリサメの身体を引き起こした。


(……まだ……目覚めよと呼ぶ声は……聞こえないのか――)


 このままでは数分とたずに意識を失うだろうが、それでも〝隠し玉〟の発動に要する引き金は起こらない。その気配すら感じられない有り様だった。

 電知の投げ技は瞬間移動の如き速度を取り戻しており、気付いたときには全身を軋まされている。全く同じ技で幾度となく投げられているのだから仰ぎ見る夜空そらも変わることがない。数秒おきに地面の冷気が蓄積されるという奇怪な状況に陥っていた。

 着実に近付いてくる死の足音を脳が認識していない状況とも言い換えられるわけだが、このようなことはキリサメも生まれて初めてなのだ。

 故郷ペルーでは常に死を意識していた。自慢にもならないことだが、命を懸けずとも生きていける日本人ハポネスよりも死の臭いを嗅ぎ付ける感覚は鋭いつもりでいる。ましてや電知のことを拳銃よりも遥かに恐ろしい強敵と認めているのだ。

 それにも関わらず、覚醒の息吹と呼ぶべき現象が押し寄せてこないのはどういうことなのか。現在いまもまだ心は〝闇〟と共に沈黙し、いだままでいるのだ。


「キリサメさん! もう出し惜しみしてる場合じゃないって! 今こそ〝アレ〟をッ!」


 電知に背負われるのが五度目になろうかというなかに未稲の声を聞き取ったが、わざわざ他人ひとから呼び掛けられるまでもなく状況を打開し得る一手など分かっているのだ。

 こちらの焦燥をわざと煽り立てているようにも思えるくらいであった。


「気力ゲージはとっくに最大値マックス! 体力ゲージに至っては赤点滅! こんなときこそ潜在能力の出番だよ⁉ 爆裂究極覚醒レッツゴーッ!」


 電知の口から甲高い悲鳴がれたのは、キリサメが意味不明な合図を送ってくる未稲に舌打ちをしてしまった直後である。

 その瞬間に電知の動きが急に止まったのだ。

 小細工も弄してみるべきか――本当に偶然ながら垂直に立っていたボルトを電知が右足の裏で踏み抜いてしまったのだ。キリサメが掌中に忍ばせていた物よりも僅かに長く、血塗れの先端が足の甲まで貫通していた。

 それが為に一本背負いの途中で右足を撥ね上げてしまったのだ。

 肉を裂き、骨までいた痛みは電知も気に留めていないだろうが、肉体からだのほうは本人の意思と関係なく反応してしまうものである。奇しくも腹部のダメージで呼吸困難となりつつあるキリサメと同じであった。

 一瞬の静止状態を見逃すキリサメではない。電知の手を振り解いて着地すると、よろめきそうになるのを懸命に堪えながら正面切ってじゅうどうの襟と袖を掴んだ。

 言わずもがな、それは柔道家が最も得意とする間合いである。

 自棄を起こしたものと見て取った上下屋敷は「武士の情けだ! っちまえ!」などと喚いているが、キリサメが敢えてこの状態を選んだのは逆転を期した策に他ならない。


「チマチマとした削り合いはもうたくさんだ。……一気に勝負をつけてやる」


 簡易ガレージが立つ方角を顎で示しつつ、キリサメは電知の耳元にる挑戦をささやいた。


「……成る程な。ドン・キホーテ野郎らしいじゃねーか。良いぜ、乗ってやらァよ。乗らずにいられるかってんだい!」


 この挑戦を電知は二つ返事で受けた。返答に至るまでキリサメの想像した通りである。

 彼は伝説的な柔道家――前田光世コンデ・コマの勇気と技を現代に甦らせ、同じ道を歩まんと志す少年である。例えどのような形であろうとも勝負を挑まれて避けるはずがなかった。それどころか、後先を考えずに闘魂を燃やすタイプなのだ。

 それはつまり、乗せられ易い性格ということを意味している。


「……あんたの仲間が望んだ通りにはならないからな。最後まで勝負は捨てない」

「こいつめ、嬉しいコトを言ってくれる! 心に火が入った昂りを忘れんなよッ!」


 ここまでの攻防では幾度となく電知に裏を掻かれてきた。今度は自分キリサメの側から仕掛ける番ということであった。

 やがてキリサメは電知と組み合ったまま簡易ガレージまで牽引し、次いで乗用車のボンネットへと飛び移り、直後に右手を離して下から抉るような目突きを繰り出した。


「おま――シメの一発ってなときにまでにこだわんじゃねーよ!」


 この期に及んで双眸を狙われると思わなかった電知は慌てて上体を反らし、失明を免れた。しかし、不安定な場所で無理な回避動作を取った為、俄かに姿勢を崩してしまう。

 これもまた逆転への一手だった。あてから別の技へ繋げるという電知の戦術を模倣し、素早く背後に回って羽交い絞めにしてしまったのだ。

 小柄な電知はそれだけで身体が完全に持ち上がった。踏み止まろうにも両足はくうを切るばかりである。


「おっ⁉ てめー、一体ッ⁉」

「さっきの言葉に嘘はない。……勝負だ」


 ペルーでは標的の背後から忍び寄り、いきなり首を絞め落とす手荒な強盗が蔓延はびこっている。こうした奇襲攻撃が極めて有効であることをキリサメもから知っていた。

 相手を羽交い絞めにして身動きを封じたまま高い位置から飛び降り、脳天を地面に叩き付けて粉砕する――使える状況が限られる上、一緒になって急降下するので自滅を招く危険性も低くないが、標的を確実に仕留めたいときに頼る〝切り札〟の一つである。


「マジにみたいで嬉しいぜ! ヒリつくような一瞬は大歓迎さァ――」


 簡易ガレージで最も高い位置は雨風を防ぐシートを被せたアーチ状の骨組みである。

 ボロボロのシートを強引に突き破りながらへ飛び乗るキリサメだったが、その直後に電知の反撃を許してしまった。

 背中を向けた状態のまま両足でもってキリサメの胴を挟んだ電知は、次いで勢いよく身を振り回した。棒に嵌め込まれた輪の要領で素早く横回転し、一瞬にして背後を奪い返してしまったのである。


小柄チビは羽交い絞めし易いだろ? みんなして似たようなコトをやってくっからすっかり慣れっこでよォ。返し技なんか幾らでも持ってんのさ!」


 奇術めいた動きに惑わされて呆然となるキリサメだったが、このときに悔やむべきは拘束の甘さであろう。腋の下から腕を滑り込ませただけでは容易く解かれてしまうわけだ。せめて首へ宛がうように左右の五指を組み合わせ、強く固定しておくべきであった。

 慌てて身を捩らせて反撃に備えようとするキリサメだったが、幾度も投げ続けられたダメージがそれを許さない。

 次の瞬間に右肘の辺りを左の五指で掴まれ、更には後ろから回された対の手でもって首を押さえられた。左側面から抱きすくめられるような体勢に持ち込まれたのである。


「お前ッ!」

「どっちが死んでも恨みっこナシと行こうぜェ!」


 電知は簡易ガレージの骨組みを踏み付け、キリサメと共に宙へと身を躍らせた。

 二人分の体重に耐えられなかった骨組みがシートを巻き込んで崩れ落ちていくさまをキリサメと電知は空中から見下ろしたのである。

 地球の重力へ引き付けられる二人の有り様は、墜落の二字が最も似つかわしいだろう。先に頭蓋骨の砕けたほうが敗北という究極のチキンレースとたとえるべきかも知れない。

 跳躍の間際に電知は一つの投げ技を完成させ、相手を組み敷くような体勢に持ち込んでいる。このまま急降下していけば、キリサメのほうが先に地面へ叩き付けられるだろう。


「――〝若〟ッ!」

「キリサメさんっ!」


 悲鳴を上げるパンギリナンと未稲の双眸は――否、二人の少年の決着を見守る人々の瞳はその中央に凄まじい場景を映した。

 電知に組み付かれたまま奈落の底まで落とされるかに思われたキリサメは左手を回して彼の短い髪を掴み、その身を力ずくで引き剥がした。

 腕力一つで振り回した電知の身体に追撃の蹴りを見舞い、撃墜せしめたのである。

 無理な姿勢から引き剥がそうとすれば大して力も入るまいが、それにも関わらずキリサメは先に完成された技を外したのだ。驚愕の二字を用いても表せない事態であった。

 しかし、瞳に映った場景を未稲たちの脳は認識できなかった。いつもはまぶたが半ばまで閉じているキリサメの双眸が大きく見開かれたことも含めて――だ。

 瞬き一つよりも遥かに短い刹那の内に全てが終わっていたのである。地上に立つ人々が次に捉えたのは、いつの間にか空中戦を終えた二人の姿であった。

 両者とも既に墜落した後である。映画のフィルムでたとえるならば地面に叩き付けられる瞬間を切り取ったコマが丸ごと抜け落ちてしまったようなものだ。

 記憶の一部が歯抜けしたかのような錯覚に当惑した希更は敵であるはずの上下屋敷と顔を見合わせながら目を丸くしている。左右田もパンギリナンも唖然と口を開け広げたまま立ち尽くすばかりであった。

 しかも、だ。真っ逆様に落ちたわけでもない。電知は簡易ガレージの残骸に埋まり、キリサメはその対角線上で片膝を突いているではないか。

 磁石の二つの極を合わせたかのような現象が空中にて発生し、キリサメと電知はそれぞれ異なる方向に弾かれたのだろう。これによって急降下の勢いも大幅に減殺されたのだ。

 そうでなかったのなら、二人とも全身の骨が砕けていたはずである。


(これはやっぱり、あの日に垣間見たモノ――ッ!)


 空中戦の行方を見届けることはできなかったが、この場で何が起きたのか、未稲にだけは理解わかった。それだけに身震いが止まらない。〝家族〟が死へ臨みそうになった恐怖などではなく、激しい昂奮が頭頂から爪先までくまなく満たしていた。

 ほんの一瞬ながらキリサメは神速の域にまで達し、絶体絶命の窮地を切り抜けた――それはまさしく人智を超えた〝力〟が発動された証左なのである。


「い、今のが――」

「――今のが例の〝隠し玉〟か⁉ やってくれるじゃねーかッ!」


 混乱の静まり切らない顔でキリサメの様子を眺める希更の呟きは、一等大きな吼え声によって吹き飛ばされてしまった。

 言わずもがな、声の主は電知である。信じられない状況で自身の技をひっくり返されてしまったわけだが、ズタズタに千切れたシートを撥ね退けて立ち上がったということは致命傷には至らなかったのだろう。

 それでも大きなダメージを被ったことは確かだ。口の両端から少量とは言い難い血を滴らせ、身体の動きも明らかに鈍っている。落下時の衝撃よりも腹部に喰らわされた蹴りのほうが効いているらしい。


「……ゾンビかよ……」


 眠れる獅子とたとえるのが最も似つかわしい目付きに戻り、これを見据えるキリサメも相当に疲弊していた。星空を舞う前と比べて呼吸は荒く、上体も無理を押して引き起こしたように見える。

 これまでダメージを蓄積されてきた肉体からだがついに限界を超えたのか、それとも神速を発動させた反動なのかは判然としないが、あの雪の日も車道から戻ってきたときには額から大粒の汗が噴き出していたはずだ。

 まるで全力疾走した直後のように肩で息をしていたことも想い出される。


(ひょっとすると今度も……⁉)


 今、解き放たれたのは人間の限界を超えた〝力〟である。それ相応の負担が撥ね返らないはずもなく、未稲の目にはキリサメが油の切れたブリキ人形のように映っていた。

 そこに顔面を深紅に染め抜いた電知が突っ込んでいく。一本背負いでもあてでも、次の攻撃でトドメを刺されるのは間違いない。そして、そこから逃れるすべ現在いまのキリサメは一つも持ち得なかった。


「キリサメさんッ!」

「ドン・キホーテ野郎――キリサメッ!」

「――どいつもこいつもッ!」


 未稲と電知とキリサメ――三者三様の大音声が信濃の夜空そらに交錯した瞬間、これまでの比ではない血飛沫が舞った。

 今まさに組み付かんとしていた電知の左頬を横薙ぎに閃いたキリサメの右拳が撃ち抜いたのである。鋭く踏み込み、背中が相手に向くほど大きく腰を捻りながら放った一撃フックは並大抵の威力ではなく、電知は後方に撥ね飛ばされてしまった。


「コ、コークスクリュー……」


 再逆転でキリサメが討ち取られるかも知れないという焦燥を抱きながら攻防を見守っていた未稲は、その場にへたり込みながらコルク抜きを意味する言葉を呟いた。

 口笛をもって讃えた一撃フックの術理を希更も『コークスクリュー』と読み解いている。拳を命中させる寸前に腕全体を内側へ捻り込み、打撃力を撥ね上げる技法であった。回転を要とする為、コルク抜きになぞらえる技名なまえが付いたのである。

 キリサメの場合は横薙ぎの軌道を描く為、さしずめ『コークスクリューフック』と呼ぶべきか。希更が見たところ、軸足から始まって腰、肩、肘、そして、手首に至るまで連動的に回転を加えていき、螺旋の如き力の作用を拳に宿して撃ち放つ性質のようだ。

 キリサメは右拳でもってコークスクリューフックを放っている。これに対して電知は流血によって左目が閉ざされている為、右腕の動きを見極められなかったのだ。

 意識の外から爆発的な破壊力を浴びせられては不死身とも思えるほど打たれ強い人間であっても耐えられるものではなく、ママチャリのすぐ近くに倒れ込んだ電知はそのまま立ち上がれなくなった。


「……〝若〟……」


 パンギリナンから呼び掛けられても全く反応がない。それは『E・Gイラプション・ゲーム』の敗北を意味する沈黙であった。


「ネコパンチ使ってたから打撃系ストライカーとは思ったけど、キミ、ボクシングがベースなんだね。フィニッシュブローはコークスクリュー? そこでノビてるチビ助といい、世の中にはダイヤの原石がゴロゴロしてるねぇ~。お姉さん、良いカンジに刺激されちゃったわよ」

「……そんなんじゃ……ありません……工事現場のドリルを見てたら……回転加えたほうがパワーが増すって……思っただけです……」

「おまけにキッド・マッコイみたいなコト、言ってるし」


 冷やかしとも取れる希更の声を背中で受け止めつつ身を引き摺るようにして電知のもとに向かっていったキリサメは、暫く彼の顔を見下ろしたのち、返り血を浴びた右手でじゅうどうの襟を掴んだ。

 脂汗が滲んだ顔には勝利の喜びも撃破の安堵もない。キリサメが電知の身体を無造作に放り投げたのは未稲が声を掛けようとした矢先のことである。

 気絶して動かなくなった電知などキリサメにとっては〝物〟同然の扱いということであろうか。柔道のようにを倒す為の技ではなく、石か何かを遠くに投げるようなものであった。

 〝物〟と化した電知を投擲されたのは左右田である。比較的軽傷の上下屋敷を咄嗟に放り出して彼の身を受け止め、まだ息があるかどうか確かめていく。

 『E・Gイラプション・ゲーム』に所属する仲間として、また人間として当然の反応であるが、〝実戦〟の場にいては浅慮と見なされてしまうだろう。少なくともキリサメの故郷では命取りだ。

 事実、ほんの一瞬だけ目を離した隙にキリサメの姿は掻き消えていたのである。


「――うえだっ!」

「ああーっ⁉」


 上下屋敷が指差した通り、キリサメの姿はいつの間にか空中にった。

 瞠目するいとまさえ与えるつもりがないのか、星々を背にして標的を狙い定めると、跳躍の頂点から左右田目掛けて一気に急降下していった。

 「ほらもー、秒速で惚れ直したッ!」と希更が黄色い声を上げてしまうのも無理からぬ話であろう。それはまるで獲物に向かって飛翔する鷹のようであった。

 猛禽類の爪の如く両足を繰り出したキリサメは頭部と首元を踏み付けにし、落下の速度と全体重を掛け合わせて左右田の巨体をコンクリートの地面に押し倒した。


「そいつを担いでさっさと消えてくれ」


 後頭部を強打して悶え苦しみがらも電知を抱え続ける左右田の頬を無慈悲に踏み付けたキリサメは〝闇〟を湛えた瞳で彼を見下ろし、これ以上ないというくらい冷たい声で撤退を命じた。

 身体に残った余力を振り絞った跳躍だったのだろう。先程よりも声は擦れていた。

 キリサメが発したのは勧告ではなく命令である。逆らえば五体満足では済まさないと、見る者におぞましさを植え付ける眼光でもって語っていた。

 頬を踏み付ける力を強めたのは、これが脅しではなく通告であることを示す為だった。


「あ、ああ?」

「もう一度だけ言う。仲間を連れて帰るんだ」

「……あ、ああ……」


 左右田の心を圧し折ったキリサメは、は貧民街の裏路地では日常的に起きていたと無意識に追憶し始めた

 痛みも喜びもなく、例えば果物の皮をナイフで剥くように〝暴力〟を振るえなければ、絶対に生き抜けない領域である。襲い掛かってくる相手を迎え撃つということだけではない。生きる糧を得る為には赤黒い罪に染まらなければならなかった。

 それが格差社会の最下層に巣食う〝闇〟の現実であり、ありふれた日常であった。


(――そうとも。それがなんだ。それ以外に何があるって言うんだ)


 未稲から「ど、どうしたの? なんで固まっちゃって……」と呼び掛けられても現在いまのキリサメには届かない。

 拳に甦った罪深い衝動も、懐かしい血の味も――ありとあらゆる感覚が異境から故郷へと急速に巻き戻りつつあった。


「――野郎、もう堪忍ならねぇ……ブッ殺してやらぁっ!」


 電知に続いて左右田まで倒されてしまった上下屋敷は一等大きな怒号を迸らせた。これと併せて両手首に巻いた数珠状のブレスレットを外し、二本の中糸を結び合わせていく。

 一度でも結び目を解こうものなら鈍色の球などバラバラに散らばってしまうはずだが、彼女が紐の片端を握り締めた後も元の形状を維持し続けている。鞭のように振り回して金属の玉を叩き付ける武器なのだ。

 アクセサリーに見せ掛けて隠し持っていたわけだが、それが彼女を後継ぎとする『でんとり』なる武術の装備なのだろうか。

 故郷ペルーには武器を忍ばせて不意打ちの機会を窺う犯罪者が少なくなかった。上下屋敷も同じような手段を取ってきたわけだが、自ら手の内を明かしてしまうとは素人以下である。

 例えば切れ味に優れた刃物であっても、いきなり相手に晒してしまっては何の値打ちもない。それでは切っ先を向けておどかす程度の効力しかないだろう。

 本気で命を奪いたいなら死角から急所を狙うべきだ。そうやって殺された人間をキリサメはペルーで腐るほど見てきた。そして、それこそが隠し武器の真価というものである。


「それで人が殺せると思っているのか?」

「な、なんだとぅッ⁉」

「……武器の使い方を教えてあげようか」


 重く低い声で吐き捨てたキリサメが地面に転がっている鉄パイプを拾い上げ、牙の如き先端を上下屋敷へと突き付けた。

 どんなに強い人間であっても大量の血を失えば呆気なく死ぬ――キリサメはこの場の誰よりも生き物の脆さを知っているつもりだった。

 そして、夥しい血に濡れながら何かを訴える女性の幻像まぼろしが脳裏をよぎった瞬間、全身に纏う気配が一変した。

 醜く顔を歪めるといった目に見えて分かる変貌ではない。しかし、いつもと同じようにまぶたを半ばまで落とした双眸の向こう――二つの瞳が本能に突き刺さる戦慄を撒き散らし始めたのだ。

 果てしなく虚ろな瞳は冥府へと通じる空洞のようであり、視界に捉えた全存在の生命力を吸い尽くすのではないかと錯覚するほどであった。


「な、泣いて謝ったって、もう遅ェからなァ――」


 〝人間らしさ〟の欠片もない目を向けてくるキリサメに立ち竦みながらも後には引けない上下屋敷は、自らを奮い立たせるかのような吼え声を張り上げつつ得物を振りかざした。


「待て。ここで我々が、勝負の結果を、覆したら、正々堂々と闘った〝若〟の誇りを、いたずらに傷付けるだけだ」


 パンギリナンの説得にも上下屋敷は耳を貸さなかった。それどころか、「その〝若〟をやられて黙ってんじゃねーよ! 腰抜け呼ばわりされても良いのかッ⁉」と反対に怒鳴り返される始末である。

 パンギリナンとて敬愛する〝若〟を打ち負かされたことが悔しくないわけではないが、ここで彼女を食い止めなければ本当に『天叢雲アメノムラクモ』との全面戦争に突入してしまうのだ。

 所属選手を標的にした今でさえ危うい状態である。この上、団体代表の許可ゆるしも得ずに私憤で戦端を開くことなどあってはならないのだ。


「――待ちなさぁぁぁぁぁぁいッ!」


 『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』――双方の間に垂れ込める緊張感が高まり切った瞬間、どこからともなく制止を訴える大音声こえが降り注いだ。

「凶器などお仕舞いなさい! 現代の戦士にそんな物騒な物は似合わない! キミたちの将来にはナイスファイトが待っている! それをつまらないことで捨ててはいかん!」

 何事かと声のした方角を仰ぐと、道路側に面した建物の屋根に何者かが屹立しているではないか。


「カリガネイダー……? 赤備あかぞなえ人間カリガネイダー⁉」


 果たして、その正体は未稲の口から語られることとなった。

 剥き出しの上半身に闇夜を照らすような赤いスパッツを穿き、これと同じ火の玉の色のプロレスマスクを被った男が両手を腰に当てながらキリサメたちを見下ろしている。

 マスクの眉間にはカリガネという渡り鳥をかたどった紋様が、長靴のようなリングシューズや赤いスパッツには八雲岳の陣羽織にも使われている『ろくもんせん』の紋様が、それぞれ金糸によって刺繍されていた。

 路上戦ストリートファイトの場に突如として乱入してきたのは、長野市内を中心に活動する地方プロレス団体――『まつしろピラミッドプロレス』のトップレスラー、赤備あかぞなえ人間カリガネイダーその人であった。

 改めてつまびらかとするまでもなく、大音声でキリサメと上下屋敷の衝突を制したのは眉間に金の刺繍をきらめかせるカリガネイダーというわけである。

 どうやら大慌てで屋根の上に登ったらしく、剥き出しの上半身には大粒の汗が噴き出していた。吹き付ける寒風の所為せいか、張り上げた声も汗みずくの身体も微かに震えている。


「ど、どうしてカリガネイダーがここに? もうセレモニーは終わったんですか⁉」

「そろそろ観客たちの見送りが始まる頃合かな! ウワサがウワサを呼んでいた希更・バロッサのシークレット・ライブも結局は幻に終わってしまったからね! 八雲岳応援団長の私としては最後まで見届けたかったのだが、そんなときに乙女の悲鳴が聞こえてね!」

「それじゃあ、もしかして、カリガネイダーはっ⁉」

「そうとも、お嬢さん! か弱き人があるところ、助けを呼ぶ声があるところ、私はどこだって駆け付ける! 火の玉の化身! 人呼んで、赤備あかぞなえ人間カリガネイダーッ!」


 未稲と二人で子ども向けのヒーローショーのような掛け合いを演じているカリガネイダーにはこの場に居合わせた誰もが唖然としていた。キリサメと上下屋敷に至っては自分たちの置かれた状況すら忘れる始末だ。

 事前に打ち合わせていたのかと勘繰ってしまうほどつつがない進行だが、二人の掛け合いへ耳を傾けていてもカリガネイダーが現れた理由など全く分からない。

 悲鳴が聞こえて駆け付けたと本人カリガネイダーは語っているが、そのようなことは現実には不可能である。この青年は超人でも何でもなく、ただの社会人レスラーなのだ。

 キリサメの記憶が正しければ、『まつしろピラミッドプロレス』は岳がコーチを務める地方プロレス団体だったはずである。長野市内にて『天叢雲アメノムラクモ』の興行が催されるということで応援に駆け付けたという。

 少なくとも、キリサメは麦泉からそのように説明されていた。


「結局、どういうコト? 段取りとかもろもろ、カンペキ置いてきぼりなんだけど……」


 自分たちが流していた偽情報の件を持ち出されて気まずくなったのか、希更は俯き加減で頬を掻いている。


「――バッキャローッ! ローカルヒーローだか何だか知らねぇが、すっこんでろ! こちとら東京から長野までチャリで来てんだぞ⁉ 邪魔すんなッ!」


 皆が立ち尽くしている間に意識が回復した電知は左右田の腕を引き剥がして起き上がり、何の前触れもなく乱入してきたカリガネイダーに出る幕ではないと噛み付いた。


「なんというチャレンジャーなんだ、少年! 碓氷峠越えはさぞや苦労しただろう⁉ キミの激ファイトぶりに! 今! 私は猛烈に感動しているッ!」

「うるせーっつの! 何なんだよ、てめーっ!」

「自転車で帰る前に骨休めしておいたほうがよかろうな! そこでッ! キミたち三人をスペシャルでロイヤルなホテルにご招待しようではないか! 一泊二日で朝食付き、おまけに手当てしてもらえるぞッ! 言うことナシだろう~⁉」

「それ、ただの緊急入院だろーが!」

「よく分かりませんが、ここは、申し出を、受けるべきです。足のダメージを、お見受けすると、帰りの道中、ペダルを踏めないのは、明らか。自転車も修理せねば、ですし」

「……話の流れで訊くんだけど、チビ助たちの移動手段ってマジで自転車チャリンコだったワケ?」


 三人のやり取りに耳を傾けていた希更は、自動車整備工場の片隅に四台の自転車が停めてあった理由を確認して顔面を引きらせた。

 キリサメに投げ飛ばされた自転車を電知が『ワイルウェフごう』と呼び付けた辺りから予想はしていたのだが、どうやら本当に東京から長野までペダルを漕ぎ続けてきたらしい。


「ケッ――自動車クルマに頼ってサボりたがるてめーにゃ考えもつかねーだろうな! 体力作りに持ってこいなんだぜ⁉」

「それにしたってママチャリはナシでしょ。良く山越えなんかできたわね……」

「……〝若〟、自分は、もうそんなに若くないので、どこにでも自転車で、行こうとするのは、少し考えて、欲しいのですが……」


 電知は体力作りの一環と胸を張ったが、新幹線や長距離バスなど幾らでも交通手段がある二〇一四年にわざわざ自転車を選んでさんこくを走破するなど正気とは思えなかった。彼らは地下格闘技アンダーグラウンドの選手であって自転車競技の人間ではないのだ。

 パンギリナンの愚痴から察するに『E・Gイラプション・ゲーム』が掲げた方針などではなく、電知個人の趣味のようである。


「つーか、てめー、松代ナンチャラっつートコの社会人レスラーだろ⁉ 中身、役場の職員だって聞いたぞ⁉ カッコつけて、ンなとこに登ってんじゃねーよッ!」

「何のことやら!」


 電知の言葉に応じて両腕で力こぶを作って見せるカリガネイダーは確かに一般人にしては筋肉が引き締まっているが、『天叢雲アメノムラクモ』のリングに上がる選手たちと比べると数段貧相であり、『社会人レスラー』という言葉の意味がそこに表れていた。

 もはや、付き合ってはいられないとばかりにカリガネイダーからキリサメへと目を転じた電知は「第三ラウンドと行こうじゃねーか!」と拳を鳴らしつつ勝負の再開を持ち掛けた。

 どうやら彼の中では決着はまだついていないらしい。「あんた、スクリューフックで思いっ切りKOノックアウトされたじゃない」という希更の指摘ツッコミも耳を塞いで受け流している。


「いや、……もういい。あんたらだって、もうやる気ないだろう」


 溜め息と共に鉄パイプを放り捨てたキリサメには、上下屋敷の隠し武器を目にした直後の凄まじい妖気は感じられなかった。

 いつもと同じキリサメが立っていた。〝冥府への空洞〟も既に閉ざされている。


「ジジイじゃあるめぇし、なに燃え尽きてんだよ⁉ 早過ぎだろーがッ! もっともっと面白ェ喧嘩しよーぜ、キリサメッ!」

「……馴れ馴れしいな、あんた」


 あくまでも勝負を求める電知だが、キリサメには応じるつもりがない。カリガネイダーの乱入が一種の荒療治となり、極限まで昂った精神もすっかり落ち着いてしまったのだ。

 今が潮時であった。


「萎えちまったってんなら、別の場所で仕切り直ししても構わねーからよ! ほら、ぜんこうってのがあんだろ? 第三ラウンドのステージはそこの境内にしようや! たけしんげんうえすぎけんしんの位牌に見守られながら真剣勝負ガチンコなんて燃えるじゃねェか!」


 キリサメは心の中で「本当にゾンビかよ……」と、先程と同じようなことを呟いた。

 脳内麻薬で痛覚がおかしくなっているとしか思えなかった。顔面は言うに及ばず、うわの大部分がドス黒く染まるほどの出血なのに、どうしてまだ起き上がれるのか。

 一度は電知の意識を奪ったコークスクリューフックや左右田を蹴り倒した跳躍も肉体からだに残った僅かな力を使い果たすつもりだったのだ。肉体からだが限界を超えているのは彼だって同じだろうに、闘いの継続を求める意味が分からなかった。

 これが格闘家という存在ものなのか――己自身に対してさえ不条理で、無意味なことに骨を折ってばかりいるようだった。キリサメには生き方そのものが無駄としか思えない。


「……どうでも良いんだけど、あんた、岳氏のメンツを潰したかったんだろう? 目的と手段が入れ替わってないか?」

「それとこれとはもう別だぜ! とことんキリサメとってみたくなったんだッ!」

「だから、喧嘩なんて楽しんでやるもんじゃないって……」

「楽しくねぇってんなら、おれが楽しくさせてやるからよぉ~!」

「――そこを儂の顔に免じて引いてはくれぬか、電知」


 駄々を捏ねてキリサメを困らせる電知に制止を訴える声が掛けられた。

 『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間でもカリガネイダーでもない。別の声が彼の鼓膜を叩いていた。


「聞けば、この青年わかいのは岳の身内というではないか。ここで揉め事を大きくしてはお前の為にも『E・Gイラプション・ゲーム』の為にもなるまいよ。決着はいずれまた然るべき場所と時間ときで行うべきじゃよ。遺恨を残さぬようにな」


 そのように電知を諭す人影は、音もなくキリサメたちのすぐ近くに現われた。

 皆が屋根の上に立つカリガネイダーを注視していたとはいえ、一人くらいは気配を察知しても良さそうだが、足音も息遣いも拾い上げることはできなかったのだ。

 幽霊の如く突然に現われたのは地面に届きそうなくらい長い白髭を蓄えた老人である。杖を突く姿から東洋の伝説に登場する仙人ではないかとキリサメは疑ってしまった。

 その髭面を認めた瞬間、電知は――否、『E・Gイラプション・ゲーム』の全員が硬直した。それどころか、未稲までもが目を丸くしている。


「こ、こうたいじんッ⁉」

「孔のおじいちゃまっ!」


 電知と未稲が同時に老人の名を呼んだ。用いる敬称はそれぞれ異なっているものの、二人とも『こう』と呼び掛けていた。


「電知、また腕を上げたのぉ。……されど、それと怪我は別問題じゃ。ここは宮沢くんに従って病院で診て貰いなさい」

たいじん、私はカリガネイダーですぞ!」

「おお、すまぬ。今のお前さんはカリガネイダーであったな」

「ですから、たいじん……」

「ま、おいぼれの言うことなんぞ気にするな」


 〝たいじん〟と呼ばれた老人から肩を叩かれた電知は、それまでの粗暴さが嘘のように恐縮し、褒められた喜びを素直に噛み締めている。あどけない子どものように瞳をキラキラと輝かせているではないか。

 ここまで電知の表情を変えてしまえる〝たいじん〟にキリサメはただただ驚かされていた。

 しかも、だ。この白髭の老人は未稲とも旧知であるらしい。


「……ほう? 未稲はだいぶ背が伸びたようじゃな」

「おじいちゃま、それ、全然褒め言葉になってません。前にお会いしたときから一センチも伸びてませんから……ミリ単位の伸びしろですから……」

「適当なことを抜かしておるから墓穴を掘るんじゃな。反省、反省……」


 冗談めかして大きく笑ったのち、〝たいじん〟はキリサメにも目を向けた。


「お主も診て貰ったほうが良かろうな。……さぞや電知の技は堪えたであろう。前田光世コンデ・コマの継承を名乗るこやつの力は本物よ。次世代の至宝じゃ」


 頭頂から爪先に至るまでキリサメの身体をめつすがめつ眺めたのち、愉快そうに白髭を撫でて首を頷かせたのだが、何を感じ取って、どう納得したのか、凝視された当人には何一つとして見当が付かなかった。


「……何か……」

「粗削りに違いはないが、なかなかどうして、スジが良い。お主が『天叢雲アメノムラクモ』で闘う日を楽しみにしておるぞ」

「……は?」

「リングに上がるより電知と再び立ち合うほうが先かの? 存分に拳を交えて腕を磨くが良い。お主らの闘いこそ武の未来に通ずる道じゃ。今宵はそこに至る始まりの一歩を見させてもろうた心地じゃよ」


 かつての己を想い出したのか、それとも旧知の人間の面影と重ねているのか――昔日を懐かしむような表情となった〝たいじん〟は、のちに『てんのう』と呼ばれることになる少年たちを希望の光にたとえ、三月の星空にかったつな笑い声を響かせた。

 当のキリサメは見ず知らずの老人から褒められたところで何かを感じることもない。その様子に「ちったァ嬉しそうにしろよ」と苦笑する電知も煩わしいだけなのだ。周囲まわりから大層敬われているようだが、〝たいじん〟と呼ばれる正体まで含めて興味など湧かなかった。

 キリサメが顔色を変えたのは自分のほうに歩み寄ってくる未稲と視線が交わった瞬間のことである。遠い昔に忘れ去った記憶が急に甦ったかの如く双眸を見開き、次いで己の唇を親指でもって強く擦った。

 目の前に立つ少女の体温を感じた唇は、電知と殺し合う中で零れた血が濡らしている。


「病院、すぐ近くにあるっていうけど、キリサメさん、歩けそう? どうしてもキツいなら救急車呼んで貰うよ?」

「……僕は、……僕なんか――」


 己の身を案じてくれる優しげな眼差しから逃れるようにしてキリサメは顔を俯かせた。

 冷たい地面に落とした視線は度重なる酷使が祟って至るところが歪んでしまった鉄パイプを捉え、釘付けとなったまま微動だにしなかった。

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