その6:勝負~喧嘩と格闘技を分けるもの

 六、勝負


 キリサメという少年が立つ〝実戦〟の場は何時だって常闇の色に塗り潰されていた。

 しかし、それは陽の光が差し込まない裏路地あるいは故郷ペルーの空を覆う冬の濃霧といった環境の問題ではない。吹きすさぶ風に混じった血と腐敗の臭いは砂塵に飲み込まれる掘っ立て小屋のようにキリサメの魂を蝕み、目に映る全てを常闇の色に変えてしまうのだ。

 それは成人もしていない少年こどもに夢見る希望を否定させることにも等しかろう。ペルーの〝闇〟こそが揺りかごという暴力の申し子であればこそ、あるいは禍々しい『聖剣エクセルシス』に選ばれたのかも知れない。

 血の池を突き進む最中に鼓膜へ吸い込まれた水音も、靴から肌に染み込んでいった生暖かい感覚も――生命いのちに対する獰猛とさえ思えるほどの渇望を呼び覚ますのだった。

 何とも不思議な境地といえよう。互いの命を喰らい合う場であれば破壊と闘争の本能が極限まで昂り、心の奥から野獣さながらの吼え声が溢れ出してもおかしくないはずだが、キリサメの場合は哄笑混じりに荒ぶるどころか、いだ海の如く静まっていくのだ。

 そして、それが彼にとっての〝実戦〟であった。大して美味くもない飯を平らげることにも等しく、取り立てて騒ぐほどではなかった。狙い定めた相手の言葉や姿に〝何か〟を感じ取る必要性すら感じないのだ。心の振幅など最初から起こりようもないのである。

 憎悪の有無に関わらず、視界に捉えた〝敵〟は掃いて捨てるちりあくた同然であった。

 数年前にる日本人男性へ『聖剣エクセルシス』を向けた場所も〝闇〟によって視界が著しく遮られていた。尤も、これは比喩ではなく本当にほの暗い場所――反政府組織の根城である廃工場にて繰り広げられた一戦だ。

 黒いニット帽を被った日本人男性はやたらと軽口が多かった。『聖剣エクセルシス』が喉元を掠めた瞬間でさえ「こっちはお前、丸太じゃねーんだぜ。バラしたって薪にはならねぇよ」などと冗談を飛ばしてきたのである。

 さしものキリサメも呆れを通り越して感心したほどであった。そもそも、ふざけていられる状況でもなかったのだ。

 両者の足元には血まみれの遺骸が数え切れないくらい転がっていた。多くがノコギリ状の刃で肉と骨を削り取られるか、あるいは頭部を惨たらしい形に陥没させられている。

 これら物言わぬを踏み越えながら『聖剣エクセルシス』を振るい続けたのだ。ノコギリ状の刃を遺骸に引っ掛け、ニット帽の男目掛けて投げ付けるなど酸鼻を極める殺し合いであった。

 『聖剣エクセルシス』は二枚の平べったい木の板を鋭く研いだ石や鉄片と共に重ね合わせてノコギリのように繰り出す原始的な構造であるが、更に石の板を内側に一枚ずつ重ねており、一振りで標的の骨をも砕くよう改造を施してある。防御ガードを試みること自体が命取りなのだ。

 それ故にニット帽の男も直撃を被らないような遺骸を盾にして凌いでいた。


「おいおい、コンマ一秒もちゅうちょしねェってか。最近の若い子はを乱暴に扱うからいけねェや。顔面グシャグシャにしちまったら検死する人だって困るだろ~に」


 すっかり冷たくなった血をニット帽に浴びようとも冗談を吐いていられるのだから、彼もまた正常まともな精神の持ち主ではない。

 結局、ニット帽の男との闘いは勝敗がつかないまま第三者の介入によって強制的に打ち切られてしまったのだが、それを無視して殺し合いを続けていたなら猛禽類とりの動きを彷彿とさせる体術に翻弄され、最後には手も足も出ないくらい叩きのめされたはずだ。

 そのときのキリサメは既に全身の力を限界まで振り絞っていた。命が尽きかけている状態で無理矢理に肉体からだを動かし、『聖剣エクセルシス』を振り回したようなものである。

 正面切ってぶつかり合う〝格闘戦〟に限って言えば、過去にキリサメを絶体絶命の窮地まで追い込んだのはニット帽の男と、二人して足蹴にした数多の遺骸の同胞――その組織に雇われたという『デラシネ』の男だけである。

 『デラシネ』とは水面を浮かぶ根無し草のことであり、転じて特定の組織に所属しないフリーランスの殺し屋を指す隠し言葉であった。

 くだんのデラシネとはおよそ一年前――ペルーの首都リマで大規模な反政府デモが発生した折に或る謀略へめられる形で戦ったのだが、裏社会の〝仕事人プロ〟が自分を狙って銃口を向けていたなら、今、こうして日本の大地を踏み締めてはいなかっただろう。

 様々な問題をはらみながらも法律によって社会が治められる日本では平和の陰にしか生きる場を持ち得ない化け物とは遭遇しようもないと思っていた。

 しかし、目の前に立つ少年は現実として〝闇〟の眷属とも呼ぶべき二人の男に比肩しているのだ。

 その少年――でんいざなわれる形で多目的アリーナの駐車場から移った先は自動車整備工場の一角であった。

 建物の間隙を縫うようにして貫かれた狭い通路は足元さえ判然としないほど暗く、そこに故郷にも似た〝闇〟を感じたわけだが、辿り着いたのは想像以上に広い場所である。キリサメが肩透かしを食らったような気持ちで立ち尽くしたのは当然といえよう。

 まさしくそこは光と闇の狭間はざまだった。

 故郷ペルーに於いては〝日常の風景〟であり、ともすれば『天叢雲アメノムラクモ』とは相容れない暴力の気配に満たされた〝闇〟の渦中でありながら、〝表〟の社会まちで生きる人々が一瞥をくれることもない〝影〟とは言い難い奇妙な空間が広がっていたのである。

 この辺りでは五輪関連施設に並ぶほどの面積を占めている大きな工場とフェンスを挟んで隣接しており、夜勤者の安全を確保するべく広い駐車場のあちこちへ設置された背の高い照明あかりが相対する少年たちのもとまで届いていた。

 加えて自動車整備工場はバッティングセンターの裏手に位置している。夜間であっても白球たまの縫い目まで見極められるよう大型の照明器具を導入し、施設内を真昼の如く変えていた――即ち、新たな戦場は双方より漏れる光によってくまなく照らされているわけだ。

 月明かりが十分とはいえない状況であろうとも相手のかおかたちまで確認し得る環境である。工場の敷地内に設置された簡易ガレージの内部までは照らせなかったものの、足元から伸びる影まで視認できるのだから取っ組み合いに当たって何の不足もあるまい。

 尤も、キリサメにはここまで誘導されたこと自体が不本意である。移動する最中にも幾度となく攻撃を仕掛け、何とかして電知の作った流れより脱しようと試みたのだが、夜の間隙を射る疾風かぜのように素早い彼を仕留めることは叶わず、結局、一〇分程度の休憩時間インターバルを挟んで再び向き合う羽目になってしまった。

 じゅうどうの袖でもって左眉の辺りを乱暴に拭い、裂けた部分に唾を付けて完全な視界を取り戻した電知は開戦当初よりも調子が上がっているように思えた。

 闘争心で満たされた双眸は闇夜にも鮮明なくらい爛々と輝いているのだ。折れた鼻から絶えず滴り続ける鮮血は迂闊に触れようものなら火傷するほど沸騰しているに違いない。


「さっきの駐車場に比べりゃ、ちょいと狭いかもだが、ここなら人目に触れることもねぇだろうよ。心行くまでやり合えるってワケだぜ」


 自動車整備工場から大通りへ合流するには、一度、バッティングセンターやレンタルビデオのチェーン店などが固まる区域エリアまで向かう必要があった。言わば自動車整備工場ここは袋小路なのである。

 興行イベント帰りの客を憚って移動した場所だが、道路を挟んだはすかいという立地とはいえ、多目的アリーナの玄関より吐き出されてきた人々が迷い込むことなど万に一つも有り得ないだろう。まさしく〝おあつらえ向き〟であった。

 敷地内は目の粗いコンクリートでくまなく舗装されているのだが、何年も補修を怠っているらしく、ヒビ割れていないところを探すほうが難しかった。

 アーチ状の骨組みに雨風を防ぐシートを被せただけの簡易ガレージには廃棄されて久しいであろう古い乗用車が停めてある。両脇へ置かれたスチール棚には整備用の道具が収納されているが、ナンバープレートまで取り外された車の修理には使われまい。

 簡易ガレージの脇に並んでいるのは四台もの自転車だ。その中で特に異彩を放つのは大きなママチャリである。前輪の真上に設置されたカゴの中には、はち切れんばかりに膨らんだドラムバッグが放り込まれていた。


「……成る程。固い地面はあんたの投げ技に有利だな」

「転がされた瞬間に腹ァ踏み付けられたら内臓も一発でおシャっつう寸法だ――てめーのクソえげつねェ喧嘩技にも合ってンだろ、ここ」

「……どうかな……」


 促されるままに周辺を確かめるキリサメには秒を刻むごとに悪化していく腹部の鈍痛のほうが気掛かりであった。

 電知が『あて』と称する打撃を受けた部位がうずいて仕方ないのだ。別段特殊な技法を用いていたようにも見えなかったのに身体の芯にダメージが残り続けている――一向に引かない痛みがこの先の攻防へ与える影響を思うと、自然と溜め息がれてしまうのだった。


「……〝わか〟? これは、一体……」


 訝るような声をもって少年たちを出迎えたのは、風変わりじゅうどうの背中と同じロゴマークが刷り込まれた腹巻を身に付ける男性だった。

 薄手のシャツの上からでも瞭然なほど逞しい肉体を持つ男性は所属こそ『E・Gイラプション・ゲーム』であろうが、どうやら日本人ではなさそうだ。キリサメの目にはアジア系ということしか分からなかった。


「悪ィな、パンギリナン。ちょいとばかり事情が変わってよ、希更・バロッサをシメんのは後回しだ。まずはこのドン・キホーテ野郎をブッ倒す」

「二対一で、おやりに、なるので?」

「バカ言え。一対一タイマンに水を差すような真似をしちゃいけねぇよ。クサれた役目をお前に押し付けるような野郎、もうどこにも居ねェんだぜ」

「承知」


 電知のことを『わか』などと畏まって呼ぶ理由は定かではないが、二人の会話から『パンギリナン』という名前だけは辛うじて掴むことができた。日本語にはまだまだ不慣れのようで、一度に発する言葉は的確ながらも短かった。

 パンギリナンなるこの男性は自動車整備工場に隠れ潜んでいた『E・Gイラプション・ゲーム』の伏兵なのだろう。今し方の会話から察するに希更・バロッサをこのような人目に付かない場所まで追い込み、四人掛かりでトドメを刺す算段であったらしい。


「承知――じゃねーよ! これじゃ何の為にパンのおっさん、待機スタンバってたか分かんねーだろうが! 希更・バロッサも八雲の娘もノコノコいてきてんだ、オレら全員で間抜けどもに思い知らせてやろうや!」


 夜空を切り裂く甲高い音を楽しんでいるバッティングセンターの客に気付かれてしまうのではないかと心配になるような大声を張り上げたのは、ほんの少し前に意識を取り戻したばかりの上下屋敷だった。

 未稲を守らんとするキリサメの一撃に吹き飛ばされ、失神寸前の痛手を被っていた少女は左右田の大きな肩に担がれて自動車整備工場までやって来たのだが、目を覚ました途端に騒がしくなった。


「自分の足じゃ歩けねぇヤツがイキがってんじゃねーよ。膝だってまだガクガクなんだろうが。それで誰に何を思い知らせるってんだよ。なァ、左右田?」

「ああ」

「る、るせぇな! 全員入り乱れて殴り合うのが喧嘩の華じゃねーか! 大体、抗争のド真ん中でわざわざ一対一タイマン張ろうっつーお前の脳ミソが沸いてんだよ!」

「……ああ?」

「別に抗争と勝負の人数は関係ねーだろ。あんまりカッ飛んだ発想だから左右田だって首傾げてやがるぜ」


 総合格闘技MMA地下格闘技アンダーグラウンド――双方の間に横たわる『抗争』という状況を理由として自分も参加できる乱闘へ持ち込みたい上下屋敷にとっては、あくまでも一対一の勝負にこだわる電知は〝愉快な遊び〟を独り占めしているようにしか思えないわけだ。

 路上戦ストリートファイトへ突入して以来、上下屋敷は幾度となく『抗争』を口実に己の暴力性を剥き出しにしようとしていた。それどころか、『抗争』の最中であれば如何なる手段も許されるとまで口走る有り様だった。

 物騒極まりない言動からも『天叢雲アメノムラクモ』と『E・Gイラプション・ゲーム』が抜き差しならない関係であることは察せられるのだが、成り行きから〝代理戦争〟を引き受ける羽目となったキリサメにとっては迷惑以外の何物でもなかった。

 上下屋敷が言及したように未稲と希更もキリサメの後ろ姿を追い掛けている。

 希更に至っては『E・Gイラプション・ゲーム』の面々から狙われる身であり、またアイドル声優としてのファンを避けるべく全試合終了後のセレモニーを欠席した立場上、混乱に乗じて離脱するのが賢明であったはずだ。

 彼女が踏み止まったのは自分一人で逃げ出すことをはばかるといった殊勝な考えではない。心をときめかせた相手の勇姿を間近で見物していたいだけなのだ。

 呆れるほど浮ついた気持ちで決着の舞台までやって来たわけだが、電知のことを〝若〟と慕うアジア系の男性を見つけた瞬間、双眸を大きく見開いて絶句した。

 これについては未稲も同様である。まるで幽霊にでも遭遇したかのような表情を浮かべて立ち尽くしてしまったのだ。


「この人ってまさか……パンギリナン選手? 『りょうざんぱく』の……」

「……『りょうざんぱく』って、『すいでん』で豪傑たちが立て籠もった水辺の砦ですよね?」

「そういうコトなんだけど、もしやキリサメさん、りょうざんひゃくはちせいの中に贔屓が居る人だったりする? 実は『すいでん』フリークだったりして」

「今の話をどう聞いたら、そんな発想になるんですか。……強いて言えばもうせいはくしょうは面白いは思いますけど……」

「うちの団体が日本神話に登場する伝説の武器から名前を取ったように、『すいでん』をイメージして付けられたのが『りょうざんぱく』――ひゃくはちせいのような豪傑をアジア圏から広く募ってる中国のMMA団体だよ」


 『天叢雲アメノムラクモ』の成り立ちさえ完全に理解できたわけではないキリサメには未稲の説明も大半が飲み込めなかった。

 『りょうざんぱく』についても大して詳しくないのだ。亡き母が日本語訳された『すいでん』を私塾の教材として使った為、登場人物を微かに憶えている程度だった。

 水辺の砦に集結した豪傑たちが腐敗した王朝へ反旗を翻すというあらすじ以外は記憶から殆ど抜け落ちてしまっているのだ。

 それ故に電知が「おっ、『はくじつ』とはシブいトコ突くじゃね~の! おれはやっぱりてんしょうせいぎょうじゃしょうだな!」と前のめりになって話し掛けてきても黙殺を貫くのだった。

 おそらく彼は本当に『すいでん』を愛好しているのだろう。下手に耳を傾けようものなら面倒臭いことになるのが目に見えていた。


「現代の『りょうざんぱく』とパンギリナンは選手契約していたハズよね? 成績不振で登録抹消されたのもそんなに昔のハナシじゃなかったわ」

「腐っても足技主体かよ。キック系の選手はチェック済みらしーな。……色々あって現在いまは『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間なんだよ。地下格闘技アンダーグラウンド期待の大型新人っつって頭ン中で登録し直しておきやがれ!」


 希更の質問に対する電知の回答こたえ総合格闘技MMAから地下格闘技アンダーグラウンドに転向した事情などを丸ごと省いていたが、傍らで聞いていたキリサメにはそれだけで十分だった。彼にとって必要な情報は平らげる〝敵〟の数のみである。

 新手が増えたことはうっとうしいが、焦りを感じるほどではなかった――否、この場所へ踏み込む直前までは予想を遥かに上回る電知の手強さに苛立ちさえ覚えたくらいなのだ。

 その心が今は不思議と落ち着いている。故郷ペルーを蝕むモノと同じ〝闇〟に包まれた通路を抜ける内に小波さざなみ一つないほどにいでしまったのだ

 結局、はキリサメの思い違いでしかなかったわけだが、焦燥がぶり返すほど精神こころ構造つくりは単純ではない。一つの事実として、貧民街の裏路地にゴミと共に転がっていた暴力の気配がこの場に充満しているのだ。

 残虐性を隠そうともしない上下屋敷の言葉も現在いまのキリサメには懐かしく感じられた。


(……結局、僕は日本で暮らしたいのか、ペルーでしか生きられないのか、一体、どっちなんだろうな――)


 『八雲道場』の様子を窺っていた視線にペルーの日系人ギャング『ざるだん』の報復を警戒して神経を尖らせたキリサメは、『天叢雲アメノムラクモ』のPVプロモーションビデオに登場した格闘家たちが試合の最中に流した血に心の〝闇〟を揺さぶられ、ついにはバトーギーン・チョルモンが岳へと向けた殺意にまで反応してしまった。

 あの瞬間とき、鼓膜にまで届いた心臓の鼓動は破壊の本能――あるいは本性と呼ぶべきであろうか――が覚醒めざめかけた証左であった。

 これ程までに大きな心の振幅はペルーで暮らしていたときには一度も生じなかった。睡眠を取っている最中に銃口を向けられることもないぬるま湯のような環境がどうにも落ち着かず、宙ぶらりんな精神状態を持て余していたからこそ、久々に肌を刺した抜き身の暴力性へ過剰反応してしまったのだろう。


「――てゆーか、キリサメさん、駐車場でやり合ってたときより呼吸いきが落ち着いてるね。この人の言葉を借りるようでしゃくだけど、調子出てきたところなのかな」


 〝家族〟である未稲には心の変調を見透かされてしまったようだが、できることなら彼女にだけは気付いて欲しくなかった。

 未稲が心の置き場所を日本に定めてくれたのはつい先程のことである。不思議な魔力ちからが備わっているわけでもないありふれた笑顔に安らぎ、未稲の立つ場所を陽だまりのようにも感じられたのだ。

 しかし、今、キリサメの心を包み込んでいるのは全く真逆のモノである。八雲未稲という陽だまりから掛け離れた〝闇〟によって心がいだことを罪でも犯したかのように後ろめたく感じていた。

 何かの拍子に容易く〝闇〟へと回帰してしまう事実に僅かでも動揺でもすれば、そこになけなしの〝人間らしさ〟を見つけ出し、取りすがることもできたであろうが、長旅から帰り着いた場所のような居心地の良さをどうにも拒めないのだ。

 だから、キリサメは未稲のほうに顔を向けなかった。振り向くことなどできようはずもなかった。


「ええ、そんなところです」


 電知を睨んだまま夜空に放った返答こたえは自分でも呆れてしまうくらい虚ろだった。


(――別に良いか。考えたって始まらない……なるようにしかならないんだ)


 かつて出逢った日本人記者にはペルーの〝闇〟に喰われ、喪失うしなわれた命を弔う為にも幸せになることを考え続けて欲しいと言われた。その選択肢が未稲や岳と共にることはキリサメにも理解わかっているのだが、今は彼女の言葉から解き放たれても許されるだろう。

 未稲に迫る危害を排除する為には〝闇〟もまた武器に換わるのだ――そのように心の中で呟いたキリサメは、ジーンズの外に出ているシャツの裾を両手でもって掴んだ。


「それにしても分かんないわ。MMAを断念しても古巣キックボクシングが残ってるんだからフィリピンに帰れば良いのに何でまた地下格闘技アンダーグラウンドなのよ」

「こちらにも、ちょっとしたコトが、あってね……」

「律儀に答えなくて良いぜ、パンギリナン。……おい、クソアマ。うちの仲間モンにちょっかい出すんじゃねぇ。最初の予定通り、てめーから先に血祭りに上げたろうか、あァん?」


 同じ打撃系立ち技格闘技を骨子バックボーンとする希更にとってMMAから地下格闘技アンダーグラウンドへと転向した経緯は興味を引かれて仕方がないらしく、キリサメと未稲が言葉を交わす傍らでパンギリナンに質問を重ねていた。

 諦めの悪い新聞記者の如く根掘り葉掘りたずねてくる希更に当のパンギリナは困り果て、助けを求めるように〝若〟に視線を巡らせた。

 一部始終を傍観していた電知も彼女の不調法には腹が立っており、両拳を順番に鳴らしつつ仲間パンギリナンから離れるよう語気荒く迫った。これでも応じないようであれば本当に順番を入れ替え、先に希更を始末しなければなるまい。

 あるいはパンギリナンと左右田に二人掛かりで黙らせるよう号令するべきか――電知の双眸がキリサメから離れたのは、次なる攻め手を思案した一瞬のことである。


「数の上じゃおれたちが有利ってコトを忘れて――」


 最後通告の為に希更の鼻先目掛けて右の人差し指を突き出した直後、何の前触れもなく電知の視界が真っ暗になった。何らかの原因によって視力が失われたわけではない。濡れて重くなった布で顔面を覆われてしまったのだ。

 それがキリサメのシャツであることは至近距離で睨み合うような形となった間抜けなマスコットキャラが示している。間違いなく彼のシャツにバックプリントされていた物だ。


「か、『かねしげ』だァッ⁉」


 長めの髪をセンターで分けた丸顔に横線二本で眉毛と口、縦線一本で鼻筋を描き込み、左の下唇と右の上唇にそれぞれ一つずつホクロを置くことで完成される丸顔のマスコットキャラの名称を叫んだ瞬間、骨の折れた鼻に凄まじい衝撃が襲い掛かった。

 損傷ダメージの大きな部位を布の上から狙い定めた追撃であることは疑いなく、電知は痛みに堪えながら「よっしゃァッ! 第二ラウンド開戦だぜッ!」と愉しげに笑った。

 グローブを装着せずに素手で殴り合うことも多い『E・Gイラプション・ゲーム』だが、脱ぎ捨てたシャツでもって目隠しを試みることはさすがに反則行為として禁じられている。

 それはつまり、同い年と思しきキリサメが過激なルールすら飛び越えた先に立っているということだ。そして、その領域こそが彼の本性なのだろう。嗜虐的な趣味かと思えるほど執拗に繰り返してきた目突きなどからもは明白である。

 ルール無用の喧嘩殺法と呼ぶのが似つかわしい様式スタイルであった。

 そういった手合いとの闘いは電知も慣れている。荒くれ者が集う『E・Gイラプション・ゲーム』は観客も〝腕白〟揃いであり、レフェリーの判定が納得できずにリングへ殺到した挙げ句、選手をも巻き込んで乱闘騒ぎを起こすことも少なくないのだ。

 電知自身、KOノックアウトした対戦相手のファンから場外乱闘を挑まれたこともある。腕力のみを自慢としてきた輩に限って攻守の組み立てなどまるで考えず、急所ばかりを狙うものだと経験から知っている。

 キリサメの場合は短絡的な打撃一辺倒ではなさそうだが、喧嘩殺法という〝性質〟にいて遠く離れているわけではない。だからこそ、電知には彼が次に狙うであろう部位も見当が付いたのである。

 自身の左目の辺りを狙って繰り出された前回し蹴りを片腕のみで防御ガードしつつ、電知はキリサメの懐まで潜り込んでいく。一連の流れの中で右手を伸ばし、キリサメの左手首を掴み上げた。防御ガードに用いた左手もこれを追い掛け、首の付け根を五本の指でもって押さえた。

 このときのキリサメは前回し蹴りに用いた右足を引き戻す最中である。つまり、軸に据えた右足一本で姿勢を維持する状態なのだ。手首を掴まれた左腕が強く引っ張り上げられてしまうと全身が傾き、連動して重心も崩れていく。

 未稲が「何とか踏ん張って!」と呼び掛けたときには既に手遅れだった。軸足を払った電知は技の途中で振り解かれないよう左手と首を巧みに押さえつつ、キリサメの身をコンクリートの地面に投げ落とした。


「〝競技〟だったら転がしたところで一本勝ちだろうが、おれたちがやってるのは五体凶器の真剣勝負ガチンコだ。てめェがブッ潰れるまで終わりゃしねぇぜ――」


 依然として顔面はシャツに覆われたままであったが、電知の追撃は止まらない。横倒しとなっていたキリサメの右腕を両手でもって掴み、上体ごと引き起こした瞬間、竜巻を起こすような勢いで一本背負いを繰り出したのである。

 視界を遮られた状態で攻守を組み立てた次第であるが、とう能力が電知に備わっているわけではない。一度でも打撃を受ければ相手との位置関係が直感的に掴めるわけだ。

 キリサメが左目を狙ってくることも分かっていた。流血は一時的に止まったが、傷口自体が塞がったわけではないのだ。同じ部位に再び強打を重ねられたなら裂け目から鮮血が噴き出し、左目へ流れ込むに違いない――片目が潰されると間合いも測り辛くなるのだから、そこを真っ先に狙うのは必然だった。

 汗に濡れて重くなったシャツで視界を塞いだときこそ好機――目潰しを仕掛けられるタイミングまで読み抜いた電知は心の中でキリサメのことを「素直な奴」と笑い飛ばした。

 大きな動作うごきの中で顔にへばり付いていたシャツが剥がれ、間もなく二人の眼光が交錯した。見下ろす瞳はどこまでも好戦的で、これを仰ぐ瞳は怪訝の色を映している。

 満足に目が見えない状態でありながら、どうやって間合いを測ったのか――キリサメから眼差しでもって問われた電知は回答こたえの代わりに彼の眉間目掛けて右拳を振り落とした。

 これまでの実戦経験から養われた勘としか答えようがないのだ。理詰めで説明できるものでもなく、その勘によって研ぎ澄まされた技を叩き込んだほうが手っ取り早いだろう。


つう……ッ」


 左手でもって上半身を押さえ込まれていたキリサメには電知の拳より逃れる術はない。何よりも速度スピードが尋常ではないのだ。首を横に振って避けることも叶わず、ついには直撃を許してしまった。

 打撃は二度、三度と続いた。頭部がコンクリートへ叩き付けられる度に未稲から小さな悲鳴が上がったが、キリサメもただ無抵抗に殴られているわけではなく、少しずつ呼吸を測っている。電知の拳が四発目を数えようとする寸前にようやく割り込む隙を見出し、地面を転がって間合いを取った。

 先程の一本背負いの如く地面から引っこ抜くような投げでも狙おうというのか、姿勢を低く保ったまま追い縋ってきた電知をギリギリまで引き付けたキリサメは、その顎を打ち砕かんと右拳を突き上げた。

 反撃カウンターのアッパーカットと傍目には見えたであろうが、本当の狙いは二つの目玉である。微かに掠めるようにして顎をすり抜けた握り拳からは人差し指と中指が突き出している。

 今度こそ光を奪うつもりであったが、それすらも電知に読み抜かれていた。二本指の先が双眸へ触れる寸前で右手首を掴み返し、これと連動して上体を撥ね起こした電知は背中からキリサメにぶつかっていく。


「目玉焼きみてぇにポンポン目ェ突くなっつってんだろがッ!」


 電知の吼え声が鼓膜を打った直後、キリサメの双眸は全身を軋ませる痛みと共に信濃の夜空を仰いでいた。己の腹と彼の背中が密着したかと思うや否や、片手一本で投げ落とされてしまったのである。

 柔道に明るくないキリサメには術理までは解明できなかったが、上昇する勢いをそのまま利用されたことだけは察せられた。ただそれだけで瞬間移動と錯覚してしまうような速度を得られるのだろうか。何しろ気付いたときには景色が回転しているのだ。

 全くの無防備のまま全身を強く叩き付けられたことで一瞬だけ反応が鈍ったキリサメは背後に回り込む電知を阻止できなかった。気付いたときには彼の両足に胴を挟まれ、更には左右の腕に首を脅かされていた。

 先程の攻防でも両腕で頸動脈を絞められそうになったのだが、今度は下肢への押さえ込みという動作が一つ増えている。


(……こいつ、さっきよりも動きが速くなっている……)


 右腕が首に巻き付けられた瞬間、逃れることが不可能になると判断したキリサメは彼の顔面へと後頭部を叩き付けた。

 またも折れた鼻が強打されたことで技の拍子は乱れ、胴の締め込みも微かに緩んだ。

 すかさず電知の両足を引き剥がしたキリサメは、振り向きもせず左右の側頭部へ立て続けに肘鉄砲を見舞う。いずれも目玉を潰すつもりで放ったのだが、右肘は狙いが逸れて頬を穿ち、左肘は防御ガードされてしまった。

 電知は防御ガードから反撃へ転じるのも速く、すぐさま左腕を両手で搦め取ろうとした。

 手首の辺りに引っ掛けられた指を力任せに振り解いたキリサメは電知の腹を踏み付け、そこから一気に間合いを離した。膝のバネを利かせた跳躍と同時に追いすがろうとする動作うごきへ楔を打ち込んだのである。

 空中で身をひるがえしながら着地し、正面切って見据えた電知は大量の鼻血でじゅうどうをドス黒く染めるのも構わず愉しげに笑っている。


背後バックを取るこたァ許さねェってな切り返しだぜ。ひょっとして寝技もイケるクチか?」

「……には慣れているんだ。ただそれだけだ……」


 ペルーでは首都リマの中心部でさえ強盗が横行しており、背後から忍び寄っていきなり首を絞めてくる少年たちも珍しくない。命の危険が潜むのは貧民街や裏路地に限らず、どこから襲ってくるとも知れない暴力と長年にわたって戦い続けていれば、回避動作に要する技術も自然と磨かれるのだ。

 そもそもキリサメがふるう体術は厳しい修行の末に編み出したものではない。死肉を求めてうろつくを切り抜け、あるいは生きる糧を得る為に自らが強盗団と同じ行為を繰り返す中で身体に馴染んでいったのである。

 絶望的な格差社会を生き抜く為、他者に喰われない〝身体の使い方〟を研ぎ澄ませたに過ぎず、電知のように技術体系として完成された武道とは掛け離れているのだ。無論、流派を称した憶えも一度としてない。

 何よりも徒手空拳にこだわってはいなかった。今、この瞬間にも『聖剣エクセルシス』を握ってさえいえば手っ取り早く片付けられただろうと、うっとうしそうに溜め息をらすだけである。


「確かに『慣れてる』って雰囲気バリバリだぜ」


 左右田から借り受けたポケットティッシュを乱雑に丸め、著しく歪んだ鼻の穴へとねじ込んだ電知は、二方向より差し込んでくる光に照らされて浮かび上がったキリサメの肉体からだを口笛でもって讃えた。

 露となった上半身はしなやかな筋肉に包まれていたが、それ以上に見る人を驚かせたのは至るところに刻まれた無数の傷痕である。特に目立つのは脇腹に残った刺し傷のあとと、背中に穿たれた穴のようなあとがあった。


「もしかして、キミってば暴力団関係者だったりする? 『天叢雲アメノムラクモ』首脳陣には〝そっち系〟の黒いウワサもあったよね? それはそれでお姉さん、困っちゃうかも。この業界、〝そっち系〟との接触は命取りだからねぇ」


 希更が物騒なことをたずねたのは背中に散見されるクレーターのようなあとが銃創と思えたからだ。銃社会でもない日本にいて一般市民はドラマや映画の特殊メイクでしか見る機会がないものである。


「それを言うなら、『E・Gイラプション・ゲーム』だって、ヤクザは、困る。健全な精神と、逞しい肉体を育むのが、我々の、モットーなのだから」


 暴力団関係者という希更の発言へキリサメよりも先に反応したのは〝若〟の勝負を傍らで見守っているパンギリナンであった。

 これ以上ないというくらい渋い顔で「ヤクザは、困る」と繰り返すパンギリナンには電知だけでなく左右田や上下屋敷までもが苦笑をらしている。

 相容れない『天叢雲アメノムラクモ』へ抗争を仕掛ける過激さや、『地下格闘技アンダーグラウンド』という響きだけでトトカルチョやドラッグといった犯罪行為の横行が連想されてしまう『E・Gイラプション・ゲーム』だが、団体そのものはあくまでも青少年育成を理念に掲げており、希更が言うような反社会組織の立ち入りも全面的に遮断シャットアウトしていた。

 声優という希更の本業にとって暴力団関係者と同じ場に居合わせることは致命傷と呼んでも差し支えのない状況だが、それは『E・Gイラプション・ゲーム』としても同じことなのである。

 尤も、選手と観客双方に荒くれ者が揃っている団体だけに何処から喧嘩を売られた場合はこの限りではない。昨年末から揉めていたカラーギャングも後腐れを残さないよう手を尽くした上で叩き伏せ、今では舎弟同然の関係となっていた。


上半身うえが裸で寒くねぇか? 春が近いっつってもこの時間帯はクソ冷え込むぜ。どう着てるおれだって長野の夜風は厳しいくれェだもんよ」

裸足はだしの人間に言われたくない」

「だから分かるんじゃねーか。コンクリ踏んでる足から脳天まで冷気が突き刺しやがる。今からでも遅くねーからシャツを着直せよ。脱いでようがどうだろうが、おれには意味がねぇって思い知ったろ」


 電知の挑発に対して、キリサメは「余計なお世話だ」と一息で言い捨てた。

 図星であったが故、今まで以上に受け答えが投げやりなのだ。本人から指摘されたように投げ技を警戒してマスコットキャラが刷り込まれたシャツを脱ぎ捨てたのである。

 ルールに縛られた試合ではないのだから、じゅうどうを纏う相手と同じ条件で立ち合う必要もない。掴める箇所が少なくなれば柔道をベースに攻防を組み立てる人間には著しく不利であろうと判断した次第である。目隠しなどは余禄おまけに過ぎなかった。

 しかし、その余禄おまけ以外に大した効果はなかった。電知は剥き出しとなった肉体からだのいずこかに指を引っ掛け、巧みに投げを完成させてしまうのだ。誇張や吹聴の類いではなく、上着の有無など本当に問題ではないらしい。


「期待に応えてやれなくて悪ィがよ、こちとら『コンデ・コマ』――まえみつ大先生の背負しょってんだ。世界を相手に勝負し続けた大先生の足跡を追い掛けてんだ」


 風変わりなじゅうどうの襟を両手でもって摘まんだ電知は、些か大仰とも思えるくらいに胸を反り返らせた。必然的に血で染まった部分が強調される形となったが、彼はダメージの深刻さを自慢したいわけではないだろう。


「……世界を相手に?」

「てめぇ! 何回、同じ質問を繰り返したら気が済むんだッ! それとも冗談で言ってんのか⁉ いい加減に憶えやがれッ!」

「興味のないことなんか、いちいちおぼえていられるか」

「これでもうラストだかんな! 世界中で一〇〇〇回も異種格闘技戦を繰り広げ、無敗を誇った伝説の柔道家! それが前田光世大先生だ! ……こんな野郎を弟子にしたらマジで『八雲道場』の看板が泣くんじゃねーかァ?」


 物覚えが悪い――というよりも無関心なだけである――キリサメに明治時代の伝説的柔道家が歩んだ道程を律儀に説いていく電知だが、物分かりの悪さは彼も尋常ではない。

 幾度となく訂正しているのだが、依然として電知の頭の中でキリサメは八雲岳が新たに招いた弟子ということになっているようだ。ある種の刷り込みであろう。


「『世界を相手に戦う』ってのは言葉にすりゃ簡単だがよ、それに相応しい器の持ち主にしかできやしねぇよ。前田大先生の世界的スケールがてめぇに想像できっか?」

「僕にくな」

「答えは想像力貧困なてめぇにも簡単だ。何時いつ、どんな環境であろうとも、如何いかなる相手であろうとも互角に渡り合えるっつーこった。おれが背負しょってるのはなんだよ。半裸の相手は掴み辛くて不利なんていう状況自体がそもそも有り得ねぇんだッ!」


 電知は己こそが偉大なる柔道家の系譜を正統に継ぐ者であると改めて吼えた。

 ともすれば大言壮語ビッグマウスのように受け取られ兼ねないが、電知にはこれを他者から虚妄とそしられないだけの実力が備わっているのだ。

 一〇〇〇回もの他流試合に無敗であったという途方もない偉業に想像が及ばないキリサメでさえ世界を制した武技わざの復活――『コンデ・コマ式の柔道』を脅威と認めていた。


「――それは贔屓の引き倒しでしょ。あたしが聞いた話だと、対戦相手にわざわざどうを着て貰って勝負したらしいじゃん。〝セクシー〟な彼と一緒にするのは違くない?」

「かぁ~、このクソアマァ……! 『そういう説もある』ってだけのハナシをさも真実みたいに抜かしやがって! てめぇみたいにつまんねェ茶々入れるのが一番ムカつくぜ!」


 『ムエ・カッチューア』と『コンデ・コマ式の柔道』という様式スタイルの違いはあれども偉大な柔道家のことは希更なりに調べていたようだ。

 そして、彼女の指摘ツッコミに電知は止血用のティッシュを吹き飛ばしながら地団駄を踏んだ。彼の前で口にしてはならない禁句であったらしく、こうなっては手が付けられないとばかりに『E・Gイラプション・ゲーム』の仲間たちも肩を竦めている。

 暫しの間、短く切り揃えた髪を掻きむしった電知は「必ず落とし前をつけてやる」と言わんばかりに希更をめ付けたのち、本来の対戦者たるキリサメに向き直った。


「……シャツを着ろって勧めてきたのもか?」

「バカ、てめ――こんなアバズレのフカシを真に受けてんじゃねェ! 前田大先生が世界を相手に闘って磨き上げた技はどんな相手にも負けやしねェんだ! ……あらぬ疑いはおれの手で晴らす! コンデ・コマの伝説はおれが証明してやらァッ!」


 一度、地面に吹き飛んだティッシュを拾い上げ、再びねじ込む姿は何とも滑稽であり、凄んだところで迫力も半減してしまうのだが、横槍を入れた希更も空閑電知という少年の実力を低くは見積もっていない。

 打撃の破壊力という一点を比べれば、おそらく自分の飛び膝蹴りは彼を凌駕しているだろう。しかし、総合的な戦闘能力はどうか――希更には『コンデ・コマ式の柔道』を標榜する巧みな技を捌き切れる自信がなかった。

 本気で立ち合った場合、『バロッサ・フリーダム』というジムの歴史へ悔やみ切れない黒星を付ける結果に終わるかも知れない。

 希更の親友であり、『天叢雲アメノムラクモ』への参戦を勧めたインド出身うまれの女性選手は国際ルールに準拠する『JUDOジュードー』を骨子バックボーンとしている。完璧な投げを決めて一本勝ちを得るか、寝技をもってして既定の時間まで相手を押さえ込むか。あるいは判定勝ちを狙って試合時間一杯まで逃げ切るといったオーソドックスな様式スタイルを体得しているのだ。

 希更の親友は好んでいないのだが、相手から反則を引き出すことに重点を置くような戦略も『JUDOジュードー』では有効であった。

 必然的に相手と組み合った状態での駆け引きが中心となり、数多くの技をまんべんなく用いるよりは確実に勝ち星が取れる得意技を徹底して磨き上げる傾向も強くなる。

 これに対して相手に組み付くのは攻撃へ転じる一瞬のみという電知はあてを併用するとはいえ、親友と同じ技を駆使しながらも戦略の捉え方が根本的に異なっているようだ。

 そういう意味では前田光世コンデ・コマより伝授された技を礎に誕生したブラジリアン柔術とも掛け離れている。寝技主体ではあるものの、こちらも相手に組み付いてから真価を発揮する格闘技なのだ。

 これらとの違いこそが『コンデ・コマ式の柔道』の本質だと希更の目には映っている。

 前田光世が一〇〇〇回以上も勝ち抜いたのは柔道の試合ではなく異種格闘技戦なのだ。対戦相手を転がしただけで一本勝ちとなるはずもない。他流を倒す為の技術と覚悟を突き詰めた末、万能といっても過言ではない様式スタイルが電知の中で立ち上がったのだろう。

 「どんな環境であろうとも、如何いかなる相手であろうとも互角に渡り合える」という勇ましい吼え声は薄ら寒い大言壮語ビッグマウスなどではなく、彼の志と柔道わざを的確に表すものであった。

 親友も立ったスタンド状態では変則的なボクシングを攻守の主軸としているが、ひとたび、相手と密着すれば『JUDOジュードー』の様式スタイルに切り替えることが殆どだ。それだけに組み合うことを前提としない〝電知の柔道わざ〟は鮮烈であり、同じ格闘技者としておののいてしまったのである。


「……どうしてあのレベルのつわものが無名のままだったのかしら――」


 我知らず呟いてから過大評価と慌てて言い直すほどに電知は手強いのだ。

 事実、道路を挟んだ向かい側の駐車場では闘いを有利に進めていたにも関わらず、対決の場を自動車整備工場へ移してからというもの、キリサメは本調子になったという電知に翻弄され続けている。


「おれが志した前田光世コンデ・コマの柔道はッ! 世界最強だァッ!」


 しかも、だ。己の信念を淀みなく迸らせた電知にキリサメは僅かに気圧されている。

 目の前の少年は他者ひとから揶揄やゆされようとも決して揺るがない信念をもってして偉大なる先達を追い掛け、学んだ全てを『コンデ・コマ式の柔道』として昇華させたのであろう。

 彼のように厳しい稽古を積んで洗練させたわけでもない喧嘩殺法などは殴り合いの延長に過ぎず、いずれは完成された柔道わざの前に押し切られるだろう――と、キリサメは己の劣勢を冷静に見極めていた。

 闘いが長引くほど不利になるのであれば潮目が変わり切る前に形勢を覆すしかない。


「てめーはどうなんだ、ドン・キホーテ野郎! 『八雲道場』へ入門するからには格闘たたかいの世界に夢見たモンがあるんじゃねぇのか⁉ そいつを丸ごとぶつけてこいッ!」


 返す言葉を持ち合わせておらず、また応じるつもりもないキリサメはし口を作ったままコンクリートの地面を蹴った。

 路上戦ストリートファイトまくあいに挟んだ〝鬼ごっこ〟のときからおかしいとは思っていたのだが、何時の間にか電知の頭の中では自分こそが迎え撃つ側になってしまったようだ。『天叢雲アメノムラクモ』へ先制攻撃を仕掛けてきたのは『E・Gイラプション・ゲーム』にも関わらず――だ。

 この上なく愉しそうに待ち構えられることも、挑戦者扱いされることも気分が良いものではない。キリサメは言葉ではなく拳を返答に代えるつもりであった。


(……『聖剣エクセルシス』さえあれば手っ取り早く片付くなんて思ったけど、あんな重い物、こいつとの相性は最悪だよな――)


 左の五指は自室に置いてきた得物の代わりに右手首を掴んでいる。現在いまのキリサメは暴力の嵐を生き延びる中で編み出した体術しか頼れないのだ。

 左手で対の腕を固定し、これによって『聖剣エクセルシス』のツカを握り締めたときの感覚に近付けつつ、跳躍の勢いを乗せて右拳を振り落としていく。重い刀身を縦一文字に閃かせる動作を素手にて再現したわけである。

 両腕を振りかぶった状態で飛び掛かり、攻撃の瞬間に上半身のバネを解き放つこの技は脳天に命中させ、浸透させた衝撃でもって意識を奪うものであった。


「今度は『はっそうび』ってか? 牛若丸から九郎ほうがんよしつねへ一足飛びとはなァッ!」


 貧民街のギャング程度であれば為すすべもなく沈むしかなかっただろうが、彼らよりも遥かに高い次元に立つ電知の目には隙だらけとしか映らず、直撃を許すはずもなかった。

 余りにも大振りな一撃を高く掲げた左腕一本で防御ガードした電知は骨が軋む音を聞いても怯まずに対の拳を繰り出し、キリサメの腹部を手痛い反撃で突き刺した。


「――ぐゥ……!」


 胃の奥まで響く鈍い音にキリサメの呻き声が混じる。依然として痛み続けている箇所へ更なるダメージを重ねられたのだ。

 問題は痛みのほうではない。胃を刺すような感覚だけなら歯を食いしばって耐えれば良いが、これに反応して肉体からだが瞬間的に委縮し、身のこなしをも鈍らせてしまうのだ。

 それは速度で勝る電知と相対するに当たって甚だ不利である。今度もキリサメの首を押さえるべく両腕を伸ばしてきたのだが、あてから投げ技に派生する動作うごきは先程と比較にならないくらい鋭さを増していた。

 瞬き一つしている内に腕の動作うごきを見失ってしまいそうだが、そこに割り込む術をキリサメも全く持ち合わせていないわけではない。今まさに己の首を掴もうとする電知の手をすり抜けるようにして踏み込み、眉間目掛けて頭突きを見舞った。

 次いでキリサメは電知の胴を狙って左拳を繰り出した。横薙ぎの軌道を描いて右脇よりやや下へと突き込んだ拳は激しく肝臓を揺さぶっている。


「肝臓打ちと来たかよ……ッ!」


 大きな呻き声が滑り落ちたのは有効打となった証左であるが、それだけで膝を折る電知ではない。キリサメが拳を引き戻すよりも速く彼の首へと右手を伸ばし、更には対の手を右脇へと滑り込ませていく。五指の先に皮膚へ食い込む感触が伝うのと同時に今度は右足を撥ね飛ばした。

 その瞬間にキリサメの視界は大きく回転し、全身が軋む音を聞いた。胴に拳を突き入れた際、力の作用が真横へと強烈に働いたわけだが、電知はこれを投げ技に利用したのだ。

 電知自らもコンクリートの地面へと身を放り出す豪快な投げであった。

 すぐさま起き上がって反撃の態勢を整えようと試みるキリサメだったが、片膝を突いたところで右腕を掴まれ、次いでうつ伏せにひっくり返されてしまった。

 この状態で腕の関節をめられた場合、四肢の可動が制限されることもあって簡単には技を外せなくなる。肩や肘が壊されると直感したキリサメは絡み付いてくる電知の両手を力任せに振り解いた――が、大した抵抗もなく拘束は簡単に解けてしまった。

 拍子抜けとしか表しようのない状況に面食らったキリサメは、それ自体が罠であったことに気付くまで瞬き一つ分の時間を要した。


「しまっ――」


 掬い上げるような衝撃が顎を貫いたのは、その直後のことである。キリサメの身を地面へ釘付けにしつつ、先に立ち上がった電知が全体重を乗せた蹴りを見舞ったのだ。

 踏み止まることも叶わず、うつ伏せの状態から簡易ガレージまで撥ね飛ばされたキリサメは打ち棄てられた乗用車にぶつかり、勢い余って錆びだらけのボンネットへ乗り上げてしまった。


「素人同然の力押しばっかしと思ったがよ、ボディ打ちの基本くらいは八雲のおっさんに習ったらしーな。さっきの肝臓打ちはなかなか良いトコ、エグられちまったぜ」


 不敵な笑みと共に投げられた電知の問いかけにキリサメは無言を貫いた。

 電知が勘違いしているような師弟関係ではないので、岳から格闘技の手ほどきを受けたことなど一度もない。彼が言う『肝臓打ち』も故郷ペルーの貧民街で編み出したものだ。

 効率的に〝獲物〟を仕留めるには内臓への直接攻撃が有効であることを覚えたに過ぎないのだ。急所を打てば人間は簡単に倒せるという単純な理屈だった。

 脳天に拳を振り落とし、一撃で意識を奪う技も同じ発想から閃いたものである。実物を握らずとも『聖剣エクセルシス』を振り回すりょりょくはそれ自体が恐るべき武器となるのだ。

 見れば電知はくだんの一撃を防御ガードした箇所に広がる青痣あざを右手でもってさすっていた。頭蓋骨をも突き抜ける衝撃は片手一本で凌げるものではなく、相応の痛手ダメージを与えられたようだ。

 技量の差は埋め難いが、純粋な腕力は自分のほうに分があるだろう。先程の攻防の如く相討ち覚悟で少しずつ電知の命を削っていくしかあるまい。


(……見た目以上に頑丈タフだな。それにあの速度スピード、一体、どうなっているんだ――)


 休む暇など与えないとばかりに間合いを詰めてくる電知をギリギリまで引き付け、直線的に拳を突き込もうとするキリサメだったが、その出鼻を鳩尾へのあてによって挫かれてしまった。すかさず追い掛けてきた対の拳が鈍痛の引かない腹部に更なる痛手ダメージを重ねる。

 己の浅はかさにキリサメは舌打ちを抑えられなかった。

 取っ組み合いのような状態ならばいざ知らず、何の工夫もなく正面から打撃を仕掛ければ技に移る呼吸を読まれるのは当然であろう。今し方のあても機先を制するようにして打ち込まれたのだ。


「誤解があったら訂正しとくぜ! あては組技への中継ぎじゃねぇ! こいつだけでも十分に勝負できるんだからよォ!」


 腕力が勝っていたところで結局は何の意味もないとキリサメは自嘲の溜め息を零した。『素人同然の力押しばかり』と揶揄された直後に同じ過ちを繰り返してしまうことが何よりの証拠であろう。

 以前に別の人間からも似たようなことを指摘されていた。

 夥しい遺骸を踏み越えながら黒いニット帽を被った日本人男性と戦ったときのことだ。第三者の乱入によって二人の間に争う理由が消滅し、決着を見ないまま打ち切られたのだが、それから彼がペルーを発つまでの間、道案内ガイドのような役割を強要されたのである。

 その男が言うには貧民街で生まれた喧嘩殺法は殺傷力こそ頭抜けているものの、動作自体は極めて原始的で、慣れてさえしまえば技を仕掛ける呼吸まで読み取り易いそうだ。


「――そこがお前の弱点だよ。一撃必殺狙いがパターン化してる。手数も乏しいし、良くも悪くも単調シンプル。長期戦になればなるほど地金を晒す羽目になる。負け惜しみじゃなくて、〝アレ〟さえ発動しなかったら、きっと最後には俺が押し切ったと思うよ」


 当時から現在に至るまで煩わしいとしか思えない助言であった。一撃で〝獲物〟を倒すことしか求めていないのだから手数などは考える必要もなかったのだ。リマの市街地で格闘家の如く悠長に拳を交えていれば、その内に警察から取り囲まれてしまうだろう。

 かつて無意味と黙殺した知人の言葉がこの場にいては厭というほど突き刺さった。指摘された弱点の解消に努めていれば、今のような形でを払うこともなかったはずだ。

 イラン由来の拳法を学んだという彼は数年前までフランスの外人部隊エトランジェに所属していたそうである。甚だ疑わしい経歴キャリアだが、紛れもない徒手空拳のスペシャリストであることは、猛禽類とりの動きを彷彿とさせる技を実際に刻まれたキリサメが誰よりも理解していた。

 だからこそ、人を小馬鹿にしたような声であっても助言のれるべきだったのだ。


(いつぞやの殺し屋デラシネにも同じようにコケにされた気がするな――何かを積み重ねる理由なんか、僕みたいな人間にあるものかよ……)


 口の端から滴り落ちる赤い雫を舐め取ると舌に鉄錆の味が広がっていく。

 故郷で毎日のように味わっていたモノだけに懐かしさが込み上げ、〝闇〟と混じって心を落ち着かせていったが、その一方でアドレナリンとは異なる意味で苦い。

 腹部を刺し、今や呼吸まで妨げ始めた鈍痛は、のない自分のことを責めているようにさえ感じられた。


「うるァーッ!」


 悪化の一途を辿る腹部の痛みに気を取られていると今度は右脛目掛けてローキックを浴びせられた。狙われた足で蹴りを放ち、一旦は弾き返したものの、電知は軸足と腰を鋭く捻り込んで姿勢を整え直し、同じ左足でもって前回し蹴りを繰り出してきた。

 下段から中段へと素早く変化した蹴りにはキリサメも反応できず、胴に直撃を許してしまう。真横から襲い掛かってきた衝撃は体内深くまで浸透し、胃が破裂したのではないかと錯覚するような激痛がキリサメの四肢を止めた。

 その瞬間、寒空を彩る星々が長い尾を棚引かせるようにして流れていった。


「最初の頃の威勢はどこ行った⁉ それがてめーの限界なんだよ! 悔しがって咽び泣きやがれや、このクソ雑魚っ!」


 勝ち誇ったような上下屋敷の笑い声――キリサメに一撃で倒された事実ことを棚に上げたものだ――を聞くまでもなかった。中段蹴りを経て踏み込んできた電知に右腕を掴まれ、再び一本背負いに持ち込まれてしまったのだ。

 速いなどというものではない。先程も同じ技を受けたが、打撃から投げに転じる速度は比べ物にならないほど跳ね上がっていた。全身を軋ませる破壊力も同様である。


「気を付けて、キリサメさん! さっきよりずっと高い位置から投げられてるから! いくら改造人間並みに打たれ強くたって、何度も続くと肉体からだをバラバラにされちゃう!」


 左右の足を立て続けに蹴り込み、追撃を受ける前に電知をね飛ばしたキリサメは、横合いから聞こえてきた未稲の声によって一つの疑問が解放された。

 気付いたときには天地がひっくり返っている為、キリサメ自身には判らなかったが、どうやら電知は投げを打つ際に跳躍を挟み、その頂点から地面に叩き付けていたようだ。

 高い位置から投げ落とせばダメージはより大きくなる。解き明かしてみれば小難しい理屈が挟まれることもない単純明快な仕掛けであった。

 未稲の言葉を受けて破壊力の源だけは理解わかったが、電知の投げを破る手掛かりにはなり得なかった。『いなずま』の一字を名に持つ少年に相応しい桁外れの速度には殆ど反応できないのだ。原理を知ったところで何の役にも立つまい。

 そこでキリサメの脳裏に新たな――というよりも、余計な疑問がよぎった。

 未稲は先程までと変わらない調子で話しかけてきたが、露となった自分の上半身からだを目にして何も感じなかったのだろうか。刃物や銃のきずあとなど見せられたら戦慄に打ちひしがれてもおかしくはない。むしろ、それが普通の反応ではないだろうか。

 同じペルーの貧民街で地べたを這いずり回り、暴力の嵐に晒されてきた幼馴染みの少女でさえ恐る恐るといった調子で銃創を撫でていたのだ。

 ナイフを深く刺し込まれたきずあとへ唇を押し当てながら「あの藪医者ヤブ、さすがだね。こんな雑な縫い目、中身が飛び出さなかったのが奇跡だよ」などと笑う声までキリサメのなかに蘇っている。


(……震える指で触るくらいなら見なきゃ良かったのにな。どうして、あんなに目を凝らしていたんだろう――)


 幼馴染みの追憶が意識を侵した瞬間、不意に立ちのぼった幻像まぼろしを跡形もなく掻き消すほど強烈な衝撃がキリサメの脳を揺さぶった。電知の拳を敢えて腹部で受け止め、当身そこへ割り込むようにして右膝を突き上げた直後のことである。

 電知は顎に膝蹴りを受けながらもキリサメの右腕と首元を掴んでいた。同時に右足を股の間へと差し込み、瞬時にして相手の左足を刈る――そのままキリサメを背中から固いコンクリートへ叩き付けた。

 辛うじて後頭部が硬い地面にぶつかることはなかったが、電知の動作うごきが速過ぎる為に受け身を取ることが難しいキリサメの場合、無防備のまま頭蓋骨を砕かれる危険性もあったのだ。打ち所が悪ければ、今の技だけで命を落としたであろう。

 ここまで危険な技は学校教育の場は言うに及ばず、一般的な試合にいても断じて許されない。『E・Gイラプション・ゲーム』という過激な環境で闘い続ける選手であり、またルール無用の路上戦ストリートファイトであったればこそ電知は僅かな逡巡も差し挟まなかったのである。

 その場で飛び上がった電知は空中で左右の足を折り畳み、地面に転がったままのキリサメへと急降下を試みた。突き出した両膝でもって鳩尾でも抉ろうというわけだ。

 正座のような体勢で飛び込んでいく電知であるが、追撃としては余りにも大仰な動作うごきであった為、両手で全身を持ち上げ、左右の足を同時に突き出すという変則の蹴りでもって敢えなく撃墜されてしまった。

 胸部を打ち据えられ、尻餅を付く形で落下した電知へ追撃を仕掛けようと試みるキリサメであったが、逆に両足でもって自身の右足を搦め取られそうになった。

 蟹のはさみともたとえるべき動作うごきは一度目よりも遥かに鋭さを増しており、バトーギーンを捉えた岳とは比較にならないほど速い。一瞬でも反応が遅ければ膝関節をめられる状況まで持ち込まれたであろう。


(……このままじゃ本当にジリ貧だな……)


 危うく右足を捕獲されそうになった瞬間に感じたのは電知の加速だけではなかった。己の肉体からだに起きた変調を自覚させられたのだ。

 後方に跳ねようとしたとき、自分の意思と切り離されたかのように膝の屈伸が遅れた。電知が両足を繰り出そうとする動作うごきを双眸で捉えながらも、肉体からだのほうが言うことを聞いてくれなかったのである。

 目玉を抉るべくして右腕を振り抜いた際、上昇の勢いを利用される形で投げ落とされてしまった。そのときは骨まで軋ませる衝撃で「一瞬だけ反応が鈍った」と感じたのだが、今ではその〝一瞬〟によって体内を流れる時間が確実に蝕まれていた。

 相討ち覚悟で肝臓打ちを放ったとき、電知は拳を受けたに反撃を仕掛けてきた。これに対して今し方の投げ技は膝蹴りで顎を突き上げられるに完成させたのである。

 電知に割り込まれてしまうくらい身のこなしが鈍り始めているのだ。幾度も幾度もコンクリートへ叩き付けられたのだから当然であろうが、このままダメージが蓄積し続ければ相討ちに持っていくことさえ難しくなるだろう。

 機械でたとえるなら故障である。全身は激しく痛むが、四肢は動くのでどこかの骨が折れたわけではなさそうだ――が、自己診断以上に肉体からだの損傷が深いのかも知れない。


「キリサメさん、今こそ〝アレ〟を使っちゃってください! スピード勝負で競り勝つにはあのときに見せてくれた〝アレ〟しかありませんっ!」


 飛び退すさった位置にて電知を睨み据えるキリサメに対し、未稲は〝隠し玉〟を使うよう呼び掛けた。

 彼が初めて東京へ降り立った日、未稲は彼と二人で買い出しに出掛けたのだが、その際に傘が風に攫われて車道へ落下してしまった。これを拾い上げようとして自動車にねられそうになったキリサメは、傍目には瞬間移動としか見えない動きを垣間見せたのだ。

 突っ込んでくる車輌を全てかわして未稲の待つ歩道に戻ったのだが、その瞬間にキリサメは神速の領域へ達していたはずだ。いて電知に追いつくすべはないだろう。

 どうやら父も滞在先のペルーでくだんの神速が〝発動〟される瞬間に立ち会ったそうだ。目の錯覚や奇跡の類ではなく一つの戦闘能力に違いないと未稲は考えていた。そして、それは劣勢挽回の切り札となり得るはずなのである。


「さっきから何度も言ってる〝アレ〟って具体的には何なの?」

「キリサメさんの最終兵器ラストリゾート――だと思います。私もまだ一度しか見たことがないんですけど、あなたの『ヒエロス・ガモス』なんか目じゃありませんよ」

「あたしのっていうか、『かいしんイシュタロア』の設定だけどね。なに? あんな感じで彼らも同調リンクでもしちゃわけ? そりゃ男の子と男の子のくんずほぐれつは好物の欄に書きたいくらいだけど、ソレだとあたしのときめきが別の方向性にカッ飛んじゃうわ」

「そういうワケじゃないですけど、そういう意味に捉えて期待する気持ちが分からないでもないです。私も全く嗜まないワケではないので、はい」

「お喋りのほうが忙しいたァ、代理で闘わされてるあの陰気なクソ雑魚も報われねーな。『天叢雲アメノムラクモ』は見物のマナーも教えねーのか。大体、そのくんずほぐれつってのは何だ?」

「『自分、、興味ないッスから』って態度のコに限ってむっつりズブズブなのよねぇ。素直になっても良いんだよ? 男の子と男の子のくんずほぐれつが嫌いな女の子なんてこの世にいないんだから」

「何しろ、くんずほぐれつですからね。いえ、私は嗜む程度なんですけど」

「こいつらの喋っている意味を誰か通訳してくれ! さっぱりわッかんねーわ!」


 三人の女性たちによる騒がしいやり取りの中で『ヒエロス・ガモス』という不可思議な言葉が飛び出したが、これは希更の主演アニメ『かいしんイシュタロア』にて使用される劇中設定の一つであった。

 くだんのアニメでは神の力を甲冑に換えて纏う乙女戦士たちの争乱たたかいが描かれており、種々様々なダンスを取り入れた戦闘シーンの演出も高い評価を得ていた。

 劇中で重要な役割を果たしているのが『ティアマト』と呼ばれる一種の生体エネルギーである。を他のモノと同調させることによって魔力の増幅や特殊能力の共有などを行う〝儀式〟が『ヒエロス・ガモス』なのだ。

 二条の光を辺り一面にふくしゃさせながら舞い踊る競演ランデブーはパートナーとの交感に基づいたパワーアップという設定である――が、『かいしんイシュタロア』にまつわる知識を断片的にしか持っていないキリサメは当然ながら『ヒエロス・ガモス』なる名称なまえも初耳だった。

 未稲と希更はアニメの設定を例に引いて語らっているわけだが、それもまたキリサメには面白くない。何も知らない人間にまで〝隠し玉〟のことを明かす口の軽さが忌々しくてならず、守るべき〝家族〟でありながら心の中で舌打ちしてしまったほどである。


(……ペラペラとやかましいんだよな……未稲氏だって……何も知らないクセに……)


 そもそも、だ。〝隠し玉〟の発動に期待されてもキリサメには応えようがなかった。

 己の思い通りに制御できるくらい聞き分けの良いであれば、路上戦ストリートファイトの幕開けと共に発動させて『E・Gイラプション・ゲーム』の三人を全滅に追い込んだことだろう。それが叶わないから『コンデ・コマ式の柔道』に翻弄され、消耗著しい長丁場を強いられているのだ。

 〝アレ〟が発動する間際には魂の深淵にて必ず引き金が起こる。覚醒の息吹とも呼ぶべき現象が押し寄せてくるはずなのだが、現在いまは心の〝闇〟もいだままであり、気配すら感じられなかった。

 〝隠し玉〟はニット帽の男だけでなく『デラシネ』との血闘にいても一度だけ発動している。大口径リボルバーとソードオフ銃身を切り詰めたライフルを両手に握り、更にボウイナイフを口にくわえて三位一体トリニダードの連続攻撃を仕掛けてくる裏社会の〝仕事人〟には頼みの『聖剣エクセルシス』すら役に立たず、絶望的な力の差を前にして死を覚悟したのである。

 追憶の中でさえニット帽の男に揶揄され、これを認めることは甚だ不本意であるが、身のうちに〝隠し玉〟が宿っていなかったならこんにちまで生き長らえるどころか、故郷のゴミ溜め辺りで野垂れ死んでいたはずだ。

 覚醒の息吹に魂が撫でられた瞬間、〝闇〟の深淵より懐かしい声が響き渡り、回路サーキットが切り替わったかのように肉体からだを揺り動かすのだ。そして、そのときに死神スーパイともたとえるべき存在がキリサメ・アマカザリの意識を超越するのである。

 空閑電知という少年は過去に追い詰められた二人とも比肩する猛者であり、〝隠し玉〟の発動に要する条件を全て満たしているとキリサメは認めていた。〝仕事人〟から向けられた銃口よりも『コンデ・コマ式の柔道』のほうが恐ろしく思えるくらいなのだ。

 目に見える銃器や刃物と違い、電知の技はどこから襲い掛かってくるのか、殆ど見極められないのである。その上、競技スポーツとしての柔道とは別の次元に精神を据えているので、相手の頭蓋骨を粉砕することにも全く躊躇がない。


(猫みたいに気まぐれだけど、……使わないに越したことはないからな。大体、未稲氏の傘を拾ったときだって――)


 ここまでの攻防でも引き金が起こり得る瞬間は幾らでもあった。それなのに〝闇〟は何故か反応しなかった。己のうちで起きていることがキリサメ当人にも理解できず、小首を傾げたくらいである。


「ちっとも受け身取れてねぇってのにタフな野郎だな。これでも手加減抜きでブン投げてんだぜ? 涼しい顔で起き上がってきたら自信なくしちまうっつーの」

肉体からだの強さはお互い様だろう。骨折した鼻を何回、叩いたと思ってるんだ。それでも手応えがないんだぞ? 改造人間はあんたのほうじゃないか」

「バカ言え、ちゃんと痛ェよ。さっきブチ抜かれた肝臓だって悲鳴上げてやがらァ。そんなもん、気にならないくらい盛り上がってるんじゃねーか」

「おめでたいアタマしてるな」

「この期に及んでスカしてんじゃねっつの。……盛り上がるのは当然だろ? ここまでブチかまして沈まなかった奴は初めてだからよ――ぼちぼち本気出して行くぜ、オイ」

「……まだ本気じゃない……?」


 全力を出し切っていなかったことを明かし、「本気でったら前科一犯が付きそうなもんでよ。なかなか親不孝もできねぇんだわ」と冗談めかして笑う電知には、さしものキリサメも背筋に走る冷たい戦慄を意識せざるを得なかった。

 電知の鼻に詰め込まれていたティッシュは今や薔薇バラつぼみの如き有り様だ。先端からは深紅の雫も垂れ続けている。これを材料としてダメージだけならに近いと判断していたのだが、それもまた見立て違いであったらしい。

 肉体からだの変調を自覚する中にって、電知の側は更に加速する可能性を残しているのだ。


(……ここまで来たというのに、〝あの声〟はまだ聞こえないのか――)


 最も厄介なのは腹部を刺す痛みだ。これによって呼吸という生物の基本的な動作が妨げられている。回避がほぼ不可能な投げ技によって全身を壊されるより早く肺の中身がからになりそうだった。


「てめーこそ何時までも〝隠し玉〟を出し惜しみしてんじゃねーよ。八雲のおっさんから封印されたってオチじゃねーだろうな」

「……別にそういうワケじゃない」


 先程の未稲の言葉を受ける形で〝隠し玉〟の発動を要求する電知であったが、現在いまのキリサメにとってこれほどうっとうしいものはない。

 何故に電知は闘う相手の本気を引っ張り出そうとするのか――敵からの攻撃を最小限に抑えながら畳み掛けるのが実戦というものであろう。現在いまの状況は彼にとってむしろ好機のはずではないか。

 バトーギーン・チョルモンと相対した岳も同じであった。自分の命を狙ってくる相手を喜んで受け入れていたのである。


(……戦わなくても食っていける日本人らしい発想だよな――)


 腹立ち紛れに横薙ぎの右拳を繰り出すキリサメであったが、これまで以上に単調な攻撃が命中するはずもない。左手一本で受け流され、「破れかぶれが勝負の決め手になるのは架空フィクションの世界だけなんだよッ!」という叱声と共に対の拳で腹部を抉られてしまった。


「――んじゃ、おれから先にとっておき、行くぜェッ!」


 冗談ではなかった。電知の言う〝とっておき〟があてか組技かは定かではないものの、胃の腑から鮮血が逆流しそうな状態で大打撃を被れば一溜まりもあるまい。無論、も叩き込まれた後に気付くのだろう。

 あと一撃でも重ねられたら卒倒し兼ねない窮地から脱し、〝とっておき〟の正体を見極めるべく後方へ飛び退こうとする寸前、キリサメの視界に好転の兆しが映り込んだ。

 先ほど自分が脱ぎ捨てたシャツである。しかも、丸顔のマスコットキャラクターが刷り込まれたその布切れを電知の左足が踏み付けているではないか。

 腹部を抉る一撃より変化した右の肘打ちに対して、その場へかがみ込むような回避動作を取ったキリサメは電知が踏んでいるシャツの端を握り、これを力任せに引っ張った。

 原始的というよりも幼稚と表すほうが似つかわしいような小細工であるが、効果は覿てきめんだった。電知の目にはあてによるダメージに苛まれ、片膝を突いたものと見えたらしく、足元を脅かされても全く反応できなかった。

 文字通りに足元を掬われた電知は、そのまま尻餅を付くかに思われた。

 コンクリートの地面に転んだ瞬間、全体重を乗せて脇腹を踏み付け、肋骨を圧し折ってやろうと身構えるキリサメだったが、ほんの一瞬、意表を突いた程度で凌駕できるほど電知との差は狭くはなかった。追撃を仕掛けるべく前傾姿勢となった瞬間、これを押し止めるかのように横隔膜の辺りに蹴りを受けてしまったのだ。

 蹴りというよりも「足の裏を押し当てた」と表すほうが正確に近いかも知れない。このとき、電知はキリサメの両手首をも掴んでいる。


「根っからのドン・キホーテ野郎だな。自分から度胸試しを挑んでくるなんてよォ――」

「――何ッ⁉」


 言うや否や、電知は身を放り出すような恰好で後方に跳ね飛んだ。そうして地面に背をつけると、今度はキリサメごと回転し始める――互いの身体を車輪に見立てて転がり、連続して相手を痛め付けるという変則的な技であった。


「くっ……はッ……!」


 横隔膜への圧迫は特にダメージが大きい。腹部を刺す痛みによって呼吸が困難となりつつあるキリサメは全体重を乗せて踏み付けられるたびに失神しそうになるのだ。

 結局のところ、シャツを利用した奇襲の策は、頭抜けた反応速度からすれば児戯おあそびにも等しかったということである。


「おチビちゃんの〝とっておき〟ってソレなのォ⁉ いやいやいや、何の資料調べたらアレが『コンデ・コマ式の柔道』になるのよ! 参考文献の開示を求めるわっ!」

「あれも、〝若〟の決め技の、その一つだ。あれは……そう、魂に、響くのだよ」

「ああ」


 電知の決め技とやらを感慨深そうに見つめるパンギリナンと左右田も、希更の驚愕が意味することもキリサメには分からない。そもそも強烈な遠心力で脳を揺さぶられている彼に電知以外の顔を確かめる余裕などあろうはずもなかった。


「世の中、はすに構えてたんじゃ何も掴めねぇ! その手は何の為にある? 石ころの代わりに意志を握れ! でっけェ夢を託して『八雲道場』の門を叩いたんじゃねーのかッ⁉」


 途切れ途切れの呻き声を巻き込みながら回転し続ける電知は、互いの息遣いが生々しく感じ取れる距離でキリサメを大喝した。


「よォくおれの顔をおぼえておけ! 空閑電知ってェ名前を忘れるな! お前の目の前にいるのは世界最強になる男だッ!」

「はぁ……?」

「おれは全人類で一番強ェ男になってみせるッ!」


 何の前触れもなく自分の夢を語り始めた電知にキリサメは面食らうばかりだった。そもそも、この状況で雑談を試みることからして理解の範疇を超えるのだ。


「お前だってそうだろうが! えェ、ドン・キホーテ野郎⁉ てめーの夢とおれの夢、同じ道の先にあるんじゃねーのかよッ⁉」

「……意味が……分からない……」


 自分たちは世界最強という途方もない夢を分かち合う同志と勝手に決め付けて喋り続ける電知がキリサメには鬱陶しくて仕方なかった。

 しかし、それも無理からぬことであろう。電知の中では未だにキリサメ・アマカザリという少年は八雲岳の弟子として刷り込まれているのだ。


「……世界最強なんてどうやって決める? 全人類の総当たり戦でも開くのか? 他人ひとにとやかく言う前に自分の誇大妄想に気付け……」

「見果てぬ夢だからこそ楽しいんじゃねぇか! 昨日よりも今日、誰よりも何よりも強くなりてェ! その挑戦がおれたち――格闘家の生きる糧だぜ! なァッ⁉」

「……生きる糧だって? ……その意味も理解わからない日本人が……簡単に言うなよ……」


 簡易ガレージへ接触する寸前で回転の方向を逆さまに切り替えた電知は、唖然呆然と立ち尽くしている未稲たちのもとへ向かっていった。

 その最中にキリサメは敢えてペルーの言語ことばで電知を面罵した。夢こそが生きる糧という呼び掛けに対して、食うに困らぬ日本人――と憎々しく吐き捨てた。

 ペルーの公用語であるスペイン語に明るくない電知にはキリサメが自分に何を話しているのか、単語の一つに至るまで分からない。

 その一方、少年たちの闘いを見守るパンギリナンが生まれ育ったフィリピンでは一九八〇年代半ばまで同じスペイン語が公用語として使われていた。同国によって植民地支配を受けていた歴史もペルーと共通している。

 そして、彼はキリサメと同じように絶望的な貧困を味わった身でもある。MMA選手として食い扶持を稼ぎ、飢餓ひもじさを凌いできた。だからこそ『りょうざんぱく』を追われた後、フィリピンへ帰ることが叶わなかったのである。

 祖国に生きる場所を持ち得ないパンギリナンは、上下屋敷が「いつもより多く回ってないでトドメ刺せ!」と喚く横でキリサメが洩らした怨嗟ことばを誰より重く受け止めていた。

 そのパンギリナンが〝若〟と呼ぶ電知は言語ことばの代わりにくらい眼差しからキリサメの心に巣食う〝闇〟を感じ取り、「ハポネス」という独特な発音イントネーションの言葉と結び付いた。

 日系人と日本人ハポネス――同じ起源ルーツを持ちながらこんにちまで異なる歴史を歩んできたのだ。そして、その意味を全く理解できないほど電知も愚かではない。

 それ故に彼は「生まれ育ちを言い訳にすんな!」と、己の感じたことを日本の言語ことばで紡いだのである。


「お前……ッ!」

「格闘技の前には誰もが平等って意味だ! 国境も何もかも全部取っ払って純粋な力比べができる! その道が世界最強ってェ頂点てっぺんに繋がってんだぜッ!」

「……尤もらしいことを話しているようで、甘っちょろい理想論じゃないか……!」

「夢だッ!」

「だからッ!」


 スペイン語から日本語に切り替えたキリサメは、相変わらず瞼を半ばまで閉じた双眸で電知を睨み付けた。鼻孔とティッシュの僅かな隙間から零れ落ちる大粒の血が顔面に飛び散り、忌々しくてならなかった。


「世界最強にこだわるクセして武者修行にも出ないんだな。口先だけじゃないか。……あんたの好きなコマとやらはそうしていたんだろう?」

「おっ! やっと少しは前田大先生のことをおぼえてきたらしーな! イイ感じだぜ!」

「……そこに食い付くのか……」


 「二人とも立ち上がる頃にはメロメロなんじゃない」という希更の指摘ツッコミが近付いてきたところで更に向きを変えた電知は、器用にも地面に円を描くようにして転がり始めた。

 キリサメの呆れ声がそこに巻き込まれていく。


「今はまだ助走中なんだよ。成人もしねぇ内に無理筋通して親に迷惑掛けらんねーしよ」

「……親を逃げ道にするな。地下格闘技だか何だか知らないが、仲間と馴れ合って居心地の良い場所をうろついてるだけじゃないか……あんたの夢とやらもその程度だ……」


 全身を襲う痛みや苛立ちも手伝ってキリサメは刺々しい皮肉を次々と浴びせていく。今にも肺から空気が無くなりそうで、声も酷く擦れている。

 そんなキリサメの様子に気付きもしないのか、電知の声は一等熱気を帯びていった。


「そうさ、『E・Gここ』がおれの魂の故郷だからよ! ホームグラウンドも大事にできない野郎が世界で通じるわけねぇぜ!」

「……それが……馴れ合いだって……言ってるんだ……!」

「伝説の柔道家を再現したっつっても、どこぞの協会が公認してくれるワケでもねぇよ。まかり間違って『JUDOジュードー』の試合なんぞに出場したら一発で反則負けだ。そんなおれを受けれてくれたのが『E・Gイラプション・ゲーム』なんだよ。……ここはそういう連中の集まりさ」

「……別に……いてない……」

「左右田は高校のときにアマチュアボクサーだったんだけどな、練習試合の相手をブッ壊した途端、〝お偉いさん〟から『アイツは試合に出場させるな』って危険人物扱いで干されちまってよォ」

「……ああ……」

「超高校級ハードパンチャーってさんざん持ち上げといて手のひら返したバカどもに愛想つかして、一番呼吸し易い『E・Gイラプション・ゲーム』に辿り着いたってェわけだ。真っ先にブチのめされた上下屋敷はまた事情が違うけどよ。『でんとり』っつう古い逮捕術の跡継ぎでなァ」

「オレの話を部外者そいつにすんなっ!」

「古い武術の使い手はこいつだけじゃねぇよ。『E・Gここ』は見せ掛けじゃなくてマジで命を張る戦場だからな。〝物騒な技〟を鍛えるには持ってこいってワケだ」


 共に信濃まで駆け付けた仲間たちを例に引きながらホームグラウンドのことを語っていく電知はバッティングセンターなどが立ち並ぶ方角へ進みそうになり、慌てて反転した。

 再び簡易ガレージのほうへ向かう最中にも電知は『E・Gイラプション・ゲーム』について喋り続けようとしたが、毛ほども興味を引かれないキリサメは「長い」と呻くような一言で切り捨てた。


(どいつもこいつも……格闘技をやってる人間は同じなのか……?)


 人の返答ことばなど聞く耳を持たず、押し付けがましいくらい夢や希望を語りたがる――そういう意味では電知と岳はこれ以上ないほど良く似ている。


「今に見てろよ! あと数年ちょっと――成人式の日におれは世界に飛び出すからよォ! 自分より強ェヤツを訪ね歩いてくるぜェッ!」

「……仮に世界最強になったところで、一体、どうするつもりだ? そんなことに何の意味がある……?」


 『天叢雲アメノムラクモ』のような〝茶番〟で有名人になりたいのか、路上戦ストリートファイトで腕自慢したいのかは分からないが、富や名声を目的としているのであれば、効率的な方法は他に幾らでもあるだろう。不景気とはいえ、貧困層には逆転の芽すら与えられないペルーとは違うのだ。


「理屈なんかで言い表せるほど安っぽいモンじゃねぇんだ! 心の命ずるままに突き進むまでよォッ!」

「だから、それが意味不明だって言ってるんだ」

「ええい、分からず屋め――」


 簡易ガレージの間近まで迫った瞬間に巴投げへと転じ、暗く閉ざされた内部にキリサメの身を投げ捨てた電知は、スチール棚を巻き込みつつ激しく転倒する音を聞きながら「どういうつもりで八雲のおっさんに弟子入りしたんだ⁉」と吼えた。


「ブルース・リーは仰った――『考えるな、感じろ』ッ! お前はそこから始めなッ!」


 さんざん転がり続けた直後だというのに電知はコンクリートの地面を踏み締めながら元気に大音声を張り上げている。捕獲したキリサメだけでなく己自身も三半規管を滅茶苦茶に揺さぶられ、目眩を起こしてもおかしくないはずなのだ。

 よろめきもしない電知を見据えた希更は、その姿に尋常ではない修練を感じ取り、いけ好かない少年ということを一先ず忘れて称賛の口笛を吹いた。


(ここからが彼の正念場ね。もっともっとあたしをときめかせて欲しいわ)


 彼女もキリサメの失速を認めている。ダメージの蓄積が肉体からだを蝕み始めたことも察しているのだが、それよりも攻防の組み立て方に問題があると希更は分析していた。

 『素人同然の力押しばかり』と電知からも指摘されていたが、攻撃が余りにもなのだ。あてを経由して相手の動きを制し、投げ技まで持ち込む電知とは対照的である。

 この状況を覆さない限り、勝ち目は見えない。まさしく勝敗の分かれ道であった


「おっさんの役目をっちまって悪いが、拳を交える意味はおれが教えてやらァッ!」


 全身の血潮が燃え滾っている電知に向かって投げ捨てられたのは大音声に応じる返答などではない。油汚れが全体に及んでいる紙袋が暗闇の内部から彼の足元へと放物線を描いて落下し、地面と接触した拍子に破れて中身が撒き散らされた。

「始めるも何も、僕はあんたらの好きなに興味なんかない。〝敵〟を倒す。それだけのこと。……日本人ハポネスに教えてやる。生きる糧を得る戦いがどういうモノかを」

 キリサメが穏やかならざる言葉と甲高い摩擦音を引き摺りながら暗闇の向こうより現れたのは、紙袋から無数に飛び散った物がボルトやナットといった小さな金属部品であることを電知が確認した直後である。


「そういや、『まきびし』とかいう忍法もあったっけな――ったく、八雲のおっさん、順序を間違えまくってやがるぜ。心構えの前に技教えてどーすんだっつの」

「この程度の小細工、ニンジャでなくても思い付くだろう……」


 丁度、古い乗用車とスチール棚の隙間の辺りに投げ飛ばされたキリサメは簡易ガレージの片隅に置かれていたと思しき鉄パイプを右手一本で握り締め、その先端でコンクリートの地面を擦っている。

 加工の途中だったのか、秒を刻むごとに削られていく先端部分は斜めに切断されていた。

 それはつまり、〝敵〟の肉体からだへ突き刺すのに適した武器を得たということである。およそ七〇センチという長さもキリサメりょりょくならば難なく振り回せるだろう。

 何より『聖剣エクセルシス』と比べて遥かに軽く、小回りが利くのだ。桁外れの敏捷性を備えた電知を相手に振るう武器として、これ以上に相応しい物はあるまい。

 鉄パイプから手のひらに伝う冷気をキリサメは満足そうに握り締めた。

 夜風に白煙をくゆらせるほど火照った肉体からだに芯まで凍て付いた鉄が心地良かったわけではない。目障りな相手を確実に潰せる武器を得たことで精神こころのゆとりが生じたのである。

 すぐ近くでは自分の所業を棚に上げた上下屋敷が「素手ステゴロに武器持ち込むんじゃねーよ、卑怯者が!」と喚いているが、キリサメからすれば知ったことではなかった。


「僕とお前は決して交わらない。そして、交わる理由もない」


 故郷ペルーでの激闘にいて生死の境まで追い詰められた二人の男は共に優れた戦闘能力の持ち主であったが、電知あるいは岳のような妄言など一度も口にしなかった。彼らが特別老成していたわけではなかろうが、夢などという曖昧なモノに惑わされない程度には〝世の中の仕組み〟を理解していたことは間違いない。

 夢を追い求めることに生き甲斐を見出す電知や岳とは相容れない存在である。

 考え方まで似通うらしい格闘家という生き物は〝自分たち〟とは違う空を見上げているのだ。電知や岳の瞳は夜空にさえしるべたる太陽を見出せるのだろう。

 不確かな幻想へ命を捧げられる人間が、命を繋ぐ為に夢も希望もない〝闇〟の底を這い回る人間と同じであるわけがない。

 これ以上、〝自分たち〟の領域を踏み荒らすな――一等昏くらくなったキリサメの瞳が言外に電知を突き放していた。


「キリサメさん、それはちょっと……」

「大丈夫。今度こそ仕留めます」

「そういう意味じゃなくてっ!」


 暗闇の中に陽だまりを感じさせてくれる唯一の声に全く噛み合わない答えを返し、殺意の塊を握り直したキリサメは、なおも先端を地面に擦らせながら電知へ突っ込んでいく。

 これを追い掛けるようにして火花が舞い踊り、彼の横顔を照らしたが、そこに笑みなど認められなかった。武器を手にしたことで優位に立ったと驕ることもなく、これまでと同じように〝獲物〟を淡々と見据えるのみであった。

 ただし、鉄パイプを取った瞬間から脳が鈍く痺れ始めており、そこから〝人間らしさ〟というものが剥がれ落ちている。


「おれたちは絶対に交わらないだって? アホ抜かしやがれ! だったらこの勝負は何なんだ? おれの声が届いてっから、お前だって燃えてきたンだろうが!」

「武器を持った人間相手にまだそんな寝言をほざくのか……」

がお前の〝本気〟なら、おれはとことん付き合うぜ、ドン・キホーテ野郎。第一、おれたちがやってんのは『天叢雲アメノムラクモ』みたいな茶番じゃねーしなッ!」

「……バカの一つ覚えとはこのことだな……」


 辺り一面に撒き散らされた小さな金属部品を素足で踏み越え、全身から漂う白煙を置き去りにしてキリサメへと向かっていく電知の顔面は、ドス黒い鼻血が混じりながらも歓喜の色で塗り潰されていた。



 のちに『てんのう』と呼ばれる少年たちの勝負たたかいは、格闘技や武道といった言葉を超越した領域へ一直線に突き進んでいく。


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