その5:抗争~前田光世/コンデ・コマ式の柔道

 五、抗争


 とにかく風に当たりたかった。未稲に伝えた通り、トイレに駆け込んで顔も洗ってみたのだが、その程度では身のうちでのた打ち回る熱は鎮まってはくれなかった。だからこそ、キリサメは多目的アリーナを飛び出したのである。

 ソチ五輪パラリンピックが無事に閉会式を迎えて早一週間――三月下旬ともなれば頬を掠めてゆく風に春の息吹を感じられるようになる。誰からともなく『平成二六年豪雪』と呼び始めた災害の折には氷河期が訪れたとも思えたが、今は街角のどこにも積雪は認められない。重みで損壊したものと思しき痕跡がひとつき前の大混乱を偲ばせる程度であろうか。

 しかし、東京から訪れた者にとって長野の夜風は冬の名残などと呼べるほど生易しくはない。夜更けの気温は零下に達するのだ。キリサメも身震いを止められなかった。

 これこそキリサメは求めていたのである。悪寒を引き起こすような冷たい風を全身に浴び、肺いっぱいに吸い込みたかった。暗闇の中に溶け込むことで自分が在るべき〝領域〟を意識し、分裂しかけている心と身体を一つに戻したかった。

 いつかの夜に湧き起こった渇望とも似ていた。あの日は半月ぶりに血を目にしたことで脳が痺れ、昂った精神を冷却させるべく氷河期の如き有り様の屋根に向かおうとしたである。今の情況と必ずしも一致はしないが、辿り着く境地ばしょだけは同じであった。

 慣れ親しんだ〝闇〟に還りたい――その一心でキリサメは夜風を求めている。

 深呼吸するだけならば多目的アリーナのロビーでも事足りるだろう。第六試合ファイナルの真っ最中ということもあってリングや観客席以外の場所は人影がまばらなのだ。しかし、ドアを隔てた向こうからは凄まじいまでの大歓声が濁流のように漏れ出している。とても落ち着ける環境とは言い難い。

 多目的アリーナの中に留まっていては思考の整理など不可能に近い。ましてや、静寂が横たわる闇など絶対に感じ取れないだろう。

 主催側より配布された入場許可証パスを首から下げているので、アリーナへの出入りは原則的に自由。イベントが終了する前にリングサイドへ戻れば問題はないはずだ。


「……最悪、外で岳氏たちを待っていればいい。蒸発しようってワケじゃない……」


 自分自身に対する言い訳めいたことを呟くキリサメの頭の中は、現在いま、混乱と矛盾で埋め尽くされていた。

 安全なルールに則って行われるMMAを〝実戦〟ではないと見下しておきながら、岳の闘いには胸躍らせるという矛盾をキリサメは持て余していた。幻像まぼろしを伴う〝闇〟にあれほど苦しめられたというのに、結局は光に溢れた騒がしい場所より〝闇〟の底のほうが心安らかになれるのか。

 脳も痺れておらず、拳に厭な感触が纏わりついているわけでもないのに、どうして血肉が沸騰してしまうのだろうか――思考そのものが乱れ切っている所為せいか、答えを出せない自問ばかりが次から次へと押し寄せてくるのだった。

 多目的アリーナは正面が大型駐車場となっているが、建物の裏まで回り込むと街路灯すら満足に設置されていない区画に行き着く。二本の大きな通りを貫く細い道路に面した場所であり、まるで谷間のような趣であった。大通りのほうから差し込んでくる街路灯の明かりくらいしか足元を照らす物もないのだ。

 まさしくキリサメが望む通りの〝闇〟であった。

 多目的アリーナからは微かに歓声が漏れているが、ロビーにいるときほど苦にはならない。どうやら最後の第六試合も盛り上がっているようだ。

 長野の夜空には数え切れないほどの星々が瞬いている。それは故郷リマの貧民街で仰いだ星屑の海とも似ており、日本に移ってから初めて郷愁のような感傷ものが心を揺さぶった。

 命の危険が目と鼻の先に転がっているような貧民街へ戻りたいとは思わない。それなのに〝闇〟だけは懐かしくて仕方がなく、自分はにしか還れないとも考えている。これもまた大いなる矛盾といえるだろう。


「――東京じゃこうは行かないね。同じ長野でもすがだいらはもっとすごいけど」


 夜風を頬に受けながら両目を細め、故郷の〝闇〟まで意識を飛ばそうとしたその瞬間とき、良く馴染んだ声がキリサメの鼓膜を打った。

 ファイナルを迎えた多目的アリーナの中は最高潮に白熱しているはずなのだ。そのような状況にも関わらず建物の裏手へわざわざ赴く物好きは自分くらいだろうと思っていたので、暗闇の中に別の人間の気配を感じたことにまずは驚かされた。

 しかしながら、極端に警戒することはない。いつもより少しだけ見開かれた目で「どうして、ここに?」と問い掛けるのみである。

 「美少年一番搾り」という珍妙なプリントは闇夜にも良く目立っている。未稲だった。最後の大一番メインイベントへ釘付けになっているものとばかり思っていた同居人が駐車場のほうから控えめな足取りで、けれども真っ直ぐに近付いてくるではないか。


「フツーじゃない人ってさ、かなりの確率で外に出ていっちゃうんだよね。これ、テストにも出るくらい黄金パターンだもん。キリサメさんもバッチシ王道な人だったね」


 何をもって黄金パターンなのか、その論拠がキリサメには理解できなかったが、勘働きそのものは冴え渡っているようだ。

 キリサメの心に刺さったのは「フツーじゃない人」という一言だった。

 いつかも怯えたような顔を向けられてしまったが、やはり、未稲の目には異常者のように映っていたのだろう。平和な日本に生まれ育った人間とは決して相容れない〝闇〟の存在と見なされていたのかも知れない。

 それはキリサメ本人も自覚しつつあることであった。


「……メインイベントの途中じゃないですか。こんなところにいてもいいんですか?」


 相容れない存在に構っている暇などないだろうに、「フツーじゃない人」をわざわざ追いかけてくる理由がキリサメには分からない。


「いやいや、フツーじゃない人を見掛けたら、自分の都合なんか放り出して追いかけるでしょ。当たり前でしょ、そんなの」

「……それが〝日本人らしさ〟というものですか……」

「そこは日本もペルーも関係ないと思うなぁ。家族を放っておく人なんかいないよ」

「……家族……」

「こんな照れ臭いこと、シラフで言わせないでよぉっ」


 頬を染めつつ肩を叩いてくる未稲に対し、キリサメは呆気に取られたような面持ちで立ち尽くすばかりであった。


 「フツーじゃない人」という一言は、読んで字の如く、からかけ離れた人間のことを指していたわけだ。この場合の『異常』とは人間社会の常識ではなく心理的な動揺を意味している。

 矛盾と混乱に苛まれたキリサメの様子を「普通ではない」と判断した未稲は第六試合ファイナルを捨ててまで追いかけてきたのだ。

 未稲の言葉を受け止めたキリサメは自分の愚かさをただただ恥じ入るばかりだった。相容れない存在と勝手に決め付けて、彼女と自分の間に線引きをしてしまうこと自体、馬鹿げた被害妄想ではないか。

 未稲は「家族を放っておく人なんかいない」と言ってくれた。岳も自分のことを家族として迎え入れると言っている。

 キリサメ自身は八雲家に間借りしているような気持ちでいたのだ。貧民街の集合墓地から屋根付きの場所に寝床が変わり、親の友人から食事を恵んでもらっている――その程度にしか思っておらず、だからこそ未稲にも岳にも深く関わろうとしなかった。その必要性さえ感じていなかった。

 こんなにも歪んだ精神の持ち主を八雲家の人々は「家族」と呼んでくれている。そのことがキリサメには申し訳なくて仕方がなかった。

 きっと自分たちが相容れない存在ということは間違いない。血の臭いが垂れ込める貧民街で生きてきた人間は、最後は〝闇〟にしか還ることができないだろう。

 心優しい八雲家の人々から「家族」と呼んでもらえる資格があるのか、誰よりもキリサメ自身が疑っていた。


「私たち、もう家族なんだからさ」


 夜の闇よりもなおくらい葛藤を抱えて俯いてしまったキリサメのことを心配そうに見つめる未稲は、もう一度、自分たちを結び付ける〝絆〟を繰り返した。

 彼女自身、異境の貧民街からやって来たキリサメとの間には溝のようなものを感じている。普段の異常行動から相容れない存在ではないかという恐れも抱いている。

 しかし、そのような感情の揺らぎに囚われている場合ではないのだ。今にも消えてしまいそうなはかない少年を、どうして放っておけるだろうか。

 それ故、キリサメとの間に結ばれた〝絆〟を己に言い聞かせたのである。


「今夜の『天叢雲アメノムラクモ』を見ていて、……その……何かペルーのことを想い出したのかな?」


 第五試合セミファイナルが終わった直後にキリサメは席を立ったのだが、試合を見ている内に何か辛い記憶が蘇ってしまい、具合が悪くなったのではないかと未稲は案じていた。

 禁忌タブーに触れかねない質問である為、その声は小さく弱々しかったが、応じるキリサメの側は全身が震える思いである。

 身のうちに潜む〝闇〟を見透かされることが何よりも恐ろしい。そして、「自分は何も知らない」といった顔で核心に迫ってくる未稲がキリサメには悪魔のように思えた。


「老若男女が殴り合う喧嘩祭りがペルーにあったよね。アレ、小さい頃に見たら絶対トラウマになるし、そーゆーのを想い出しちゃったのかなぁって」


 ところが、未稲の発想はキリサメの思考など遥かに超越していた。余りにも奇想天外であった為、胸中に渦巻いていた葛藤が一発で吹き飛び、返す言葉に詰まってしまった。


「……それはきっと『タカナクイ』のことですね」

「そうだ、それそれ! ネットでペルーの風習を検索したらヒットしたんだよね。画像見たときはリアルにひっくり返ったなぁ。よりにもよってクリスマスに殴り合うって!」

「タカナクイは僕の暮らしていた首都リマから遠く離れた町の祭りですよ。小さな頃に一度だけ母さんと見物に行ったことがあります」

「情操教育にしてはトガり過ぎてない⁉ ねぇ、ホント、トラウマになったんじゃ⁉」

「確かにビックリしましたけど、トラウマみたいなコトにはなりませんでしたよ」


 見当違いな発想を信じ込み、斜め上に突き進んでいくような心配の仕方がキリサメにはおかしくて仕方なかった。岳も岳で思い込みが激しく、話の噛み合わない瞬間も多いが、こういうところは親子そっくりだ。


「うちの母さん、タカナクイに飛び入り参加して村を出入り禁止されたんですよ。だから後にも先にも一度しか見学したことがないんです」

「ちょっと待って⁉ 私が調べた範囲だと、その喧嘩祭りってさ、地元の人しか参加できないよね⁉ 殴り合いの決着が住民トラブルの解決手段なんだって聞いたよ⁉」

「ええ、ですから、大問題になったんです」


 天飾見里の荒々しい過去に面食らい、闇夜の中でもはっきりと分かる呆れ顔を作った未稲は、ややあって口元を綻ばせ、次いで盛大に吹き出した。


「キリサメさんのお母さんって、言っちゃ悪いけど、デタラメな人だったんだね」

「息子の僕が言うのもなんですが、メチャクチャっていうのは、あの人の為にある言葉だと思いますよ。人生腕っぷしだって公言して憚らなかった人ですし」

「……私、キリサメさんのコトを全然知らないなぁ。一緒に暮らし始めてもう一ヶ月になるのにお母さんの話だって、今日、初めて聞いたし」


 故人だけに根掘り葉掘りたずねることを遠慮していたのだが、今のようなユニークな想い出話を聞かされると好奇心が刺激されて仕方がなかった。

 母親ミサトのことだけではない。キリサメ本人のことも知りたかった。もっともっと彼の話を聞きたかった。一つ屋根の下で暮らしているというのに殆ど何も知らないのは未稲自身が彼のことを敬遠していたからに他ならない。

 第三者から吹き込まれた情報をそのまま信じ込み、相容れない存在と勝手に決め付けてきたことを恥じた未稲は心の中で「これまでごめんね」と謝り、自らの口で「キリサメさんのこと、もっと話して欲しい」と告げた。

 それこそが今の偽らざる気持ちなのだ。


「ペルーのことだって、ネットに載ってないことが多いと思うし。リマには日系の人もたくさん住んでるんだよね?」

「……母はペルー暮らしが長かったから友達も多かったみたいですね」

「――そうだ! 私たちが生まれる前の年のコトらしいんだけど、何とかっていうお笑いコンビが暫くペルーに滞在してたんだって。キリサメさん、聞いたことある? マゼラン海峡からアラスカまで旅するっていうテレビ番組の企画らしいの」

「……ひょっとして、その人たち、ヒッチハイクだけで旅をしていませんでしたか?」

「あっ、知ってる⁉ やっぱり向こうじゃう有名なんだね~。その当時のペルー大統領にも会ったって言うし」

「地元のテレビ番組にも出演したそうなんですよ。母さん、貰ったサインを大切に飾るくらいファンになったらしくて。自宅うちが潰れたときに失くしてしまいましたが……」

「今も残ってたらプレミア付いたよ、そのサイン。コンビ解散しちゃったからね~」

「岳氏にも教わりましたよ。お陰で日本に移る意味が八割無くなりました」


 いつもの無感情ではなく、肩を竦めながら冗談めいたことを口にするキリサメがどうにも面白くて、未稲は腹を抱えて大笑いした。

 そんな未稲を見つめ、闇夜をつんざくかのような笑い声へ耳を傾けている内に、キリサメは何とも例えようのない安らぎに満たされていった。心臓の鼓動は完全に元通りとなり、バラバラになっていたはずの心と身体までもが一つに定まったのだ。

 自分でも奇妙な錯覚だと思うのだが、未稲の立つ場所が陽だまりのように明るく感じられた。これから深夜を迎えようというのに――だ。

 彼女がそこに居るだけで自分の居場所である〝闇〟も遠くなる。それなのに少しも疎ましいとは思わない。それどころか、身も心も落ち着いてしまうのである。

 つくづく不思議な少女だと思った。高い場所に登ったり、車道へ飛び出すことを自制するようになったのは、全て未稲の為である。やめるように命じられた憶えはない。彼女が見せる怯えた表情に気が咎め、自ら踏み止まったのだ。

 つい一か月前まで見も知らぬ他人であった少女の表情かお一つに翻弄されている自分がキリサメには滑稽でならない。


(……〝あいつ〟が見たら、一体、何て言うだろうな……)


 故郷ペルーで長いときを共に歩んできた幼馴染みから冷やかされたような気がして、キリサメは我知らず頬を掻いた。


「あれ……キリサメさん、今、笑わなかった?」


 また未稲の表情が変わった。丸メガネの向こうでは驚きに双眸を見開いている。

 キリサメ本人には自分が笑っているかどうかは分からなかったが、きっと未稲の言う通りなのだろう。彼女の言葉だけは疑うことなく信じられる気がしていた。

 至近距離から顔を覗き込んでくる未稲は本当に嬉しそうだった。


「わ~、笑ったところ、すっごい可愛いよ! うん、可愛い!」

「……可愛いって言われて喜ぶ男はいないですよ……」


 これまで距離を感じていた相手が初めて人間らしい表情を見せてくれた――そのことを喜ばないはずなどなかろう。感極まってキリサメの両手を握り締めた未稲は、「だって可愛いんだもん!」と満面の笑みを浮かべた。


「……家族って言っておきながら、私、薄情だったね……」

「どうしたんですか、急に」


 キリサメの手を握る力が一等強くなる。そこに未稲の決意が表れているようだった。


「随分遠回りになっちゃったけど、これから色んな話をしようね。私やお父さんのこともキリサメさんにもっともっと知ってもらいたいもん!」


 どこまでも真っ直ぐな未稲の瞳にキリサメの心は完全に吸い込まれていた。

 いつの間にか、辺りは完全なる静寂に包まれていた。多目的アリーナから歓声が漏れてくるようなこともない。第六試合ファイナルが無事に終了したようである。そろそろ今回の興行を締めくくるセレモニーが始まる頃合であろう。

 そのことに気付いた未稲は繋いでいた手を離し、「そろそろ戻らなきゃ。文多さんに心配掛けたくないし」とキリサメに促した。

 その言葉に従って歩き出しながらキリサメは未稲と繋がっていた手を見つめた。名残惜しいと感じてしまうくらい彼女の体温は心地良かった。

 体温だけではない。明るい笑い声やコロコロと変わる表情――八雲未稲という少女から感じられる陽だまりのような温もりに自分は救われたのだ。

 〝闇〟とは異なる安らぎがあると悟ったとき、キリサメは我知らず未稲の腕を引いた。


「ん? どったの――」


 そして、未稲が不思議そうに振り返った瞬間、その唇を奪った。

 互いの唇を重ね合わせていたのは数秒程度であろうか。半歩ばかり身を引いたキリサメが見つけたのは何が何だか分からないといった表情で立ち尽くす未稲の顔である。


「……えっと、女の子にお礼をするときは、こうするものだって母さんに教わったから」

「は? ひ? ふ? へ? ほ? ……はひぃ~⁉」


 未稲の顔面が沸騰したのは言うまでもあるまい。


「こ、こここ、ここここここ……」

「ニワトリ?」

「こッ、こーゆーこと、ペルー中の女の子にしてきたの⁉ かっ、かかか、可愛い顔して肉食系男子スケコマシだったりなんかしちゃったりしてッ⁉」

「いえ、未稲氏が初めてです」

「うごごっ⁉」


 傷だらけの少女が――幼馴染みの顔がまたも脳裏をよぎったが、互いの体温を深く感じた経験ことはあっても口付けを交わしたおぼえはない。礼など不要の気安い関係だったことだけでなく、心の奥底へ触れるような行為を何となく避けていたのである。


「ちょちょちょ、ちょっと待って⁉ だったら余計に待とうってばさ! 私、何の準備もないままキリサメさんの一番大切なものを貰っちゃったじゃない! でもでもでも、貰われちゃったのも私だしィッ⁉ だったら、おあいこ⁉ いや、どこがッ⁉」


 平然としているキリサメの前で未稲はパニック状態に陥っていた。

 それも無理からぬ話であろう。異性と手を繋いだこともない彼女にとっては一足飛びで大変な事態が起こったわけだ。しかも、相手は自分に全く興味を示してくれなかったキリサメである。不意打ちにも程があるだろう。

 改めてつまびらかとするまでもなく、未稲にとってもファーストキスであった。


「お、お母さんから何をどう教わったのかは知らないけど! こ、こーゆーコトは軽々しくやっちゃいけないことなんだよッ⁉」

「他ならぬ未稲氏だから……」

「せ、せ、責任取れって言われたら、ど、どどど、どぉ~しゅるのぉ……」


 キリサメは感謝の気持ちを態度で示しただけであろうが、「未稲だからキスをした」というような殺し文句を他意なく口にする辺り、末恐ろしさを感じずにはいられない。

 錯乱混じりで猛抗議していた未稲も最後には羞恥に飲み込まれてしまった。


「……気に障りましたか……?」

「い、イヤじゃないけど! 別にイヤなんかじゃ! ……あああ、でもでも、ここでイヤじゃないって言っちゃったら、私のほうがバッチコイみたいな感じになっちゃう⁉ それはそれで大変にマズいというか、乙女のピンチというかっ!」


 自分から恥ずかしい台詞を口走ってしまった未稲は今度こそ思考回路が焼き切れたかのように俯いてしまった――が、キリサメとの間に漂う甘ったるい空気は数秒と経たない内に引き裂かれることとなる。


「――チャラチャラしてんじゃねーぞ、メス豚がよォッ!」


 多目的アリーナに隣接する大駐車場のほうから穏やかならざる声が聞こえてきたのだ。


「てめーみてェに浮ついたのがいやがるから格闘技が低く見られんだよッ! 金輪際、ナメた真似ができねぇ身体にしてやらァ!」


 言葉遣いは乱暴だが、キリサメの鼓膜を打ったのは確かに女の声である。勿論、未稲の物ではない。

 多目的アリーナの脇を抜け、枠線に沿って整列している自動車の間から声の聞こえてきた方角を窺うと、一人の女性が数人に取り囲まれているではないか。

 野卑な物言いを繰り返しているのはフードを頭から被ったパーカー姿の少女であった。シャツ一枚にオーバーオールという出で立ちの大柄な少年が隣で仁王立ちしている。

 珍妙なのは二人を従えるような恰好で中央に立つ少年だ。小柄であるが、『天叢雲アメノムラクモ』の参加選手でもないのに真っ白なじゅうどうを纏っているではないか。しかも、下穿ズボンの裾が膝下九センチ程度と短く、肌に密着しているようにも見える。上衣うわぎの袖に至っては肘の辺りまでしかなかった。

 ペルーの貧民街にも春夏秋冬を問わず常に半袖半ズボンという人間が暮らしていたが、それは経済的な事情から季節に適した衣服を手に入れられなかっただけで、この少年の場合はそうではないだろう。履き心地の良さげなスニーカーは遠目に見ても小奇麗である。

 つまり、この少年は自ら望んで長野の夜風にすねを晒しているということだ。

 青年海外協力隊から伝授された柔道を稽古するリマの人々は彼のようなどうなど着ていなかったはずだ。くだんの少年が纏う物と比べて袖も裾も長かったと記憶している。

 だからといって幼い頃に仕立てた物を未だに着続けているわけでもなさそうだ。袖と裾の丈はともかくどう自体は身体にフィットしていて少しも窮屈な様子ではない。


(あの短い袖――相手にとっては掴みにくいよな。……いや、もしかすると掴ませない為の工夫なのか……?)


 あるいは〝実戦〟を想定した特別あつらえの品なのだろうかと、キリサメは心の中で分析を進めていく。

 出で立ちこそ三者三様だが、いずれも『E・Gイラプション・ゲーム』なるロゴマークがバックプリントされており、同一のグループに属することを示している。

 そのロゴマークを目にした途端、未稲の表情が曇った。眉間に皺を寄せて「まずい人たちと出くわしちゃったなぁ」と呻き、ジーンズのポケットから携帯電話スマホを取り出した。


「……未稲氏?」

「あの三人ね、『E・Gイラプション・ゲーム』っていう地下格闘技アンダーグラウンドのメンバーなの。『天叢雲アメノムラクモ』を目の敵にしていて、しょっちゅう嫌がらせをしてくるんだよ。……今日も来たかぁ」

「しつこく付きまとわれているんですか?」

「一応、『E・Gあっち』は『天叢雲こっち』と抗争をやってるつもりらしいけど――」


 キリサメは『地下格闘技アンダーグラウンド』という聞き慣れない単語に首を傾げているが、詳しく説明している時間はない。通じることを祈りつつ麦泉の電話番号を呼び出そうとした未稲は画面を操作する最中に絡まれている相手の顔を確認し、驚愕の表情と共に携帯電話スマホ自体を取り落としてしまった。

 『E・Gイラプション・ゲーム』なる集団に難癖を付けられているのはアイドル声優の触れ込みで今回の興行に参戦した『客寄せパンダ』――希更・バロッサその人だったのである。


 希更が多目的アリーナを出たのは第六試合ファイナルが終了した直後のことであった。

 自分の試合を済ませた段階で控室を引き払っても良かったのだが、今回の興行を締めくくるのが目当ての選手であり、それだけはどうしても見届けたかったのである。

 レオニダス・ドス・サントス・タファレル――ブラジル人の総合格闘家であり、現在の『天叢雲アメノムラクモ』に於いて比類なきスターダムであった。

 寝技主体のブラジリアン柔術と、トリッキーな蹴り技で知られるカポエイラを組み合わせた独創性溢れる格闘スタイルは見る者を魅了し、陽気で洒落っ気に富んだ性格から観客を盛り上げることにも長けている。

 スターと呼ばれる為に必要な条件を全て満たしたトップ選手なのだ。

 今夜もコマンドサンボを操るロシア人選手を相手に鮮やかな勝利を収めており、観客席を見渡しながら「アリガト!」と日本語で礼を述べる姿には心がときめいたものである。惚れ直したといっても過言ではない。

 チャンスさえあれば食事に誘いたかったのだが、いかんせん希更自身が押しも押されぬ人気者であり、話しかけるだけの時間すら確保できなかった。

 アイドル声優としての地位は、ときに希更自身へ負担を強いることがある。

 多目的アリーナには大勢のファンが詰めかけており、興行が終わったと見て取れば彼女に一目会おうとのようなことを始めるだろう。押し合いへし合いのような状況も予想され、帰路につく観客たちへ余計な混乱を振り撒き兼ねなかった。

 ファン一同は希更という存在を天使か女神のように崇め奉っているのである。

 今のところ、彼らは大人しく観客席に座っている。希更が最後のセレモニーに現われる瞬間を待ち焦がれ、カメラを構える者も散見された。

 興行の最後の盛り上がりとして希更が主演アニメ――『かいしんイシュタロア』にちなんだ新曲を発表するらしいという匿名情報がインターネット上に流れており、彼らはそれを頑なに信じているのだった。

 無論、希更が美声を披露する予定はない。彼女が所属する事務所と『天叢雲アメノムラクモ』の主催者が結託した情報工作というわけである。閉会後の安全を確保する措置としてセレモニーを欠席する旨は主催側も了承しており、試合終了後の希更は全く自由の身であった。

 だからこそ、彼女だけが一足早く多目的アリーナから〝脱出〟できたのだ。

 マネージャーやセコンドに付いてくれた叔母たちの同行も断り、独りで深夜のドライブに繰り出すつもりだった。幸いというべきか、試合では肉体的なダメージを一度も受けておらず、運転にも全く支障がない。意気込んで臨んだMMAデビュー戦が僅かな攻防だけで終わってしまった為に昂った闘争心を持て余しているくらいなのだ。

 身のうちで燻り続ける火種のような鬱憤を発散させなくては宿所に戻ったところで一睡もできないだろう。

 契約選手でもある友人や知人の勧誘すすめから参戦した『天叢雲アメノムラクモ』だが、今日の試合に限っていえば拍子抜けとしか表しようがなかった。友人との対戦カードを出場条件として提示しなかったことが悔やまれてならない。


「MMAだからって特別にこうやってみようとか小難しく構える必要はないわよ。何でもかんでもややこしい方向に考えるのはパパだけで十分。『ムエ・カッチューア』自体が五体凶器何でもアリなんだし、いつも通り、気楽にりなさい」


 総合格闘技MMAへの挑戦を告げた際に母――ジャーメイン・バロッサから掛けられた言葉が想い出される。結局は気楽どころか、腰砕けのような試合となってしまったわけだ。


そん曰く、敵を知り己を知ればひゃくせんあやうからず――ママはノリと勢いに任せてあんなことを言っているが、打てる対策は全て打っておくべきだ」

「ちょっと! あたしの話、聞いてなかったわけ? 余計な入れ知恵はやめなさいって」

「……ローガンの話では対戦相手のギロチン・ウータンとやらは組み合ってからも厄介らしい。〝首相撲〟に持ち込んだからといって油断はできないようだぞ」


 八代市内で弁護士事務所を開いている父――アルフレッド・バロッサは用意周到な性格も手伝って同団体へ所属する知人ローガンに助言を求めるなど色々と気を回していたようだが、母の言葉通り、何もかも杞憂で終わっている。

 今年で三九歳になるジャーメインは『ムエ・カッチューア』の師範として現在も健在であり、熊本県八代市のジムで多くの弟子たちを育てている。若かりし頃から衰えることを知らない母と模擬戦でもしていたほうが遥かに実りがあったはずだ。

 路面の凍結状況と相談しなくてはならないが、くにかいどうはく村から糸魚川いといがわ市まで抜けて海岸線でも走ってみよう――頭の中で経路を組み立てつつ愛車のドアを開錠しようとしたところで希更は穏やかならざる気配を感じ、直後に三つの人影が飛び出してきた。

 他の自動車の陰に潜んでいた三人が『E・Gイラプション・ゲーム』のメンバーであることはそれぞれの衣服に刷り込まれたロゴマークからも瞭然である。


「本業でもねぇクセにしゃしゃり出てきやがってよ。てめえの罪は重いぜ。格闘技っつー神聖なモンをコケにしてくれやがった。その落とし前はつけてもらうかんなァ」


 自己紹介も何もないまま汚い言葉を浴びせかけてきたのはじゅうどう姿の少年だった。髪は短く切り揃えられており、前髪の辺りだけ茶色く染めてある。

 彼らの主張は至って単純だった。アイドル声優を『客寄せパンダ』に仕立て上げて興収を増やさんとする『天叢雲アメノムラクモ』の狡賢さが気に喰わない。ただこれだけである。

 安易なタレント起用に問題提起を図る点に於いてはバトーギーン・チョルモンの同志と言えなくもないのだが、主催側へ物申すべく統括本部長に挑戦したもと横綱とは異なり、この三人組は気に喰わない存在を力ずくで排除しようとしている。

 組織の体質を改めることで解決すべき問題を一個人にあがなわせようとしているわけだ。

 一時的な感情の昂りを暴力的な手段で満たそうとする発想自体が下劣であり、「自分が嫌いだから取り除く」など動機からして幼稚以外の何物でもなかった。

 一体、彼らに何の権限があって選手個人を制裁するというのか。先ほどから『罪』とか『落とし前』などと脅し文句を垂れ流しているものの、この三人の発言には正当性が存在しないのである。

 そもそも彼らは『天叢雲アメノムラクモ』と敵対する団体のメンバーなのだ。尚更、組織の在り方について口出しされる筋合いはあるまい。

 『E・G』ことイラプション・ゲーム――俗に『地下格闘技アンダーグラウンド』と呼ばれる世界で格闘興行を行っている団体であり、希更も特別な注意事項として彼らの存在を『天叢雲アメノムラクモ』側から説明されていた。

 主に池袋駅周辺を拠点ねじろとしており、潰れた店舗や倉庫、あるいは体育館や酒場の一角などを借りてリングを設置するという。イベントの規模も『天叢雲アメノムラクモ』とは比較にならないほど小さく、分類上は〝アマチュア格闘技〟の団体と定義されている。

 地下格闘技アンダーグラウンドの試合形式を喧嘩大会と皮肉る声は希更も耳にしたことがある。「なんでもアリ」という一点は『天叢雲アメノムラクモ』のようなMMA団体と類似しているかも知れないが、選手の安全を確保する為のルールなど満足に整備されておらず、『E・Gイラプション・ゲーム』ではグローブの着用すら義務化されていないそうだ。

 素手の選手同士が血まみれになりながら打撃の応酬を繰り返す試合も多いという。事実、『E・Gイラプション・ゲーム』は〝ルールによって競技化したMMA〟を忌み嫌い、アマチュア格闘技の団体でありながら「地下格闘技アンダーグラウンドこそが本物リアルの闘い」と主張し続けている。

 純粋なる格闘技愛を自負する『E・Gイラプション・ゲーム』はMMAなどはただの茶番とまで切り捨てており、『天叢雲アメノムラクモ』の在り方も「格闘技に対する冒涜ぼうとく」と見なして壊滅を目論んでいた。

 それが為に一方的かつ執拗に嫌がらせ行為を繰り返しているのである。『天叢雲アメノムラクモ』の運営団体も今までは寛大に応対しており、警察沙汰には至っていないのだが、『E・Gイラプション・ゲーム』の団体代表も所属選手による問題行為を野放しにする有り様だった。

 じゅうどう姿の少年たちはアイドル声優を選手に起用したことがどうしても許せず、わざわざ長野まで制裁に訪れたようである。


「……キミたちはアレよね。『あのタレントが声優初挑戦!』って見出しにブチギレてるようなものなのね。その気持ちは分からないでもないけど、残念ながらお姉さん、これでも格闘技一家の出身なのね。昨日今日の付け焼刃じゃなくて、ごめんなさいね」

「るっせぇんだよ、ガタガタとぉッ! プロとアマを一緒に並べてんじゃねーぞ、クソアマがァッ! 理論武装で誤魔化そうったって、このおれには通じねぇかんなッ!」


 柔道衣姿の少年は何をもってプロとアマを分けるつもりなのだろうか。そもそも彼が身を置く『E・Gイラプション・ゲーム』はアマチュア格闘技の団体のはずである。そのような人間がプロを自称する姿は滑稽を通り越して痛々しさすら感じられるのだ。


「チャラチャラしてんじゃねーぞ、メス豚がよォッ! ブッ殺されてぇのかァ⁉」


 フードを被ったパーカー姿の少女も希更に向かって恫喝めいた言葉を浴びせ始めた。自分たちに歯向かったことがしゃくに障ったようだ。


「――てへへっぴ!」


 自分の頭を小突きつつ、舌まで出して茶目っ気たっぷりに返す希更であったが、この珍妙な姿を見せられて挑発と受け取らない人間のほうが少ないだろう。

 案の定、神経を逆撫でされた少女は狂わんばかりに地団駄を踏み、血走った眼で金切り声を張り上げたのだった。


「てめーみてェに浮ついたのがいやがるから格闘技が低く見られんだよッ! 金輪際、ナメた真似ができねぇ身体にしてやらァ!」


 彼女が路面を蹴り付ける度に金属を擦り合わせるような音が周辺の自動車に撥ね返る。

 随分と硬そうな革靴を履いているようだ。前面には細いワイヤーで一繋ぎに連結された鉄製のリングが見て取れる。一〇個以上を繋ぎ合わせてあるだろうか。どうやらこの装飾が耳障りな音を立てているようだった。

 口数の少ない大柄な少年も含めて希更は三人からめ付けられている。『E・Gイラプション・ゲーム』の試合ではレフェリーの判定を不服とした観客が乱闘騒ぎを起こすことも多いそうだが、彼らはいずれも選手の側に違いない。少年の纏うじゅうどうが何よりの証拠である。

 心から格闘技を愛する腕自慢が集い、観客へ媚びることもなく闘いに酔いしれる至福の舞台――それが『E・Gイラプション・ゲーム』なのだという。

 所属選手の顔ぶれもバラエティに富んでおり、未成年の高校生がいれば、サラリーマンもフリーターもいる。中には『E・Gイラプション・ゲーム』に全てを捧げる為、公務員という安定した生活くらしを投げ棄てた人間もいるそうだ。

 ありとあらゆる業界の人々が集結して平等に喧嘩へ興じるのだから、ある意味に於いては最も〝実戦〟に近い場と言えなくもなかった。

 血みどろのリングを主戦場とする荒くれ者に囲まれたわけだが、希更は少しも狼狽うろたえずに平然と立ち続けている。それどころか、彼らを挑発する余裕まで見せつけたのだ。


「キミたち、『かいしんイシュタロア』ってアニメ、観たことある? 今期で第三シーズンまで放送されて、来年には劇場版第二弾も公開されるんだけどさ」

「知らねーよ! なんだよ、藪から棒に!」

「主人公のつむぎちゃんっていう女神の化身みたいな娘が恐ろしく強くてね、『ダイダロス』って名前の神槍やりを地面に突き刺すだけで山が一つ吹き飛ぶんだよ」


 自身の代表作を例に引きつつ希更は陸上競技の槍投げのような動作を実演してみせた。


「だから、てめぇはさっきから何をくっちゃべってんだ⁉ ダイダロスぅ⁉ 知るか!」

「お姉さんの膝蹴りもダイダロス級だって言いたいんだけど伝わらないかぁ~」

「面白ぇ! 地殻変動だろうが何だろうが、やってもらおうじゃねーかよ。てめぇみたいなメッキの偽物にできるんならなッ!」

「脅かすくらいじゃ引いてくれないかぁ。……てゆーか、一般にもそこそこ知られてると思ったんだけどなぁ、『イシュタロア』。完全無視ってのは寂しいねぇ……」


 〝プロ〟と称する少年たちに現実の厳しさを教えてやることは難しくない。三人を適当にあしらいながら携帯電話スマホでマネージャーを呼び出すことも考えたのだが、希更には路上の喧嘩よりも後始末のほうが悩ましかった。

 に自分が居合わせたことが知れ渡れば偽の情報まで流してファンを攪乱かくらんしたことが露見してしまう。自分の支えとなるべき人々を疎ましがったのではないかと疑われるようになるだろう。

 この厄介な事態をどうやって切り抜けるか――ゼブラ柄のミサンガを巻いた右手首を回転させながら思案する希更であったが、ここで再び状況が一転する。

 『E・Gイラプション・ゲーム』の矛先が別の対象に向いたのだ。


「見世モンじゃねぇぞ、コラァッ!」


 第三者の視線に気付いたじゅうどう姿の少年が威嚇するように大音声を張り上げた。怒れる双眸が捉えたのは多目的アリーナの裏手から現れ、息を殺して様子を窺っていたキリサメと未稲の二人である。


「――てゆーか、こいつ、八雲岳の娘じゃね?」


 咄嗟に我が身を盾にして未稲を庇うキリサメであったが、そのときには既に遅く、パーカー姿の少女に未稲の正体を勘付かれてしまった。


「我ながら大発見だぜ。左右田さうだも見憶えあんだろ?」

「ああ」

「作戦変更だ。八雲岳のコイツをさらっちまおうぜ。こんなおばさんより実の娘をいたぶってやったほうがあのおっさんもダメージでけぇだろーしよ」

「待てよ、上下屋敷かみしもやしき。喧嘩のいろはも知らねェヤツ相手にしたって何の意味もねぇぜ」

「ヌルいんだよ、お前は! 手段もクソもねぇ潰し合いこそ抗争ってモンだろが!」


 『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長の娘を見つけるや否や、上下屋敷と呼ばれた少女はこの上なく物騒な考えを口にした。無論、そのような暴挙を許すキリサメではなく未稲を死守せんと両手を広げて三人組の前に立ちはだかった。

 『E・Gイラプション・ゲーム』の一味が何を考えて誘拐をほのめかしたのかは判然としないが、恐怖に震える未稲だけは何としても守らなくてはならなかった。


「ケッ――師匠の娘には指一本触れさせねェってか。上等だぜ。せめてそれくらいは気合い入れといてもらわねぇとな!」


 暫くキリサメの様子を眺めていたじゅうどう姿の少年は、やがて獲物を前にする野獣のような表情に変わっていった。


「てめーにも用事があるんだぜ、ドン・キホーテ野郎。捜す手間が省けて一石二鳥だ」


 自分が標的にされる理由ならばいざ知らず、キリサメが『E・Gイラプション・ゲーム』から狙われる意味が分からない未稲は困惑したように眉をひそめている。それ以前に彼らが『天叢雲アメノムラクモ』とも関係のない同居人を把握している事実が薄気味悪くて仕方なかった。

 これに対し、「ドン・キホーテ野郎」と呼び付けられたキリサメ本人は自分に向けられた明確な敵意を感じ取っている。


「てめーにはよォ、クギ刺しとかなきゃいけねぇと思ってたのよォ。八雲岳に弟子入りした手前てめェを呪うんだな」

「弟子? 僕が? ……それは誤解です」

「こっちゃお見通しなんだよ。大体、一ヶ月くれェか? この間から『八雲道場』に住み込みじゃねーか。電信柱や屋根の上で何してんだ? あァ? 修行の一環なんだろ~が」


 さしものキリサメもこれには面食らってしまった。「忍者はたけェ所に登るモンだろ。そのテの修行にしか見えねェんだよ!」という勝手な推察を押し付けられた挙げ句、一方的に岳の弟子と見なされているのだ。

 師弟関係など事実無根の言い掛かりに他ならない。岳の言行に振り回され続けているキリサメには手本と思える部分が何一つ見出せず、弟子呼ばわりは甚だ心外であった。

 その一方、じゅうどう姿の少年が舌打ち混じりに紡いだ言葉を受けて、ここ数日間の違和感が解消されていった。日本に移り住んで間もなく奇妙な視線や気配を感じていたのだ。

 岳と二人で返り討ちにしたリマの日系人ギャング団が報復の為に海を渡ってきたのではないかと警戒していたのだが、どうやら『E・Gイラプション・ゲーム』の手先から見張られていたらしい。

 微弱ながら敵意を感じたのも当然といえよう。目の前の少年たちは『天叢雲アメノムラクモ』と抗争を繰り広げているというのだ。

 用心の為、外出の際には麻袋に包んだ『聖剣エクセルシス』を携行するようにしていたが、大勢の人間が集まる興行イベントということもあって今日だけは自室の床で留守番をさせているのだ。血塗られた得物を持ち込んで不必要な災難トラブルを起こすまいとする配慮が裏目に出た形である。

「確かキリサメつったよな。シャレた名字してやがるぜ。それとも、下の名前か?」


名字ファミリーネームはアマカザリだけど……」


 『E・Gイラプション・ゲームには日本へ移住してからの生活くらしを見張っていただけではなく、中途半端ながらも名前まで調べ上げていたようだ。「まるでストーカーじゃん」と未稲が身震いしたのは言うまでもない。

 普段は無感情なキリサメでさえ眉根を寄せていた。

 依然として三人組の正体は掴み兼ねているが、標的を十分に見定めてから襲い掛かる手口などリマの貧民街に巣食っている少年強盗団と大して変わらないではないか。

 そのキリサメと正面切って向かい合う格好となった少年も何やらいぶかるような表情を浮かべていた。如何にも負けん気の強そうな目を丸くしているのだ。


「……『あまかざり』? ……おい、待て。まさか、てめーん、日本橋で『とび』なんかやってねぇだろうな?」

「……『とび』……?」


 突然に投げ掛けられた質問の意図が読み取れないキリサメは思わず小首を傾げた。

 上下屋敷には「トボけてねぇでちゃっちゃと進めろ! つーか、何の話をしてんだ、お前らは⁉」と怒声を浴びせられたが、勿体付けているのではなくキリサメには本当に答えようがなかった。

 目の前の少年は母親の実家が営んでいる生業を確かめたいのだろうが、遠い昔に教えられたことなど憶えていられないのだ。曖昧な記憶を強引に穿ほじくり返してみても〝大工のような仕事〟という曖昧な情報しか拾い上げることができなかった。

 しかし、『とび』という名称でなかったことだけは確信している。日本社会のことは今でも殆ど分かっていないが、亡き母は祖父の生業を『おやかた』と呼んでいたはずだ。

 少年が口にした『とび』とは一字たりとも合致していない。そのように断定したからこそ否定の念を込めて首を横に振ったのである。


「親戚でも何でもねぇならそれで良い。……どうにか不義理を働かずに済むぜ。後はおれなりのスジを通すだけよォ!」


 『アマカザリ』という名字ファミリーネームに聞き覚えがあったらしい少年はキリサメには意味の分からないことを呟くと、胸中に湧いた迷いを吹っ切るかようにどう黒帯おびを締め直した。

 改めてキリサメに向き直った少年は「ドン・キホーテ野郎」などと罵った相手に見せ付けるようじゅうどうの襟を摘まみ上げた。返り血のこんせきおぼしき染みがあちこちに飛び散ったどうもって何かを主張したいようだ。


がどういう意味か、おっさんの弟子には分かるだろがッ!」


 憤怒の瞳で睨み付けてくる少年に対し、岳と師弟関係を結んだ憶えはないと先ほど既に答えているキリサメは、まぶたが半ばまで閉じた双眸に呆れの色を湛えつつ黙殺を貫いた。


「てめぇの師匠は越えちゃならねぇ一線を越えやがったっつーことだ! うちの大将の顔に泥塗るわけにもいかねぇし、これまでは大目に見てやってきたが、今度ばかりは勘弁ならねぇ。……『コンデ・コマ・パスコア』だぁ? 前田光世まえだみつよ大先生のお名前を軽々しく付けやがってッ! 偉大な柔道家を侮辱した落とし前、キチッとつけさせて貰うぜッ!」

「マエダ・ミツヨ?」

「質問多いな、てめー! 『コンデ・コマ』というのは前田光世大先生のもう一つのお名前なんだ! ンなことも知らねーのか⁉ 柔道界の――いや、格闘技界の伝説であるコンデ・コマを金儲けのイベントなんかに使うな! 恐れ多いにも程があらァッ!」

「それを僕に言ってどうするんですか。意味ないでしょう」

「てめーに言ったって何が変わるモンでもねぇさ。ンなこた、おれだって分かってらぁ。だから、てめーを使八雲岳に分からせてやるんじゃねーか。……格闘技をナメたら野郎がどういう目に遭うかっつーコトをなァッ!」


 いちいちやかましいこの少年は日米MMA団体が共催する合同大会『コンデ・コマ・パスコア』を金儲けのイベントと真っ向から否定していた。

 大会名すら気に喰わないらしいが、これも所詮は言い掛かりである。

 この少年はコンデ・コマ――前田光世を語る上で〝柔道家〟という点を特に強調していた。そういう彼が纏うのは変形とはいえじゅうどうだ。自らが志した武道の先人がMMA団体によって貶められたと思い込み、独りで勝手に怒っているようなものであろう。

 手に負えないとはこのことである。所属団体の方針に沿って行動しているのか、個人的な感情から暴走しているのか、それさえも分からなかった。

 無論、『E・Gイラプション・ゲーム』という団体が抗争の相手に危害を加えようとしていることは間違いない。パーカー姿の少女は他の二人の了承も得ないまま誘拐の対象へと歩を進めていく。

 『天叢雲アメノムラクモ』に対する憤懣を込めてアスファルトを蹴っている所為せいか、靴の前面に取り付けられた装飾リングが今まで以上に大きくいなないた。


「おい、待てよ! おれの話、まだ終わってねぇんだよ!」


 少年の声が背中を追い掛けてきても上下屋敷は決して振り返らなかった。抗う力を持たないような弱い人間から先に始末するということは、『E・Gイラプション・ゲーム』が掲げる〝本物の闘い〟の理念にも当てはまるのだ。

 両手を広げて未稲を守るキリサメを「騎士ナイト様気取りか? イキがってんじゃねーよ」とせせら笑った上下屋敷は路面に唾を吐き捨てつつ、右足を振り上げようとした。

 正確には「振り上げるつもりであった」というべきか――今まさに蹴りを繰り出そうという瞬間、キリサメの左足で踏み付けにされ、身動きを封じられてしまったのだ。

 誰より威勢の良かった上下屋敷も狼狽を隠せなかった。動体視力も人より鍛えている自信があったのだが、キリサメの身のこなしは全く捉えられなかったのである。


「……何をするつもりですか」

 上下屋敷を見据えたキリサメの声はどこまでも冷たい。

「あ……あぁん⁉ て、てめぇ、人の足を踏ん付けといて何を――」

「未稲氏に何をするつもりだったんですか。その鎖みたいなやつ、カッターでしょう?」


 質す声色と同じように双眸にも冷たい光を宿していた。「返答次第ではここから生きては帰さない」と、眼差し一つで物語っていた。

 全てを呑み込み、咬み砕くような〝闇〟がそこうごめいている。

 今や『E・Gイラプション・ゲーム』の標的から外れた希更は逃げ去る機会を窺いつつ両者の会話へ耳を傾けていたが、キリサメが一つの分析を語った途端に肩を竦めて口笛を吹いた。

 パーカー姿の少女は硬そうな革靴を履いているのだが、そこに付けられたリングは装飾などではなかった。カッターというキリサメの見立て通りだとすれば、暗器――隠し武器の一種ということになる。

 闇夜の中である為、目を凝らして見極めることは難しいが、おそらくリングのフチに傾斜をつけ、鋭く研ぎ澄ませてあるのだろう。足を振り回すことで掠め切る武器であり、ただのキックと思って防御ガードすれば肉を抉られるということだ。

 先ほど上下屋敷は「ナメた真似ができない身体にしてやる」と吼えていたが、もしかすると顔面に一生消せない傷痕でも付けようとしていたのかも知れない。

 何の変哲もない装飾であり、よほど注意深い人間でもなければ見落とすに違いない。事実、希更は変形のカッターであることに全く気付かなかったのである。

 それほど巧妙に仕込まれた暗器をキリサメは一瞬で見破ったということだ。


「……このコ――」


 『E・Gイラプション・ゲーム』の三人組から八雲岳の弟子などと呼び付けられたこの少年が只者でないことは明白である。


「――なんかイケてない? ……あれ? 新しい可能性に覚醒しちゃってない、私⁉」


 希更の乙女心はキリサメの瞳にすっかり吸い込まれていた。


「クソがッ! やっぱり忍者の弟子なんじゃねーか! 何の手品だよ、今の!」


 希更とは別の意味でキリサメの瞳に――その奥の〝闇〟に呑まれそうになっていた上下屋敷は踏み付けにされていた右足を強引に引き抜くと、己を奮い立たせるべく喚き声と唾を路面へ吐き捨てた。

 何の意味もない虚勢である。どれほど気を張っても身震いが抑えられなかった。心を貫いた恐怖は今や全身に及んでいる。

 己の弱気を許せず、虚勢を張り続けたことが命取りになったのは間違いない。


「さっき『何をするつもりですか』って訊いたなァッ⁉ そんなん決まってんだろ、こいつを生贄にしてやるんだよ、『天叢雲アメノムラクモ』をブッ潰す為のなッ!」

「……いけにえ?」

チチケツも大したことねぇがな! 妖怪ぬりかべのほうがまだ凹凸あるぜ!」

「ちょ、ちょっとチチあるからって良い気になって! 初対面の――それも暴行の現行犯にそこまで言われる筋合いないよっ!」

「……だが、そーゆーもあるにはあるからよぉ、景気よく慰み者にしてやって――」


 『生贄』が何を意味しているのか、全てを明かし終わらない内に上下屋敷の身体は宙を舞っていた。弓弦ゆづるより発せられた矢の如く一直線に吹き飛び、駐車されていたトラックのコンテナに叩き付けられたのである。

 アスファルトの路面に落下した上下屋敷はそれきり動けなくなった。苦悶の声を洩らし続けているので即死には至っていないようだが、鉄製のコンテナに猛烈な勢いで激突したこともあり、暫くは身を起こすことさえままならないだろう。

 上下屋敷を弾き飛ばしたのはキリサメの右拳である。目にも止まらぬ速度で横一文字に閃き、フードの上からこめかみを抉ったのだ。

 目の前で何が起きたのか、暫くは誰も理解できなかった。視覚で得た情報を脳が認識するまで一〇秒以上を要したのだ。身も心も凍り付くほど凄まじい戦慄が拳の閃きと共に駆け抜けたとも言い換えられよう。

 ようやく状況を飲み込んだ左右田が「ああーッ⁉」と大柄に似合わぬ悲鳴を上げ、これによって皆の硬直も解けたのだが、同時に混乱と動揺が一気に噴き出し、希更に至っては腰の抜かしてへたり込んでしまった。

 『E・Gイラプション・ゲーム』の三人から取り囲まれたときにも怯まなかった『ムエ・カッチューア』の使い手が――だ。


「――覚醒めざめたッ!」


 尤も、キリサメに恐れおののいて腰を抜かしたわけではなさそうである。


「やりやがったな、この野郎ォッ! 女に手ェ上げるなんざ男の風上にも置けねぇッ!」


 じゅうどう姿の少年が張り上げた吼え声は怒りに震えている。

 彼が言う通り、キリサメは上下屋敷を殴る間際に一瞬たりとも躊躇ためらわなかった。女性を女性とも思わず、目障りな障害物か何かのように無感情に弾き飛ばしたのだ。

 そのことを「男の風上にも置けない」と痛罵されたわけだが、キリサメに言わせれば生きるか死ぬかの〝実戦〟に於いて性別など何の関係もないのである。

 〝本物の闘い〟に横たわる掟は弱肉強食という現実のみ。『E・Gイラプション・ゲーム』が掲げるものと同じ理念に則って上下屋敷を退けたに過ぎないのである。

 女性を殴り飛ばしたことを謗られてもキリサメの心に罪悪感の湧く余地はない。男が女を殺すのでも女が男を殺すのでもない。人間が人間を殺す――ただそれだけだった。


「もともと女性を襲っていたのはそっちのほうだ。どの口で言っている」

「るせぇッ! おれたちゃ良いんだよ! 刑を執行する側なんだからな! 歯向かってきやがるてめーのほうがイカれてんだッ!」


 逆上してキリサメに掴み掛かっていくじゅうどう姿の少年だったが、懐に潜り込むか否かという瞬間に突如として後方に飛び退すさった。

 果たして、その判断は正解であった。数秒前まで両手を広げて未稲を庇っていたキリサメがいつの間にか左拳を突き上げているではないか。しかも、握り拳からは人差し指と中指が鉤爪のように伸ばされている。

 彼の左腕が微かに動いた瞬間、危険をしらせる勘が働いて反射的に飛び退いたのだが、不用意に間合いを詰めていれば投げを打つ前に目玉を抉られていただろう。


「てめぇ……!」


 額から噴き出した汗をどうの袖で拭った少年は、深呼吸と共にキリサメを睨み据えた。

 『八雲道場』に入門したばかりの新米ペーペーと彼の実力を低く見積もっていたのだが、それが大いなる誤りだったと少年は認識を改めていた。『八雲道場』の門を叩く以前まえから相当な場数を踏んできたのだろう。純粋な格闘技とは異なる〝場〟に身を置いていたことも今や確信している。

 迎撃手段として躊躇ためらいなく目突きを選ぶなど尋常ではない。優男風ではあるものの、相当に〝実戦〟慣れしているのだ。


(……私、夢か幻像まぼろしでもてるのかな……)


 彼の姿に誰よりも驚いているのは一つ屋根の下で暮らしてきた未稲である。

 雪の日の出来事から頭抜けて高い身体能力は把握していたものの、格闘術の心得があることまでは聞かされていなかった。父と共に稽古トレーニングするような姿すら見た憶えがない。

 それどころか、格闘技自体に興味すら持っていないと未稲の目には見えたくらいだ。

 しかし、眼前で繰り広げられた光景はどうか。上下屋敷を吹き飛ばした一撃も、目突きを試みた身のこなしも、いずれも一切の無駄がない。本当に闘い慣れた人間にしか発揮できない動作うごきであった。

 ペルーという戦場からの帰還兵というネットゲー仲間の言葉が想い出される。今は手元にない『聖剣エクセルシス』を貧民街にて振り回し、迫りくる危難を禍々しい刀身で薙ぎ払ってきたのかも知れない。以前に父は「アレがキリーの牙なんだ」と笑いながら語ったが、気取った言い回しを選んだのではなく、事実をそのまま述べていたようだ。


「大丈夫。未稲氏には指一本、触れさせませんから」

「……キリサメさん……」


 取っ組み合いに巻き込むまいと気遣う言葉は優しいが、声色は普段のような無感情ではない。冷酷な気配を帯びているように感じられた。

 それでも未稲は視線の先にある背中を〝相容れない存在〟と見なして恐怖することはなかった。彼は自分を守る為に闘っているのだ。上下屋敷に手を上げてしまったのも恐るべき魔の手から〝家族〟を守らんが為であった。

 MMAから掛け離れた殺傷の技が振るわれているといって目を逸らすことなど断じて許されない。そして、そこに恐れを抱く理由もない。如何なる結末が待ち構えていようとも未稲は全てを見届ける覚悟である。

 だからこそ、「負けないで」と声を掛けて後ろに下がったのだ。あたかもセコンドのようにキリサメを送り出したのである。

 再びじゅうどう姿の少年と対峙したキリサメは両腕をだらりと垂らしている。相手が柔道家らしい構えを取っても、その体勢から変化することはなかった。


「おれの名前はでん! 冥土の土産に憶えておきなッ!」

「憶える意味がない」


 名乗り終えるや否や、じゅうどう姿の少年は――電知は履いていたスニーカーを無造作に脱ぎ捨てた。これをもって真剣勝負と宣言したわけだ。

 転がったスニーカーには『ハルトマン・プロダクツ』という社名がプリントされていた。『天叢雲アメノムラクモ』のスポンサーでもあるスポーツ用品メーカーの靴を同団体と敵対する少年が履いているのは皮肉というべきか、矛盾というべきであろうか。


「――ブッ殺したらァッ!」


 凍て付いたアスファルトの上を裸足で馳せる電知は、物騒極まりない吼え声を引き摺りつつ先程よりも数段鋭くキリサメの懐に飛び込んでいく。

 柔道家らしく組み付き、投げに持ち込むと誰の目にも見えたことだろう。キリサメが迎撃に移るよりも早く間合いを詰めた電知は、シャツの襟を狙うと見せ掛けておいて、急激に姿勢を低くし、鳩尾目掛けて右肘を滑り込ませた。

 柔道衣を纏った身でありながら、投げではなく肘打ちを放ったのである。


「反則でしょ、それ! 柔道じゃないわっ!」


 柔道のルールから逸脱していると注意を飛ばす希更だったが、これほど間の抜けたことはなかろう。眼前で繰り広げられているのは路上戦ストリートファイトであって競技などではない。状況と全く合致しないことを口走ってしまったわけだ。

 「反則」という罵声には電知の動きを止めるだけの効力はない。むしろ、路上戦ストリートファイトの場で柔道のルールを持ち出した希更の浅慮ことを鼻で嘲笑わらったくらいだ。スポーツ化されたMMAしか知らない人間に〝本物の闘い〟を見せつけてやるつもりである。


「これぞ『コンデ・コマ式』よぉッ!」


 つまらない横槍を入れた希更へやり返すかのように電知が吼えた。

 現代柔道に於いては試合などでの使用を禁じられているものの、古い時代に存在した源流――〝柔術〟には『当身あてみ』と呼ばれる打撃技が体系の中に組み込まれていたのである。

 世界中を巡って異種格闘戦を繰り広げたというコンデ・コマこと前田光世。その伝説的な戦歴を様々な記録から調べ上げた電知はコンデ・コマが当身という古流の技を取り入れた事実に行き着いたのだ。

 間もなく電知は尊敬する先人に着想を得て、柔道の技と柔術の当身を組み合わせるようになった。『なんでもアリ』を標榜する『E・Gイラプション・ゲーム』にも合致した様式スタイルである。コンデ・コマは当身によって相手の動きを制し、投げや関節技に変化したという。

 くだんの記録に倣った電知は肘鉄砲でキリサメの動作うごきに楔を打ち込み、続けざまに両手で左腕を掴むと、竜巻を起こすような勢いで鋭い投げを試みた。

 一本背負いである。さすがに柔道家らしい切れ味を発揮し、キリサメの身をアスファルトの路面に叩き付けたのだった。

 すぐさま転がっているキリサメの背後に回り込み、首を絞めようとしたが、その動きよりも反撃のほうが僅かに速かった。彼は振り向きもせずに右手でもって電知の頭部を掴んだのである。

 しかも、ただ捕獲しただけではない。掴んだ直後には親指で右目を抉ろうとしたのだ。

 またしても目潰しを仕掛けられたと察知した電知は、背中に蹴りを入れてキリサメを引き剥がし、危ういところで失明を免れた。

 依然として電知が背後を取っている状況に変わりはない。身を起こそうとしていたキリサメ目掛けて両足を繰り出した。彼の足を挟み込み、引き倒そうと図ったのだ。

 かにのハサミを彷彿とさせる足技を見て取ったキリサメは後方に大きく飛び退き、希更の愛車のボンネットへと着地した。


「……岳氏より速いな。さっき同じ技を見てなかったら捕まったかも知れない」

「あァん⁉ あのおっさん、おれの技をパクッたんか⁉ 胸糞悪ィたらありゃしねぇ!」


 ボンネットを踏まれて悲鳴を上げた希更はさておき――身を転がして立ち上がった電知は呼吸を整えながらキリサメを見据えた。


「ぽんぽん目ェ狙いやがって! 目玉焼きの黄身じゃねーんだぞ、おれの目はッ!」


 電知が喚くのも無理からぬ話であろう。最初の交錯以来、キリサメは容赦なく目突きを狙うのである。本当に目玉を抉ってしまったなら相手に一生ものの後遺症を負わせるかも知れないのだが、鉤爪の如き指先には少しの躊躇ちゅうちょもない。

 それこそ蚊を潰すくらいの気安さで目玉を突き破ろうとしていた。

 喧嘩慣れしているとは電知も思っていたが、どうやらこの少年は想像を絶する修羅場を幾度も潜り抜けてきたようである。


「――急所狙いが大好きってのは『神通あいつ』とそっくりかもしれねぇがよ……」


 同じ『E・Gイラプション・ゲーム』に所属する選手の一人とキリサメとの共通点を振り返りつつ、電知は再び攻め入るタイミングを計っている。


「……コマっていうのは玩具のコマのことなのか? 回転するコマみたいな速さになぞらえて『コンデ・コマ式の柔道』と名乗って――」

「てめー、人の話聞いてなかっただろ! 前田光世大先生のもう一つの名前だって説明してやったじゃねーか⁉ ちなみに『コマ伯爵』って意味な!」

「別にそこまで詳しく教えてくれなくても良い。一つも興味ないし」

「おまッ――どこまでナメ腐っていやがる! 八雲のおっさんもこのレベルのバカを弟子に取ってどーすんだァ⁉」


 素朴な疑問を口にしただけのキリサメに対し、電知は激しく地団駄を踏みながら『コンデ・コマ』という名前の由来を説いていく。軽はずみとしか表しようのない発言が逆鱗に触れてしまったようで、闘いのなかにも関わらず髪を掻きむしる有り様だった。


「キリサメさんってば改造人間みたい……」


 その『コンデ・コマ式の柔道』との最初の攻防に対する未稲の呟きには、この場に居合わせた誰もが頷くだろう。

 スポーツではなく武道としての柔道を操る電知は相手を絶対に仕留めるつもりで投げ落としている。それにも関わらず、キリサメには殆ど通じていない様子なのだ。アスファルトの路面へ勢いよく叩き付けたというのに平然と立ち上がったのである。

 上下屋敷の仇討ちも兼ねているので、当然ながら本気で投げを打っている。その上、キリサメは落下の際に受け身すら取っていなかった。凄まじい衝撃が全身を揺さぶり、常人であれば骨まで軋んだはずだが、身のこなしも鈍ったようには見えないのだ。


「じゃあ、おれは何だ? 戦闘員かよ! ナメんじゃねぇッ!」


 舌打ちと共に間合いを詰めようとする電知だったが、その直後にキリサメのほうから大きく動いた。

 それはまるで猛禽類の如き威容すがたであった。窪みができるくらい強くボンネットを蹴って宙に舞い上がり、希更の悲鳴を切り裂くような形で電知に飛び掛かっていったのである。

 このとき、キリサメは右足を高々と持ち上げていた。急降下の勢いを乗せて踏み付けるつもりなのだ。

 露骨といえば露骨な攻め方であり、防御ガードを固めていれば確実に凌ぎ切れることだろう。だが、守りを優先させるなど電知のプライドが許さない。迎撃の一点に意識を集中させてキリサメの飛来を待ち構えた。

 かなり高い位置で彼を捕獲し、そこから勢いよく投げ落とせば、いくら頑丈であっても深手は免れまい。

 ともすれば電知の狙いも見え透いたものといえよう。すぐさま意図を見破ったキリサメは空中で身を捻り、右腕を伸ばして頭頂を掴むと、これを軸に据えて軽やかに跳ね、そのまま背後へと着地した。


「牛若丸か、てめーはッ!」


 曲芸めいた身のこなしで背後を取られてしまった電知は振り向きざまに右のローキックを放った。狙いは左膝である。足を止めてから投げに持ち込むつもりだ。

 しかし、それは意味のない行為であった。ダメージを感じさせない無感情な顔で左腕を伸ばしたキリサメは、電知の髪の毛を掴みや否や、対の右拳を彼の鼻に叩き込んだ。

 何度も何度も同じ部位を殴り続けた。数秒と経たない内に鼻の形が歪み、大量の鼻血がじゅうどうを赤黒く染めていく。


「てめ……この……ッ!」


 電知も防御ガードしようとはするのだが、キリサメの動きが余りにも速くて間に合わない。伸びた腕を掴み返すことさえままならないのだ。

 キリサメはあくまでも無感情である。死に絶えた表情で暴力性を解き放っているようなものであり、見る者には異様な面相としか映らなかった。


「あ、ああ……」


 左右田の口から言葉にならない悲鳴がこぼれたが、そのようなものは手加減の理由にはならない。キリサメは電知が意識を失うまで殴り続けるつもりである。

 電知の髪が短く切り揃えてあったことがキリサメの唯一の誤算であろうか。いつまでも掴み続けることが難しく、一等力を込めて殴り付けた拍子に左の五指からすっぽ抜けてしまった。


「突撃はドン・キホーテだけの専売特許じゃねーんだよッ!」


 鼻を折られ、おびただしい量の鼻血を迸らせる電知だったが、それで引き下がるようなことはない。追いかけてきた左拳を避けつつ半歩踏み込み、腹部へと反撃を叩き込んだ。このパンチもまた当身の一つである。


「改造人間とはよく言ったもんだぜ!」


 キリサメの腹筋は鋼鉄のように硬く、電知の右拳のほうが弾かれそうになった。

 『E・Gイラプション・ゲーム』も『天叢雲アメノムラクモ』と同じように無差別一本勝負を採っており、電知自身、自分より頭二つ分は大きい巨漢と対戦したことがある。筋肉の鎧を纏った相手とも数え切れないくらい闘ってきた。それでも自分の拳のほうが軋むような経験はなかったのだ。


「これくらい歯応えなくちゃ『コンデ・コマ式』の相手にゃ役者不足だからよォ!」


 当身を突き込んだ状態から左腕を伸ばした電知は更に互いの右足を絡めてキリサメを転ばそうと図った。当身に用いた右手はシャツの襟を掴んでいる。

 この動作うごきもキリサメは瞬時にして読み切った。引っ掛けられる前に右足を浮かせたのである。その下を電知の右足が通り抜けていく。電知の左腕はジーンズのベルトをシャツの上から掴もうとしたが、それすら腰を捻って避けていた。

 投げ技から逃れんとした瞬間とき、キリサメの姿勢が俄かに崩れた。そして、ここまでが電知の狙いである。腰に回そうとしていた左手を一気に引き戻し、浮いたままであった彼の右足の踵を掴むと、重心を前方に傾けた。

 キリサメの身を背中から――というよりも後頭部から落とそうというわけである。


(……次から次へとビックリ箱のように色々飛び出してくるな……)


 その直後、キリサメの左足が跳ね上がった。電知の腹に足裏を押し当てるや否や、膝の屈伸のみで蹴り剥がしたのだ。

 思い掛けない反撃に遭い、空中から尻餅を付くような恰好で落下した電知は上体を引き起こす寸前に手痛い追撃を喰らった。左目を蹴り付けられたのである。

 頭を横に振って狙いを外した為に失明には至らなかったが、眉の辺りから鮮血が迸り、これが左目に流れ込んでいった。これによって視界の半分が塞がれてしまった。

 さらなる追い撃ちに備えて後方へ転がり、即座に身体を起こした電知は血を拭うことも忘れて「てめー、おれをナメてんのか⁉」と憎々しげに叫んだ。


「絶対に手ェ抜いてやがるよなッ⁉ そういう態度が格闘技を侮辱してるってんだッ!」


 これまでの戦い方を見る限り、キリサメが本気で顔面粉砕を図っているとしか思えないのだが、電知にはまだ手の内を隠しているように感じられたらしい。あるいは拳を交えた者だけに通じる直感が駆け抜けたのかも知れない。

 未稲にも電知の言い分が理解できた。空中で相手を蹴り剥がすという反撃も驚異的ではあるものの、車道へ飛び込み、轢かれそうになった瞬間に見せた動きはこの比ではない。瞬間移動の如き速度を発揮すれば、そもそも相手に掴ませることもなかっただろう。


「格闘技を志そうってモンが勝負の場で出し惜しみすんなッ! 八雲岳に教わらなかったのかよ⁉ 対戦相手を侮辱しちゃならねぇってよォッ!」

「そ、そうだよ、あのときの――駅前で私の傘を拾ってくれたときの〝アレ〟を使ったらもっとり易いんじゃないかな。突っ込んでくる車もかわせるくらいの――」


 電知と同じ疑問を抱いていればこそ未稲も口を滑らせてしまったのだろう。果たしてその一言は手の内を見せようとしないキリサメへの憤怒に油を注ぐようなものであった。


「やっぱり全力じゃなかったんじゃねーか、てめぇ! バカにしやがってッ!」


 案の定、歯ぎしりするほどいきり立って突っ込んできた電知に対し、迎え撃つ側のキリサメは何も答えずに無反応を貫いていた。

 だが、口元はいつもと比べて明らかに引き攣っている。先程の発言を忌々しく思っているのは明白であり、失言の張本人は申し訳なさそうに合掌するばかりだった。

 尤も、キリサメに未稲の様子を確かめている余裕はない。電知が不用意に伸ばしてきた右腕を反対に掴み、これを捻り上げようと試みたのだ。

 当然、電知は身を捩ってキリサメの手を振り払ったが、この動作うごきこそが本当の狙いである。関節破壊の危機を脱する代償として姿勢が僅かに崩れたのだ。これを見て取ったキリサメは電知の右側面へと一気に回り込んでいった。

 続けて右膝裏を踏み付けられ、同じ側の肩まで押さえ込まれた電知はその場に片膝を突いてしまった。風を切る音が鼓膜を打ったのはその直後のことである。

 キリサメが左肘を垂直に振り落としたのだ。

 人体急所のこめかみを狙っていたが、電知は前方に首を振って直撃を免れた。肘が後頭部を掠める直前にはキリサメの右足首を掴み返している。


「取っ組み合いでおくれを取るわけにはいかねぇんだッ!」


 確実に命中させられるはずの状況で肘打ちをかわされたキリサメが体勢をかしがせた瞬間、電知は自分自身の上体を撥ね起こし、同時に相手の胸部を肩へ乗せるような恰好で変則的な投げ技を試みた。

 右足を踏み付けられた状態から攻防一体の投げを仕掛けた形だが、拘束それごと引っこ抜いてしまえば自由も取り戻せるのだった。


「……も返せるのか……」

「ザマァねぇな! とっとと切り札出してりゃこんなコトにもならなかったんだぜ!」


 肩でもって投げ捨てられたキリサメは身を転がして即座に立ち上がり、すかさず右回し蹴りを繰り出していく。これを左の下腕で受け止めた電知は鋭く間合いを詰め、対の拳を腹部に叩き込んだ。

 先程と同様の当身である。再び組み付かれることを警戒したキリサメは後方に素早く飛び退すさった。宙へ逃れる間際に横薙ぎの右拳を閃かせ、顎に一撃を見舞うことも忘れない。


「――てゆーか、キミのは何なの? 何でもアリって部分だけは一緒だけど、明らかにMMAじゃないよね。どこで習ってきたの? やっぱ忍術?」

「口を挿むんじゃねぇッ! てめぇの出番はコイツを潰した後だッ!」

「だって同じ格闘家として興味引かれるじゃん。『ムエ・カッチューア』もエグいほうだけど、それと比べたってヤバさ特盛だよ。今の肘打ちだって本当の狙いは首の骨でしょ」


 キリサメが電知に仕掛けた肘打ちは、相手の上半身を押さえ付けながら側頭部に一撃を加えることで梃子てこの原理を働かせ、頸椎を破壊する性質ものであった。

 目が肥えている希更はこの術理を一目で看過したようだ。無論、キリサメのふるう格闘術が異質であることは実際に肉迫する電知自身が一番理解わかっていた。


「そ、そりゃ気にならねぇっつったらウソになるけどよォ」

「……格闘技なんかじゃありませんよ。ただの暴力です、こんなモノは……」


 横入りのように質問を飛ばしてきた希更には一瞥もくれないまま、キリサメは自らが振るう技を『暴力』と切り捨てた。

 その『暴力』を淡々と振るい続ける立つキリサメのことが死神のように見えたのだろう。すっかり気圧されてしまった左右田は「あ、ああ……ああ……」と呻き声を漏らすばかりであった。

 キリサメの闘いを見守ってきた未稲も『暴力』の応酬に驚いてはいるものの、左右田のようにへたり込むようなことはなかった。それどころか、『暴力』という名の圧倒的な強さを目の当たりにして心が昂りつつあった。

 あたかもリングサイドの特等席で好勝負に立ち合っているような心地なのだ。

 それだけに〝あの動き〟を解放しないことが不思議でならなかった。それとも本気を出すまでもないと電知のことを低く見ているのだろうか。


(……前田光世コンデ・コマの名前は軽々しく使えるものじゃないよ、キリサメさん……)


 父の活動内容をブログの形で外部に発信する役割を担っている未稲は相当な数の試合を観戦してきた。『天叢雲アメノムラクモ』の前身となった二〇〇〇年代の日本MMAのビデオも手に入る物は全てチェックしている。

 格闘技について相応の知識を備えた未稲の目にも電知の力量はプロのMMA選手と肩を並べるレベルと映っているのだ。

 伝説的な柔道家に倣った技という標榜は伊達や酔狂ではなく実力も覚悟も伴っている。本当に手を抜いて闘っているとしたら、どこかで必ずキリサメは足元をすくわれるだろう。


他人ひとに格闘家の心得を説教しといて自分がニヤけヅラ晒してど~するのかなぁ。てか、顔面血だらけでニヤニヤしてる人なんて最高に怖いんですけど~」

「る、るせぇな! 人の顔覗いてんじゃねーよ、クソアマァッ!」


 打ち所が悪かったのかと希更から揶揄されてしまったものの、電知は口元に浮かぶ笑みをどうしても抑えられなかった。

 全力を出し渋っているキリサメに腹立たしい気持ちもあるが、それを上回る昂揚が全身を満たしているのだ。それは『E・Gイラプション・ゲーム』の試合でさえ味わえない極上の快楽だった。


「……おあつらえ向きっつーことは分かったぜ。だったらマジになれよ。目一杯、面白ェ喧嘩にしようじゃねぇか」

「面白い喧嘩なんかない」

「面白くなけりゃ喧嘩ステゴロなんかしねぇだろが――」


 正面切って突っ込んできた電知の顔面をまたしても蹴りが捉えた。無造作に左足を突き出すだけの単純な技であるが、足裏が鼻にめり込んでおり、辺りに血飛沫が散った。

 それでも電知は止まらない。わざと前蹴りを当てさせたといったほうが正確であろう。歯を食い縛って痛みに耐えると両手でもってキリサメの左足を抱え込んだのだ。立った状態から膝関節を極める寝技に引き込もうというのである。

 このとき、キリサメの姿勢は限りなく不安定となっている。重心とて容易く崩せるはずだった――が、彼は残った右足を軸に据えて横回転し、生じた遠心力の中に電知を巻き込んだ。重心を崩すつもりが、逆に振り回されてしまったのだ。


「曲芸かよッ!」

「小細工だ」


 関節技を仕損じた電知であるが、左足から引き剥がされた瞬間には次なる攻撃に移っている。体当たりを仕掛けてキリサメに防御ガードさせると、そこから更に踏み込み、力ずくで姿勢を崩していく。

 片目は見えなくなっているが、身体ごとぶつかっていけば何の問題もないのだ。


(こいつ、思ったよりヤバいな……)


 互いの体格差を考えれば容易く耐え切れると判断していたキリサメだが、小さな弾丸は想像よりも遥かに強く、俄かにたじろいでしまった。自分と比べて間違いなく軽量な相手に競り負けた事実には驚愕を禁じ得ず、微かに眉根を寄せた。

 すかさず背後へ回り込んだ電知は両腕を胴に巻き付けようと試みたが、キリサメは急速に旋回しながらこれを避け切り、振り向きざま猛烈な頭突きを喰らわした。

 電知の潜在能力ポテンシャルはどうにも読み切れない。このように何を仕出かすのか分からない相手は速やかに始末するべきなのだ。


「そうこなくっちゃいけねぇ! お互いにブッ壊れるくらいで上等――」


 鉄槌を彷彿とさせる重い攻撃で脳を揺さぶられた電知は、勇ましい吼え声を上げつつも膝から崩れ落ちてしまった。彼の肉体と意志が切り離されたような恰好である。

 頭突きのみであれば堪え切れたかも知れないが、上から下に振り落とすパンチを全く同じ部位に重ねられては一溜まりもない。猫の手のようにも見える不思議な一撃だった。命中の瞬間に手首のスナップを効かせ、握り締めた指と掌底で同時に叩いたのである。

 崩れ落ちた電知の股をキリサメの右足が蹴り上げた。むしろ、「抉る」と表すほうが正しいかも知れない。全体重を乗せた一撃が全く無防備な部位にめり込んでいるのだ。


「て、め……ッ!」


 いわゆる金的である。股間に防具ファウルカップを仕込んでいるわけでもない電知はこの世の物とは思えないような苦悶に顔を歪めた。どれほど負けん気が強かろうが、こればかりは耐えられるものではない。同じ男として激痛が理解できる左右田は無意識に自分のを庇ってしまった。

 急所への一撃で四肢の力が抜けてしまった電知ではあるものの、キリサメは倒れることさえ許さない。じゅうどうの襟を掴んで身体を引き上げると、既に圧し折っていた鼻へと左膝を突き上げたのだ。


「がぐっ……あッ……」


 鼻の次は顎に眉間と人体急所を次々と膝で抉っていく。傍目には念入りにトドメを刺しているようにしか見えなかった。


「程々にしといてね~。路上戦ストリートファイトだけに反則じゃないかも知れないけど、無限に続けられたら社会的にマズめなコトになっちゃうし、それはお姉さんも困るなぁ」


 ファンを欺いて興行イベント会場から抜け出したアイドル声優が暴力沙汰を含む〝抗争〟に巻き込まれた挙げ句、当事者の一人として傷害事件の現場に居合わせた――確かに希更のキャリアが丸ごと吹き飛ぶほど厄介な状況である。

 それ故に自重を呼び掛けたのだろうが、声優生命の危機を深刻に考えていないのではないかと疑ってしまうほど声の調子は軽かった。

 アイドル声優らしからぬ姿ではあるものの、物心つく前からミャンマー由来の格闘術を仕込まれてきた彼女は足元に血の池が溜まるような場面にも慣れ切っているようだ。

 そもそも『ムエ・カッチューア』とは麻の紐や縄――現在ではバンテージ――を巻いただけの拳で殴り合うという荒々しい格闘術である。ジャーメインの飛び膝蹴りで病院送りにされた道場破りも数え切れないくらい見てきたのだった。


「お、追い払うくらいで良いと思うよ。やり過ぎて後遺症とか残ると大変だし……」


 希更に続いて未稲も注意を促したが、こちらは控えめながらも電知の身を真剣に案じている。後者の声だけはキリサメの耳まで届き、反射的に動きを止めた――その瞬間、彼の視界が逆さまにひっくり返った。


「な……にが……ッ」

「こんなもんでくたばってられっかよ!」


 視界いっぱいに割り込んできたのは、やけに嬉しそうな電知の顔である。折れた鼻や眉間の切り傷から流れ落ちる鮮血がキリサメの頬に飛び散り、微かな熱を感じた直後、今度は頭部を激しく揺さぶられた。

 報復とばかりに電知から拳を振り落とされたのだ。アスファルトの上に転がされた為、顔面を殴られる度に後頭部も強く叩き付けられ、二重の衝撃が脳に浸透していく。

 何とか左腕を揺り動かし、てのひらで電知の右拳を防御ブロックしたキリサメはすかさず腹部に蹴りを加え、自分に覆い被さっていた影を引き剥がした。

 追撃を警戒して瞬時に立ち上がるキリサメではあったが、僅かに視界が歪んでよろめいてしまった。立て続けに脳を揺さぶられたことによる立ちくらみである。

 今も鉄の棒で殴られたのではないかと錯覚しそうになったのだが、この少年の拳は柔道家のものとは思えないほど硬かった。あのまま殴られ続けていたら、数秒とたない内に意識を刈り取られていただろう。腹部に当身を受けたときから鈍痛も残り続けている。


「やるじゃねーか、ドン・キホーテ野郎。お前の〝隠し玉〟とやらを意地でも引っ張り出してみたくなったぜ」


 やや離れた位置で睨み合う形となった電知はドス黒く染まったじゅうどうを直しながら溌溂と笑っている。恐るべき精神力というべきか、膝蹴りに耐えながら虎視眈々と反撃を機会を窺っていたようだ。

 視界がひっくり返った直後の互いの体勢や、腕を掴まれたような違和感から一本背負いでやり返されたことだけはキリサメにも察せられた。先程と同じ投げ技を受けてしまったわけだが、速度も威力も段違いのようだった。

 最初の一本背負いが相手の身を巻き込むようにして投げる性質ものであったのに対し、今度は高い位置から落としたのだろう。受け身を為に全身が悲鳴を上げている。


(……コマの柔道とか何とか言っていたけど……どうなってるんだ、こいつ……)


 キリサメも背筋を滑り落ちる冷たい汗を意識しないわけにはいかなかった。貧民街あるいはその路地裏で殴り合いとなった相手は、一部の例外を除けば鼻を折られた時点で戦意を喪失していた。

 しかし、じゅうどう姿の少年はどうか。痛手ダメージを受ける度に調子が上がっているようにさえ思えるくらいだ。ともすれば殺意を剥き出しにして襲い掛かってくるバトーギーン・チョルモンを笑顔で迎え撃った八雲岳の姿を彷彿とさせるのだった。

 事実、電知は歓喜に打ち震えている。

 他の地下格闘技アンダーグラウンド団体と比べても格段に危険な試合形式を取る『E・Gイラプション・ゲーム』では血だるまになって緊急搬送される選手も少なくない。それほどまでに過激な場で闘っている電知でさえ生きるか死ぬかの瀬戸際には滅多に巡り逢えないのだ。

 〝今〟がそのときであった。これまで闘ってきた相手の中とは比べ物にならないほど恐ろしい人間が目の前に立っている――口の中に広がる鉄錆の味がアドレナリンと混じってこの上なく旨かった。


「お前、やっぱりあの『あまかざり』と何か関係あるんだろ。牛若丸みてェに空を飛び回るなんて真似、そうそうできるもんじゃねェ」

「……だから知らないって――」

「――まァ、もう義理もクソも関係ねェけどな。しがらみなんぞに面白ェ喧嘩を邪魔されてたまるもんかよ」


 キリサメの言葉を遮った電知は、これ以上なく獰猛な光を双眸に宿していた。


「ここからがマジの勝負だぜ。『コンデ・コマ式の柔道』の神髄を教えてやらァよ」

「……あれだけ人に噛み付いておいて、自分こそ手を抜いていたんじゃないか」

ちげェよ。血の味舐めるくらい張り合いのある相手は久々なんでよ、調子が出るまで時間が掛かっただけだぜ。身も心も温まったっつうコトだ」


 そう言いながら電知は右の人差し指をキリサメの鼻先に突き出した。彼の意識が指先に向けられたことを確かめると、視線を誘導するようにしてを横に動かしていく。

 やがて電知の人差し指は道路を挟んだはすかいを示した。そこはファミリーレストランやバッティングセンター、レンタルビデオのチェーン店などが固まった区域エリアである。


「そろそろ物好きな客どもが帰り支度を始める頃合だ。駐車場ここに出てきたら、きっと水を差されちまわぁ。……誰にも邪魔されねぇとっておきの場所に案内してやっからよ。そこなら人目を気にしねェでれるぜ」


 希更を一瞥しながら「本当はアイドル被れを追い込むつもりだったんだがな」と鼻を鳴らした電知は〝とっておきの場所〟まで先導するべくキリサメに背を向けて歩き始めた。

 それはつまり、敵に無防備な背中を晒したということである。一足飛びで間合いを詰めたキリサメは目的地に向かって駐車場を横断していく電知に容赦なく蹴りを見舞おうとした。しかもえんずいを正確に狙っている。

 左右田が発した「ああッ⁉」という驚愕の声を受けて背後を振り返り、慌てて身を屈めた電知の頭頂を横殴りの風が撫でていった。鼓膜を打ち据えた轟音は大きく、一瞬でも反応が遅れていたら首の急所を壊されていたかも知れない。


「てめー、コラッ! 不意討ちみたいなケチ臭い真似すんじゃねェよ! すぐに相手してやっから待ってろっての!」

「それはお前が勝手に決めたコトだろう。僕にはそれに付き合う理由も義理もない」

「仕切り直しっつってんだ! 格闘家の心構え、マジで一から教えてやろうか⁉」


 人目に付かない場所へと移ってから〝抗争〟を再開しようと訴える電知だが、キリサメの側は聞く耳持たないと言わんばかりに追撃を繰り返した。

 これはルールによって安全性が確保された〝試合〟などではなく、路上を舞台とした命の遣り取り――〝実戦〟なのである。

 電知は相当に手強い。しかも、まだ本調子にはなっていなかったという。

 『暴力』に頼らなければ生き抜くことさえ難しい貧民街では自分より強い相手との遭遇は忌避すべきことであった。腕試しと違って今日の飢餓ひもじさを凌げるだけの糧を得ることが目的なのだから標的えものは弱ければ弱いほど望ましかった。

 ここまでの攻防で確実にダメージを与えているのだ。時間を置いて体力が回復する前に勝負を仕掛けることは卑怯でも何でもあるまい。

 それ故に駐車場ここで決着をつけたかったのだが、電知は野を駆ける虎のように俊敏で、どうしても前方まで回り込むことができない。それどころか、追いすがるだけでも難渋する有り様であった。

 小柄で軽いということもあるが、身体能力フィジカルそのものが人並み外れて優れているのだ。

 近くに見える高架橋を使わずに道路を跨ごうとする電知の背中を追い掛け、後ろから襟を掴もうとするキリサメだったが、伸ばした腕を逆に〝捕獲〟され、片手一本で投げ落とされてしまった。このとき、電知は後方を振り返ることもない。

 腕を掴まれたと感じた直後には路上で星空を仰いでいるのだ。走りながら攻撃を仕掛ける為に重心が不安定であり、抗うことさえ叶わないまま引っこ抜かれてしまうのだった。


「さっきからつまんねェぞ、もうネタ切れかァ? 八雲岳の弟子らしく、もっと気合い入れて来やがれ! こっちはまだまだ底ナシだぜッ!」


 そうやってキリサメを投げ捨てては挑発を引き摺りながら駆けていく――この繰り返しである。一度は車道に転がされたのだ。車輌くるま通行とおりが少ない夜更けであったから骨が軋む程度で済んだが、昼間であったら確実にき殺されていただろう。

 のちに『てんのう』と並び称されることになる少年たちの路上戦ストリートファイトまくあいに鬼ごっこを挿む形となったわけだ。他の者たちも二人の後を追い掛けるしかない。


(……どうして僕のほうが追う側になってるんだ……ッ?)


 風変わりなじゅうどうにバックプリントされた『E・Gイラプション・ゲーム』のロゴマークを見据えるキリサメは眉間に苛立ちを映していた。腹部の鈍痛が先程より強くなっていることも気掛かりだが、まずはあの忌々しい背中を捕まえなければどうしようもなかった。

 やがて二人の少年はバッティングセンターと小さな町工場の間を抜ける狭い通路に辿り着いた。近くに設置された街頭からも照明あかりが行き届かず、踏み込んだ先に何が待ち構えているのか、殆ど見極められない。


「この期に及んでスカした顔してんじゃねーよ。来な。真っ暗闇の向こうでならお前の暴れっぷりにも思う存分、付き合ってやれるぜ」

「……別に気取ってるわけじゃない……」


 貧民街の裏路地を思わせる〝闇〟を前にして、あれほど焦れていたはずキリサメの心は波紋など嘘のように凪いでいった。


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