その4:興行~MMA開戦!真田忍者VSもと横綱

 四、興行


 歓迎会が開かれた夜、キリサメはなかなか寝付けずにいた。

 数え切れないくらいベッドの上で寝返りを打っているが、一向に眠気が訪れず、時計の針が午前二時を過ぎる頃には完全に目が冴えてしまった。

 折角の心づくしをにもできず、岳たちには言い出せないのだが、柔らかなベッドも実は使いにくい。「安眠」の二字を身体が受け付けなくなっているともいえよう。

 贅沢な悩みとはキリサメ自身にも分かっている。母も家も失い、集合墓地で〝墓守〟の真似事を始めてからは固い地べたにそのまま寝そべることが普通となっていた。快適な環境が逆に息苦しく感じられるのだ。

 ペルーから日本に移住して一週間ほど経ったが、それでも今日までは日付を超える頃には必ず眠りに落ちていた。朝日が昇る前には目覚め、朝食までに柔軟体操などで身体の状態を整えていたのである。

 それだけで身体は〝覚醒〟する。短時間の睡眠で回復できないようでは浮浪児ストリートチルドレンが貧民街で生き抜くことなどできないのだ。一秒でも油断すれば無法者に襲われ、たちまち命を奪われる――そうやってゴミ溜めに放り捨てられた亡骸をキリサメは腐るほど見てきた。

 貧民街という暴力の吹き溜まりでは、起きていても眠っていても、常に全身が緊張感で満たされ、痺れるくらいに脳がたかぶり続けるのだ。

 屋根のある家で眠るようになって以来、少しずつ鈍り始めていた〝感覚〟が急に加速し始めた。死の臭いが垂れ込める闇の中へ身を横たえているわけでもないのに第六感までが狂わんばかりに研ぎ澄まされていく。

 ここ数日、家の周辺で奇妙な視線を感じていた。最初はペルーから『ざるだん』が自分のことを追い掛けてきたのかと考え、出掛ける先に『聖剣エクセルシス』まで携えて警戒していたのだ。

 それ自体は杞憂と間もなく悟った。肌に感じた視線は貧民街の者たちが剥き出しにするような殺気を帯びていなかったのである。〝狩猟〟の対象を値踏みする強さはなく、覗き見程度の微弱なものであった為、どこに誰が潜んでいるのかまでは見極められなかった。

 移住早々に『聖剣エクセルシス』を振るうだけは避けられそうだが、平和な東京と暴力のリマという二つの首都まちに跨って立ち尽くしているような〝感覚〟は何時まで経っても鎮まらず、少しずつ、けれども確実にキリサメの心を路地裏と同じ〝闇〟へ引き寄せられていく。

 再び起き上がった貧民街の〝感覚〟が鋭さを増した直接の引き金はおよそ半月ぶりに血を見たことが原因だろう。

 岳が出席した日米共同会見の場に据えられた大型モニターにはPVプロモーションビデオが映し出されていた。血と汗を飛び散らせながら肉弾戦に興じる男たちの姿が――だ。

 部屋の照明あかりを消してベッドに潜り込み、夜の寒さに触れた瞬間からくだんPVプロモーションビデオに登場していた格闘者たちの姿が幻像まぼろしのように浮かび始め、顔ぶれが入れ替わる度に脳が痺れていったのである。

 鋭さを増した〝感覚〟が貧民街で身近にあった流血へ反応してしまうのだ。

 死の臭いを嗅ぎ付けてしまうような心の働きは、平和な東京で暮らすには断じて除かねばならないものであろう。このままでは懐かしき〝闇〟へ精神を丸ごと飲み込まれると思い、双眸をきつく閉ざすキリサメであったが、瞼の裏には薄暗い裏路地に這いつくばる男たちの姿が浮かび上がった。

 いずれも口から大量の血を吐き、呆けたように遠くを見つめている。どこか遠くでアスファルトが硬貨を弾いたような気がした。

 その乾いた音を合図にして再び〝映像〟が切り替わる。

 ペルーの首都・リマの繁華街とサン・クリストバルの丘にへばり付く非合法街区バリアーダスとを隔てる川が現れた。赤黒く染まった水面には惨たらしい有り様の遺骸が漂っている。

 その次に立ちのぼったのは何事か喚き散らしながらノコギリ状の刃物を滅茶苦茶に振り回す男性の幻だった。鼻先を掠めていくのは、紛れもなく『聖剣エクセルシス』だ。

 二種の〝映像〟が交互に入れ替わり、秒を刻む毎にキリサメの肉体まで蝕んでいく。何かを砕く感触が両手に甦り、堅い物をへし折る厭な音が鼓膜に響いた。

 そして、その瞬間に全く異なる情景が割り込んだ。

 夥しい血に濡れた身を横たえながら、それでも瞳の力だけは誰よりも強く、自分に向かって何かを言い付ける女性――その人が伝えようとしたことが心の真ん中を貫いたとき、キリサメは呻き声と共に上体を跳ね起こした。


「母さ――」


 大きく見開かれたキリサメの双眸が捉えたのは迷彩柄のカーテンが掛かる窓であった。底なしの〝闇〟へ落ちそうになっていた意識が現実の世界に戻っていた。幻の中で自分の命を狩ろうとしていた『聖剣エクセルシス』も麻袋へ納まったままクロス張りの壁に立て掛けてある。


「……う……あ……くッ……はぁ……ッ!」


 冷たい汗がパジャマを濡らし、早鐘を打つ心臓と共に呼吸も乱れている。悪夢の如き幻が去ったのちも拳や鼓膜に残り続ける生々しい感触は悪寒と化して全身に及んでいた。

 我が身を掻き抱いていないと堪らないくらい血が

 深呼吸と共にベッドから立ち上がったキリサメはカーテンもろとも一気に窓を開き、屋根に飛び移ろうとした。一刻も早く外の空気に触れて身のうちから湧き上がってくるを鎮めなくてはならなかった。

 バレンタインデーから続いていた降雪も一応は止んだが、屋根の上には決して少なくない量が積もったままであり、凍て付く風に撫でられて室内に吹き込んできた。冬の霧が火照った頬には心地良い。電柱の頂点にでも立てば沸騰した血が冷めていくだろう。

 初めて目の当たりにした瞬間には人間の住む場所ではないとまで吐き捨てた氷の世界が今は恋しくて仕方がない。屋根の上の雪に埋もれて凍死するか、電柱から足を滑らせて転落死するか――どちらの結末になってもキリサメは構わなかった。


「――そんな不安定な場所に居て怖くない? 立ち竦んじゃいそうだけど……」


 夜空を照らす満月に未稲みしねの顔が浮かんだのは窓枠へ足を引っ掛けた直後のことである。

 何日か前に屋根や電柱から下北沢の景色を望む理由をたずねられたのだが、そのときの彼女は酷く怯えた様子だった。高所から天を仰ぐ行為は傍目には危うく見えるのだろう。これによって未稲に相当な不安を与えていたようである。

 から注意を促された以上は自重せざるを得まい。それが亡き母から叩き込まれた良心と常識に基づく判断というものだと、キリサメは己に言い聞かせる。


「夜景のスケッチだって理由を付ければ……いや、そんなのは理由にならないか――」


 キリサメの瞳は窓のすぐ近くに掛けられた一枚の古い絵を映している。額縁の一部とガラス板に亀裂が走り、端には親指で突き破ったものと思しき穴が開いていた。

 月明かりに照らされた傷だらけの絵は、幼き日にキリサメ自身が模写したハチドリである。瓦礫の下敷きになっていたところを岳が引っ張り出してきた物だが、彼にはトウモロコシやナスカの地上絵などと間違われている。

 個性的な画風タッチなということは本人も自覚するところである。しかしながら、力作に違いはなく、母にも「末は前衛芸術家も目指せる」と褒められていたのだ。それだけに岳の誤解は心外極まりなかった。

 審美眼がない父親と違って娘の未稲は自分の描く絵を正しく理解わかってくれている。


「――女の子は泣かせるなって、……母さんに教わったもんな……」


 模写ハチドリを見つめるキリサメの脳裏に母の教えがもう一つ甦っていた。

 それから間を置かずに思い浮かんだのは彼女と初めて買い物に出かけたときのこと。身一つでペルーからやってきた居候の為に下北沢駅北口側の店で衣類などを購入した未稲は自宅の玄関へ一足先に入るなり照れた素振りで頬を掻き、次いで「お帰りなさい」と声を掛けてくれたのだ。

 相当に恥ずかしかったのだろう。返事を受け取る前に丸メガネが曇っていた。

 母が亡くなって以来、そのように出迎えてくれる者は一人もいなかった。親しくした人間もいないことはなかったが、それでも「お帰り」という言葉は共に暮らす家族の間でしか使われないものである。

 数年ぶりに掛けられたその一言はキリサメ自身にも不思議と思えるほど自然に心の奥底まで染み込んでいった。だからこそ、何ら躊躇うこともなく「ただいま」という返事を紡ぎ出せたのだ。

 あのときに掛けて貰えた言葉と、控えめに反応を窺う表情かおがキリサメ・アマカザリという魂を〝平和な東京〟に繋ぎ止めているのかも知れない――それだけに八雲未稲には迷惑を掛けられなかった。


(……こんな根無し草に世話なんか焼かなくても良いのにな……)


 続けて想い出されたのはペルーで別れた古馴染みの顔だ。リマ中心部の貧民街で暮らしている知人の女性も、旅立ちの日にホルヘ・チャベス空港まで見送りに駆け付けてくれた国家警察の刑事も、同じ言葉を餞別代わりに告げていた。

 喪失うしなわれた命の為にも、キミは幸せになりなさい――そうのである。平和な東京から暴力のリマへ回帰しようものなら古馴染みの想いをも裏切ってしまうわけだ。

 窓を閉じ直し、月下に浮かぶ雪の手招きを断ち切ったキリサメは、おぼつかない足取りで廊下に出ていった。

 心の動揺が鎮まっていない為か、自分がどこをどのように歩いているのか、現在いまのキリサメには全く認識できていない。

 渇いた喉を潤そうとダイニングルームへ向かったはずなのに気付いたときには今まで見たことのない場所に辿り着いてしまったのだが、照明あかりも点けず歩き回っているのだから、これは自明の理というものであろう。

 この半月余りは自室とダイニングルームの往復だけで事足りたので、他の部屋のことは全く把握していない。今、進んでいる狭い通路さえ見覚えがなかった。

 やがて、キリサメの前に一枚の扉が現れた。

 普段の彼であれば興味を持つこともなく踵を返しただろうが、判断能力が働かない今夜は一瞬たりとも迷わずに扉を開き、吸い込まれるようにして室内へやへ踏み込んでいった。

 自分の立っている場所が母屋ではなく別棟とキリサメが気付いたのは無意識の内に照明あかりのスイッチを入れた直後のことである。

 まず目に飛び込んできたのは『忍』の一字を大書した掛け軸だった。

 掛け軸の真下には鹿角でこしらえた台が据え置かれ、そこに大小の刀が掛けられている。これを挟むようにして右側に鎖帷子、左側に黒い忍装束がそれぞれ飾られていたのだ。

 忍装束には『さなにんぐん』と銀糸で刺繍されている。

 母と暮らしていた頃、日本に現役で活躍する『ニンジャ』の知り合いがいると教わったことがあった。

 写真も何枚か見せて貰ったが、そのニンジャが纏っていた装束とそっくりではないか。あるいは、この部屋の主こそが幼い頃に目にしたニンジャ本人であるのかも知れない。

 写真の中では十文字の手裏剣を投げる姿が印象に残っている。果たして、記憶に焼き付いた投擲武器は部屋の片隅に設えられた台の上に確認できた。

 投擲の訓練に用いる丸太型のまとまで壁に設置されている。百発百中の腕前なのだろう。まと自体には抉れた痕跡が無数に見られるものの、その周辺は傷一つなく綺麗である。

 いつの間にか、ニンジャの修行場に迷い込んでしまったらしい――そのようにキリサメが錯覚するのも無理からことだ。

 驚愕の事態に直面して緊張の糸が切れてしまったのか、六枚の古銭を組み合わせたような紋章――『ろくもんせん』を天井へ発見する頃になると、行き場なく浮揚していた意識と現実が完全に合致した。

 それはつまり、人間らしい感覚がキリサメの中に甦った証左でもある。だからこそ、自分が程よく柔らかいマットを踏んでいることにも気付けたのだ。

 こうしたマットは床の大部分に敷き詰められており、同じ材質のクッション材が壁にも当てられている。万が一、激突した場合に怪我を防ぐ為の工夫のようだ。

 部屋の隅にはダンベルや跳び縄といったトレーニング用品が雑然と転がり、すぐ近くには大型の器具も何台か据えられていた。ベンチプレスに必要な器材も一通り揃っている。

 鉄製の棚にはテーピング用品や種々様々なグローブ、ヘッドギアなどのプロテクター類が仕舞ってある。棚と隣接する冷蔵庫の上に置かれた救急箱は一般家庭用の物と比べてかなり大きかった。

 骨太で頑丈そうな土台スタンドから吊り下げられたサンドバッグは相当に使い込まれている。


「……ニンジャ屋敷でもなんでもない……」


 キリサメの双眸は不可思議な物を捉えていた。画鋲ではなくニンジャのクナイで四隅を留めてあるポスターに岳の立ち姿が刷り込まれているのだ。

 普段から風変わりな風貌ではあるものの、輪を掛けて珍妙なのである。黒いプロレスパンツを穿き、真っ白な指貫オープン・フィンガーグローブを嵌めて闘魂溢れる構えを取っているのだ。戦国武将のような輪郭シルエットを描く髪も下ろし、首の付け根の辺りで一本に結わえていた。


「MMAっていうのは、……プロレスの一種なのか?」


 剥き出しの肉体からだに空色の陣羽織を着込むなど細かな差異こそあるものの、リトル・トーキョーの記者会見場で垂れ流しとなっていたPVプロモーションビデオに登場し、また先程まで自分のことを幻惑していた格闘者たちと良く似た威容すがたなのだ。

 部屋の片隅に置かれているガラスケースが視界に入り、思わず息を呑んだのは首を傾げた直後のことである。内部にはプロレスラーが試合で被る覆面マスクが納められているのだが、キリサメはそれに見憶えがあった。

 ハゲワシの頭部を模った古いマスクである。

 母に付き合わされて一緒に観たプロレスのビデオへ登場し、疾風怒濤ともたとえるべき華やかな大立ち回りを見せたレスラーが同じ物を被っていたのだ。


「誰だっけ、ええっと……」


 つい最近、どこかでマスクの持ち主の話を聞いたはずなのだが、名前の頭文字イニシャルすら思い浮かばなかった。大して関心もなかった為か、頭から完全に抜け落ちてしまったらしい。

 記憶の水底を無理矢理に掻き回して何とか想い出せたのは『ルチャ・リブレ』とも呼ばれるメキシカンプロレスを極めた日本人レスラーという一点のみだ。


「でも、どうして、こんな物が……」


 我知らずケースへ触れようとした瞬間、一枚の壁板が音を立てて回転した。室内は壁面の一部が鏡張りとなっている。その中にニンジャらしい仕掛けが施されていたわけだ。

 何事かと振り返ってみれば、腕組みしながら愉しげに微笑む岳の姿があった。改造扉の裏側から参上した彼は防寒用と思しき厚手の陣羽織に袖を通していた。


「が、岳氏……?」

「トイレ帰りにフラフラしてるヤツを見つけたんでね。ちょっとイタズラしてみたのさ」


 「作戦成功」と無邪気にピースサインを作った岳は唖然呆然と立ち尽くすキリサメを目の端で捉えつつ、ヘッドギアなどが収納されている鉄製の棚へと向かっていった。

 棚から一組の指貫オープン・フィンガーグローブを取り出した岳は、これをキリサメに放り投げた。

 反射的に手を差し出し、抱えるようにして受け取ったグローブは青空を流れてゆく雲のように白く、表面には『プロフェッショナル・ミクスド・マーシャツ・アーツ』なる英文と力強い印象のロゴマークが刷り込んであった。

 つい先ほどまで釘付けとなっていたポスターにも同じロゴマークが入っている。

 『天叢雲アメノムラクモ』――最初はどう発音すれば良いのか分からなかったのだが、ロゴマークに添えられたアルファベットで正しい読み方を理解した。

 丘の上の貧民街で現地の警察官に取り囲まれた際に口走った言葉である。くだんの日米共同会見に於いても名称なまえが挙がっており、聞き間違いでなければ岳が『統括本部長』なる役職を務める団体であったはずだ。


「コイツがオレの仕事だよ、キリー。『天叢雲アメノムラクモ』は日本一の総合格闘技だぜェ!」


 キリサメを真っ直ぐに見つめた岳は誇らしげにそう語った。


「……プロレスラーってことですか?」


 出で立ちから受ける印象をもって、キリサメはMMAのことをプロレスの一種と解釈していた。PVプロモーションビデオに登場した格闘者たちは打撃も投げも満遍まんべんなく使っている。キックが禁じられたボクシングや、打撃そのものが反則となる柔道ともルールが異なるはずだ。

 パンク・ロックの他にも格闘技を好んでいたミサトは「打ってヨシ。投げてヨシ。極めてヨシのレスラーこそ最強」と常々熱弁していたが、その知識に照らし合わせるとMMAとはプロレスの別名としか考えられないのである。


「今でもオレはプロレスラーのつもりだけどよ、『総合格闘技』は読んで字の如く何でもアリの超過激ルールっつーコトだ」

「……総合……?」

「ボクシングのパンチとムエタイのキック、柔道の投げとサンボのサブミッション、ブラジリアン柔術がリングに持ち込んだグラウンド攻防――とにかく何でもござれ! 一つのスタイルにこだわらず、ありとあらゆるテクニックを身に付けて競い合う究極の弱肉強食を総合格闘技って呼ぶのさッ!」


 拳を握りしめながら熱弁を振るう岳の瞳は闘魂に燃えていた。それでいてとろけるような笑顔なのだ。養子キリサメが自分のことに興味を持ってくれて心から嬉しいのだろう。

 これを受け止めるキリサメの頭の中では未だに総合格闘技MMAとプロレスが切り離されておらず、双方の差異を述べようとしない岳に首を傾げるばかりであった。

 今夜も見事なまでに二人の会話は噛み合わない。



 MMAミクスド・マーシャル・アーツ――総合格闘技。〝異種格闘〟ではなく〝総合格闘〟である。

 例えばフルコンタクト空手と柔道というように体系の異なる武道を修めた者同士がそれぞれのスタイルを堅持したまま立ち合う状況を〝異種格闘〟と定義する。

 空手は立った状態での打撃をもって相手を粉砕し、寝技に持ち込むことはない。一方の柔道は現代のルールに於いて打撃が認められず、投げや寝技によって勝敗が決せられる。

 各々の体系を堅持しながら相対する場合、初めて〝異種格闘〟が成り立つのだ。現代の柔道家による打撃や直接打撃系フルコンタクト空手による寝技が確認された時点で先述の条件から外れてしまうのである。

 これに対して、ボクシングやムエタイといった打撃系格闘技の技術と、プロレスやサンボに代表される投げ・関節技サブミッションの技術を複合して使いこなしても「流儀を外れた邪道」とそしられない状況を〝総合格闘〟と呼ぶ。

 地上に存在する全ての格闘技のエッセンスを取り入れ、統一ルールのもとに技術体系の〝総合化〟を達成したスタイル――それこそが『MMA』即ち、総合格闘技であった。

 試合場に背を付けて寝そべるという状態は、従来の格闘技では好ましい体勢とは言い難いのだが、MMAの世界に於いてはからの攻防も重要視されている。立っている側は相手を踏み付けにすることが許され、揺りかごのごとき姿勢で寝そべった側には相手の攻撃をさばいて寝技に引き込むチャンスが巡ってくるのだ。

 相手を転がし、組み敷き、退路を封じた上で拳を打ち下ろすという危険な攻撃手段パウンドまでMMAでは認められている。

 いかにして相手を転がすかという駆け引きではレスリングの戦法が、寝かせた先の攻防には寝技中心のブラジリアン柔術の戦法が、それぞれ有機的に組み込まれている。

 それ故にMMAの世界は残酷だ。技術わざの進化にいていけなかった者はどれほど有名であったとしても簡単に切り捨てられていく。アメリカを主戦場としているMMA団体『NSB』は、ナチュラル・セレクション――自然選択説を名称の由来に取っているが、これもまた弱肉強食の標榜に他ならないのだった。

 生きるか死ぬかという極限的な環境に適応し、進化できないモノには未来を生きる資格す許されない。自然選択説の中で語られた理論は現代格闘技界にも通じるのだ。

 〝異種格闘〟の条件として掲げられた「スタイルの堅持」が一つの道を極めるということであれば〝総合格闘〟が目指すのは人間という生き物に秘められた可能性ポテンシャルを無限に拡げていくことなのである。

 MMA――それは超人に至る進化論であった。

 そして、八雲岳は日本という国にMMAの土台を築いた先駆者である。

 高校進学を蹴ってプロレスの門を叩き、若手時代に修行したという忍術を駆使する熱闘ファイトで人気を博したものの、ショーアップされた興行イベントに満足できず、世界各国から腕自慢を招いて実戦形式セメント・マッチの異種格闘技戦を敢行。一九九〇年半ばに『総合格闘技元年』を宣言した。

 日本初となるMMA団体の旗揚げである。

 目突きといった急所攻撃や噛み付きなどの危険行為のみを禁止し、ルール上で総合格闘技術を解放。ボクシングでもプロレスでもない、ましてや異種格闘技戦でもない全く新しい『闘い』の在り方を示し、これによって日本中を熱狂の渦に巻き込んだ。

 しかし、八雲岳が導いた新時代の『闘い』は様々な事情から二〇〇〇年代半ばには解散に追い込まれてしまう。統括本部長を務めていた彼も責任を取る形で現役を引退。一度はMMAから完全に離れたのだ。

 数年の空白期を挟んで現役復帰を決意したきっかけは二〇一一年三月一一日に起こった東日本大震災である。

 未曽有の災害に接して様々な業界で復興支援活動が進められる中、岳たち日本人格闘家は「MMAで日本を元気にしよう」という合い言葉のもとに結束。前身たる団体に参戦していた選手を中心として『天叢雲アメノムラクモ』を立ち上げた次第であった。

 震災から間もなく開催されたチャリティー興行以降、往時かつてのような地上波テレビ放送こそなくなったものの、MMAの火を絶やすことなく継続的に試合を敢行。地方振興の理念から活動拠点を首都圏に限定せず全国各地の運動施設で〝旅興行〟を行う形態となった。

 四〇代半ばに差し掛かった岳は格闘家としてはベテランの域に達し、ピークを超えたと評する声もある。それでも現役に留まり続けるのはMMAで日本を元気にするという誓いの為――それが八雲岳という名の不器用な〝旅路〟であった。


 『天叢雲アメノムラクモ』の概要に初めて触れたキリサメは心の中で「長い」と切り捨てた。

 入場券と引き換えに配布される二〇ページ程度のパンフレットには出場選手の情報やインタビューばかりでなく、初めて『天叢雲アメノムラクモ』ルールの試合を観戦する人々に向けて様々な解説が記載されている。

 当然ながら試合に関する説明に最も多くのページが割かれている。MMAの王道らしく危険行為以外のあらゆる攻撃手段が有効。頭突き、肘打ち、膝蹴り、いずれも認められており、リング上に寝転んだ相手に対する踏み付けや、頭部を足の甲で蹴り上げるといった攻撃も許可される――と基本原則から紹介されていた。

 KO《ノックアウト》か、降参ギブアップか。凄絶な一本勝負が繰り広げられるわけだ。

 最大三Rラウンド制。一Rラウンドのみ一〇分、二~三Rラウンドは五分と試合時間が設定されている。Rラウンド間の休憩時間インターバルは六〇秒。三Rラウンド終了時にも勝敗が決していない場合は試合内容を総合的に検証して判定ジャッジが下される。引き分けのない完全決着制であった。


「……〝リマの柔道〟みたいだな――って言ったら、さすがに怒られるか」


 観戦に必要と思われる予習を終え、パンフレットを閉じたキリサメの脳裏に漠然と浮かんだのは、故郷リマの浜辺で稽古に励む小さな柔道家たちである。

 二〇一四年現在――日本より訪れた青年海外協力隊を通じてペルーに伝わった柔道は指導員の人数が不足していることもあり、基本的なルールが正確に呑み込めていない練習生も非常に多かった。

 浜辺近くで〝得物〟を品定めしていたとき、たまたま練習風景が視界に入ったのだが、空手の模倣と思われる突きや蹴りを繰り出す少年が何人も確認されたのである。

 あれもまた〝何でもあり〟の範疇に入るだろう。練習の相手に悪質な攻撃を加えないという約束まで含めて、キリサメにはリマで見掛けた発展途上の柔道とMMAが類似しているように感じられた。


「……果てしなく胡散臭いな……」

「ん? 何か言った?」

「……いいえ、別に……」


 隣の未稲に独り言を聞かれてしまったことに気付いたキリサメは、いぶかるような視線から逃れたくて正面のリングに目を転じた。

 四角い土台の上に衝撃を和らげるマットが敷き詰められ、四隅にはクッション材で覆われた支柱ポールが立ち、これらをロープで結び合わせるとMMAのリングが完成されるわけだ。

 くだんのマットは一枚の大きなシートで覆ってあり、その中央に『プロフェッショナル・ミクスド・マーシャル・アーツ』つまりMMAの正称が英字で刷り込まれている。

 これを取り囲むような形でスポンサー企業のロゴマークが並んでいるのだが、その数は一〇を超えており、空白の期間を経て復活した日本MMAに寄せられる期待の程が伺えた。

 中でも『ハルトマン・プロダクツ』という企業名が最も目立っている。パンフレットの記述によれば『天叢雲アメノムラクモ』最大のスポンサーであるそうだ。

 世間に疎いキリサメでさえ耳にしたことがある世界的なスポーツメーカーである。


「……矛盾してる、何もかも……」


 キリサメは誰にも聞かれないよう心の中で呟いた。未稲の耳にでも入ろうものなら、彼女を通じて岳を悲しませてしまうだろう。それだけは避けたかった。

 声高に〝実戦〟と謳う割には安全面に随分と配慮しているように感じられた。

 着用を義務付けられている指貫オープン・フィンガーグローブは厚みの分だけ拳に優しく、渾身の力で殴打しても自分の骨が砕ける可能性は低いだろう。マットを敷き詰めたリングは衝撃を吸収してくれるので高い位置から落下しても滅多なことでは死なないはずだ。

 反則行為が設定されている時点で引っ掛かっていたが、〝最悪の事態〟を回避する方策を万全に整えておいて、どうして〝実戦〟などと標榜できるのだろうか。最大三Rラウンド制と試合時間まで区切っているが、そもそも命の遣り取りとはどちらかが息絶えるまで続けられるものであろう。

 歯や顎を痛めない為のマウスピースと急所を防護するファウルカップも危険回避の措置に他ならない。それらはキリサメ自身が潜り抜けてきた〝実戦〟とまるで結び付かず、だからこそリマの浜辺で垣間見た〝発展途上の柔道〟同然と思えてしまうのだった。

 ショーアップされてはいないかも知れないが、スポーツであることに変わりはない。あからさまといっても過言ではないほどスポンサー名を示しているのは看板広告――即ち、宣伝目的に他ならないのだ。

 〝実戦〟という宣言そのものが大きく誤っている――それがMMAに対するキリサメの第一印象であった。


「論より証拠ってヤツだ! オレの闘いを見ろォッ!」 


 自分の仕事に関心を持ってもらおうと躍起になっている岳に連れ出されたキリサメは、今、彼が働く〝現場〟でパイプ椅子に腰掛けていた。

 『天叢雲アメノムラクモ』第一二せん~信州――会場の各所に配置された看板やポスターには出場全選手の顔写真と共に興行イベントの名称が大きく掲げられていた。

 その名称に含まれた『信州』の二字が表す通り、今回の会場に選ばれたのは長野県長野市内に所在する大型の多目的アリーナである。かつて同地で冬季五輪を開催した折にアイスホッケーの競技場として建てられた施設であった。

 数時間前に遡るのだが、長野に新幹線の中で岳は「二人とも憶えてねぇか? あの年はニュースで何度も映ったハズなんだが」とキリサメたちにたずねていたが、これは度を越した天然ボケと言わざるを得なかった。

 長野冬季五輪は一九九八年のこと。その前年にキリサメと未稲は生まれたのだ。一歳児が記憶しているはずもなく、キリサメに至ってはそもそも日本にいなかった。


「娘の年齢トシを忘れるなんて父親として無責任過ぎないかな? ちゃんと憶えてたら、今みたいなアホ全開の発言はできないと思うよ?」


 父の失言に呆れ返った未稲もまた長野県で開催される興行イベントに同道していた。

 彼女は父が出場する『天叢雲アメノムラクモ』の興行をほぼ全て現地で観戦している。岳の試合内容などを紹介するブログの運営を引き受けている為で、毎回、記者のように分厚いノートを抱えて会場に赴くのだ。

 八雲岳という一人の総合格闘家の活動記録を管理し、これを世間に向けて発信するのが彼女の務めである。流されるような形で連れて来られたキリサメとは異なり、気合い十分で観戦に臨んでいるのだった。

 未成年の二人を岳に代わって引率するのはむぎいずみもんなる男性だ。

 年齢は大して変わらないようだが、筋肉の鎧をまとった岳とは違ってこちらは餅のように福々しい。腹部はだらしなく突き出し、顎のラインは贅肉に埋もれて分からなかった。

 プロレス団体に所属していた頃の後輩と岳には紹介されたものの、それすらキリサメには信じ難かった。彼が記憶するプロレスラーは岳のように筋肉が引き締まっている。むしろ麦泉の体型は相撲取りに近いだろう。

 頬も横に出っ張っているのだが、目元や鼻筋といった個々のパーツが柔らかい為か、まとわり付いた贅肉が「見苦しさ」ではなく「愛くるしさ」を演出しているように思える。何ともな面立ちといえよう。

 見た目通りに物腰も穏やかで、彼が『八雲道場』を訪問した際に初めて挨拶を交わしたキリサメは一瞬たりとも警戒心を抱くことがなかった。


「ペルーから日本こっちに来て驚くことばかりだと思うけど、少しは落ち着いたかな? 困ったことがあったら何でも相談に乗るからね。センパイと違って頼りないだろうけど、話は聞いてあげられると思うからさ」


 押し付けがましいとさえ感じられるような岳の気遣いに困惑していたこともあり、麦泉から掛けられた言葉はじんわりと心に染み入ったものである。胸を叩く代わりに太鼓のような腹を弾くという愛嬌に気持ちも和まされていた。

 親しい親戚のような感覚なのであろうか、未稲も麦泉には相当に懐いており、苗字ではなく「文多さん」と名前で呼んでいる。何やら熱を帯びた視線まで送っているが、本人には全く気付かれていない様子だった。

 八雲家との深い絆は当然というべきか 麦泉は岳専属のマネージャーを務めている。

 試合に向けた体調管理だけでなく、『天叢雲アメノムラクモ』の運営会議への出席やトレーナーとしての出張など、八雲岳にまつわる全てのスケジュールを取り仕切っているのだ。トレーニングの内容も細かく確認し、オーバーワークで身体を壊さないよう目を光らせている。

 既にキリサメも何度か顔を合わせていたが、それだけでは知り得ないことも多かった。会場入りに先立ってゲスト用の入場許可証パスを渡されたのだが、麦泉の物には身分証明の項目もあり、それを見てようやく勤務先を把握したのだ。

 スポーツプロモート企業『サムライ・アスレチックス』マネジメント部門常務と記されている。くだんの企業は『天叢雲アメノムラクモ』の主催者であり、その社員という身分はキリサメと未稲を引率する人材として誰よりも相応しいだろう。

 何しろ有能な男である。キリサメが日本へ移住するに当たって段取りを整えたのが麦泉文多その人なのだ。

 勿論、現地で奔走したのは岳であり、便宜を図ったのは国家警察だが、麦泉は迅速に手続きが終わるよう申請方法を細かく調べ上げ、必要な書類まで作成していたのである。

 地球の裏側に所在する国で海外移住という複雑な手続きを終えられたのは麦泉の尽力があったればこそ。岳の独力では間違いなく失敗したことであろう。その事実を知った瞬間にキリサメは素直な気持ちで頭を下げていた。

 しかし、『天叢雲アメノムラクモ』に関してだけは、主催企業の一員でもある麦泉を満足させられるような反応リアクションができないだろうと思っている。

 生まれて初めてのMMA観戦はリングサイドでかじり付きという特等席である。これは統括本部長の家族にのみ許された特権であり、何とか狭い座席に収まろうとする一般の観客からすれば羨ましい限りの厚遇であった。

 キリサメ自身は窮屈な思いをしてまで観戦するだけの値打ちを未だに見出せていない。怒涛のような歓声を上げ、熱狂する人々とはどうしても心が交わらないのだ。

 MMAのファンを小馬鹿にしているわけではない。ただ目の前の場景をれる理由が見つからないだけである。

 やたらと派手派手はではでしい演出はそれ自体が非日常であり、この世ならざる時空の渦中なかへ引きずり込まれていくような錯覚にキリサメは戸惑うばかりである。

 スポットライトが激しい明滅を繰り返したかと思えば、脳や内臓を揺らすほどの大音量でアップテンポの楽曲が垂れ流しとなり、これから試合を行おうというリングに花火が降り注ぐ瞬間もあった。


「……あの、麦泉氏……」

「んん? 麦茶がどうしたの? 喉乾いた?」

「リングから離れた所に大きなステージが組まれてますけど、あれは何ですか……?」

「あー、ドーナッツはここの売店には置いてないと思うよ! 焼きそばはあった!」

「あんなステージって格闘技に必要なんでしょうか? ……それを言い出したら、こんな花火も火炎放射みたいな装置も、全部いらないって話になるけど……」

「了解! 夕飯はあんかけかた焼きそばとソーキそばにしよう! どっちも食べれる店を知ってるから任せて! それにしてもキリサメ君、冗談みたいな食べ合わせをするね!」

「……もういいです……」


 興奮をあおる演出とはいえ、ここまで過剰にする必要があるのか、麦泉にたずねようするキリサメだったが、周りの喧騒が余りにも大きくて質問そのものが押し流されてしまった。

 岳が場内に姿を現したのはそれから間もなくのことである。

 舞い散る鷲の羽根の模様を金銀糸で刺繍した焦げ茶地の長着に墨色の袴を合わせ、その上に黒い陣羽織を着込んでいる。今日は六文銭ではなく白雲の紋様を背負っていた。

 スポットライトを全身に受けながら、岳はリングへと続く花道ランウェイを何時になく神妙な面持ちで進んでいった。


「……岳氏の羽織ってる革っぽいコート、背中に雲のマークがありますけど、どういういわれがあるんですか? 確か家の表札にも同じ物が刻んでありましたよね?」


 今度は未稲に質問を投げるキリサメだったが、彼女は真剣な面持ちでノートに筆を走らせており、真隣からの声すら耳に届いていない様子である。

 暴風雨の如く渦巻いていた喧騒が一斉に止んだのは、リングに上がった岳が四方の観客たちへ一礼した直後である。彼の纏うしめやかな空気が言外に静聴を求めていた。


「――悲しむべきことですが、世界には不当としか思えない暴力が溢れています。戦争、貧困、思想など暴力に及ぶ背景は様々ですが、突き詰めた果てに現れる引き金は、やはり人間の心だと私は思うのです」


 スタッフがリングの中央に用意したスタンドマイクと向かい合った岳は一瞬の瞑目を挟んだのち、おもむろに口を開いた。


「愛するモノを守るべく取った行動だとしても、ままならないことを強引に捻じ曲げようとした瞬間から不当な暴力でしかなくなるのです。それは大いなる過ちであり、償うべき罪です。……先日、ニューヨークのマンハッタンで起きてしまった事件、ご記憶にある方も多いと思います。あの場に正義がなかったことを私はハッキリと断言できます」


 下北沢駅近くで遭遇した都知事候補が演説の中で取り上げていた傷害致死事件ということはキリサメにもすぐに分かった。尤も、格闘技自体に興味がない為、くだんの悲劇を例に引いた言葉も上滑りするのみであり、物音一つ立てず真剣に聞き入っている人々も滑稽に見えてならなかった。


「心の底から格闘技を愛する者として、あの事件で犠牲となった人が少しでも安らかに天へ召されること、また世界は不当な暴力ではなく善良な心によって形作られていることが伝わり、いつの日か、その魂までも癒されるように、……今はただ祈るしかありません」


 海を渡った先で〝不当な暴力〟に飲み込まれた命への哀悼を紡ぎ終えた岳は場内の皆に黙祷を呼び掛けた。誰もがこれに従い、六〇秒の間、旧五輪施設は沈黙に包まれる。

 キリサメも未稲や麦泉に倣って起立し、黙祷を捧げる姿を真似てはいるものの、見ず知らずの人間の死を悼む感覚が理解できない為、気持ちは全く入っていない。


「格闘技が不当な暴力でないことを証明する――それが信州に集いし我らの使命です!」


 岳の大音声と法螺ほら貝の音色が厳粛な空気を打ち破り、次いで勇壮な音楽が流れ始める。オープニングセレモニーの幕開けを告げたのは『天叢雲アメノムラクモ』の主題曲メインテーマであった。

 まずは参加選手の紹介である。青コーナーと白コーナーに分かれた入場口からリングへと向かう花道ランウェイにそれぞれ数名ずつ整列する段取りのようだ。芝居がかった語り口調のアナウンスに呼ばれる度、一人また一人と場内に姿を現した。

 駆け付けたファンへ応えるように手を振る鷲鼻のスペイン人、戦地へ赴く兵士のような面構えで静かに歩を進めるロシア人、勢いよく入場口から駆け出して転ぶアフロ頭のブラジル人、軽くフットワークを披露するギリシャ人、太々しい態度で周りに睨みを利かせる巨体のモンゴル人――浮かべる表情も国籍もそれぞれだ。クロアチア出身の選手に至っては祖国から逃れた離散民ディアスポラだという。


「みんな、元気にしとったかー⁉ 約束通り、帰ってきたでーッ!」


 両腕を突き上げつつ入場してきたのは虎柄のトラックスーツに身を包み、頭部の全面をバンダナで覆ったローガンという最年長選手である。流暢な関西弁を喋っているが、生まれも育ちもアメリカだ。怪我で戦線を長期離脱しており、およそ一年ぶりの復帰となる。

 先程の言葉から察するに完全回復をアピールしたいのだろう。これを受けて観客たちも「待ってたでーっ!」と関西弁で嬉しそうに応じていた。

 生粋の日本人はただ一人である。ヒサシの如く前方へ大きく突き出したリーゼント頭を上下に揺さぶりつつ肩で風を切っていた。

 荒々しい猛獣が群がる花道ランウェイに美麗な彩りを添えるのは女性選手たちの存在だ。

 健康体操の指導員インストラクターとしても活動しているという小柄で痩身そうしんのインド人は、優しげな眼差しで場内の様子を見回していた。

 彼女の瞳が微動だにしなくなったのは四角い戦場リングを捉えた瞬間のこと。そして、それ自体が比類なき〝戦士〟であることの証明である。事実、シャツの袖やハーフパンツの裾から鋼鉄はがねの如く鍛え上げた四肢を覗かせ、見る者を圧倒しているのだ。

 指定された場所に立つなり瞼を閉じて精神統一を始めた者と、毒々しいフェイスペイントを施した大柄な者は共に日本人選手である。

 居並ぶ選手たちはいずれも大歓声をもって迎えられていた。フリルスカートのような出で立ちの女性選手が入場口から飛び出してきた瞬間など観客席の一角で爆発でも起きたのかと思い、未稲の身を咄嗟に庇ってしまったくらいだ。


「い、いや、あれはフーリガンみたいな人じゃなくてファンがはっちゃけてるだけで危険なコトは何もないから! せ、声優ファンは大体、あんな風に熱烈なのっ!」


 唐突に抱き寄せられた上、「何があっても守ります」と耳元でささやかれてしまった未稲は全身をリンゴ色に染め抜いており、キリサメに状況を説明する声も相当に上擦っている。

 キリサメの身体を押し返しつつ紡がれた説明によると、際立って異彩を放つ女性選手は現役の人気アイドル声優だという。立ち技主体の格闘技の経験があり、これに注目した主催側が特別枠スペシャルゲストとして出場を打診したそうである。

 小さな棒状の照明器具ケミカルライトを振り回しているのは従来からのファンなのだろう。

 そもそも〝アイドル声優〟という職業自体がどういうものなのか、キリサメには分からない。観客席の一部で白熱しているファンの様子を読み取り、タレントの一種なのだろうとは推察したのだが、同時にそのような人間は場違いとも思えた。

 少なくとも華美に飾った服装は命を喰らい合う〝実戦〟の場に全く適していない。いわゆるツインテールに結わえた棗紅なつめぐ色の長髪を揺らしつつ、ファンに向かって愛想を振りまく女性がまともに戦えるとは思えなかった。

 右手首にはゼブラ柄のミサンガを巻いているが、装飾品を身に付けたまま〝実戦〟に臨むという話は聞いたことがない。


(……僕も他人ひとのことは言えないか。以前は飾り布を『聖剣エクセルシス』に付けてたしな……)


 日本のサブカルチャーに明るくないキリサメには『さら・バロッサ』という名前も聞き覚えがなかった――そのはずであったが、彼女のファンが合唱するナンバーが鼓膜を打った瞬間、突如として記憶の回路が繋がった。あるいは風化しかけていた記憶の欠片が元の状態に復元されたと表すべきかも知れない。


(これってもしかして、……『かいしんイシュタロア』……?)


 リマの富裕層が利用する大型ショッピングセンターへ成り行きから連れていかれた際に少しだけ触れた日本のアニメシリーズではないか。記憶違いでなければ、警護ボディーガードの仕事を依頼された日本人記者や、国家警察の刑事ワマンが愛好していたはずである。

 光と闇の軍勢に大きく分かれた主人公たちはヘッドフォン型の神器を媒介として異世界の神々と同化し、人型機動兵器ヒューマノイド・ロボットのようにも見える甲冑や武器を具現化して戦うという筋書きであった。「ぶつかり合って初めて相互理解を得る」というテーマを掲げていたこともおぼろげながらおぼえている。

 主題歌によって題名タイトルを想い出したわけだが、番組概要まで記憶の奥底に留めていたことをキリサメ自身が誰よりも驚いていた。答え合わせのようにパンフレットを開くと確かに代表作として『かいしんイシュタロア』が挙げられている。どうやらシリーズ第一作から主演を務めているらしい。


(聞きたくもないのに聞かされたものは、嫌でも脳に焼き付くんだな……)


 想いも寄らない形でペルーの想い出と再会したキリサメの脳裏を少女の幻像まぼろしが掠めた。

 葬式帰りの喪服のようにも見える黒ずくめの少女であった。顔立ちは日本人のと良く似ているものの、肌の色はペルー人に近い。

 そして、自動車にでも撥ねられた直後のような痛ましい有り様である。額から後頭部に掛けて包帯を巻いており、テープによって固定されたガーゼが左目全体を覆っていた。顔面には絆創膏でも隠し切れないくらいの擦り傷や青痣が散見され、右腕に至っては肩甲骨の辺りで結び合わせたスカーフにて吊っている。

 『かいしんイシュタロア』と初めて遭遇したショッピングセンターの風景には傷だらけの少女も溶け込んでいた。風変わりな喫茶店で美味そうにスープパスタを頬張る姿も幻像まぼろしにしてはやけに生々しく浮かび上がるのだ。


「……キリサメさん、すっかり釘付けになってるけど……ひょっとして、が好みだったりするのかな?」


 脳裏の幻像まぼろしを打ち消し、その意識を現実へと引き戻したのは未稲の声であった。

 再び瞳に捉えた未稲は目を丸くしていた。

 自分から何かに興味を持つことの少ない同居人キリサメがよりにもよって今大会で一番と言って良いほど異色の選手に視線を注いでいるのだ。そのことに驚かないわけがない。

 少しばかり口元が引きっているのは、未稲じぶんに対しては無関心にも関わらず、巷で人気のアイドル声優には入れ込むのかという女としての悔しさが芽生えた所為せいだ。

 希更のファン以外はにわかにトーンダウンした為、未稲の声を正確に拾えたのだが、その言動と意味がキリサメには理解できなかった。

 それ故に彼は首を傾げることで未稲への返答こたえに代えた。

 相変わらず感情の発露は薄いものの、内心では救われた気持ちだった。偶然なのか、天の導きであるのか、追憶という名の〝闇〟へ捕まりそうになるたび、隣に居るこの少女が引き留めてくれるのだ。

 今度もまた珍妙な表情かおで己が魂を留め置くべき〝世界〟を示してくれた。瞳に映すものが傷だらけの少女から新しい同居人の顔へ切り替わったとき、気取られないように安堵の溜め息を零したほどである。


(……〝あいつ〟には乗り換えが早いって笑われそうだけどな……)


 幻像まぼろしの余韻を振り払ったキリサメは追憶の引き金ともなったアイドル声優――希更に目を転じた。自分たちより僅かに年上であろう女性は顔立ちからしてはつらつとしている。

 観客席の一角から声援を送っている人々は、あの小奇麗な顔が血みどろにされ、何ともの激しい肉体がなぶられるところでも眺めたいのだろうか。それを楽しみにして大挙したのだとすれば、これ以上に悪趣味なことはあるまい。

 ショーアップされたものではない〝実戦〟という標榜と矛盾してはいないか――MMAへの疑念がキリサメの中で一等膨らんだ頃、出場全選手の紹介が終わった。

 青白両コーナーそれぞれの列の先頭に立っていた者がリングに向かっていく。

 これに合わせて岳はリングから降り、他の選手たちも控室に戻り、程なくして第一試合の準備が整うのだった。


 『天叢雲アメノムラクモ』は原則的にトーナメント戦ではない。敢えて体重別の階級を設けず、全ての選手が〝対等の条件〟で試合に臨む無差別級ワンマッチ形式となっている。今回の興行に出場した選手は合計一二人。つまり、全六試合分の対戦カードが組まれたわけである。

 第一試合は、リーゼント頭が印象的な城渡じょうわたマッチという日本人選手と、アンヘロ・オリバーレスなるスペイン人選手の一戦であった。

 白コーナーを見据えたオリバーレスも、青コーナーから突き進んでくる城渡マッチも、共に上半身は剥き出しだ。前者はオーソドックスな競技用のトランクス姿だが、後者は太腿の部分が異様に広く、裾が細いと言う変形の黒ズボンを穿いていた。

 いわゆる、『ボンタン』と呼ばれる物であった。これを穿いた上で腹にサラシを巻いている。出で立ちからして気迫がみなぎっているといえよう。


「――気合い入れていくぞ、オラァッ!」


 城渡マッチの吼え声を合図に両者がリングに上がった。

 選手たちが支度を整えるまでの間には大型モニターでPVプロモーションビデオが上映されるのだが、選手たちの日常や練習風景を切り取って垂れ流すことに何の効果があるのか、キリサメには全く分からない。

 それでも大勢の観客は怒涛のような歓声を上げるのだ。

 自分だけが取り残されたことはキリサメも自覚している。両隣に座った未稲も麦泉も、真剣な面持ちでリングを見据えている。二人のような表情はどうしても作れなかった。

 間もなく開戦のゴングが鳴り響き、先手必勝とばかりに城渡マッチが突っ込んでいく。

 リーゼント頭を大きく揺らしながら拳を振り抜こうとする勇姿を間近に捉えても、キリサメには何一つ感じるものがなかった。

 いつかの夜のように、全身の血が滾るということもない。

 腕力自慢らしい城渡は一Rラウンド序盤からパンチの連打でオリバーレスの身動きを封じ、優勢を保っていた。しかし、二Rラウンド目に突入した途端、あっさりと逆転を許してしまう。

 城渡が致命傷狙いで大振りの右拳を繰り出した直後、オリバーレスの反応速度が跳ね上がった。相手の身のこなしに逆らわぬよう腰を捻りつつ懐に潜り、回避と同時に右腕を捉え、一本背負いで鮮やかに切り返したのである。

 解説担当の分析によれば、オリバーレスは城渡の呼吸を見極められるまで敢えて防御に徹していたという。

 人間のあらゆる行動には必ず〝呼吸〟が伴う。このタイミングを正確に把握できるようになったなら、相手の出鼻を挫き、完封することも不可能ではなくなるのだ。果たして、オリバーレスはこれを見事にやってのけたのである。

 解説担当の言わんとしていることはキリサメにも理解できた。

 一Rラウンド一〇分を丸々費やすとは、時間を掛け過ぎではないかと思わなくもなかったが、パンフレットの解説によると城渡はベテラン選手。簡単には呼吸を読ませなかったということなのだろう。

 二Rラウンド目の攻防については麦泉も補足説明も加えてくれた。

 オリバーレスは柔道の金メダリストであるという。スペイン代表として夏季五輪に出場した経験があり、その上で打撃系の格闘技をも修めた実力派なのである。

 対する城渡は直接打撃フルコンタクト系空手一本のみ。それも我流に近く、ベテランと呼ばれる年齢になった今でも試合の組み立て方が粗雑アバウトなのだ。

 腕っぷし一つで中学、高校と番長の座に君臨し、二〇一四年現在も暴走族チームを束ねている城渡だが、金メダリストから見れば自慢のパンチも稚拙でしかないのである。

 城渡マッチは今年で三八歳。オリバーレスは四二歳。年齢は大して変わらないが、積み重ねてきたキャリアが飛び越え難い差となって両者の間を隔てていた。

 結局、城渡は形勢を逆転させることができなかった。

 一本背負いで転がされた直後、背後から抱え込むような恰好で首を絞められたのだ。今にも吹き飛びそうな意識を根性で繋ぎ止め、レフェリーから勧告されても降参ギブアップせず、四肢に力を込めて立ち上がろうとしたのだが、最後にはこの無理が敗因となり、泡を吹いて失神することになった。

 打撃一辺倒の城渡にとって、オリバーレスとの試合は無理を押しての挑戦だったと麦泉は明かしたが、その覚悟はついに実らなかったのである。


「ありがとうございます、総長! 激アツのド根性、胸に刺さりましたッ!」


 暴走族チームの舎弟と思しき男たちは大音声で自分たちの総長アタマを絶賛した。中でも異様に目立っているのは高校生と思しき少年だ。いわゆる学ランを身に付けているのだが、未稲が言うには都内でも指折りの不良ワルが集まるしまじゅうこうぎょうこうこうの物だという。


「岳氏から押し付けられた学校案内にあんなような制服があった気はしたのですが……」

「分からないのも無理ないよ。あの人、学ランを改造してるし。……島津十寺工業シマコーはガラ悪くて有名だから、町で見掛けても無視スルーしておいてね」


 『短ラン』と呼ばれる変形の学生服に城渡と同じ『ボンタン』を合わせた少年が同校でも手を焼くほどの問題児であることは一目瞭然だった。城渡に拍手を送らない観客が視界に入るなり血走った狐目で睨み付け、「総長の顔に泥塗るつもりか、てめぇら⁉ 文句があんならてめぇがリングに上がれや! 相手になったらァ!」と噛み付き始めたのだ。

 耳障りなダミ声は成人もしていない内から酒や煙草たばこを好んでいる証拠であろう。金髪のパンチパーマは額の剃り込みが鋭角で、鼻の下に蓄えた髭と相まって人相の悪さを一等際立たせている。

 城渡のセコンドから「つるぎ、落ち着け」と制止の声が飛ばされなければ、自分が望む通りの声援を送らなかった観客たちに危害を加えていたかも知れない。それこそ総長アタマの面子を潰すことになるのだが、狂犬じみた姿を見る限り、物事の分別が付くとは思えない。

 つるぎと呼び付けられた少年は自分たちの総長アタマが褒め称えられないことに腹が立って仕方ない様子だが、それも無理からぬことであろう。同じ暴走族チームの仲間はともかく、他の観客の目には惨敗としか映らないのだ。

 キリサメもキリサメでMMAというものは何を見ておけば良いのか、いよいよ分からなくなってきた。少し前に「総合格闘技とは読んで字の如く何でもアリの超過激ルール」と岳から教えられたのだが、それは誇張ではなかったのかと困惑しているくらいだ。

 身内であるかはともかく完敗した者を褒めることに何の意味があるのか。慰めにでもなるのか。これは日本独特の風習なのだろうか。負けは負け――ただそれだけではないか。

 勝者であるオリバーレスまでもが意識を取り戻した城渡に「ナイスファイト」と声を掛け、肩を組んで互いに健闘を称え合ったのである。日本ではこれを『慣れ合い』と言わないのだろうか。このような生易しい世界に〝実戦〟など成り立つまい。


「……スポーツマンシップってヤツなのかな……」

「ペルーにもあるんだ、そういう精神。マッチさん、見た目はカンペキに昭和のヤンキーだし、実際に暴走族ゾクやってるから怖いんだけど、根は良い人だから、勝っても負けても気持ちよく終われるの。あれも一種の才能だよね」


 独り言のつもりだった呟きを未稲に拾われたキリサメは、「納得しました」と無感情に首を頷かせた。

 それから幾つもの試合がキリサメの目の前で通り過ぎていった。もはや、MMAに対する焦点を見失ってしまった彼は、どこまでも無感情に受け流すばかりである。

 少しも興味のない映画や舞台に連れて行かれた人間が、誘ってくれた相手に気を遣って睡魔と格闘しているようなものである。それ故に印象に残るような試合もない。

 唯一の例外はアイドル声優が臨んだMMAデビュー戦合である。全選手入場の際に良くも悪くも記憶に刻まれた希更・バロッサは城渡の次にリングへ上がったのだが、さしものキリサメもこの試合だけは心が波立ったのだ。

 主演アニメのような神々の武器など持ち得ない生身である。なぶり者にされるだけだと予想していたが、〝実戦〟の場へ上がった彼女は一RラウンドでKOを勝ち取ってしまった。それもゴングが鳴って三〇秒が経つか経たないかという信じ難い速さで――だ。

 話題作りの『客寄せパンダ』などと陰口を叩かれる特別枠スペシャルゲストに期待などしていなかった観客たちにとって、それは驚天動地の結末だった。未稲に至っては握っていたボールペンを取り落としてしまったくらいである。

 希更が身に付けた桃色のラッシュガードの胸部には『バロッサ・フリーダム』と所属ジムの名称が英字で染め抜かれている。熊本県八代市に本部を置くこのジムはミャンマー由来の古い格闘技『ムエ・カッチューア』を伝授しているそうだ。

 その破壊力に誰もが冷たい戦慄を覚えた。相手の頭部を抱え込み、身動きを制した瞬間に眉間目掛けて膝を突き上げ、ただその一撃で決着をつけたのである。

 毒々しいフェイスペイントが強烈な相手選手は重量級であり、両者の体重差は二倍近く開いていた。女子プロレスをバックボーンとする中堅クラスの格闘家であり、『天叢雲アメノムラクモ』でも五戦五勝と高い実力を示していた。

 それにも関わらず、希更が相手では一分もたなかったのだ。

 直撃の勢いを利用して首を捻れば間違いなく頸椎を破壊したはず――飛び膝蹴りの威力を分析するキリサメは『ムエ・カッチューア』という名を心の中で繰り返した。


「まるで『ダイダロス』みたいな飛びヒザだったよ。……つむぎちゃんだけじゃなくて声優本人までこんなにデタラメだったなんて……っ!」


 未稲が呟いた『ダイダロス』とは『かいしんイシュタロア』シリーズで希更が演じている主人公――あさつむぎが振るう神槍やりなまえだ。槍の如き一撃とは言い得て妙であった。

 担架で運ばれていく相手選手を尻目に、主演アニメにちなんだポーズでファンの声援へ応える希更の姿に未稲は背筋が凍る思いだった。取材ノートに設けられた要注意人物リストに彼女の名前も加えなくてはなるまい。


 そして、迎えた第五試合。

 芝居がかった言い回しでセミファイナルとアナウンスされた後、尺八と津軽三味線、陣太鼓による合奏が場内に鳴り響いた。生演奏ではなくスピーカーから流されているのみであるが、大音量ということもあって凄まじい迫力だ。

 間もなく青コーナーへ通じる花道ランウェイにプロレスパンツを穿いた岳が現れた。あちこちにろくもんせんを散りばめた草色の陣羽織を纏い、レスラー仕様のリングシューズに包まれた両足を一歩ずつ進め、その双眸は四角い戦場リングを静かに見据えている。

 やはり戦国武将のようなまげを下ろし、首の付け根の辺りで一本に結わえていた。

 普段は間の抜けた表情ばかりなのだが、今日は眼差しからして凛々しい。これが八雲家の家長ではない総合格闘家としての岳なのだ。大歓声を一身に受けながら堂々と歩いていく威容すがたは八雲道場の壁に貼ってあるポスターそのままだった。

 見違えるような岳の姿にキリサメは少なからず驚いていた。今の岳であれば半ば口癖になっている「うっかりしていたぜ」とは絶対に言わないだろう。

 それ以上にキリサメを驚かせたのは観客席の動きだ。ある一角では揃いの赤いTシャツに身を包んだ人々がアリーナの天井を揺らすほど凄まじい声援を迸らせ、数十名の手で巨大な横断幕まで掲げているではないか。

 赤地の横断幕には岳に対する熱烈な応援メッセージが金糸でもって刺繍され、その中央には六枚の古銭を組み合わせた紋様が白抜きされている。

 古銭を組み合わせた紋様は紛れもなくろくもんせんである。それが為にキリサメも双眸を見開いたのである。


「あれは長野市で活動している社会人プロレスの人たちだよ。『まつしろピラミッドプロレス』っていう団体なんだけど、センパイが外部コーチをしているんだ」


 キリサメが赤い横断幕に反応していると気付いた麦泉は火の玉のような声援に飲み込まれないよう耳元へ口を寄せ、観客席の一角を地方プロレス団体が占めていると説明した。

 耳打ちの姿勢を羨ましそうに眺めている未稲はさておき――麦泉から受けた説明はキリサメにとって非常に分かり易いものであった。

 二〇〇〇代半ばに日本MMAが途絶えた後、現役を退いた岳は若かりし頃に長野市で修行していた縁から地方プロレス団体――『まつしろピラミッドプロレス』に外部コーチを依頼され、今も定期的に技術指導を行っているという。


「あそこの、ほら……先頭に立ってるマスクマン。あれがスター選手だよ」


 麦泉が指で示した先には剥き出しの上半身に赤いスパッツを穿いた奇妙な男が立っている。同じ火の玉のような色のプロレスマスクで顔の大部分を覆っており、眉間では金の刺繍がきらめていた。

 八雲道場のガラスケースへ宝物のように納められていたハゲワシのマスクは顔面を全て覆い尽くす密閉性の高い物であり、目の部分もピンホールメッシュで覆われていた。これに対して火の玉の如きマスクのほうは両目と口の部分が刳り抜かれており、そこだけ地肌が覗けるように仕上げられている。


赤備あかぞなえ人間カリガネイダーっていってね。ローカルヒーローと一緒くたになっちゃったような人だけど、これがなかなか面白い試合をするんだ」

「……初歩的な質問なんですけど、社会人プロレスって一体……?」

「――会社勤めの人たちが趣味でやってるアマチュアプロレスのコトだよっ」


 耳を澄ませて二人の会話を盗み聞きし、隙が生じた瞬間にすかさず割って入った未稲は半ば強引に麦泉の説明を引き取った。キリサメから彼の身を引き剥がした恰好である。

 未稲は『まつしろピラミッドプロレス』についてアマチュアのプロレス団体と説明している。これがキリサメの混乱を更に煽った。

 そもそもプロレスとは『プロフェッショナル・レスリング』の略称であろう。〝プロ〟と〝アマ〟が併記されることは文法上の誤りのように思えてならなかった。二人の説明から察するにアマレスと呼称されることがあるレスリングとも違うようだ。

 余計に地方プロレスの性質が分からなくなったキリサメは我ながら的確な説明だったと満足げにしている未稲に対して、困ったように首を傾げるばかりであった。

 その頃には岳もリングサイドまで辿り着いている。

 特等席の中から子どもたちを探し出し、わざわざ力こぶを作って勝利を誓う岳であったが、家族の反応が余りにも淡白なので思わず転びそうになってしまった。


「クールにしていられるのも今の内だぜ、キリー! お前の闘志に火を付けてやンよ!」


 直接、呼び掛けられたキリサメは面食らって双眸を瞬かせるばかりだ。実の娘に至ってはノートで顔を隠してしまっている。

 日本MMAの先駆者にして『天叢雲アメノムラクモ』統括本部長という重要な立場にあり、セミファイナルという興行の山場を担うほどの選手がリングへの途上で立ち止まり、家族に声など掛けようものなら必ず撮影用のカメラを向けられる。そうやって注目されることが未稲は厭で仕方ないのだ。

 東京から長野という遠征にも関わらず、今日も彼女は長袖のシャツにジーンズというラフな装いだ。普段着同然の恰好を世間に晒したくないと抗う乙女心に違いはないが、それならば何故に「美少年一番搾り」などという意味不明な文面の刷り込まれたシャツを選んだのか。カメラで撮られるまでもなく、既に十分過ぎるくらい悪目立ちしているのだ。

 隣のキリサメは例によって例の如く丸顔のマスコットキャラクターがバックプリントされたシャツを身に付けている。尤も、彼の場合は服装というものに無頓着なので未稲のように恥じらうこともなかった。

 シャツの裾をジーンズの外に出した姿は見る人によってだらしなく感じるかも知れないが、そのようなことなど少しも気にしない。長い袖に付着した大きな埃すら気付いていないだろう。


「センパイ、センパイ! 進行を妨げちゃいけないですよ! 速やかにどうぞ!」

「わーってるよ! くそぅ……可愛げねぇなぁ、うちの子たちはよォ~」


 麦泉から前進を促された岳はぶつくさと不満を零しながらロープを潜ったものの、いざ戦場リングに立つと、その瞬間から再び表情が引き締まった。

 弱肉強食の世界を生き抜いてきた戦士の威容すがたに戻ったのだ。

 一方、白コーナー側の通路を進んでくる岳の対戦相手も凄味のある面構えだ。和楽器の合奏に替わって場内に流れ始めたのはモンゴル国の民族音楽なのだが、哀切の感情を揺さぶられるような女性の歌声と弦楽器の音色は、この男にはまるで似つかわしくない。

 実は殺人鬼ではないかと疑いそうになるくらい鋭い眼差しで岳を睨みつけていた。

 筋肉と贅肉を程よくない交ぜにしたような巨体を揺さぶりながら闊歩する男の名前はバトーギーン・チョルモン。民族音楽を背にすることからも察せられる通り、モンゴル・ウランバートル出身の総合格闘家――だが、日本では別の呼び名のほうが有名だった。

 もと横綱の『はがね』。学生時代にモンゴル相撲の王者となり、次いで日本の角界に飛び込んで天下無双の強さを見せつけながらも絶頂期で引退。一時期は祖国モンゴルで政界進出との噂もあったが、現在、MMA選手として『天叢雲アメノムラクモ』のリングに立っている。

 アンコ型の力士だったこともあり、競技用のトランクスを穿くと胴回りに付いた豊かな肉が溢れそうになるが、その下には獰猛な闘争本能と強靭な筋肉を兼ね備えているのだ。

 土台の骨組みを軋ませつつリングに上がった鬼馬鋼ことチョルモンは至近距離で岳と対峙したことによって更に殺気を膨らませたようである。

 大抵の選手は試合の直前には気が昂っているものだが、ここまで来ると尋常ではない。レフェリーばかりか、チョルモン側のセコンドまでもが冷静になるよう宥めるほどだ。


「……お父さん、五体満足で帰ってこれるかな……」


 未稲の表情が俄かに曇った。よりにもよって、もと横綱が父に殺意をぶつけているのである。対戦相手だから仕方ないとはいえ不安を覚えずにはいられないのだ。が角界を席巻していく凄絶な快進撃は彼女の記憶にも刻み込まれているのである。

 未稲の隣に座るキリサメは右の手のひらを己の左胸に重ねた。リングサイドという近距離でチョルモンの殺気に触れた瞬間、心臓が早鐘を打ち始めたのだ。


(……マズいな、アイツ……)


 MMAに対する焦点を失って以来、感情が冷え切り、意識を遠くに飛ばしていたキリサメにとって、それは思いも寄らない事態である。脳が痺れ、血が滾る程ではなかったが、確実に心身が反応しているのだ。

 動揺を抑えられなくなったキリサメと未稲はともかく、リング上の岳は冷静そのものである。死の危険を恐れるどころか、微笑でもってチョルモンの殺気を受け止めていた。

 もと横綱が敵愾心を剥き出しにして襲い掛かってくるのだから間違いなく試合は大荒れとなるだろう。傍から見れば身も凍るような事態を岳は心から楽しんでいるのだ。

 喜色満面の岳にキリサメは虚を衝かれたような思いだった。麦泉は「センパイのエンジンが掛かった」と勝利を確信したように拳を握り締めているが、良い兆候であるわけがなかろう。

 チョルモンという男はルール上で確保された安全性を踏み壊すつもりのようである。何とも皮肉なことだが、もと横綱が凶暴さを剥き出しにしたことで初めて『天叢雲アメノムラクモ』のリングが〝実戦〟の場となったわけだ。

 敗北がそのまま死を意味する命のやり取りなどMMAのリングでは望まれていない。多目的アリーナを埋め尽くさんばかりに観客が詰め寄せているが、彼らが楽しみにしているのはあくまでも競技スポーツであろう。

 統括本部長の肩書きを背負う岳は、選手の安全と観客の満足を同時に達成し得る興行を作り上げるべく今まで苦労を重ねてきたはずだ。

 その本人がMMAという競技の崩壊を喜んで良いのだろうか。長年に亘る血と汗の結晶を自らの手で壊すようなものではないか。〝実戦〟に敗れて絶命する可能性を喜ぶということは『天叢雲アメノムラクモ』の全否定にも等しいのである。

 そのようなキリサメの戸惑いを置き去りにして開戦の刻限ときが近付いていく。


「――近代総合格闘技の先駆者と、相撲界を震撼しんかんさせた最強横綱! 現代を生きる二つの伝説が〝信州布武の陣〟でついに交わる! これぞまさしく雷電為衛門らいでんためえもんのお導きでありましょう! 歴史に名を遺す伝説の力士は奇しくも信州出身! 誰もが成立不可能と疑わなかった対戦カードは雷電の御霊みたまのもとに実現し、ここに新たな歴史を刻むのです!」


 セミファイナルだけに実況にも力が入る。パンフレットの紹介によれば『天叢雲アメノムラクモ』以前からMMAの実況を務めてきた女性フリーアナウンサーで、名前をなかはらというそうだ。

 興奮し過ぎて完全に声が裏返っている仲原アナが語ったように、いやが上にも注目度が高まる対戦カードといえるだろう。リング上にみなぎる緊張感は会場全体にも波及していた。

 岳とチョルモンはそれぞれのコーナーポストと同色の指貫オープン・フィンガーグローブを嵌めている。資金だけでなく物品も『天叢雲アメノムラクモ』に提供している『ハルトマン・プロダクツ』の社名が手首に刷り込まれた物である。

 『天叢雲アメノムラクモ』の出場選手たちは開戦ゴングに当たって互いの拳を突き合わせるのだが、これは格闘家としての礼儀であると同時に正々堂々と闘おうという意思確認でもあるわけだ。何より重い誓約といっても過言ではない。

 そして、青と白――二つのグローブが重なり、闘う意志のもとに交わると、そこに空のいろが表れる。蒼天を往く白い叢雲がリング上に煌めくのだ。

 格闘技の可能性は空のように果てしない。全ての格闘家が目指すべき理念と、武の顕現たる伝説の神剣を引っ掛けて、岳は二〇一一年の旗揚げ時に『天叢雲アメノムラクモ』という名称を付けたのだった。

 ところが、チョルモンは格闘家として当たり前の礼儀すら尽くそうとしなかった。蒼天と白雲のグローブを重ね、『天叢雲アメノムラクモ』の理念を表そうという岳を拒絶したのである。

 拳を突き出した岳にわざと背を向け、自分のコーナーポストに引き下がっていった。レフェリーから飛ばされた注意を無視し、観客にブーイングを飛ばされてもセコンドが戻るよう訴えても聞く耳持たないといった太々しい態度でゴングを待ち続けている。

 鬼馬鋼の四股名で横綱を務めていた角界時代から豪放磊落で、その言行を何度も問題視されていたが、少なくとも『天叢雲アメノムラクモ』のリング上では悪質と批難されるような振る舞いはしていなかった。これまでは対戦相手と必ずグローブを突き合わせていたのだ。

 彼がこのような無作法を見せるのは初めてのこと。それはつまり、『天叢雲アメノムラクモ』の産みの親に対する挑発あるいは挑戦ということである。

 MMAルールに則るという誓約が果たされなかったことは競技から〝実戦〟に変わった象徴と思えてならず、キリサメの心臓が一等大きく跳ねた。

 一方の岳はチョルモンの非礼を責めず、レフェリーに速やかな進行を促した。

 その涼しげな態度で余計に刺激されたのだろう。血走った眼に憤怒を湛えたもと横綱はゴングが鳴り響くや否や、岳目掛けて猛烈に突っ込んでいった。

 相手の出方を窺うこともない。リングを軋ませながら身体ごとぶつかろうというのだ。MMAのリングに於いては張り手ではなく握り拳なのだが、直線の軌道を描く一撃は横綱時代に猛威を振るった豪腕そのままである。

 両腕を交差させることで防御を固めた岳をも簡単に撥ね飛ばしてしまった。二〇〇センチに達する巨躯からだをガードの上から浮かび上がらせたのだ。

 観客席は一斉にどよめいた。爆発でも起きたのかと錯覚するほどの轟音が会場を揺るがした直後、岳は後方のコーナーポストに叩き付けられていたのだ。

 試合開始から数秒と経たない内の出来事であり、迂闊に瞬きをした人間はチョルモンが動いた瞬間さえ見落としただろう。


「そう来なくちゃ面白くねぇ!」


 不敵に笑った岳は再び突進してきたチョルモンを真正面から。根を張るかのようにリングを踏み締め、絶え間なく繰り出されるパンチを全て防御ガードして見せたのだ。

 試合開始直後に額を吹き飛ばして以降、チョルモンのパンチは威力も速度も全く衰えておらず、今も確実に上体を攻め続けているのだが、それでも先程のように撥ね飛ばすことができない。


「ヤクモ……ッ!」


 チョルモンは低い唸り声を洩らした。

 丸太のような腕から汗を飛び散らせつつ、胴や顔面あるいは顎と、左右の拳で狙う箇所を緻密に打ち分けているのだが、その全てが読み抜かれ、受け流されてしまうのだ。現在までに一発たりともパンチを直撃させられていない。

 チョルモンの攻め方は第一試合の城渡マッチと類似しているようだが、威力も精度も桁違いである。観客の目には腕の振り方が緩慢で、そこに付け入る隙があると見えなくもないのだが、彼のパンチは余人の想像よりも遥かに重く、身体の内部まで衝撃が貫くのだ。

 鉄球で殴られ続けるようなものである。防御を固めていても一撃ごとに骨身が軋み、肉体のほうが言うことを聞かなくなるのだから動作の間隙を縫って反撃することも難しい。

 チョルモンもそうやって何人もの選手を沈めてきたのだが、岳の防御ばかりはどうしても切り崩せなかった。


「――来た来た来た来た! 天下無双の名横綱! 四股名の如き鋼の拳を座布団かというほど叩き込むッ! 押し寄せるゥッ! これぞまさしく現代の蒙古襲来ィッ! 『超次元プロレス』を完全に釘付けだぁ~ッ!」


 自分の不利を伝える実況へ薄い笑みを浮かべるくらいに岳は余裕を保っている。


「これが蒙古襲来だとすれば八雲選手は博多の大防塁と言えるでしょう。一度はコーナーまで追い詰められましたが、今はビクともしません。何より八雲選手の本性は忍者。必ずどこかで裏を掻くはず。チョルモンもそれを警戒していますね。組み付くタイミングを計っていると思います。自分の土俵に持ち込み、『超次元プロレス』を潰す算段でしょう」

「あれッ⁉ 私、辛辣にダメ出しされてますッ⁉」

「いえ、それぞれの役割を果たしているだけかと」


 解説担当が努めて冷静に戦況を分析した直後、岳が動いた。依然として防戦の形ではあるのだが、あたかもチョルモンを押し返すように半歩ずつ前に進み始めたのである。

 コーナーポストを背にして山の如く動かなかった岳は、あっという間にリング中央まで戻って来た。相撲の立ち合いでたとえるならば張り手の応酬で土俵際まで追い込まれてから力ずくでその形勢を引っ繰り返したようなものであろう。

 もと横綱にとっては何にも勝る屈辱に違いなく、観客が沸けば沸くほど顔面は血の色が濃くなっていく。「大横綱様も寄り切り通じなきゃ勝負にならねぇな」というヤジが耳に入った瞬間、とうとう怒りの炎で沸騰し、激情の赴くままに大振りの一撃を繰り出した。

 しかも、この直線的な攻撃は握り拳ではなく掌を開いたもの――相撲の張り手だった。「大横綱様」などと虚仮にされて逆上したチョルモンは敢えて相撲の技を放ったわけだ。

 岳は右半身を開いて張り手を避け切り、そのまま反撃に転じた。身を放り出すようにして飛び跳ね、空中でコマのように回転しつつ左踵を落としたのだ。

 二メートル近い偉丈夫が宙を舞う様はさすがに迫力があり、これまでMMAを冷ややかに眺めてきたキリサメでさえ感嘆の溜め息を吐くほどである

 リマの貧民街で大立ち回りを演じる最中、目の端に捉えたものと同様の軽業だった。


「出たッ! 『超次元プロレス』だぁッ!」

「足を掴むのが本命ですか……」


 麦泉が叫んだ『超次元プロレス』の性質はキリサメにも

 岳は右踵を浴びせながら上体を後方に傾け、左手を伸ばしてチョルモンの足を取ろうと狙っている。脳天に直撃を被れば間違いなく意識を刈り取られるだろう重い蹴りは、実は敵の注意を頭上に逸らす為の罠というわけだ。

 だが、動作自体は踵落としに気を取られていると全く分からないくらいに小さい。父の試合を欠かさず観戦してきた未稲とて見落としているようなのだ。

 しかし、〝大横綱〟の目は易々とは欺けない。チョルモンは岳の狙いを即座に見切り、後方へ飛び退いた。もしも、その場に踏み止まって踵を受け止めていたなら今頃は足を掴まれ投げ倒され、関節技サブミッションにでも持ち込まれていたことだろう。

 防御ではなく回避を選択したことは的確な判断であった。振り落とされた踵が眉間を僅かに掠ったものの、脳を揺らすほどのダメージではなく、ましてや足も掴まれていない。

 アンコ型の巨体で俊敏なフットワークを披露したことに驚く声もあったが、そもそも相撲の世界では卓越した瞬発力なくして戦い抜くことは不可能なのだ。対峙の一瞬から爆発的な突進力を生み出し、相手力士にぶつかっていくのである。

 相手の出方を読み取り、有利な体勢へ持ち込むには反応が鈍くては話にならない。そして、瞬間的な高速移動を支えるのが強靭な足腰であった。

 鬼馬鋼と名乗っていた頃、チョルモンは負傷で棄権したことが一度もない。それほどまでに頑強な肉体であれば現役自体と殆ど同じ重量を支えることも苦ではないのだ。

 チョルモンの地力に改めて驚嘆した麦泉は同時にキリサメの眼力にも舌を巻いていた。

 この少年は「足を掴むのが本命」と踵落としの仕掛けを見極めていた。素人では絶対に分からない技巧わざを瞬時に読み取ったのだ。勿論、解説担当による分析を復唱したわけではない。そもそも足を狙った動作うごきについて言及されたのは岳が着地した後のことである。

 麦泉は目の端でキリサメの横顔を捉えた。先ほどまでつまらなそうにしていたので実は相当に心配していたのだが、今はすっかり岳の闘いに見入っている様子だ。

 おそらく、この少年の瞳はどんな小さなものでも岳の技を見落とさないだろう。

 無神経な真似だと弁えているので岳に訊ねることはなかったのだが、キリサメという少年は平和な日本では想像もつかないようなをペルーの貧民街にて経験しているのかも知れない。

 おそらくは何度も〝実戦〟を潜り抜けているに違いない。それも、ルールによって安全が保障された競技とは異なる領域たたかいを――だ。

 事実、キリサメの瞳はチョルモンの動きを抜かりなく見極めていた。

 一度、後方に飛び退いたもと横綱はリングの土台に悲鳴を上げさせながら着地し、そこから僅かに身を沈めたかと思うと、直後に体当たりへと転じた。

 相撲の立ち合いそのままの動作うごきであった。持ち得る限りの瞬発力を振り絞り、まさしく肉弾と化して岳にぶつかっていったのである。

 体当たりというよりは頭突きに近い。突進の直前に身を沈ませたのは足腰のバネを最大限に発揮する為の予備動作でもあろうが、それだけではなく斜め下から顎を突き上げようと照準を合わせたわけだ。


「ヌゥ――フゥゥゥゥゥゥッ!」

「ちと遅ぇッ!」


 吼え声と共に繰り出された頭突きを岳は右掌ひとつで押さえ込み、対の左拳で打ち下ろし気味のフックを見舞った。

 右側頭部こめかみを正確に打ち抜いた岳は右腕の力一つでチョルモンの巨体を押し戻すと、追撃としてローキックを見舞った。右足の甲でもって彼の左外膝を抉ったのである。

 離れ際に放つ恰好のローキックは二度三度と繰り返された。同じ右膝を両足で蹴り続けたのだ。勿論、膝の内側と外側を正確に狙撃している。

 己の肉体の頑強さに絶対的な自信を持っているチョルモンはローキックの連発へ割り込むように再び突進した――が、今度は頭突きが狙いではなさそうだ。両腕を低く構えた辺り、強引に組み付いて投げを仕掛けるつもりなのだろう。

 これを見て取った岳は無防備に晒されたチョルモンの眉間に迎撃カウンターのストレートパンチを叩き込んだ。

 それすらも重戦車の如き突進で弾き返し、岳の懐へ潜り込もうとするチョルモンだが、両腕を伸ばしかけた瞬間、いきなり前のめりに倒れ込んでしまった。

 意識を失ったわけではない。崩れ落ちたことを誰よりも驚いているのはチョルモン本人なのだ。すぐさま起き上がろうとするものの、しかし、右足から力が抜けてしまい、思うように身体が動かせなかった。

 ローキックの連打によるダメージの影響であることは誰の目にも明らかだった。


「重いーッ! 『これがおとこのキックだ、随いてこい!』と言わんばかりの猛攻にチョルモン選手、ついに崩れ落ちるゥッ! それもそのハズ、忍者ローキックがキマる度にリング上には重苦しい音が轟いていた! 〝てつはう〟を跳ね返した博多のげんこうぼうるいもあの蹴りには敵うまい! 大都の城門をもブチ破る鉄球だったのか~ッ⁉」

「肉体の強靭さは歴代横綱でも最高レベルでしょう。しかし、体重を支えてフットワークを駆使するには十分な膝であっても内部で炎症が起こっていれば話は別。八雲選手のローキックは天下一品ですよ。見た目以上に効いていると思います」

「相撲にローキックはありませんッ! 若かりし頃からリアルプロレスを貫いてきたおとこのローキックは鬼馬鋼関ぜきにとってMMAの洗礼かぁッ⁉」

「対ローキックのトレーニングはチョルモン選手も十分に積んでいると思います。この一戦、彼は並々ならぬ思いで臨んでいますし、アドレナリンの影響で痛みも感じなかったのでしょう。……ですが、物理的に壊れてしまっては本人にもどうしようもありません」

「モンゴル製の重戦車、履帯が切れてしまったのか⁉ 蒙古襲来は『超次元プロレス』という大嵐の前に座礁してしまうのかァ~ッ⁉」


 実況と解説が微妙に噛み合っていないような掛け合いを繰り広げる最中、レフェリーはチョルモンにダウンを宣告した。

 『天叢雲アメノムラクモ』ルールではダウンを宣告されてから一〇秒以内に立ち上がれなかった場合、敗北と見なされる。早くもレフェリーのカウントは猶予の半分を過ぎようとしていた。

 コーナーポストから試合を見守っているチョルモンのセコンドは一〇カウントの刻限ギリギリまで膝を休めるよう助言を飛ばした。

 選手をサポートするセコンドは複数名付くことができる。インターバルの最中のメンタルケアなど選手と共に試合を作り上げる重要な存在であり、状況によってはタオルをリング内に投入して敗北宣言を行う権限も委ねられているのだ。

 レフェリーが九つを数え終わった段階でダウン状態を脱すれば敗北にならない。チョルモンのセコンドはルール上で許された作戦をロープの外から指示したのである。

 指示に従わざるを得ないチョルモンは八カウント目で何とか立ち上がり、試合続行の可否を質してきたレフェリーを押し退けると、再び岳に向き直った。

 当の岳はダウンを奪うや否や、余裕を見せつけるようにして自分のコーナーポストまで戻り、不敵な笑みを浮かべながら両腕を組んでいる。

 彼が背にするコーナーポストには誰の姿もない。岳はセコンドを連れずにたった一人で試合に臨んでいるのだ。彼を『孤高の天才』と呼ぶファンも多いのだが、それは敢えて過酷な環境に身を置き、己の限界を超えんとする姿勢から付けられた異名であった。


「どこまでもナメ腐りやがって……」


 格闘たたかいの〝道〟を高潔に追い求める精神の持ち主を憤怒の眼光で射貫いたチョルモンは、モンゴルではなく日本の言語ことばで呻いた。


「お前なら小細工に頼らなくても良いハズだ。それなのにどうして『客寄せパンダ』を使うッ⁉ そんなに儲けが大事か? ……同じ失敗を繰り返したいのか、ヤクモッ⁉」


 岳の態度にいきり立ったチョルモンはレフェリーが止めるのも聞かず、テレビでは絶対に放送できないような罵詈雑言をリング中央で喚き散らした。

 チョルモンの発した言葉には実況と解説も含めて場内の誰もが息を飲んだ。

 格闘家にあるまじき態度であろうが、今度は誰もブーイングを飛ばさない。それはつまり、会場の皆がチョルモンの言葉に理があると認めている証拠であった。

 『客寄せパンダ』はいらないのだとチョルモンは〝統括本部長〟を批難していた。

 例え理があるとしても、『天叢雲アメノムラクモ』ルールに於いてはリング上での暴言は警告の対象と定められている。レフェリーもすかさず違反を通告しようとしたが、これは岳が制した。統括本部長として一選手の意見を受け止めるつもりなのだ。


「……個人的な恨みで岳氏を狙っているってワケじゃなさそうですね」


 日本語で紡がれた暴言はリングサイドのキリサメにも届いている。詳細までは掴み兼ねているが、バトーギーン・チョルモンという男は、ある種の代弁者としてリングに立っているのかも知れない。


「MMAは実力社会じゃないのかってチョルモンは言いたいのかも知れないね。興行のバランスを考えると、そうも言っていられないんだけど……」


 キリサメの独り言を受け止めるように麦泉がチョルモンのことを語り始めた。彼の穏やかな声は静寂の中によく響いた。


「さすがにペルーには大相撲の情報は届いていなかったと思うんだけど、現役時代の『鬼馬鋼』はそりゃあ滅法強かったんだけど、横綱っていう角界の頂点だけに批判の対象にされることも多くてね。一挙手一投足を見張られて、何か目立つことをしただけで大バッシングを喰らっていたんだよ」

「風評被害ってヤツですか?」

「一概には言えないんだけどね。本人の素行にもだいぶ問題あったし」


 先ほど「大横綱様」などと心ないヤジを飛ばしたのは力士時代のチョルモンが気に喰わなかった観客だろうと麦泉は付け加えた。


「……ただね、鬼馬鋼のことを貶しまくった評論家気取りには頭に来たかな。有名選手をボロクソに叩くだけで世間からも注目されるからさ、……スポーツの専門家でもない連中から食い物にされたんだよ、鬼馬鋼は……!」


 直接、言葉を交わしていない未稲にまで驚いたような顔を向けられたことで、ようやく麦泉は自分の声が憤怒に満ちていると気付いたのだろう。「愉快な話じゃなくて、すまないね」と二人にこうべを垂れた。

 岳に向かって殺意を叩き付け、あまつさえ暴言まで吐くような相手に対して麦泉は深い同情を寄せているようだ。それだけ往時のバッシングが酷かったのだろうと察せられる。


「……私もよく憶えてます。注目を集める為には何でもやろうっていうマスコミと、それを信じ込んだ世間に潰されて、あの人は引退に追い込まれたようなものですから……」


 天下無双と評判だった横綱が引退経緯は未稲も記憶に留めている。


「そういうモノに媚びを売るような態度がチョルモンにはどうしても許せないんだよ。だから、『天叢雲アメノムラクモ』で統括本部長を務めるセンパイにあんな態度を取ってしまうんだ……」


 チョルモンが口にした『客寄せパンダ』というのは今回の出場選手の中でも特に異彩を放つアイドル声優――希更・バロッサのことであろう。土俵を追われたのちも格闘技の世界に留まり、闘い続けてきた男にとって、これほど忌々しい存在もいないはずだ。

 気に喰わない相手に挑戦状を叩き付ければ解決するものでもない。そもそもチョルモンは希更個人ではなく主催側の姿勢に怒り狂っているのだ。興収の増加を狙って『客寄せパンダ』を投入するような態度に格闘家としての誇りを傷付けられたと思っている。

 ブーイングの一つも飛ばない場内の静寂は熱心な『天叢雲アメノムラクモ』のファンですら『客寄せパンダ』に納得し難いわだかまりを抱いている証拠といえよう。


「……なるほど、岳氏は怒りの捌け口ですか……」

「それを喜んで引き受けるセンパイにも困ったもんだけどさ。こういうのはこじれた場合が怖いから事前の話し合いで解決しておくべきなんだよ。リングの上で決着なんて恐ろしいこと、普通は考えないさ」


 キリサメと麦泉の間で交わされる言葉は未稲の表情を暗くさせた。統括本部長を務めているとはいえ、父が『天叢雲アメノムラクモ』という団体の身代わりとしてはりつけにされるような状況を心穏やかに受け止められるはずもなかろう。


「――って、今の話、入場前のPVプロモにも出てたよ? 対戦カードが決まったときから波乱含みだって宣伝されまくったし、チョルモンさん、お父さんに終始ブチギレまくってたんだけど……もしかして、キリサメさん、居眠りしてた?」

「……いえ、そんなことは……」

「微妙な返事かえしからして怪しいなぁ。いっつもおじいちゃんかっていうくらい朝早いから、実はもう眠かったりして」

「……未稲氏の中で僕がどんな扱いか、よく分かりましたよ」


 未稲から思わぬ指摘ツッコミを受けたキリサメは返答こたえに窮してしまった。確かに居眠りはしていないのだが、ぼんやりとしている間に選手紹介のPVプロモーションビデオを見逃したのは事実なのだ。

 わざわざ〝職場〟まで連れて来てもらったというのに殆ど興味を持てずにいたことが露見すれば確実に岳を悲しませるだろう。

 そのような事態を避けたいキリサメは何とかして未稲を誤魔化そうと図ったが、ミサトの教育の賜物か、全く嘘がけず、受け答えも信じられないくらい曖昧になっていき、彼女の疑念を加速させるという最悪の結果を招いてしまった。

 いつもの通りの無表情ながら、声だけはしどろもどろになっていくキリサメを微笑ましく見守り、タイミングを計って仲裁に入ろうとする麦泉だったが、丁度、身を乗り出したところで試合の再開が宣言され、リングに視線を戻さざるを得なくなった。

 チョルモンとセコンド陣、レフェリーとの間で先ほどの暴言を巡って暫く口論が続いていたが、最後には岳本人が「それだけ時間を稼げば、膝の痛みも回復するわな」と挑発を飛ばし、なし崩し的に試合を再開させたのだった。

 膝について指摘されてしまうとレフェリーも応じざるを得ない。Rラウンド間のインターバルでもないのに試合を長時間止めるわけにはいかないのだ。

 レフェリーとの言い争いを時間稼ぎと皮肉られたチョルモンの瞳は、もはや、殺意以外の感情を湛えてはいなかった。

 一Rラウンドは三分を残すのみとなっているが、脳天から爪先まで怒りで満たしたチョルモンには決着を二Rラウンド目まで持ち越すつもりなどない。

 獰猛な吼え声を引き摺りながら岳に体当たりし、これを防御ガードされても力ずくでロープに押し込んでしまった。退路を断った上で試合序盤のような猛攻を加えようというのだ。


「土俵際がないってことは――お前が死ぬまで止まらなくていいってことだッ!」


 先ほどよりも数段早く、一等重い拳が岳の全身に降り注ぐ。今度も左右の拳で狙いを打ち分けており、一瞬でも防御ガードが遅れれば内臓にまでダメージが達するかも知れない。

 しかもロープを背にした状況は防御する側にとっては著しく不利である。ロープそのものの弾力性が高い為、仰け反った拍子に前方へ撥ね返されてしまうのだ。これを利用して相手の体勢を崩し、強烈な一撃を見舞うのも立派な戦術だった。

 当然ながらチョルモンもこの状況を最大限に生かし得る攻撃を組み立てている。渾身のパンチで岳を吹き飛ばし、ロープに撥ね返されたところへ猛烈な張り手を繰り出した。

 その瞬間、チョルモンの親指が岳の右目を抉った。

 顔面に掌底を叩き込もうとして狙いが逸れただけであろうが、ここに至る経緯が経緯だけに、故意的に目突きを図ったと見なされても仕方がない。現に未稲は大切なノートを取り落としてまで立ち上がったのだ。

 未稲の悲鳴が鼓膜を打ったかどうかは分からないが、レフェリーも二人のもとへ即座に駆け寄っていく。チョルモンに反則を通告し、同時に岳の負傷を確かめようとした。


「掠った程度だ! こんなモンでいちいち試合止めんなッ!」


 ところが、この動きは岳当人から一声で押し止められてしまった。

 その直後、岳の動きが一段と加速した。判断を迷っているレフェリーに割り込む隙さえ与えないという意思表示のようにも見える。


「ロープの使い方ならオレのほうが先輩だぜ、バトーギーンッ!」


 言うが早いか、岳は背中からロープに当たり、反動を利用して急加速を試みる。チョルモンの腕を潜るようにして背後まで回り込むと自身の両腕を彼の胴に巻き付けた。

 左右の五指を組み合わせた岳は吼え声と共にチョルモンの巨体を持ち上げ、そのまま後方に思い切り反り返った。

 プロレス仕込みのジャーマンスープレックスである。チョルモンの体重をそっくり乗せて頭から投げ落としたのだ。鉄の塊を垂直落下させたようなものであり、リングの土台もこれまでになく激しく軋んだ。


「――お見事。あの体重を完璧に反り投げるとは……八雲選手はベテランと呼ばれるようになってからも進化し続けていますね。彼を『ピークが過ぎた老兵』と嘲笑う人間は今のスープレックスに刮目したことでしょう」


 解説担当が唸るほどのジャーマンスープレックスであり、下手をすれば首の骨が自重でひしゃげていたかも知れないのだが、それでもチョルモンには致命傷とはならなかった。

 寒気が走るほどの轟音と共にマットへ叩き付けられたものの、落下の直後には身を転がして岳から距離を取っていた。

 寝技に持ち込まれては不利と判断したのであろうが、チョルモンもリングで逃げ回るつもりはなかった。あくまでも次の攻撃へ繋げる為の布石に過ぎない。

 距離を取った直後には相撲仕込みの瞬発力を発揮し、極端に低い体勢からマットを滑るようにして組み付いていった。掬い上げるような恰好でプロレスパンツの両サイドを掴むと岳の巨体を浮かせつつその場で旋回し始めた。

 まるでマワシでも取ったような体勢であるが、仕掛けたのは日本古来の相撲の技ではない。チョルモンの故郷――モンゴルに伝わる武術の技であった。

 高速旋回によって遠心力を生み出し、その勢いに乗せて岳の身をリングに叩き落そうというわけだ。先ほど喰らわされたジャーマンスープレックスへのである。

 投げ落としたのちは全体重をかけて彼に覆い被さり、身動きを封じた上で殴り殺す腹積もりだったが、『超次元プロレス』の底を読み違えた時点で勝敗は決したのかも知れない。

 今まさに投げ落とされようとした瞬間、急激に身を捩ることで技の拍子を崩した岳は、続けざまに両足でもって彼の左足を挟み、前方に薙ぎ倒してしまった。

 プロレスのリングで戦い続けてきた経験があったればこそチョルモンが押さえ込みフォールを試みていると見抜けたのだろう。そのような岳にとって同じレスラー以外にくだんの態勢に持ち込まれることだけは断じて許されないのだ。

 虚を衝かれたチョルモンには全く抗うことができなかった。ましてやダメージがちくせきしている右足一本ではさすがに体重を支えきれないのである。

 チョルモンをうつ伏せに倒した岳は左太腿を自分の両足でもって締め付け、更には右手でふくらはぎの辺りを、左手で足首をそれぞれ捉えた。

 抱え込むような恰好でチョルモンの左足を反り返らせる――膝関節をめたのだ。


「ふぅぐッ! ……ぬ、ぐむう~っ!」


 顔面に血管を浮かび上がらせながらもがき続けるチョルモンであったが、左膝を可動域の反対側に伸ばされている為、全く自由にならない。如何に強靭な足腰を誇っているとしても、こうなっては何の意味もさなかった。


「忍法ムササビの術! ついに純日本忍者が大襲来蒙古兵を捉えましたぁッ! ここが土俵なら一発決まり手! そうでなくとも忍者膝十字は逃れ難いこと龍蛇りゅうじゃの如し! これこそ『超次元プロレス』の神髄だぁ~!」


 実況担当の仲原アナはやけに忍者という部分にこだわっているが、どの辺りがムササビの術であったのか、キリサメには少しも伝わってこなかった。別に岳が風呂敷を開いて空を飛んだわけでもあるまい。

 今も左足一本に絡みついたままチョルモンの身動きを完全に封じ込めているのだ。

 それでもチョルモンは足掻き続ける。うつ伏せにされた状態から身体を引っ繰り返し、自分の左足に組み付いた岳を逆にマットへ叩き付けようとしている。全身の筋力を限界以上に引き出せば、そのような荒業とて彼には不可能ではない。

 しかし、チョルモンがエンジンの駆動音が如き唸り声を上げたところでセコンドがタオルを投入し、これによって決着のゴングが鳴った。

 膝十字固めから解放されたチョルモンは、暫しの間、放心状態となっていたが、リング上に落ちたタオルを認めるとセコンド陣に向かって「どうして、勝手な真似をしてくれたんだ! 俺はまだ戦えたのに! 」とモンゴルの言語ことばで抗議した。

 しかし、それが虚勢であることはチョルモン本人が一番良く分かっている。どれほど眼光が鋭くとも今の彼は立ち上がることさえままならない。

 リングには残酷な現実が横たわっていた。

 ローキックを浴び続けた右膝は言うに及ばず、左膝の関節まで痛め付けられては試合にならないのだ。この場合、セコンドの判断こそ褒められるべきであろう。無理を押して試合を続行していたならは選手生命に関わるほどの重傷を負ったに違いない。


「MMAの先駆者と最強横綱の一戦――全ての総合格闘家たちのプライドを賭けた蒙古襲来は八雲岳という運命の大嵐の前に砕け散るッ! しかし、雷電為衛門は満ち足りた気持ちでこの一戦を見届けたことでしょう。王者の競演にふさわしい大熱戦でしたぁッ!」


 仲原アナのコメントが追い打ちを掛けるが、セコンドに支えられなければ歩行すら困難である以上、チョルモンには反駁する資格もない。そのことは本人も自覚しており、だからこそ口惜しそうに歯噛みするばかりであった。


「これがMMAだぜ、バトーギーン。経歴が何だろうと関係ねェ。強ェヤツだけが生き残る。……お前の言う『客寄せパンダ』も常連選手にも見事に勝ったんだぜ。弱肉強食のリングがオレたちの生きる世界じゃねぇか」


 『天叢雲アメノムラクモ』が用意し戦場リングがいかなるものか、統括本部長の口から改めて説かれたチョルモンは通路を引き上げていく最中、いつまでも低く呻き続けた。

 健闘を称える拍手も今の彼には屈辱でしかあるまい。興収目当てから『客寄せパンダ』に頼らんとする『天叢雲アメノムラクモ』の在り方へ物申す覚悟で挑んだというのに力ずくで捻じ伏せられてしまったのだ。

 弱肉強食という岳の言葉にはチョルモンと同じ疑問を抱えていた観客たちも頷かざるを得なかった。


 第五試合セミファイナルが終わったとき、キリサメは今まで感じたことのない不思議な昂揚に包まれていた。着席以来、初めてリングサイドという特等席の恩恵を実感したともいえる。

 鳥肌が立つくらい見応えがあった――感想はただ一つである。

 四〇代半ばとなった岳は「ピークを超えている」と世間では言われているそうだが、そのような批評が不思議に思えるほど『超次元プロレス』は圧巻であったのだ。

 実況の仲原アナが語った『忍者膝十字』という表現は最後まで意味不明だったが、投げを打たれた状態から相手の技を崩し、反撃に持ち込むまでの流れは〝ニンジャ〟という呼び名から連想されるファンタジーが凝縮されているようにも思えた。

 相手選手チョルモンもまた凄絶であった。殺意という危うい気迫はともかくとして波打つように肉を揺らして闘う様は躍動感に満ち満ちていた。その威容すがたには角界に君臨していた横綱時代の片鱗が窺えたのである。

 岳の試合が始まるまではプロレスとの差異すら分かっていなかったキリサメも今はMMAの性質を理解しつつあった。

 プロレスは試合運び自体をショーアップして提供するそうだが、岳とチョルモンが見せたものは紛うことなき〝実戦〟。慣れ合いから掛け離れた命のやり取りだったのである。

 これがMMAの真髄なのか。岳の語った弱肉強食の世界なのか。

 しかし、選手生命に配慮したルールが当てはめられる試合に違いはなく、チョルモンの暴走によって一時的に安全圏を外れただけではないだろうか。殺意の介在がなければ、他の試合と同様に〝実戦〟として成り立たなかったのではないか。現にセコンドがタオルを投入しただけで決着してしまったのだ。

 その一方で、ありとあらゆる技術を解放した試合形式はキリサメの知る〝実戦〟に限りなく近いようにも思える――矛盾した思考と昂揚が彼の身のうちでのた打ち回り、混乱に拍車を掛けていた。

 一つだけ確かに感じられることは、昂揚と共に燃え滾った血潮である。

 しかし、いつかの夜のように脳が痺れることはなかった。闇の中に幻覚が立ち上るようなこともない。ましてや、〝誰か〟がささやく声も聞こえなかったのだ。

 これ以上ないというくらい不思議な情況だった。

 チョルモンの殺意に反応して早鐘を打った心臓は未だに落ち着いていないが、その律動はいつしか戦慄の刻みから〝胸の高鳴り〟と喩えるべきものに変わっていた。

 闇と幻に翻弄された夜は虫の這うような感覚が四肢に甦り、そこから神経の全てが凍て付いてしまったのだが、今、この瞬間は自分の肉体からだが溶岩と化したのではないかと錯覚するほどに熱くなっているのだ。

 しかし、これは肉体が自分の意識を離れてしまったようなもので、キリサメは少しずつ恐怖を覚え始めていた。死神の影をるほどに苦悶させられた闇と幻のほうが自分の在るべき領域と感じられて馴染むくらいであった。

 身のうちより噴き出した爆炎は極寒の風よりも冷たくキリサメの心を蝕んでいった。


「……トイレに……行きます……」


 生まれて初めて味わう心と身体の剥離を持て余したキリサメはただ一言だけを未稲に耳打ちし、返答も待たずに席を立った。

 リングの上で勝者インタビューを受けている岳の様子を窺うと、チョルモンの指で突かれた右目に異常はなさそうだった。僅かに充血しているようにも見えるが、失明といった事態に陥っていないことは明らかである。

 安堵の溜め息を引きずりながら、キリサメはリングに背を向けて歩き出した。

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