その3:戦端~平和の祭典が始まる

 三、戦端


 金網に囲まれた八角形オクタゴンの戦場で二人の男が静かに向き合っていた。

 野獣を捕らえておくケージのような構造つくりだが、今まさに牙を剥かんとしている〝黒豹〟を飼い慣らすことは不可能であろう。相対するのは野獣を狙う猟師ハンターといったところか。

 しかし、彼は猟銃など携えてはいない。八角形オクタゴンの戦場に立つ二人の男は剥き出しの上半身に競技用のトランクスを穿き、両拳に厚みのある指貫オープン・フィンガーグローブをめている。この出で立ちをもって肉体そのものが銃弾にも勝る武器ということを示しているわけだ。

 陽の光にかれた大荒野を思わせる肉体からだより無類の逞しさを醸し出しながら獲物を取り逃がしそうなくらいぼんやりと佇んでいる〝猟師ハンター〟に対し、ドレッドヘアーをバンダナで持ち上げた男は、まさしくアフリカのサバンナを駆ける〝黒豹〟の如き威容すがたであった。

 対峙した二人は身長・体格ともにほぼ釣り合っているようだ。

 赤いトランクスの〝猟師ハンター〟はカナダ出身のケネス・ラノワ、白黒チェック柄の物を穿いた〝黒豹〟はルワンダ出身のシロッコ・T・ンセンギマナ――と、空中を浮遊するホログラムめいたパネルには両選手のプロフィールが表示されているのだが、そこに添えられた体重のデータによると、前者のほうが僅か二キロほど上回っている程度であった。

 金網の向こうでは両者の名前を呼ぶ歓声こえが怒涛の如く巻き起こっている。

 それはつまり、両者が狩猟ではなく〝格闘技の試合〟へ臨む身であることを意味していた。一四〇〇〇人にも達する観客の姿からは大掛かりな興行イベントであることも瞭然である。

 両名とも歯を保護する為のマウスピースを噛み、不慮の事故で金的にを被らない為の防具ファウルカップをトランクスの下に装着している。このように選手の安全へ配慮したルールに基づいて執り行われるのが〝試合〟というものである。同じ〝戦い〟であっても銃器を持ち出して標的の命を奪う行為こととは根本から異なるのだ。

 磨きに磨いた技を競い合い、余人には決して辿り着けない高次元ハイレベルな攻防で観客を魅せることこそ現代の格闘たたかいというものであろう。

 全身全霊を傾ける真剣勝負ガチンコから〝戦場〟とたとえられてはいるが、金網に囲まれた八角形オクタゴンは鉄火の極地たる戦争ではなく五輪に勝るとも劣らない平和の祭典なのだ。そして、紳士による腕比べであることを象徴するのがこの両雄ふたりといっても過言ではないのである。

 ンセンギマナは左太腿から下が機械仕掛けの義足であった。深みのあるブラックゴールドのカバーで覆われたは天井より降り注ぐ照明ひかりを受け止め、相手の網膜へ焼き付かないほど静かに、けれども力強く煌めいていた。

 無論、競技用の物を装着しているのだが、四肢が全く健常な選手と同じ条件で試合を行うことには困難な部分もあり、対戦者が義足を直接攻撃することを禁じるなど特別ルールが例外的に採用されている。

 ンセンギマナと同じ〝場〟で手合せできることを喜んだのはラノワ一人だけではない。八角形オクタゴンの戦場に臨む全ての選手がくだんのルールを快諾したのである。

 それだけに平和の祭典へ泥を塗る人間がラノワにセコンドとして付いていることが残念でならない――と、選手も観客も嘆息していた。

 薄気味悪い人相の男である。しかも、不機嫌そうな態度を隠そうともしなかった。

 風の噂によると、この男は義足の選手に対応する為のルールへ最後まで異議を唱え続けていたそうだ。その上、異議と呼べるほど高尚なものではなく、実態は聞くに堪えない中傷に近かったという。自分の主張を退けられたことが不満で仕方ないのだろう。

 一方のンセンギマナはサボテンのビーズ刺繍が施されたポンチョを纏うネイティブ・アメリカンの相棒と、拳法の師匠マスターに見守られて試合へ臨んでいる。

 ポンチョ姿の相棒は複雑な想いで試合に臨んでいるのかも知れない。インターネット上で公開されているプロフィールによれば、ラノワは『ファースト・ネーション』――カナダ先住民の血を引いているそうだ。彼にとっては同じ北米大陸を起源ルーツとする者同士であり、事実、両者は肌の色も近いように思える。

 勇敢な平原の民を祖先に持つラノワは、バッファロー狩りなどで猛威を振るった戦闘技術を八角形オクタゴンのルールに最適化して用いると広く喧伝されていた。

 それが虚飾でないことはレフェリーが試合開始を告げた直後に証明された。

 右腕を腰の辺りまで引き付け、対の左手を手刀の形で軽く前方へ突き出したンセンギマナは地面を強く踏み締める駿馬の如くどっしりと構えている。これに対してラノワの側はスタートダッシュに秀でたスプリンターのように開戦と同時に速攻を仕掛けたのである。

 先制攻撃で流れを作るつもりだろう。僅かに腰を落として相手ンセンギマナの様子を窺った直後、中間距離から一瞬で間合いを詰め、右腕を内から外へと横一文字に振り抜いていく。

 腰に差した刀を鞘より抜き放つような動作ではあるものの、打ち込んだのは横薙ぎの手刀ではない。水平に構えた握り拳を勢いよく叩き付けようと試みたのだ。

 その際に彼は独特な身のこなしを見せた。先に踏み込ませた右足を軸に据え、全身を振り回す勢いで同じ側の腕を繰り出したのだが、バネの効かせ方などはまさしく手に持った武器で斬り掛かるようだった。

 遠心力に乗せて重みのある武器を振り回す動作うごきとも言い換えられるだろう。


「――『戦斧トマホーク』が飛んでくるぞっ!」


 瞬時の加速を双眸に捉え切れず、脇腹を脅かされそうになっているンセンギマナより早く相手の術理を見極め、金網の外から警告を呼び掛けたのはポンチョ姿の青年である。

 背に受けた相棒の声に衝き動かされ、横薙ぎの軌道を見定めたンセンギマナは左手刀を振り落として相手の横薙ぎを断ち切ろうと試みたが、右腕が狙われていることを悟ったラノワの側もすかさずを引き戻し、入れ替えるようにして対の握り拳を閃かせていく。今度は斜めの軌道を描き、首を打ち据えるつもりのようだ。

 袈裟斬りの一撃を避けられるや否や、ラノワは全身を大きく回転させながら再び横薙ぎの右拳を繰り出した。そして、相手の目が自分の動きに慣れてきた頃合を見計らい、側頭部に狙いを定めた肘打ちへと転じていく――絶え間なく撃ち込まれる『二挺戦斧ダブルトマホーク』に対して、ンセンギマナは正面切って立ち向かっていった。

 殴り抜けるような形で脇腹を脅かし、そのまま『二挺戦斧ダブルトマホーク』をすり抜けて相手の側面へ回り込んでいく。空中に円軌道を描いて閃く右拳で肩甲骨を打ち据え、更には振り子の原理で左拳を再び繰り出し、先に揺さぶっていた脇腹への追撃を試みるのだ。

 互いに拳を叩き合う展開が続き、直撃が確認される度に有効打のが増えていく。乱打戦の様相となった為、秒を刻む毎に何発も加算されていくのだが、先に攻め寄せたはずのラノワへ今にもンセンギマナの有効打が追い付きそうだった。

 空中には両名の名前と所属ジムも映し出されている。併せて表示された数値は得点スコアのようなものであろう。有効打のカウントと連動してどんどん増えていくのだ。

 馬上からバッファローの頭部を狙う投げ縄のように相手の首へ左腕を巻き付けようとするラノワであったが、ンセンギマナはを左右二刀流の手刀で挟み込んだ。左の手刀で肩を、右の手刀で肘の内側をそれぞれ打ち、首を押さえられる前に『二挺戦斧ダブルトマホーク』を腕ごと堰き止めた次第である。

 その刹那にンセンギマナが反撃の蹴りを見舞った。

 半円を描くようにして腰を捻り、轟々と右回し蹴りを放ったのだが、軸に据えた義足が軋み音を立てることはなかった。自身の体重を巧みに操作し、また負担の掛からない流麗な動きで横一文字に風を裂いたのだ。

 この反撃をもってしてンセンギマナは義足が不利な条件にならないと証明したのである。飛び抜けた反応速度を誇るラノワが後方に飛び退すさった為に空振りではあったが、直撃していたなら間違いなく彼の身を金網まで撥ね飛ばしただろう。

 空振りではあったが、火炎旋風の如き蹴りに観客たちは沸き立った。ルワンダから駆け付けた大勢の同胞は言うに及ばず、会場の誰もが惜しみない拍手と声援を送っている。

 場内で文句を垂れているのはラノワに付いたセコンドただ一人だけであった。

 対するンセンギマナのセコンド――相棒だというポンチョ姿の青年は水平に構えた握り拳を振り抜く打撃技を『トマホーク』とたとえていた。つまり、ラノワは左右の拳を戦斧トマホークに見立てているわけだ。おそらく、本来は実物を握り締めて斬り掛かるのだろう。

 肩から肘に掛けてのバネを最大限に引き出す動作もまた平原の民より受け継がれた戦斧トマホークの戦闘技術であろうが、徒手空拳への応用という点に於いても理に適っている。

 速攻を仕掛ける寸前に魅せた予備動作も同じである。僅かに腰を落とすという姿勢自体が槍を握った状態で狙いを定める古来の技法に由来しているわけだ。確実に獲物を仕留められる間合いを見定め、その直後には一瞬で最高速度に達するのだった。

 この上なく嬉しそうに口の端を吊り上げたンセンギマナは義足の調子を確かめるように機械仕掛けの踵でもってマットを蹴り付けた。

 辺りに一際大きな音が響いたものの、それが相手選手に対する威嚇行為でないことを認めたレフェリーは喉から飛び出しそうになった警告を慌てて飲み込んだようだ。

 入場時に主題歌を流すほど愛好している日本のテレビアニメ『かいしんイシュタロア』ではキャラクターが具足を纏った足で地面を蹴り込む動作アクションが印象的に挿入されるそうだ。全シリーズのあらすじを暗誦できるくらい放送内容が脳に刻み込まれている為、闘争心が高まると自然に模倣してしまうそうである。

 くだんのアニメで主人公の少女は黄金の甲冑を纏って戦うという。義足に被せられたカバーもに倣っているわけだ。

 平原の民の戦闘技術によってンセンギマナの心に火が入ったことは明白であろう。踵でもってマットを蹴った直後に視界の全てが巨大な影に覆い隠されたが、それでも彼の顔から歓喜の色が失せることはなかった。

 ンセンギマナへ迫ったのは、言わずもがなラノワである。前回し蹴りを回避すべく飛び退り、着地と同時に跳躍へと転じたのだ。

 四肢を広げながら飛び掛かり、そのままンセンギマナへ組み付くつもりだろう。極端に大掛かりな技である為、観客の目には隙だらけのように映ったはずだが、膝の屈伸が最小且つ電撃的であり、実際に相対する人間は瞬間移動などと錯覚したはずである。

 大平原を疾走はしるバッファローへ馬を駆って近付き、鞍上から飛び掛かって組み敷き、一切の動きを封じ込める荒業を応用したのだろう。変則的なタックルに反応し切れなかったンセンギマナの胴を両足で挟み込み、跳躍の勢いのまま全身を回転させることで彼をマットから引き抜こうと試みたのである。

 祖先の時代であったなら、この雄々しい技でバッファローを薙ぎ倒し、トマホークやナイフでトドメを刺したはずだが、アフリカの〝黒豹〟を御するには不足であった。胴を捕獲されると見て取ったンセンギマナは両足で絞め込まれる前に自ら横回転を試みたのだ。

 縦回転に近いラノワの動作に逆らい、己の横回転に相手を呑み込もうとしたのである。二枚の歯車を噛み合わせて相手を〝支配コンカリング〟するようなものであろう。

 瞬間的に生じた遠心力で引き剥がされ、マットの上に着地ラノワは自分の身に起きたことが理解できず、不思議そうに小首を傾げている。彼の目にはンセンギマナが腰を捻り込んだとしか見えなかっただろうが、この一瞬の動作の中で尋常ならざる力の作用が働いたのである。

 義足を装着して試合に臨む以上、寝転んだグラウンド状態に持ち込まれた場合は著しく不利になるだろう――そのような見解を掲載したスポーツ記者ライターは取材力を疑われるはずだ。確かに選択肢は限られるが、寝技を仕掛けてきた相手を巧みにさばいて仕留めたことも多い。

 仮にマットへ転がされたとしてもラノワを仰向けの状態に引き倒し、互いの右足を絡めて身動きを封じたに違いない。そうして瞬く間に反撃の拳を振り落とすのだ。


「――見よ! 我がけんは神槍ダイダロスの如しィッ!」


 意味不明な吼え声を上げたンセンギマナは、ラノワを引き剥がした横回転とは反対の方向へと腰を捻りつつ、横薙ぎに右拳を閃かせた。空中に半円を描くような一撃は限界まで引き絞ったづるから矢を放つようなものだ。

 このとき、ンセンギマナは横薙ぎの拳を放つのに最も適した位置に立っていた。十分な遠心力を乗せるには相応の間合いがある。時計盤でたとえるならば六時の位置に立つ相手を一二時より見据えるということだ。時計の針のように進む拳はラノワのこめかみを穿ち、最大の破壊力でもって脳を揺さぶるに違いない。

 着地と同時に腰を落としていたラノワは円軌道の打撃に割り込むべく足腰のバネを一瞬で引き出し、手に持った槍を突き込むかの如き勢いで直線的なパンチを放った。

 奇しくも互いが〝槍〟と見立てた拳の交錯である。円軌道よりも直線のほうが動作が少ない為、後から繰り出した〝穂先〟でも間に合ったが、互いの拳が同時に炸裂した結果、ラノワだけが一方的に撥ね飛ばされていた。

 『クリティカルヒット』――ンセンギマナの有効打であることが英語で表示された。計測された双方の打撃力もラノワの数値より遥かに上回っている。これに応じて得点スコアも大幅に加算され、両者の間に明確な差が生じた。

 金網まで吹き飛ばされてしまったラノワであったが、盛大な激突音とは裏腹に当人は大してダメージを感じていないようで、眉間を打ち据えられながらその場に留まり続けるンセンギマナを興味深げに観察している。

 試合開始前と同じおっとりとした面持ちではあるが、一等強い眼差しを向けていた。

 〝槍〟の撃ち合いでは競り負けたが、ラノワがンセンギマナに比肩する実力の持ち主であることを観客は誰も疑っていない。一つの事実として彼の心拍数に異常は見受けられないのだ。運動量に比例する変動こそあるものの、心理的動揺と思しき極端な数値の乱高下は確認されていなかった。

 両選手が向かい合う空間の上部へデジタル時計のようなホログラムと共に映し出された第一ラウンドの残り時間は、丁度、六〇秒を切ろうとしている。


「そんな〝片肺飛行〟相手にてこずるな、愚図が! ルールなんて構わず義足を狙え!」


 更なる白熱が期待される状況にも関わらず、ラノワのセコンドが吐いた暴言をきっかけとして試合は強制的に打ち切られてしまった――正確にはそのときの映像を映していたテレビ画面が暗転したのである。改めてつまびらかとするまでもなく、爆発的に盛り上がっていた歓声も現在いまは真っ暗闇に呑み込まれていた。

 リビングルームのソファに腰掛けながら物言わぬ物体と化した大型テレビを睨み付けるその男は画面の中で熱闘を展開していた両選手に勝るとも劣らない肉体の持ち主である。

 角刈りにした髪の毛や意志の強さを表したかのような太い眉毛は清廉な武士サムライを彷彿とさせる佇まいであった。それだけに瞳の中で燃え盛る怒りの激しさが際立つのだ。

 先程の試合を彼は現地にて網膜に焼き付けていた。両選手が披露した妙技の数々を改めて振り返りたくなり、試合内容の収録されたDVDを夕食がてら再生させた次第である。

 選手の心拍数や打撃の威力を計測した数値、有効打の命中回数などが表示されていたのは映像ならではの〝演出〟というわけだ。SFの世界に迷い込んだかのような錯覚を覚えてしまう趣向ではあるものの、ホログラムめいたパネルが空中を飛び交うことなど二〇一四年現在の地球では有り得ないだろう。

 ICチップが組み込まれた指貫オープン・フィンガーグローブやトランクス、特殊カメラといった最新鋭の機材を惜しみなく導入し、リアルタイムで測定される様々な数値を八角形オクタゴンの戦場の真上に設置された大型モニターへ表示しているのだ。この演出は視聴者がかじり付きとなっているテレビの画面にも反映されていた。

 制限時間内に決着がつかなかった場合、累積された得点スコアがそのまま勝敗の判定ジャッジに直結する。即ち、この表示自体が次世代の公開採点オープン・スコアリングというわけだ。

 ありとあらゆる情報が公開され続けるシステムはインターネット上でファンたちが行う実況中継や勝敗予想を活発化するだけでなく、選手やセコンドが組み立てる戦略の在り方をも新しき領域まで引き上げていくことだろう。

 格闘技の〝見せ方〟そのものが大変革を遂げようとしている――近付きつつある未来の形へ心が躍っていたはずなのにDVDの再生を止めたのは、ラノワのセコンドが喚き散らした暴言から痛ましい事件ニュースを想い出してしまったからに他ならない。

 テレビから壁に目を転じ、クロス張りの部屋には不似合いな掛け軸を黙して見つめる。そこには『忍』の一字が大書されていた。

 彼が思い返すのは数日前にニューヨークで発生した惨たらしい傷害致死事件である。

 格闘家を血に餓えた乱暴者とさげすむ青年がインターネット上で〝アンチ格闘技〟とも呼ぶべき運動を展開し、そのことに激怒した格闘技ファンが住居まで乗り込み、集団で暴行を加えた末に死に至らしめたのである。

 逮捕されたのは金網に囲まれた八角形オクタゴンを主戦場とする格闘技団体の熱烈なファンたちである。この件は野党の次期大統領候補と目される議員から同団体を批難する声明が出されるほどの事態にまで発展し、今なお全米を大きく揺るがしている。

 世界には種々様々な思想が根付いている。人の数だけ想いがある。それ故に〝アンチ格闘技〟を誤りだと断じることは〝複合社会〟に於いて適切とは言えないだろう。例え不当な言い回しであるとしても、〝暴力〟とまで扱き下ろされる理由も承知しているのだ。

 『忍』の一字を見据える男にとっては、格闘技を愛する者たちが凶行に走ってしまった事実が何よりも悲しかった。八角形オクタゴンの中で行われるのは戦争などではなく五輪に勝るとも劣らない平和の祭典なのだ。

 紳士による腕比べが本質であったにも関わらず、格闘技を原因として一人の命が天に召されてしまった。これでは格闘技を野蛮な暴力と認めてしまったようなものであろう。そして、それは選手を導く立場でありながら相手を意図的によう命じたセコンドの暴挙にも通じることなのである。


「……汗でも流さなければやってられないな――」


 掛け軸のすぐ近くに設置されたデジタル時計は一九時半ばを示している。博多の実家から送られてきたカレー明太子に舌鼓を打とうと思っていたのに食欲自体がすっかり失せてしまった男性はどんぶりの白米を無感情に平らげると、トレーニングウェアに着替えてガレージへ向かっていった。

 もはや、居ても立っても居られなかった。年代物のプジョーへ乗り込んだ男にはリモコンでもってガレージのシャッターを開けるという手順すらもどかしく思えてならない。

 逸る気持ちを煽り立てるかのように少しずつ開いていくシャッターの先にはロサンゼルスの夜景が広がっていた。当然ながら歩道をくのもアメリカ人のみ――その場景は武士サムライの如き男が北米在住であることを端的に表しているといえよう。


 程なくしてプジョーはカリフォルニア大学ノースリッジ校近くに所在する大きなスポーツジムの駐車場へと移り、暫しの仮眠を取ることになった。

 持ち主は既に建物の中でトレーニングを開始しているのだが、会社帰りのサラリーマンたちが詰め寄せそうな時間帯にも関わらず、彼が使用する部屋には当人以外の人影が一つも見られない。勿論、スポーツジム自体にかんどりが鳴いているわけではない。通路内を行き交う人々の話し声は壁をすり抜けて室内まで届いているのだ。

 彼が入ったのは完全な個室――いわゆる、プライベートジムだった。ドアには『フルメタルサムライ』と英語で刻まれた金属製のプレートが貼り付けられている。

 言わずもがな『フルメタルサムライ』とは愛称ニックネームである。受付で提示したパスカードには『トウタ・シンジ』と本名が英字で刷り込まれているのだ。

 祖国の表記に直すならば『しんとう』となる。

 くだんの呼び名は他者が勝手に付けたものであり、大して気に入っているわけでもないのだが、だからといってスポーツジム側が茶目っ気たっぷりで用意してくれた物を無碍に切り捨てたくはなかった。こうした律義さはまさしく武士サムライと冠する異名に相応しいだろう。

 そして、武士サムライは日々の鍛錬を欠かさない存在ものである。トレーナーこそ付けないものの、武士サムライ異名に恥じないほど厳しい修練を積み重ねている。親指一本の腕立て伏せは休憩を挟まないまま連続三〇〇回を突破していた。

 トレーニングに必要な機能を完備して初めてプライベートジムを称することができるようになるのか、室内には大小の器具が一通り揃っていた。藤太はその全てを順繰りに使って己の肉体を徹底的に追い込んでいくのだ。

 実戦さながらの修練ということなのだろう。サンドバッグをつ際にはンセンギマナたちが使用した物と同種の指貫オープン・フィンガーグローブを嵌めていた。

 跳躍を伴う高速旋回と共に足裏を浴びせるソバットでサンドバッグを大きく軋ませた藤太は着地と同時に床の上へと身を放り出した。

 全身が悲鳴を上げるくらい汗を流しても気晴らしにならなかった。サンドバッグをち続けても心に垂れ込めたドス黒い靄を振り払うことは叶わない――何をしても無意味という腹立たしい事実がフラストレーションを更に高めてしまうのだった。


「……師匠……」


 その靄の向こうから不意に顔を覗かせたのは、自分を一人前に育て上げてくれた最愛の師匠である。本人とはもう何年も追憶おもいでの中でしか会っていないのだが、家族を除いてただ一人、連絡を取っている日本の知り合いから聞いた話によれば、〝仕事〟でニューヨークを訪れていた師匠は日本ではなく南米のペルーへ飛んだという。

 二六人もの日本人がとらわれの身となった大使公邸占拠事件から二〇年近い歳月が流れてはいるものの、国内では未だに反政府組織の動きが活発であり、昨年七月に起きた市民デモでも裏で糸を引いていた――と、北米の最有力新聞紙やニュースが報じている。

 巨大な壁によって分断されるほど貧富の格差も開いているそうだ。表通りであっても安全とは断言し得ないペルーへ赴いた師匠は、よりにもよって最も危険な領域であろう貧民街を目的地に定めているという。

 貧民街そこで暮らしている旧友の忘れ形見とやらを引き取るつもりのようだが、何しろ時代錯誤な陣羽織を日常的に着用するなど目立って仕方のない人物である。その上、自分が過剰に存在感を発揮していることにも無自覚なのだ。

 師匠は後先を考えない上に自重も知らない人間である。そのことを誰よりも熟知する弟子であればこそ心配でならなかった。強盗団などに目を付けられようものなら間違いなく大変な騒動さわぎを起こし、ひいては始動したばかりの〝仕事〟を台無しにするだろう。

 何年も前にたもとを分かった師匠のことをいちいち気遣ってしまう自分が藤太にはどうにもおかしく、見据えた天井に自嘲の笑い声を跳ね返した。

 旧友の忘れ形見と合流して無事に帰国した後、師匠はニューヨークの事件を知ることになるだろう。あるいは滞在先のペルーで耳にするかも知れない。

 格闘技を愛する者たちが起こしてしまった傷害致死事件を知らされた師匠は、一体、何を思うだろうか。背負った〝肩書き〟からどのような判断を下すのだろうか。

 〝アンチ格闘技〟を掲げる活動家は東京でもうごめいているのだ。それ見たことかと口汚い罵声を張り上げる者たちの餌食にされないよう祈るばかりである。


「……オレたち格闘家は未来に何を見出せば良いのですか、師匠――」


 その問い掛けに答えてくれる者はいない。未来の形は己の力で見極めなければならないと藤太も理解わかっている。それでも〝道〟を示してくれた相手に訊ねてみたかったのだ。

 再び天井に撥ね返った笑い声は自分のことを「甘えん坊」と嘲っていた。

 汗で濡れそぼったシャツの胸元には古銭を上下に三枚ずつ並べた『ろくもんせん』の紋様が控えめに刷り込まれている。



 南半球に位置する日本は地球の裏側にある南米とは四季の巡りが正反対である。加えて赤道に近いペルーとは冬の厳しさが段違いなのだ。北半球に属することもあって日本ではあらゆるモノが凍て付く季節であり、本州の大半が雪化粧を纏うことになる。

 芽吹きの春を待つ間のささやかな静寂とも言い換えられよう――が、気候の特徴を抜きにしても二〇一四年二月は極めて異常であった。一〇年に一度というレベルの寒波は到来と共に日本を氷河期さながらの状況に至らしめたのである。

 キリサメ・アマカザリが初めて日本に降り立ったのは、俄かに雪害の兆しが見え始めた頃であった。それはつまり、未知なる気候に慣れる間もなく、出迎えと呼ぶには余りにも過酷な洗礼を受けたということであった。

 吐息が真っ白に凍り付く経験も生まれて初めてであり、呼吸の度に喉が痛くなる程だ。

 アンデス山脈が纏う銀白のヴェールを遠く眺めたことはあるものの、キリサメが憶えている限りでは温暖なリマで雪に触れたことはない。穏やかな風と踊る程度であったなら初めての体験に心が揮えたはずだが、この状況では正反対の感情が増すばかりだ。

 故郷リマの貧民街では四六時中、命の危険を感じ続けていた。豪雨災害によって生家が崩落してしまったキリサメだけに自然に殺されると思ったことも一度や二度ではなかった。しかし、それでも凍死の危険性におののいた記憶はない。


「……人間の住む場所じゃない……」


 成田空港の外へ一歩を踏み出した瞬間に大粒の雪が混じった突風かぜを浴び、鼻先から背筋へとみていった悪寒に引き出された呟きこそが祖先の大地に対する第一印象である。

 特別寒いと聞かされてはいたものの、北極圏でもないのだから鉄色のレインコートさえ羽織っていれば防寒対策は足りるだろう――そのようにたかくくっていたペルー育ちの少年は半袖のシャツに上着を重ねた程度では日本の冬に敵わないと思い知らされたのである。

 しかも、これから日本へ移り住もうという当日に大寒波と遭遇するなど天文学的な確率であろう。何一つ喜ばしいこともないが、ある意味に於いては奇跡だった。

 ペルーからアメリカを経由して更に海を渡るという長距離飛行フライトは空の旅自体が初めてであったキリサメを大いに苦しめた。ビジネスクラスとはいえひとところに何時間も縛り付けられるような状態は不慣れな人間を容赦なく疲弊させるのだ。

 そのような長距離飛行フライトが二回も続いたのである。偶然にもソチ五輪オリンピックの日程と重なり、機内のテレビでも衛星回線を通して開会式が放送されたが、食事を戻しそうになるくらい痛め付けられていたキリサメには周りで起こる歓声がひたすら忌々しかった。

 平和の祭典にそっぽを向いた罰が当たったのか――着陸先の滑走路が積雪で一時的に使用不可能となり、空中での待機を強いられるという追い撃ちが彼には用意されていた。正午過ぎの到着予定から大幅な遅延が生じ、とうとうスケッチブック代わりに使っていたメモ用紙まで放り出したのである。


「――渡り鳥ってモンは冬が来る前に温かい土地へ飛ぶらしいけど、キリーの場合は正反対だなァ。『雪降って地固まる』っつーことわざがあるし、逆に幸先良いぜ!」


 隣の席で忌々しく思えるくらい陽気に笑う同行者――養父と称する八雲岳の話には明らかな誤りが確認されたのだが、もはや、これを訂正する気力も湧かなかった。

 鉛同然に重くなった身体へ肌を刺すような冷たい風が吹き付けたのだから、自分がこの国に立ち入ることを拒む意思でも働いているのではないかと疑わざるを得なかった。少なくともキリサメには歓迎されているようには思えない。

 だからこそ、最寄りの駅まで向かうリムジンバスに乗り込もうと東京の空の下に立った瞬間、「人間の住む場所じゃない」と恨みがましく吐き捨てたのである。


「よーし、ここからは歩いて行くか! 身体動かしてたほうがあったまるもんな!」


 正気を疑うようなことを岳が口走ったのは、リムジンバスが新宿駅前に到着した直後であった。〝乗り疲れ〟ともたとえられる状態に陥っていたキリサメの思考が停止したのは言うまでもないだろう。目と鼻の先に新宿駅が見えている状況にも関わらず、電車には乗らないと言い出したのだ。

 キリサメもおかしいとは思っていた。幾度か乗り換えを挟まなければならないが、新宿に辿り着きさえすれば目的地まで電車で行くことができると説明していたはずなのに、リムジンバスを降りた岳は目と鼻の先に見えている駅からどんどん遠ざかっていくのだ。

 東京の地理など全く分からず、背中を追い掛けるしかないキリサメにも新宿駅とは別方向に進んでいることくらいは察せられた。その予感は最悪の形で的中したわけである。


「丁度、二〇年前か――一九九四年もこんな感じの大雪だったんだよ。あのときは三〇センチ近く積もったんだけどな。お前の父ちゃんと――ゆきと夜中に行き暮れちまって、二人仲良く肩を並べて歩いたのさ。……二〇年前の楽しい想い出を、あいつの血を分けたキリーと再現できるなんて夢みたいだぜ。北風がくれた奇跡のプレゼントだな!」


 妙に上擦った声色からも察せられる通り、リムジンバスの車窓から久方ぶりの大雪を眺めている内に興が乗ったらしい。その上、実の父親である作草部雪於さくさべゆきおとの想い出を息子キリサメと共有したいようだが、本人にとっては迷惑以外の何物でもなかった。

 二〇二〇年に二度目の夏季五輪を迎えることが決まった東京だけに力の入れ具合も生半可ではないのだろう。成田空港から新宿駅前までソチ五輪にちなんだポスターやのぼりが無数に設置してあった。リムジンバスの車内にさえ『東京トーキョーまで待ちきれない』という見出しが拍子に刷り込まれた便乗狙いのリーフレットが置いてあるくらいなのだ。

 しかも、前任者の辞職に伴う東京都知事選まで重なった為、投票を呼び掛ける選挙管理委員会の立て看板がソチ五輪に関連する掲示物とごったぜになっている有り様だ。

 ソチ五輪の開催と都政を占う日――二種の異なる熱気を嘲笑うかのように吹雪は一等強まっていた。

 首都圏の交通網は既に凍結しつつあるのか、駅周辺という立地にも関わらず、一台のタクシーも確認できない。ひょっとすると電車までもが立ち往生の最中かも知れない。遭難の危険性はあるものの、最終手段として徒歩も選択肢に加わるのだ。

 だからといって個人的な趣味に付き合わされるのは愉快とは言い難い。レインコートだけでは寒かろうと岳が予備の陣羽織を押し付けてきたが、この暴挙に対する抗議の思いも込めて頑なに拒み続けた。

 目的地まで続くであろう雪の道を闊歩する度、頭頂部よりやや後ろの位置で結い上げ、先端が花弁の如く開いた髪が小刻みに揺れるのだが、後からいていくキリサメはその律動にさえ腹立たしく思えてならなかった。


「悪ィ、迷子になっちまったわ。この辺りは滅多に歩かねェもんだからよ」


 成り行きから徒歩に付き合わされた挙げ句、水先案内人が道に迷うという事態にはさすがに開いた口が塞がらなかった。仕事道具である『聖剣エクセルシス』を携えていたなら確実にノコギリ状の刃を食い込ませていたはずだ。

 血でけがれた凶器を旅客機内に持ち込むわけにもいかず、一旦、全ての部品を分解した上でペルーから日本に向けて発送したのだが、憤激の二字をもってしても足りないほど馬鹿馬鹿しい状況に陥るのであれば手元の残しておくべきだったと悔やむばかりである。

 このままでは埒が明かないと、キリサメは自らの判断でタクシーを探し始めた。まだ客を乗せていない車輌を見つけたら強引にでも岳の巨体を車内へ押し込むつもりである。ボロ同然のスニーカーは泥水が完全に染み込んでいるのだ。目的地へ辿り着く前に両足の感覚がなくなってしまうかも知れなかった。

 雪化粧を纏う自然公園が視界に映り込んだのは、その最中さなかである。

 問題なく日本語を喋ることができてもペルーで生まれ育った日系人に変わりのないキリサメには意味するところが理解わからなかったが、正面玄関の看板には『しん宿じゅくぎょえん』と記されていた。『新宿門』なる案内も小さく添えられている。


「二〇年前の大雪より更に昔のことになるっけなァ――新宿御苑ここで『こうりゅうかい』っつうヤクザ者が派手に仲間割れをやらかしたんだよ。玄関からだと分かりにくいかもだが、合戦やれそうなくらいだだっぴろいんだ。……正確な数は分かんね~けど、戦争かっつーくらい何人もくたばったみたいでよ。そのときの亡霊が夜な夜な徘徊するってェウワサだぜ」


 新宿御苑まで迷い込んでしまったことを悟った岳は、ここぞとばかりに当地にまつわるうんちくを披露し始める。これから暮らす東京のことをキリサメに紹介したいようだが、敢えて物騒な逸話ものを選ぶ意味が分からなかった。そもそも現在いまは何を喋ったところで神経を逆撫でするだけである。

 岳はどこまでも自由で能天気だった。新宿御苑を起点に据えて携帯電話スマホの経路案内機能を使っても進むべき方角が定められなかったようで、「地図借りてくるぜ」とだけ言い置き、返事も待たずに近くのコンビニへ走っていてしまった。

 右も左も分からないコンクリートジャングルの只中に独りだけで取り残された恰好ではあるものの、岳の為人ひととなりに不満ばかりが鬱積していたキリサメにはガス抜きのような時間であろう。養父に気を遣って堪えていた溜め息が口から滑り落ちていった。

 正面玄関から大量の群衆が吐き出されてきたのは、まさしくその直後のことであった。園内から漏れてくる放送アナウンスでは降雪の為に閉園時間が通常より早まったことをしらせている。誰も彼も駆け足なのは今すぐに退去するよう急き立てられているからだ。

 岳を待たなければならない為、余所へ移動することもできないキリサメの真横を一〇〇組にも達するであろう人々が通り過ぎていく。

 途方もない人波と共に奇妙な感覚がキリサメに押し寄せていた。

 空港には外国人が多く、そこから新宿に至る道中では岳一人だけに意識を向けていたので気付かなかったが、誰も彼も自分と同じような顔をしているではないか。

 己の足が踏み締める土地を考えれば当然だろうと、キリサメも間抜けを自覚している。新宿御苑から殺到してきたのは自分と起源ルーツを同じくする日本人なのだ。

 それでいてリマの貧民街を根城とする『ざるだん』のように自衛目的で群れているわけではなさそうである。即ち、この国では暴力を身近なものとして警戒する必要がないということであろう。

 しかも、だ。互いの肩がぶつかる瞬間ときもあるというのにキリサメは他者の視線を殆ど感じなかった。通行の邪魔だと舌打ちでもって抗議される程度だろうか。市内の至る場所に強盗団が隠れ潜むリマでは値踏みにするような視線に絶えず晒されてきたのである。

 どうやら東京という都市まちは他者に対して根本的に無関心のようである。自分と同じ顔立ちの〝他人〟などは認識すらしないと見受けられた。真横を抜けていく群衆から見れば、往来に立ち尽くす少年も顔のない人形と同じであろう。

 岳のように過剰なふれあいを求めてくる人間のほうが珍しいのかも知れない。


(……生き易いのか、生き難いのか、どっちなんだ……)


 何とも表しようのない解放感と違和感は、生まれ故郷から地球の裏側へ移ったことをキリサメに初めて自覚させるのだった。


 日本全土へ襲い掛かった記録的な寒波は数日を経ても鎮まらないどころか、悪化の一途を辿っていた。二〇年前の大雪を振り返る岳は「あのときは三〇センチ近く積もったんだけどな」と語っていたが、その言葉が再現されるような事態に陥ったのである。

 同月半ばになると更なる豪雪が吹き荒れ、全国各地で被害が相次ぐようになった。

 雪の重さを支えきれなくなった建物の倒壊は言うに及ばず、停電や断水が連鎖的に発生した上に物流網寸断の影響を受けて日配食品までもが店頭から消え失せるという危機的状況だ。貯蔵タンクが底を突いたガソリンスタンドも片手では数え切れない。

 山間部は特に深刻だった。一メートルを超える積雪を観測し、道路の遮蔽によって〝陸の孤島〟と化した場所も少なくなかった。食糧の確保が困難となったばかりでなく、治療を必要とする人が病院まで辿り着けないというケースも多発したのだ。灯油が空になっても補給が不可能という状況は、それ自体が死に直結するのだった。

 『平成二六年豪雪』と呼ばれることになる雪害である。

 都心でも再び猛吹雪となった。積雪量も尋常ではなく、交通機関の大混乱からして余程のことでもない限りはソチ五輪を観戦しつつ自宅待機しておくのが安全且つ建設的であろう。大会は後半戦に差し掛かり、ボブスレーやカーリングなど「これぞ冬季五輪」とでも呼ぶべき競技が目白押しで始まるのだ。

 それなのにキリサメはまたしても大雪の只中で立ち尽くしていた。都心でありながら雪山同然に遭難の危険性も高まっており、辺りを見回しても出歩く人影など全く確認できない。事実、彼の双眸が苛立ちを映しながら捉えているのは岳一人である。

 現在いま、二人の姿は生前かつてゆきが暮らしていた多摩市近郊の霊園にった。

 岳もキリサメも喪服姿である。後者は下ろし立ての物をような印象だ。前者は年季の入った物の上から紫色の陣羽織を纏う奇怪な輪郭シルエットであるが、法事の装いという点だけは辛うじて察せられた。

 手元にないと落ち着かないという理由でキリサメは麻袋に包んだ状態の『聖剣エクセルシス』を担いでいる。死者の魂が永眠ねむる場所に相応しいとは言い難い武器を持ち込んでいるわけだが、リマの集合墓地で〝墓守〟を務めてきた彼にははばかる気持ちなど起こり得ないのだろう。

 物騒とも呼ぶべき出で立ちの二人は法要を終えたばかりだった。

 つい先程まで初老の僧侶を伴っていたのだが、彼は岳から依頼された〝役目〟を済ませるや否や、挨拶もそこそこに駆け足で立ち去っていった。

 数分ばかり同じ場に留まっているだけで全身が凍り付いてしまうような大雪から避難したわけではない。今日のソチ五輪は稀代の天才青年と謳われるフィギュアスケートの日本代表選手の大一番なのだ。日本での放送は深夜だが、それまでにあらゆる用事を済ませて応援に備えたいのだろう。

 何らかの〝催し物〟に国を背負って出場することがどれほどの意味を持つのか――そのことに想像が及ばないキリサメには五輪に群がる人々の真理が少しも理解わからなかった。

 夏冬問わず五輪が開催される時期になるとペルーの町々も賑やかにはなる。祭り騒ぎとして楽しむ人間も多いのだが、腐り切った社会に何の感情も持ち得なえなかったキリサメには祖国の代表を応援しようという気持ちなど起こるはずもなかった。

 祖国ペルーから三人の選手がソチに向かったと岳から教えられたものの、名前も出場競技も、何一つとして憶えていない。『全国民の代表』という言葉ほど空虚なモノはないとキリサメは感じていた。五輪という一種の〝娯楽〟を心置きなく楽しめるのはペルーでは富裕層くらいである。

 そのキリサメは、深夜一時から明け方近くまで続いた女子カーリングなど前日の試合結果が特集番組で報じられている頃、亡き母親の納骨式を岳と共に営んでいたわけだ。

 『作草部家之墓』と暮石に刻まれているが、ここには雪於一人しか埋葬されていない。

 生後間もなく孤児院に預けられた為、肉親と呼べる人間が分からないのだ。先祖代々の墓とも無縁であり、ここの管理は親友として岳が引き受けている。

 お誂え向きに真っ白な雪が降る中、雪於が眠るこの墓に天飾見里の遺骨が納められた。

 これは岳の独断である。結婚こそしていなかったものの、深く愛し合い、子どもを設けた二人である。せめて、遺骨だけでも再会させてやりたいと願ったのだ。

 母の遺骨を父の墓へ移すことはキリサメも反対しなかった。許可を求める岳にも「母さんだって、ここのほうが安心して永眠ねむれるでしょう」と答えている。

 旧友が眠る墓の前に立った岳は、彼らの忘れ形見に対して「キリーのことは一命に懸けてオレが面倒を見る」と改めて告げた。

 ペルーでは先に済ませるべき説明を飛ばし、何の脈絡もなく「今日からオレがキミの父ちゃんだッ!」と口走ってしまったが為にキリサメから目突きを喰らわされた岳であったが、今度は作草部雪於の最期を看取ったことや、彼にを託されたことについて順を追って語っていく。


「あのときはオレもうっかりしてたぜェ。『キャサリン』のお陰で第一印象バッチシってんだからエスエム・ターキーサマサマだよ」

「幸せな思い込みをぶち壊しにしてすみませんが、第一印象は最悪でしたよ」


 冗談めかして笑う岳だが、いくら口下手とはいえども、事情も要点も話さずに父親宣言などしては新手の誘拐と間違われても不思議ではあるまい。軽い目突きだけで許されたのは僥倖こううんであろう。紛うことなき戦士の肉体からだを持つキリサメから生まれてきたことを後悔するような目に遭わされたかも知れなかった。

 ぼんやりとしていて無害のようにしか見えないが、何しろ凶悪と知られるリマの少年強盗団が裸足で逃げ出すくらいなのだ。『ざるだん』を『聖剣エクセルシス』で薙ぎ払う威容すがたには岳自身も魂を震わされたほどである。

 銃撃を受けた瞬間に垣間見せた〝あの動き〟も含めて、彼が身のうちに秘めているモノは未だに計り知れなかった。


「地球の裏側で話したように雪於からキリーのことを託されたんだよ。あいつに比べたら不甲斐ない父ちゃんかもだけど、お前の将来を応援させて欲しいんだ」

「そんな風に呼ぶつもりはないですし、『父ちゃん』っていう存在ものが僕にはよく分からないんですけど……」


 作草部雪於――父の輪郭シルエットがキリサメの中でどうしても定まらなかった。自分の親ということが全く想像できず、死の間際のやり取りを岳から聞かされた今でも『母の恋人』程度の認識しか持ち得ないのである。

 雪於からは大切な息子として扱われていたらしいが、母の持っていた写真以外では一度も顔を見たことがないのだから『父』という存在に実感が薄いのも当然といえよう。

 ペルーの葬儀に於いては土葬のほうが多い。火葬もないことはないのだが、土葬のほうが費用を抑えられる為、貧民街の住人は大抵の場合が後者を選択するのだった。

 その上、集合墓地を使えるのは貧民街の中でも経済的に多少の余裕がある一部のみ。見里の場合は雪於からの仕送りによって幾ばくかの貯蓄があり、キリサメはこれを使って火葬を手配したのだった。

 その話を聞かされた岳は盛大に首を捻ったものである。今でこそ瓦礫の山と化しているが、集合墓地で寝泊まりする前には母と暮らした居宅があったのだ。自然災害で倒壊したとキリサメは話していたが、貯蓄を切り崩せば幾らでも修築できたはずであろう。

 雪於は大企業の専務であり、また金に飽かせて豪遊するタイプでもない。贅沢の代わりに相当な仕送りをしていたのではないかと岳は考えていた。貧民街で暮らす必要がないくらいの貯蓄額になっているはずだ。


「あー、……他人ひとの金ですから、あれ。正確には母さんの貯金なのかな。だから、葬儀には使わせてもらいましたけど、僕は別に関係ないし、母さんが死んだ後、どうなったのかも分かりません」

「関係ねぇって、おいおいおいおい、そんな寂しいこと……」

「事実ですから」


 貯蓄カネのことをたずねられたキリサメは無頓着としか表しようのない反応を見せた。


「つか、見里さんは雪於のことを何て話してたんだ? 写真あったんだろ? 『あなたのパパよ』みてェな話にはならなかったのか?」

「種馬みたいなものだって言ってました」

「いくらなんでもそれじゃ雪於が浮かばれねーぞー、見里さ~ん! 天国そっちでちょっと説教されなさーい!」


 旧友の墓前に向かって勢いよく注意ツッコミを飛ばした岳とは異なり、キリサメにとって雪於はあくまでもなのだ。だからこそ実父の仕送りや貯蓄のことも「他人ひとの金」と言い捨てたのである。銀行の通帳やカードも倒壊した家から持ち出さなかった。

 何かの仕事へ就いていたわけでもない少年が生計を立てる手段は、リマでボランティア活動を行っている日本のNGO団体から提供された情報の通りだろう。個人と集団の違いはあれども、日々の暮らしは少年強盗団と大して変わらないはずだ。

 キリサメ・アマカザリは、本当に不思議な少年だった。

 『聖なる剣』と呼ばれる一振りを暴力の象徴の如く繰り出し、犯罪によって飢餓ひもじさを凌いでおきながら、これを取り締まるべき警察組織とも深く結び付いていた。サン・クリストバルの丘を不法に占拠する『非合法街区バリアーダス』の住人にも関わらず――だ。

 ペルーでは警察組織の汚職が横行しているそうだが、その片棒を担いでいる様子でもない。キリサメを出迎えたワマンという刑事の態度からも友好的且つな関係を築いていたことが察せられた。

 国家警察との繋がりをたずねられた際、キリサメはる反政府組織の壊滅に協力したようなことをほのめかしたが、ひょっとすると〝雇われエージェント〟として立ち回っていたのかも知れない。集団に囲まれても全く動揺せず、冷静に対応し切った戦闘能力こそがその裏付けであろう。

 キリサメはパスポートを所持しておらず、出国手続きの完了には数日を費やすと思われたのだが、国家警察の刑事に掛け合っただけで必要な書類が次々と揃っていき、二日後には空港で出発時刻を待つのみとなった。

 〝民間の協力者〟に対する見返りとしては異例の措置といえよう。一刑事の権限で解決できるようなものではなく、国家警察の上層部による働きかけがあったとしか考えられなかった。パスポートも審査などが免除され、すぐに発行されたのである。

 くだんの刑事は謝肉祭カルナバルを直前に控えて多忙な時期にも関わらず、ホルヘ・チャベス空港までキリサメの見送りに駆け付けてくれた。ワマンは同地の言語ことばしか喋らないので何を言っているのか分からず、キリサメ当人も殆ど通訳してくれなかったが、それでも「彼のことを頼む」と託されたように岳は受け止めていた。

 〝何か〟を託す表情かおは万国共通だった。そして、握手に込められた力も強い。〝ペルーでのキリサメ〟を知る相手ワマンの思いが体温と一緒に心まで伝わったからこそ言葉が通じなくとも深く強く、大きく頷き返したのである。

 それだけで十分だったのだ。岳の回答こたえを認めたワマンは心から安堵したような表情を浮かべ、次いでキリサメにも何事か語り掛けていた。感情の起伏が零にも等しいと思っていた少年は例えようのない苦笑いを浮かべながら静かに頷き返している。

 ふたことことでキリサメが胸の奥に秘めた感情を引き出してしまえる〝過去を知る男〟に対して、岳は嫉妬すら覚えたほどである。ワマンにもそれが伝わったのだろう。おどけた調子で少年と肩を組み、勝ち誇ったように高笑いしていた。


(雪於みたいにデカいことをやる才能はあるし、見里さん――つーか、あまかざり家の遺伝子を受け継いだのは間違いねェけど、それでいてどっちにも似なかったのは面白ェな)


 旧友の墓に映した追憶から現実へ立ち戻った岳は、放っておくとすぐに積もってしまう雪を鬱陶うっとうしそうに振り払うキリサメの姿を頭頂部から爪先までねぶるように見つめた。

 顔立ちや目元といった身体的な面影以外は両親のどちらにも似ていない。旧友たちは自らの意志で〝道〟を切り開く人間であった。それに対してキリサメは目の前で起きたことへただただ流されているようなのだ。

 父の存在を否定しながらも遺言には従った。生まれ育った国を離れるわけだから、未練を引き摺ってもおかしくないのだが、そのような素振そぶりは少しも見られなかった。それとなく岳も促したのだが、古い友人であろう少年強盗団にも別れを告げなかったのである。

 その上、貧困からの脱却を期待しているようにも見えないのである。飢餓ひもじさを暴力で凌ぐという行為と矛盾するのだが、そもそも実父からの仕送りを無視してしまう少年が安定した生活へ固執するとは考えにくい。

 彼はいつも〝何か〟に流されていた。故郷を離れて未知なる地球の裏側へ移り住んだのだが、それもこれも全て岳の作った流れに身を委ねた結果に過ぎないのである。

 両親が眠る墓を離れようというときにも彼は一度だって振り返らなかった。成人もしていない内から老成し過ぎているというか、「感慨を持つ」という人間らしさを放棄しているのではないかと心配になったほどだ。

 日本へ流れ着くまで――否、新天地での暮らしを始めてからもキリサメはただ漫然と過ごしていた。窓からぼんやりと冬の空を眺め、時折、何かをスケッチするだけなのだ。

 彼の両親であったなら一所ひとところに留まっていることが我慢できず、屋外そとに街に繰り出して己の進むべき〝道〟を見出したはずだ。行動派の真逆へと育った忘れ形見にはさしもの岳も「何事にも張り合いがねェ」と苦笑するばかりだった。


 正午近くになっても雪は止まず、陽の光も鈍色の分厚い雲に遮られているが、辛うじて鉄道は動いており、キリサメたちも帰宅困難者とならずに済んだ。さすがに通常通りの運行ではないものの、雪害が広がりつつある状況では遅延にも目を瞑るしかなかろう。

 それだけに車内の人影もまばらで、悪目立ちして仕方のない二人に好奇の眼差しが集中することもなかった。

 そもそも眼中にすら入っていないのだろう。乗り合わせた人々は今夜二三時より開始されるフィギュアスケート男子フリーのことで頭が占められているらしく、日本代表の天才選手が金メダルを獲得できるか否か、そのことばかりを熱烈に語り合っていた。件の青年の独壇場になるのではないかという声が大勢を占める中、フランス代表のバッソンピエールなる日仏混血ハーフの選手が猛追しているらしい。

 時節柄というべきか、天井からぶら下がる中吊りポスターもソチ五輪にちなんだ物ばかりである。くだんの天才選手や、今大会で引退とささやかれる選手など日本代表たちの悲喜劇がそのまま見出しとなっている。

 その間隙を縫うようにして配置された広告がバレンタインデーの到来を喧伝していた。

 車内が華やいで見えるのは今日がバレンタインデーということと無関係ではあるまい。周囲まわりを見回してみれば、デートの最中と思しきカップルばかりなのだ。「やもめ暮らしには目に毒だぜ」と肩を竦める岳は、おどけた声色とは裏腹に居た堪れない様子だった。


「それにしてもカッチリとしたスーツは性に合わねぇや。寒くなけりゃキリーも上着、脱いじゃっていいぜ」

「この寒さの中で上着が要らないのは岳氏だけでしょう。……そういえば、今日はその陣羽織とかいう上着を脱がなかったんですね。ペルーで母さんの墓参りしたときは、手を合わせる前に脱いでいた憶えが……」

「あ、あれはその……また別の理由というか、後ろめたさがあったというか……」

「何でそんなしどろもどろに……。別に慌てるような質問でもなかったですよね」


 行動を共にするようになってから二週間近く経とうとしているが、未だに二人の会話は噛み合わない。尤も、これはキリサメの為人ひととなりとは無関係であろう。途中で面倒になるくらいであれば最初から陣羽織など選ばなければ良かったのではないかと至極当然な指摘ツッコミを受けただけで岳のほうが過剰に狼狽し始めたのである。

 冷や汗まで流し始めた岳を不審そうに見つめながらもキリサメはその隣で端然と腰掛けている。先端を床へ付けるようにして抱えた『聖剣エクセルシス』は車掌にでも見つかれば鉄道警察を呼ばれそうなだが、礼儀正しい佇まいは育ちの良さを醸し出している。

 岳はそこに見里の教育を改めて感じ取っていた。そして、それ故に過酷な環境でも悪徳に塗り潰されることがなかったのだろう。

 『暴力』の残虐性を『聖剣エクセルシス』の刀身に満たしてはいるものの、キリサメ・アマカザリは決して悪人ではない。ペルーを発つ前に垣間見た情景がそのことを岳に確信させていた。

 キリサメは生まれ故郷に未練を残してはいない様子だったが、ただ一人、出発前日に訪ねた者がいる。闇市ブラックマーケットが開かれるというリマ市内の狭い通路を抜け、その先に形成された貧民街まで赴いた彼は、掘っ立て小屋より少しだけ上等マシな家屋のドアを叩いたのだ。

 古馴染みの家だという。玄関でキリサメを迎えた中年の女性も『サミー』という独特の愛称ニックネームで親しげに呼んでいた。家の中に入るよう手招きでもって勧められたキリサメは首を左右に振ってこれを断り、今生の別れになるだろうと告げたようだ。

 その情景を岳は遠くから見守っていた。くだんの女性がペルーの言語ことばで何を語り掛けているのかは岳には理解わからなかったものの、大粒の涙を零しながらキリサメに頬擦りする姿には惜別の思いが確かに感じられた。

 黄昏時の光に照らされるキリサメは、涙に濡れた頬擦りを無言で受け入れていた。

 そのときに見せた柔らかな眼差しが岳の瞳に焼き付いて離れないのだ。キリサメは愛を知らずに育ったわけではない。母が亡くなった後も〝人間らしさ〟を手放してはいなかった。

 キリサメは古馴染みとの関係を詳しくは明かさず、岳のほうからも詮索はしなかった。夕暮れの中に認めた情景だけで養父には十分だったのである。



 八雲岳は東京都下北沢の静かな住宅街に居を構えている。だが、その外見は周辺まわりの家々と比べて一風変わっていた。奇抜といっても過言ではない。

 築四十年は優に超えているだろう三階建ての母屋が奥まった場所にあり、いわゆると思しき別棟が前方に大きく突き出しているのだ。客を迎える店舗のように建物の正面には何枚もの引き戸が設置されているが、ここには擦りガラスがめ込まれている為、室内なかを覗き見ることはできない。

 トタンを貼り付けた昭和風の建物である母屋に対して、別棟はコンクリートの打ちっぱなし。そして、こちらのほうが明らかに真新しい。アンバランスな構造が建物全体の奇抜さを際立たせているわけだ。庭を潰して増築を施した形である。

 別棟の脇から伸びる狭い通路を進んでいくと、ようやく母屋の玄関へ辿り着くのだ。

 何よりも目を引くのは別棟正面の壁に掲げられた一枚の看板である。『八雲道場』と筆字で大書された楠木の看板はその字面も含めて一般家屋には必要とされない物であろう。

 地球の裏側から日本へ移ったキリサメは、この風変わりな家で新たな生活を始めた。

 『新生活』といっても特にやることはない。日本の高校を受験するなり、何か仕事を探すなり、今後の身の振り方はゆっくりと考えるとして、今は日本に慣れることを優先するよう岳に言われたのだ。

 だが、「日本に慣れる」ということ自体がキリサメにはよく分からなかった。何をどう慣れれば良いのか。一体、何をもって「日本に慣れた」といえるのか、その基準は岳から設定されなかったのである。

 それが為に食事を摂るダイニングルームと、自分に宛がわれた部屋を往復する毎日である。余人の目には気楽な〝ニート〟のようにも見えることだろう。

 尤も、キリサメは現実を忘れて遊び耽るような性格でもなかった。岳から買い与えられた漫画の単行本やゲーム機には全く触れず、室内に設置されたテレビに至っては電源ボタンが押されたことすらなかった。

 誰より早く起床したかと思えば、日がな一日、ぼんやりと空を眺め、新聞と一緒に折り込まれてきた広告チラシの裏に雲の形などを描いて過ごしているのだった。キリサメにとって唯一の趣味であるが、スケッチに没入するというよりも暇潰しに近い。


 この不思議な少年には岳の娘――くも未稲みしねも大いに困惑させられていた。一つ屋根の下で暮らすことになった同い年の彼は、何を考えているのか、また何を仕出しでかすのか、一切読めないのである。

 二人が初めて顔を合わせたのは雪害の兆しが見え始めた頃だった。

 大雪の為に旅客機の到着時間が遅れているとニュースでも報じており、疲れ切った状態でやって来ることは想定していたのだが、新宿駅から下北沢まで父の気まぐれで歩かされたことが長距離飛行フライト以上に大変だったようだ。「辟易」の二字を貼り付けた顔を引っ提げて現れたときには、気の毒とは思いつつも吹き出してしまったのである。

 キリサメが感情を表に出したのはその一度きりだった。以降は瞼を半ばまで閉ざすという眠そうな面持ちのまま無表情を貫いており、日本の寒さにてられて心が凍り付いたのではないかと錯覚する瞬間も少なくなかった。

 ペルーで生まれ育ち、日本の土を踏むのも初めてということだが、こちらの言語ことばも一通りは習得している。細かなニュアンスの部分で行き詰まる瞬間こそあるものの、日常会話を行う上では何ら支障がないレベルなのだ。母親とは日本語で会話していたという。難解なものを除けば漢字も含めて読み書きにも問題もなさそうだった。

 一つ屋根の下で暮らす相手にさえ心を開かないコミュニケーションの不全は言うに及ばず、意欲を欠いていることも明白である為、高校進学は望めないと未稲は考えていた。岳が用意した高校の資料に目を通してはいるようだが、受験希望の候補をたずねられた際に曖昧な返答しかできなかった辺り、真剣に読み込んでいるとも思えないのだ。

 父も父だ。偏差値の高い学校の資料ばかりを揃えてどうするのか。

 とうしょうだいぞくしなこうこうしちけんがくいんは都内どころか、全国屈指の名門である。一日の大半を勉強に費やすほど努力を重ねていなくては合格など夢のまた夢。外国から移り住んだばかりの少年では箸にも棒にも掛からないだろう。

 やまうちかいようこうこうは水産業の知識などを身に付ける専門性の高い学校だ。伊豆諸島に所在する全寮制の高校へ入学しようという者が下北沢に腰を落ち着けるのは矛盾もしている。

 都内で考えるならばさんじゅくがくえんしまじゅうこうぎょうが挑戦可能なラインか。自分が籍を置くまきしょうぎょうもその中に加えて良いだろう。

 己の身の振り方どころか、キリサメは日本の文化にも一向に興味を示さない。どのような物事に関心を持っているのかも未稲には分からなかった。

 同い年の少年と一緒に暮らすことになると聞かされたときには入浴中の遭遇や、鍵を閉め忘れたトイレのドアを開けられてしまうといった災難ハプニングを想像して緊張したものだが、いざ同居生活が始まってみると、キリサメは驚くほど未稲じぶんに関心を寄せないのだ。

 未稲にとっては肩透かしも良いところで、キリサメの洗濯物に彼女の下着が混ざっていたときなどは、照れて赤くなることも鼻の下を伸ばすようなこともなく、無感情に淡々と返却してきたのである。


「が、柄とかリボンとかアレとかコレとか、と、とにかく忘れてッ!」


 赤面しながら絶叫する未稲に対して、キリサメ当人は相手が何を恥じらっているのか、そこから理解していない様子だった。


「忘れるっていうか、特に憶えてないです」


 未稲の乙女心が悲鳴を上げたのは言うまでもない。

 確かに同世代の娘と比べて凹凸は控えめかも知れない。化粧っ気も洒落っ気もなく、日中から家に閉じ籠っている為、大抵の場合はTシャツ一枚にレギンスで過ごしている。しかし、それでも全く女性として意識されないのは悔しいわけである。

 こうした無自覚の失言も含めて、とにかくキリサメは奇行が多かった。

 彼の感性は他者とは相容れないほど独特で、だからこそ未稲は「自分に魅力がないから黙殺スルーされているわけじゃない」と言い訳できるのだが、それにしても奇行の数々が度を越しているのだ。

 何の前触れもなく屋根の上に登ったかと思えば、電柱の頂点に片足だけで立っていることもあった。空を眺めるのが好きだとしても、せめて自室の窓から覗くだけにして欲しいものだ。しかも、キリサメはその状態で鉛筆画を描き始めたのである。

 近隣の住人に見つかったときには警察へ通報されそうになったくらいだ。

 キリサメが八雲家に来てからというもの、未稲は一日たりとも心が休まらなかった。

 ペルーには高い場所に登らなくてはならない風習でもあったのだろうか。地球の裏側のことなど無知にも等しい未稲は、最初はじめの内は現地の感覚が抜け切っていないのだろうと考えていたのだが、インターネットで検索しても、ネットゲームの仲間に尋ねてみても、そのような文化には行き当たらない。

 代わりに知り得たことといえば、強盗や殺人の横行といった治安の悪さばかり。危険にして凶悪な情報の数々には思わず身震いしたほどである。

 贔屓にしているネットニュース『ベテルギウス・ドットコム』がペルーの格差社会を取材した際には現地へ向かう直前の父と共に予習として動画ビデオを視聴したのだが、そこで紹介された貧民街は秩序に基づいて自治体のように機能していたのである。

 生温いとしか感じられない内容であった為、拍子抜けした未稲は辛口の批評コメントを送信したのだが、『ベテルギウス・ドットコム』が調査したのはリマ市内のあちこちに点在する『非合法街区バリアーダス』の一つに過ぎず、実際には殆どの場所が秩序も何もない過酷な環境のようだ。海外安全情報が掲載されたホームページで調べてみると、彼らがペルーを発つ数日前にも首都中心部の貧民街で少女の射殺体が発見されたそうである。

 自分と同じ年齢の少年は――キリサメ・アマカザリは、人の命がちりあくた同然に消し飛ばされる土地からやって来たのだ。


「――もしかして、その子はわざとスリルを味わっているのではないでしょうか。激戦地に送り込まれていた兵士が帰還すると、平和な世界には居場所がないと思って落ち着かなくなるそうであります」


 リビングルームのテレビで男子ハーフパイプの決勝戦を眺めながらキリサメの奇行を振り返っていた未稲の携帯電話スマホに何とも物騒な電子メールが届いた。

 液晶画面には本文と共に『デザート・フォックス』なる珍妙な名前が表示されている。

 『エストスクール・オンライン』というネットゲームで知り合い、頻繁にメールのやり取りをしている軍事ミリタリーマニアの男友達――デザート・フォックスに相談したところ、思いがけない答えが返って来た次第である。

 彼の考察によれば、キリサメは危険と理解した上で、敢えてそのような場に身を晒しているというのだ。


「吾輩、同じ症状に苦しむ旧陸軍の生き残りへ取材したこともあるのであります。その子はさしずめペルーという戦場からの帰還兵でありますな。現代に生きる兵士であります」


 大袈裟な文面ではあるものの、発想そのものは突飛とも言い難い。彼の考察とキリサメの行動を照らし合わせると全ての辻褄が合うような気がした。

 フランス代表のバッソンピエールなるスノーボーダーがテレビ画面の向こうで天高く舞い踊っている。跳躍の頂点で姿勢を崩し、真っ逆様に急降下するようなことがあれば、円筒の上半分を割ったような形状の構造物セクションに叩き付けられるだろう。打ち所が悪いと生死の境を彷徨うことは免れまい。

 男友達デザート・フォックスの言葉が真実だとすれば、キリサメの心はそのような状況へ引き寄せられていることになるのだ。

 出会いの日から確かに前兆はあった。

 ペルーから一着も衣類を持ってこなかったキリサメの為、未稲は来日したその日に本人を伴って買い出しに出掛けることになった。しかも大雪が降り積もる夕暮れ近くである。

 彼と行動を共にしながら衣類のことを考えていなかった父の不手際に他ならず、自分で尻拭いをするよう突っ撥ねたかった。一緒にログインしようとデザート・フォックスらと約束していた時間に間に合わなくなる可能性も高かったのだ。

 しかし、父のほうも帰国の連絡を入れた仕事仲間から極めて厄介な案件を告げられ、他のことが手に付かなくなっていた。ペルー訪問中にニューヨークで発生した傷害致死事件が耳に入ったのだ。背負った肩書きがそれに相応しい対応を八雲岳に求めるのである。

 満足に挨拶もしていない相手と二人きりで出掛けるのは甚だゆううつだが、買い出しは自分が引き受けるしかなかった。長旅で疲れているのだからキリサメには家で身体を休めて貰うべきだろう。しかし、サイズが分からなければ衣類も揃えようがない。再び外出せざるを得なくなっても文句一つ垂れずに従ってくれたことが未稲には幸いだった。

 自宅から最も近い南口商店街にも衣料品店は多いが、大雪の影響から客足も鈍いのでアーケード全体が早仕舞いを決め込んでいる。今から向かってもシャッターばかりの拱廊を散歩するだけになると判断した未稲は、移動距離自体が長くものの、目当ての品々を確保する確率が高まるだろう駅の北口側へとキリサメをいざなった。

 京都知事選が大詰めを迎えている頃だ。投票日を翌日に控えた候補者たちは追い込みとばかりに声を嗄らして街頭演説に励んでいる。道路に面した広場でも一人の候補が大音声で〝最後のお願い〟を訴えていた。

 鶏を絞めた際に発するような独特の声と併せて、とにかく異彩を放つ男であった。決意の表れということなのか、時代劇などで見掛けることのある淡い青色のせっぷくかみしもを着ていたのだ。飛び散った泥があちこちに斑模様を作っていたが、そのようなことは気にも留めず、極端に前のめりとなって有権者たちに熱弁を振るっていた。

 外見上の圧力は押し付けがましく思えるほど凄まじいのだが、どうやら選挙カーを用意できるだけの資金を集められなかったらしく、遊説場所まで徒歩で移動しているようだ。

 いわゆる〝飛沫候補〟であった。雪の下北沢で『健全な東京都』を呼び掛ける珍妙な男は首位争いへ加われない代わりにを炸裂させているが、主義主張そのものは都政に関心があるのか疑わしいくらい現実味がなかった。


「先週、ニューヨークで起きた〝殺人事件〟を皆さんはご存知でしょうか⁉ 総合格闘技によって暴力性を駆り立てられた愚かな暴徒が善良な市民をリンチに掛けた凶悪犯罪が日本でまともに報じられていない事実が私には信じられない! 有力メディアがカネになる格闘技を庇っているのは明々白々です! 紛れもない陰謀なのです! 格闘技を野放しにしておけば、東京が暴力の支配する悪夢の都になってしまいます! そうなる前にこの私が食い止めなければならないのです! その使命に燃えてここに立っています!」


 アメリカで発生したという事件を取り上げて雄弁を垂れているわけだが、東京都政と結び付けて格闘技を批判するのはいくらなんでも無理が過ぎるだろう。

 飛沫候補の言動に整合性があると思えなかったらしいキリサメが小首を傾げる隣で未稲は丸メガネのレンズに憎悪の眼差しを映していた。


「都政健全化に格闘技廃絶は必須です! 想像して下さい、皆さんの子どもが残虐な格闘技に接して暴力に目覚めた姿を! 勉強ができなくても殴れば物事は解決する、反対意見は蹴りを入れて黙らせる! 家庭内暴力・学校崩壊・政府転覆――格闘技に汚染された日本に未来はない! 今、こうしている間にも『健全な肉体に健全な精神が宿る』と言葉巧みに誰かが洗脳されている! 文民統制を揺るがす詐欺を黙って見過ごせるか!」


 飛沫候補は秒を刻む毎に身振り手振りが仰々しくなり、大言壮語も加速していくが、結局は演説の形で自分の嫌いな格闘技を貶めているだけである。何をもって『格闘技による暴力の助長』と定義し、これを取り除くことでどのような点が改善されるのか、有権者が都知事候補に求める建設的且つ具体的な政策が何一つ示されなかった。

 格闘技廃絶の理由が候補の個人的な感情に帰結してしまうのである。


「ご清聴ありがとうございました! この主税ちからヨシノリ! 東京を暴力の蔓延はびこる隙間もない健全な首都に導いてみせます! 無血革命の第一歩を共に踏み出しましょうッ!」


 格闘技は暴力と決め付け、何度も何度も扱き下ろす飛沫候補――主税ちからヨシノリは張り上げた声こそ大きいものの、その訴求力は甚だ疑問だった。立ち止まって聞き入る人間など数えるほどしかいないのだ。大雪で人影がまばらということは関係ないだろう。

 それが証拠に注目度ひいては期待度など一七名の立候補者の中でも最下位だった。

 およそ都知事候補の資格に相応しいと思えない手合いの言葉など耳に入ってくるだけで気分が悪くなる――今すぐ立ち去ろうとキリサメを促した瞬間、主税ちからヨシノリの支持者と思しき者たちがラッパなどの管楽器を吹き鳴らし始めたのである。

 大雪が止まない為に傘を差して歩いていた未稲は、調子の外れた合奏に驚いて取っ手から指を離してしまった。依然として吹き荒んでいた強風にさらわれて舞い上がった傘は、次いで車道の真ん中に落ちていく。

 交通量が著しく増加する時間帯であり、加えてスリップ事故が多発する雪道だ。未稲も無事な状態での回収は即座に諦め、自動車が通り過ぎた後に残骸だけでも片付けようと考えたのだが、ここでキリサメが信じられない行動に出た。

 家路を急ぐ自動車が絶え間なく走行する状況にも関わらず、一瞬たりとも躊躇ためらうことなく車道に飛び込み、未稲の傘を拾い上げたのである。


「何やって――えっ⁉ な、何やってんの、この人ぉッ⁉」


 この時点で未稲は狂わんばかりの悲鳴を上げていた。キリサメにはフードトラックと思しき車輌が真っ直ぐに迫っていた。もはや、ブレーキも間に合わない――彼女だけでなく歩道を行き交っていた誰もが最悪の事態を想像したことだろうが、気付いたときにはキリサメはガードレールの上に降り立っていたのである。

 映画のフィルムでたとえるなら、車線を跨いで歩道へ戻るまでのコマが丸ごと抜け落ちてしまったようなものだ。キリサメの動きを視認できなかったのは未稲だけではなかったらしく、急停止したフードトラック以外の車輛は何事もなかったように走行し続けている。

 カスリ傷一つも負わず、歩道で見守っていた人々から謎の拍手を受けつつ無事に戻って来たキリサメは未稲に傘を差し出した。

 その瞬間、未稲は歩道にへたり込んでしまったの。想像を絶する出来事にすっかり動転し、傘を受け取ることも無謀を叱ることも思考から抜け落ちたわけだ。

 そのときの未稲には人間業ではないようにも見えたのだが、冷静になって振り返ってみれば極度に緊張した状況下で他者の身のこなしを正確に捉えることなど不可能に近い。おそらく記憶の一部が歯抜けのように飛んでしまったのだろうと彼女は結論付けた。

 腰を抜かして動けなくなってしまった未稲に傘を持たせ、手を差し伸べたとき、彼の顔面には生命の危機に晒されたという動揺など僅かとて滲んでいなかった。さすがに呼吸は乱れ、額から汗も噴き出していたが、それだけだった。底冷えするほど無感情に彼女の顔を見下ろしていたのである。

 キリサメ・アマカザリという少年は、危険を認識する感覚が壊れてしまっているのではないかと戦慄したほどである。

 そのことはすぐに岳へ報告したのだが、彼はキリサメの頭を撫でつつ、「オレの目は節穴じゃなかったぜ」と豪快に笑うのみ。父の破顔が未稲には理解できなかった。一体、どこに褒められる要素があったのだろうか。単なる自殺行為ではないか。

 挙げ句の果てには電光石火の動きが〝発動〟した状況などを根掘り葉掘りたずねてくる始末である。降りてきたフードトラックの運転手と路上戦ストリートファイトに及んだのではないかと勝手に興奮し始めたときには鬱陶うっとうしくなってソチ五輪観戦へ逃避したくらいであった。

 運転手が知人ということを父は失念している。車体のあちこちに『がんじゅ~い』なる名称が入ったフードトラックを使い、沖縄クレープの移動販売を行っているのだ。古馴染みということもあって父も頻繁に利用しており、未稲も以前に挨拶したことがある。

 そのような相手と取っ組み合いになるのは最悪の事態で、未稲も思わず身を強張らせてしまったが、くだんの運転手はフードトラックから降り立つなりキリサメの前を素通りし、街頭演説を続けていた主税ちからヨシノリに「あびらんけ!」と怒声を叩き付けたのである。

 傘で顔が隠れていた為か、へたり込んでいる知人に気付かなかったようだ。


「お聞きになりましたか⁉ 彼の姿をご覧下さい! これこそ暴力以外に頼るものがない哀れな格闘家の成れの果てです! リングではスポットを浴びてヒーローと偽ることもできますが、いざ現役を退けばこの通り! 知恵も技術も備えていないから自分より力の弱い人を脅してカネを巻き上げるしかない! こんな傲慢を許してはならないのです!」

「知恵と技術を駆使して沖縄クレープ焼いてるわい! ……お前こそ何も知らない人たちを言葉巧みに騙すな! いい加減にしねェと名誉棄損で集団訴訟起こすぞ⁉」


 どうやら互いに顔を見知っているようで、フードトラックの運転手は主税ちからヨシノリの主張へ真っ向から噛み付いていった。

 間もなく二人は揉み合いになったが、これは明らかな選挙妨害である。警察官やマスコミが嗅ぎ付ければ投票日直前を揺るがすニュースになるだろう。そのような騒動へ巻き込まれない内に未稲はその場を離れたのだった。


「……生きるか、死ぬかって状況が近くにないとおかしくなっちゃうのかなぁ……」


 今日もキリサメは母屋の三階の屋根に腰掛け、何かをスケッチブックに描いている。

 下ろし立てのシャツに袖を通しているが、その背中には珍妙なマスコットキャラクターが刷り込まれていた。

 横線二本で眉毛と口、縦線一本で鼻筋を描き、左の下唇と右の上唇にそれぞれ一つずつホクロを置くというデフォルメの強い丸顔は、ペルーから身に付けてきたシャツの左胸にも見られるものだ。

 日本でも著名なマスコットキャラクターであるが、どちらかというと女性人気が高く、男性が身に付けているところは殆ど見掛けない。それにも関わらず、キリサメは同じデザインの物ばかりをわざわざ選び、他の衣類には見向きもしないのである。

 そんな感性ところも彼は変わっていた。変わり者のことが気になって仕方がない自分も、同じように変わり者なのだろうと、未稲は自嘲の溜め息を吐いた。

 思い切って自分も窓から二階の屋根に飛び移った未稲は、四肢に力を込めてバランスを維持しつつキリサメが座っているほうを仰ぐと、身が竦むほど不安定な場所に居て怖くないのかとたずねた。


「私なんか屋根に出た時点でガクガクブルブルなんだけど……どうして、そんな平気な顔していられるの? 怖いでしょ、そんな場所……登らずにいられない理由があるの?」


 危険極まりない場所へ身を置くことに何の意味があるのか――これをキリサメにただすことは初めてであり、未稲の声は少しばかり震えていた。勿論、それは高所に対する怯えが声帯にまで影響したということではない。

 キリサメに確かめるのが怖かった。軍事ミリタリーマニアの男友達デザート・フォックスの見立て通りだとしたら、彼は「感性が独特」の一言で済まされるような存在ものではないのだ。ペルーという穏やかならざる土地で常に神経を研ぎ澄まし、あるいは生死を決するような戦慄で心身を鍛え、傷だらけの魂を持った〝帰還兵〟に違いないのである。

 現在のペルーが戦争状態でないことは未稲も把握している。しかし、男友達デザート・フォックスが言うには十数年前に首都で大きなテロ事件があり、そうした過激な組織は現在いまなお国内に潜伏しているというのだ。市民たちによる反政府デモを裏で操り、国家警察の長官と癒着するなど社会への影響は計り知れなかった。

 少し前にも政府軍と武装集団との間で激烈な銃撃戦が発生したばかりだという。それより更に遡ってみると同種の組織が民間人の手で壊滅させられたケースもあったそうだ。

 危険地帯といっても過言ではない国からやって来た人間は精神の構造すら常人から懸け離れている。それはもはや、人外の境地に他ならない――これもまた男友達デザート・フォックスが語ったことであり、未稲も真実に最も近い推察であろうと考えている。

 精神構造が人外の境地に至っているか、否か。その判断を付ける為に危ない場所へ身を置く理由を問われたわけだが、キリサメは未稲の意図を上手く読み取れなかったようだ。


「……安心するんですよ……」


 何を当たり前のことを訊いているのかと言わんばかりにきょとんとしたのち、流れゆく白雲を仰いだキリサメは、ただ一言だけ返答こたえを呟いた。

 予想通りの反応が返されたときには未稲は身も凍る思いであった。彼は自分が人間ではないと、あっさりと認めてしまったのである。

 地球の裏側からの〝帰還兵〟あるいは人外の境地などと喩え方は様々であろうが、いずれにせよ、この瞬間から自分とキリサメは相容れない存在となったのだ。

 未稲は身の震えを抑えられなかった。


「……あの、ちょっとぉ、ちょっとぉ~」

「……もしかして、そこから動けなくなってないですか?」

「き、訊かなくても分かってるんなら、こっち来て! た、たぁすけてぇ~」


 しかし、どれほど恐ろしい相手であっても、助けを求めなければならないときがある。勢いで屋根の上に飛び移ったものの、未稲は恐怖に挫けてしまい、そこから一歩も動けなくなったのである。


「高所恐怖症なら、こんなことをしちゃいけませんよ」

「足場さえしっかりしてたら東京タワーだって平気! 不安定な傾斜がダメなだけ!」

「別にこれくらいどうってコトは……」

「や、や、やっぱり怖いよぉ~!」


 相容れない存在に対する戦慄と、下手に動くと地上に転落してしまうという恐怖に身を強張らせながら、未稲はキリサメの救助を待つしかなかった。

 腰と肩を支えられて姿勢は安定したが、今度は恐怖おそれの代わりに燃えるような羞恥はずかしさが駆け抜けた。身内以外の異性から身体に触れられた経験がなく、免疫もない為、少年の体温を感じただけで脂汗が噴き出すほど緊張してしまうのだ。


「……は……う……う……っ!」


 パソコンや携帯電話スマホの液晶画面を通せば男友達とも問題なく言葉を交わせるのだが、現実はネットゲームのようには行かないもので、今や声を詰まらせるばかりである。

 スケッチブックの鉛筆画が目に入ったのはキリサメの顔が直視できなくなって俯いたときだった。


「こ、これって火の見櫓だよ……ね?」


 独特な画風タッチなので自信はなかったが、おそらく住宅街に程近い消防署の屋根に遺された古い火の見櫓であろうと未稲には認識できた。輪郭シルエットからしてイカの姿焼きという可能性が捨て切れないものの、海産物を描きたいのならわざわざ高い場所へ上る必要もあるまい。


「そうですよね、何を描いてるのか、普通に分かりますよね⁉」

「ひわっ⁉」


 照れ隠しの為に鉛筆画へ触れただけなのだが、キリサメは急に前のめりとなった。その上、未稲の顔を覗き込む眼差しは何時になく熱を帯びている。

 スケッチブックの中央に描いた物体を理解わかって貰えて嬉しいようだが、それにしても顔が近い。互いの鼻が擦れ合う距離まで顔を近付けてくるのは何かとスキンシップの多い父を除けばキリサメが初めてである。

 改めてつまびらかとするまでもなく、未稲の顔は瞬時にして茹で上がった。


(ダメダメ、私にはデザート・フォックスさんがいるんだし、それにあの人だって――)


 早鐘を打つ心臓を抑えようと幾度か深呼吸を挟んだのち、勇気を振り絞って顔を上げる未稲であったが、肝心のキリサメは既に自分のほうを見ていなかった。フードトラックに轢かれそうになったときにも見せなかった険しい表情かお周辺あたりを見回しているではないか。

 高所から地上の獲物を狙う猛禽類ともたとえるべき顔付きであった。訳も分からず未稲もそれに倣ったが、キリサメが〝何〟も窺っているのかも分からない。彼女の双眸が捉えたのは住宅街に迷い込んでしまったと思しきブレザー服のカップルくらいである。

 制服ブレザーの色から察するにしちけんがくいんの生徒のようだ。腕を組んで仲睦まじく歩く姿は微笑ましいが、現在いまは平日の昼間である。それはつまり、授業を抜け出して遊び呆けているということであり、名門進学校の生徒とは思えない不良行為だった。

 二人ともパッションピンクのバンダナを腕に巻いているが、それ以外は身だしなみも大きく乱れていないように見える。


「……まさか、日本まで追い掛けてきたんじゃないだろうな、『ざるだん』……」


 意味不明なことを呟いたキリサメは、その場に未稲を置き去りにして自室へ引っ込んでいき、ペルーから届いたばかりの荷物を乱暴に解いて奇妙な物を組み立て始めた。

 二枚重ねた平べったい木の板に取っ手を組み合わせるという形状は船のオールに良く似ているのだが、板の端からは尖った石や鉄片がノコギリの刃のように幾つも迫り出している。その禍々しい姿がペルーの土産物ではなく〝武器〟であることを示していた。

 慣れた手付きで一振りの〝武器〟を完成させたキリサメに未稲が訝るような視線を向けると、またしても「安心するんですよ」という答えが返ってきた。


「……『聖剣エクセルシス』とは長い付き合いなので……」

「エクセルシスって、それのなまえ……かな?」

「僕も詳しくは知りませんが、聖なる剣という意味らしいです」

「……聖剣エクセルシス――ファンタジー系の書籍ホンでも見たコトないなぁ……」


 テレビゲームでたとえるならば『魔剣』と呼ぶほうが似つかわしいとさえ思える形状の武器を『聖剣』と称したことも含めて未稲にはますます意味が分からなかった。おまけにこのことを聞かせても父は「アレがキリーの牙なんだ」と嬉しそうに笑うばかり。

 現代社会に於いて出番などあろうはずもない『聖剣エクセルシス』をキリサメは亡き母の法事にも携えていった。


 天飾見里の遺骨を『作草部家之墓』へ移したことを一区切りとして、八雲家ではキリサメの歓迎会が催された。出席者は家族三人のみであったが、大奮発して特上のすき焼きが振る舞われたのである。

 日本とペルーでは食文化が全く異なっているように思われがちだが、南米には日系移民の子孫も大勢暮らしている為、首都のリマともなれば日本食レストランが何軒も立ち並んでいるのだ。輸入品の店を少し探すだけでも日本の食材や調味料は簡単に手に入る。

 キリサメの家でも日本の調味料は日常的に使われていた。亡き母も遠い故郷の味を息子にも覚えて欲しかったのだろう。朝食の献立にみそ汁が含まれない日のほうが少なかったくらいなのだ。


「何を隠そうキリサメの父ちゃんが日本食をペルーに持ち込んだんだぜ――つーと言い過ぎかもだけど、当時のペルーになかったモンをたくさん運び入れたのは間違いねェ。今でも向こうに支店があるしよ! 見里さんもそこで買い物してたんじゃねぇかな! あいつら二人、どこかどこかで繋がってるんだなァ!」


 ここぞとばかりに岳はキリサメの実父がペルー国内で進めていた事業や功績を披露するが、肝心の忘れ形見は全く聞き流している。

 しかしながら、意地悪く無視し続けているわけではない。目の前のすき焼きへ夢中になる余り、周囲の情報を取りこぼしているのだ。

 普段は何事にも無感情なキリサメが目の色を変えていた。

 母親が亡くなって以来、日本食と縁がなかっただけに久々のすき焼きは格別に美味い。程よくが降った牛肉や香ばしい焼き豆腐、ネギとシラタキも目を輝かせながら頬張り、焦り過ぎて咳き込む瞬間もあった。


「ンなに慌てなくって、肉はどこにも逃げねぇって」


 豪快に笑った岳は、喉を潤すようにと自分のグラスをキリサメに差し出そうとした。これを満たす黄金の液体は、言わずもがなビールである。

 その手を慌てて引っぱたき、「悪ノリにも程があるでしょ、この酔っ払いっ!」と一喝して未成年者の飲酒を防いだ未稲は、次いでキリサメの様子をそっと窺った。


「味付けは平気……? フツーのすき焼きと比べて変わり種なんだけど」

「美味いです、すごく。スパイスが強いハズなのに舌に馴染むというか、染み込んでいくというか……奥深い味だと思います」

「おッ⁉ キリーってばグルメレポーターの才能があるじゃねーの⁉ それでこそ、奮発した甲斐があったってもんだぜ! 牛肉だけでオレの小遣いの一ヶ月分だからよォ!」

「……お父さん、そーゆーみみっちいコトは言わないで……」


 ペルーで生まれ育ったキリサメの口に合うか心配していた未稲は怒涛の勢いで肉や野菜を平らげていく姿に胸を撫で下ろしていた。

 幼い頃から日本食に慣れていると来日直後にも聞いてはいたのだが、本当に味覚は自分たちと大して変わらないようだ。箸も器用に使いこなしている。

 すき鍋を囲む状況ではあるものの、ダイニングルームはスパイスの香りで満たされていた。未稲が「変わり種」と語った通り、夕食はカレーすき焼きだったのである。

 醤油ベースの割り下にカレー粉を加えたものだ。敢えて典型的オーソドックスな〝日本風の味付け〟を外したのは往年の俳優が映画撮影の現場で残したとされる名言を信じたからである。

 曰く、「カレーが嫌いな日本人なんかいない!」とのことだ。

 海外移住という環境の変化の中でとりわけ重要なのは食事であろう。味付けが合わずに苦しい思いをさせては申し訳ないと未稲は密かに心配していたのである。何より今夜は大事な歓迎会だ。カレーならば大失敗の可能性も低いという判断だった。

 果たして、未稲の目論見は大成功であろう。鰹や昆布の効いた出汁だしがキリサメの胃袋を掴み、また隠し味の山椒も食欲を大いに刺激している。

 安堵以上に感情を見せてくれたのが未稲には嬉しかった。このまま心が通わないままでは生活していく上でも息苦しくなるだろう。無愛想というよりも、感情の発露が得意ではないのかも知れない。そのことが分かっただけでも大きな前進であった。


「うすぼんやりと岳氏から聞いた憶えがあるのですけど、食事は未稲氏が?」

「他にやる人もいないしね。当番制にしても良いんだけど、お父さんが台所に立ったら後片付けのほうが大変だし、結局、私の仕事が増えるだけなんだよね」

「男の料理もたまには悪くねーだろ――てか、キリーはどうなんだ? どっちかっつーと買って食べるほうが多かったのか?」

「まあ、……そんなところです。火で焼く程度なら炭にしない自信はありますけど」

「……はいはい、了解! これまで通り、ご飯は私が受け持ちます!」


 歓迎会のカレーすき焼きは下ごしらえから調理まで未稲が一人でこなしていた。今晩だけのことではない。母親不在の八雲家では彼女が家事全般を担当しているのだった。

 キリサメと同い年の彼女は今年で一七歳になるが、全日制の学校には通っていない。まきしょうぎょうという高校に在籍しながら通信制の形で教育を受けているのだ。

 外へ働きに出ている岳の代わりに生活費の管理まで含めた〝家の仕事〟を全て取り仕切る父子二人三脚の家庭である。

 それ故、未稲は外出する機会が極端に少ない。下北沢には幾つも商店街があるのだが、買い出しは基本的に通信販売で済ませており、一日一回は宅配業者が訪問していた。

 主にチャイムを鳴らすのは山吹色のツナギを制服ユニフォームにしている業者で、その配達員とはキリサメも何度か顔を合わせている。アホウドリをかたどったロゴマークが印象的だったので、すぐに記憶できたのだ。

 宅配業者を駆使しなければならないほど忙しいのだろうとキリサメは察していた。日々の家事をこなしつつ、暇さえあれば一心不乱にパソコンへ向かっているのだ。家計簿の入力か、勉強であるのかはともかく、就寝以外には休まる時間などなさそうだった。

 キリサメにはよく分からないのだが、彼女はブログというものも運営しているそうだ。

 何かと苦労の多い未稲を眺めている内に気には掛かったものの、母親がいない理由を訊ねることは踏み止まった。自分の家とて父親が不在だったのだ。各々の家庭にはそれぞれ違った事情があり、これは決して他人が踏み込んではならない領域なのだと弁えている。

 尤も、岳は尋ねられたことには何でもあっけらかんと答えそうではある。どんなに複雑な事情が絡んでいるとしても、一切を冗談混じりで明かしてしまいそうだ。

 今夜も上等な牛肉とビールで上機嫌となり、愉しそうに笑っている。人の言うことを聞かない性分なのか、会話が噛み合わない瞬間もままあるが、岳は何時だって笑っている。


「おっと、オレとしたことがうっかり忘れてたぜ!」


 やおらテーブルにジョッキを置いた岳は、手元にあったテレビのリモコンをいそいそと操作し、テレビの電源を入れた。


「お父さん、ご飯中のテレビはやめてっていつも言ってるでしょ。しかも、今日はキリサメさんの歓迎会じゃない。それ、もう行儀以前の問題だよ」

「細けェことはいいじゃねーか。落ち着いたらキリーに見せようと思ってたんだよ」


 電源を入れた直後、テレビ画面に映し出されたのはニュース番組である。

 番組自体が終了する間近であったらしく、その日のハイライトとして大雪による日本各地の被害状況や、内戦前夜の様相を呈し始めたウクライナの情勢などが報じられ、続いて記者の取材に応じる新都知事の姿へと切り替わった。

 当然ながらテレビ画面の向こうでマイクを向けられているのは格闘技廃絶を訴えていた飛沫候補――主税ちからヨシノリなどではない。結局、彼はニュースで報じる価値バリューもない程度の票数しか獲得できず、歴史的な惨敗を喫している。

 知人と飛沫候補の揉め事も念の為に父へしらせてはおいたが、それ以降、選挙妨害による逮捕といったニュースも聞こえてこなかったので警察もまともに取り合わなかったようだ。事実、出先から帰ってきた父は歓迎会のデザートをくだんのフードトラックで買い求めていた。沖縄クレープが入った紙箱には『がんじゅ~い』と刷り込まれている。


五輪オリンピックなら後でダイジェスト版を観てよ! どうせアレでしょ、バッソンピエールって珍しい選手が目当てなんでしょ⁉」

「違ェよ、もっと面白いモンだ!」


 丁度、ソチではショートトラックの大勝負が繰り広げられている頃だ。一家総動員にも等しい状態で参戦しているフランス代表のバッソンピエールがメダルを獲得できるか否かに世間の注目も集まっていた。

 そうでなくとも世界の関心事といえば熱戦続く五輪であろうが、くだんの選手や日本代表の活躍以上に優先したいものが岳にはあるらしい。

 間もなく起動したDVDプレイヤーより再生されたのはスポーツ番組である。

 端々に皮肉を織り交ぜる語り口が特徴的な番組司会者の冒頭挨拶を挟んだのち、何かの記者会見の映像へと切り替わっていく。

 どこかの道路を封鎖して会場を特設したらしく、カメラがアングルを変える度に車線が映り込む。テレビ局の中継車も画面内に入ってしまっているのだが、くだんの車輛は右側通行の状態から停車したようで、日本国外で行われた記者会見ということが察せられた。

 背広姿の男性たちが青空の下に居並んでいる。据置式の大型モニターではPVプロモーションビデオが垂れ流しとなっているが、これよりも目を引くのは町の象徴シンボルと思しき背の高いやぐらだ。

 地上一八メートルに達するであろう赤いやぐらを背にして記者会見は行われている。

 やがて演説台の前に立つ偉丈夫が声明文を読み上げる場面が映し出された。キリサメの箸が止まったのはその男の顔を確かめた瞬間のことである。

 次いで岳の顔と画面内の偉丈夫を見比べる。左右の親指でもって自分し示す得意げな男がテレビ画面にも映っているではないか。さすがに画面の向こうの顔は引き締まっているが、ろくもんせんの陣羽織を纏う姿は紛れもなく八雲岳その人である。


「――ここ、リトル・トーキョーは日米にとって極めて大切な意味を持つ場所です。歴史あるこの町で本日の共同発表を迎えられたことが心から嬉しく、同時に大変な名誉であると身が引き締まる思いであります」


 演説台に置かれた原稿を読み上げる声も確かに岳の物である。

 スピーカーから聞こえてくる自分の声に向かって、自宅の食卓に座っているもう一人の岳は「アホみたいに緊張しまくってんな、コイツ」と腹を抱えて大笑いしている。

 『もうひとりの岳』といっても彼が分裂してしまったわけではない。テレビ画面に表示された日付は岳がペルーを訪れる数日前のものであり、この会見が生放送でないことを示している。岳は過去の自分を笑い飛ばしているわけだ。


「一九九〇年代に産声を上げた戦士たちの夢の結晶、MMAミクスド・マーシャル・アーツ――総合格闘技は二〇年にも及ぶ錬成の時代ときを経て、今こそ次なる進化を迎えるのです。あたかもそれは自然淘汰の如く。これまで生き残った真の強者だけが未来に王手を掛けられるのです」

「その偉大な一歩は青空に夢を馳せるようなものです。果てしないこの空を歴史書に例えるならば戦士たちは白雲の如き年表を新たに刻んでいくことでしょう。夢とはただ憧れをもっるものではありません、青空そこに自ら描き、叶えてこそ価値が生まれるのです」


 岳の言葉を引き取ったのは、彼と隣接する形で設置された演説台に立つパンツスーツ姿の女性である。

 日本人のようで、どこか違って見える不思議な面立ちの女性はイズリアル・モニワというそうだ。演説台へ貼り付けられた金属製のプレートには『ナチュラル・セレクション・バウト』代表という肩書きと共に名前が英字で刻まれていた。

 これと同じように岳の側にも『天叢雲アメノムラクモとうかつほんちょうなる肩書きが刻まれている。


「我が『天叢雲アメノムラクモ』は二〇一一年に発生した東日本大震災ののち、日本列島を元気にするべく有志――いや、勇者たちが四角い戦場リングに集結し、誕生を迎えました。かつて日本を熱狂させたMMAの炎が、……今にも消えそうな火種が再び太陽の如く燃え上がったのです!」

「そして、我々『ナチュラル・セレクション・バウト』――通称『NSB』はアメリカの八角形のオクタゴンの中で二〇年の歴史を着実に刻んで参りました。日本という格闘大国でMMAが甦ったことは同志として無上の喜びであります。その復活が真に完全なものであるか確かめるべく、この度、日本の勇者たちに挑戦させて頂いた次第でございます」

「これまで交わることのなかった両陣営から最強の候補者たちを選りすぐり、統一されたルールのもと、全人類の頂点に立つ戦士を決定しようということです。これはまさに格闘技の五輪大会! MMAのワールドシリーズ――超人たちの祭典なのでありますッ!」


 次第に熱を帯びていく岳に対し、イズリアルの口調は淡々としたものである。

 彼女は英語で声明文を披露しているのだが、発言の一切が字幕で表示されている為、何を喋っているのか、キリサメにも読み取ることができた。

 一方の岳は「正直、この姉ちゃんが何言ってんのか、オレにはチンプンカンプンだったんだよな。会見前にスピーチ原稿は読ませてもらったけどさ」と当時の様子を暢気のんきに振り返っている。


きたる二〇一五年大晦日――『天叢雲アメノムラクモ』と『NSB』両団体合同による地上最強ドリームマッチを開催することを、本日、ここに宣言いたしますッ!」


 テレビ画面の向こうの記者会見は今まさに佳境を迎えようとしている。岳は日本語で、イズリアルは英語で、それぞれ同じ内容ことを高らかに宣言した。


「『コンデ・コマ・パスコア』――日本を飛び出し、海を渡り、世界で戦った伝説の男の名を本大会ではお借りすることに致しました。現代総合格闘技の道を拓いたといっても過言ではないコマ先生の名に恥じぬよう『天叢雲アメノムラクモ』、『NSB』の一同、全身全霊を傾ける所存であります! ……もう一度、繰り返しましょう。伝説の道を引き継ぐ者が現れたとき、現代にコンデ・コマが復活するのですッ!」


 『パスコア』とはブラジルの言語ことばで復活祭という意味である。

 岳が大会名を発表することで会見は締めくくられ、最後に赤いやぐらが大写しとなったのち、画面が何処いずこかのスタジオに切り替わった。どうやら先程の映像はスポーツ番組の一コーナーで流されていたらしい。

 コメンテーターとして招かれたスポーツ・ルポライターの話によれば、水面下では既に出場者の選考が進んでおり、『NSB』は義足の格闘家も候補に挙げているそうだ。


「――どうよ? これがオレの仕事ってヤツだぜ!」


 食卓でビールを呷った岳は何やら期待を込めた面持ちでキリサメを見つめている。

 そのようにたずねられてもキリサメには何も答えようがなかった。そもそも、記者会見の席上で読み上げられた声明文の内容など殆ど理解していないのだ。

 リトル・トーキョーという場所で記者会見があり、何らかの事業を行っている団体同士が大きなイベントを共催するということだけは辛うじて分かった。そのイベントの名称が『コンデ・コマ・パスコア』なのだという。

 断片的な情報を繋ぎ合わせることで会見の流れは把握できた――ただそれだけである。『コンデ・コマ・パスコア』の全容どころか、MMAや八角形のオクタゴンなど会見の中で飛び出した個々の単語の意味すらキリサメには想像もつかなかった。


「あの背広、リマでも着ていましたね」

「そこかよッ!」


 苦し紛れに絞り出された返答こたえを受けて岳は比喩でなく本当に椅子から転げ落ちた。自分の仕事ぶりへ〝何らかの反応〟が欲しかったのに頓狂とんきょうな感想が返ってきて脱力してしまったのであろう。

 しかし、統括本部長という肩書きは言うに及ばず、『天叢雲アメノムラクモ』の事業内容すら分かっていないキリサメには着目すべき点を探し出すことなど不可能に近いのである。


「……お父さん、私、〝着たきりスズメ〟はダメだって言ったよね? じゃあ、キリサメさんは何を話してるのかなぁ? 大事な一張羅を寄り道のときにも着てたって? 妙にしわくちゃで埃まみれだったのは、そういうこと?」

「お前もキリーに乗っかるなぁ!」


 自分の仕事が理解されなかったことが悔しくて仕方がない岳は、すき鍋の中身が空となるまでの間、共同記者会見にまつわる苦労話を延々と語って聞かせたが、最後までキリサメは首を傾げ続けるのだった。


「くっそう、噛み合わねェぜ!」

「僕らの話が噛み合わないのは最初からです」


 望んだ反応が返ってこないことに悲鳴を上げる岳と、これを呆れたように見つめるキリサメと未稲――歓迎会の夜は和やかに更けていった。



 ソチ五輪に沸く世間の喧騒を嫌った人間が逃げ込む避難場所のような役割を中野の地下で果たしているショットバー『ブラックサバス』に穏やかならざる気配が垂れ込め始めたのは、八雲家のすき鍋が空になったのと殆ど同時刻である。

 うわの袖が肘の辺りまでしかなく、下穿ズボンの裾に至っては膝下九センチ程度と短く、殆ど肌に密着するという風変わりなじゅうどうを纏った小柄な少年は玄関に面したカウンターテーブルで遅い夕食を摂りつつ数分前に店から去っていった二人組の報告はなしを反芻していた。

 リトル・トーキョーでの日米合同会見を終えた後、八雲岳は数日ばかり行方を眩ませていた。再び日本へ姿を現したとき、薄気味悪い面構えの少年を伴っていたのだ。

 詳しい経歴は定かではないが、キリサメという名前だけは突き止めることができた。

 『八雲道場』で暮らし始めたということはおそらく岳の新たな弟子だろう。電柱の頂上に片足で立つなど危険な修行を繰り返している様子――それがしちけんがくいん制服ブレザーに身を包んだ男女から提供された情報であった。

 じゅうどう姿の少年が頬張っているのはカレーの風味が漂うビーフステーキである。ルームフレグランスと思しき薬品的な香りが辺り一面に充満している為、折角の味付けが台無しとなっているわけだが、現在いまはそのようなことなど気にならないらしい。

 セットで提供された白米を牛肉ステーキと一緒に平らげていく少年は眉間に青筋を立てていた。


「――で、これからどーすんだよ? カラーギャングに見張りをやらせてるだけじゃ何も始まらねーだろ。もっとハデに行くってモンじゃねーか、抗争なんだからよ」


 従業員や他の客の迷惑など考えずにカウンターテーブルへ腰掛けたパーカー姿の少女が今後の筋運びをじゅうどう姿の少年にただした。

 彼の右隣に腰掛けた大柄な青年も、壁にもたれながらブランデーグラスを傾けるフィリピン人男性も、フードを被った少女と同様に返答こたえを聞き漏らすまいと耳を澄ませていた。さながら出撃命令を待ち兼ねる精兵のようだ。

 ショットバーに陣取った四人はそれぞれの衣服に揃いのロゴマークを刷り込んでいる。


「言うまでもねェよ。『コンデ・コマ』――まえみつ大先生の名前を金儲けの為にけがしやがったクソ共は根こそぎブッ潰す! ヤツらがやってるのは格闘技への冒涜だ!」


 カウンターテーブルに置かれているダーツの矢を取り上げながら勢いよく立ち上がったじゅうどう姿の少年は、これを壁掛式のダーツボードに向かって投擲した。

 ダーツボードの中央には屋根の上でスケッチに勤しんでいるところを隠し撮りされたと思しきキリサメの写真が貼り付けられている。

 少年の手を離れたダーツが小気味の良い音を立てて突き刺さる。矢の先端は写真の中で遠くを眺めるキリサメの眉間を正確に捉えていた。


「手始めにこの〝ドン・キホーテ野郎〟を血祭りに上げてやろうじゃねェか。手前ェの所業がどれだけフザけていやがるか、ちったァ思い知れ、八雲岳ッ!」


 天井を貫かんばかりに荒々しく吼えたじゅうどう姿の少年はでん。バックプリントの形で背負った〝看板〟は『E・Gイラプション・ゲーム』――のちに『てんのう』と並び称される二人の少年は、これより間もなく真っ向勝負のときを迎える。

 その戦端は片方キリサメあずかり知らないところで開かれたのだった。

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