その3:戦端~平和の祭典が始まる
三、戦端
金網に囲まれた
野獣を捕らえておく
しかし、彼は猟銃など携えてはいない。
陽の光に
対峙した二人は身長・体格ともにほぼ釣り合っているようだ。
赤いトランクスの〝
金網の向こうでは両者の名前を呼ぶ
それはつまり、両者が狩猟ではなく〝格闘技の試合〟へ臨む身であることを意味していた。一四〇〇〇人にも達する観客の姿からは大掛かりな
両名とも歯を保護する為のマウスピースを噛み、不慮の事故で金的に致命傷を被らない為の
磨きに磨いた技を競い合い、余人には決して辿り着けない
全身全霊を傾ける
ンセンギマナは左太腿から下が機械仕掛けの義足であった。深みのあるブラックゴールドのカバーで覆われたそれは天井より降り注ぐ
無論、競技用の物を装着しているのだが、四肢が全く健常な選手と同じ条件で試合を行うことには困難な部分もあり、対戦者が義足を直接攻撃することを禁じるなど特別ルールが例外的に採用されている。
ンセンギマナと同じ〝場〟で手合せできることを喜んだのはラノワ一人だけではない。
それだけに平和の祭典へ泥を塗る人間がラノワにセコンドとして付いていることが残念でならない――と、選手も観客も嘆息していた。
薄気味悪い人相の男である。しかも、不機嫌そうな態度を隠そうともしなかった。
風の噂によると、この男は義足の選手に対応する為のルールへ最後まで異議を唱え続けていたそうだ。その上、異議と呼べるほど高尚なものではなく、実態は聞くに堪えない中傷に近かったという。自分の主張を退けられたことが不満で仕方ないのだろう。
一方のンセンギマナはサボテンのビーズ刺繍が施されたポンチョを纏うネイティブ・アメリカンの相棒と、拳法の
ポンチョ姿の相棒は複雑な想いで試合に臨んでいるのかも知れない。インターネット上で公開されているプロフィールによれば、ラノワは『ファースト・ネーション』――カナダ先住民の血を引いているそうだ。彼にとっては同じ北米大陸を
勇敢な平原の民を祖先に持つラノワは、バッファロー狩りなどで猛威を振るった戦闘技術を
それが虚飾でないことはレフェリーが試合開始を告げた直後に証明された。
右腕を腰の辺りまで引き付け、対の左手を手刀の形で軽く前方へ突き出したンセンギマナは地面を強く踏み締める駿馬の如くどっしりと構えている。これに対してラノワの側はスタートダッシュに秀でたスプリンターのように開戦と同時に速攻を仕掛けたのである。
先制攻撃で流れを作るつもりだろう。僅かに腰を落として
腰に差した刀を鞘より抜き放つような動作ではあるものの、打ち込んだのは横薙ぎの手刀ではない。水平に構えた握り拳を勢いよく叩き付けようと試みたのだ。
その際に彼は独特な身のこなしを見せた。先に踏み込ませた右足を軸に据え、全身を振り回す勢いで同じ側の腕を繰り出したのだが、バネの効かせ方などはまさしく手に持った武器で斬り掛かるようだった。
遠心力に乗せて重みのある武器を振り回す
「――『
瞬時の加速を双眸に捉え切れず、脇腹を脅かされそうになっているンセンギマナより早く相手の術理を見極め、金網の外から警告を呼び掛けたのはポンチョ姿の青年である。
背に受けた相棒の声に衝き動かされ、横薙ぎの軌道を見定めたンセンギマナは左手刀を振り落として相手の横薙ぎを断ち切ろうと試みたが、右腕が狙われていることを悟ったラノワの側もすかさずこれを引き戻し、入れ替えるようにして対の握り拳を閃かせていく。今度は斜めの軌道を描き、首を打ち据えるつもりのようだ。
袈裟斬りの一撃を避けられるや否や、ラノワは全身を大きく回転させながら再び横薙ぎの右拳を繰り出した。そして、相手の目が自分の動きに慣れてきた頃合を見計らい、側頭部に狙いを定めた肘打ちへと転じていく――絶え間なく撃ち込まれる『
殴り抜けるような形で脇腹を脅かし、そのまま『
互いに拳を叩き合う展開が続き、直撃が確認される度に有効打の表示が増えていく。乱打戦の様相となった為、秒を刻む毎に何発も加算されていくのだが、先に攻め寄せたはずのラノワへ今にもンセンギマナの有効打が追い付きそうだった。
空中には両名の名前と所属ジムも映し出されている。併せて表示された数値は
馬上からバッファローの頭部を狙う投げ縄のように相手の首へ左腕を巻き付けようとするラノワであったが、ンセンギマナはこれを左右二刀流の手刀で挟み込んだ。左の手刀で肩を、右の手刀で肘の内側をそれぞれ打ち、首を押さえられる前に『
その刹那にンセンギマナが反撃の蹴りを見舞った。
半円を描くようにして腰を捻り、轟々と右回し蹴りを放ったのだが、軸に据えた義足が軋み音を立てることはなかった。自身の体重を巧みに操作し、また負担の掛からない流麗な動きで横一文字に風を裂いたのだ。
この反撃を
空振りではあったが、火炎旋風の如き蹴りに観客たちは沸き立った。ルワンダから駆け付けた大勢の同胞は言うに及ばず、会場の誰もが惜しみない拍手と声援を送っている。
場内で文句を垂れているのはラノワに付いたセコンドただ一人だけであった。
対するンセンギマナのセコンド――相棒だというポンチョ姿の青年は水平に構えた握り拳を振り抜く打撃技を『トマホーク』と
肩から肘に掛けてのバネを最大限に引き出す動作もまた平原の民より受け継がれた
速攻を仕掛ける寸前に魅せた予備動作も同じである。僅かに腰を落とすという姿勢自体が槍を握った状態で狙いを定める古来の技法に由来しているわけだ。確実に獲物を仕留められる間合いを見定め、その直後には一瞬で最高速度に達するのだった。
この上なく嬉しそうに口の端を吊り上げたンセンギマナは義足の調子を確かめるように機械仕掛けの踵でもってマットを蹴り付けた。
辺りに一際大きな音が響いたものの、それが相手選手に対する威嚇行為でないことを認めたレフェリーは喉から飛び出しそうになった警告を慌てて飲み込んだようだ。
入場時に主題歌を流すほど愛好している日本のテレビアニメ『
平原の民の戦闘技術によってンセンギマナの心に火が入ったことは明白であろう。踵でもってマットを蹴った直後に視界の全てが巨大な影に覆い隠されたが、それでも彼の顔から歓喜の色が失せることはなかった。
ンセンギマナへ迫ったのは、言わずもがなラノワである。前回し蹴りを回避すべく飛び退り、着地と同時に跳躍へと転じたのだ。
四肢を広げながら飛び掛かり、そのままンセンギマナへ組み付くつもりだろう。極端に大掛かりな技である為、観客の目には隙だらけのように映ったはずだが、膝の屈伸が最小且つ電撃的であり、実際に相対する人間は瞬間移動などと錯覚したはずである。
大平原を
祖先の時代であったなら、この雄々しい技でバッファローを薙ぎ倒し、トマホークやナイフでトドメを刺したはずだが、アフリカの〝黒豹〟を御するには不足であった。胴を捕獲されると見て取ったンセンギマナは両足で絞め込まれる前に自ら横回転を試みたのだ。
縦回転に近いラノワの動作に逆らい、己の横回転に相手を呑み込もうとしたのである。二枚の歯車を噛み合わせて相手を〝
瞬間的に生じた遠心力で引き剥がされ、マットの上に着地させられたラノワは自分の身に起きたことが理解できず、不思議そうに小首を傾げている。彼の目にはンセンギマナが腰を捻り込んだとしか見えなかっただろうが、この一瞬の動作の中で尋常ならざる力の作用が働いたのである。
義足を装着して試合に臨む以上、
仮にマットへ転がされたとしてもラノワを仰向けの状態に引き倒し、互いの右足を絡めて身動きを封じたに違いない。そうして瞬く間に反撃の拳を振り落とすのだ。
「――見よ! 我が
意味不明な吼え声を上げたンセンギマナは、ラノワを引き剥がした横回転とは反対の方向へと腰を捻りつつ、横薙ぎに右拳を閃かせた。空中に半円を描くような一撃は限界まで引き絞った
このとき、ンセンギマナは横薙ぎの拳を放つのに最も適した位置に立っていた。十分な遠心力を乗せるには相応の間合いがある。時計盤で
着地と同時に腰を落としていたラノワは円軌道の打撃に割り込むべく足腰のバネを一瞬で引き出し、手に持った槍を突き込むかの如き勢いで直線的なパンチを放った。
奇しくも互いが〝槍〟と見立てた拳の交錯である。円軌道よりも直線のほうが動作が少ない為、後から繰り出した〝穂先〟でも間に合ったが、互いの拳が同時に炸裂した結果、ラノワだけが一方的に撥ね飛ばされていた。
『クリティカルヒット』――ンセンギマナの有効打であることが英語で表示された。計測された双方の打撃力もラノワの数値より遥かに上回っている。これに応じて
金網まで吹き飛ばされてしまったラノワであったが、盛大な激突音とは裏腹に当人は大してダメージを感じていないようで、眉間を打ち据えられながらその場に留まり続けるンセンギマナを興味深げに観察している。
試合開始前と同じおっとりとした面持ちではあるが、一等強い眼差しを向けていた。
〝槍〟の撃ち合いでは競り負けたが、ラノワがンセンギマナに比肩する実力の持ち主であることを観客は誰も疑っていない。一つの事実として彼の心拍数に異常は見受けられないのだ。運動量に比例する変動こそあるものの、心理的動揺と思しき極端な数値の乱高下は確認されていなかった。
両選手が向かい合う空間の上部へデジタル時計のようなホログラムと共に映し出された第一
「そんな〝片肺飛行〟相手にてこずるな、愚図が! ルールなんて構わず義足を狙え!」
更なる白熱が期待される状況にも関わらず、ラノワのセコンドが吐いた暴言をきっかけとして試合は強制的に打ち切られてしまった――正確にはそのときの映像を映していたテレビ画面が暗転したのである。改めて
リビングルームのソファに腰掛けながら物言わぬ物体と化した大型テレビを睨み付けるその男は画面の中で熱闘を展開していた両選手に勝るとも劣らない肉体の持ち主である。
角刈りにした髪の毛や意志の強さを表したかのような太い眉毛は清廉な
先程の試合を彼は現地にて網膜に焼き付けていた。両選手が披露した妙技の数々を改めて振り返りたくなり、試合内容の収録されたDVDを夕食がてら再生させた次第である。
選手の心拍数や打撃の威力を計測した数値、有効打の命中回数などが表示されていたのは映像ならではの〝演出〟というわけだ。SFの世界に迷い込んだかのような錯覚を覚えてしまう趣向ではあるものの、ホログラムめいたパネルが空中を飛び交うことなど二〇一四年現在の地球では有り得ないだろう。
ICチップが組み込まれた
制限時間内に決着がつかなかった場合、累積された
ありとあらゆる情報が公開され続けるシステムはインターネット上でファンたちが行う実況中継や勝敗予想を活発化するだけでなく、選手やセコンドが組み立てる戦略の在り方をも新しき領域まで引き上げていくことだろう。
格闘技の〝見せ方〟そのものが大変革を遂げようとしている――近付きつつある未来の形へ心が躍っていたはずなのにDVDの再生を止めたのは、ラノワのセコンドが喚き散らした暴言から痛ましい
テレビから壁に目を転じ、クロス張りの部屋には不似合いな掛け軸を黙して見つめる。そこには『忍』の一字が大書されていた。
彼が思い返すのは数日前にニューヨークで発生した惨たらしい傷害致死事件である。
格闘家を血に餓えた乱暴者と
逮捕されたのは金網に囲まれた
世界には種々様々な思想が根付いている。人の数だけ想いがある。それ故に〝アンチ格闘技〟を誤りだと断じることは〝複合社会〟に於いて適切とは言えないだろう。例え不当な言い回しであるとしても、〝暴力〟とまで扱き下ろされる理由も承知しているのだ。
『忍』の一字を見据える男にとっては、格闘技を愛する者たちが凶行に走ってしまった事実が何よりも悲しかった。
紳士による腕比べが本質であったにも関わらず、格闘技を原因として一人の命が天に召されてしまった。これでは格闘技を野蛮な暴力と認めてしまったようなものであろう。そして、それは選手を導く立場でありながら相手を意図的に壊すよう命じたセコンドの暴挙にも通じることなのである。
「……汗でも流さなければやってられないな――」
掛け軸のすぐ近くに設置されたデジタル時計は一九時半ばを示している。博多の実家から送られてきたカレー明太子に舌鼓を打とうと思っていたのに食欲自体がすっかり失せてしまった男性は
もはや、居ても立っても居られなかった。年代物のプジョーへ乗り込んだ男にはリモコンでもってガレージのシャッターを開けるという手順すらもどかしく思えてならない。
逸る気持ちを煽り立てるかのように少しずつ開いていくシャッターの先にはロサンゼルスの夜景が広がっていた。当然ながら歩道を
程なくしてプジョーはカリフォルニア大学ノースリッジ校近くに所在する大きなスポーツジムの駐車場へと移り、暫しの仮眠を取ることになった。
持ち主は既に建物の中でトレーニングを開始しているのだが、会社帰りのサラリーマンたちが詰め寄せそうな時間帯にも関わらず、彼が使用する部屋には当人以外の人影が一つも見られない。勿論、スポーツジム自体に
彼が入ったのは完全な個室――いわゆる、プライベートジムだった。ドアには『フルメタルサムライ』と英語で刻まれた金属製のプレートが貼り付けられている。
言わずもがな『フルメタルサムライ』とは
祖国の表記に直すならば『
そして、
トレーニングに必要な機能を完備して初めてプライベートジムを称することができるようになるのか、室内には大小の器具が一通り揃っていた。藤太はその全てを順繰りに使って己の肉体を徹底的に追い込んでいくのだ。
実戦さながらの修練ということなのだろう。サンドバッグを
跳躍を伴う高速旋回と共に足裏を浴びせるソバットでサンドバッグを大きく軋ませた藤太は着地と同時に床の上へと身を放り出した。
全身が悲鳴を上げるくらい汗を流しても気晴らしにならなかった。サンドバッグを
「……師匠……」
その靄の向こうから不意に顔を覗かせたのは、自分を一人前に育て上げてくれた最愛の師匠である。本人とはもう何年も
二六人もの日本人が
巨大な壁によって分断されるほど貧富の格差も開いているそうだ。表通りであっても安全とは断言し得ないペルーへ赴いた師匠は、よりにもよって最も危険な領域であろう貧民街を目的地に定めているという。
師匠は後先を考えない上に自重も知らない人間である。そのことを誰よりも熟知する弟子であればこそ心配でならなかった。強盗団などに目を付けられようものなら間違いなく大変な
何年も前に
旧友の忘れ形見と合流して無事に帰国した後、師匠はニューヨークの事件を知ることになるだろう。あるいは滞在先のペルーで耳にするかも知れない。
格闘技を愛する者たちが起こしてしまった傷害致死事件を知らされた師匠は、一体、何を思うだろうか。背負った〝肩書き〟からどのような判断を下すのだろうか。
〝アンチ格闘技〟を掲げる活動家は東京でもうごめいているのだ。それ見たことかと口汚い罵声を張り上げる者たちの餌食にされないよう祈るばかりである。
「……オレたち格闘家は未来に何を見出せば良いのですか、師匠――」
その問い掛けに答えてくれる者はいない。未来の形は己の力で見極めなければならないと藤太も
再び天井に撥ね返った笑い声は自分のことを「甘えん坊」と嘲っていた。
汗で濡れそぼったシャツの胸元には古銭を上下に三枚ずつ並べた『
*
南半球に位置する日本は地球の裏側にある南米とは四季の巡りが正反対である。加えて赤道に近いペルーとは冬の厳しさが段違いなのだ。北半球に属することもあって日本ではあらゆるモノが凍て付く季節であり、本州の大半が雪化粧を纏うことになる。
芽吹きの春を待つ間のささやかな静寂とも言い換えられよう――が、気候の特徴を抜きにしても二〇一四年二月は極めて異常であった。一〇年に一度というレベルの寒波は到来と共に日本を氷河期さながらの状況に至らしめたのである。
キリサメ・アマカザリが初めて日本に降り立ったのは、俄かに雪害の兆しが見え始めた頃であった。それはつまり、未知なる気候に慣れる間もなく、出迎えと呼ぶには余りにも過酷な洗礼を受けたということであった。
吐息が真っ白に凍り付く経験も生まれて初めてであり、呼吸の度に喉が痛くなる程だ。
アンデス山脈が纏う銀白のヴェールを遠く眺めたことはあるものの、キリサメが憶えている限りでは温暖なリマで雪に触れたことはない。穏やかな風と踊る程度であったなら初めての体験に心が揮えたはずだが、この状況では正反対の感情が増すばかりだ。
「……人間の住む場所じゃない……」
成田空港の外へ一歩を踏み出した瞬間に大粒の雪が混じった
特別寒いと聞かされてはいたものの、北極圏でもないのだから鉄色のレインコートさえ羽織っていれば防寒対策は足りるだろう――そのように
しかも、これから日本へ移り住もうという当日に大寒波と遭遇するなど天文学的な確率であろう。何一つ喜ばしいこともないが、ある意味に於いては奇跡だった。
ペルーからアメリカを経由して更に海を渡るという
そのような
平和の祭典にそっぽを向いた罰が当たったのか――着陸先の滑走路が積雪で一時的に使用不可能となり、空中での待機を強いられるという追い撃ちが彼には用意されていた。正午過ぎの到着予定から大幅な遅延が生じ、とうとうスケッチブック代わりに使っていたメモ用紙まで放り出したのである。
「――渡り鳥ってモンは冬が来る前に温かい土地へ飛ぶらしいけど、キリーの場合は正反対だなァ。『雪降って地固まる』っつー
隣の席で忌々しく思えるくらい陽気に笑う同行者――養父と称する八雲岳の話には明らかな誤りが確認されたのだが、もはや、これを訂正する気力も湧かなかった。
鉛同然に重くなった身体へ肌を刺すような冷たい風が吹き付けたのだから、自分がこの国に立ち入ることを拒む意思でも働いているのではないかと疑わざるを得なかった。少なくともキリサメには歓迎されているようには思えない。
だからこそ、最寄りの駅まで向かうリムジンバスに乗り込もうと東京の空の下に立った瞬間、「人間の住む場所じゃない」と恨みがましく吐き捨てたのである。
「よーし、ここからは歩いて行くか! 身体動かしてたほうが
正気を疑うようなことを岳が口走ったのは、リムジンバスが新宿駅前に到着した直後であった。〝乗り疲れ〟とも
キリサメもおかしいとは思っていた。幾度か乗り換えを挟まなければならないが、新宿に辿り着きさえすれば目的地まで電車で行くことができると説明していたはずなのに、リムジンバスを降りた岳は目と鼻の先に見えている駅からどんどん遠ざかっていくのだ。
東京の地理など全く分からず、背中を追い掛けるしかないキリサメにも新宿駅とは別方向に進んでいることくらいは察せられた。その予感は最悪の形で的中したわけである。
「丁度、二〇年前か――一九九四年もこんな感じの大雪だったんだよ。あのときは三〇センチ近く積もったんだけどな。お前の父ちゃんと――
妙に上擦った声色からも察せられる通り、リムジンバスの車窓から久方ぶりの大雪を眺めている内に興が乗ったらしい。その上、実の父親である
二〇二〇年に二度目の夏季五輪を迎えることが決まった東京だけに力の入れ具合も生半可ではないのだろう。成田空港から新宿駅前までソチ五輪にちなんだポスターや
しかも、前任者の辞職に伴う東京都知事選まで重なった為、投票を呼び掛ける選挙管理委員会の立て看板がソチ五輪に関連する掲示物とごった
ソチ五輪の開催と都政を占う日――二種の異なる熱気を嘲笑うかのように吹雪は一等強まっていた。
首都圏の交通網は既に凍結しつつあるのか、駅周辺という立地にも関わらず、一台のタクシーも確認できない。ひょっとすると電車までもが立ち往生の最中かも知れない。遭難の危険性はあるものの、最終手段として徒歩も選択肢に加わるのだ。
だからといって個人的な趣味に付き合わされるのは愉快とは言い難い。レインコートだけでは寒かろうと岳が予備の陣羽織を押し付けてきたが、この暴挙に対する抗議の思いも込めて頑なに拒み続けた。
目的地まで続くであろう雪の道を闊歩する度、頭頂部よりやや後ろの位置で結い上げ、先端が花弁の如く開いた髪が小刻みに揺れるのだが、後から
「悪ィ、迷子になっちまったわ。この辺りは滅多に歩かねェもんだからよ」
成り行きから徒歩に付き合わされた挙げ句、水先案内人が道に迷うという事態にはさすがに開いた口が塞がらなかった。仕事道具である『
血で
このままでは埒が明かないと、キリサメは自らの判断でタクシーを探し始めた。まだ客を乗せていない車輌を見つけたら強引にでも岳の巨体を車内へ押し込むつもりである。ボロ同然のスニーカーは泥水が完全に染み込んでいるのだ。目的地へ辿り着く前に両足の感覚がなくなってしまうかも知れなかった。
雪化粧を纏う自然公園が視界に映り込んだのは、その
問題なく日本語を喋ることができてもペルーで生まれ育った日系人に変わりのないキリサメには意味するところが
「二〇年前の大雪より更に昔のことになるっけなァ――
新宿御苑まで迷い込んでしまったことを悟った岳は、ここぞとばかりに当地にまつわる
岳はどこまでも自由で能天気だった。新宿御苑を起点に据えて
右も左も分からないコンクリートジャングルの只中に独りだけで取り残された恰好ではあるものの、岳の
正面玄関から大量の群衆が吐き出されてきたのは、まさしくその直後のことであった。園内から漏れてくる
岳を待たなければならない為、余所へ移動することもできないキリサメの真横を一〇〇組にも達するであろう人々が通り過ぎていく。
途方もない人波と共に奇妙な感覚がキリサメに押し寄せていた。
空港には外国人が多く、そこから新宿に至る道中では岳一人だけに意識を向けていたので気付かなかったが、誰も彼も自分と同じような顔をしているではないか。
己の足が踏み締める土地を考えれば当然だろうと、キリサメも間抜けを自覚している。新宿御苑から殺到してきたのは自分と
それでいてリマの貧民街を根城とする『
しかも、だ。互いの肩がぶつかる
どうやら東京という
岳のように過剰なふれあいを求めてくる人間のほうが珍しいのかも知れない。
(……生き易いのか、生き難いのか、どっちなんだ……)
何とも表しようのない解放感と違和感は、生まれ故郷から地球の裏側へ移ったことをキリサメに初めて自覚させるのだった。
日本全土へ襲い掛かった記録的な寒波は数日を経ても鎮まらないどころか、悪化の一途を辿っていた。二〇年前の大雪を振り返る岳は「あのときは三〇センチ近く積もったんだけどな」と語っていたが、その言葉が再現されるような事態に陥ったのである。
同月半ばになると更なる豪雪が吹き荒れ、全国各地で被害が相次ぐようになった。
雪の重さを支えきれなくなった建物の倒壊は言うに及ばず、停電や断水が連鎖的に発生した上に物流網寸断の影響を受けて日配食品までもが店頭から消え失せるという危機的状況だ。貯蔵タンクが底を突いたガソリンスタンドも片手では数え切れない。
山間部は特に深刻だった。一メートルを超える積雪を観測し、道路の遮蔽によって〝陸の孤島〟と化した場所も少なくなかった。食糧の確保が困難となったばかりでなく、治療を必要とする人が病院まで辿り着けないというケースも多発したのだ。灯油が空になっても補給が不可能という状況は、それ自体が死に直結するのだった。
『平成二六年豪雪』と呼ばれることになる雪害である。
都心でも再び猛吹雪となった。積雪量も尋常ではなく、交通機関の大混乱からして余程のことでもない限りはソチ五輪を観戦しつつ自宅待機しておくのが安全且つ建設的であろう。大会は後半戦に差し掛かり、ボブスレーやカーリングなど「これぞ冬季五輪」とでも呼ぶべき競技が目白押しで始まるのだ。
それなのにキリサメはまたしても大雪の只中で立ち尽くしていた。都心でありながら雪山同然に遭難の危険性も高まっており、辺りを見回しても出歩く人影など全く確認できない。事実、彼の双眸が苛立ちを映しながら捉えているのは岳一人である。
岳もキリサメも喪服姿である。後者は下ろし立ての物を着せられているような印象だ。前者は年季の入った物の上から紫色の陣羽織を纏う奇怪な
手元にないと落ち着かないという理由でキリサメは麻袋に包んだ状態の『
物騒とも呼ぶべき出で立ちの二人は法要を終えたばかりだった。
つい先程まで初老の僧侶を伴っていたのだが、彼は岳から依頼された〝役目〟を済ませるや否や、挨拶もそこそこに駆け足で立ち去っていった。
数分ばかり同じ場に留まっているだけで全身が凍り付いてしまうような大雪から避難したわけではない。今日のソチ五輪は稀代の天才青年と謳われるフィギュアスケートの日本代表選手の大一番なのだ。日本での放送は深夜だが、それまでにあらゆる用事を済ませて応援に備えたいのだろう。
何らかの〝催し物〟に国を背負って出場することがどれほどの意味を持つのか――そのことに想像が及ばないキリサメには五輪に群がる人々の真理が少しも
夏冬問わず五輪が開催される時期になるとペルーの町々も賑やかにはなる。祭り騒ぎとして楽しむ人間も多いのだが、腐り切った社会に何の感情も持ち得なえなかったキリサメには祖国の代表を応援しようという気持ちなど起こるはずもなかった。
そのキリサメは、深夜一時から明け方近くまで続いた女子カーリングなど前日の試合結果が特集番組で報じられている頃、亡き母親の納骨式を岳と共に営んでいたわけだ。
『作草部家之墓』と暮石に刻まれているが、ここには雪於一人しか埋葬されていない。
生後間もなく孤児院に預けられた為、肉親と呼べる人間が分からないのだ。先祖代々の墓とも無縁であり、ここの管理は親友として岳が引き受けている。
お誂え向きに真っ白な雪が降る中、雪於が眠るこの墓に天飾見里の遺骨が納められた。
これは岳の独断である。結婚こそしていなかったものの、深く愛し合い、子どもを設けた二人である。せめて、遺骨だけでも再会させてやりたいと願ったのだ。
母の遺骨を父の墓へ移すことはキリサメも反対しなかった。許可を求める岳にも「母さんだって、ここのほうが安心して
旧友が眠る墓の前に立った岳は、彼らの忘れ形見に対して「キリーのことは一命に懸けてオレが面倒を見る」と改めて告げた。
ペルーでは先に済ませるべき説明を飛ばし、何の脈絡もなく「今日からオレがキミの父ちゃんだッ!」と口走ってしまったが為にキリサメから目突きを喰らわされた岳であったが、今度は作草部雪於の最期を看取ったことや、彼に大切な一人息子を託されたことについて順を追って語っていく。
「あのときはオレもうっかりしてたぜェ。『キャサリン』のお陰で第一印象バッチシってんだからエスエム・ターキー
「幸せな思い込みをぶち壊しにしてすみませんが、第一印象は最悪でしたよ」
冗談めかして笑う岳だが、いくら口下手とはいえども、事情も要点も話さずに父親宣言などしては新手の誘拐と間違われても不思議ではあるまい。軽い目突きだけで許されたのは
ぼんやりとしていて無害のようにしか見えないが、何しろ凶悪と知られるリマの少年強盗団が裸足で逃げ出すくらいなのだ。『
銃撃を受けた瞬間に垣間見せた〝あの動き〟も含めて、彼が身の
「地球の裏側で話したように雪於からキリーのことを託されたんだよ。あいつに比べたら不甲斐ない父ちゃんかもだけど、お前の将来を応援させて欲しいんだ」
「そんな風に呼ぶつもりはないですし、『父ちゃん』っていう
作草部雪於――父の
雪於からは大切な息子として扱われていたらしいが、母の持っていた写真以外では一度も顔を見たことがないのだから『父』という存在に実感が薄いのも当然といえよう。
ペルーの葬儀に於いては土葬のほうが多い。火葬もないことはないのだが、土葬のほうが費用を抑えられる為、貧民街の住人は大抵の場合が後者を選択するのだった。
その上、集合墓地を使えるのは貧民街の中でも経済的に多少の余裕がある一部のみ。見里の場合は雪於からの仕送りによって幾ばくかの貯蓄があり、キリサメはこれを使って火葬を手配したのだった。
その話を聞かされた岳は盛大に首を捻ったものである。今でこそ瓦礫の山と化しているが、集合墓地で寝泊まりする前には母と暮らした居宅があったのだ。自然災害で倒壊したとキリサメは話していたが、貯蓄を切り崩せば幾らでも修築できたはずであろう。
雪於は大企業の専務であり、また金に飽かせて豪遊するタイプでもない。贅沢の代わりに相当な仕送りをしていたのではないかと岳は考えていた。貧民街で暮らす必要がないくらいの貯蓄額になっているはずだ。
「あー、……
「関係ねぇって、おいおいおいおい、そんな寂しいこと……」
「事実ですから」
「つか、見里さんは雪於のことを何て話してたんだ? 写真あったんだろ? 『あなたのパパよ』みてェな話にはならなかったのか?」
「種馬みたいなものだって言ってました」
「いくらなんでもそれじゃ雪於が浮かばれねーぞー、見里さ~ん!
旧友の墓前に向かって勢いよく
何かの仕事へ就いていたわけでもない少年が生計を立てる手段は、リマでボランティア活動を行っている日本のNGO団体から提供された情報の通りだろう。個人と集団の違いはあれども、日々の暮らしは少年強盗団と大して変わらないはずだ。
キリサメ・アマカザリは、本当に不思議な少年だった。
『聖なる剣』と呼ばれる一振りを暴力の象徴の如く繰り出し、犯罪によって
ペルーでは警察組織の汚職が横行しているそうだが、その片棒を担いでいる様子でもない。キリサメを出迎えたワマンという刑事の態度からも友好的且つ対等な関係を築いていたことが察せられた。
国家警察との繋がりを
キリサメはパスポートを所持しておらず、出国手続きの完了には数日を費やすと思われたのだが、国家警察の刑事に掛け合っただけで必要な書類が次々と揃っていき、二日後には空港で出発時刻を待つのみとなった。
〝民間の協力者〟に対する見返りとしては異例の措置といえよう。一刑事の権限で解決できるようなものではなく、国家警察の上層部による働きかけがあったとしか考えられなかった。パスポートも審査などが免除され、すぐに発行されたのである。
〝何か〟を託す
それだけで十分だったのだ。岳の
(雪於みたいにデカいことをやる才能はあるし、見里さん――つーか、
旧友の墓に映した追憶から現実へ立ち戻った岳は、放っておくとすぐに積もってしまう雪を
顔立ちや目元といった身体的な面影以外は両親のどちらにも似ていない。旧友たちは自らの意志で〝道〟を切り開く人間であった。それに対してキリサメは目の前で起きたことへただただ流されているようなのだ。
父の存在を否定しながらも遺言には従った。生まれ育った国を離れるわけだから、未練を引き摺ってもおかしくないのだが、そのような
その上、貧困からの脱却を期待しているようにも見えないのである。
彼はいつも〝何か〟に流されていた。故郷を離れて未知なる地球の裏側へ移り住んだのだが、それもこれも全て岳の作った流れに身を委ねた結果に過ぎないのである。
両親が眠る墓を離れようというときにも彼は一度だって振り返らなかった。成人もしていない内から老成し過ぎているというか、「感慨を持つ」という人間らしさを放棄しているのではないかと心配になったほどだ。
日本へ流れ着くまで――否、新天地での暮らしを始めてからもキリサメはただ漫然と過ごしていた。窓からぼんやりと冬の空を眺め、時折、何かをスケッチするだけなのだ。
彼の両親であったなら
正午近くになっても雪は止まず、陽の光も鈍色の分厚い雲に遮られているが、辛うじて鉄道は動いており、キリサメたちも帰宅困難者とならずに済んだ。さすがに通常通りの運行ではないものの、雪害が広がりつつある状況では遅延にも目を瞑るしかなかろう。
それだけに車内の人影もまばらで、悪目立ちして仕方のない二人に好奇の眼差しが集中することもなかった。
そもそも眼中にすら入っていないのだろう。乗り合わせた人々は今夜二三時より開始されるフィギュアスケート男子フリーのことで頭が占められているらしく、日本代表の天才選手が金メダルを獲得できるか否か、そのことばかりを熱烈に語り合っていた。件の青年の独壇場になるのではないかという声が大勢を占める中、フランス代表のバッソンピエールなる
時節柄というべきか、天井からぶら下がる中吊りポスターもソチ五輪にちなんだ物ばかりである。
その間隙を縫うようにして配置された広告がバレンタインデーの到来を喧伝していた。
車内が華やいで見えるのは今日がバレンタインデーということと無関係ではあるまい。
「それにしてもカッチリとしたスーツは性に合わねぇや。寒くなけりゃキリーも上着、脱いじゃっていいぜ」
「この寒さの中で上着が要らないのは岳氏だけでしょう。……そういえば、今日はその陣羽織とかいう上着を脱がなかったんですね。ペルーで母さんの墓参りしたときは、手を合わせる前に脱いでいた憶えが……」
「あ、あれはその……また別の理由というか、後ろめたさがあったというか……」
「何でそんなしどろもどろに……。別に慌てるような質問でもなかったですよね」
行動を共にするようになってから二週間近く経とうとしているが、未だに二人の会話は噛み合わない。尤も、これはキリサメの
冷や汗まで流し始めた岳を不審そうに見つめながらもキリサメはその隣で端然と腰掛けている。先端を床へ付けるようにして抱えた『
岳はそこに見里の教育を改めて感じ取っていた。そして、それ故に過酷な環境でも悪徳に塗り潰されることがなかったのだろう。
『暴力』の残虐性を『
キリサメは生まれ故郷に未練を残してはいない様子だったが、ただ一人、出発前日に訪ねた者がいる。
古馴染みの家だという。玄関でキリサメを迎えた中年の女性も『サミー』という独特の
その情景を岳は遠くから見守っていた。
黄昏時の光に照らされるキリサメは、涙に濡れた頬擦りを無言で受け入れていた。
そのときに見せた柔らかな眼差しが岳の瞳に焼き付いて離れないのだ。
キリサメは古馴染みとの関係を詳しくは明かさず、岳のほうからも詮索はしなかった。夕暮れの中に認めた情景だけで養父には十分だったのである。
*
八雲岳は東京都下北沢の静かな住宅街に居を構えている。だが、その外見は
築四十年は優に超えているだろう三階建ての母屋が奥まった場所にあり、いわゆる離れと思しき別棟が前方に大きく突き出しているのだ。客を迎える店舗のように建物の正面には何枚もの引き戸が設置されているが、ここには擦りガラスが
トタンを貼り付けた昭和風の建物である母屋に対して、別棟はコンクリートの打ちっぱなし。そして、こちらのほうが明らかに真新しい。アンバランスな構造が建物全体の奇抜さを際立たせているわけだ。庭を潰して増築を施した形である。
別棟の脇から伸びる狭い通路を進んでいくと、ようやく母屋の玄関へ辿り着くのだ。
何よりも目を引くのは別棟正面の壁に掲げられた一枚の看板である。『八雲道場』と筆字で大書された楠木の看板はその字面も含めて一般家屋には必要とされない物であろう。
地球の裏側から日本へ移ったキリサメは、この風変わりな家で新たな生活を始めた。
『新生活』といっても特にやることはない。日本の高校を受験するなり、何か仕事を探すなり、今後の身の振り方はゆっくりと考えるとして、今は日本に慣れることを優先するよう岳に言われたのだ。
だが、「日本に慣れる」ということ自体がキリサメにはよく分からなかった。何をどう慣れれば良いのか。一体、何を
それが為に食事を摂るダイニングルームと、自分に宛がわれた部屋を往復する毎日である。余人の目には気楽な〝ニート〟のようにも見えることだろう。
尤も、キリサメは現実を忘れて遊び耽るような性格でもなかった。岳から買い与えられた漫画の単行本やゲーム機には全く触れず、室内に設置されたテレビに至っては電源ボタンが押されたことすらなかった。
誰より早く起床したかと思えば、日がな一日、ぼんやりと空を眺め、新聞と一緒に折り込まれてきた
この不思議な少年には岳の娘――
二人が初めて顔を合わせたのは雪害の兆しが見え始めた頃だった。
大雪の為に旅客機の到着時間が遅れているとニュースでも報じており、疲れ切った状態でやって来ることは想定していたのだが、新宿駅から下北沢まで父の気まぐれで歩かされたことが
キリサメが感情を表に出したのはその一度きりだった。以降は瞼を半ばまで閉ざすという眠そうな面持ちのまま無表情を貫いており、日本の寒さに
ペルーで生まれ育ち、日本の土を踏むのも初めてということだが、こちらの
一つ屋根の下で暮らす相手にさえ心を開かないコミュニケーションの不全は言うに及ばず、意欲を欠いていることも明白である為、高校進学は望めないと未稲は考えていた。岳が用意した高校の資料に目を通してはいるようだが、受験希望の候補を
父も父だ。偏差値の高い学校の資料ばかりを揃えてどうするのか。
都内で考えるならば
己の身の振り方どころか、キリサメは日本の文化にも一向に興味を示さない。どのような物事に関心を持っているのかも未稲には分からなかった。
同い年の少年と一緒に暮らすことになると聞かされたときには入浴中の遭遇や、鍵を閉め忘れたトイレのドアを開けられてしまうといった
未稲にとっては肩透かしも良いところで、キリサメの洗濯物に彼女の下着が混ざっていたときなどは、照れて赤くなることも鼻の下を伸ばすようなこともなく、無感情に淡々と返却してきたのである。
「が、柄とかリボンとかアレとかコレとか、と、とにかく忘れてッ!」
赤面しながら絶叫する未稲に対して、キリサメ当人は相手が何を恥じらっているのか、そこから理解していない様子だった。
「忘れるっていうか、特に憶えてないです」
未稲の乙女心が悲鳴を上げたのは言うまでもない。
確かに同世代の娘と比べて凹凸は控えめかも知れない。化粧っ気も洒落っ気もなく、日中から家に閉じ籠っている為、大抵の場合はTシャツ一枚にレギンスで過ごしている。しかし、それでも全く女性として意識されないのは悔しいわけである。
こうした無自覚の失言も含めて、とにかくキリサメは奇行が多かった。
彼の感性は他者とは相容れないほど独特で、だからこそ未稲は「自分に魅力がないから
何の前触れもなく屋根の上に登ったかと思えば、電柱の頂点に片足だけで立っていることもあった。空を眺めるのが好きだとしても、せめて自室の窓から覗くだけにして欲しいものだ。しかも、キリサメはその状態で鉛筆画を描き始めたのである。
近隣の住人に見つかったときには警察へ通報されそうになったくらいだ。
キリサメが八雲家に来てからというもの、未稲は一日たりとも心が休まらなかった。
ペルーには高い場所に登らなくてはならない風習でもあったのだろうか。地球の裏側のことなど無知にも等しい未稲は、
代わりに知り得たことといえば、強盗や殺人の横行といった治安の悪さばかり。危険にして凶悪な情報の数々には思わず身震いしたほどである。
贔屓にしているネットニュース『ベテルギウス・ドットコム』がペルーの格差社会を取材した際には現地へ向かう直前の父と共に予習として
生温いとしか感じられない内容であった為、拍子抜けした未稲は辛口の批評コメントを送信したのだが、『ベテルギウス・ドットコム』が調査したのはリマ市内のあちこちに点在する『
自分と同じ年齢の少年は――キリサメ・アマカザリは、人の命が
「――もしかして、その子はわざとスリルを味わっているのではないでしょうか。激戦地に送り込まれていた兵士が帰還すると、平和な世界には居場所がないと思って落ち着かなくなるそうであります」
リビングルームのテレビで男子ハーフパイプの決勝戦を眺めながらキリサメの奇行を振り返っていた未稲の
液晶画面には本文と共に『デザート・フォックス』なる珍妙な名前が表示されている。
『エストスクール・オンライン』というネットゲームで知り合い、頻繁にメールのやり取りをしている
彼の考察によれば、キリサメは危険と理解した上で、敢えてそのような場に身を晒しているというのだ。
「吾輩、同じ症状に苦しむ旧陸軍の生き残りへ取材したこともあるのであります。その子はさしずめペルーという戦場からの帰還兵でありますな。現代に生きる兵士であります」
大袈裟な文面ではあるものの、発想そのものは突飛とも言い難い。彼の考察とキリサメの行動を照らし合わせると全ての辻褄が合うような気がした。
フランス代表のバッソンピエールなるスノーボーダーがテレビ画面の向こうで天高く舞い踊っている。跳躍の頂点で姿勢を崩し、真っ逆様に急降下するようなことがあれば、円筒の上半分を割ったような形状の
出会いの日から確かに前兆はあった。
ペルーから一着も衣類を持ってこなかったキリサメの為、未稲は来日したその日に本人を伴って買い出しに出掛けることになった。しかも大雪が降り積もる夕暮れ近くである。
彼と行動を共にしながら衣類のことを考えていなかった父の不手際に他ならず、自分で尻拭いをするよう突っ撥ねたかった。一緒にログインしようとデザート・フォックスらと約束していた時間に間に合わなくなる可能性も高かったのだ。
しかし、父のほうも帰国の連絡を入れた仕事仲間から極めて厄介な案件を告げられ、他のことが手に付かなくなっていた。ペルー訪問中にニューヨークで発生した傷害致死事件が耳に入ったのだ。背負った肩書きがそれに相応しい対応を八雲岳に求めるのである。
満足に挨拶もしていない相手と二人きりで出掛けるのは甚だ
自宅から最も近い南口商店街にも衣料品店は多いが、大雪の影響から客足も鈍いのでアーケード全体が早仕舞いを決め込んでいる。今から向かってもシャッターばかりの拱廊を散歩するだけになると判断した未稲は、移動距離自体が長くものの、目当ての品々を確保する確率が高まるだろう駅の北口側へとキリサメを
京都知事選が大詰めを迎えている頃だ。投票日を翌日に控えた候補者たちは追い込みとばかりに声を嗄らして街頭演説に励んでいる。道路に面した広場でも一人の候補が大音声で〝最後のお願い〟を訴えていた。
鶏を絞めた際に発するような独特の声と併せて、とにかく異彩を放つ男であった。決意の表れということなのか、時代劇などで見掛けることのある淡い青色の
外見上の圧力は押し付けがましく思えるほど凄まじいのだが、どうやら選挙カーを用意できるだけの資金を集められなかったらしく、遊説場所まで徒歩で移動しているようだ。
いわゆる〝飛沫候補〟であった。雪の下北沢で『健全な東京都』を呼び掛ける珍妙な男は首位争いへ加われない代わりに個性を炸裂させているが、主義主張そのものは都政に関心があるのか疑わしいくらい現実味がなかった。
「先週、ニューヨークで起きた〝殺人事件〟を皆さんはご存知でしょうか⁉ 総合格闘技によって暴力性を駆り立てられた愚かな暴徒が善良な市民をリンチに掛けた凶悪犯罪が日本でまともに報じられていない事実が私には信じられない! 有力メディアがカネになる格闘技を庇っているのは明々白々です! 紛れもない陰謀なのです! 格闘技を野放しにしておけば、東京が暴力の支配する悪夢の都になってしまいます! そうなる前にこの私が食い止めなければならないのです! その使命に燃えてここに立っています!」
アメリカで発生したという事件を取り上げて雄弁を垂れているわけだが、東京都政と結び付けて格闘技を批判するのはいくらなんでも無理が過ぎるだろう。
飛沫候補の言動に整合性があると思えなかったらしいキリサメが小首を傾げる隣で未稲は丸メガネのレンズに憎悪の眼差しを映していた。
「都政健全化に格闘技廃絶は必須です! 想像して下さい、皆さんの子どもが残虐な格闘技に接して暴力に目覚めた姿を! 勉強ができなくても殴れば物事は解決する、反対意見は蹴りを入れて黙らせる! 家庭内暴力・学校崩壊・政府転覆――格闘技に汚染された日本に未来はない! 今、こうしている間にも『健全な肉体に健全な精神が宿る』と言葉巧みに誰かが洗脳されている! 文民統制を揺るがす詐欺を黙って見過ごせるか!」
飛沫候補は秒を刻む毎に身振り手振りが仰々しくなり、大言壮語も加速していくが、結局は演説の形で自分の嫌いな格闘技を貶めているだけである。何を
格闘技廃絶の理由が候補の個人的な感情に帰結してしまうのである。
「ご清聴ありがとうございました! この
格闘技は暴力と決め付け、何度も何度も扱き下ろす飛沫候補――
それが証拠に注目度ひいては期待度など一七名の立候補者の中でも最下位だった。
およそ都知事候補の資格に相応しいと思えない手合いの言葉など耳に入ってくるだけで気分が悪くなる――今すぐ立ち去ろうとキリサメを促した瞬間、
大雪が止まない為に傘を差して歩いていた未稲は、調子の外れた合奏に驚いて取っ手から指を離してしまった。依然として吹き荒んでいた強風に
交通量が著しく増加する時間帯であり、加えてスリップ事故が多発する雪道だ。未稲も無事な状態での回収は即座に諦め、自動車が通り過ぎた後に残骸だけでも片付けようと考えたのだが、ここでキリサメが信じられない行動に出た。
家路を急ぐ自動車が絶え間なく走行する状況にも関わらず、一瞬たりとも
「何やって――えっ⁉ な、何やってんの、この人ぉッ⁉」
この時点で未稲は狂わんばかりの悲鳴を上げていた。キリサメにはフードトラックと思しき車輌が真っ直ぐに迫っていた。もはや、ブレーキも間に合わない――彼女だけでなく歩道を行き交っていた誰もが最悪の事態を想像したことだろうが、気付いたときにはキリサメはガードレールの上に降り立っていたのである。
映画のフィルムで
カスリ傷一つも負わず、歩道で見守っていた人々から謎の拍手を受けつつ無事に戻って来たキリサメは未稲に傘を差し出した。
その瞬間、未稲は歩道にへたり込んでしまったの。想像を絶する出来事にすっかり動転し、傘を受け取ることも無謀を叱ることも思考から抜け落ちたわけだ。
そのときの未稲には人間業ではないようにも見えたのだが、冷静になって振り返ってみれば極度に緊張した状況下で他者の身のこなしを正確に捉えることなど不可能に近い。おそらく記憶の一部が歯抜けのように飛んでしまったのだろうと彼女は結論付けた。
腰を抜かして動けなくなってしまった未稲に傘を持たせ、手を差し伸べたとき、彼の顔面には生命の危機に晒されたという動揺など僅かとて滲んでいなかった。さすがに呼吸は乱れ、額から汗も噴き出していたが、それだけだった。底冷えするほど無感情に彼女の顔を見下ろしていたのである。
キリサメ・アマカザリという少年は、危険を認識する感覚が壊れてしまっているのではないかと戦慄したほどである。
そのことはすぐに岳へ報告したのだが、彼はキリサメの頭を撫でつつ、「オレの目は節穴じゃなかったぜ」と豪快に笑うのみ。父の破顔が未稲には理解できなかった。一体、どこに褒められる要素があったのだろうか。単なる自殺行為ではないか。
挙げ句の果てには電光石火の動きが〝発動〟した状況などを根掘り葉掘り
運転手が知人ということを父は失念している。車体のあちこちに『がんじゅ~い』なる名称が入ったフードトラックを使い、沖縄クレープの移動販売を行っているのだ。古馴染みということもあって父も頻繁に利用しており、未稲も以前に挨拶したことがある。
そのような相手と取っ組み合いになるのは最悪の事態で、未稲も思わず身を強張らせてしまったが、
傘で顔が隠れていた為か、へたり込んでいる知人に気付かなかったようだ。
「お聞きになりましたか⁉ 彼の姿をご覧下さい! これこそ暴力以外に頼るものがない哀れな格闘家の成れの果てです! リングではスポットを浴びてヒーローと偽ることもできますが、いざ現役を退けばこの通り! 知恵も技術も備えていないから自分より力の弱い人を脅してカネを巻き上げるしかない! こんな傲慢を許してはならないのです!」
「知恵と技術を駆使して沖縄クレープ焼いてるわい! ……お前こそ何も知らない人たちを言葉巧みに騙すな! いい加減にしねェと名誉棄損で集団訴訟起こすぞ⁉」
どうやら互いに顔を見知っているようで、フードトラックの運転手は
間もなく二人は揉み合いになったが、これは明らかな選挙妨害である。警察官やマスコミが嗅ぎ付ければ投票日直前を揺るがすニュースになるだろう。そのような騒動へ巻き込まれない内に未稲はその場を離れたのだった。
「……生きるか、死ぬかって状況が近くにないとおかしくなっちゃうのかなぁ……」
今日もキリサメは母屋の三階の屋根に腰掛け、何かをスケッチブックに描いている。
下ろし立てのシャツに袖を通しているが、その背中には珍妙なマスコットキャラクターが刷り込まれていた。
横線二本で眉毛と口、縦線一本で鼻筋を描き、左の下唇と右の上唇にそれぞれ一つずつホクロを置くというデフォルメの強い丸顔は、ペルーから身に付けてきたシャツの左胸にも見られるものだ。
日本でも著名なマスコットキャラクターであるが、どちらかというと女性人気が高く、男性が身に付けているところは殆ど見掛けない。それにも関わらず、キリサメは同じデザインの物ばかりをわざわざ選び、他の衣類には見向きもしないのである。
そんな
思い切って自分も窓から二階の屋根に飛び移った未稲は、四肢に力を込めてバランスを維持しつつキリサメが座っているほうを仰ぐと、身が竦むほど不安定な場所に居て怖くないのかと
「私なんか屋根に出た時点でガクガクブルブルなんだけど……どうして、そんな平気な顔していられるの? 怖いでしょ、そんな場所……登らずにいられない理由があるの?」
危険極まりない場所へ身を置くことに何の意味があるのか――これをキリサメに
キリサメに確かめるのが怖かった。
現在のペルーが戦争状態でないことは未稲も把握している。しかし、
少し前にも政府軍と武装集団との間で激烈な銃撃戦が発生したばかりだという。それより更に遡ってみると同種の組織が民間人の手で壊滅させられたケースもあったそうだ。
危険地帯といっても過言ではない国からやって来た人間は精神の構造すら常人から懸け離れている。それはもはや、人外の境地に他ならない――これもまた
精神構造が人外の境地に至っているか、否か。その判断を付ける為に危ない場所へ身を置く理由を問われたわけだが、キリサメは未稲の意図を上手く読み取れなかったようだ。
「……安心するんですよ……」
何を当たり前のことを訊いているのかと言わんばかりにきょとんとした
予想通りの反応が返されたときには未稲は身も凍る思いであった。彼は自分が人間ではないと、あっさりと認めてしまったのである。
地球の裏側からの〝帰還兵〟あるいは人外の境地などと喩え方は様々であろうが、いずれにせよ、この瞬間から自分とキリサメは相容れない存在となったのだ。
未稲は身の震えを抑えられなかった。
「……あの、ちょっとぉ、ちょっとぉ~」
「……もしかして、そこから動けなくなってないですか?」
「き、訊かなくても分かってるんなら、こっち来て! た、たぁすけてぇ~」
しかし、どれほど恐ろしい相手であっても、助けを求めなければならないときがある。勢いで屋根の上に飛び移ったものの、未稲は恐怖に挫けてしまい、そこから一歩も動けなくなったのである。
「高所恐怖症なら、こんなことをしちゃいけませんよ」
「足場さえしっかりしてたら東京タワーだって平気! 不安定な傾斜がダメなだけ!」
「別にこれくらいどうってコトは……」
「や、や、やっぱり怖いよぉ~!」
相容れない存在に対する戦慄と、下手に動くと地上に転落してしまうという恐怖に身を強張らせながら、未稲はキリサメの救助を待つしかなかった。
腰と肩を支えられて姿勢は安定したが、今度は
「……は……う……う……っ!」
パソコンや
スケッチブックの鉛筆画が目に入ったのはキリサメの顔が直視できなくなって俯いたときだった。
「こ、これって火の見櫓だよ……ね?」
独特な
「そうですよね、何を描いてるのか、普通に分かりますよね⁉」
「ひわっ⁉」
照れ隠しの為に鉛筆画へ触れただけなのだが、キリサメは急に前のめりとなった。その上、未稲の顔を覗き込む眼差しは何時になく熱を帯びている。
スケッチブックの中央に描いた物体を
改めて
(ダメダメ、私にはデザート・フォックスさんがいるんだし、それにあの人だって――)
早鐘を打つ心臓を抑えようと幾度か深呼吸を挟んだ
高所から地上の獲物を狙う猛禽類とも
二人ともパッションピンクのバンダナを腕に巻いているが、それ以外は身だしなみも大きく乱れていないように見える。
「……まさか、日本まで追い掛けてきたんじゃないだろうな、『
意味不明なことを呟いたキリサメは、その場に未稲を置き去りにして自室へ引っ込んでいき、ペルーから届いたばかりの荷物を乱暴に解いて奇妙な物を組み立て始めた。
二枚重ねた平べったい木の板に取っ手を組み合わせるという形状は船の
慣れた手付きで一振りの〝武器〟を完成させたキリサメに未稲が訝るような視線を向けると、またしても「安心するんですよ」という答えが返ってきた。
「……『
「エクセルシスって、それの
「僕も詳しくは知りませんが、聖なる剣という意味らしいです」
「……聖剣エクセルシス――ファンタジー系の
テレビゲームで
現代社会に於いて出番などあろうはずもない『
天飾見里の遺骨を『作草部家之墓』へ移したことを一区切りとして、八雲家ではキリサメの歓迎会が催された。出席者は家族三人のみであったが、大奮発して特上のすき焼きが振る舞われたのである。
日本とペルーでは食文化が全く異なっているように思われがちだが、南米には日系移民の子孫も大勢暮らしている為、首都のリマともなれば日本食レストランが何軒も立ち並んでいるのだ。輸入品の店を少し探すだけでも日本の食材や調味料は簡単に手に入る。
キリサメの家でも日本の調味料は日常的に使われていた。亡き母も遠い故郷の味を息子にも覚えて欲しかったのだろう。朝食の献立にみそ汁が含まれない日のほうが少なかったくらいなのだ。
「何を隠そうキリサメの父ちゃんが日本食をペルーに持ち込んだんだぜ――つーと言い過ぎかもだけど、当時のペルーになかったモンをたくさん運び入れたのは間違いねェ。今でも向こうに支店があるしよ! 見里さんもそこで買い物してたんじゃねぇかな! あいつら二人、どこかどこかで繋がってるんだなァ!」
ここぞとばかりに岳はキリサメの実父がペルー国内で進めていた事業や功績を披露するが、肝心の忘れ形見は全く聞き流している。
しかしながら、意地悪く無視し続けているわけではない。目の前のすき焼きへ夢中になる余り、周囲の情報を取りこぼしているのだ。
普段は何事にも無感情なキリサメが目の色を変えていた。
母親が亡くなって以来、日本食と縁がなかっただけに久々のすき焼きは格別に美味い。程よく霜が降った牛肉や香ばしい焼き豆腐、ネギとシラタキも目を輝かせながら頬張り、焦り過ぎて咳き込む瞬間もあった。
「ンなに慌てなくって、肉はどこにも逃げねぇって」
豪快に笑った岳は、喉を潤すようにと自分のグラスをキリサメに差し出そうとした。これを満たす黄金の液体は、言わずもがなビールである。
その手を慌てて引っ
「味付けは平気……? フツーのすき焼きと比べて変わり種なんだけど」
「美味いです、すごく。スパイスが強いハズなのに舌に馴染むというか、染み込んでいくというか……奥深い味だと思います」
「おッ⁉ キリーってばグルメレポーターの才能があるじゃねーの⁉ それでこそ、奮発した甲斐があったってもんだぜ! 牛肉だけでオレの小遣いの一ヶ月分だからよォ!」
「……お父さん、そーゆーみみっちいコトは言わないで……」
ペルーで生まれ育ったキリサメの口に合うか心配していた未稲は怒涛の勢いで肉や野菜を平らげていく姿に胸を撫で下ろしていた。
幼い頃から日本食に慣れていると来日直後にも聞いてはいたのだが、本当に味覚は自分たちと大して変わらないようだ。箸も器用に使いこなしている。
すき鍋を囲む状況ではあるものの、ダイニングルームはスパイスの香りで満たされていた。未稲が「変わり種」と語った通り、夕食はカレーすき焼きだったのである。
醤油ベースの割り下にカレー粉を加えたものだ。敢えて
曰く、「カレーが嫌いな日本人なんかいない!」とのことだ。
海外移住という環境の変化の中でとりわけ重要なのは食事であろう。味付けが合わずに苦しい思いをさせては申し訳ないと未稲は密かに心配していたのである。何より今夜は大事な歓迎会だ。カレーならば大失敗の可能性も低いという判断だった。
果たして、未稲の目論見は大成功であろう。鰹や昆布の効いた
安堵以上に感情を見せてくれたのが未稲には嬉しかった。このまま心が通わないままでは生活していく上でも息苦しくなるだろう。無愛想というよりも、感情の発露が得意ではないのかも知れない。そのことが分かっただけでも大きな前進であった。
「うすぼんやりと岳氏から聞いた憶えがあるのですけど、食事は未稲氏が?」
「他にやる人もいないしね。当番制にしても良いんだけど、お父さんが台所に立ったら後片付けのほうが大変だし、結局、私の仕事が増えるだけなんだよね」
「男の料理もたまには悪くねーだろ――てか、キリーはどうなんだ? どっちかっつーと買って食べるほうが多かったのか?」
「まあ、……そんなところです。火で焼く程度なら炭にしない自信はありますけど」
「……はいはい、了解! これまで通り、ご飯は私が受け持ちます!」
歓迎会のカレーすき焼きは下ごしらえから調理まで未稲が一人でこなしていた。今晩だけのことではない。母親不在の八雲家では彼女が家事全般を担当しているのだった。
キリサメと同い年の彼女は今年で一七歳になるが、全日制の学校には通っていない。
外へ働きに出ている岳の代わりに生活費の管理まで含めた〝家の仕事〟を全て取り仕切る父子二人三脚の家庭である。
それ故、未稲は外出する機会が極端に少ない。下北沢には幾つも商店街があるのだが、買い出しは基本的に通信販売で済ませており、一日一回は宅配業者が訪問していた。
主にチャイムを鳴らすのは山吹色のツナギを
宅配業者を駆使しなければならないほど忙しいのだろうとキリサメは察していた。日々の家事をこなしつつ、暇さえあれば一心不乱にパソコンへ向かっているのだ。家計簿の入力か、勉強であるのかはともかく、就寝以外には休まる時間などなさそうだった。
キリサメにはよく分からないのだが、彼女はブログというものも運営しているそうだ。
何かと苦労の多い未稲を眺めている内に気には掛かったものの、母親がいない理由を訊ねることは踏み止まった。自分の家とて父親が不在だったのだ。各々の家庭にはそれぞれ違った事情があり、これは決して他人が踏み込んではならない領域なのだと弁えている。
尤も、岳は尋ねられたことには何でもあっけらかんと答えそうではある。どんなに複雑な事情が絡んでいるとしても、一切を冗談混じりで明かしてしまいそうだ。
今夜も上等な牛肉とビールで上機嫌となり、愉しそうに笑っている。人の言うことを聞かない性分なのか、会話が噛み合わない瞬間もままあるが、岳は何時だって笑っている。
「おっと、オレとしたことがうっかり忘れてたぜ!」
やおらテーブルにジョッキを置いた岳は、手元にあったテレビのリモコンをいそいそと操作し、テレビの電源を入れた。
「お父さん、ご飯中のテレビはやめてっていつも言ってるでしょ。しかも、今日はキリサメさんの歓迎会じゃない。それ、もう行儀以前の問題だよ」
「細けェことはいいじゃねーか。落ち着いたらキリーに見せようと思ってたんだよ」
電源を入れた直後、テレビ画面に映し出されたのはニュース番組である。
番組自体が終了する間近であったらしく、その日のハイライトとして大雪による日本各地の被害状況や、内戦前夜の様相を呈し始めたウクライナの情勢などが報じられ、続いて記者の取材に応じる新都知事の姿へと切り替わった。
当然ながらテレビ画面の向こうでマイクを向けられているのは格闘技廃絶を訴えていた飛沫候補――
知人と飛沫候補の揉め事も念の為に父へ
「
「違ェよ、もっと面白いモンだ!」
丁度、ソチではショートトラックの大勝負が繰り広げられている頃だ。一家総動員にも等しい状態で参戦しているフランス代表のバッソンピエールがメダルを獲得できるか否かに世間の注目も集まっていた。
そうでなくとも世界の関心事といえば熱戦続く五輪であろうが、
間もなく起動したDVDプレイヤーより再生されたのはスポーツ番組である。
端々に皮肉を織り交ぜる語り口が特徴的な番組司会者の冒頭挨拶を挟んだ
どこかの道路を封鎖して会場を特設したらしく、カメラがアングルを変える度に車線が映り込む。テレビ局の中継車も画面内に入ってしまっているのだが、
背広姿の男性たちが青空の下に居並んでいる。据置式の大型モニターでは
地上一八メートルに達するであろう赤い
やがて演説台の前に立つ偉丈夫が声明文を読み上げる場面が映し出された。キリサメの箸が止まったのはその男の顔を確かめた瞬間のことである。
次いで岳の顔と画面内の偉丈夫を見比べる。左右の親指でもって自分し示す得意げな男がテレビ画面にも映っているではないか。さすがに画面の向こうの顔は引き締まっているが、
「――ここ、リトル・トーキョーは日米にとって極めて大切な意味を持つ場所です。歴史あるこの町で本日の共同発表を迎えられたことが心から嬉しく、同時に大変な名誉であると身が引き締まる思いであります」
演説台に置かれた原稿を読み上げる声も確かに岳の物である。
スピーカーから聞こえてくる自分の声に向かって、自宅の食卓に座っているもう一人の岳は「アホみたいに緊張しまくってんな、コイツ」と腹を抱えて大笑いしている。
『もうひとりの岳』といっても彼が分裂してしまったわけではない。テレビ画面に表示された日付は岳がペルーを訪れる数日前のものであり、この会見が生放送でないことを示している。岳は過去の自分を笑い飛ばしているわけだ。
「一九九〇年代に産声を上げた戦士たちの夢の結晶、
「その偉大な一歩は青空に夢を馳せるようなものです。果てしないこの空を歴史書に例えるならば戦士たちは白雲の如き年表を新たに刻んでいくことでしょう。夢とはただ憧れを
岳の言葉を引き取ったのは、彼と隣接する形で設置された演説台に立つパンツスーツ姿の女性である。
日本人のようで、どこか違って見える不思議な面立ちの女性はイズリアル・モニワというそうだ。演説台へ貼り付けられた金属製のプレートには『ナチュラル・セレクション・バウト』代表という肩書きと共に名前が英字で刻まれていた。
これと同じように岳の側にも『
「我が『
「そして、我々『ナチュラル・セレクション・バウト』――通称『NSB』はアメリカの八角形の
「これまで交わることのなかった両陣営から最強の候補者たちを選りすぐり、統一されたルールのもと、全人類の頂点に立つ戦士を決定しようということです。これはまさに格闘技の五輪大会! MMAのワールドシリーズ――超人たちの祭典なのでありますッ!」
次第に熱を帯びていく岳に対し、イズリアルの口調は淡々としたものである。
彼女は英語で声明文を披露しているのだが、発言の一切が字幕で表示されている為、何を喋っているのか、キリサメにも読み取ることができた。
一方の岳は「正直、この姉ちゃんが何言ってんのか、オレにはチンプンカンプンだったんだよな。会見前にスピーチ原稿は読ませてもらったけどさ」と当時の様子を
「
テレビ画面の向こうの記者会見は今まさに佳境を迎えようとしている。岳は日本語で、イズリアルは英語で、それぞれ同じ
「『コンデ・コマ・パスコア』――日本を飛び出し、海を渡り、世界で戦った伝説の男の名を本大会ではお借りすることに致しました。現代総合格闘技の道を拓いたといっても過言ではないコマ先生の名に恥じぬよう『
『パスコア』とはブラジルの
岳が大会名を発表することで会見は締め
コメンテーターとして招かれたスポーツ・ルポライターの話によれば、水面下では既に出場者の選考が進んでおり、『NSB』は義足の格闘家も候補に挙げているそうだ。
「――どうよ? これがオレの仕事ってヤツだぜ!」
食卓でビールを呷った岳は何やら期待を込めた面持ちでキリサメを見つめている。
そのように
リトル・トーキョーという場所で記者会見があり、何らかの事業を行っている団体同士が大きなイベントを共催するということだけは辛うじて分かった。そのイベントの名称が『コンデ・コマ・パスコア』なのだという。
断片的な情報を繋ぎ合わせることで会見の流れは把握できた――ただそれだけである。『コンデ・コマ・パスコア』の全容どころか、MMAや八角形の
「あの背広、リマでも着ていましたね」
「そこかよッ!」
苦し紛れに絞り出された
しかし、統括本部長という肩書きは言うに及ばず、『
「……お父さん、私、〝着たきりスズメ〟はダメだって言ったよね? じゃあ、キリサメさんは何を話してるのかなぁ? 大事な一張羅を寄り道のときにも着てたって? 妙に
「お前もキリーに乗っかるなぁ!」
自分の仕事が理解されなかったことが悔しくて仕方がない岳は、すき鍋の中身が空となるまでの間、共同記者会見にまつわる苦労話を延々と語って聞かせたが、最後までキリサメは首を傾げ続けるのだった。
「くっそう、噛み合わねェぜ!」
「僕らの話が噛み合わないのは最初からです」
望んだ反応が返ってこないことに悲鳴を上げる岳と、これを呆れたように見つめるキリサメと未稲――歓迎会の夜は和やかに更けていった。
ソチ五輪に沸く世間の喧騒を嫌った人間が逃げ込む避難場所のような役割を中野の地下で果たしているショットバー『ブラックサバス』に穏やかならざる気配が垂れ込め始めたのは、八雲家のすき鍋が空になったのと殆ど同時刻である。
リトル・トーキョーでの日米合同会見を終えた後、八雲岳は数日ばかり行方を眩ませていた。再び日本へ姿を現したとき、薄気味悪い面構えの少年を伴っていたのだ。
詳しい経歴は定かではないが、キリサメという名前だけは突き止めることができた。
『八雲道場』で暮らし始めたということはおそらく岳の新たな弟子だろう。電柱の頂上に片足で立つなど危険な修行を繰り返している様子――それが
セットで提供された白米を
「――で、これからどーすんだよ? カラーギャングに見張りをやらせてるだけじゃ何も始まらねーだろ。もっとハデに行くってモンじゃねーか、抗争なんだからよ」
従業員や他の客の迷惑など考えずにカウンターテーブルへ腰掛けたパーカー姿の少女が今後の筋運びを
彼の右隣に腰掛けた大柄な青年も、壁に
ショットバーに陣取った四人はそれぞれの衣服に揃いのロゴマークを刷り込んでいる。
「言うまでもねェよ。『コンデ・コマ』――
カウンターテーブルに置かれているダーツの矢を取り上げながら勢いよく立ち上がった
ダーツボードの中央には屋根の上でスケッチに勤しんでいるところを隠し撮りされたと思しきキリサメの写真が貼り付けられている。
少年の手を離れたダーツが小気味の良い音を立てて突き刺さる。矢の先端は写真の中で遠くを眺めるキリサメの眉間を正確に捉えていた。
「手始めにこの〝ドン・キホーテ野郎〟を血祭りに上げてやろうじゃねェか。手前ェの所業がどれだけフザけていやがるか、ちったァ思い知れ、八雲岳ッ!」
天井を貫かんばかりに荒々しく吼えた
その戦端は
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