その2:墓守(後編)~真田の六文銭が導く先は

 二、墓守はかもり(後編)


 一九九六年から翌九七年にかけてペルー共和国にて発生した未曽有のテロ事件――いわゆる、日本大使公邸占拠事件では二五人の日本人が人質となった。

 捕らわれた者の多くはベテランと呼ばれるような高齢であったのだが、その中にただ一人、二〇代半ばの男性が混ざっていた。

 作草部雪於さくさべゆきおという名前を記憶に留めている日本人も多かろう。

 最年少の人質ということもあってマスコミの関心を引き、帰国後の一時期は「奇跡ミラクルの二五人目」などと持てはやされ、ニュース番組や新聞から何度もインタビューを受けたのだ。

 人質事件当時、彼は日本食を専門に取り扱う企業に勤めており、地球の裏側で暮らす日系移民の子孫に向けてを紹介して回っていた。新境地の開拓を遠い異境に求めたのである。

 その頃の肩書きは係長。海外進出の手腕を認められ、二〇一〇年には専務にまで昇進したが、かつて人質生活を共にした盟友たちのようなベテランの領域へ入る前に職を辞すこととなった。

 正確には休職扱いなのだが、抱えていた仕事は部下に引き継いでおり、彼にできることは何もない。むしろ、何らかの仕事へ携わることさえ固く禁じられていた。

 仕事中に血を吐いて倒れた作草部雪於は、精密検査によって末期の胃がんと診断され、発見時には既に手の施しようがない状態であった。それが二〇一二年のことである。

 二日に一度は雪於の見舞いに訪れていた八雲岳は、日に日に痩せ衰えていく親友の姿が悲しくて仕方がなかった。主治医には余命半年以内と宣告されている。生命を繋ぎ止める糸が少しずつ裂けていく様子を見せつけられるようなものであった。

 この前年――二〇一一年三月一一日に発生した東日本大震災を受けて、作草部雪於は被災地への継続的な食料提供などを主軸とする東北支援事業を発足。復興を後押ししようと意気込んでいた矢先に病気が発覚したのだった。

 全身全霊を傾ける覚悟で立ち上げた事業にも関わらず、自分が真っ先に抜けなければならない悔しさを語った雪於は、この無念を晴らしてくれるよう岳に頭を下げた。弱々しくこうべを垂れるしかなかった。


「日本を元気にするプロジェクトはお前に任せるよ、岳。私の志を、お前に託したい」

「お前らしくもねぇ! ちっちぇコト言ってんじゃねぇぞ、バカヤロ! オレにできることっつったら、お前、ほんの少しの間、夢をせてやることくらいなんだぜ? 子どもたちを腹いっぱいにしてやれんのはお前だ。そんなスゲェ仕事はお前だけにしかできねぇんだぜ! こればっかりは引き受けられねぇ!」

「子どもたちに一番必要なのは夢だよ。その担い手はお前じゃないか。だからな――」

「やめろっつの! 他のことならいくらでもやってやっからよォ、ンな寂しいことを言うんじゃねぇよ……」


 掛け替えのない親友が、自分の人生を諦めてしまった。海外を渡り歩く企業戦士としての勇姿をずっと見てきた岳は、親友の吐露した弱音に涙が止まらなかった。

 一つの現実として、命に期限を設けられてしまった親友を励ますのは辛いものである。「まだまだ、これから」と声をかけることは簡単だが、それは余りにも空虚な言葉であり、相手にも、自分自身の心にさえも響かないのだ。

 とうとう嗚咽まで漏らし始め、服の袖で涙を拭い続ける岳の顔を雪於は静かに見つめていた。どういうわけなのか、その口元には薄い笑みを浮かべている。


「そうか、他のことなら引き受けてくれるんだな。ありがとう、本当に助かるよ」

「おう、任せとけ! ……って、アレ? んん? なんか……引っ掛かるぞ?」


 言質を取ったとばかりに「それでこそ、私の親友だ」と畳み掛けた雪於は、医療ベッドの脇に置かれているテーブルから一冊のファイルを取り上げ、これを岳に向かって差し出した。

 促されるままにファイルを開いてみると、クリアポケットには手紙や封筒などが余るほど収納されている。差出人の名義を確かめて岳は驚き、「オレが見てもいいのか?」と目配せでもって雪於に尋ねた。

 あまかざりさと――地球の裏側で暮らしている雪於のもと恋人である。郵便物には何が何だか分からない言語でもって住所が記されており、岳には『ペルー』という国名しか読み取れなかった。

 それからすぐに岳はファイルから目を逸らした。雪於当人は見られても構わないと頷き返したのだが、それでもクリアポケットから封筒を取り出そうという気になれなかった。

 これは二つの心の軌跡なのである。理由はどうあれ、他人が覗き見ることなど許されるはずもない。

 一度、ファイルを閉じた岳は、これを自分に寄越した理由を尋ねることにした。病人相手にははばかられるものの、筋が通っていなければ突き返すしかあるまい。


「何でも引き受けるといったのはお前じゃないか」

「人に物を頼むときは勿体ぶったやり方はいけねぇ――だろ、スーパー営業マン?」


 今もって肝心な部分が伏せられていることに憤る岳に対して、雪於ははかなげに微笑んだ。今にも消え入りそうな寂しげな笑みであった。

 二人の間に、沈黙が差し込む。

 岳の激情が収まり、二つの視線が真っ直ぐに交わってから、雪於は頼み事の全てを明かし始めた。

 それは地球の裏側に出向していた頃の恋人のこと。即ち、天飾見里のことである。一九九〇年代半ばからペルー共和国に駐在していた雪於は、当時、青年海外協力隊の一員として同地で働いていた見里と知り合い、程なくして恋仲となった。

 二人の交際については当然ながら岳も知っていた。雪於が見里を伴って一時帰国した際にも直接紹介され、良き友人関係となったのである。彼女に無理やり付き合わされて三人でエスエム・ターキーのライブへ出かけたこともあったのだ。

 雪於は見里に日本へ戻ることを勧め、同時に結婚を申し込んだ。しかし、見里自身はペルー共和国で目の当たりにした貧民街の惨状をどうしても見捨てられず、結局、地球の裏側に定住することを決断した。

 別々の道を歩むこととなった時点で、二人の関係は解消されたという。

 ここまでは岳も承知していたのだが、雪於の話には更に続きがあった。思わず、その場に崩れ落ちてしまうほどの結末が――だ。

 ペルー共和国の首都にある貧民街で私塾を開き、学校にも行けない子どもたちへ勉強を教えていた見里が殺人事件に巻き込まれ、命を落としたというのである。

 岳の顔面からはすっかり血の気が引いていた。故郷から遠く離れた大地でも持ち前のバイタリティを発揮して元気に暮らしていると信じていたのだ。

 その見里が、もうこの世にいない。筋骨隆々で頑丈そうな岳であっても、すぐにはこの事実を受け止めることができず、病室の床に力なくへたり込んでしまった。


「い、いつの……ことなんだ……?」

「……五年前のことらしい」

「知ってたんなら、言えよ! 即教えろよ! お前……オレだって見里さんのダチなんだぜ、一応!」

「私も少し前までは把握できなかったんだよ、何が起こったのか。……手紙が返ってこなくなり、仕送りまでできなくなってな。おかしいと思って現地のツテを頼って捜してもらっていたんだが――ようやく調べがついたときには、もう終わっていたんだよ。何もかも、な……」


 かつて愛した人の悲劇を想い、苦しげに呻いた雪於は、次いで激しく咳き込んだ。辛い事件を振り返ったことで心身に大きな負担が掛かったようだ。

 慌てて立ち上がった岳に背中をさすられながら呼吸を整えていく雪於であったが、彼がナースコールのボタンを押そうとしたときばかりは「それはいらん!」と鋭く制した。

 話はまだ終わっていない。ここからが大切なのだと、必死な眼差しが語っていた。

 懸命に気を張って咳を堪えたのち、雪於は最後の力を吐き出すようにして再び言葉を紡ぎ始めた。

 見里が落命することになった事件は意外な幕引きとなったそうだ。悪因悪果というべきか、私塾にまで押し込んで彼女を刃物で斬り殺した犯人は、それから一月ひとつきと経たない内に何者かによって絶命させられたというのである。

 これで事件は解決

 日本であれば犯人殺しの捜査が開始されただろうが、貧民街では人死になど珍しくはなく、現地の警察も外国人観光客の被害といった重大事件以外は半ば放置しているという。

 「メチャクチャじゃねぇか……」と岳も呻いたが、ある意味に於いて最悪の結末といえよう。どのような経緯・状況で見里は最期を迎えたのか、そうした真相は永久に分からなくなってしまったのである。

 見里を斬殺した犯人に関しても、惨たらしい死に方という事実しか掴めなかった。


「――いや、ちょっと待て? オレ、重大な聞き漏らしがあるんじゃねぇかな……」


 見里を飲み込んだ悲劇を噛み締めるように反芻はんすうしていた岳は、雪於が語った内容の中に不可思議な一点を見つけ、大仰に首を傾げた。


「仕送りしてたっつったよな、今。そういうのってよォ、見里さんが一番イヤがりそうじゃねぇか?」

「勿論、最初は断られたさ。しかし、私だって父親としての責任を果たしたい。そう説得して、ようやく折れてもらったんだが、……それでも、最低限の額しか受け取ってくれなかったよ」

「……は?」


 岳は双眸を驚きに見開いている。見里との別離以来、雪於は特定の女性と関係を持つことはなかった。それどころか、一層仕事に打ち込むようになっていったのである。そんな男が突然、「父親としての責任」などと口走ったのだ。


「お前、もしかして……」

「……話していなかったんだが、見里との間に息子がいるんだよ、実はな。今年で一五になる……」

「じゅうご――だから、そういう大事な話はもっと前にしろっつーの! こうなっちまったら、お前、出産祝いも出せねぇじゃねーかよぉ!」


 この時点で岳は親友の頼み事を悟っていた。つまり、雪於は孤児となってしまった一人息子を託そうとしているのだ。

 雪於も岳も孤児院の出身であり、天涯孤独の身の上。息子を託せる身寄りもいないのである。


「……お前にしか託せないことなんだ。私と見里の息子を頼む……」


 岳が自分の思いを察してくれたと認めた雪於は、もう一度、こうべを垂れた。深く深く、頭を下げた。

 親友からここまでの誠意を尽くされては岳も引き受けないわけにはいかなかった。相手は死に瀕しているのだ。それなのに、どうして断れるものか。

 できることなら雪於も自分で日本に引き取り、育てたいはずなのだ。しかし、命に期限を切られてしまった以上、それは不可能である。たった一人の息子を本当の意味で孤児にしてしまうことは、父として耐え難い苦しみであろう。

 岳にも娘がいる。雪於の慟哭は察するに余りある。


「――オレにしかできないこと、か……」


 必ず希望を叶えると頷けば、雪於との友情へ報いることができるのか――岳は己に問い掛けていく。

 岳の脳裏にハゲワシのマスクを被って闘うプロレスラーの姿が浮かんだのは、その瞬間のことであった。

 日本が世界に誇る伝説的な覆面レスラーであり、岳が世界で一番、尊敬する男だ。プロレス・リングに於ける熱闘ファイトから勇気をもらっただけでなく、自分たちが暮らしていた孤児院を様々な面で支援してくれた大恩人でもある。

 身寄りのない子どもたちに希望の道を示し続け、岳の人生をも決定づけた男は、ハゲワシのマスクの向こうから「私に恩を感じる必要はない。代わりに誰かが自分を頼ってきたとき、決して見て見ぬふりをしないでくれ。願わくば、誰にでも優しいヒーローになって欲しい」と常々語っていた。

 大恩人の言葉と意志は何があっても裏切るわけにはいかない。その思いを胸に秘めて今日まで闘い続けてきたのだ――だから、親友に返す答えは一つしかなかった。


「……わかったよ。オレに任せとけ、丸ごと面倒見てやらぁッ!」


 脳裏に浮かんだハゲワシのマスクへ強く頷き返した岳は、自分の胸を叩いて親友に請け負った。全てを引き受けると約束を交わした。


「……今、『ヴァルチャーマスク』の兄さんを思い浮かべていただろう?」


 雪於もまた大恩人の名前を紡ぎ、懐かしそうに微笑んだ。


「お見通しとは思ったけどよォ」

「当たり前じゃないか。私だって兄さんの〝意志〟を受け継ぐ一員だったんだからな」

「オレは今もまたあにィに背中を押されちまったぜ。……だがよ、最後の決断はオレだぜ。雪於、オレはお前の友情に応えたい。他の誰でもねぇオレ自身の意思だ」

「……ありがとう、岳――」


 肩まで震わせている親友を岳は安心させたかった。そして、大切な一人息子を託す相手として雪於から選ばれたことが何よりも嬉しかった。

 しかしながら、前途は多難である。養育については経済的な部分も含めて問題ない。ペルー共和国から日本へ移住するには様々な手続きが必要となるだろうが、これも難題の内には入らなかった。

 問題は雪於の息子がペルー共和国のどこで暮らしているのか、確認が取れていない点である。

 母と共に生活していた居宅に現在も住んでいるのか、それすら分からない。現地のツテを頼ろうにも、やはり、貧民街への立ち入りには難色を示されてしまい、有力な情報が得られていないというのだ。

 手紙などから手掛かりを抜き出し、現地に入って行方を追って欲しいと雪於は暗に促していた。それこそがファイルを差し出した意図なのである。

 これにはさすがの岳も途方に暮れた。気の遠くなる話とは、まさしくこのことだろう。

 腕利きの探偵でも苦労しそうな人捜しを、人探しの訓練を積んだわけでもない自分が独力で、しかも、海外で果たさなければならないのである。

 任せておけと請け負ってから大変な状況に陥ったと気付き、すっかり真っ青になってしまった親友の顔を雪於は愉快そうに眺めていた。


「お前にしか頼めないことなんだよ、岳。息子を……キリサメを助けて欲しい……」

「お前、それしかいわねーなよな! ……殺し文句を的確に使ってきやがらァ!」

「……私は営業マンだぞ? 殺し文句一つで今まで綱渡りしてきたんだ……」

「自慢かぁ、それ?」

「……ああ、そうだ。俺の自慢はお前という親友と、……見里とキリサメ――」


 結局、それが今生で交わした最期の会話となった。親友が息子のことを引き受けてくれて安心したのか、「思えば、果報者だな、私は」と微笑んだ直後に容態が急変し、そのまま作草部雪於は逝ってしまった。



 預かり物の額縁を壊してしまわないよう右手で柔らかく持ちつつ、振り落とされた特殊警棒を対の手で掴んだ岳は〝想い出〟より受け取った力をありったけ込めて反撃の蹴りを繰り出した。

 思いも寄らない筋運びに驚き、続けざまに腹部を蹴り付けられた相手は、ただ一撃のみで大きく撥ね飛ばされ、石造りの階段に転がったまま起き上がれなくなった。黄色いバンダナでもって覆われた口は苦悶の声と咳を壊れたように繰り返すばかりである。

 と揃いのバンダナで徒党を組んだギャング団――『ざるだん』の襲撃を撥ね退けている間に脳裏へ蘇った〝想い出〟こそ八雲岳が旧友たちの忘れ形見キリサメ・アマカザリに伝えなければならないことであった。


「弱肉強食の世界で苦しむのはもう終わりだ! ……オレと一緒に日本へ行こうッ!」


 それが地球の裏側を訪ねた本当の目的だった。そして、旧友の墓前でキリサメに「今日からオレがキミの父ちゃんだ」と語った理由である

 窓から顔だけを覗かせた貧民街の住人たちを当惑させるような大音声を張り上げる岳は大粒の涙を流していた。


「これからは誰かを傷付ける必要もない! キミが今日まで味わってきた理不尽な想いをオレが全部受け止める! 自分の心を軋ませる悲しい戦いはこれで最後だッ!」


 両親をうしない、本当の孤児みなしごとなって貧民街に取り残されたキリサメのことを八雲家で引き取る為、ガイドから愛想を尽かされても、NGO団体から危険極まりないという警告を受けても、岳は安全圏との境界である橋を渡り、暴力の渦中たる貧民街へ身を投じたのだ。

 船のオールたとえられるようにキリサメが振り回す〝仕事道具〟は木の板が本体ベースである。建物の壁にぶつかろうものなら軋み音を上げるわけだが、岳の耳にはそれがキリサメ自身の心から洩れる悲鳴のように聞こえてならなかった。

 木の板に散見される亀裂は小さな鉄片などを宛がって補強されている。無理を押して酷使するさまには傷だらけの魂が表れているようではないか。

 軋む得物を省みないことは、己の身を大切にしないことと同じであろう。


「雪於はな! キミの父ちゃんは息を引き取る寸前まで息子キミのことを捜し続けていたんだよ! 見里さんの訃報を知ってから、ずっとずっと……ずっとだッ! 息子キミを日本で引き取りたいって願って! そんなときに重い病に罹って……ッ!」


 少しでもタイミングを外せば手の骨を砕かれるような際どい攻防だが、物別れとなる前にニット帽のガイドが「ダンナは強い」と評した通り、八雲岳という男は戦士として高度に完成されていた。突っ込んでくる敵とは別の方向に意識を飛ばしているにも関わらず、打ち込まれてくる特殊警棒へ一度も直撃を許さないのだ。

 左右から挟み込むような形で特殊警棒を繰り出された際には僅かに退すさり、同士討ちまで誘うほどであった。

 互いの顔面を殴打してしまった二人の脳天へそれぞれトドメの肘を落とした岳は、次いで預かり物の額縁を天高く翳した。


「雪於の想いをオレが受け継いだんだ! だから、……だからッ! 今日からオレがキミの父ちゃんだッ!」


 自分のことを日本に引き取るという岳の言葉にキリサメは何も答えなかった。それどころか、一瞥をくれることもなく〝仕事道具〟を振るい続けている。

 今は戦いの最中なのだ。そして、これは人生を左右するほどに大切な話である。この窮地を切り抜けない以上、腰を落ち着けて語り合うことなど望めまい――キリサメがそのよに考えていると受け止めた岳は階段を駆け上がるような恰好で建物の壁を蹴り付け、これによって大きく飛び跳ねた。


「キリサメくんの――いや、オレたちの新たな門出を邪魔すんじゃねぇぜ!」


 跳躍の頂上から覆い被さるような体当たりを仕掛けた岳は、魂まで傷だらけになって生きてきたであろうキリサメを明るい未来へ導かんとする決意に燃えていた。


「オレは今ッ! モーレツにたぎってらァッ!」


 ハゲワシの如き滑空で標的を狙う空中殺法は南米メキシコで盛んな様式スタイルのプロレス『ルチャ・リブレ』でも見られる動作である。うつ伏せの状態で標的を押し潰した岳はすぐさま空中に戻り、今度は回転を交えて急降下していった。

 二メートル近い巨体に似合わぬ軽業だった。一〇〇キロを超える体重と落下の速度が合わさったなら圧し掛かられたほうは一溜まりもあるまい。しかも、鍛え上げられた筋肉は隕石さながらに頑強なのである。

 二度目の体当たりは背中から――というよりも尻から相手の顔面に落下し、身も世もない悲鳴もろとも押し潰した。口に出すことを躊躇ためらう部分が鼻に直撃しており、あるいは筋肉の弾丸以上に堪えたかも知れない。

 岳が試みる技はいちいち動作うごきが大きく、出で立ちとも組み合わさった奇抜さで人目を引いていた。物陰に隠れながら様子を窺っていた住民だけでなく、『ざるだん』のメンバーまでもがスポーツの試合を眺める観客のような歓声を上げてしまったくらいである。

 〝仕事道具〟を振るう度に戦慄が駆け抜け、目の当たりにする者の心を壊してしまうキリサメとは正反対ともいえるだろう。少年と戦うことになった無法者たちは悲鳴ばかりを絞り出すのだった。


「見たか、キリサメくん⁉ こいつはキミの未来に捧げる『超次元プロレス』のペルー特別興行だ! 『がくれりゅう』仕込みの忍法流れ星をたっぷりと味わって――」


 勢いよく上体を起こそうとしていた岳の目の前に〝何か〟が降ってきた。

 それは紛れもなく旧友ミサトの遺骨が納められたガラスの瓶である。空中に放り出されることなどあってはならない物だ。信じ難い事態に一瞬だけ呆けたように硬直してしまった岳は空いている左手を慌てて伸ばし、旧友を受け止めた。

 母の骨壺を放り出したキリサメは左の五指にて血まみれの男の頭部を掴んでいた。眉間に返り血が付着しているということは相手の髪の毛を掴み、動きを制したところに頭突きを見舞ったようである。

 右手一本で振るう〝仕事道具〟は別の相手を建物の壁に押さえ付けている。それだけでも相当な痛手を被ったのであろう。何しろ重量おもみのある石の板と壁に挟まれ、全身を強く圧迫されているような状況なのだ。トドメとばかりに蹴り倒すキリサメであったが、その前から男のほうは泡を吹いて失神していた。

 どうやら両手を使えない状態がもどかしくなって母の骨壺を岳に預けたらしい。だからといってガラスの瓶を放り出すなど言語道断だろう。それなのにキリサメ当人は「やっぱりキャッチしましたか」と、岳の反応に感心しながらもどこか他人事なのだ。


「バッ――割れたら取り返しが付かなかったろ! 大事な母ちゃんじゃねーか!」

「あなたなら何が何でも受け取ってくれると思ったので」


 その言葉に嘘はなかった。完全は警戒を解いたわけではないが、亡き母の為に祈ってくれた姿には確かに誠実さを感じたのだ。

 善人を装って甘言を弄する種類タイプでないことだけはキリサメにも理解できた。そのような人柄であれば旧友の遺骨は何が何でも守ってくれるだろう。脆いガラスの瓶を放り出したのは、ある意味に於いて信頼の証というわけであった。


「おーし! 任せとけ! キャベツの絵も骨壺もオレが引き受けた!」

「……ハチドリだって言いましたよね。耳が腐ってるんですか」


 嬉しそうに笑顔を弾けさせた岳ではあるものの、キリサメとは正反対に大事な荷物で両手が塞がった状態である。徒手空拳で戦う者にとっては極めて不利のはずだが、『超次元プロレス』とやらには大した支障にならなかったようだ。

 高く持ち上げた右足の裏で特殊警棒を受け止め、更に軸として据えていた左足を相手の足首に引っ掛けて横転させた。追い撃ちとばかりに腹部を踏み付けていると、別の敵が横薙ぎを繰り出してきたのだが、岳はこれを垂直に跳ねてかわし、続けて左右揃えた状態の足を勢いよく突き出していく。

 先ほどまで踏み付けていた相手の鳩尾にも急降下の勢いを乗せて肘を落とし、抜かりなくトドメを刺した。高い位置より放たれた肘鉄砲はただ一撃で呼吸困難を引き起こすほど強烈である。

 一連の流れに淀みはなく、無法者たちを次々と退けていった。未来への使命に燃える岳は攻撃の度に雄叫びを上げるほど気合いを漲らせていたが、その分、四肢が余計に力んでしまうということである。当然ながら額縁を持つ右の五指にもそれは伝わり、力が入り過ぎたと自覚した直後に不吉な音が鼓膜に届いた。

 残骸の下敷きになりながらも辛うじて割れなかったガラスに亀裂が走っていた。そればかりでなく、何が何でも守ると宣言したハチドリの絵を岳自身の親指が抉っていた。


「すまねぇ、キリサメくんッ! あのこれ……割れたトコは接着剤で誤魔化すとして、突き破っちゃった絵のほうはキリサメ画伯の力で何というか、無農薬で栽培したピッチピチのレタスだけに虫食いもビッシビシって感じの修正をだな――」


 あってはならないことを仕出かしてしまい、顔から血の気が引いた岳は襲撃者を全滅させたわけでもないのに土下座して詫びようとキリサメのほうに振り向いた。

 そして、その瞬間に凄まじい光景を目の当たりにした。


「どいつもこいつも……面倒だ」


 キリサメが立つ位置から向かって斜向かいに所在する一軒家は壁の大半が朽ちており、隣近所を見渡せるほどが良い。物資の少ない貧民街だけに建物の損壊のみを判断材料にすることは難しいが、おそらくは空き家であろう。人気ひとけのない内部を突っ切って敵の増援が前方に回り込もうとしていた。

 標的の追い込みを担っていた別働隊まで投入したようだ――が、これを見て取ったキリサメは両手でもって〝仕事道具〟のツカを握り締めると、くだんの建物を四隅で支える柱の一本に渾身の横薙ぎを叩き込んだのである。

 壁と同様に朽ちかけていた柱が重みのある一撃を凌げるはずもあるまい。脆くも中ほどから砕け散り、これによって支えの一つが喪失された建物はじゅうに耐えられなくなった。『ざるだん』を大勢巻き込みながら倒壊してしまったのである。

 貧民街では大して珍しくはないのだが、くだんの建物には屋根がなく、下敷きになっても身動きが取れなくなるだけで圧死することはなさそうだ。

 尤も、舞い上がった砂埃の只中で〝仕事道具〟を構え直すキリサメは仮に死傷者を出したとしても全く気に留めないだろう。

 建物の倒壊と共に飛び散った残骸が頭上に張り巡らされた無数の紐を切断し、そこに干してあった何枚もの布切れが彼に向かって殺到しようとする『ざるだん』へ覆い被さった。

 洗濯物であった布切れがドス黒く染まったのは、不意に視界を奪われて混乱する男たちにキリサメの〝仕事道具〟が叩き付けられた為である。

 布切れの下でもがく者の顔面を足の裏で潰すときにもキリサメの口から嗜虐的な笑い声が洩れることはない。〝何か〟の破断する音が鼓膜を打とうとも、背筋が寒くなるような悲鳴が上がろうとも、表情一つ変えないまま淡々と進路をいくのだ。


「雪於、見里さん……二人の倅は一〇〇年に一度の傑物かも知れねぇぞ……!」


 禍々しい〝仕事道具〟を携えたキリサメに同じ貧民街まちの人間が怯えた目を向ける理由が岳にもはっきりと理解できた。『暴力』という二字がヒトの形を借りて世に現れたとしか思えないのである。

 先程から横目で眺めていたが、この少年は凶悪極まりない〝仕事道具〟を振り回すばかりでなく体術にも長じているようなのだ。あるいは粗削りな武器術と併せて〝路上の喧嘩技〟ということなのかも知れない。

 建物の中で最も脆い一点を〝仕事道具〟にて砕くのと同じように人体急所を迅速且つ正確に穿つのである。重量おもみのある武器を振り落とした直後にはさすがに動きも鈍るのだが、これを狙って側面から攻め寄せてきた相手の目に迎撃カウンターの肘鉄砲を繰り出し、もがき苦しんでいるところへ追い討ちの蹴りまで見舞うのだった。これもまた延髄という危険な部位を打ち据えている。

 〝仕事道具〟で相手の首を脅かしたときなど岳は感心してしまったほどだ。

 相手の首筋にノコギリの如き刃を宛がうことで頸動脈を切断すると脅かしておいて、怯んだと見て取るなり首ではなく肩の肉を食い破り、次いで己のほうに勢いよく引き寄せて姿勢を崩したのである。

 上体が傾いた相手の顎を爪先でもって撥ね飛ばし、続けざまに〝仕事道具〟のツカを握る側とは反対の五指で喉仏を掴んでいく。握力のみで激甚な痛手を与えたのだろう。相手は決して少量とは言い難い血を吐きながら崩れ落ちていった。

 このようにキリサメの戦いは余りにも残虐だ――が、その荒ぶる力が岳には眩しくてならず、無意識の内に口笛を吹いていた。「誰かを傷付けなくたって良い世界」などと口では綺麗な言葉を並べておいて、凶悪の二字が最も似つかわしい暴力性に昂りを押さえられなくなってしまったのだ。それはもはや、極楽のようなビートを刻むときめきに近い。

 日本でも昭和の頃はこのように凄惨な喧嘩が珍しくなかった。

 昭和といえば高度経済成長期の印象イメージから明るく希望に満ち溢れ、郷愁を誘う夕焼けの色と共に平和な時代として語られることも多いのだが、その陰では乱世さながらに暴力の嵐が吹き荒んでいたのである。

 昭和末期に青春時代を過ごした岳自身も血の池を幾度も踏み越えていた。校内暴力や他校との抗争は言うに及ばず、指定暴力団ヤクザの構成員を相手に殴り合うことさえ日常の風景にすっかり馴染んでいたくらいだ。

 路上に溜まった血でスニーカーをもドス黒く染めていく少年に若き日の自分を――否、〝暴力の時代としての昭和〟そのものを重ねてしまったほどである。


「冗談じゃねぇぞ、このガキ! ウワサ以上じゃねぇか! 人間なのかよ!」


 岳には意味が通じなかったが、『ざるだん』の面々は背筋が寒くなるようなキリサメの猛攻に幾度もスペイン語で悲鳴を上げていた。

 同じ人間なのかを疑う声が洩れるのも当然であろう。キリサメは特殊警棒を殴打で弾き飛ばし、驚愕する相手の顎を同じ側の拳で突き上げた。鞭のようにしなる一撃を喰らった男は夥しい量の血を噴いて崩れ落ちたが、信じられないといった表情でかぶりを振っている。

 彼らが握りしめる伸縮式の特殊警棒は強化プラスチック製の盾すら砕くのだ。それにも関わらず、キリサメのほうは拳を痛めた様子でもないのだから、驚きの余り放心してしまうのも仕方あるまい。


「人を嬲り殺すのがそんなに愉しいのかよ⁉」

「嬲り殺しを愉しんできた人間の台詞だな、それ。……こんなことに何も感じないよ」


 キリサメが振り落とした〝仕事道具〟をくだんの特殊警棒で受け止めた男もいるのだが、腕力でもって押し込めれて膝を突き、抗っている間に自身の両腕が折れてしまった。悲鳴を上げる間もなく頭部に深手を負い、ついには意識まで断ち切られたのである。

 老朽化していたとはいえ、建物を支える太い柱をりょりょくのみで砕くなど人間業ではない。化け物としか表しようのない存在の相手が程度で務まろうはずもあるまい。

 その化け物に岳はすっかり酔い痴れていた。「暴力は良くない」という道徳的な戒めもキリサメが秘めた〝戦士〟としての潜在能力ポテンシャルによって押し流されている。新しい玩具を前にした子どものように瞳を輝かせた辺り、心の底より湧き起こる昂奮が全てを上回っているのだろう。

 隔世遺伝という言葉が岳の脳裏を駆け抜けた。亡き旧友は口より先に手が出る過激な性格だったが、息子のように化け物じみた身体能力までは備わっていなかったはずだ。しかし、彼女の父――つまり、祖父より受け継いだであれば得心がいくのである。

 何しろ東京の空を自由自在に飛び回った怪物なのだ。


(ダイヤの原石なんてモンじゃねぇぜ、こいつは! 磨けばどんな輝きを見せるか、想像できねェスケールだ! 間違いなく格闘技界を照らす太陽になるだろーぜッ!)


 路上の喧嘩を得意とするが格闘技のプロ選手として更生する瞬間に岳は何度も立ち会ってきた。無論、その全員がリングの祝福を受けられたわけではなく、〝裏〟の社会へ回帰せざるを得なかった者も知っている。しかし、キリサメならば道を誤るまいと彼には確信できたのだ。

 見る人の心に恐怖を刻むような暴力を振るう一方で、初対面の自分に礼節をもって接してくれた。亡き旧友の為に祈らせてもくれた。そして、今は無法者の集団に狙われた自分を見捨てずに一緒に戦ってくれているのだ。

 彼の母が健全な魂を注いだ証左あかしである。だからこそ、岳も善からぬ噂が付きまとうキリサメのことを真っ直ぐに信じられるのだった。

 暴力と忌み嫌われるその技も、彼ならばきっと輝けるモノへと昇華できるだろう。

 双眸を開いたままる白日夢など聞いたこともないが、蒼天そらを流れる叢雲の如く真っ白な指貫オープン・フィンガーグローブをめて戦場リングへ臨む少年の後姿まぼろしを岳は瞳に捉えたような気がした。


「――っと、今日のオレはスカウトマンじゃねェんだ。悪ィクセが角出しちまったぜ」


 特殊警棒とナイフの二刀流で突っ込んできた相手を肩からぶつかる体当たりで打ち負かした岳は己の短慮を恥じるように左手で頭を掻いた。

 右手に額縁を持つ彼は対の手で何よりも大切な物を――旧友の遺骨が納めらたガラスの瓶を握り締めていたはずだ。つまり、それを離してしまったということである。間髪を入れず足でもって受け止めたから大事には至らなかったものの、石造りの階段に落として割ろうものなら次は岳が〝仕事道具〟の標的となったに違いない。


(――今さら父さんって言われてもな……)


 一方のキリサメは〝仕事道具〟を垂直に立てることで胴を狙う特殊警棒を受け止めた。次いで地面に押し当てた先端を軸に据えて己の身を持ち上げると、相手の首筋目掛けて反撃の蹴りを繰り出していった。

 純粋な打撃ではなく、首に足先を引っ掛けた上で腰を捻り込み、その場に投げ倒す変則技である。着地の際に相手の鼻を爪先で蹴り飛ばすことも忘れなかった。

 そして、その激烈な攻撃の最中に岳より聞かされた話を反芻していく。

 岳が口にした作草部雪於という名前は以前に母から聞かされたものとも確かに一致している。〝父親〟といっても写真でしか顔を見たことがない。それも親子三人の肖像を切り取った物が一枚もない写真である。

 その写真も自宅が倒壊したときにアルバムごと失われてしまったはずだ。キリサメ当人も探した覚えがないので全く把握していないのだが、良くて瓦礫の下敷きか、暴風雨にさらわれて下界まで吹き飛んだか。

 くさゆきという声も知らぬ人物の遺志を継いで迎えにきたという岳の言葉は、キリサメに両親ふたおやを共にうしなった事実を突き付けている。だが、〝父〟がこの世の人ではないと聞かされても心には僅かな波さえ起こらなかった。

 十余年の昔に発生した日本大使公邸占拠事件で人質にされたことなど断片的な情報なら亡き母から教わっていたのだが、手と手を取って触れ合ったこともないような〝遺伝学上の父〟の死に何を感じれば良いのか。

 正直なところ、生存の有無も含めて父のことなど何の興味もなかったのである。


(……イライラして仕方ないな……)


 岳の話によれば母の訃報を知って自分のことを日本に引き取ろうとしたそうだが、それすらもキリサメには富める者による〝施し〟のように思えてならなかった。

 亡き父の遺志を継いだという岳の物言いさえ思い上がりと感じている。誰かを傷付けなくて済む世界にしか幸せがないと断言し、自分はそこから訪れた使者とでもいうような立ち居振る舞いは貧民街で暮らす人々を上から見下すのと同じではないか。

 貧しき者の目には富める者の傲慢としか映らなかった。上等な靴を履いて他人の領域に入り込み、分厚い札束を餌に〝道〟を作ってやると一方的に言ってきたわけだ。

 カネを持つ側は持たざる側と比べて全てに於いて優れていると示したいのだろうか。

 弱肉強食の世界でしか生きられない貧しき者には、そもそも〝道〟を作るという選択肢すら用意されないのだ。生まれ落ちた場所が貧民街であったなら、そこから抜け出す可能性さえ与えられず、明日をも知れぬ〝闇〟の底を這い回るしかないのである。

 確かに母の存命中は現在いまよりも遥かに穏やかな日々を送っていた。倒壊する前の自宅で寝起きし、同じ年の友達とも楽しく遊んでいた――富める者と貧しき者の境界をキリサメは知っているのだ。それ故にどちらが幸不幸と分けることもない。

 ただそこに〝現実〟が横たわっているだけなのである。


「――生まれ育ちで幸せになる権利が決まるなんてことは絶対に有り得ない! ……生き続ける限り、いつか絶対に幸せだって噛み締める瞬間がやって来るッ!」


 昨年七月――大規模な反政府デモで混乱するリマを訪れた日本人記者は身辺警護ボディーガードのキリサメに幸せを享受する権利について語っていた。

 命の危険を冒してまでペルーの〝現実〟に迫った記者の言葉には耳を傾けるだけの価値もあったが、だからといって彼女が語った資格とやらをそのままれるつもりはない。

 貧しき者は何があっても幸せになどなれないことをキリサメは厭というほど思い知らされてきたのだ。それなのにくだんの資格を押し付けてくる富める者の傲慢に神経を逆撫でされて仕方ないのである。


「あっ、そうだ! キリサメくん、食べられないモンとかある? 料理メシは娘の担当なんだけど、さきに聞いといたほうが良いよな! ちなみに歓迎会はカレーすき焼きにしようと思ってるんだけどさ!」

「……いい加減、うざったいんだよ……」


 日本語で紡がれた岳の言葉に対して、キリサメはスペイン語で悪態をいた。

 相手が岳でなかったなら「自分が導いてやる」とから物を言う日本人など〝仕事道具〟で叩き伏せていたかも知れない。そのような態度の人間にキリサメは殺意を覚えるのだ。

 周辺の建物の壁を抉りながら〝仕事道具〟を振り回すキリサメは、異常なほど殺伐とした気配に圧倒されて立ち尽くす敵の胸部へ得物の先端を突き込んだ。ノコギリ状に並ぶ刃も先端そこにはめ込まれていないので完全な鈍器となるのだが、殺傷力に遜色はない。

 ましてや苛立ちが宿った攻撃には過剰なほど力が加えられており、撥ね飛ばされた男は前方の建物に激突すると壁を突き抜けて内部に転がっていく。屋内なかでは住人たちが声を殺して騒動さわぎの終息を待っていたようで、幾つもの悲鳴が路地を貫いた。


「……次は誰だ?」


 〝仕事道具〟を肩に担ぎながら土煙の向こうより現れたキリサメの姿は、残存する『ざるだん』には悪魔ディアブロのように見えたことだろう。少年が全身から漂わせるおぞましい気配に怯んだ無法者たちは呻き声を引き摺りながらあと退ずさりし始めた。

 戦意が挫けた以上、『ざるだん』も包囲網を維持できないだろう。これを見逃すわけにはいかなかった。


「……そろそろフルマラソンに戻りますよ」

「オッケー! 旅立ちの景気付けに一発かましてやろうじゃねェの!」


 キリサメから正面突破を呼び掛けられた岳は、悪戯を思い付いた子どものような無邪気さで口の端を吊り上げると預かり物を左脇に挟み、背広の内ポケットからアルミ製と思しき容器を取り出した。

 小振りな水筒のようにも見える容器の蓋を右手一つで外した岳は、次いで石造りの階段に少量の液体を振り撒いた。そこに火の付いたマッチを放り投げたのは、何事かと飛び退いた『ざるだん』の一人がペルーの言語ことばで「油だ!」と叫んだ直後である。

 果たして、液体が撒かれた場所から猛烈な火柱が立ち、バンダナの巻かれた顔に灼熱の光が浴びせられた。

 火柱が立ったのは一瞬だけであったが、後方に残存している『ざるだん』の目をくらませるには十分である。これによって追撃を牽制した岳は唖然としているキリサメを促して再び階段を駆け下り始めた。


「こんなこともあろうかと仕込んどいて正解だったぜ。『さなにんぐん』に隙はナシってな」


 岳当人だけが楽しそうに笑っているが、そもそも『サナダニングン』という言葉の意味が分からないキリサメは、恐怖に引きった顔で道を開ける無法者たちに冷たい眼光を浴びせながら首を傾げた。


「……下手に延焼したら大火事になりますよ。これだけのバラックが固まってる場所なら丸ごと全滅も有り得るんですが……」

「心配すんなって。燃え移らないよう油の量も調整して撒いたから気前が良いのは一瞬だけさ。後はチロチロ弱火になってすぐに消えるよ。でも、ワケ分かんねェ術を不意打ちで見せられた連中は正気じゃいられねェ」

「心の乱れは足並みの乱れってことですか」

「これぞ『とんじゅつ』の真髄でござる――ってな!」


 岳の放った炎が『とん』と呼ばれる忍術であることをキリサメが知るはずもない。

 首を振り向かせてみると岳が述べた通り、近くの建物へ飛び火することもなく炎は消えようとしていた。『ざるだん』もまたその場で立ち往生している。リーダー格の指揮を欠いた状況でもあるので暫くは狼狽から立ち直れないだろう。


「いっけね! あんま目立つ真似すんなって釘刺されてたんだっけ!」


 これ以上ないくらい人目を引いておきながらとぼけたことを言い出した岳にキリサメは唖然と口を開け広げた。そのような台詞を吐く前に自分の出で立ちを鏡で確かめるべきだろう。


「……変な恰好してると思ってましたが、本業はマジシャンなんですね」

「広い意味では遠からず。ま、そこら辺は――」

 自分のことに興味を持ってもらえたのが嬉しくて仕方ない岳はだらしなく頬を緩めた。

 しかし、それも一瞬のこと。綻ばせた口元を呻き声と共に引き締めたのである。

 進路上の掘っ立て小屋の壁に開いたばかりと思しき不自然な裂け目があり、そこから覗いている銃口を発見したのだ。


「やべェッ! キリサメく――」


 回避を呼び掛けようとしたときには既に遅く、貧民街の空を再び銃声が切り裂いた。

 銃口は間違いなくキリサメを狙っていた。それが証拠に銃弾は彼が立っていた空間を一直線に貫き、岳の真横を通り過ぎていったのだ。流れ弾は後方で右往左往していた『ざるだん』の一人に命中したようだが、それは自業自得というべきであろう。


「おいおいおいおい、マジかよッ!」


 岳が双眸を見開いて驚愕するのも無理からぬことであった。撃ち放たれた銃弾は確かにキリサメが立っていたを切り裂いたが、当人を捉えて貫通したわけではない。

 岳の隣で大きな〝仕事道具〟を担いでいたはずの少年は影も形もなかった。先程まで交わしていた言葉こそが実は白日夢だったのではないかと錯覚したほどである。

 無論、本当に蜃気楼の如く掻き消えたわけではない。影は岳が見失っただけであって、実際には地面に落ちていたのだ。これに気付いて天を仰いでみると、曲芸さながらの平衡感覚と称えるべきか、木の電柱の頂点にキリサメは一本足で屹立していた。

 一体、いつの間に地上から飛び移ったのか――岳は人並み以上に五感の働きには自信がある。ほんの微かな情報さえ漏らさない為の修練を積んできたのだ。それにも関わらず、キリサメの動きを全く捉えられなかった。映画のフィルムでたとえるなら自分の真隣から電柱の頂点へ移る瞬間までのコマが丸ごと抜け落ちてしまったようなものである。


には伝説って呼ばれるくらいだし、実はアマカザリ家には『しゅく』の秘術でも伝わってるのかも知れねぇなァ! ますます凄ェよッ!」


 一等昂った様子で破顔したことからも察せられる通り、刹那を超越したとしか思えないキリサメの速度はやさが岳には瞬間移動のようにしか思えなかったのだ。


「――ここを抜けるとボロ市みたいな場所があります。そこで待っていてください」


 岳に向かって合流地点を指示するや否や、キリサメは眼下の一点へ〝仕事道具〟を投擲した。どうやら二人の居る場所から僅かに離れた地点に狙いを定めているらしい。それから五秒と経たない内に数軒先で重みのある轟音おとと甲高い悲鳴が上がった。

 見晴らしの良い高所から視認したということは、キリサメの狙いは銃撃を加えてきた者であろう。

 鼓膜を打った悲鳴は年若い少女のものである。さしもの岳もこれには顔を顰めた。


「ちょい待った! オレも行くぜ! 銃持った相手に一対一サシで行くのはキツいだろ!」

「神出鬼没なんですよ、『ざるだん』は。どこに伏兵がいるとも限りません。そっちをお任せします。……アテにしていますよ」


 身を乗り出そうとする岳を制したキリサメの声は、全力疾走直後のように酷く疲れていた。荒々しく暴れている間は呼吸が乱れていなかったはずだが、ほんの僅かな静止の間に疲弊が押し寄せてきたのだろうか。


「くれぐれもお手柔らかにな~!」


 背中を追い掛けてきた岳の言葉には何も答えず、キリサメは電柱から掘っ立て小屋の屋根に飛び移り、次いで〝闇〟の底とも呼ぶべき狭い路地裏へと吸い込まれていった

 できることなら年若い子どもたちが血みどろの戦いを繰り広げるような事態だけは避けたい――敵の追手を迎え撃つという役割を無視してでもキリサメを追い掛けたかったが、「アテにしている」という言葉に岳は滅法弱い。こうなっては路地裏へ逃れたと思しき者が再起不能のような重傷を負わないことを祈るしかなかった。

 その岳は先程と同じように白日夢めいた幻を瞳に捉えている。

 腰に巻いたレインコートの裾や、そこに挟み込んである麻袋が風に靡くさまは獲物に狙いを定めて滑降していく猛禽類とりの尾羽根のようであり、同じ輪郭を描く出で立ちで戦場リングに飛び込む後姿がえたのだ。幻聴でしかないのだが、キリサメの名を称える歓声までもが脳裏に響いている。


「オレたちの戦場リングにナンパしちまおっかなァ。各方面から怒られっかなァ~」


 不意に洩れた呟きを引き摺りながら合流地点を目指す岳は、妄想と切り捨てるにはやけに現実感の強かった白日夢を振り返って頬を緩めた。

 キリサメ・アマカザリという少年が秘めた〝戦士〟としての潜在能力ポテンシャルは岳の眼力をもってしても底が見えなかった。


 岳が尾羽根の長い鳥のように錯覚したキリサメは、真夏の南米でありながら暗く冷たい風が吹く路地裏に降り立った。太陽が照り付ける昼下がりにも関わらず、殆ど光が差し込まない場所なのだ。その上、石造りの階段が伸びる〝表〟の通りと比べても遥かに狭い。

 剥き出しの地面には種々様々なゴミが散乱し、すぐ近くには餓えて力尽きたものと思しき犬の死骸も横たわっている。陽の光が遮られている為に遠くまで見通すことも叶わないのだが、どうやらの死臭も垂れ込めているようだ。

 キリサメが振るう〝仕事道具〟は吐き気を催すようなゴミの山を穿ほじくり返す形で大地に突き刺さっていた。

 その傍らに一人の少女がへたり込んでいる。突如として上空より飛来した異形の武器に行く手を阻まれ、戦慄に腰を抜かしてしまったようだ。

 丁度、ゴミの上に尻餅を付いており、視界に入っただけで気分が悪くなるような液体が着衣へ染み込んでいくのだが、それすらも感じ取れないほど狼狽うろたえているらしい。

 日本人らしい顔立ちと、何より顔に巻いた揃いのバンダナから『ざるだん』の構成員ということは疑う余地がなかった。

 驚いた拍子に手から滑り落ちてしまったのだろう。ノコギリ状の刃を地面に食い込ませた〝仕事道具〟の近くには一挺の自動式拳銃ハンドガンが投げ出されていた。

 動物の物か、それともか――暗がりで判然としない骨が散らばっている地面から自動式拳銃ハンドガンを拾い上げたキリサメは、暴発防止の安全装置セーフティが解除されていることを確かめると、僅かな逡巡もなく右の人差し指を銃爪ひきがねに引っ掛けた。

 いずれの動作も慣れた手付きで速やかに行われていく。自分と大して年齢も変わらないであろう少女に銃口を向けることにさえキリサメは何も感じないようだ。あるいは身のうちを突き抜けた衝動が躊躇ブレーキというものを壊したのかも知れない。

 瞼が半ばまで閉じた双眸の奥では秒を刻む毎に冷酷さが研ぎ澄まされていく。


「……あの警棒やこの自動式拳銃ハンドガンはどうやって調達したんだ? お前たち、『例の組織』と吊るんでいるのか?」


 乱れた呼吸を整えつつ、キリサメはスペイン語でもって眼前の少女に問い掛けた。仮に岳がこの場に居合わせたとしても質問の内容が理解できなかったはずだ。

 少年が紡ぐ言語ことばではなく何を質しているのか、それ自体が余人には分からない。

 しかし、少女には『例の組織』という抽象的な言い回しだけでも十分に通じたようだ。恐怖で引きる顔が更に歪んだことが回答こたえである。

 乱戦の最中、『ざるだん』の構成員は〝仕事道具〟を振るうキリサメを見つけるなり『例の組織』を潰すような少年といった旨を叫んでいたが、そのことにも結び付いたのだ。


「……・ルデヤ・ハビエル・キタバタケという名前に聞き憶えがあるか」


 一つの名を挙げたキリサメの声は、鋭くも虚ろに響いている。


「去年七月のデモのときだ。『例の組織』から調達した武器の隠し場所までを無理矢理引っ張っていった集団がいると聞いた。それはお前たちか?」


 キリサメの言葉へ耳を傾けている最中、地面に突き刺さったままの〝仕事道具〟が視界に入った『ざるだん』の少女は這いつくばるようにしてに取りすがり、勢いよく引き抜こうとした。

 自らも相手の武器を奪って反撃に出ようとしたらしいが、ツカを握り締めて四肢に目一杯の力を入れても全く動かすことができず、とうとう尻餅を付いてしまった。見た目だけなら船のオールにしか思えないのだが、内側に石の板を二枚も挟んでいるので非常に重く、生半可な筋力では持ち上げることすら叶わないのである。


、『エクセルシス』ってなまえなんだ。前の持ち主は聖なる剣だなんて言ってたよ。そういう剣は選ばれた人間しか抜けない――って、アーサー王の伝説か何かで聞いた憶えがあるけど、……あんたは聖剣から弾かれたらしいな」


 中世ヨーロッパに端を発する聖剣伝説を例に引いたキリサメは、近代を象徴する武器とも呼ぶべき自動式拳銃ハンドガンで少女の眉間を狙い続けている。


「キ、キタバタケって人が手を回したことは知ってるわ! 『ざるだん』も七月のデモには加わったけど、銃器とかはそのときに譲られたんじゃない! デモで使われずに余った分を買い取っただけなのよ! なんて人だって聞いたこともない! 本当よ!」


 反撃の手立てもなく、恐慌をきたしたらしい『ざるだん』の少女は先程の質問に対して矢継ぎ早に回答めいたことを並べていく。言い訳がましくはあるものの、この期に及んで嘘がけるとも思えず、口から飛び出すのは全て事実であろう。

 しかし、そこにキリサメを満足させるものはなく、僅かに開いた口から徒労を慰めるような溜め息が洩れるのみである。

 それ故に――というべきか、自動式拳銃ハンドガンの銃口は一瞬たりとも眉間から外れなかった。洗いざらい話せば見逃して貰えると信じていた少女の顔はたちまち絶望に歪んでいった。

 眠そうな双眸が大して変わらなかったことも恐怖を掻き立てている。つまり、この少年はに慣れ切っているわけだ。


「……命乞いした人間を『黄猿団あんたたち』は今までどうしてきた? 僕の耳は飾りじゃない」


 こんな場所では戦う力を持たない人間から先に死ぬ。ただそれだけのこと――そう吐き捨てるキリサメに『ざるだん』の少女は言い返すことができなかった。

 〝表〟の通りに於ける乱戦の際に相手の頸動脈をノコギリの刃で断ち切らなかったのは傍に岳が居たからである。母の旧友の前で暴力の〝掟〟に従うことをはばかり、首筋を食い破る寸前で踏み止まったのだ。


(……母さんの遺骨、あの人に渡しておいて正解だったな……)


 心の中でどこか他人事のように呟いた瞬間、キリサメの脳裏を一つの幻が掠めた。

 新聞紙で覆われた少女の亡骸が、目の前で全身を震わせる少女と重なった。それでもキリサメは顔色一つ変えず、銃爪ひきがねに引っ掛けた指を外そうともしなかった。


死神スーパイ――」


 少女の叫びは執拗ともいえるくらい連なった銃声に咬み砕かれ、呆気なくついえた。

 火を噴かなくなった自動式拳銃ハンドガンを無造作に放り捨てたキリサメは地面を塗り潰していくドス黒い液体から避けるように〝仕事道具〟を――『聖剣エクセルシス』を右手一本で引き抜き、付着していたゴミを振り落とすと麻袋の中に仕舞った。

 その間にも銃声を聞き付けた人間が路地裏へ駆け込んでくることはなかった。投げ捨てられた生ゴミを貪っていた野良猫が驚いて逃げ出した程度であろう。

 〝こんな場所〟では発砲も人の死もありふれたものであり、いちいち構っていては身がたないのである。


(……なけなしの人間性にすがろうとでもしたのか? そんなことしたって、もう何も取り戻せないだろ、キリサメ・アマカザリ……)


 銃爪ひきがねを引く間際に現れた幻を想ったキリサメは、虚ろな眼光を引き摺りながら死臭に満たされる裏路地を後にした。物言わぬむくろが靴音を跳ね返したが、このような〝闇〟の底に〝人間らしさ〟を置いてきた少年が血の臭いに首を振り向かせることなどない。

 あのやかましい偉丈夫が新たな騒動さわぎを起こす前に合流しなければならないのだ。


(――今、僕は何を……)


 我知らず岳の待つ方角へ足を向けていたことにキリサメは声を失った。

 彼が引き継いだという父の遺志へ付き合う理由はない。富める者の傲慢など黙殺して集合墓地に帰るべきだ――それなのに、今、自分はどこを目指そうとしたのか。

 岳に母の遺骨を預けたままという状況は関係なかった。そのようなことを思考に挟むまでもなく合流地点へ意識が向かったからこそキリサメは愕然としたのである。

 この足を進めた先には亡き両親が生まれ育った日本への道が開かれている。自分でも意識していないことだが、この身を形作る血肉が起源ルーツを辿りたいと欲しているのか。


「……それならそれで、別に良いか……」


 別に故郷ペルーに未練があるわけでもない。母の遺骨さえ持っていけるのなら根城はどこでも構わないのだ。

 もはや、『ざるだん』との抗争が避けられない状況となった現在いま、ほとぼりが冷めるまで高飛びしてしまうのも悪くないだろう。日系人のコミュニティとしてはそれなりの規模を持つものの、地球の裏側まで追い掛けてくるような力は備えていないはずである。


「――例えどんなことがあっても、……どんなことをしてでも、あなたは絶対に生き残りなさいッ! キリサメ! 生きろッ!」


 壁の裂け目より撃ち込まれた銃弾を視認した瞬間に脳裏へ蘇った声も、おそらくはそれを望んでいるのだろう。ならば、語り得ぬ衝動に身を委ねるしかあるまい。


 貧民街を一直線に貫く石畳の階段を抜けていくと傾斜もなだらかになり、やがて平らに開けた場所へ辿り着く。広場そこには粗末な布を天幕代わりに張っただけの露店が路上市場のように立ち並んでおり、がねいろの炭酸飲料といった品物が売り出されていた。

 強盗からすると格好の餌食であろうが、貧民街の中でも元手を工面できる住人が下界から仕入れてきた品物を誰の許可を得るでもなく勝手気ままに陳列しているのだ。盗品と思しき物も叩き売りする露天商も一人や二人ではない。

 真っ当に見える店がごく一部の為か、他所よその真似事にしか見えない路上市場の近くでは他の住民たちが輪を作るように座り、談笑しながら何かを繕っている。

 薄手のポンチョを作っているようだが、露店に並ぶ炭酸飲料にも似た奇抜な色合いからして謝肉祭カルナバルのパレードで使う衣装ということは間違いあるまい。

 すぐ近くには頭部を完全に覆うほど大きな被り物が置かれている。昨年から今日まで仕舞い込まれていた物を虫干しの為に引っ張り出してきたようだ。前面にはグロテスクなくらい誇張された顔が描かれているので幾つも並ぶと生首のように見えて薄気味悪い。

 不可思議な空間と化した広場でようやく岳に追い付いたキリサメであったが、そこに新たな問題の発生を確認して思い切り顔をしかめた。

 集団で襲っておきながら、たった二人に打ち負かされたことで『ざるだん』は追撃を諦めたらしいが、彼らと入れ替わるようにして今度は数名の制服警官が岳を取り囲んでいるではないか。

 疲れたように溜め息を吐くキリサメの姿を見つけた岳は自分が置かれた状況も忘れて嬉しそうに両手を振った。どうやら二つの預かり物も無事に守り抜いた様子である。


「そっちのケリはついたみたいだな。あれから何度も銃声が聞こえてきたけど、どこか撃たれたんじゃねぇだろうな? ヤセ我慢みたいな水臭い真似は要らないぜ!」


 歩み寄ってきたキリサメの身体から硝煙を嗅ぎ取った岳は、どこかに銃弾を受けたのではないかと心配そうに身を乗り出してきた。

 ここまで銃声が届いたのか、それとも五感に自信がありそうな岳の耳だけが聞き取れたのか――敢えて確認しなかったものの、銃爪ひきがねを引いたのがキリサメではないと頭から信じ切っていることだけは理解わかった。

 わざわざ物騒なことを聞かせる必要もないので全身をねぶるように凝視してくる顔を押し退け、下手な鉄砲は数を撃っても命中しないと適当に誤魔化した。これを疑いもしない間抜けさには心の中で「やっぱり日本人は脇が甘い」と皮肉を吐いている。

 裏路地にて轟いた銃声は、やはり岳の耳だけが拾っていたようである。不吉な音が鳴り響いた方角より姿を現し、尚且つ不審な麻袋を肩に担いだキリサメに制服警官たちは一瞥もくれず、金糸の刺繍でもって陽の光を跳ね返す陣羽織の偉丈夫だけに何事かを言い立てているのだ。


「……今度は何をやらかしたんですか」


 そこまで岳にたずねてからキリサメは自分こそ大間抜けではないかと眉間に皺を寄せた。ペルーの言語ことばが通じない岳には現地語を使う制服警官たちが何を喋っているのか、全く分からないはずなのだ。案の定と言うべきか、たずねられた本人は弱り顔で肩を竦めるばかりである。

 仕方なくキリサメのほうから制服警官たちが喋っている内容を聞き取ると、彼らは岳のことを放火魔と呼び付け、事情聴取の為に同行を求めているようだった。

 納得したように首を頷かせたキリサメは「放火の容疑が掛けられているみたいですよ。誰かが通報でもしたんでしょう」と日本語でもって岳に告げた。


「もしかして、とんの術か⁉ でも、あれはすぐに消えるよう調整したんだぜ! お巡りさんたちの目は節穴かよ⁉ ボヤ騒ぎだって起きてねェってのに!」

「あなたの頭の中にある工夫なんか知ったこっちゃありません。周りの目には付け火にしか見えませんよ」


 自分が重罪の容疑者になっていることをようやく認識した岳の額から猛暑とは別の原因で大粒の汗が噴き出したのは言うまでもあるまい。忍術云々はさておき、正当防衛という釈明が通用するかも怪しいのだ。

 考えるより先に身体が動くタイプの岳も日本から遠く離れた異境で逮捕されることの深刻さは理解しているのだった。


「シャレになんね~ぞ、こりゃあ! このまま逮捕パクられちまったら、『天叢雲アメノムラクモ』のみんなに合わせる顔がねぇぜ!」

「……アメノムラクモ?」


 岳が口走った言葉が具体的に何を指しているのか、少しとして分からなかったキリサメは我知らず眉根を寄せていた。

 『天叢雲アメノムラクモ』――心の中で反芻した意味不明な言葉は、八雲岳という男の〝本業〟と何らかの形で結び付くのだろうか。

 不思議と興味を引かれてしまう言葉であったが、今はそのことを岳にただしていられるような状況ではない。日系人ギャング団の次にやって来た窮地より脱することが何より求められているのだ。

 尤も、キリサメ自身は大した難題とは思っておらず、慌てふためく岳と比べて少しも動じていないのである。この場所から極端に離れているわけでもない裏路地で幾度も幾度も銃声を響かせたばかりの人間とは思えない落ち着きようであった。


「日本までの路銀を残して、どれくらいカネを持ってます?」


 財布の中身を探るかのようなキリサメの言葉に閃くものがあった岳は、ほんの一瞬だけ複雑そうな表情を浮かべたのち、「さっきも言ったろ? 『さなにんぐん』に隙はナシだぜ」と頷き返しながら何とも例え難い気持ちを飲み下した。

 次いで岳は広場の片隅に打ち捨てられていた三輪自動車の屋根へ飛び乗った。

 制服警官だけでなく露店を覗いていた人々の視線が自分に注がれたことを見極めると、キリサメから預かっていた額縁を左脇に挟み、財布とは別に非常用として陣羽織の内側に隠し持っていたペルーの紙幣を右の五指にて取り出した。


「即興忍法ネズミ小僧の術! 文字通りの出血大サービスだ! 持ってけ、泥棒~!」


 江戸時代の伝説的義賊にちなんだ忍法とやらを叫ぶや否や、岳は右手に掴んでいる札束を宙に向かって盛大に放り出した。それも一枚や二枚ではない。札束二つ分の一ドル紙幣を大盤振る舞いでバラ撒いたのである。

 正常まともな警官ならば捜査のかく乱が目的ねらいではないかと疑い、激昂して手錠を取り出してもおかしくないのだが、岳を放火魔と呼び付けていた者たちはあっさりと職務を投げ出し、砂埃の入り混じった風に舞い上がる紙幣を追い掛け始めた。

 制服警官だけではない。広場に居た人々も先を争って紙幣に飛び付き、一枚でも多く掴み取ろうと地べたに這いつくばっている。

 紙幣カネがバラ撒かれたことはたちまち周辺にも知れ渡ったようで、建物の中で息を潜めていた者までもが血走った眼で殺到し、土煙の只中にて小さな紙切れを奪い合った。

 完成寸前だったポンチョも巨大な被り物も――謝肉祭カルナバルの支度は全て放り出され、滅茶苦茶に踏み付けられている。おそらく当日には間に合うまい。数秒と経たない内に何もかも引き裂かれてしまった。

 仮装行列パレードや乱痴気騒ぎの印象イメージが先行してはいるものの、謝肉祭カルナバル自体はキリスト教の行事である。それにも関わらず、目先の紙幣カネ飢餓ひもじさの前では信仰心すら壊れてしまうらしい。相応の時間を掛けてきたであろう支度が台無しになっても、これを叱り飛ばす人間は誰一人として居ないのだ。


「……世の中、カネとは言うけどよォ……」


 取っ組み合いの喧嘩まで始めた貧民街の人々を悲しげな表情かおで見つめながら三輪自動車の屋根より飛び降りた岳を「さすがに一〇〇ドル札の大放出みたいな真似はできないんですね」という軽口とも皮肉とも取れるキリサメの声が出迎えた。


「変な表情かおしてますね。あなたが気にすることはありませんよ」

「しかし、アレはどうなんだろうな。お巡りさんたち、オレの逮捕はもう良いのかよ」

「……あなたに放火容疑を掛けた警官が強制的に連行しなかったのを不思議には思いませんでしたか?」

「ペルーの言語ことばが通じない日本人の扱いに困って立ち往生してたんじゃねェの?」

「ヤツらは容疑の内容を騒ぐことで賄賂を要求していたんですよ。ここまで派手な真似しなくても一〇〇ドル札でも握らせてやれば無罪放免でした。……ペルーの警察官にはそれも大事な収入源ですから」

「気にするなっつったのはそういうワケね……」


 キリサメの説明に得心が行ったらしい岳は何ともたとえようのない溜め息を吐いた。

 現地リマの情報を提供してもらったNGO団体にも教わったのだが、ペルーの警察組織は正義という二字が機能しないほどに腐敗し切っているという。キリサメが語ったように末端の制服警官の間では賄賂などが常態化しているのだろう。

 キリサメも薄汚い腐敗を踏まえた上で紙幣カネのバラ撒きという脱出策を促したのである。

 仮に裏路地で他殺体が発見されたとしても、秩序の番人を名乗ることすらおこがましい汚職警官は現場検証すらまともに行わないだろうとも彼は確信している。


「最近、警察の長官が交代して改革が進んでるって聞いたんだけどなァ」

「首のすげ替えが終わったのは国家警察ですよ。……前の長官は国民の〝間引き〟を企んだ上に汚職がバレて追い詰められたんですけどね」

「いずれにせよ、……あんまり気分の良いモンじゃねェよ」


 放火容疑を打ち消す為には仕方なかったとはいえ、岳は浮かない顔である。

 貧困に喘ぐ人々の横っ面を札束を引っ叩いて言うことを聞かせたようなものなのだ。

 〝表〟の社会まちの大通りと貧民街を隔てる橋の上で旅行客が危険な区域に立ち入らないよう睨みを利かせる軍人をやり過ごした際には岳も〝袖の下〟に頼ったのだ――が、同様の手段によって創り出された目の前の場景には心が軋んで仕方なかったのである。

 それはまさに貧困の縮図と呼ぶべきものであった。目を背けたくなるような貧富の格差を自らの手で浮かび上がらせたとしか思えず、良心の呵責に苛まれているのだった。


「今の内に行きますよ。警官の気が変わったら支払いが追加になるかも知れませんし、物乞いに囲まれたら厄介です」

「お、おう……」


 キリサメから促された岳は、とにもかくにも広場を離れようと足を動かし始めた。その間にも何度となく貧民街の住人とすれ違ったが、彼らの目当ても赤茶けた大地に散乱する紙幣カネであった。

 恐る恐るといった調子で首を振り向かせた岳の目には、一ドル紙幣に群がる人々の姿がちょうそうのように映っている。


「どっちみち、なァ。これじゃ娘の浪費癖を叱れねェぜ」

「強盗にられるよりマシでしょう。保釈金として考えたら、むしろ安いんじゃないかと思いますよ。一ドル札だってカネはカネだ。広い意味では人助けですよ」

「人助けってさァ、もっと晴れやかな気持ちになるモンじゃねェかな~」


 大罪でも犯したかのような面持ちで俯き加減となった岳をキリサメは当てこすりを交えて慰めた。

 キリサメは今日を最後に二度と戻らないだろう故郷を振り返ろうともしなかった。

 生まれ育った場所への感傷などキリサメは僅かとて持ち合わせていない。母の遺骨さえ無事に持ち出してしまえば、この地で守っていくモノなど何も存在しないのである。

 キリサメが故郷ここを去っても惜しむ者など誰もいない――それが全てであった。


「とりあえずはそう――さっきも話した国家警察のオフィスに行きましょうか」

「この期に及んで自首を勧めようってか⁉」

「いえ、国家警察にはちょっとした知り合いが勤めているので、頼み事をしておきたいんです。……日本へ移住する手続きとか助けてくれると思うので……」


 その言葉を聞いた瞬間、暗く沈んでいた岳の顔がこれ以上ないというくらいの喜びに塗り変えられた。

 亡き父の遺志に従うことをキリサメが初めて示したのである。


「よーしよしよしよしッ! すぐ行こう! 速攻で行こう! そんでもって今夜は盛大に宴会と行こうじゃねぇかッ! パ~ッと前夜祭だァッ!」


 昂奮を抑え切れないらしい岳に何度も背中を叩かれ、迷惑そうに顔をしかめるキリサメではあるものの、今ではコロコロと表情を変える偉丈夫のことを憎み切れなくなっている。

 富める者の無神経さが癪に障る瞬間ときがないわけでもなく、「今日からオレがキミの父ちゃんだ」などと押し付けがましく名乗られることは不愉快なのだが、彼が誠実な人間ということは十分過ぎるほど伝わっている。

 出逢ってからまだ数時間と経っていないというのに、キリサメの中で八雲岳は信じられる大人になっていたのだ。


「……よく分からない人ですね、がくは……」


 「類は友を呼ぶ」ということわざが示す通り、亡き母も彼のように豪快に笑い、感情表現も桁外れに豊かであった。性別こそ違えども似た者同士と言えなくもないのである。


「つーか、オレのこと、『がく』って呼ばなかったか? やめろよ~、そんな他人行儀な呼び方は~! これから家族になろうってんだから、もっとフランクに行こうぜ、フランクによぉ!」

「僕なりに敬意を払ったつもりなんですが、お気に召しませんでしたか」

「そうだ! オレが手本を見せなくちゃ申し訳ねぇな! お前のことは『キリー』って呼ばせてもらうぜ! ペルーの友達にもこの愛称ニックネームで呼ばれてたんだよな!」

「会話になってないし、あんまり馴れ馴れしくされると迷惑です」

「馴れ馴れしくってイイんだって! こーゆーの、オレはウェルカムだからよ! 馴れ馴れしいっつったら、アレだな、日本でも友達たくさん作らねぇとだな!」

「……会話になってない」


 やがて二人の瞳が貧民街ここより〝向こう〟へ渡る橋を捉えた。サン・クリストバルの丘を目指す為に岳が渡った橋である。岳をに送り出してくれた見張りの軍人も先程と同じ場所に立っている。

 弾んだ足取りで先を行く岳の背中を見つめながら歩を進めていたキリサメは、橋のたもとへ至ったとき、不意に立ち止まってしまった。

 自動車のバッテリーや自転車といった廃棄物が不法投棄され、鼻を刺す異臭が垂れ込めるほどに汚れた川の水面は、大通りの建物と少しずつ傾き始めた太陽を映している。

 しかし、キリサメの虚ろな瞳は悪夢にも似た幻をに見つめていた。

 赤く染まった水面に惨たらしい有り様の遺骸が漂っていた。その次に現れたのは、何事か喚き散らしながら滅茶苦茶に異形の武器を――『聖剣エクセルシス』を振り回す神父のような出で立ちの男である。

 何かを砕く感触が両手に甦り、堅い物をへし折る厭な音が鼓膜に響いた。そうかと思えば次の瞬間には全く異なる幻が割り込み、キリサメの心を蝕んでいく。

 夥しい血に濡れた身を横たえながら、それでも瞳の力だけは誰よりも強く、自分に何かを言い付けようとしている女性――そこでキリサメは双眸を瞑った。


「――生まれ育った環境を理由にして運命を切り開く勇気を諦めないで。世界も人生も、そんなに捨てたもんじゃないからッ!」


 鎖の如く絡み付いてキリサメの足を縛り付けていた幻を斬り裂いたのは半年ほど前に出逢った日本人記者の声である。脳裏に蘇ったその言葉が〝表〟と〝裏〟という二つの社会まちの境界で立ち尽くすキリサメの背中を押していた。

 ペルーという国が抱える〝闇〟を見極めた果てに、〝〟がどんなに苦しくても自分の命をちっぽけなものだと割り切って〝未来これから〟を諦めず、誰かを守れるその力で何ができるのか、考えることだけは止めないで欲しい――そう繰り返した女性ひとの言葉である。


(……母さんにもきつく言われたよな。人の厚意は足蹴にするなって……)


 再び双眸を開けた瞬間、キリサメの視界へ飛び込んできたのは真っ白な歯を見せて太陽のように明るく笑う岳の姿であった。

 今日まで味わってきた理不尽な想いを全て受け止め、弱肉強食とは異なる世界へ導いてみせると宣言した男が橋の中央で右手を差し伸べていた。左手に亡き母の遺骨を携え、六文銭を背負う〝新しい父〟が〝闇〟との境界線を共に超えようと促していた。

 麻袋に納まっている『聖剣エクセルシス』を左肩に担ぎ直しながらも眩しいばかりの彼の想いへ応じることを躊躇ためらい、微かに俯いたキリサメの右手を岳は遠慮も何もなく握り締めた。

 強く強く、そして、人間らしい温もりが伝わる握手であった。

 握り締めた手は間違いなく血と罪でけがれている。だからこそ、キリサメも握手をはばかったのである。

 岳当人は少年の右指が自動式拳銃ハンドガン銃爪ひきがねを引く様など思い描いたこともないだろう。この一本気な男にとって、それは何よりも幸せなことなのかも知れないとキリサメは心の中で苦笑した。


「お前はオレだよ、キリー」

「……どこまでも噛み合いませんね、僕たち」


 またしても意味不明なことを言い始めた岳に対し、これ見よがしに溜め息を吐いたキリサメではあるものの、繋いだ右手を振り解くことはない。

 それが彼の答えであった。



 キリサメ・アマカザリという少年は、その橋を抜けた先に広がる世界をまだ知らない。

 これまでのように獲物を捜して今日を生き延びる糧を得ようとうろつくのではなく、富める者が群れる〝表〟の社会まちに同化するということだ。それなのに彼は地球の裏側へ渡ることも枕が変わる程度にしか考えていない。

 人間の命が一ドル紙幣よりも軽んじられる世界で生きてきた彼には人生の岐路さえも他人事のように感じられるのであった。

 己の起源ルーツである日本のことさえ無知に等しい。八雲岳が口にした『天叢雲アメノムラクモ』が総合格闘技団体の名称であることなど思いも付かないだろう。しかし、キリサメ自身も含めて数多の運命が『天叢雲アメノムラクモ』の名のもとに大きく動き始めているのだ。


 これから二人が目指そうとしている海の向こう――日本では八雲岳の首級くびを取るべしと意気盛んに雄叫びを上げる者たちが待ち構えていた。

 そこは都心の或るビル内に所在するナイトクラブだ。普段は大勢の若者が詰め寄せ、陽気なダンスを楽しむ大型フロアの中央には格闘技のリングが運び込まれていた。

 四角い土台の上に衝撃を和らげる為のマットを敷き詰め、四隅に立てられた支柱ポールを結び合わせるようにしてロープを張り巡らせるという本格的な物である。

 これを取り囲むようにして集結した人々はリング上で「八雲岳、断じて許すまじ!」と唱え続ける白髪頭の男性に呼応し、往来で口にしようものなら警察から職務質問を受けてしまうほど野卑な言葉と共に拳を突き上げているのだ。

 リングサイドに立つ者の多くは競技用のトランクスやじゅうじゅつなど試合を直前に控えた格闘技者の出で立ちなのだ。窪みが生じるほど強くマットを踏み締めながら手持ち式のマイクに向かって物騒な言葉を浴びせ続ける六〇代前後の男性も剥き出しの上半身に袴を穿いているのだ。

 そうかと思えば、体操用のジャージで上下を揃えた女性も混ざっており、格闘技専用の着衣に限定されているわけではないようである。

 選手たちの並ぶ列から僅かに離れた位置では応援の為に足を運んだのであろう大勢の観客が「八雲岳の首級くびを取れ!」とシュプレヒコールを繰り返しているのだが、物騒な言行が表す通りにそうな顔ぶれも多い。剥き出しの両腕に素肌が隠れるくらいびっしりとタトゥーを彫り込んだ者も一人や二人ではなかった。

 選手にしろ観客にしろ、殺意の渦巻くナイトクラブへ集まった人々は揃いのロゴマークが入った品を身に着けている。多くはシャツや帽子などにプリントしているのだが、これをタトゥーとして手の甲に彫り込んだ選手も見受けられた。

 くだんのロゴマークを用いる一団は自らを『イラプション・ゲーム』と称している。いわゆる地下格闘技団体であり、八雲岳と『天叢雲アメノムラクモ』にあだなす名であった。


「そうとも、ひょうの爺様の言う通りだぜ! あの野郎ども、とうとうまえみつ大先生の名前まで穢しやがった! 落とし前をつけてやらァッ!」


 白髪頭の男性の喚き声へ耳を傾けている間に怒りが爆発したのだろう。ロープを飛び越てじゅうどう姿の少年がリングに降り立った。

 顔立ちにあどけなさと負けん気の強さが表れた小柄な少年である。明治時代に活躍した柔道家の名前を例に引きつつ、八雲岳と『天叢雲アメノムラクモ』を撃破するまで死ぬわけにはいかないと高らかに宣言した。

 少年に呼応して「首級くびを取れ!」というシュプレヒコールも一等大きくなった。天井に設置された大型の照明も闘魂を煽るようなせきしょくに変わっていく。


まえみつ大先生の――コンデ・コマの柔道で目に物見せてやるぜッ!」


 うわの袖が肘の辺りまでしかなく、下穿ズボンの裾に至っては膝下九センチ程度と短く、殆ど肌に密着するという風変わりなじゅうどうを纏った少年の名はでん

 眉間が剥き出しになるくらい短い前髪の部分だけを茶色く染めたこの少年は八雲岳と『天叢雲アメノムラクモ』に対して激烈な怒りを燃えたぎらせている。


 また別の場所に於いても八雲岳と『天叢雲アメノムラクモ』の名を口にする者がった。ただし、こちらは憎悪と共に紡がれているわけではなく、憐憫の念が込められていた。

 ニューヨーク州マンハッタンの代名詞とも呼ぶべきセントラルパークに程近いアパートメントの一室で惨たらしい傷害致死事件が発生したのは深夜のことである。

 尋常ではない物音と激しく言い争う声に危険を察知した近隣住民が警察に通報し、犯人グループが逮捕されてから既に一〇時間以上経過しているのだが、慎重に現場検証が進められているのか、玄関は未だに黄色いテープで一般人の立ち入りが規制されていた。

 これを潜るようにして出入りする警官たちは事件現場に面した歩道を長時間に亘って占拠し、事ある毎にカメラを向けてくる報道陣を忌々しそうに睨んでいた。

 二月のニューヨークは空の色まで寒々しい。その上、一月にはナイアガラの滝を凍結させるほど猛烈な寒波が襲来したばかりなのだ。報道関係者プレスは誰も彼も厚手のコートを着込んでおり、傍目には極寒への耐性を身に付ける訓練のように見えなくもない。

 苦行にも近い状況でありながら現場付近に留まり続けるということはそれだけ価値ニュースバリューが高い証拠だろう。捜査の様子を遠巻きに眺める野次馬の数は両手では数え切れなかった。

 車道に停めた自動車の窓越しにアパートメントを覗いている二人の男も興味本位なのだろうか。七〇年代に製造されたモデルのカマロから黄色いテープの向こうに吸い込まれていく視線は警察官のと同じくらい鋭いのだ。


八雲岳ガク・ヤクモも災難だな。ようやっと日米合同大会に漕ぎ着けたというのに幸先が悪いなんてもんじゃない。しかも、完全にとばっちりだ。同情の言葉も思い付かないよ」


 ここには居ない岳への憐憫を口にしたのは運転席で肩を竦めたドイツ人青年だ。助手席から窓の向こうを窺うオランダ人青年は「だが、『天叢雲アメノムラクモ』のスポンサーには願ってもない筋運びでは?」と、ドイツ語による返事と共に意味ありげな視線を真隣に向けた。


東京トーキョーの知事選挙を思えば楽観的なことは言っていられんさ。今まさに〝例の候補〟が息巻いている頃合だろうよ。せんってのセレモニーを彼がお気に召したとも思えない。成り行き次第では『天叢雲アメノムラクモ』も立場が難しくなりそうだ」

「何かが一つ違ったらニューヨークではなく東京トーキョーの選挙事務所とやらが事件現場になったかも知れない――か。それを言い出したら、次期合衆国大統領候補殿が狙われてもおかしくないんだがな」

「政治家ってのはどの国も〝そういうコト〟だけは対応が早いよな。昨夜に開かれた奴の記者会見、リトル・トーキョーで開かれた日米合同イベントの映像と一緒に何度もしつこく垂れ流されてるぞ。ワイドショーの芸のなさも万国共通だ」


 冬の研ぎ澄まされた空気に反射する陽の光が気に障るのか、オランダ人青年のほうは車内にも関わらず分厚いゴーグル型のサングラスで双眸を覆っていた。

 二〇一四年現在――ニューヨーク州は総合格闘技の興行を法律で禁じている。その町に格闘家を血に餓えた乱暴者とさげすむ青年が引っ越したことが悲劇の発端であった。

 俗に『デジタルネイティブ』とも呼ばれる情報社会の申し子であった青年はSNSを活用して北米アメリカで最大の規模を誇る総合格闘技団体を執拗に批判し、同調する人間たちを巧みに操って同団体の運営を妨げ続けていた。

 その果てに血が流れた。

 血の気の多い総合格闘技ファンが青年の住むアパートメントを探り当てて乗り込み、集団で暴行を加えた末に絶命せしめたのである。

 短文つぶやき形式でメッセージを投稿するSNSへ携帯電話スマホから接続アクセスしたドイツ人青年は画面を埋め尽くす被害者の顔写真に心の底から辟易したような溜め息を吐いた。

 格闘技を暴力と同一視する面々は殺害された青年を偉大な殉教者のように扱い、揃いの顔写真をアカウント画像に設定することで徹底抗戦の意思表明に代えているのだ。

 誰もが格闘技団体を殺人者の温床と口汚く中傷し、傷害致死事件そのものが同団体の差し金であったと決め付けている。


「やり口だけなら『アラブの春』の模倣にも見えるが、この連中は自分たちが矛盾の塊だとは気付いていないんだろうな。アンチ格闘技の政治家たちもこいつらと大差ないがね」


 ドイツ人青年がかざした携帯電話スマホの画面から再び窓の外へと目を向けたオランダ人青年は凶兆を感じさせる寒々しい曇天を仰ぎ、苦々しそうに眉根を寄せた。


「……そう遠くない未来に私たち格闘家の居場所はどこにもなくなるかも知れないな」


 七星セクンダディの紋章がケースに刷り込まれた携帯電話スマホを仕舞うドイツ人青年も隣席で呟かれた言葉に重苦しい溜め息を吐いた。


「ストラール、『願ってもない筋運び』というさっきの言葉は撤回しておけよ」

「さて、……そんなことを言った憶えはないな」


 運転席に響く舌打ちを合図としてエンジンが掛かったカマロは景気の良い排気音をアスファルトに残して事件現場から離れていった。

 後ろに流れていく風景を眺めるオランダ人青年の名はストラール・ファン・デル・オムロープバーン――格闘技王国オランダに於いて『聖家族』とも称えられる名門に生まれ付いた彼が瞳の奥に〝何〟を秘めているのか、運転席の相棒にも見通せない。


「……いずれ『ガダン』がつ場所だけは何としても守り抜かなければ……」


 不意にストラールの口より洩れた呟きには複雑そうな表情を見せ、少しばかり強くハンドルを握り直すのだった。

 『ガダン』とはアラビアの言語ことばで『明日』を意味している。


 同じ二月のアメリカでありながら西海岸に面したカリフォルニアはニューヨークと正反対に極めて温暖である。

 科学技術の進化を主導するシリコンバレーの〝首都〟としてコロンビア特別区ワシントンに勝るとも劣らぬ存在感を示すサンタクララ郡サンノゼ――全米で最も治安が良いと謳われる都市の片隅にアメリカ合衆国で花開いた〝近代武術〟が道場スタジオを構えている。

 アメリカン拳法――『アメリカンカラテ』とも『ケンポーカラテ』とも呼称されるこの格闘技は東洋系武術を起源としており、空手や柔術、拳法など種々様々な技術を融合した上で一つの体系化として洗練し、全ての要素を高い次元で発展させていた。

 全米組織を持つほど競技人口も多く、奥義を極めんと厳しい修練に励む拳法家は言うに及ばず、護身術として習おうと道場スタジオへ通うサンノゼ住人は男女ともに多い。

 柔らかいマットが敷き詰められた稽古場にはサンドバッグや分厚いパンチングミットといった打撃訓練の器材も数多く配置されている。壁に貼り付けられた何枚もの姿見は構えや身のこなしを検証する為に使うのであろう。

 一〇代前半ローティーンを対象にした練習コースにはどうような初々しい子どもたちが集まっている。まだ手足も伸び切っていないだろう年頃の彼らは、道場スタジオの中央で一人の指導員を囲んで大きな輪を作っていた。


「拳法修行で一番大切なのは技と同じくらい〝ハート〟を磨くということだ。心臓って意味じゃないぞ、戦士としての魂だ。硬く握り締めた拳を相手の顔面に叩き込んだらどうなる? そうとも、無事では済まん。拳法家とは強い人間を呼ぶ名称なまえではない。相手を傷付けるという行為ことの意味をいつも己に問い掛ける哲学者を指して言うのだ」


 大勢の教え子に向かって熱弁を振るうのは、アメリカン拳法を極めるべく赤道直下のルワンダ共和国から海を渡り、サンノゼの道場スタジオに入門した青年――シロッコ・T・ンセンギマナである。

 試合たたかいの場に於いては「黒豹が如し」とも畏怖されるこの青年がアメリカ合衆国へ移り住んだのはおよそ一〇年前のこと。当時は祖国の言語ことばと、恩人たちから教わった日本語くらいしか話せなかったが、今では紡ぐ〝アメリカ英語〟も淀みなく流暢である。彼に教えを乞う子どもたちや、道場スタジオの隅で見学している保護者たちも真剣に聞き入っていた。

 どうという言葉から上衣うわぎに帯を締める様式が連想されるだろうが、ンセンギマナが羽織る白黒チェック柄の上衣うわぎは着丈の短いジャケットにも似た構造つくりとなっていた。黒一色の下穿ズボンへ直接、帯を締めているのだった。

 しかし、この出で立ちがアメリカン拳法の統一された〝ユニフォーム〟というわけではない。一般的な様式のどうを着こなす者が居れば、上衣うわぎにトレーニングパンツというチグハグな装いに帯だけ締めた者も居る。子どもたちの多くは運動し易いようシャツと下穿ズボンを組み合わせていた。

 柔剣道や空手のような段位ランクに対応しているのだろうか、紫や緑など人によって帯の色が異なっていた。ンセンギマナを筆頭に上級者と思われる者は揃って黒い帯を用いている。

 入門から間もない子どもたちは白い帯を締めている。何物にも染まっていない無垢な可能性の象徴であり、良き指導員のもとで自分なりの個性カラーを開花させていくことだろう。


「俺の話をちゃんと理解わかってくれた顔だな。そうとも、この世のありとあらゆる出来事が己の血となり肉となるんだ。そして、それは己のけんに意味を問うことにも通じている。いや、こんなに嬉しいことはない。みんなのお陰でアメリカン拳法の――いいや、格闘技の未来がオレには輝いて見えるぞッ!」


 ンセンギマナが教え子たちに向けた言葉は、奇しくもニューヨークの空に溶けていった嘆息と正反対のものであった。

 セントラルパークからタイムズスクエアを抜けてウォールストリートの方角へと向かっていく『聖家族』の御曹司は寒々しい曇天に格闘家たちの未来を重ね、アフリカ大陸にも負けないスケールを養った拳法家はカリフォルニアの青空を彩る太陽のようにどこまでも輝かしいと信じていた。

 胸元まで掛かるドレッドヘアーを大きく揺らしながら笑うンセンギマナの瞳は、ロングビーチの砂浜から臨む海のように澄み切っていた。

 彼が浮かない顔でサンノゼの教区教会――ミッション・サンタクララ・デ・アシスにルロイ神父を訪ねたのは午前中のことである。俄かに垂れ込めた迷いは実の親同然に敬愛する人物と言葉を交わす内に乗り越えられたようだ。

 子どもたちへの指導をンセンギマナに一任している師匠マスターは空元気でないことを見極めると安堵したように首を頷かせた。彼の様子を見守る道場スタジオの同門たちも温かな微笑みを浮かべている。

 ンセンギマナの心を掻き乱さずにはいられない記事が地元新聞紙『ウェイクアップ・サンフランシスコ』に掲載されたことを彼らは把握していた。子どもたちに随伴している保護者の何人かもくだんの記事を読んでいるはずだ。

 文章量も海外の出来事を取り上げる小さな欄内に収まってしまう程度であったが、フランスのパリじゅうざいいんに於いてる容疑者の審理が開始されたことを報じていた。

 フランスの司法から人道に反する罪に問われているのはルワンダの虐殺ジェノサイドを主導としたとされる最重要人物の一人である。

 ンセンギマナの左太腿から下は機械仕掛けの義足であった――が、そのことを生きる上でのハンデとは決して口にしない。ましてや国家的悲劇の中で喪失うしなわれたという事実を殊更悲劇ぶることもないのだ。


けんを交えんというときには誰もが平等だ。子どもだろうと大人だろうと、相手が大統領だって関係なくなる。人によってはそういう行為コト自体が野蛮な暴力のように見えるかも知れない。……自分のハートにけんの意味を尋ねるのはそんなときだよ。この手で何を掴むのか――破壊ではない〝何か〟を求め続ける限り、暴力とは違う道が開けるだろう」


 紛争という国家的悲劇を受け止めながらも特定の誰かを怨むことなく、前を見据えて歩いていける強靭な魂の持ち主であればこそ、子どもたちへ拳法の在り方を教え諭す言葉も心に響くだけの説得力を帯びるのだった。


「あれ~? 先生、今日は一向に『異界神座いかいしんざイシュタロア』の台詞使いませんね」

「何かっつーと、『つむぎちゃん』の声真似とか『さら様』のありがた~い語録おことばをブッ込んでくるのに、フツー過ぎて微妙~」


 教え子たちが冗談めかして口にした『異界神座いかいしんざイシュタロア』は日本で制作されたアニメシリーズである。海を渡った国のサブカルチャーが北米アメリカでは大流行りであり、くだんの作品もテレビ放送を通じて大好評を博していた。その上、番組ゆかりのグッズなども日本の市場を凌駕するような売り上げを記録しているそうだ。

 少年の一人が挙げた『つむぎ』とは主人公の名前であり、もう一つの『希更』は主演声優のものである。『異界神座いかいしんざイシュタロア』を愛好するンセンギマナは道場スタジオで指導を行う際にも作中の台詞などを引用しているのだった。

 教え子からの指摘ツッコミに対し、ンセンギマナは「女神イシュタルの使徒だからこそ安売りはしないのだよ」と胸を張ってみせた。


「憶えておきなさい、『イシュタロア』に心を同化させるということはそう生半可な覚悟ではできないのだ。愛ゆえに! 紡ぐべきときを選ばねばならない!」

「鏡見ろよ! 先生、バーゲンセール状態じゃねーか!」


 教え子の少年だけでなく道場スタジオに居合わせた全員から指差しによる指摘ツッコミが入ったのだが、ンセンギマナが上衣うわぎの下に着ているシャツには、人型機動兵器ロボットのような輪郭シルエットを描く鎧で全身を固め、不思議なデザインのヘッドフォンを装着した少女――朝来乃あさくのつむぎが勇ましく槍を構えるという『異界神座いかいしんざイシュタロア』のキービジュアルが大きく刷り込まれているのだ。

 しかも、だ。額に巻いたバンダナにも同番組のロゴマークが染め抜いてある。安売りなどしないと豪語したンセンギマナへの指摘ツッコミとして「バーゲンセール状態」なる言い回しは適切且つ絶妙であろう。


「それとこれとは話が全然違うだろう⁉ 熱心な布教活動と言ってくれ! むしろ、俺は高値で売っているのだ!」

「ほ~ら、もう意味分かんないもん」


 迷いも曇りもない面持ちで紡いだ反論を教え子の一人からあっさりと切り捨てられた瞬間、道場スタジオは大爆笑に包まれた。門下生の子どもたちもその保護者も、ンセンギマナを取り巻く拳法の仲間たちも――皆が心の底から愉しそうに笑っていた。

 道場スタジオを満たした笑い声はシロッコ・T・ンセンギマナという義足の拳法家が全ての人たちから深く敬愛されている証左といえよう。

 出身国うまれも肌の色も関係なく、ンセンギマナを取り巻く皆の顔に笑顔の花が咲いていた。


 アメリカン拳法家が辿り着いた結論は確かに高潔だが、だからといって武芸を志す全ての人間が分かち合えるものではない。

 八雲岳の首級くびを奪れと息巻く地下格闘技団体『イラプション・ゲーム』の同類項と呼ぶべきか、『暴力』を悪しきモノとも思わない者が東京の〝影〟を闊歩かっぽしているのだ。

 コンクリートの天井に何本もの配管が走る薄暗い地下道に立ち、カーボン製の竹刀を握り締めるブレザー姿の少年は、足元に転がった者たちを薄笑いと共に見下ろしている。

 眉間の中央で左右に分けた髪は頬に掛かるくらい長く、その形が崩れないよう整髪スプレーで固めてあるらしい。襟足のみを刈り上げたさまは本人のこだわりというより坊主頭の名残のように思えた。

 部活への所属は定かではないものの、剣道を志す者であることは間違いない。防具一式を納めておく大きな革袋が学生鞄と共に壁際に置かれ、地に伏せる虎が刺繍された帆布製の竹刀袋もそこに引っ掛けてあった。

 呻き声を上げながら伏せているのは少年と同じ年頃の高校生であろう。ただし、着用する制服は学ランやブレザーなど統一されておらず、代わりにパッションピンクのバンダナを揃って身に付けていた。

 他校生同士で群れを為す彼らは、いわゆるカラーギャングである。東京都・中野を根城とし、警察すら恐れない武闘派を称してきたのだが、今やそれも地に墜ちたといえよう。一〇人以上で襲い掛かっておきながら、たった一人に返り討ちに遭った事実が仄暗いへ横たわっているのだ。

 竹刀をもっふるわれたのが過剰な『暴力』であったことは、段ボールを住居に見立てて地下道内で寝泊まりする男たちの表情からも瞭然であった。誰も彼もブレザー姿の少年を怯えた目で見つめていた。


「ボクのことが殺したいほど憎いんだろう? お誂え向きのシロモノまで持ち出してさ。それだけの度胸がキミにあるのか、試してあげよう」


 挑発の言葉を極端に低い天井が撥ね返すや否や、最後に残った一人がブレザー姿の少年に突っ込んでいった。両手で構えたスタンガンは違法な改造が施されており、接触した相手を感電死させられるほどに電圧を高めることができる。

 カラーギャングの突進を正面から見据えたブレザー姿の少年は、己の身にスタンガンの先端が接触しようかという寸前まで引き付けておいて後方に飛び退り、耳障りな炸裂音を伴ってぜる電流をかわしながら縦一文字に竹刀を振り落とした。

 眉間に一撃を浴びせた少年は着地と同時に再度踏み込み、鹿の革で覆われたつかがしらを相手の喉に突き入れた。現代剣道の試合で用いれば間違いなく反則判定を受けるだろう危険な技であった。

 喉笛を抉られた相手は身体を折り曲げながら激しく咳込んだ。つばきに血が混じった辺り、虎の牙で咬まれたような痛手を被ったのだろう。

 スタンガンを取り落としたことで全くの無防備となった相手を蹴り倒し、そのまま硬い革靴のカカトで脇腹を踏み付けた。

 少年の耳に〝何か〟の破断する音が聞こえ、直後には苦悶の声が一等高くなったが、それすら取るに足らないものと捉えているようで、相手が庇っている脇腹をブレザーの裾がなびくほどの勢いで蹴り飛ばした。

 地下道の住人たちをおののかせたのは真っ当な剣道家とは思えない残忍な戦い方であった。彼らにとって命とも呼ぶべき竹刀はカーボン製の刀身から水牛革の鍔に至るまで返り血で濡れそぼっているのだ。

 見る者に恐怖を植え付けるさまは、剣士の魂を凶器として用いたことを意味している。

 先ほどの口振りからして先に手を出したのはカラーギャングのほうであろうが、全員を叩き伏せただけでは物足りなかったのか、ブレザー姿の少年は足元で呻いている者の顎を爪先で蹴りを加え、速やかに起き上がるよう言い捨てた。

 力ずくで臨戦態勢を整えさせられた男は血塗れの顔に絶望の二字を貼り付けていたが、それでもブレザー姿の少年は許さない。嗜虐心が萎えるか、竹刀が砕け散るまではカラーギャングを玩具おもちゃのようになぶり続けることだろう。


「膝なんかガクガクさせちゃって、だらしないなぁ。両目でも潰してみたら少しはやる気出る? それがイヤなら殺すつもりで来ておくれよ」


 残虐なことを平然と言い放つ少年の表情は狂気に歪んでいるわけではない。むしろ、顔立ちだけならば好青年を絵に描いたようなのだ。それ故に全身から漂わせる妖気が計り知れないのだった。

 竹刀を振るっている間に地面へ落ちてしまった生徒手帳の表紙には彼が通う『とうしょうだいぞくしなこうこう』なる高校名とクラス番号、そして、『とらすけ』という本人の名前が記されていた。


 武道を志す身でありながら相手を叩き壊すという嗜虐心に呑み込まれてしまうのは精神こころの修行が足りないと、尤もらしいことを述べる識者もるだろう。

 しかし、峻烈なる環境に身を置いて何事にも動じない精神こころを育んだとしても本能よりも更に深い領域――魂そのものに荒ぶる野性を宿していたなら、これを抑えることなど神仏の手にさえ余るだろう。

 都心の〝影〟を引き裂く憐れな者たちの悲鳴など僅かとて届かない夜明け前の渓谷に独り立ち、声もなく音もなく滝に打たれ続けるうら若き乙女は、閉ざしたまぶたの裏に野性の二字が形を為して地上に降り立ったかのような存在モノを浮かべていた。

 僅かでも気を緩めようものなら荒ぶる幻に食い尽くされてしまうだろう。これに克つべく彼女は全身の感覚を断ち切るほどつめたい水の中で精神こころを研ぎ澄ませているのだ。

 腰の辺りまで伸びた栗色の髪は肌に貼り付いて艶やかに光り輝いている。

 人より自己主張が強い胸部をサラシで覆い、そこに六尺褌を締めるという勇ましい出で立ちである。上下とも装飾の施されていない簡素な物であり、水に濡れると肌の色が透けてしまうのだが、精神統一の最中に羞恥心など湧き起ころうはずもあるまい。

 彼女が訪れたのは奥多摩である。数ある渓谷の中でも野生動物と遭遇する可能性が高い本当の秘境を稽古場の一つにしているのだ。山道の途中まで大型バイクで乗り付け、そこから獣道を掻き分けていくような奥地なので駅どころか一軒の民家もない。

 四方を取り囲む山々も、素足では歩くことも難しい岩場も、真っ白な雪化粧を纏っていた。そのような中でつめたい水を頭から浴び続ければ心臓の負担も計り知れないだろうに、六尺褌の女性は最も過酷な環境を敢えて選んだわけである。

 それから間もなく開かれた双眸は、水底よりも深い憂いを湛えていた。年齢不相応の眼差しともいうべきか、人生の悲哀すら滲ませているのだ

 滝行を打ち切らなければならなかったのは、木立の向こうに広がる闇の中へ獰猛な気配を感じ取ったからだ。

 飛沫しぶきを上げる滝の音を除いて静寂が横たわっていた岩場に低く重い唸り声が響き渡る。 甲斐かいの名将・たけしんげんのお膝元で生まれ育った六尺褌の女性は水面を撥ねる足音にも聞き憶えがあったのだ。

 そこから導き出される正体こたえは、ただ一つであった。


「……お腹を空かせた『穴持たず』が餌を嗅ぎ付けましたか……」


 白い吐息いきを伴う声が示した通り、一頭のツキノワグマが巨体を揺すりながら木立の向こうより姿を現した。憂いを帯びた瞳は、今、そこに迫る危機を捉えた次第である。

 本来、二月は冬眠期間中のはずだ。冬ごもりの支度を整えられず、この時期になってまで野山を徘徊せざるを得なかった熊は『穴持たず』とも呼ばれている。

 他の動植物が眠りに就く時期だけに餌の確保は極めて難しい。比喩的な言い回しではなく本当に死ぬほど腹を空かせた熊は凶暴そのものであり、熟練した漁師でさえ仕留めるのに苦労するくらいだ。

 『穴持たず』との遭遇は死を意味するのだ――が、その恐ろしさを把握しているはずの女性は狼狽うろたえて仰け反ることもなく、ツキノワグマの動きを冷静に見据えていた。

 ツキノワグマの側も彼女を久方ぶりの餌と認めたのだろう。川を渡って一直線に近付いてくる。一気に飛び掛からないのは確実に得物を仕留めるべく様子を窺っている証拠だ。

 僅かでも隙を見せれば、すぐさまに爪牙の餌食となり得る危機的状況だが、六尺褌の女性は依然として平常心を保ち続けている。

 この場に余人が居合わせたなら、女性の様子を見て心の働きそのものが凍り付いたのではないかと疑ったことだろう。しかし、山間やまあいから差し込み始めた朝日が浮かび上がらせる体付きを見れば、恐怖という最も動物的な本能へ打ち克ったことにも得心が行くはずだ。

 豊満な胸部や臀部は煽情的な輪郭を描いているものの、すらりと伸びた四肢は鋼鉄の如く引き締まっており、程よく盛り上がった腹筋などはまさしく〝戦士の肉体〟である。

 水際へ横たわる平べったい岩に置いてあった鞄より〝何か〟を取り出し、左の掌中へ握り込んだ六尺褌の女性は、対の手でもって己の〝得物〟を掴んだ。

 生死の懸かった状況には不似合いで滑稽というべきか、彼女が握り締めたのは戦国武将が軍勢の指揮を執る際に振るったとされるぐんばい団扇うちわだった。

 取っ手の左右に扇形の金属の板を嵌め込んでおり、手斧か鉄槌の如く振り落とすことで相手の骨を粉砕するわけである。取っ手の底からは一繋ぎに結んだ一〇八個の連珠を垂らしており、六尺褌の女性は右腕をぐるりと振り回してこれを手首に巻き付けた。

 軍配団扇は相当に使い込まれた物であり、ともすれば戦国時代から伝わる骨董品と見間違えてもおかしくなかったが、当人は長年の〝相棒〟として揺るぎない信頼を寄せているようだ。これで百人力とでもいわんばかりに自らツキノワグマのほうに歩を進めていくではないか。

 『穴持たず』と相対する選択肢の中に死んだ芝居フリなどは入ってもいないようである。大小の石を踏み越えていく足取りは強く、身のこなしを妨げる環境には少しも影響を受けていなかった。


「いざ遭遇してみると意外に冷静でいられるものですね。……『百獣の王』に慣れ切っている所為せいでしょうか」


 足首が浸かる程度の浅い川の中でツキノワグマに最接近した六尺褌の女性は、標的の巨体からだが微かに揺れた瞬間、余人には意味が分からない呟きと一本の尾のように滴り落ちる水を引き摺りつつ、蒼褪めた空に高く跳ねた。

 毛むくじゃらの剛腕が振り抜かれたのはその刹那だったが、既に獲物の姿はなく、虚しく残像を引き裂くのみである。

 そして、それを最後にツキノワグマが獲物の姿を視認することは二度となかった。剛腕でもって薙ぎ払われることを筋肉の動きから先読みした六尺褌の女性は爪が届かない位置を見極めて跳ね飛び、次いで両足を立て続けに繰り出した。

 それはまさしく精密射撃であった。大量の水滴を撒き散らしながら左右の親指でもって熊の両目を立て続けに抉ったのである。

 夜は明け切っておらず、山に囲まれた地形だけに光も届きにくい。ともすれば黒々とした体毛が闇に溶け込んでしまいそうな状況にも関わらず、寸分違わず小さな標的まとに命中させたのだった。


「……『みょう』で――暗闇の中では瞳を閉ざしたままのほうが狙い易いとも思いましたけど、目視でも十分に行けますね……」


 この世の物とも思えない激痛から草木を震わせるほど大きな鳴き声を上げたツキノワグマは狙いも何もなく両腕を振り回し続ける。偶然ながら爪が胸元まで届きそうになる瞬間もあったが、六尺褌の女性は腰を捻り込むことでこれを避け切り、次いで縦回転に変化してみせた。

 一度も浅瀬に着地せず、ましてやツキノワグマの腕を踏み台として再度ふたたび跳躍したわけでもない。空中で横回転する最中に身体を揺り動かし、縦回転へ切り替えたのである。それは関節の可動に逆らう行為でもあり、撥ね返った負荷で筋肉と四肢の骨が壊れても不思議ではない。

 六尺褌の女性は尋常ならざる動作うごきをこともなげにやってのけたのである。圧し掛かる負荷によって骨身が軋んだ様子でもないのだ。その上、無理な姿勢から振り落とした一撃であるのに爆発的な破壊力を生み出している。

 人智を超えた動作うごきは、その身に叩き込まれたわざの一つであり、己の意思で自在に操ることができる。敢えて矛盾した名を付けているのか、彼女が極めた流派――『しょうおうりゅう』に於いては『どう』と呼ばれていた。

 『しょうおうりゅう』とは体術と武器術を組み合わせて用いる武芸『小具足術こぐそくじゅつ』の流派であり、宗家はあいかわなる一門の者が代々継承していた。六尺褌を締めて精神修行に励んでいた女性はその末裔なのである。

 あいかわじんつう――それがぐんばい団扇うちわを振るう女性の名であった。

 神通の視線が向かう先ではツキノワグマの脳天にぐんばい団扇うちわが深々とめり込んでいた。縦回転の勢いを乗せた一撃は他の動物よりも遥かに分厚い頭蓋骨を叩き割り、脳まで達したようだが、並み外れた生命力がその程度で絶てるとは彼女も考えていない。

 手首に絡めていた一〇八個の連珠を外し、ぐんばい団扇うちわを標的の脳天へ残したまま浅瀬に降り立った神通は、飛沫しぶきが風に溶けるよりはやく三日月形の白い斑紋を目指して踏み込み、剛腕を掻い潜るや否や左拳を突き出した。

 ツキノワグマの側が前傾姿勢になれば、人間の拳であっても左脇腹まで届く。しかし、神通は純粋な打撃を仕掛けたわけではない。人差し指と中指の隙間から長細い刃が飛び出しているのだ。

 左掌中に握り込んだ刃物を肋骨の隙間から突き刺し、全く同じ箇所へ対の手で裏拳を叩き込んだ。くさびの如く刺し込んだ先には心臓がある。追撃によって一等深い場所までめり込ませ、その切っ先でもって生命活動を司る器官を食い破る荒業であった。

 もはや、刃物は完全にツキノワグマの体内へ埋め込まれている。川の中に巨体を放り出して悶え苦しみ、一際大きな悲鳴を――断末魔の叫びを最後に二度と起き上がることはなかった。

 これに対して神通の側は玉のような肌にカスリ傷さえ刻まれていない。


「……こういう場合、地元の猟友会に連絡したほうが良いのかしら。……ああ、だけど、オーナーを呼んで店まで運んでもらえばジビエ料理ができますね……」


 俄かに速度はやさを増した心臓の鼓動を深呼吸でもって整えた神通の意識は戦いの場から現実へと引き戻されたらしい。

 大した肝の据わりようというべきか、数多の武術家が夢見る境地であろう〝熊殺し〟をした直後でありながら達成感に浸ることもなく、遭遇の瞬間より全く変わらずに落ち着き払っていた。

 己と同じ人間ヒトではないにせよ、ほんの少し前まで生きていた命を奪うことへ葛藤を覚えることもないようだ。

 今やアルバイト先である飲食店へを持ち込む手立てまで考え始めている。自分を餌にしようとした相手を逆に食べてしまおうとは、これ以上ない意趣返しといえよう。

 人家も何もない奥地だけに携帯電話スマホの画面には『圏外』の二字が常に表示されていた。仮に電波が届くようになって冷凍車などを手配できたとしても駐車場から渓谷ここまで遠く離れており、背負って運んでいる間に鮮度が落ちるだろう。

 専用の道具など鞄に入っているわけがないので血を抜く作業も困難である。


「――というか、ジビエって調理するにも免許が要るんでしたっけ」


 次から次へと妙なことばかりを考える自分が滑稽で仕方なく、神通は自嘲の笑みを浮かべた。次いで浅い川底からぐんばい団扇うちわを拾い上げた。のたうちまわっている間にツキノワグマの脳天から抜け落ちたようだ。


「父様なら拳だけで仕留められたのでしょうけど、……これがわたしの限界でしょうか」


 山奥の滝から大海原へ至るだろう川の流れに混じった血の色を神通は己の未熟と受け止めていた。〝熊殺し〟を成し遂げておきながら遥かな高みを仰いでいるのだ。

 それこそが滝行の間、瞼の裏に浮かべていた幻である。ツキノワグマと相対した折にも荒ぶる野性の顕現を神通は『百獣の王』にたとえていた。

 ぐんばい団扇うちわへと視線を落とした神通は、二枚の翼を彷彿とさせる金属の板に刻み込まれた四語――『微欲』、『貫誠』、『克己』、『大志』を順繰りに読んでいく。

 それは以前の持ち主が自ら彫り込んだものである。幻の形で神通の心に立ち上るその男をたとえるには『眠れる獅子』という言葉が最も似つかわしいように思えた。

 まぶたを半ばまで閉ざすという眠たげな双眸は〝何〟を捉えているのかも定かではない。たてがみのように雄々しくうねる癖毛まで映した幻に「父様」と呼びかけた神通は我知らず左頬を撫でていた。

 宇宙そらを翔ける流れ星のような軌道を人差し指でもって左頬に描いていた。

 その頬に眩いばかりの光が届いた。四方を山に囲まれた渓谷は間もなく夜明けを迎えようとしている。

 やはり地元の猟友会に引き取って貰うべきか、それとも〝自然の摂理〟に任せて捨て置くべきか――今後のことを思案しつつ滝のほうに足を向けた神通は、荷物が置かれた岩にぐんばい団扇うちわを放り出すと、恥じらうこともなくサラシと六尺褌を脱ぎ捨てた。

 ツキノワグマを仕留めた際に大粒の汗が吹き出した身を清めるつもりであろうが、人里離れているとはいえ無防備にも程があるだろう。絞め付けから解き放たれた胸の双丘は水風船のように弾んでいた。


「バイクを駆るには良い天気となりそうです」


 生まれたままの姿となった神通は、朝日の色を映した雲が浮かぶ蒼天そらに目を細めた。


 神通が仰いだいろと同じ蒼天そらをキリサメ・アマカザリは地球の裏側で見つめていた。

 綿菓子のような白雲は鋼鉄はがねの翼の向こう――果てしなき蒼天そらと砂塵で化粧されたかのような大地の間に漂っている。

 キリサメと岳が搭乗した旅客機が首都リマに所在するホルヘ・チャベス空港の滑走路から離陸したのは少し前のことであった。日秘間には直行便が存在しない為、現在いま北米アメリカに空路を取っている。

 丁度、岳が辿ってきた道程を逆さに巡る形なのだ。ニューヨークのJFK空港で旅客機を乗り継ぎ、更に一〇時間を超える長距離飛行フライトを経て日本に到着する段取りである。

 地上では謝肉祭カルナバルに向けて熱狂が青天井となる頃合であろう。リマ市内を練り歩く盛大なパレードが始まる直前で出国するとは、一体、何の為にペルーを訪れたのかと搭乗手続きの窓口で冷やかされたほどである。

 見里の遺骨はあらぬ誤解を招かないよう検査と申請を済ませ、手荷物扱いとして旅客機内に運び込んでいる。鉄色のレインコートでくるんだガラス製の骨壺はキリサメの膝の上に乗せられていた。

 当然というべきか、ギャング団の襲来を斬り払った『聖剣エクセルシス』はハチドリの絵を納めた額縁と共にペルーから日本へ既に発送してある。一目で凶器と分かる血でけがれた物を旅客機内に持ち込もうとすればハイジャック犯に間違われて身柄を拘束されるだろう。

 ノコギリ状の刃や石の板を取り外すと『聖剣エクセルシス』は船のオールを模した風変わりな土産物としか見えなくなる。表面に染み付いた斑模様が返り血とは空港の保安検査員も思うまい。

 キリサメを貧民街より連れ出して数日間――寝食の時間を惜しんで移住の手続きに奔走してきた岳は出発の日を迎えた感慨を背伸びと共に噛み締めていたが、さりとて気が抜けて眠りこけるようなこともない。窓際の席に腰掛けるキリサメのほうに身を乗り出し、離れゆくペルーを見下ろしながら涙ぐんでいた。


「結局、あれから丘の『非合法街区バリアーダス』に戻れなかったけど、マジで忘れ物は大丈夫だったのかよ? 表札代わりの染物とかさァ、想い出を置き忘れちまうのは悲しいもんだぜ」

「……恥ずかしいから、あんまり話し掛けないでください」

「うんうん、感傷的おセンチな気持ちを噛み締めてんだな! いいぜ、オレと分かち合おう! お互いの知らねェ見里さんの話でも語らおうか! 想い出話は新天地への旅を楽しくしてくれるからな!」

「舌を引っこ抜きますよ」


 この地で生まれ育った人間が別離の切なさに感極まるのならまだしも岳のほうが落涙する意味がキリサメには理解できなかった。

 永久の別れになるかもしれない旅路という感慨もないキリサメは鬱陶しそうに岳の口へ指を突っ込み、宣言の通りに舌を掴むと、「お静かに」と釘を刺した。周囲の迷惑になる大声を注意しようと身構えていた客室乗務員キャビンアテンダントの手間を省いた次第である。

 真隣に謝肉祭カルナバル仮装行列パレードから抜け出してきたとしか思えない姿の偉丈夫が腰掛けているので目立たないが、キリサメキリサメで居合わせた旅客ひとびとの注目を集めそうではある。薄汚れた紺色のシャツと色褪せたジーンズは貧民街の集合墓地で岳と巡り逢ったときから着替えておらず、洗濯もしていないので辺りに独特の臭いを漂わせているのだ。

 帰路の岳はろくもんせんの刺繍が施されたなめしがわの物とは異なる黒い陣羽織を身に付けていた。着脱可能な様式なのか、肩から先が剥き出しとなる物に大振りで広い袖を紐でもって取り付けてあるのだ。背中には『忍』の一字が白く染め抜かれている。

 気温や状況に合わせて着替えようと、旅行鞄に何枚もの陣羽織を詰め込んできたのだ。現在、使っている物はゆったりとした木綿製であり、身体への負担も軽くなるだろう。長旅を考慮した選択チョイスなのである。


「日本に着いたら、キリーは何をしたいんだ? やりてェコトがあるんならオレは何でも力になるぜ! 父ちゃんに任せとけッ!」


 客室乗務員キャビンアテンダントに頼んでメモ帳とペンを用意してもらったキリサメは暇潰しに窓からの眺めをスケッチし始めたのだが、その矢先に再び真隣がうるさくなり、心の底から辟易したような溜め息を吐き捨てた。大声を出さないよう舌を引っ張ってまでたしなめたというのに全く通じていなかったらしい。

 どうしてもこの男とは会話が噛み合わないという諦念を込めた溜め息だった。

 そもそも、だ。日本でやりたいことを問われても、自ら強く望んで祖国ペルーから移住するわけでもないキリサメは返答に困ってしまうのだ。


「もしも、闘うことに飽きたワケじゃねェなら――」


 その言葉を岳は最後まで紡ぐことができなかった。

 日系人によって構成されるギャング団を返り討ちにした折、岳は『聖剣エクセルシス』を振るう姿に白日夢のような幻をていた。キリサメが秘めた〝戦士〟としての潜在能力ポテンシャルへ魅せられたが為に格闘技のリングへ舞い降りていくさまを思い描いてしまったのだ。

 死の鳥の如く空を舞い、地上の獲物を平らげていった禍々しいまでの『暴力ちから』を封印してしまうのは余りにも惜しいが、それは岳一人が勝手に抱いた妄想――エゴでしかない。

 「これからは誰かを傷付ける必要もないのだ」と宣言しておきながら、再び弱肉強食の世界へ導くことなど許されようはずもなかった。だからこそ、喉まで飛び出しかけた言葉エゴを強引に飲み込んだのだ。


「……あー、それじゃ一つだけ。僕が生まれる少し前にリマにヒッチハイクの旅でやって来たっていうお笑いコンビに会ってみたいです。死んだ母が好きだったから……」


 これから面倒を見てくれるという人の質問に何も答えないままでは失礼が過ぎると考えたキリサメは、脳裏に浮かんだことをそのまま口にした。

 おそらく岳は挑戦したい仕事などを教えてくれるよう望んだのだろうが、日本という国について無知にも等しいキリサメには身の丈に合った選択肢も思い当たらないのである。


「そいつらってテレビ番組の旅企画か何かでペルーに立ち寄ったヤツらだよな? ……何となく想い出してきたぞ。丁度、雪於が取っ捕まった立て籠もり事件の前後だっけ」

「母からはそう聞かされました。その人たちがリマのテレビ番組に出演したときには出待ちまでしてサインをねだったらしいんですよ。今は瓦礫の下敷きですけど……」

「それに関しちゃ悪いニュースと、そうでないニュースがある。どっちから聞きたい?」

「……悪いほうからお願いします」

「とっくの昔に解散しちまったんだよ、そいつら」

「唯一の楽しみが消し飛んだ僕は、一体、どんな気持ちで日本入りしたら良いんですか。……一応、悪いほうじゃないニュースもどうぞ」

「解散した後も二人それぞれの道で頑張ってるって聞いたぜ。苦労を重ねても、歯ァ食いしばってもな。人間、どんな状況でも諦めさえしなけれりゃ道は開けるってコトをオレたちに教えてくれたのさ」

「……初めて岳氏の話に耳を傾けて良かったと思いましたよ」


 ペルーと縁が深いお笑いコンビの解散は確かに残念だが、メンバーが今も健在であるなら亡き母もきっと喜ぶだろう。完全な物別れということではなく、相棒同士の交流はなおも続いていると岳は言い添えた。

 機会があれば二人がそれぞれ経営している飲食店にも連れていくという岳の言葉に僅かな期待を寄せながら、キリサメはスケッチを再開した。

 思えば、祖国ペルーの大地と海を空の上から俯瞰したことは生まれて初めてである。ほんの数日前まではあの国の最下層に縛られたまま、吹き付ける砂塵にでも埋もれて野垂れ死ぬものとばかり考えていたというのに、今は遥かな上空たかみからこれを見下ろしている。

 薄暗い裏路地から見上げた蒼天そらの先に自分がることなど夢想だにしなかった。自分の置かれた状況を改めて振り返った瞬間、キリサメの心に初めて不思議な感慨が起こった。

 今、目にしているのは富める者の傲慢とも呼ぶべき眺めではないか。

 地上のゴミ溜めで『ざるだん』の襲撃を退けたが、たまたま叩き伏せる側だっただけであり、貧民街で生き抜く為に取ってきた手段は彼らと何一つ変わらないのだ。全身を罪の色に塗り潰さなくては飢餓ひもじさしのぐことさえ叶わない貧しき者が富める者の高みを知ることになった巡り合わせに据わりの悪さを禁じ得なかった。

 そんなキリサメと同じ風景を見たくて仕方がない岳は当人の迷惑も省みずにまたしても身を乗り出し、次いで双眸を見開いた。砂のいろが濃い海岸線へ何事か閃いた様子である。


「リマの北だったかなァ――その辺りの海岸線が鳥たちの死に場所になってるって聞いたんだけど、それってマジなの?」

「鳥の死骸が投げ棄てられているってコトですか?」

「いや、死期を悟った鳥が集まるらしいんだよ。何とかっつー監督が撮ったフランス映画でも題材になったんだけど、砂浜に大勢の鳥が横たわる場面トコだけ強烈に憶えてんだわ」

「生憎と聞いたことがないですね。そんな所が本当にあるとしたら、もっと話題になっていそうですけど……」

「もう一個、想い出したぜ! その映画、原作者自らがメガフォンを取ったんだよ!」

「何の手掛かりにもならない情報、ありがとうございます」


 太平洋に面した海岸線は砂漠化の影響もあって岩だらけの場所が多い。そこに散らばる夥しい数の鳥の死骸を想像させられてしまったキリサメは、抗議のつもりで眉間に皺を寄せた。

 くだんの作品がどのような取材を経て鳥たちの死に場所を題材に選んだのかは知らないが、首都リマで生まれ育ったキリサメにとっては、海岸どころか、ペルーという国家くにそのものが一つの巨大な墓場なのだ。

 華やかな仮装行列パレードが練り歩く大通りからほんの少し離れた場所には数え切れない死が無造作に転がされている。言ってしまえば、謝肉祭カルナバルの乱痴気騒ぎは十字架のもとに手向ける哀悼の花のようなものである。

 墓守としての役目を終え、祖国という名の大きな墓に今日までの〝想い出〟を残らず埋葬したのだが、それは己という存在を現世うつしよに繋ぎ止めておく〝糸〟を全て断ち切ることにも通じるのではないだろうか。

 これで正真正銘の根無し草になった――そのように考える一方、キリサメの心の中に今まで意識もしなかった想いが湧いていた。


(……僕はどこに還るのだろうな……)


 遺骨を移すことになった母の魂は迷うことなく日本で永眠ねむることだろう。しかし、自分はどうなるのか。自分の魂もいずれは砂まみれの大地に還るのか――血と肉の起源ルーツではあるかも知れないが、地球の裏側を魂の寄る辺として定めることなどできるのだろうか。

 乱闘の最中に裏路地へ追い詰めたギャングの少女は、自動式拳銃ハンドガンを向けたときに自分の顔を見据えて『死神スーパイ』などと言っていた。冥府を司る神はペルーで人の形をし、罪にけがれた魂を決して逃しはしないはずだ。

 例え地球の裏側であろうとも冥府の門が開かれただけで引き戻されるとしたら、まさしく呪いとしか表しようがない。それは日本に移り住んだところでということをも意味しているのだった。


「名探偵なら今みたいな小さなヒントからも真実に辿り着くんだがなぁ~」

「ベイカー街で事務所構えているような人と一緒にしないでください」

「それじゃ画家を目指してみちゃどうだ⁉ キリー、絵を描くのが好きなんだろ? 折角ならモノにしなくちゃだぜ! 下北沢シモキタに絵画教室なんてあったかなぁ? よーし、帰ったら早速、調べてみるぜ!」

「話が噛み合わないにも程があるでしょう」


 親友たちから預かったキリサメの未来をどのように導くか――そればかりを考え続ける岳は、自分自身の選択が彼の運命を大きく変えてしまうことになるとは、このときにはまだ夢想だにしていない。

 当然ながら、その選択がのちの格闘史に於いて『りょうていかいせん』と呼ばれる大動乱の前触れであることなど知る由もなかった。

 岳ばかりではない。そう遠くない未来に大いなる激流へ飲み込まれる全ての者たちが二度とは戻らぬ日々をいつもと同じように過ごしている。

 八雲岳の首級くびる前祝いとばかりに自分よりも遥かに大きな選手と立ち合い、豪快な一本背負いを決めてナイトクラブの天井を貫くほどの吼え声を上げる地下格闘技アンダーグラウンドの小さな巨人――空閑電知。

 伴侶パートナーと思しき相手に携帯電話スマホを通して甘い言葉を囁き、隣でハンドルを握るドイツ人の相棒から「お前、もう降りろ!」と文句を言われてしまった『聖家族』の御曹司――ストラール・ファン・デル・オムロープバーン。

 サボテンのビーズ刺繍が施されたポンチョを纏う青年を道場スタジオの入り口に見つけ、「おかえり、相棒」と元気一杯に手を振る義足のアメリカン拳法家――シロッコ・T・ンセンギマナ。

 やがて『てんのう』と並び称される者たちは、その兆しすら感じていなかった。


「ところでキリー画伯。さっきから何を描いてんの? 前衛芸術?」

「さっきまで岳氏が話していた海岸線ですよ。窓の向こうに見えてるじゃないですか」

「ま~たまたキリーは冗談が上手ェなァ。焼け焦げたトーストでしょ、これは」

「……人の夢を叶えたいのか、握り潰したいのか、どちらか片方にしてください」


 無粋な言葉に顔を顰めたキリサメも己を待ち受ける運命など思い描いてもいない。しかし、彼は貧民街で研ぎ澄ませた殺人拳を『両帝会戦』と呼ばれる大動乱の中で解き放ち、その果てに格闘技という一つの世界を焼け野原に変えてしまうのだ。

 そして、世界はキリサメ・アマカザリという少年を『四天王』あるいは『死神スーパイ』と呼ぶことになる。

 数多の命を運ぶ鋼鉄はがねの鳥は、定められた旅路をただ粛々と進んでいた。



 『死神の回路スーパイ・サーキット』――格闘たたかいに関わる者を震撼させずにはいられない名は、このとき、まだ世に生まれてもいない。


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