地球の裏側で研ぎ澄まされし死神の拳が日本に舞い降りる。迎え撃つのは「伝説」を継ぐ者!?

その1:墓守(前編)~黄金郷の聖剣に宿りしは

 一、墓守はかもり(前編)


 灼熱の太陽が照り付ける肥沃な大地に鳥の影が落ちた。

 地上の獲物に狙いを定める空の王者が如き飛翔ではあるものの、国土を覆い隠すように生い茂る密林地帯をねぶってゆく影は、左右の翼を羽撃はばたかせることもない。

 真っ白な雲が泳ぐ蒼天そらを切り裂いたのは猛々しい鳴き声などではなく、スコールの後に架かる虹の橋さえ破裂させるようなジェット音であった。

 地獄の亡者が絞り出す悲鳴と錯覚するような轟音は眼下の楽園には決して届かない。大地に寄り添うヤシの森は、自分たちを脅かす影にも気付かないまま吹き抜ける風と静かに踊っていた。

 それは空の王者たる猛禽類さえ届かないほどの高高度からマングローブの間隙に覗く建物へ照準を合わせる状況を端的に表している。

 アメリカ合衆国グアム島に所在するアンダーセン空軍基地から数多の命を喰らうべく飛び立った鋼鉄はがねの鳥は、定められた攻撃目標を目指してただ粛々と進んでいた。

 『死の鳥』なる禍々しい異名で恐れられる戦略爆撃機の群れは、数え切れないほど大量の爆弾を美しき楽園に撒き散らし、そこに芽吹いた生命を焼き尽くしていく。地獄の業火は幾度も放たれたのだ。

 二〇世紀半ば・ベトナム戦争――南北分断に端を発する争乱は『冷戦』の代理戦争とも呼ぶべき局面を迎え、楽園の主権を大国から解き放つべく決起した北軍と、その意志を挫かんとする南軍は史上最悪の泥沼に向かって突き進んでいた。

 南軍にはアメリカを、北軍にはソビエト連邦を中心とする国々が味方につき、楽園を引き裂く争乱を主導していった。『冷戦』によって浮かび上がった各国の勢力図と思惑が異境に於いて鉄火へ変わった次第である。

 そうした背景に基づいている為、南北統一を巡る武力衝突でありながら第三者の思惑が主として働いているかのように〝代理戦争〟と呼ばれてしまうのだ。「ベトナムの民が他国の思惑に喰い殺される歪んだ構図」という批判が飛び交うのは必然であろう。

 ソビエト連邦のような側面支援に留まらず自国の軍隊まで派遣したアメリカが南軍の主力を担っている。超大国が飛び立たせた『死の鳥』が楽園の蒼天そらに影を落とさない日はなく、敵対勢力側の主要施設を標的とした爆撃が執拗に実行された。

 これを撃ち墜とすべく北軍からも対空砲火が繰り返され、楽園の空は鈍色の戦塵に塗り潰されたのだ。対空機関砲や高高度防空ミサイルシステムを操作しながら異口同音に復讐を叫ぶ兵士たちの足元には『死の鳥』の爆撃に巻き込まれ、見るも無残に焼き殺された民間人の亡骸が幾つも幾つも――数え切れないほど折り重なっている。

 地の利を生かして戦う北軍を追い詰めるべくナパーム弾や枯葉剤までもが実戦投入され始めると、赤道近くの楽園は宝石の如き美しさを急速に失っていった。枯れて焼けて崩れ落ちて――眺めているだけで長閑のどかな気持ちに浸れるはずの田園地帯すら戦火のいろを水面に映すのだった。

 進化した兵器が勝敗を分ける近代戦争はスイッチ一つで破壊を振り撒き、空も海も大地も惨たらしく引き裂いていく。攻撃ヘリに搭載された機関銃が地上を抉り、そこに息づく人々の営みも悲鳴さえも咬み砕いていった。

 砲弾飛び交う戦場で相対した以上、そこに「同じ人間として分かり合う」という甘ったれた奇跡など起こり得ない。だから、兵士たちは銃爪ひきがねを引く。名も知らぬ〝敵〟に照準を合わせ、相手の顔も確かめず機械的に蹴散らしていく。

 それが戦争の最前線であり、ひいては後年の『ハイテク戦争』にも通じる〝道〟の始まりであった。

 メコン川を遡って敵対勢力の隠れ潜む密林まで近付き、火炎放射を行う河川哨戒艇があれば伏兵からグレネードランチャーを撃ち込まれて乗組員が根絶やしにされる――星条旗が焼け落ちる惨状はメコン三角州デルタ周辺に於いて珍しいものではない

 かつての大戦以降もベトナムに留まった旧日本兵が訓練に携わり、北軍側に伝わったとされるゲリラ戦術は美しき密林地帯をこの世の地獄に変えた。

 密林の地下は数え切れないトンネルが貫いており、北軍に属するゲリラ部隊はここを通り抜けて神出鬼没の奇襲を繰り返している。戦略的な優位を確保すべく特殊工作員を送り込んだ南軍は、トンネルの構造や敵軍の配置まで調べ尽した上で制圧を試みたのだ。

 この任務を任されたアメリカの陸上部隊がマングローブの森を敵の軍事拠点に向かって進んでいたときのことである。

 泥に塗れようとも鼻先を毒蛇が過ろうとも悲鳴を洩らすことなく彼らは匍匐前進を続けていた。特殊工作員から報告されたゲリラ部隊の作戦開始時間までに自分たちが定めた攻撃地点へ辿り着かなくてはならなかった。

 トンネルから這い出した直後のゲリラ部隊に銃弾の嵐を見舞い、隊列が整わない内に殲滅しようというわけだ。

 攻撃地点を目前にしてスコールが降り注ぎ、俄かに視界不良となった――その直後だ。陸上部隊の最後尾からこの世の物とは思えない悲鳴が上がった。これは波紋の如く兵士たち全体まで広がり、豪雨に打たれるマングローブを更に震わせた。

 不意討ちで仕留めようとしていた当のゲリラ部隊が三方から亡霊の如くいきなり出現したのである。身を屈めて接近してきたのか、捉えた敵影はいずれも小さい。

 いつの間にか、大きな翼の内側へ包まれるような状態に持ち込まれていたアメリカ兵には、もはや、前方にしか退路が残されていない。

 このままでは全滅を免れないと判断し、総員に全速前進を命じたアフリカ系の隊長はヘルメットの上から頭部に何発もの銃弾を受けて絶命。遺された兵士たちはたちまち恐慌状態に陥った。

 報告によれば攻撃目標に定められたトンネル周辺はブービートラップもなく安全であるはずなのだ。それにも関わらず、上体を起こして前進し始めた直後にあちこちで地面が抜け、複数名が深い穴の底に落とされてしまった。

 穴底には殺傷を目的とした杭が仕掛けられていたのだろう。もがき苦しむ悲鳴だけは聞こえてくるものの、落下させられた兵士は誰一人として這い上がってこなかった。

 ここに至ってアメリカの陸上部隊は自分たちが相手の術中にはまっていたことを悟った。拷問か篭絡か、手段は判然としないものの、先行させていた特殊工作員は敵軍から命じられるままに偽の情報を流していたわけだ。

 情報戦の勝敗は、そのまま制圧作戦の破綻に繋がっていた。全てが敵に筒抜けであったということである。ゲリラ部隊が現れた方角にトンネルはないという報告を少しも疑わずに行動し、まんまと相手側の攻撃地点キルゾーンまで誘き寄せられた次第である。

 陸上部隊の背後まで回り込めるトンネルも本当はこの地に幾つも残っているのだろう。

 包囲された上に前進すらままならない絶望的な状況に残された選択肢はただ一つ――僅かに上回っている兵の数を頼みとして反撃し、血路を切り開くのみであった。

 そこから先は暴力の応酬しかなかった。

 マングローブを盾に使えば銃弾も多少は防御できるが、包囲された状況下では幾らもつものではない。その上、バケツをひっくり返したような豪雨が降り注ぐ最中さなかである。突撃銃の照準を合わせるどころか、敵の位置を正確に把握することも不可能に近いのだ。地の利があるゲリラ部隊を突き崩すことなど無理筋以外の何物でもなかった。


「――死神の軍団め! ……我が故郷さとの痛みを思い知らせてやれッ!」


 ベトナムの言語ことばで突撃を命じる声が凄まじい雨音をも裂いて響き渡った。

 驚いたアメリカ兵の一人が反射的に立ち上がり、すぐさま自動小銃で腹部に風穴を開けられてしまったが、それも無理からぬことであろう。凛と声を張り、ゲリラ部隊を指揮しているのはベトナム人の女性兵士だったのである。

 それだけではない。目を凝らしてみれば、包囲戦を仕掛けてきたゲリラ部隊は少年兵ばかりではないか。殆どが一〇代半ばであり、手足も伸び切っていないように思える。彼らは二人一組で行動し、銃撃時の反動ブローバックで後方に弾き飛ばされないよう一人が発砲者の背中を押さえて体勢を維持している。

 残弾を撃ち尽くした者が再装填リロードの間に発砲者の支えとなるわけだ。小さな身体を補い合い、効率的に連射を継続する戦法であり、同時に片方を盾と代えて乱戦時に〝攻撃力〟の消耗を少しでも減らそうという決死の二段構えである。

 ベトナムの少年兵たちはアメリカ兵のような迷彩服ではなく、泥汚れが斑点の如く飛び散ったシャツにハーフパンツといった普段着のまま銃器を携えている。自宅の庭先や村の空き地で遊び回っているほうが似つかわしい恰好は成人おとなたちの動揺を一等大きくした。

 女性兵士のほうは野良着である。どうやら男物を無理矢理に着ているらしく、身体に密着せずブカブカと緩んでいる。胸部や腹部に銃弾で貫かれた痕跡が散見され、そこからドス黒いシミ汚れが広がっているようだった。ひょっとすると恋人か、家族の形見であるのかも知れない。

 志願兵か、北軍から強引に徴兵されたのかは定かではないが、服装からして正規軍所属でないことは明らかだ。彼女たちはヘルメットの代わりにラタニアの葉を編み上げた円錐形のノンラーを被っている。南も北も関係なく、この地の民が愛してやまない伝統の帽子が絶え間ない雨粒を弾いていた。

 戦火のベトナムでは〝全ての民〟が死力を尽くして戦っている。別の戦場で小さな子どもから手榴弾を投げ付けられたことがある兵士は慟哭にも近い叫び声を上げた。

 信仰心が深く、隣人愛に富んだヒスパニック系のアメリカ兵は自ら突撃銃を捨て、「キミたちには将来がある! 小さな手を罪にけがしてはいけない!」とでもって呼び掛けたが、そのことが少年兵の神経を逆撫でし、全身を蜂の巣にされてしまった。

 たおれた後まで複数名から執拗に銃弾を浴びせられ、衝撃で幾度も亡骸が跳ね上がった。まだ生きているのではないかと錯覚してしまうような有り様である。

 それはつまり、ベトナムの子どもたちを逆上させたという何よりの証左であった。頭部が林檎のようにぜるまで怒号混じりの銃撃は続けられたのだ。


「一兵たりとも生かして帰すなッ!」


 女性兵士がベトナムの言語ことばで発した号令に呼応し、アメリカ兵を狙う包囲が少しずつ狭まっていく。北軍所属の兵士が使用する兵器はソビエト連邦製が多く、ここに『冷戦』の代理戦争といういびつさが表れていた。

 しかも、だ。同軍を支援する国々の物ばかりでなく、北軍側にはアメリカ製の銃器までもが出回っていた。それらが南軍のアメリカ兵を脅かすことは皮肉な運命としかたとえようがあるまい。

 旧日本兵の指南があったというゲリラ戦術を玉砕覚悟の特攻で打ち破ろうとするのもアメリカ兵だ。敵中に取り残された形の陸上部隊には――名もなき戦士たちにはそれ以外に選び得るすべもなかった。

 無論、それは攻撃する側にとって〝格好の的〟という状況を示している。そして、正面突破を試みた者たちは死の一斉掃射に晒されるのだ。地の利があるゲリラ部隊は不慣れの者に著しく不利なスコールの中であっても命中率を全く落とさないのである。

 長きに亘る〝内戦〟という環境の行き着く果てか、少年兵の練度はアメリカの正規兵にも引けを取らなかった。片膝立ちの状態でしっかりと自動小銃を構えるさまは、さながら現代に甦ったウィリアム・テルだ。

 その一方、成人おとなによって編制された陸上部隊の側は年端も行かない子どもや女性に突撃銃を向けることを躊躇ためらい、更なる劣勢へと追い込まれていく。

 出自も信仰も、肌の色まで異なるアメリカ兵たちが肩を並べて絶望的構図を突き抜けようとしていた。

 泥濘ぬかるみに足を取られて転んだ者がいればすぐさま手を差し伸べ、肩を貸し合った。生還の可能性を賭した最期の戦いは仲間を信じ抜くことであり、その果てに同じ赤い血を異国の大地に――自分たちが砲火をもっきょうかんちまたと変えた〝楽園の跡〟に吸わせていった。

 男も女も年齢や人種さえ関係なく、冷戦がもたらした兵器をもって命を喰らい合う全ての者たちへ死神は平等に微笑むのだ。今日は勝利の雄叫びを上げる少年たちも、これを指揮する女性兵士も、明日には蒼天そらから降り注ぐクラスター爆弾の餌食となる運命だった。

 虹の橋が架かる緑の国を血の臭いが混じった風と共に駆け抜けるのはマシンガンの音色である。しかし、それは雨で洗い流された大地に跳ねる銃声ではない。アメリカが生んだ偉大なるミュージシャン――ジミ・ヘンドリックスが魂を注いだ同名のナンバーであった。

 終わりが見えないベトナム戦争を世界中の人々が嘆き、暴力の応酬ではなく平和を求める声が各地で上がり始めた。ジミ・ヘンドリックスもまた硝煙晴れぬ時代にった一人であり、悲劇の連鎖に対する想いを神の化身が如く絶唱したのである。

 それは半世紀近く時代ときが流れようとも輝きを失うことがない一つの伝説であった。

 武器を取って殺し合う恐ろしさを紡いだ歌声のスケールは言うに及ばず、人智を超えた速度スピードで弦を弾き続けるギタープレイでマシンガンの銃声と、その犠牲となった人々の絶叫さけびまで完璧に再現してしまったのである。

 当時、バンドを組んでいたバディ・マイルスが刻むドラムプレイも銃弾によって引き裂かれるモノへ寄り添おうとしたジミ・ヘンドリックスの世界観を緻密に組み上げていた。彼らの演奏は本当にマシンガンを撃ち合っているかのような迫真性に満ちていたのだ。

 ジミ・ヘンドリックスのギタープレイと本物の銃声が溶け合い、凄惨な光景へ虚実が入り混じるなど映画の一幕のようだが、肥沃な大地を焼き尽くす死の鳥の飛翔も、スコールの轟音についえたアメリカ兵の悲鳴も、いずれも頭の中に思い描いた空想の産物なのだ。


 『推定犠牲者レポート』と英語で記された同種の書類を部屋の壁に隙間なく貼り付けたその男は、アメリカ政府の軍事作戦へ関与する立場でありながら実際の戦場へ足を踏み入れたことは一度もなかった。

 背広姿で上等な机に腰掛けてはいるが、国防総省ペンタゴンの職員ではない。彼に託された任務は戦場でロケットランチャーを構えることでもなく、ベトナムでの軍事行動から推定し得る犠牲者を数時間ごとに算出して上司へ報告するのみ。

 任期であった一九六〇年代以降の呼称であるが、彼は『国家安全保障担当次席補佐官』という肩書きを称していた。読んで字の如く安全保障政策を専門とするホワイトハウスの上級職員である。

 大統領執務室オーバルオフィスのすぐ近くにデスクが用意されているとはいえ、上司のように首席級の補佐官ではなく、アメリカ軍の作戦行動を牽引する統合参謀本部のメンバーにも含まれていないのでホワイトハウス危機管理室――シチュエーションルームへ許可なく立ち入ることもできない。

 〝大統領へ仕える男に仕える〟という立場であるから権限も大きいとはいえず、戦場の光景を視認するには一般市民と同様にテレビニュースや新聞へ頼るしかない有り様だ。

 戦死したアメリカ将兵の棺はドーバー空軍基地を訪れた際に間近で目にした。アーリントン国立墓地で執り行われた戦没者追悼式典にも参列した。それでも彼にとってベトナムは地図で眺めるより遥かに遠い世界の出来事であった。

 直前の軍事行動による犠牲者の実数や攻撃目標地点の人口などを照らし合わせて最新の推定犠牲者数を割り出すわけだが、その材料も部下が運んでくる報告書しかない。

 書面から読み解いた戦場の凄惨さを空想し、その中へ意識を埋没させる内にジミ・ヘンドリックスの旋律マシンガンが甦ってきたのである。政府に対する批判を含んだ歌にホワイトハウス職員が想いを馳せるのは適切とは言い難いが、民間人の犠牲を数値化した書類に四六時中囲まれていると国家への忠誠心が麻痺し始めるのも事実である。

 そして、その忠誠心は「死の鳥の飼い主」と幼い姪から面罵された瞬間とき、彼の中で決定的に壊れてしまった。

 それ以来、自分のデスクに近付いてくる部下の靴音が恐ろしくなり、心を擦り減らした末に戦争の終結を見届けないまま合衆国大統領の補佐官という名誉ある肩書きを捨てた。


 彼がホワイトハウスを去っておよそ半世紀――二〇一四年二月初旬。

 大統領ではなく神に仕える身となった男は既によわい八〇を超えている。アメリカの後ろ盾を得ていた南軍の〝本丸〟へソビエト連邦製の戦車が突入するという『サイゴン陥落』の瞬間も神父の立場で迎えた。


「――戦争当時に設置された地雷や枯葉剤などは南北が統一された今もベトナムを苦しめています。大統領に仕える立場だった私でさえ正義を疑ったくらいなのですから、若い皆さんが何を真実と定めて良いのか迷うのは無理もありません。……大切なのは善と悪を選り分けることではなく、過去から現代に繋がる物事を見つめて、それが未来に何を意味するのかを己に問い掛け続けること。そんな風に私は信じ、今日まであの戦争で犯した己の過ちを懺悔し続けています」


 昔日と比べてさすがに衰えてしまった耳が拾う声は、自分自身が礼拝堂の天井に撥ね返しているものだった。

 彼が背にする祭壇の最も高い位置には燈火を手にした守護聖人の像が佇んでおり、聖なる光によって迷える者たちの進路を照らしながら、その足取りを優しく見守っている。

 カリフォルニアに所在し、同州サンノゼの教区教会としても機能する『ミッション・サンタクララ・デ・アシス』――目の守護聖人の教えを広めるべくアメリカ開拓時代に設立された伝道所ミッションは、現在、同地の大学敷地内に所在している。その為、特別講義として学生たちを礼拝堂に招くことも少なくなかった。

 『戦争と宗教の関わり』と題された講義もその一環である。見出しが示す通り、アメリカが経験した数々の戦争で教会が果たした役割や、神に仕える立場から見つめた国内外の争乱について神父たちが自分の経験などを述べていく講演会形式のものであった。

 この日の為に招いた従軍神父チャプレンはアフガンで向き合った兵士のことを語っていた。次に学生たちと向き合ったのが大統領より神に仕える道を選んだ老神父である。

 設立当時の様式を復元した礼拝堂には祭壇への道を開ける形で木製の椅子が何脚も並べられている。横に長いベンチを据えるのではなく、二〇〇にも届くだろう数が個別に整列しているのだ。

 そこに腰掛けた若者たちは真剣な面持ちで老神父の話に耳を傾けていた。

 幼い頃に歴史上最悪の同時多発テロ――『九・一一』を経験した彼らはアメリカ史の大半を占める戦争を真摯に見つめようとしていた。結局、ホワイトハウスから逃げ出すことしかできなかった自分とは正反対で、老いた瞳には眩しいとさえ感じるくらいだ。


「学べば学ぶほど過去から何を受け取るべきか、分からなくなる瞬間が訪れます。そんなときには何時でも伝道所ミッションを訪ねてください。守護聖人の燈火は真実を求める者を必ずや導いてくださるでしょう」


 その一言をもって老神父の話は締め括られた。そして、この瞬間を見計らっていたかのように拍手が起こった。

 しかし、大学生たちは誰一人として左右の手を打ち鳴らしてはいない。清らかな空気を弾いたのは礼拝堂の入り口に立つ青年であった。今し方の講義へいたく感動したようで、両目には涙まで溜めているではないか。

 何の前触れもなく飛び込んできた拍手の音に驚いた学生たちは、どよめきを引き摺りながら振り返ったが、彼らと差し向かいで立つ老神父には礼拝堂の入り口から自分のことを見つめてくる男の正体が分かっていた。


(そろそろ来る頃とは思っていたが、……やれやれ、悪目立ちにも程があるな)


 その男と老神父は一〇年来の付き合いであり、今では我が子のように慈しんでいた。事前に電話を貰ったわけでもないのに伝道所ここを訪ねてきた理由が察せられるくらい強い絆で結ばれている。

 二人の間柄を知らない者にも血の繋がりがないことは一目で分かるだろう。カナディアンロッキーを覆う白雪のような肌を持つ老神父に対し、男のほうはアフリカのサバンナを駆ける黒豹を彷彿とさせるのだ。

 彼は胸元の辺りまで伸びている長い髪を編み込み、このドレッドヘアーをバンダナで持ち上げていた。特別講義の出席者たちよりも二、三歳は年上のように思える。

 普段着と呼ぶことを躊躇う出で立ちだった。いわゆるどうであるが、上衣うわぎに帯を締める様式とは掛け離れており、白黒チェック柄の上衣うわぎは着丈の短いジャケットにも似た構造つくりとなっている。黒一色の下穿ズボンへ直接、帯を締めているのだ。羽織った上衣うわぎの下に着る白いシャツは汗で濡れそぼっていた。

 下穿ズボンの左側は太腿辺りまで裾上げが施され、そこから機械仕掛けの義足が伸びている。

 カーボンファイバーの板を緻密な計算に基づいて折り曲げることで動物の後ろ足を思わせる輪郭シルエットに仕立てたその義足は『板バネ』とも呼称されている。

 読んで字の如く、地面を踏み込んだ際に生じる荷重を反発力に転化し、素早く走ることを可能としたスポーツ用義足である――といっても青年はスプリンターではない。纏ったどうの通り、あくまでも武術家なのである。

 彼は心身を鍛え上げるトレーニングの一環としてサンノゼの町を毎日欠かさず走っているのだが、そのようなときに板バネ型の義足を装着するわけだ。それはつまり、彼がロードワークの途中で伝道所ミッションに立ち寄ったことを意味している。

 『ダイダロス』という余人には意味の分からない言葉がラテン語でもって刷り込まれたスポーツタオルを逞しい肩には引っ掛けていた。

 教会という場所はどのようなときであっても訪れる者を拒まない。だが、大学の特別講義へ部外者が忍び込むことは褒められたものではなかろう。


「……うっそ、マジ? ンセンギマナ選手じゃん!」


 何人かの学生も正体に気付いたらしく、興奮した調子で彼のことを指差し始めた。風変わりなどうに身を包む男のことを若者たちは〝選手〟と呼んでいる。


 特別講義が終わって学生たちが去った後、ドレッドヘアーの青年と老神父は並べられた椅子の最前列へ隣り合わせの形で腰掛けていた。

 一部の学生からサインを求められ、これに気前良く応じていた青年も今は口を真一文字に結び、祭壇の守護聖人像を仰いでいる。ドレッドヘアーは見る者に陽気な印象を与えるが、彼もまた進むべき路に思い悩み、燈火に導きを求めているのだ。

 その様子を横目で窺った老神父は少しばかり身じろぎした途端に苦しげな呻き声を洩らした。これを聞き取った青年はよほど心配だったのか、反射的に腰まで浮かせている。


「――ルロイ神父? どこか具合が悪いので……?」

「そんな大袈裟に反応することでもないよ。大学のボランディアとローズガーデンの手入れをしていたら腰にしまってね。全く年は取りたくないものだ」

「身体を大事にしてくださいよ。棺桶に半分突っ込まれているようなモンなのですから」

「こいつめ、私をさっさと主の身許へ葬送おくりたいと見える。知らない間に保険金を掛けられているんじゃないだろうね」


 口では礼儀も何もない過激な冗談を飛ばしながら腰痛に蝕まれる老体からだを支えるべく手を差し伸べてくれたドレッドヘアーの青年――『ンセンギマナ』に座り直すよう促したルロイ神父は、何ともゆったりとした動作で背もたれに上体を預けた。

 ンセンギマナが顔を曇らせてしまうほど老神父は辛そうだった。やっとの思いで身体を動かしているようで、「大昔のぎっくり腰がぶり返したかな」と冗談めかしてはいるものの、身体の内側を走ったであろう痛みをやり過ごしただけで安堵の溜め息を零すのだ。


「……痛み止めの薬は飲まれたのですか?」

「内服薬はね。許されるのならモルヒネの点滴ボトルを腰にぶら下げて持ち歩きたいよ」


 表情も顔立ちも、二人は本当に好対照だった。加齢によって顔の皺が深く、これが陰影を作り出していることもあるが、ルロイ神父は相当な強面こわもてであった。あるいはホワイトハウスという世界で最もストレスが蓄積される環境で働いていた為に険しい表情から元の状態へ戻らなくなってしまったのかも知れない。

 しかし、人相が心根の表れというわけではない。顔を綻ばせると、くしゃくしゃに皺が寄って何とも例え難い愛嬌が生まれるのだ。人生の碑文が優しさという形で昇華されたような表情なのである。

 対するンセンギマナは人好きのする顔立ちだが、今はそこに暗い影が差し込んでいる。思い悩むことを胸に秘めながらも腰を痛めたというルロイ神父に余計な気を遣わせまいと無理に笑顔を作っているのだ。

 神父のほうは空元気など看破しているだろう。見透かされていることを悟った上でやせ我慢を続けてしまうのは、父とも慕う相手に甘えたいという気持ちの表れだった。

 無論、ルロイ神父も自分を頼ってくれることが嬉しくて仕方なかった。息子ンセンギマナの左足に装着された『バネ板』が床をこすって鳴らした甲高い音も鼓膜へ心地良く染み込んでいく。

 ホワイトハウスへ勤務していた頃に怯えた足音とは全く違うものだ。追憶の中に蘇ったジミ・ヘンドリックスの旋律マシンガンも今は聞こえない。


「……お加減の悪いときに押し掛けて申し訳なく――」

「――愚かなことを言うものではないぞ、ンセンギマナ。何年も熱心に通い詰めているのだから、ぼちぼち〝見る目〟が養われても良いハズじゃないかね」


 自分の不手際を悔いるようなンセンギマナの呟きをルロイ神父が鋭く遮った。


「我が子の訪問を楽しみに思わない親などいるものか」


 躊躇ためらいなく我が子と呼んでもらえたンセンギマナはくすぐったそうにはにかみ、表情も少しずつ明るさを取り戻していった。

 故郷からアメリカに移り住んだンセンギマナが礼拝の為にサンノゼの教区教会でもある『ミッション・サンタクララ・デ・アシス』を訪ねて以来の付き合いだ。ルロイ神父にはまさしく子の成長を見守るようなとしつきであった。


「キミも親になればきっと分かるよ。急かすつもりはないのだが、そろそろ孫を抱かせて欲しいがね」

「二次元の嫁をこの世に連れて来られるくらい三次元プリンターが進化したら、神父の希望を叶えられるんですが――いや、しかし、決して手を触れられない神秘性があったればこその『ドリーム』であって、立体化は我が妄想こころの中にこそるというか……」

「趣味は人生を潤してくれる。しかし、良き伴侶を得ることもまた人生の幸いだよ」

「ところで、神父という仕事は結婚が認められていないのでは?」

「揚げ足取りで来るとは、さては遅い反抗期かな?」


 二人の間で飛び交う冗談は全て英語によって紡がれている。ンセンギマナはアフリカ出身だが、カリフォルニア州サンノゼに所在する道場スタジオへ入門して一〇年が経った今、〝アメリカ英語〟もすっかり馴染んでいた。

 二人は礼拝堂で祈りではなく雑談を続けている。老神父のほうは愛する我が子が胸の内に秘めた苦しみを受け止めて貰いたいと望み、伝道所ミッションを訪ねたことを察しているのだ。

 だからといって、告白を強要するような真似だけは絶対にしない。それがンセンギマナにとって言葉に換えることさえ勇気を要する葛藤ものだと理解していた。

 他愛もない世間話を続けるのもンセンギマナの心へ寄り添う為である。誰より優しい双眸を満たした悲しみも少しは慰められるだろう。


「今度、ルワンダを代表してホワイトハウスに表敬訪問するそうだね。大統領と記念撮影したら写真を焼き増ししてくれよ。机の一番良い場所に飾りたい」

「神父の古巣ですから楽しみです。勤務当時のことを知っている職員に出くわすラッキーに期待していますよ」

「確かに与党は当時と同じではあるがね、私が勤めていたのはもう半世紀も昔だよ。それもほんの一時期だけ。西棟ウェストウィング正門から大統領執務室オーバルオフィスまでの行き方だってすっかり記憶から抜け落ちているくらいだよ」


 八〇年を超える人生の中でも最も濃密で、且つ最も神経を擦り減らした忘れ難い古巣である。昼夜を問わずドーバー空軍基地に運び込まれる棺の数を試算し続けた結果、アメリカ史へ敗北の二字を刻んだ戦争の終結を見届けられるような精神状態ではなくなり、辞表が受理されたその日の内に神へ仕える身となったのだ。

 世界のモラルリーダーとも称される合衆国大統領と我が子同然のンセンギマナが握手を交わすなど、何にも勝る喜びのはずだ――が、因縁深い古巣だけに祝福を躊躇ためらいそうになる瞬間が訪れることは否定できなかった。

 無論、ンセンギマナと相対しているときには複雑な感情を心の奥底に押し込め、「何か粗相でもあったらアメリカに居られなくなるからそう思いなさい」と軽口を叩き、敢えて明るく振る舞っている。


「表敬訪問のときには大統領に土産を持参するのだろう? ルワンダを代表して行くのだから滅多なコトはないとは思うが、くれぐれも慎重に選ぶことだよ。大統領が笑って許してくれる代物でもスタッフがキレたら強制送還を覚悟しなさい」

「それは相棒にも口を酸っぱくして言われましたよ。最悪、アメリカどころか、ルワンダにまで帰れなくなるとおどかされました」

「ふむ――彼さえいていれば安心か……」

「しかし、人生は己の手で切り開くものでしょう? 何から何まで相棒の言いなりなのも面白くない。ここは一つ、大統領にサプライズを挑んでみようと企んでいますよ。ひっくり返る相棒が目に浮かぶようです」

「キミのチャレンジャーっぷりには感心させられるよ、全く……」


 ンセンギマナが口にした〝相棒〟は基本的にはいつでも彼と行動を共にしているはずだが、その姿を礼拝堂に見つけることはできない。挨拶の際にたずねた限りでは、今日は急用があってニューメキシコ州の実家に帰っているそうだ。

 くだんの青年の〝実家〟は一九世紀の西部開拓時代から現代まで命脈を保ち続けているアメリカきっての老舗製薬会社である。緊急にして重大な幹部会議が開かれることになり、経営者一族に名を連ねる彼も出席を余儀なくされたという。

 尤も会議自体が相棒の作り話であることは二人にも分かっていた。そもそも一族から託された〝別の使命〟を果たすべくアメリカ中を飛び回っている彼のことを会社の都合で呼び付けるとは考えにくいのだ。

 経営と距離を置いている人間まで駆り出すほど差し迫った事態であれば、『古き良きアメリカがまた一つ、連邦破産法一一条にすがろうとしている』と大手新聞社がこぞって書き立てるはずだ。全世界の医療品売上高で常に上位へ食い込む大企業なのである。


「あまり迷惑ばかり掛けていると愛想を尽かされるぞ。彼が居なかったらキミはやっていけんだろうに」


 ルロイ神父がらした苦笑は極めて現実的な問題をも内包している。くだんの老舗製薬会社はンセンギマナのメインスポンサーでもあるのだ。

 その〝相棒〟と老神父が礼拝堂の中で顔を合わせたことは過去に一度もない。伝道所ミッションの外でなら何度も挨拶を交わし、電子メールでも定期的にやり取りしているのだが、彼がこの建物へ足を踏み入れることは絶対に有り得ないだろう。

 ンセンギマナが〝相棒〟と呼ぶ青年はネイティブ・アメリカンの末裔である。カリフォルニアの伝道所ミッション創設を主導した人物はスペイン軍をも動員してこの地で生きていた先住民たちを虐殺し、その信仰まで徹底的に蹂躙したのだ。

 『カリフォルニア・ミッション』とも総称される同州の施設は超大国の歴史に於いてネイティブ・アメリカンがの象徴ともいえるだろう。そのような場所にンセンギマナの相棒が足を踏み入れるはずもあるまい。

 その伝道所ミッションに身を置くルロイ神父は、時代と場所は違えど戦争という極限的な暴力の応酬に関わった人間として『虐殺』の上にる歴史の意味をいつも己に問い掛けている。

 『死の鳥』を解き放って楽園の大地を引き裂いたとき、東西冷戦の成れの果てに反対する人々から幾度となく『虐殺』と罵られたのだ。

 そして、『虐殺』の二字はンセンギマナの心にも深い痕を残している。

 彼が生まれ育ったルワンダ共和国では一九九〇年から武力衝突を伴う激しい内戦が勃発ぼっぱつし、政治的混乱が悪化の一途を辿る中、一九九四年に至って隣人と命を奪い合う虐殺ジェノサイドへ突入してしまった。

 この国家的悲劇は一〇〇日にも及び、生き延びた人々にも大き過ぎる爪痕を残した。拷問などによって国民の一割が手足を欠損してしまったのである。

 その国家的悲劇に於いて、極めて重大な役割を果たした男の裁判が今日からパリ重罪院で始まった。内戦後も長らく逃亡を続けていたのだが、別件で逮捕された末、ついに法廷へ引き据えられた。

 虐殺ジェノサイドから二〇年もの歳月を経て人道に反する罪に問われた男は、逮捕の数年前に遭遇した交通事故の後遺症から車椅子に座った状態で出廷したという。

 その情報ことをルロイ神父が知ったのは数時間前のことである。朝の散歩を日課としている同僚が新聞販売機ニューススタンドで購入してきた地元紙――『ウェイクアップ・サンフランシスコ』を拝借した際、国際情勢を報じる項目にくだんの審理を見つけたのだ。

 当該記事を読んだ瞬間から老神父はンセンギマナの来訪を予感し、このような日にベトナム戦争について語ることとなった巡り合わせの不思議さへ想いを馳せた。

 そして、地方紙に記された『虐殺』という見出しがジミ・ヘンドリックスの旋律マシンガンを脳裏に蘇らせたのである。

 忌まわしい二字が国名と併記された事件の重要人物が正義の光に晒される今日という日は『暴力』の在り方をンセンギマナの心にも問い掛けるに違いない。

 彼の左太腿から下は機械仕掛けの義足である。

 とてつもなく大切な心の対話を邪魔したくないと思い、ンセンギマナの相棒は生活を共にする下宿先を朝早く発ったのだ。彼の言葉に耳を傾け、懊悩を受け止めることも一つの寄り添い方であろうが、それは自分の役目ではないと考えたに違いない――そのようにルロイ神父は推し量っていた。

 ンセンギマナ自身も相棒に気を遣わせたことを理解していた。今もルワンダで暮らす友人からパリ重罪院の審理について国際電話でしらされたのは昨晩である。裁判のことを告げて間もなく実家の急用ができたと言い出したのだ。

 だから、ンセンギマナは独りで考えた。誰もいない道場スタジオで拳法のかたげいを行い、ロードワークとしてサンノゼの街を何周も駆け、それでも心の中に垂れ込めるもやを晴らすことが叶わず、思い詰めて〝父〟のもとに向かった次第であった。


「……『かいしんイシュタロア』の本質が実は自分の解釈と掛け離れているのではないかと疑わしく思えたとき、俺は信じた道を省みるべきなのでしょうか……」


 思考あたまのなかを整理しようと深呼吸を一つ挟み、雑談を打ち切ったンセンギマナは喉の奥から不思議な言葉を絞り出した。

 『かいしんイシュタロア』――彼が口にしたのは日本で制作され、全米でも大好評を博したアニメシリーズのタイトルである。ルロイ神父もンセンギマナからDVDボックスなどを贈呈されて視聴することになり、今では自らファングッズに手を出すほどのめり込んでいる。


「それは私などではなくアニメ会社か、監督に訊くべきではないかな。まあ、キミが『あさつむぎ』の精神スピリットに疑問を持つとも思えないがね」

「当然です! 二人の『生命波動ティアマト』は俺の心にも響き渡りましたからね!」

「それを言い出したら今のやり取りに何の意味があったのかという話になるぞ」


 ンセンギマナがアニメの内容を論じるつもりでないことは相槌と共に軽口を返す老神父にも分かっていた。彼は『かいしんイシュタロア』に登場するキャラクターやエピソードから例え話を組み上げているのだ。


あさつむぎが揮う『神槍ダイダロス』は絆へ至る道を塞ぐ心の壁を突き破り、相手のハートに『生命波動ティアマト』を伝えるモノ――それは俺たち武術家のけんにも通じるコトです」

「渾身の力でぶつかり合った果てに握り拳を解き、更なる全力で握手を交わしたい。キミが信じる道そのものだったね」

「……でも、それが一方的なエゴだとしたらどうです? 触れて欲しくないという心の扉をこじ開け、踏み破って……ダイダロスが本当は相手に言うことを聞かせる為の手段だとしたら、……血の味と痛みの重さに喜びを感じていた俺は、一体――」


 バンダナにラテン語で刷り込まれた『ダイダロス』とは『かいしんイシュタロア』に登場する槍に付けられたなまえであった。血の繋がらない親子が揃って挙げた『あさつむぎ』はシリーズを通して主人公を務める少女のことである。

 ンセンギマナは出で立ちが示す通り、己のけんを頼みに生きる武術家である。義足をもって戦場を踏み締め、相対する者と身を喰らい合う戦士である。

 だからこそ、『暴力』の在り方に繊細であった。

 くだんのアニメは二つの勢力に別れた乙女たちが神の力を宿した武装を纏い、烈しい戦いを繰り広げる中で絆を結んでいくという王道的ポピュラーなものである。『ぶつかり合って初めて相互理解を得る』というテーマがシリーズの根底に流れており、武術家の理念にも通じるものとンセンギマナは信じてきたのだった。

 〝今日〟まで精神的な支柱であったともいえよう。しかし、〝今日〟は違う。左足の軋み音を厭でも意識させられる出来事に接し、己が理念を重ねたアニメも、己の理想を託したけんも結局は『暴力』でしかないと疑うまでに思い詰めてしまったのだ。

 ここまで弱気になるンセンギマナの姿を見るのはルロイ神父も初めてである。

 『暴力』の在り方を自問し続けるンセンギマナは、我知らず握り締めた右拳を悲しげに見つめていた。


「俺のけんは『ダイダロス』足り得ないのかも知れない――」

 我が子の絞り出した呻くような声を静かに受け止めたルロイは彼の右拳に自分の左手を重ね、「心の命ずるままに従いなさい」と優しく微笑んだ。

「……『考えるな、感じろ』――そう教え伝えたブルース・リーの言葉もまた武術家の真理だと私には思えるよ。己が今日まで感じてきたコトに答えがある。……悩む姿はキミらしくないぞ、ンセンギマナ」


 改めてつまびらかとするまでもなくルロイ神父が口にした『ブルース・リー』とは稀代の映画俳優にして伝説的な武術家である。一九七三年に三二歳という若さで早世してしまったのだが、彼の創始した『截拳道ジークンドー』は愛弟子たちによって引き継がれ、今なお世界各地で普及し続けている。

 アニメ作品を引用したンセンギマナに対し、ルロイ神父が伝説的な武術家の言葉を敢えて回答こたえに代えたのは、親子の間に回りくどい言葉は要らないという想いを込めたからだ。

 八〇年に及ぶ人生の中で彼には一度も格闘技の経験がない。だからこそ『推定犠牲者レポート』に囲まれたホワイトハウスでの日々と同じようにンセンギマナの苦悩も限られた材料に基づいて想像するしかない。

 しかし、ンセンギマナが歩んでいる〝道〟はスイッチ一つで蒼天そらから爆弾を撒き散らすようなものではなく、互いの魂を最も近い距離でさらけ出すことだと理解していた。

 互いの鼻が擦れ合うほど肉薄し、今日までの生き様をけんでもって示すということは、己と同じ人間ヒトを銃弾の嵐で引き裂く戦争とは全く違う。力と技を競うことで相手に対する尊敬や友情が育まれることだろう。

 そして、そこに暴力の応酬を超えた相互理解が生まれる――まさしく『かいしんイシュタロア』に秘められたテーマの体現であるとルロイ神父にも確信をもって断言できるのだ。


「聖書から有り難いお話を聞かせて貰えるのかと思ったら、リーが出ましたか」

「ローマ書もよぎりはしたのだが、キミのほうが私などより理解も深いだろうし、今はこそ相応しいと思ってね」

「ちなみに神父には伝えていなかったかもですが、リー武術ジークンドーは我が拳法最大の仮想敵だったりします」

「アメリカン拳法の⁉ 待ってくれ、今さらキミとの間に初耳の話があるとは夢にも思わなかったぞ。それならそうと教えてくれても良かったじゃないか」

「だって、訊かないんですもの」

「訊かないだろう、そんなことっ」


 思いも寄らない筋運びに目を丸くしたルロイ神父は、まるでいたずらっ子のような笑みを浮かべるンセンギマナへ敵わないとでもいうように肩を竦めてみせた。悪ふざけに振り回されることすら親にとっては喜びと相好を崩したのである。


「……『格闘技とは暴力なのか』――そのことを己に問い続ける求道者のけんは決して他者を踏み壊す暴力などではない。私はそう確信しているよ、ンセンギマナ」


 改めて我が子へ向き直ったルロイ神父は学生たちにも贈った言葉を繰り返し、頼もしくも誇らしくも思える両肩に左右の手を置いた。

 その言葉と、何よりも肩から心へ伝わっていく父の温もりがンセンギマナのうちに垂れ込めていたもやを跡形もなく霧散させていった。

 一秒と掛からない内に胸の中が蒼天そらのように澄み渡ると、ンセンギマナは俯き加減で肩を震わせ始めた。感極まった嗚咽などではなく笑いを堪えられなくなっていたのである。

 今まで無駄に遠回りしてきた自分を笑わずにはいられなかった。そして、こんなにも容易く出口まで導いてくれる父が誇らしかった。

 祭壇の守護聖人像を再び仰いだとき、ンセンギマナの双眸には一片の迷いもなかった。


「……考えるな、感じろ――」


 偉大な武術家の言葉が礼拝堂の天井に撥ね返り、ンセンギマナの心に染み込んでいく。

 最強の仮想敵ではあったかも知れないが、だからといって格闘たたかいの世界へ身を置く全ての人にとっての金言を否定する理由にはならないだろう。ンセンギマナ自身も『リー』の哲学ことばが表すような生き方をしてきたのである。

 左足の古傷を疼かせる『暴力』と、海を渡って極めたこのけんは同類項なのか。そのように自分自身の心へ問い掛けてみると、今度こそ「違う」という答えが返された。

 迷いを断ち切った子と、その姿を誇らしそうに見つめる父――血の繋がらない親子の前途を守護聖人の持つ燈火が照らしているようだった。



 ある国が連日連夜に亘って世界中の注目を集める場合、大抵は祝い事とは正反対の事件が原因である。大規模なセレモニーでも催さない限り、祝福は一過性で済んでしまうのだが、不幸なことはどうしても長引き、聴衆の注目も持続する。だからこそ、他国の出来事であっても報道し続けるだけの価値バリューが生まれるわけだ。

 西暦一九九六年末から翌九七年にかけて日本のメディアが南米に所在するペルー共和国の名を報じない日はなかった。丁度、日本の裏側にある国のことだが、当該する期間ばかりは〝他国の出来事〟ではなかったのである。

 年の瀬を控えた一二月一七日――ペルー共和国の首都、リマに於いて現地の武装グループが日本大使公邸を占拠するという未曽有の事件が発生した。同国に駐在していた日本人も大勢が人質となり、特殊部隊の突入による解決まで数ヶ月を要した凶悪なテロ事件として、二〇年近く経過した今日こんにちまで語り継がれている。

 捕らわれていた日本人は奇跡的にも全員無事であったが、特殊部隊と武装グループによる激烈な戦闘は全世界に生中継され、ついには犯人側の全滅という惨たらしい結末を迎えることになった。

 凶悪犯罪が横行する危険な土地という悪印象イメージが日本人の脳に刷り込まれてしまうのは仕方がないことだった。貧富の差といった具体的な社会問題など知らないはずなのにペルーへ渡ることは命懸けとまで思い詰める旅行客も多い。これもまた大使公邸占拠事件を原因とする漠然とした悪印象イメージの成れの果てといえよう。

 『空中の楼閣』とも呼ばれる勇壮な古代遺跡などペルー共和国には日本人好みの観光名所も多く、そうした安全なルートであれば現地の人々も喜んで案内するのだが、『エンパナーダ』と呼ばれるミートパイを頬張る偉丈夫は、ツアー旅行のプログラムには間違っても組み込まれない場所へ行きたがり、ガイドを困らせていた。

 折しも謝肉祭カルナバルを直前に控えた時期である。隣国ブラジルほどではないが、ペルーの首都リマで行われるパレードも盛大であり、数日後の本番に向けて熱心にダンスを練習する人々や華やかな装飾が目立ち始めた市内を眺めるだけでも十分に楽しいはずなのだ。

 それにも関わらず、偉丈夫は首都リマで最も危険な場所を強硬にリクエストしたのである。


「ペルーって国の恐ろしさはダンナだってよく知っているはずだぜ。政府のにでもなりたいっていうなら話は別だが?」


 暗に凶悪犯から拉致される可能性をほのめかし、呆れ顔で警告を繰り返すニット帽の男性は日本人である――が、首都リマの事情に通じているということでガイド役を依頼されていた。つまり、貧富の差という歪んだ社会問題と、これによって産み落とされた暴力の恐ろしさを十分に熟知しているわけだ。

 富める者と貧しき者の居住区域を万里の長城と見紛うばかりの規模で物理的に隔絶する壁など、恥ずべき差別意識が形となって横たわる場所も少なくない。酷い低賃金の為に食うや食わずの生活くらしを余儀なくされている港湾労働者が麻薬などを密輸する光景もありふれた日常へ溶け込んでいるそうだ。

 貧困に喘ぐ人々を大勢抱える一方、市内には富裕層や観光客を迎え入れるリゾート地や大きなショッピングセンターなども混在している。地べたを這いつくばる側を蔑む声がそこかしで聞こえてくるのだから、嘲笑の標的まとが殺意にも近い感情を膨らませるのは無理からぬ話であろう。

 リマに於いてボランティア活動を行っている日本のNGO団体とは海を渡る前に幾度も接触しており、そこで得られた情報を偉丈夫は頼みの綱としている。このときに現地の案内も打診したのだが、スタッフの安全を確保できないとして固辞されていたのである。

 長期間に亘ってリマに滞在していたというガイドと、現在いまも同地を拠点としているNGO団体の双方から危険性を諭されても偉丈夫は頑として目的地を譲らなかった。

 彼の視線は大通りと川を跨いで隣接する区域に注がれている。架けられた橋の上には自動小銃を携える軍人が立ち、往来から川向こうに迷い込んでしまう旅行客がいないよう目を光らせていた。

 その物々しい出で立ちさえ見れば、川向こうの区域がどれほど危険であるか、年端の行かない子どもにも分かることだろう。


「半年くらい前にこの首都でバカでかい反政府デモがあったのを知ってるかい? 国家警察長官の汚職も絡んで結構な騒ぎになったし、日本でもニュースになっただろ」


 エンパナーダを美味そうに平らげた偉丈夫は「それがどうした」と言わんばかりに小首を傾げていた。

 屋台で買い求めたミートパイは牛肉や玉葱といった具にチーズを混ぜ、更にカレー粉を加えたものである。偉丈夫の心にはガイドの脅し文句よりもエンパナーダの余韻のほうが遥かに響いている様子だった。


「ペルーの情報収集ってんで娘からネットニュースっつうのを見せてもらったさ。丁度、こっちのデモを取材した回をね。娘の写真は昨夜、見せたっけな?」

「はいはい、メガネのな。ダンナの親バカトークは〝耳タコ〟だぜ。攻守交替ってコトでそろそろガイドのお兄さんのトークに耳を傾けて欲しいがね」

「あんただけが頼りなんだし、最初から傾けまくりだぜ」

「聞き入れて貰えてねーから弱ってんだろ。……デモ隊と警官の双方に死人まで出したんだよ、例の騒ぎは。川向こうの貧民街から何人も出張って大暴れ。連中はを生業にしてるんだよ。デモの映像を観たんなら、この意味が分かるだろ?」

「あれ? 例のネットニュースじゃ秩序あるスラムに潜入してた気がすんだが……」

「真っ当な自治体みたいになった場所もあるっちゃあるけど、そんなのは例外だよ。貧しさが暴力の連鎖を生み出すって理屈くらいは分かるよな?」


 ニット帽のガイドは件の区域エリアのことを『貧民街』と呼んでいる。飲食物などを取り扱う露店が繁盛し、旅行客で賑わう大通りとは対照的に川向こうは昼間でも人気ひとけがなく、廃墟同然のバラックが風に吹かれて軋んでいた。

 砂埃が混じった風である。慣れない旅人は油断した途端に目や鼻をがれてしまうだろう。貧民街を貫く道路には舗装されていない場所も多く、そこを吹き抜けて砂塵を運んでくるわけだ。

 この社会まちの富をほしいままにするひとびとに向かって貧困の〝影〟が目と鼻の先に在ることを訴えているのかも知れない。

 暦の上では二月だが、偉丈夫へ吹き付ける風は身を焦がすほどに熱かった。日本列島で一〇年に一度の寒波が猛威を振るっている頃、地球の裏側では夏真っ盛りなのだ。


「理屈じゃねぇさ、心の底から湧き起こる衝動は。熱い風がオレたちを呼んでるぜッ!」

「楽しい妄想に浸ってるところ、悪いんだけどよ、ナチュラルにこっちを巻き込むんじゃないっての。迷惑料、ギャラに上乗せしちまうぞ」


 偉丈夫の見据えた貧民街は大きな岩山を背にしているのだが、ここにも無数の掘っ立て小屋がひしめき合っていた。遠目には山肌の窪みに木材を埋め込み、無理矢理に小屋らしき体裁を整えているようにも見える。

 貧民街と華やかな大通りとの違いは努めて探さなくとも瞭然であろう。掘っ立て小屋はいずれも不法に占拠された土地に立ち並んでおり、地元の人間は『非合法街区バリアーダス』などと吐き捨てるそうだ。

 ある種の自嘲や諦念を込めているのか、そこで暮らす住民までくだんの呼称を使っているという。都市部での生活を維持できないほど貧しい人々が追い詰められ、やむなく郊外で身を寄せ合うようになったのが『非合法街区バリアーダス』であり、貧富の格差が作り出してしまった社会の膿ともガイドは説明していた。

 やむにやまれぬ事情でもない限り、首都暮らしの人間でさえ貧民街には近寄らないとニット帽のガイドはおどかし続けている。自重を促すのは当然のことで、偉丈夫は危険極まりない区域へ自ら望んで足を運ぼうとしているのだ。


「そんな目立つ恰好で〝向こう〟に行ってみな。襲ってくれっつってるようなもんだぜ」

謝肉祭カルナバルの衣装を試してるって勘違いしてくれるんじゃねぇかな? ほれ、すれ違う人たちもそんな感じの恰好が多いじゃね~の」

「ああ言えばこう言う……! そーゆーのが認識甘いっつってんの。……確か娘さん、成人前なんでしょ? 親の務めは最後までキチンと果たしてやんな。川向こうに行っちまったら、あんた、墓石に無責任野郎って彫られるだろうよ」 

「望むところってヤツさ。オレは三途の川の渡し賃を背負ってるんだぜ!」


 上着の背に金糸で刺繍された紋様をガイドに見せつけながら偉丈夫は大きく笑った。

 古銭を上下に三枚ずつ並べるという紋様は古くから『ろくもんせん』と呼ばれている。

 偉丈夫は戦国武将たちがかっせんにて用いていたと伝承される古い装束――じんおりを背広の上に纏っていた。

 しかも、だ。首の付け根からはみ出すほど伸ばした髪を強引に撫で付け、頭頂部よりやや後ろの位置で束ねた姿は時代劇でやりかたなを振り回す戦国武将のように見えなくもない。結い上げた先端は花弁の如く開いていた。

 こだわりのある髪型に違いないが、不揃いに飛び出した前髪がすだれ状に額を覆い、頭髪全体にもささくれのように毛羽立った箇所が散見される辺り、櫛で撫で付けようにも言うことを聞かない剛毛なのだろう。

 現代の風景に全く馴染む姿ではなく、奇抜としか表しようのない装いで犯罪者の巣窟に立ち入ればガイドから指摘された通りの結末を迎えるのは間違いない。


「……日本人相手に日本語が通じねぇって思ったのは久々だよ……」


 背広に陣羽織というデタラメな組み合わせと同じようにとんちんかんなことばかり口走るのだから、ニット帽のガイドが呆れ返った調子で肩を竦めるのも無理はない。

 そもそも、真夏の南米でなめしがわの上着を羽織るなど正気の沙汰ではなく、犯罪の標的ということを抜いても好奇の眼差しを向けられるだろう。事実、季節感絶無な偉丈夫を指差してせせら笑う人間もいるのだ。

 謝肉祭カルナバルのパレードに仮装は付き物であり、アンデスの民族衣装を選ぶ人間も少なくないのだが、偉丈夫のような厚着はさすがに有り得なかった。

 ペルーの言語ことばに明るくない彼には嘲笑の意味が通じなかったものの、一緒に居るガイドには揶揄の内容が理解できるわけであり、変わり者の二人組などという声が耳に入ったときには「同類みたいに思わないでおくれよなァ」と虚しい自己弁護を洩らした。

 尤も真夏に似つかわしくないニット帽を被っているのは彼も同じなのだ。遠巻きに眺める人々には二月の南米で我慢比べをしている珍妙な日本人としか思われないだろう。

 実際、偉丈夫は全身から景気良く汗を垂れ流しており、目に入る度に背広の袖で乱雑に拭っていた。そのようなことをすればシワやシミ汚れは免れないだろうが、身だしなみを気に掛ける繊細さを持ち合わせているとは考えにくい。

 その上、スパイスたっぷりのミートパイを平らげた直後ということもあって新陳代謝が向上している。脱水症を起こして倒れるのではないかと心配になるような発汗量なのだ。


「……日本に『かいしんイシュタロア』って有名なアニメがあるだろう? 異世界の神サマとやらにパワーを授かった可愛い女の子たちが、何ていうか、ロボットみたいな鎧を着て戦うヤツだよ」


 この状況にほとほと嫌気が差したのか、ニット帽の上から頭を掻いたガイドは急に脈絡のないことを喋り始めた。


「いきなり何の話だよ。てか、そんなアニメ、オレは聞いたこともねぇぞ」

「中学生と高校生だったかな――女の子二人が悲しい戦いを終わらせる為に立ち上がる愛に満ちたストーリーだよ。……空想の世界でなら相容れないハズの人間同士でも手を携えられるがね、アニメと現実は一緒にはできないのさ。分かり合えないものは絶対に分かり合えねぇ」

「あんたの言ってるコト、意味がわかんねーんだって。大体、何だってアニメの話なんか持ち出したんだ? お気に入りなのかい?」

が川のこっちと向こうってワケさ。現実は愛の溢れる展開にはならず、何万もの敵意が豪勢な〝大統領宮殿〟に押し寄せるんだよ。アニメみたいな発想はダンナの恰好だけにしとけって」


 ニット帽のガイド曰く、ペルーでは日本製のアニメも数多く放送されているそうだ。以前、リマへ長期滞在した際に鑑賞した作品を例に引いたわけだが、発言の意図が偉丈夫には何一つとして伝わらなかったらしく、「何でも良いから、とっとと案内してくれよ」と再び急かされてしまった。

 偉丈夫の反応にニット帽のガイドが溜め息を吐いたのは言うまでもあるまい。


「ここまで言っても分からんようなら、残念だが、ダンナとは手切れだな」


 強情を張り続ける偉丈夫に愛想が尽きたのか、ついにニット帽のガイドは勝手にするよう言い出した。「同行してるときに〝何か〟あったら、こっちの評判まで下がっちまうんでね。共倒れを笑って済ませられるほどダンナとは親しいわけでもないし」と背中を向ける始末である。


「昨夜、呑んだときはどこでも案内するって豪語してたじゃねーか」

「それとこれとは話は別だ。この場合の『どこでも』の中に貧民街なんか入るかよ」


 今にも立ち去ってしまいそうな態度には、偉丈夫も困り顔で肩を竦めるしかなかった。


「折角、ここまで来たんだから、ちょいと散歩気分で行ってみようぜ。なァ?」

「現地のことを理解してねぇ旅人に限って無茶振りするもんだがね、そういうのは好奇心じゃなくて自殺行為っていうんだよ」

「顔に似合わず悲観的だなぁ、あんたも。こう見えてもオレ、腕に覚えがあるんだぜ?」

「この間のテレビも見たさ。確かにダンナは強い。でもな、だからと言って、ナイフみたいなモノには勝てないだろう? 大昔にいたろ、刃物にられたプロレスラーが。の連中はそういうのが大得意なんだよ」

「例えが渋いねぇ~! そこでそいつを持ち出してくるとは恐れ入ったぜ!」

「よくぞまぁ、この噛み合ってない感に今まで耐えられたもんだ。心底、自分で自分を褒めてやりたいぜ」

「お前さんだって腕利きじゃんか。オレたち二人なら刃物なんざ目じゃねーよ」

「新しい仕事を始めたばっかりだし、俺も命が惜しいんだよ。……向こうには入りにくい理由もあってなァ」


 翻意を促す偉丈夫だったが、「こっちは本業でもないのに道案内しているんだ。その助言にも従わない人間の面倒なんか見切れるもんか」とまで言われては、さすがに諦めざるを得なかった。甚だ心許ないものの、こうなった以上は拙い現地語とボディーランゲージで乗り切るしかあるまい。

 決心を固めた偉丈夫はニット帽のガイドに「ガイドの代金は教わった銀行に振り込んどくよ」とだけ言い置くと、さっさと橋のほうに歩を進めていった。


「ダンナ? おい、ダンナ⁉」


 彼が諦めたのはガイドによる道案内と通訳である。この橋を渡らないという選択肢は最初からなかったようだ。

 まさか、誰の案内もなく単身で貧民街に乗り込むとは想像しなかったのか、ニット帽のガイドは唖然呆然と偉丈夫の背中を見送るばかりであった。羽交い絞めにしてでも自殺行為を食い止めなければならないところだが、既に彼は手の届かない距離まで移っている。

 川向こうに棲み付いた犯罪者たちの恐ろしさを知っているニット帽のガイドは、追い掛けてまで食い止めるのは割に合わないとかぶりを振り、それでも日本からやって来た雇い主の身を案じて「って叱られるような事件になっても知らないぜ」と、逞しい背中に呼びかけ続けた。


「自分は責任取らないからな、がくのダンナぁ」


 ニット帽のガイドの声に片腕を突き上げて応じた偉丈夫――〝岳〟は、既に橋の半ばまで到達していた。

 監視の兵に怪訝な視線を向けられながらも橋のど真ん中で腕組みした岳は、目の前に広がる貧民街を感慨深げに見つめ、ひとしきり頷いたのち、深い溜め息を唇より滑らせた。

 橋の上に立つとリマの風土を一等強く感じられる。物理的に接近しているわけだから当然なのだが、貧民街の側から漂ってくる臭いも鼻腔をくすぐるようになるのだ。

 何とも例え難い異臭であった。嗅覚が敏感な人間であれば、微かに混ざった死臭をも嗅ぎ分けられることだろう。岳も何とか吐き気を堪えた程である。

 それもまたこの国の抱える〝現実〟なのだ。

 その〝現実〟を見据えた岳は「来たぜ、……二人とも」と、ここには居ない〝誰か〟に語りかけた。

 彼の視線は地上の貧民街より更に先の岩山――『サン・クリストバルの丘』に向かっている。先ほど別れたニット帽のガイドから聞かされた話によれば、古代インカの時代より〝聖なる山〟として信仰を集めた場所だという。

 『サン・クリストバル』という名称自体は古代インカを征圧したスペイン人に付けられたもので、語源は聖クリストフォロス――意味するところは「主を背負う者」。元々は旅人の渡河を手助けしていた者であり、転じて旅人の守護聖人と信じられている。

 丘の頂上に立てられた巨大な十字架は聖人の象徴とも呼ぶべき物で、ペルーを訪れた旅人に大いなる祝福を授けているのだ。

 尤も、古代から現代に至る悠久の時の流れは聖人の加護すら薄めてしまうようだ。不用心にこの地を訪れた旅人は貧民街に潜む圧倒的な暴力に呑み込まれ、惨たらしい餌食となるのである。

 丘陵の斜面にへばりついた掘っ立て小屋は〝聖なる山〟までもが暴力の温床であることを意味しているのだった。この地に根付いていた人々の営みを異なる文明で斬り従え、その果てに打ち立てられた十字架の加護など届かないということかも知れない。

 侵略した側とこれを受けた側の文明が混在するというペルーの複雑さを表すあの丘こそ岳が最後に目指す場所なのである。

 あの丘のどこかに捜し求めるモノがある。長らく手掛かりを求め続けた末にようやく現地のNGO団体から有力な情報を得て、捜索まで漕ぎ着けたのだ。

 危険ということだけで引き下がるわけにはいかなかった。


「……尋ね人のビラでもバラ撒けりゃラクなんだが、ここは足で稼ぐしかねぇもんな」


 いつまでも腕組みしたまま動かないことを不審に思ったのか、橋を監視する兵士の一人が岳に近付いてきた。

 その兵士はペルー共和国にて広く用いられているスペイン語で何事か尋ねているが、同地の言語ことばに不慣れな岳には殆ど喋っている内容が分からない。

 今こそ助け舟を出してはくれないかとニット帽のガイドが待機しているはずの方角を振り向く岳であったが、当人の姿はどこにもない。手切れと宣言した通り、早々に引き上げてしまったようだ。

 彼には道案内を依頼していただけであり、本来の目的は明かしていない。貧民街で為そうとしていたことを伝えていれば、あるいは力を貸してくれたかも知れないが、事情が事情だけになかなか大っぴらにもできないのだ。


「そりゃあ、悪いのはオレなんだがよぉ、せめて、橋を渡り切るまで見送ってくれたってバチは当たらねぇと思うぜぇ? 薄情ったらありゃしねぇ」


 唇を尖らせつつ文句を垂れる岳であったが、正面に立った兵士が何を言いたいのかは身振り手振りから推察できるようになった。「橋向こうは危険地帯なので、絶対に近付かないように」と、ニット帽のガイドと同じような警告を発しているのだろう。自分が彼の立場であったなら、同じ言葉を旅行客に掛けるはずである。

 努めて友好的な笑顔を作った岳は、まるで古くからの付き合いの如く親しげに相手の肩を叩き、次いで驚いている彼の手にペルー共和国でも流通している一〇〇ドル紙幣を何枚も握らせた。

 ひょっとすると一ヶ月分の給与に相当するのではないかと思えるような枚数を惜しみなく渡している。

 古今東西のいかなる国に於いても通用するだろう常套手段で兵士の信頼を岳は、彼の手引きを受けて滞りなく貧民街へと向かっていった。他の兵士には「の住人」などと紹介したようだ。

 今まさに橋を渡り切ろうとしているが、もはや、岳を追い掛けてくる者はいない。くだんの兵士からさりげなく「よき旅を」と背中を押されたときには、さすがに膝から崩れ落ちそうになったものである。スペイン語には自信のない彼でも、旅の最中によく使う挨拶くらいは覚えているのだ。


 岳が踏み込んだ貧民街はまさしく首都のであった。

 区域全体を闇が包んでいることは遠目にも見て取れたのだが、謝肉祭カルナバル用の花飾りなどが施された表通りを通過した直後だけに、寒々しい闇の濃さが痛いくらいに伝わってくるのである。橋の上で嗅いだときと比べて死臭も数段強くなっていた。

 やはり、家屋らしい家屋は殆ど見られない。土台も何もなく木片をバラックに見えるよう組み立てただけのが密集しており、崩落した残骸もあちこちに散乱している。こうした瓦礫の山が足場を悪くし、道も塞ぎ、貧民街全体を一個の巨大な迷宮へと変えているのだ。

 瓦礫を掻き分けるようにして開かれた傾斜を岳はひたすら登っていく。サン・クリストバルの丘に広がる掘っ立て小屋を一戸ずつ訪ね歩くことまで彼は覚悟していた。

 しかし、手掛かりは余りにも少ない。目的地へ至る道順を住人に尋ねたいのだが、何しろ人影がまばらで、大抵は掘っ立て小屋の中に引っ込んでいるか、物陰からを品定めしている様子なのだ。それが証拠に貧民街へ足を踏み入れて以来、視線だけは異常なくらいに感じていた。

 少しばかり開けた場所でサッカーボールに興じていた子どもたちでさえ部外者が自分たちのに入って来たと見て取るなり、舌なめずりしながら散らばっていったのである。


「……如何にもって雰囲気で歓迎してくれるじゃねぇの」


 外国人旅行客も多い華やかな大通りとは異なり、貧民街ここには常に死の気配が垂れ込めている。そして、岳は同じような場所が首都リマの市街地にあることを知っていた。

 橋向こうの有り様を振り返ったとき、岳の脳裏に甦ったのは一九九六年から翌九七年にかけて発生した未曽有のテロ事件の舞台、在ペルー日本大使公邸――その跡地である。

 事件後、日本大使公邸という施設そのものが別の場所に移転され、多くの血を吸った忌まわしい建物は、まるで悲劇の痕跡を打ち消すかのようにして完全に取り壊されている。

 長らく空き地となっていたところをマンション用地として買い手が付いたようだが、工事用の分厚い衝立で囲まれた旧跡地の前に立ったとき、岳は確かに死の気配というものを感じたのだった。


(向こうで感じたのは亡霊の気配、こっちは亡霊にされそうな気配――成る程、ガイドの助言がビンビン効いてきやがったぜェ)


 と言ってしまえばそれまでかも知れないが、テロ事件の折には岳の親友も人質として身柄を拘束されていたのだ。我が身を切られるような思いで連日の報道を受け止め、解決までの数ヶ月間は生きた心地もしなかったのである。

 岳の親友は、最終的に人質となった二五人の日本人の中で最年少であった。それがマスコミの関心を惹いたのか、帰国後には何度かテレビの報道番組向けにインタビューも受けていた。

 「奇跡ミラクルの二五人目」なる大仰な見出しが記事に付けられていたことを想い出し、闇の只中を進んでいるというのに岳は笑い声を上げそうになってしまった。

 犠牲者への配慮から中止となったのだが、悪趣味な企業は彼を主人公にして日本大使公邸占拠事件の映画化を目論んでいたくらいなのだ。映画制作の話を持ち込まれたときに親友が晒した表情が岳には忘れられなかった。唖然呆然とはこのことかと笑い飛ばしたものである。

 そして、その親友から託された『一生に一度の我がまま』を承諾し、岳は地球の裏側までやって来た次第であった。


「……我がまま――か。オレもお人好しっつーか、何つーか。何にしても、ニューヨークからリマへの直行便が出てて助かったぜ」


 追憶と思案に耽りながら路地を歩いていた所為で、岳は危うく目的地を通り過ぎるところだった。


「――って、おいおいおいおい。マジかよ、おい⁉」


 慌てて引き返したものの、到着直後に今度は途方に暮れてしまった。


「あのバカ……もう何も残ってねぇじゃねぇか……どうなってんだよ、こりゃあ……」


 愚痴の一つも零したくなって当然であろう。親友から教えられた住所を訪ねたはずなのだが、辿り着いた先には家屋など存在していなかったのである。

 正確には残骸と思しき木片だけが撤去もされずに散らばっていた。


「そりゃあ、無茶は言えなかったけど、人に頼み事するなら肝心なコトくらい調べとけよなぁ……」


 大弱りとなった岳は背広の胸ポケットから携帯電話スマホを取り出し、電話帳機能の中から一番目に登録された番号を選択する。必要な操作を終えて耳に押し当てると受話口から女性の歌声が聞こえてきた。どうやら電話を掛けた相手は生演奏の楽曲を呼び出し音として設定しているようだ。

 その声には聴き憶えがあった。少し前に面接試験のような場を設けた相手でもある。岳自身は芸能界やタレントに詳しくないのだが、記憶違いでなければ声優をしているさら・バロッサという女性であったはずだ。

 「カルマれんかん果てしなく」「生命いのちの波動はパンゲア未満を超えるシンクロ」などと芝居がかった言葉をオーケストラの生演奏に乗せて織り上げる勇ましい歌は、いわゆる〝アニソン〟であろう。

 ペルーの片隅で日本語の〝アニソン〟が響くのは携帯電話スマホの電波が途絶えていない証拠である。貧民街スラムとはいえ首都リマの中心地から極端に離れているわけではないのだ。液晶画面に〝圏外〟の二字が表示されなかったことを岳は不幸中の幸いと噛み締めていた。

 自分の携帯電話スマホから漏れ続けるものがニット帽のガイドの挙げていた『かいしんイシュタロア』の主題歌であることなど岳には知る由もない。


 岳がペルーから飛ばした電波は地球の裏側へと無事に到達し、自宅に転がっている一台の携帯電話スマホを鳴らした。仄暗い室内に鳴り響くのは彼が異境で聴いているものと同じ歌声である。

 ペルーと日本に一四時間もの時差があることを岳はすっかり忘れていた。彼の立つ首都リマを灼熱の太陽が照らしているのなら、必然的に地球の裏側は凍えるような真っ暗闇に包まれていなければおかしい。電話を掛けた相手とて寝床に入った後かも知れないのだ。

 運が良かったというべきか、携帯電話スマホの持ち主は照明あかりも点けずに頭から毛布を被り、真剣そのものの面持ちでデスクトップ型パソコンに向かい合っていた。

 集中を妨げられたことが癪に障ったらしく、後方うしろのベッドに放り出していた携帯電話スマホが『かいしんイシュタロア』の主題歌を奏で始めた瞬間に「マジで冗談じゃないよ、なに考えてんの」と文句を垂れた。

 幼さが抜け切っていない顔立ちからして年の頃は一〇代半ばであろうか。モニターより漏れ出した光を丸メガネのレンズに映しているのは高校生と思しき女の子である。

 尤も、夜遅くまで宿題に励んでいたわけではない。差し向かいのモニターには立体的に三次元描画されたキャラクターや校舎と思しき背景が表示されているのだ。

 いわゆる、〝ネットゲーム〟に興じていたのである。

 パソコンチェアの座面を回転させて振り返り、毛布を乱暴に投げ捨てながら携帯電話スマホを取り上げたのだが、趣味の時間を邪魔されたことがよほど腹立たしかったのか、「こんな夜更けに何の用なの?」と、これ以上ないくらい不機嫌な声で応答した。


「おいおい、何だァ? やたらテンション低いぞ。寝てたのか、未稲みしね?」

「お父さんが無駄に能天気なだけだよ。……それで何なの? 忙しいんだから用事なら手短にお願いね」

「忙しいって、お前、どうせファミコンで遊んでたんだろ」

「ファミコンじゃなくて〝パソゲ〟だし、厳密には〝ネトゲ〟だし」


 無造作に伸ばされた髪はボサボサに乱れている上に枝毛だらけ。衣類にも無頓着でくたびれたジャージを適当に着ているのみ――自堕落という言葉を絵に描いたような少女のことを岳は『未稲みしね』と呼び、反対に彼女の側では『お父さん』と応じている。

 八雲未稲――日本で留守を守る岳の娘は数日ぶりに聞く父の声よりもネットゲームの進行のほうが大事なようで、通話状態を継続しながらもモニター内に表示されている文章テキストばかりに意識が向いていた。

 彼女が熱中しているのはインターネット回線を通じて世界中のプレイヤーと一緒に遊ぶ『エストスクール・オンライン』というタイトルだ。仮想空間バーチャルの広大な『学校』を舞台とし、『生徒』になりきったプレイヤーが力を合わせて様々な事件イベントを解決していくのだ。

 大規模多人数同時参加型RPGロールプレイングゲームとも呼ばれるものである。

 『仮想空間バーチャルの学生』という基本ルールに則っている為、ゲーム画面で動き回る夥しい数のキャラクターは男女問わず色とりどりの学生服を纏っていた。学ランやブレザーなど制服の種類やデザインも自由に選べるようだ。

 キャラクターの頭上には横罫線のノートを模した小さな吹き出しが表示されている。プレイヤーの発言が即座に反映されるものであり、未稲の双眸はその文章テキストを必死に追い掛けていた。

 現実の世界と同じようにゲームの世界もリアルタイムで進行している。キーボードから手を離した為に彼女の操作するセーラー服のキャラクターだけが周囲から取り残される状況となったわけだ。

 黄色を基調とした襟と袖口に緑の二本線が入ったセーラー服である。プリーツスカートは襟と、スカーフはそこに走る二本線と同じ色のようだ。純白の布地に鮮明な陰影かげを付けるほど胸部の自己主張が大きい。

 『シャーラ』と称するプレイヤーにはノート型の吹き出しを通して状況を尋ねられ、間を置かずに『デザート・フォックス』なるプレイヤーから安否を気遣う電子メールがパソコン宛てに届いた。

 いよいよ急かされているような気持ちになってきた未稲には地球の裏側から掛かってきた電話が忌々しくて仕方がない。一刻も早くゲームの世界へ復帰したいのだが、そんな焦りを弄ぶかのように父は無駄話ばかりを並べ立てるのだ。

 宿泊先のシャワーが壊れていたという話など知ったことではなかった。『学校』の動物小屋を牛耳る大ボスキャラ『共食いウサギ』を仕留めようという矢先に足並みを乱した恰好なのだ。

 この状態がいつまでも続くようであれば、同じグループで遊んでいる仲間たちの機嫌を損ねてしまうだろう。その所為せいで居場所がなくなる事態だけは避けたかった。


「……で、何なの? お目当てのコ、実はもう死んでたとか?」

「バカヤロ、縁起でもねェコト言うんじゃねぇ。まだ捜索活動の途中だよ。パソコンの前にいるんなら都合が良いや。お前にもちょいと手ェ貸して欲しいんだ」


 焦りと苛立ちから物騒極まりないことを口走る娘に岳は調べものを頼んだ。ここ数年の間にリマで起こった自然災害を簡単にまとめて欲しい欲しいというのである。


「大きな災害だけで良いんだよね? それなら何分も掛からずに調べもつくと思うけど、折り返しちゃダメ?」

「このままで良いよ。そんなに待たねェんだろ? ちょちょいと調べて教えてくれや」

「てゆーか、通話できるんならネットも使えるでしょ。私に頼むより自分で検索したほうが早くないかなぁ……」

「オレみたいなアナログ人間がネット検索なんてしてみろ。ペルーの天災じゃなくペリー提督に行き着いちまわァ。今は文明開化より文明の利器が頼りなんだぜ」

「無理して頭良さそうなギャグ考えなくていいから。笑いのツボが思いっ切り迷子だし」


 自分の提案に耳を傾けようとしない父に溜め息を吐く未稲であったが、扶養されている身分である以上、面倒臭くとも断るわけにはいかない。

 モニターに向き直った未稲は右肩と頬でもって携帯電話スマホを挟み、通話状態を維持しつつキーボードを叩き始めた。

 間もなく『エストスクール・オンライン』のゲーム画面に離席中であることを示すアイコンが出現した。一緒にグループを組んでいるプレイヤーたちに一時中断を申し入れたわけである。

 桜色のカーディガンを肩から引っ掛け、栗色の長い髪を首の付け根辺りで結わえたブラウス姿の女子高生キャラクターを操作する『シャーラ』に「急用が入っちゃったから一〇分くらい外します。寝落ちじゃないです」と返信した未稲はインターネットの検索画面を立ち上げた。


「しみったれた話って言われるかもだけど、海外から何分も電話していて大丈夫なの?」

「なァに言ってやがるんだよ、お前。アンテナが死んでねェから、こうして喋っていられるんじゃねぇか。日本の携帯電話スマホはさすがだよ。スラム街の真ん中でも電波拾うんだぜ」

「そうじゃなくて海外から日本こっちに電話を掛けると、一分何百円ってレベルで通話料が飛んでくって聞いたよ」

「マジでしみったれた話じゃねーか、オイ。ンなセコいことばっか抜かしてっからいつまで経っても色気のねェ胸なんだぜ」

「全ッ然関係ないでしょーがッ!」


 断崖絶壁の如く平たい胸部を茶化された未稲は「セクハラ訴訟に持ち込んだって構わないんだからね⁉」と通話口に怒鳴り声を叩き付けた。

 同い年の少女と比べて胸元の発育が心許ないことは未稲本人も自覚しているが、それを不自由に感じたおぼえは一度もない。せいぜい操作キャラクターに自分の体型を反映させなかった程度であろうか。

 だからといって人から冷やかされて逆上しないほど達観もしていないのである。そもそも、これはデリカシーを欠いた父にこそ非があるはずだ。


「うちは億万長者でもないんだから湯水の如くおカネを使うなって言ってんの! 旅費の精算次第では来月からお父さんのお小遣い、目減りするから覚悟しといて!」


 文句を垂れつつ指示通りにペルーの自然災害について検索してみると、二〇〇〇年から現在までに三度も大きな地震が起きたことなど幾つかの情報が表示された。

 沿岸部に寒流が行き着く影響こともあってリマ周辺の降水量は非常に少ないのだが、その一方で豪雨となれば洪水によって深刻な被害が発生することもあるという。

 インターネットの検索結果をそのまま伝えると、地球の裏側から電話を掛けてきた父は「……大雨か」と、喉の奥から絞り出すように呟いた。

 それを必要とする理由も知らされないまま指示通りにリマの自然災害について調べていた未稲の顔に不安の色が滲み出している。夕食を摂りながら眺めたニュース番組では特に触れていなかったが、ひょっとすると滞在先で自然災害に巻き込まれたのかも知れない。

 何しろ日本も異常気象で苦しめられているのだ。記録的な寒波の到来で東京でも降雪が確認され、毛布でも被っていないとネットゲームで遊ぶことさえ困難である。同じような状況が南半球でも起きてしまったのだろうか。


「お父さん、何か良くないことでも――」


 一体、何がペルーで起きているのかを尋ねようとした瞬間、何の前触れもなく通話が打ち切られてしまった。おそらくは電波が途絶えたのではなく気になる〝何か〟が視界に入り、そちらに意識を引き寄せられたのだろう。

 目先の出来事へ一直線に突っ走ってしまう性格であることは娘の未稲が誰より理解わかっているのだ。


「――せめてお礼くらい言いなさいよ、クソオヤジっ!」


 ネットゲームを邪魔された苛立ちまでぶり返してきた未稲は、忌々しげな舌打ちと共に携帯電話スマホをベッドに放り投げた。

 今夜は二度と『かいしんイシュタロア』の主題歌が流れることはないだろう。本当に差し迫った事態であれば電話を掛ける余裕もないはずだ。暢気な雑談などもってのほかである。


「今から急いで戻ってもボス戦には間に合わないよねぇ。……いいや! とりあえずリアルな気力体力を回復しとこう!」


 急に割り込んできた頭脳労働も終わり、集中が途切れたところで小腹が空いていることを自覚した未稲は夜食にインスタントのカレーうどんでも作ろうと、労をねぎらいもしなかった父への文句を引き摺りながらリビングルームに向かっていった。

 未稲が背を向けたパソコンには先程の電子メールが読まれていないことを不安に思ったらしい『デザート・フォックス』から二通目が届いたところである。


 地球の裏側で自分の悪口が吐かれていることなど知る由もない岳は、瓦礫の一点をただただ凝視していた。途中で通話を打ち切ってしまったのは、未稲が考えたように見過ごせない物をそこに捉えたからである。

 家業で用いる手拭いを表札代わりに軒先へ吊るしている。それが一番の目印になるだろう――と岳は聞かされていた。果たして、親友から教わった通りの布切れが瓦礫に混ざっていたのだが、だからこそ天を仰いで嘆息したのである。

 うず高く積み重なった木片が下半分を咥え込んでいる為に引っ張り出すことも叶わない布切れには〝角字〟と呼ばれる珍しい字体で『天飾』と記されている。それはつまり、海を渡ってまで目指してきた建物の崩落が証明されたということだ。

 弱ったように頭を掻きながら瓦礫の山を見下ろしていた岳の視界に、ある物が飛び込んできた。

 その場に勢いよく屈み込んだ岳は残骸の中から一枚の額縁を引っ張り出すと、これを大事そうに手に取り、かつてここで暮らしていた人に思いを馳せた。

 家財道具の類は何者かに運び出されたようだが、大して値打ちもなさそうな額縁ものは捨て置かれたようだ。名の知れた画家の物ならばいざ知らず、何をモデルにしたのかも分からない子どもの落書きであった為、無価値と判断されたのも頷ける。

 しかし、岳にとっては在りし日の温もりを感じさせる大切な名残であった。


「……もうひと踏ん張りだな。忘れ物を返さなきゃならなくなっちまったもんな……」


 ボロボロの額縁を右脇に抱えながら立ち上がった岳は再び貧民街の只中を歩き出した。

 隣近所へ尋ねようにも空き家ばかりで、差し向かいのバラックでは生死すら定かではない老婆が絨毯の上に身じろぎ一つせず横たわっている。下手に接触を図ろうものなら面倒なことに巻き込まれ兼ねないと判断した岳は、挨拶も交わさずに退散を決めた。

 このままでは親友から託された頼み事を全うすることができない。貧民街の裏路地を歩きながら、どうしたものかと左の親指で顎を擦った岳は、改めて額縁を手に取った。依然として全体像は掴めないのだが、辛うじて子どもの絵ということは察せられる。

 そのヘタクソな絵から一つの着想を得た岳は、「子どものことは同じ子どもに訊くのが手っ取り早いか」と自らの呟きへ納得したように頷いている。

 早い話が新しいガイドを貧民街で現地調達しようというわけだ。

 丁度、穏やかならざる気配も近付いてきたところであり、適当な人間を捜す手間が省けるというものだった。


「こういう場合、ペルー式だと舌なめずりをすりゃいいんだっけか?」


 その気配は秒を刻むごとに近付いてきている。並みの人間は忍び寄る恐怖に立ち竦んでしまうだろうが、岳にいわせれば、鴨が葱を背負ってやって来たようなものなのだ。

 その直後のことだった。突如として岳が空中に飛び跳ね、やがて陣羽織の裾を靡かせながら後方に着地した。傍目には曲芸のようにも見えただろうが、これはれっきとした回避行動であった。

 一秒前まで彼が立っていた場所に勢いよくサッカーボールが飛び込んできたのである。


「オレも小せぇ頃は地元のクラブに入ってたがよ、ボールは友達! 人にぶつけるモンとは教わらなかったぜ!」


 どこかの誰かが見当違いの方角にボールを蹴飛ばしてしまったということではない。寸分の違いもなく岳の頭部を狙っており、これをもって明確な攻撃と認識することができるわけだ。

 岳は自分に向けられた殺気を逸早く察知し、これを曲芸じみた動作うごきでもって避け切ったのである。

 先制攻撃をかわされて苛立ったのか、野卑な喚き声を引き摺りつつ物陰から一〇名程度の人影が飛び出してきた。岳が貧民街で迷っているときに見掛けた少年たちである。

 彼らに襲われることも岳には想定内であった――といっても、サッカーボールが飛んできた段階で勘付いたわけではない。最初に遭遇した時点で、いずれ必ず彼らは牙を剥くと見極めていたのだ。

 ボロボロの服を纏わざるを得ない貧民街の住人とは違い、真新しい背広を纏った小奇麗な日本人。おまけに珍妙な上着へ施された刺繍は金色に煌めいている。格好の獲物と目を付けられるのは当然であろう。

 貧民街に少年強盗団が出没することはペルー入国前から把握していた。先ほどまで行動を共にしていたニット帽のガイドにも彼らの行動パターンを教わっている。まずは殺傷力の低い物で攻撃し、相手を油断させたところで袋叩きにするのが常套手段だという。

 少年強盗団の中には容器入りのケチャップやシャンプーを持っている者も見られるが、これらも目つぶし用の武器なのだ。顔面に溶液を浴びせかけ、怯んだ隙に金品を奪うという算段であった。

 リーダー格の少年は標的と定めた相手に向かって舌なめずりを披露してみせたが、この時点で強盗団としての程度レベルも知れているのだ。本当に手慣れた人間ならば威圧など挟まずに攻め掛かったことだろう。

 だから、岳にも怯む理由がなかった。わざわざ一人の人間を取り囲み、接近戦に持ち込んだということは拳銃の類は所持していないはずだ。


「ちょい待った。五分でいいからオレの話を聞いてくれ。この辺に住んでたハズの人を捜しているんだが、地元っ子のキミらに手伝って欲しいんだよ。二ヵ国夢のタッグマッチと行こうじゃねーか」


 自分を取り囲んだ少年たちを順繰りに見回した岳は、身振り手振りを交えて話しかけていった。慣れないスペイン語である為にぎこちないが、万国共通のコミュニケーションとばかりに友好的な笑顔は崩さない。

 先ほどの跳躍から只ならぬ気配を感じ取ったのか、強盗団の構成員は岳に対して及び腰となっていた。ケチャップやシャンプーの担当も恰好ばかり構えを取るだけなのだ。

 それが気に喰わなかったらしいリーダー格の少年は片手に持ったナイフを振り回しながらスペイン語で罵詈雑言を飛ばしてくるのだが、生憎と岳には何を喋っているかが分からず、彼が息継ぎをするタイミングを見計らって露骨に肩を竦めて見せた。


「自分で自分の言ってること、ホントに分かってんのか? ちなみにオレは分からねぇ」


 当然、リーダー格の少年は逆上し、ナイフでもってデタラメに斬り付けてくる――と見せ掛けて、岳の背後まで回り込んでいた大柄な少年が彼の首を絞めようと両腕を伸ばしつつ突進してきた。

 逆上したように見えたのは、全て猿芝居であり、ペルー国外から訪れた人間に向けた作戦なのである。怒涛のようにスペイン語で捲くし立てても、大抵の外国人旅行者には通じない。そのことで短気を起こしたと相手に思わせ、正面から狙いも何もないような攻撃を繰り出して注意を十分に引き付けておいて、背後から伏兵を差し向けるという大人顔負けの奇襲なのだ。

 抜け目のない悪知恵と言うべきかも知れないが、相手との力量が圧倒的に離れている場合、どのような奇策をもってしても容易く引っ繰り返されてしまうものだ。事実、岳も背後の伏兵には最初から気付いており、その上で今まで泳がせていたのである。


「スジは悪くねぇんだけど、ちょっと踏み込みが浅いぜ、少年!」


 首を絞めようとする動きに逆らわず、腰を捻りつつ身を屈め、これによって後ろから伸ばされた両腕を避け切ると、すかさず右掌を少年の腹部に押し当て、次いで左手一本で全身を持ち上げてみせた。


「お? こいつは結構、腕の筋肉になァ。このままトレーニングに付き合って欲しいもんだ!」


 子どもとはいえども、相手は一〇〇キロに手が届くかと思われるような巨体である。それを片手のみで放り投げた岳は、落下してきた彼を同じ側の腕で抱き止め、流れるような動きで地面に立たせてやった。


「オレの国じゃあ赤ン坊あやすときにやってやるんだよ。『高い高い』ってな!」


 空前絶後の体験をした大柄な少年は戦意喪失状態となり、その場に弱々しくへたり込んでしまった。

 彼ばかりではなく強盗団を構成する誰もが岳の腕力に恐れおののいていた。一〇〇キロもの巨体を片手一本で制するなど尋常ではなかろう。


「……ディ、ディアブロ……?」

「こっちの言葉で悪魔って意味だっけな? これでもオレ、善玉キャラなんだがよォ」


 目の前に立つ戦国武将のような偉丈夫には決して敵わないと認識したリーダー格の少年もナイフを取り落としてしまった。これほどまでの強敵を相手にした経験など少年たちにはなかったのだろう。皆が皆、互いの顔を見合わせながらどよめき続けている。

 彼らの目的は戦闘そのものではなく、あくまでも金銭などの強奪である。基本的には力の弱そうな人間を狙っており、想定外の抵抗を受けた場合は袋叩きにして始末をつけていたのだが、この偉丈夫にはあらゆるが通用しそうにないのだ。


「オレの話に耳を傾けてくれるみてェだな。ありがてェぜ!」


 戦意と敵意を挫いたと見て取った岳は、改めて友好的な笑顔を作ると、「キリサメ・アマカザリって男の子を知らないか?」と一同に向けて片言のスペイン語で尋ねた。

 キリサメ・アマカザリ――日本語で記述すると天飾霧雨。それが岳の尋ね人だった。

 「こんな絵を描く子らしいんだけどさ」と右脇に抱えていた額縁入りの絵をかざして見せる岳だったが、キリサメ・アマカザリという名前を耳にした瞬間、少年強盗団は一人残らず仰け反り、示された手掛かりなど全く見ていない。目を凝らして確認するだけの余裕もなさそうなのだ。

 スペイン語は分からなくとも、少年たちがキリサメの名前に恐怖していることだけは伝わってきた。


「お、おいおい? どうした? まさか、下町のアイドルってんじゃねぇだろうな、キリサメくんは?」


 今度は岳のほうが目を丸くする番であった。

 それは全く予想外の反応だったのだ。強盗団に身を堕としているかどうかはともかく、貧民街を根城にする少年同士であれば、どこかで名前くらいは聞いたことがあるかも知れないと期待していたのだが、どうも彼らの反応を見る限り、キリサメ・アマカザリの名前は悪い意味で知れ渡っているらしい。

 あるいはガイドの前で人探しが目的であることや、キリサメ・アマカザリという名前を出さなかったのは正解だったのかも知れない。


「……キリー、捜して……どうする……お前……警察か……日本の……?」


 頭を掻きながら困惑している岳に向かって、リーダー格の少年が質問を返してきた。これもまた仰天すべき事態なのだが、彼は片言ながらも日本語を喋り始めたのだ。


「……日本の警察にまで……目を付けられるなんて……あいつ……どんな大物を……」

「警察と来たか。そんな物騒な話じゃないよ。ちなみにキリーっていうのはキリサメくんのことだね? おじさんはね、彼の親御さんとマブダチなんだよ。あ、マブダチっつっても通じないか。友達、友達ね」


 リーダー格の少年へキリサメを逮捕しにやって来たわけではないと説き聞かせつつ、岳は強盗団が晒した酷い狼狽について分析していく。

 今もまだ少年たちの顔は引きったままである。それほどまでにキリサメ・アマカザリという名前のショックが大きかったということだ。

 リマに限ったことではないのだが、暴力の横行する貧民街では強盗団同士の抗争も絶えず起こっているようだと岳は聞いていた。そして、〝通常〟の人間関係に於いて相手に極度の恐れを抱くようなことは少ない。この二点から想像する限り、キリサメの名は裏路地にて轟いたものと察せられるのだ。

 少しばかり厄介なことになったと思う反面、キリサメを産み育てた人間の影響を考えれば、腕力に物をいわせるような人間になっていたとしても不思議ではないと妙に納得してしまう。彼の母親は実にな人間で、岳も過去には何度となく叩かれていた。平手打ちの回数など軽く三〇は超えているはずだ。


「……ミサトおばさんの……友達……?」


 少年の言葉を受けて、またまた岳は双眸を見開いた。彼が口にしたのは、まさしくキリサメの母親の名前なのだ。


「キミ、見里さん一家を知ってんの⁉」


 今まさに振り返っていた名前ということもあって、岳は裏返り気味の声で聞き返してしまった。


「ミサトおばさ――お姉さんに……勉強……少し……教わったから……それで日本語も……覚えた……」

「わざわざ『お姉さん』って言い換えちまうのが涙ぐましいぜ。……パイルドライバーでも喰らったか?」

「おれはコブラツイストとかいうの……やられたくらい……ときどき……キリーはヘッドロックかまされてたけど……あ、態度の悪かったヤツはアイアンクローってので……持ち上げられてた……」

「日本だったら一〇〇パー体罰、即訴訟ってとこだぜ⁉ 大人気おとなげねぇにもほどがある!」


 彼が言うようにミサト・アマカザリは自宅で私塾を開き、学校にも通えない貧民街の子どもたちに無償で勉強を教えていた。岳の手の中にある額縁を拾い上げた場所こそがその跡地なのである。

 短期間であってもミサトの私塾に通い、また、彼女の息子を『キリー』などと愛称ニックネームで呼ぶということは親しい間柄に違いない――が、それならば、どうして怯えたようにキリサメの名前を口にするのか。

 動揺する中で落としてしまったナイフを拾い上げたリーダー格の少年は、虚勢でも張るように切っ先を岳に向けたのち、どこか悲しげにかぶりを振った。


「あいつには……関わらないほうがいい……命が幾つあったって……足りない……」

「キリサメくんに……かい?」

「オレたちだって……近付きたくないんだ……キリーには……」


 ズボンのポケットから引っ張り出したバンダナでナイフを包みつつ、リーダー格の少年が首を頷かせる。


「……あんたはきっと……キリーのこと……何もわかってないと思う……」


 キリサメとは会わないほうがいいと、彼は警告している。口には出さないが、他の少年たちもリーダーと同じ気持ちでいるようだ。


「……それでも、会わなきゃならねぇんだよ。オレはな――」


 改めてキリサメの情報ことを尋ねる岳の声は、さすがに緊張していた。

 くだんのNGO団体に属し、実際に貧民街を訪れたことがあるスタッフの話によれば、キリサメなる少年には善からぬ噂があるという。ひょっとすると強盗傷害の常習犯ではないかというのだ。

 だからこそ、ニット帽のガイドに捜索という本当の目的を明かせなかったのである。

 しかし、それは彼を危険に巻き込まない配慮というより貧民街の内情に詳しい人間からキリサメ・アマカザリという名前を犯罪者と断定されるのが怖かっただけかも知れない。


 丘陵地帯に貧民街の片隅に所在する集合墓地――そこでキリサメ・アマカザリは墓守はかもりをしていると、少年強盗団は語っていた。

 『墓守』といえば聞こえは良いが、つまるところ、集合墓地の敷地内で寝泊まりしているホームレスに他ならないのだ。母親と一緒に暮らしていた家が倒壊したのち、同年代の知り合いが結成した少年強盗団にも近寄ることなく、たった一人で集合墓地へ移ったそうである。

 自分を襲撃してきた少年強盗団のリーダーから道順を教わった岳は、何度か進む方角を誤りつつもキリサメが墓守をしているという集合墓地ばしょまで辿り着いた。

 墓地とはいうものの、モルタル造りのアパートのような外見である。

 個人で墓を建てるほどの金銭的な余裕のない者たちが寄り集まったこともあり、その内部は比喩でなく本当にアパートのような構造だった。大きな建物の中に埋葬場所が細かく仕切られ、割り当てられたスペースの中に亡骸を納める仕組みなのだ。

 日本の都市部にもロッカー式の集合墓地が見られるが、それに近いものがあると岳は感じていた。彼の知識にはないことだが、ペルーではこうした埋葬形式も珍しくないのだ。


「日秘で文化や風習が似てんのかな。日本だとこのテの集合墓地はカネの問題で――」


 そこまで言いかけて岳は声を飲んだ。殺風景ともいえるほど簡素な墓地の一角に片膝を突いて祈りを捧げる少年の姿を見つけたのだ。

 二階に上って間もなく視界に飛び込んできた為、最初に確認したのは横顔だった。頬は泥で薄汚れ、瞑られているだろう双眸は、鼻の頭に届くほど長い前髪によって覆い隠されている。襟足などは肩甲骨の辺りまで伸びているのだが、これは別に洒落っ気ということではないだろう。

 長い髪は毛先まで傷んでおり、おまけにボサボサで手入れなど全くされていないように見える。散髪に回すだけのカネがない――髪を長くしている理由は、尋ねるまでもなく察せられた。

 紺色のシャツも色褪せたジーンズもあちこちが擦り切れ、破れ、黒ずんでいる。スニーカーに至っては靴底が完全になくなっていた。先ほど遭遇した少年強盗団と殆ど変わらない風体で、身綺麗な岳とは正反対なのである。

 少年は背後から下腹部の辺りに両袖を回してレインコートを腰に巻いている。本来はシンプルな鉄色なのだろうが、ドス黒い染みがあちこちに飛び散っている為、斑模様をあしらっているようにも見えた。

 岳はおもむろに陣羽織を脱ぎ始めた。背広も下ろし立てなので、大して印象が変わるわけでもないのだが、彼に声を掛けようというときに派手な上着を羽織ったままでは相応しくないと思えたのだ。

 この少年がキリサメ・アマカザリということは一目で分かった。

 さりながら、日本人らしい顔付きだから分かったというような単純な理由ではない。ペルー共和国には日系移民の子孫も多く、「日本人らしい顔立ち」などという曖昧な材料では目当ての相手を選り分けることは不可能に近いのだ。

 彼が集合墓地ここで寝起きしているという事前の情報と合致した点も大きいが、一番の決め手は記憶の中にあるミサト・アマカザリと横顔がそっくりだったからだ。前髪の隙間から覗ける目元は自分を地球の裏側まで差し向けた親友にも似ているようである。

 ふたりの面影をそこに見出したからこそ、岳も確信を得たのである。


「……満月の夜に月のウサギに戦い挑んだ。オレには横のバニーガールのが魅力的さ。赤いお目々めめの寂しがり屋とウサギを食べたギラリスト――」


 シンと静まり返った集合墓地の廊下で、それも祈りを捧げている最中の少年の前で、何を思ったのか、いきなり岳は歌を唄い始めた。しかも、このような場に似つかわしい鎮魂歌などではない。身も心も燃え滾るような激しい曲調のものをわざわざ選んでいた。

 彼が唄うのはパンク・ロックの一曲ナンバーである。エスエム・ターキーという日本で活動していたバンドの代表曲であり、本来は激しい楽器演奏に乗せて腹の底から歌詞うたを迸らせるものなのだ。楽器の再現と歌唱を同時にこなせない為、岳は自分の身体を大きく揺さぶることで何とか迫力を生み出そうとしている。


「ヴィヴィアンの誘惑に溺れて、月にいるのさえ忘れて、今じゃミラーボールがオレを照らす――」


 少年が不思議そうな表情で岳に振り向いたのは、二番の歌詞まで進んだときである。


「……お墓では静かに」

「え、あ……はい、す、すまねぇです……」


 片膝を突けた状態から身を起こし、壁に立て掛けてあった細長い麻袋を取り上げつつ少年が日本語で発したのは、至極常識的な注意であった。

 瞼が半分までしか開かれておらず、見る者に眠そうな印象を与える少年だったが、ほんの短い言葉で自分の倍は生きているだろう人間を納得させられたのだから、思考回路は十人並みに働いているはずだ。

 この眠たげな双眸以外は至って普通の少年である。

 岳を襲った盗賊団はキリサメ・アマカザリという名前を聞いただけでも震え上がっていたが、どこをどう見ても、彼らのように理不尽な暴力を振るう人間とは思えなかった。

 袖口がボロボロに擦り切れたシャツは、左胸にマスコットキャラクターがプリントされているのだが、何とも緊張感を欠いたデザインで、見ているほうの気が抜けてしまうのである。

 長めの髪をセンターで分けた丸顔に横線二本で眉毛と口、縦線一本で鼻筋を描き込み、左の下唇と右の上唇にそれぞれ一つずつホクロを置くことで完成されるこのマスコットキャラクターは、岳も日本で見掛けたことがあった。記憶が間違いでなければミサト・アマカザリのお気に入りだったはずだ。

 半袖から伸びた腕を岳の目が捉えたのはその瞬間ときである。痩せ気味ではあるものの、この少年は使を纏っていた。人に披露する為、とは違う種類のものを――だ。

 総量の差はともかく、岳も少年と同質の筋肉で全身を固めている。

 これは戦いの場へ身を投じる人間にしか得られないものでもあるのだ。この少年が置かれた境遇を端的に物語るのは、遠目には貧相にも見える二本の細腕ということであった。

 岳の目には紛うことなき戦士の肉体からだとして映っている。

 『至って普通』との印象から一度はあり得ないと否定しかけたものの、もしかすると、少年盗賊団やNGO団体のいうことは全くのデタラメではないのかも知れない。前者のリーダーに至っては「キリサメに関わると命が幾つあっても足りない」と口走っていたが、使を認めた今の岳ならば素直に頷けるのだ。


「思いがけずお叱りを受けちまったけど、……見里さんの息子だったら、絶対にこの歌に反応してくれると信じてたよ。きっと家でもよく唄ってたんじゃねぇかな?」

「……あなたは……」


 この少年がキリサメ・アマカザリであるか、否か。この最終確認には本人の前でエスエム・ターキーの代表曲を口ずさむのが一番だろうと岳は考えていた。

 本国ではあまり知られていないことなのだが、二〇世紀末に起こった大使公邸占拠事件の際、テロリストに捕らえられた日本人たちを励ます為にペルーの地方ラジオ局では祖国の歌が放送されたのである。

 ラジオ体操や歌謡曲など種々様々な歌が人質の家族からラジオ局側にリクエストされたのだが、事件発生当時からペルーに駐在していたミサト・アマカザリは、この歌が収録されたCDをラジオ局に提供し、身柄を拘束された恋人に生き抜く力を与えて欲しいと託したのだった。

 その想いはラジオを通じて恋人の心にも届いており、悪夢の数ヶ月から解放されたのちに「あの歌に支えられた」とミサトへ語ったという。

 愛という名の絆を結び付けた一曲ナンバーであれば、想い出と共に息子の前でも唱っているだろうと岳は考えたのである。キリサメが反応を示したということは、その判断は正解だったといえよう。


「……『見里さんの息子だったら』っていうのはよく分からないけど、リマの貧民街で、それも墓地のど真ん中で日本語の歌なんか唄われたら、誰だって驚くと思いますよ」

「ンがっ⁉」


 どこか得意げな偉丈夫に対してキリサメの反応は手厳しい。流暢な日本語で指摘ツッコミを入れられることになった岳は、その切れ味の鋭さに思わずたじろいでしまった。

 指摘ツッコミを発する声色も独特で、それ故に岳の心は余計に動揺させられたといえよう。

 喋る調子が常に一定で、彼が役者を生業としていたなら「棒読み」の一言で降板させられたに違いない。

 岳の歌に「驚いた」と言いながら、その表情は一瞬たりとも変わらないのだ。根本的に表情筋の使い方を知らないのではないかと案じてしまうくらい、常にボンヤリとした面持ちなのである。何を考えているのかが全く読めず、半開きの双眸が不気味に思える瞬間もあった。

 眠れる獅子――その少年をたとえる言葉として、これ以上に相応しいものは存在しないだろう。

 感情の起伏が乏しい人間は岳とて何人も知っているのだが、そこにくらい闇を感じさせる者はさすがに初めてだった。ミサトと良く似た顔立ちだけに、押し寄せてくるギャップも大きい。記憶の中の彼女は常に生き生きとしていて、陰など差し込む余地もなかったのである。


「……エスエム・ターキーの『キャサリン』ですよね、今の。あなたがいったように、母さん、何かにつけて唄っていました。一番のお気に入りだったみたいです」


 答え合わせを求めるように曲名を口にしたキリサメに向かって、岳は大きく頷いてみせた。解答用紙の形で提出されていたら、花丸を付けて返却するところだ。

 岳が披露し、キリサメが迷惑とばかりに打ち切らせた一曲ナンバーは『キャサリン』。ファンの間では定番スタンダードとも謳われるエスエム・ターキーの代表曲であった。

 家事をこなしながらパンク・ロックを凄絶に唄いまくる旧友の姿を想像した岳は、場違いにも破顔しそうになった。普通に考えれば珍妙極まりないはずだが、かえってミサトらしいと、妙に安心してしまったくらいである。

 しかし、その旧友ミサトはもういない。だから、岳はペルーの土を踏んでいる。彼女が還った国の土を、だ。

 何の為に地球の裏側までやって来たのか――そのことを己に言い聞かせた岳は、キリサメの間近まで歩み寄りながら、この瞬間まで向き合うことを躊躇ためらっていた旧友の墓に初めて目を転じた。

 それは、どうしても墓とは言い難い物であった。日本人の想像するような墓石が置かれているわけではなく、ましてや故人の歩みを記した墓誌もなく、無機質で薄っぺらい一枚の扉で閉ざされているだけなのだ。そして、そこに日本語で『天飾あまかざり見里みさと』と書かれた白いプラスチック製のプレートが貼り付けられている。

 埋葬に当たって、集合墓地の管理人が悪戦苦闘しながら慣れない言語で書いたのだろうか。たったの四文字にも関わらず、赤ん坊にペンを持たせたほうがまだ読みやすく書けるだろうと思ってしまうくらい形が崩れており、辛うじて『天飾見里』と認識できる程度なのだ。殆ど象形文字に近い。

 その乱雑な扱いからも集合墓地ここに埋葬された人々の事情が透けて見えるようだった。

 扉の近くに置かれた木製の台には粗末な花瓶が乗せられており、そこには名もなき草花が数輪ばかり生けてある。間違いなく墓守キリサメの優しさであった。このような愛情の形さえ見つけられなかったなら、岳は旧友ミサトの不遇を嘆き、人目もはばからずに泣き出していたかも知れない。


「……オレも見里さんに祈らせてもらっていいかな?」

「……えっと――ありがとうございます……」


 見ず知らずの、それも奇行を繰り返す日本人からの申し出には、さしものキリサメも面食らったが、訝るのも一瞬だけですぐに場所を譲った。

 岳はまだキリサメに対して自分が何者であるかを明かしていない。それにも関わらず、祈りを捧げたいという申し出を受け容れたということは、『キャサリン』が一種の符丁として機能した証左であろう。

 エスエム・ターキーはインディーズ・シーンのカリスマである。即ち、一般的な知名度は大して高くもないのだ。そのようにマイナーなバンドを知っていたからこそキリサメも母の旧友と認識できたらしい。


「今日はあいつの分も一緒に、……二人分、お祈りさせてもらうぜ、見里さん」


 冷たい鉄の扉に貼り付けられたプレートを左の人差し指で撫でたのち、岳はその扉の前に抱えていた額縁を置いた。瓦礫の中から引っ張り上げ、今まで大事に抱えてきた一枚の絵を捧げたのだ。

 岳が壊れかけた額縁を取り出した瞬間、キリサメは「あっ」と声を上げた。

 彼に見憶えがないはずもなかった。依然として感情の振幅は見られないものの、それでも懐かしさが込み上げてきているのだろう。その場に片膝を突き、〝子どもの落書き〟に目を細めている。


「最初からこれを出してくれたらよかったのに。歌を唄うのは回りくどいだけですよ」

「最初に閃いたアイディアで押すコトしか頭になくってよ。いやあ、うっかりしてたぜ」

「家が暴風雨に潰されたドサクサで失くしたと思っていました」


 その自宅にはヒッチハイクの旅でペルーを訪れた日本のお笑いコンビのサイン色紙も飾られていたという。「こんなつまらない物よりそっちを見つけて欲しかったです」と、キリサメは冗談とも本音とも分からない声色で呟いた。


「……〝あの頃〟の絵なんか、もう一度、見たいとも思わなかった……」


 額縁の中身は紛れもなくキリサメがかつて描いた絵である。

 ほんの一瞬、彼の声が暗く落ち込んだが、隣で聞いていた岳はそれに気付かなかったらしく、上体を折り曲げるようにして「忘れ物を返せてよかったぜ」と暢気に額縁を覗き込んでいる。


「ところで、、何? トウモロコシ?」

「ハチドリですよ。……見れば分かるかと」

「あ……あ~あ~、なるほどな! 地上絵の真似をしたってか!」

「地面に描かれた絵をどうやって模写するんですか。それも、あんなに大きなものを」

「すまん、すまん。間抜けなコトをぶっこいちまったぜ。そうか、地上絵の写真見て描いたんだな!」

「ハチドリの実物をスケッチしたんです」

「……えっ? だって、地上絵なんかムリだって、今さっき――」

「……もう結構です」


 どう見てもハチドリの模写ではなく前衛芸術としか思えない絵から旧友ミサトが眠る場所に視線を戻した岳は、両の手のひらを合わせて瞑目した。

 ペルー式の祈り方が分からなかったので、とりあえず合掌をするしかなかったわけであるが、日本で生まれ育った彼女であれば、これくらいは大目に見てくれるだろう。

 大切なのは心で何を語り掛けるか――その場に立った岳は、語り尽くせないほどの言葉を胸に秘めていた。

 本当に長い祈りであった。自分の絵を眺めることに飽きたキリサメが立ち上がってからも、岳は心の中でミサトと話し続けていたのである。

 その姿にキリサメは少しずつ警戒を解いていった。母の友人であったかのような振る舞いも、何かを企んで自分に接近する為の罠ではないと認められるのだ。

 優に一〇分を超える祈りと、頬を伝う涙からは、本当に母と親しかったことが伺えた。

 最初に岳が現れたときは、やたらと騒々しい人間がやって来たとしか考えず、関わりたくないと無視を決め込んでいたのだ。どうやら自分に向けてエスエム・ターキーの一曲ナンバーを唄っているようだと気付き、やや遅れて反応を示した次第であった。

 裏路地に潜むような人間が纏わせる殺気も今のところは感じられない。それならば、岳の隙を窺っている理由もなかろう。

 やがて、岳は合掌を解き、双眸を開いた。

 長い祈りの中で旧友に何らかの許可を得たのだろうか。『天飾見里』と記されたプレートに深々と頷いたのち、勢いよくキリサメに向き直った。

 そして、双眸から溢れ出る涙を拭うことさえ忘れて、キリサメの両肩を強く掴んだのである。

 咄嗟に身を強張らせ、右手を目潰しの形に変えるキリサメであったが、人差し指と中指を突き出すよりも早く泣き顔の岳から覗き込まれて面食らい、結局、腕を動かすことさえできなかった。


「顔、近いんですけど」

「おう、そうだ! 自己紹介が遅れてすまねぇ! オレの名前は八雲やくもがくってんだ! 今後ともよろしく!」

「……本当に話が噛み合いませんね、僕ら」

「キリサメくんッ! ……今日からオレがキミの父ちゃんだッ!」


 八雲岳は、ただただ目を瞬かせるばかりのキリサメに向かってとんでもないことを宣言した。「熱血」という二字を絵に描いたような感情の迸りであった。

 それから間もなく放ちそびれていた目潰しが時間差をつけて岳に直撃した。


「――静かに」


 キリサメの声が氷の刃のように鋭くなったのは両目を押さえた岳が「早くも反抗期!」と悶絶し始めた直後である。自分で目潰しを命中させておきながら悲鳴を洩らさないよう命じるとはなかなかに高度な要求といえよう。

 返事もままならない状態の岳に傷だらけの額縁を押し付けたキリサメはロッカーにもたとえられる扉を開き、中からガラスの瓶を取り出した。

 コルクで蓋をされたはジャムの容器であろう。今は白い粉末のような物で満たされている。


「……見里さん……」


 ガラスの瓶を満たしているのが旧友の遺骨であることは一目で分かった。だからこそ、岳の双眸から痛みとは別の涙が溢れそうになったのだが、感傷に浸る時間をキリサメは与えてくれなかった。あるいはが立ち止まることを許さなかったというべきだろうか。

 このときには岳もキリサメの声色が変わった意味を悟っている。それ故、六文銭の陣羽織に改めて袖を通し、少年から預かった額縁を右脇に抱え直したのだ。


「……日本人は警戒心が鈍いと思ってましたけど、あなたは結構、鋭いんですね」

「誰と比べてるのかは知らねぇが、オレもそれなりに鍛えてるんでな!」


 キリサメと岳は無意識に背中合わせとなって周囲を警戒する。彼ら以外に誰も居ない集合墓地には乾いた風だけが吹き抜け、物音一つ立っていない。そのはずなのだが、どうやら二人の耳は遥か遠くの足音まで拾い上げているようだ。


「……って遺骨……だよな?」

「ええ、何が起きてもすぐに持ち運べるようビンに入れてるんです」

「何かのテレビで観たんだけど、ペルーって土葬が主流じゃなかったっけ?」

「母さん、仏教徒だったから火葬くらいはしてあげようって思って……」


 息子なりの配慮として母の祖国の様式に倣い、白い粉になるまで焼き尽くした遺骨をガラスの瓶に詰めて墓所へ納めていたわけだ。危機が迫る度に封印を解いて持ち出していたのだろう。岳が少年強盗団から取り囲まれたように貧民街にはどこに危険が隠れているのか分からないのである。

 広い意味ではこれも墓守の役目といえよう。

 麻袋に右手を突っ込んだキリサメは中から奇妙な道具を取り出したのである。

 二枚重ねた平べったい木の板に取っ手を組み合わせるという形状は船のオールに良く似ているのだが、板の端からは尖った石や鉄片がノコギリの刃のように幾つも迫り出しており、が紛れもない〝武器〟であることを示していた。

 リング状のつかがしらにはスカーフといった装飾品など何も縛り付けておらず、ただひたすらに無骨だった。擦れた痕跡や汚れによって原形を留めていないのだが、木の板の表面には何らかの紋様が彫り込まれていたようにも思える。

 墓守の仕事道具と呼ぶには余りにも殺伐とした〝武器〟の正体に興味を惹かれる岳ではあるものの、これを確かめていられるような状況ではなかった。

 腰へ帯の如く締め込んでいるレインコートの袖に麻袋を巻き付けるなど、キリサメは臨戦態勢を整えつつあるのだ。


「キミんの近くでお友達にも遭遇したけど、まさか、それじゃねぇだろうな。友人同士でり合うような真似、キミにさせたかねぇぜ」


 先ほどの少年強盗団が他の仲間を連れて追い掛けてきた可能性を岳は想定していた。キリサメの手掛かりを提供してくれた謝礼は奮発したつもりだが、彼らを満足させる金額ではなかったのかも知れない。


「……あいつらは僕に寄り付いたりしませんよ」

「ンな悲しいコト、言うなよォ~。ダチだろ、ダチ!」

「……あなたが襲われたところを目撃されたのかも知れませんよ。何とか逃げ切ったって油断したところに別の強盗団が不意打ちを喰らわせてくることもは珍しくないですから」

「もっとタチの悪い輩にけられたってところかな」

「呑み込みが早くて助かります」


 ほんの僅かな言葉から瓦礫の迷路で起こった出来事を推察したキリサメは、岳とは別の結論を示した。貧民街を根城にする強盗は少年たちの集団ばかりではない。犯罪者はそこかしこで牙を砥ぎ、食い出がある獲物を待ち構えているのだ。


「僕はバラックの辺りまで移動しますけど、あなたはどうします?」

「これからオレがお前の父ちゃんだって、さっき言ったばっかりだろ。何事もなかったかのように置いてこうとすんなって!」

「……見ず知らずの人からいきなり父親と名乗られたら普通は逃げると思いますが」


 軒を連ねる掘っ立て小屋が生み出す暗闇に足元まで塗り潰される為、危険と隣り合わせにはなるものの、入り組んだ場所であれば相手をかく乱し易くなるだろう。

 岳が訪ねた集合墓地は丘陵地帯の中でも平らかな場所に所在しており、別の墓所とも隣接していた。ロッカー式の物が〝集合墓地〟ならば、そこは〝共同墓地〟と呼ぶのが相応しいだろうか。朽ちかけた木切れを乱雑に組み合わせただけの十字架が剥き出しの大地へ無数に突き立てられているのだ。

 〝社会〟という枠組みに於いて最も暗く冷たい階層に閉じ込められ、比喩でなく本当に地べたを這い回るような生き方を強いられてきた人々が眠る場所である。身元も親族の有無さえも不明な者や、ペルーで生まれながら同地の国籍も持たぬ者の多くが飾り程度の十字架で葬送おくられるわけだった。

 子どもの砂場遊びのほうがまだ手が込んでいると思えるくらい適当に掘られた墓穴に亡骸を放り込むという有り様なので、餓えた野犬にとって格好のである。死者には無用であろう金目の物を狙い、新しく作られた墓を暴く窃盗団も毎晩のように出没している。

 不届きな墓荒らしと遭遇して乱闘になった経験ことなど墓守キリサメには数え切れなかった。

 ロッカー式の〝集合墓地〟に入るだけのカネも持たない者が最後に行き着く場所――それが安らかな眠りとは無縁の〝共同墓地〟というわけだ。

 隣接する二つの墓所は〝表〟の社会の人々が暮らす区画と貧民街の境目のような場所に位置している。改めてつまびらかとするまでもなく、社会の〝闇〟を蔑む富める者はくだんの墓地には寄り付きもせず、然るべき場所で安らかに眠っているのだった。

 尤も、余所者の岳では地図上に於ける〝境目〟の位置すら掴めないだろう。ここで置き去りにすればたちまち迷子になると判断したキリサメは大振りな〝武器〟を肩に担ぎ、先導するようにして駆け出した。

 ミサトの墓は二階に在る為、脱出には階段を降りなければならないはずだ――が、キリサメは吹き抜け式の手すりを飛び越えていったのである。

 それはつまり、二階から飛び降りたということだ。南米の空を行き交う鳥のように軽やかに舞い、難なく着地するキリサメだったが、我知らず普段通りの退避行動を取っていたことに思い至り、ほんの少しばかり慌てた調子で二階を仰いだ。

 岳がキリサメと同じように跳躍したのはその直後である。躊躇ためらうことなく飛び上がり、やはり危なげなく剥き出しの大地に降り立った。


「あぶねぇ、あぶねぇ! ちょっと考えナシが過ぎちまったな。相手が鉄砲持ってたら空中で撃ち墜とされたかもだぜ!」


 着地の際に発生した音は岳のほうが一際大きかったが、先に走り出したキリサメの後も問題なく追い掛けられる辺り、足の骨などに異常はなかったらしい。高所から急降下しても平気なほど頑強な肉体の持ち主なのだ。戦国武将のような出で立ちは伊達や酔狂ではないということである。

 走り方も独特で、両足を素早く動かしつつも頭上から糸で引っ張られたように上半身は殆ど揺らさず、背筋を真っ直ぐに伸ばした姿勢を維持し続けているのだ。傍目には上半身と下半身が別の意思を持っているようにも見える。


「ところで、そのゴツいのは何なの?」

「いちいち質問が多い人ですね。……強いて言えば、〝仕事道具〟みたいなもんです」

「ノコギリみたいなモンと墓守にどんな関連があるんだぁ?」

「……あなた話せない――かな」

「途中まで話しておいて、勿体ぶるかねぇ~!」


 〝仕事道具〟への疑問に含みのある答えを返された岳は、キリサメに付きまとう善からぬ噂を想い出し、結い上げた髪を揺らすように大きくかぶりを振った。

 ペルーへの渡海を手伝ってくれたNGO団体のスタッフはキリサメのことを強盗傷害の常習犯ではないかと疑っていたのだ。仮に〝商売道具〟が完全なる〝武器〟であった場合には、それ自体が善からぬ噂話の裏付けとなるだろう。

 しかし、今はキリサメの来歴を確かめていられるような余裕もない。


「一〇人どころの騒ぎじゃねぇな、こりゃ。二〇人くらいで群れてると見えらァ。マジにギャング団が出張ってきたかもだぜ」

「……よく分かりますね」

「人よりちょっとばかし耳が良くってね。数軒先でパチンコ玉が落ちた音も聞き取ってみせるぜェ」


 穏やかならざる気配は間違いなく自分たちの後を追い掛けてきている。岳の耳は抜かりなく数十名分の靴音を拾っているようで、これにもキリサメは感心させられた。

 尤も、土地勘のない岳には既に右も左も分からなくなっている。一本でも道を誤れば二度と出られない路地裏に迷い込んでしまうだろう。もはや、キリサメを信じていていくしかなかった。


「数日前までアメリカに詰めて慣れねェ仕事をやってたんだ。その次は飛行機だろ? 丁度、身体もナマッてたトコだし、ランニングは気持ちが引き締まって良いぜェ!」


 場違いとしか表しようのない笑い声を背中で受け止めるキリサメは、例えようのない不思議な気持ちを抱えつつけた大地を蹴っていた。

 〝表〟の社会の法律が行き届かない貧民街では暴力だけが生き残る為の唯一の手段にして、支配的な掟である。だからこそ強盗などの犯罪行為が常態化し、これを悪と断じて成敗する〝正義の味方〟もいない。極めて過酷な環境の中で命を繋いできただけに、どのようなときにも隙を突かれないよう注意深いつもりだったのだ。

 それなのに初めて会ったばかりの人間へ無意識に背中を預けてしまったのである。いくら母の友人とはいえ、そんなことは今までに一度も有り得ず、自分自身に驚いていた。

 「今日からオレがキミの父ちゃんだ」などと怪しげなことを言い放つ相手は、むしろ最大限に警戒すべきなのに――だ。


(……久しぶりにエスエム・ターキーを聞いた所為せいかな……)


 半年ほど前に取材で首都リマを訪れた日本人記者の身辺警護ボディーガードを引き受けたが、その女性ひとも亡き母が愛したパンク・ロックの一曲ナンバーを口ずさんでいたのである。

 ひょっとすると二重の意味で懐かしかったのかも知れない――出会って間もない上、仮装大会のような出で立ちの男に気を許してしまった理由を心の中で振り返りつつ、キリサメは掘っ立て小屋が立ち並ぶ区画エリアに飛び込んだ。

 「安普請」という表現をもってしても足りないほど脆そうな家々は丘の斜面に沿って密集しており、数名が行き合えばすれ違うことさえ難しいほど道幅も狭い。そこを一直線に貫く石造りの階段を二人は全力で駆け下りていた。

 サン・クリストバルの丘から熱風でもって運ばれた砂埃は町全体に薄茶色の化粧を施している。キリサメと岳が石段を踏み付ける度に粉塵の如く舞い上がるのだ。

 視界の先ではベッドシーツやタオルケットといった薄い布が何枚も風と踊っていた。差し向かいの家屋の間に紐を通し、そこに洗濯物を干しているわけだ。却って砂埃が付着してしまいそうなものだが、生乾きよりは良いという思い切った判断かも知れない。

 暴力の温床である貧民街の只中にって人間の営みを強く感じられる場所とも言えるだろう。それだけに行き交う住民も多く、巨大なノコギリのようにも見える〝仕事道具〟を肩に担いだキリサメや、時代劇の画面からそのまま飛び出してきたとしか思えない岳を大勢が不思議そうに眺めていた。

 住民とは階段の途中で何度か激突しそうになったが、二人とも器用に身をかわしていく。同じ『非合法街区バリアーダス』で暮らしていることもあり、何人かはキリサメの姿を見て反応を示したが、いずれも友好的な態度とは言い難い。

 誰もがキリサメに怯えたような眼差しを向けるのだ。何よりも少年が肩に担いだモノを恐れている様子であった。


「さすがに人通りの多い場所じゃ仕掛けてこねェだろ。まだ気配は感じるが、その内に諦めるんじゃねぇかな!」


 能天気を絵に描いたような岳は住民たちの表情に全くといって良いほど気付かなかったが、別に彼の鈍感さが幸いであったともキリサメは考えてはいない。恐怖の対象にされる理由が――ノコギリのような〝道具〟を使った〝仕事〟の内容が露見したところで言い繕おうともしないだろう。


「……やっぱり、あなたは日本人ですね」

「他人行儀な言い方すんなよ。キミだって血も肉も純正の日本人だろ」

「いいえ、僕は〝日系人〟です。だから、貧民街ここがどういう場所か、日本人あなたと違って身に沁みて知っているのです」


 ここまで辿り着けば多少は安心などという油断は貧民街に於いて命取りである。強盗の習性と共にキリサメが説いたことが現実になったというべきか、今にも朽ち果てそうな屋根の影が足元に差した直後、二人の鼓膜を鋭い破裂音が打ち据えた。

 それが銃声であることはキリサメの鼻先を掠めて飛んだ弾丸が示している。


「あぶねーな、オイ! 町ン中だろうがお構いナシかよ! 無関係の人に当たったらどうするってんだい、バカチンめが!」

「自動小銃じゃなかったのが幸いですよ。狙撃の腕が大したコトなくても弾丸をバラ撒けるアレなら何の問題もありませんし……」

「そもそも拳銃ハジキを使い慣れてなさそーな感じだぜ。一発撃って止めちまうなんてよ。二発目が続かねぇところを見るに距離を測る為の一発目でもねぇ」

「持久走に自信は?」

「この坂道をフルマラソンっつーくらいなら大丈夫さ。ノーコン相手なら動き回ってたほうが安全だぜ」


 接近しつつある者たちが先程の少年強盗団でないことは今の銃弾を証拠として確定された。岳が予想したように「もっとタチの悪い輩」に囲まれつつあるのだ。

 それにしても――と、キリサメの中で陣羽織の男に対する印象が更に塗り変えられた。二階から飛び降りても平気なくらい肉体からだを鍛えているとはいえ、銃撃に晒されて動揺もしない〝ただの日本人〟は相当に珍しいのである。

 貧民街では発砲事件など日常茶飯事のようなものであり、そこで暮らす人々は良くも悪くも慣れてしまっている。キリサメとて無免許医に縫合してもらった銃創ふるきずを幾つも持っているくらいだ。

 銃の扱いに不慣れな人間と相対する場合は絶えず動き回って照準を惑わし、命中させられない焦りを十分に煽ってから反撃する――キリサメはこの要点をでの経験から学んでいたのだが、岳も全く同じことを口にしたのである。どうやら銃撃を加えてきた相手の腕が大したものでないことも即座に見極めたようだった。

 過去に首都リマで親交を持った日本人は同地と比べて故郷のほうが遥かに平和と異口同音に語っていた。少なくとも武装組織が裏で糸を引き、一般市民の手に銃火器が渡るという内乱にも等しいほど苛烈な反政府デモは起こりえないはずだ。

 それなのに不意の発砲にも狼狽しないとは、この八雲岳という男は相当なを踏んでいるか、あるいは特殊な訓練でも積んでいるのだろう。

 不運にも流れ弾が当たってしまったのか、少しばかり離れたところから甲高い悲鳴が聞こえてきた。しかし、そちらに気を取られている場合ではない。銃撃と連動するようなタイミングで二人の前に新手が現れたのだ。

 前方に立ち並ぶ掘っ立て小屋の壁を突き破り、砂埃を盛大に巻き上げながら数人の男たちが飛び出してきた。後方でも同様の破壊音が聞こえ、たちまち挟撃の状態に持ち込まれてしまった。


「オレたちの間抜けはさておき、いくらなんでも待ち伏せってワケじゃねぇよな」

「ええ、手慣れたギャングのやりそうなことです。……誘い込まれました」


 風に踊る砂色の布切れの下でついに行く手を阻まれ、再び背中合わせになったキリサメと岳は、ここに至る一連の流れが襲撃者たちの策略であったことを悟った。

 集合墓地の付近から何者かにけられていたのは間違いない。しかし、自分たちのことを勘付かせないよう注意深くにじり寄っているはずの者が標的そのものを追い越すほど俊敏に移動できるとも思えないのだ。

 おそらく最初に近付いてきた者たちは追い込みの役割だったのだろう。携帯電話か何かで連絡を取り合い、別働隊を襲撃地点ここへ差し向けたようだ。先程来の不穏な気配も消えてはおらず、伏兵として近くに潜んでいるようだった。

 あるいはキリサメの鼻先を浅く傷付けた銃撃は足止めの威嚇であったのかも知れない。


「天のとき、地の利、人の和――『三陣』が揃わなけりゃいくさには勝てねぇって、確か太公望も言ってたな。地の利はヤツらにある。連携もバッチリと来りゃあ、自然と天運だって引き寄せられるかもだなァ!」


 己の身に迫る危機まで楽しんでしまえるほど器が大きいのか、底抜けに能天気なのか。敵の術中にはまってしまったというのに岳は「敵ながら天晴!」と豪快に笑っている。陣羽織に似つかわしいいにしえの軍略まで引用して襲撃者を褒めちぎる様子にはキリサメも呆れ顔を浮かべるしかなかった。

 前後より二人を脅かさんとする者たちは、誰も彼もボロ切れ同然の衣服を身に着けている。貧民街の住人であることを疑う理由はなかった。双眸から迸らせる狂わんばかりの殺気は、都市部に於いて働き口を得られず、暴力に頼らなくてはその日を生き抜くこともできないという彼らの環境を端的に物語っている。

 もう一つの特徴は黄色いバンダナを巻いて鼻から下を覆い隠している点だ。これを手掛かりに襲撃者たちの正体を見極めたキリサメは「ざるだん」と忌々しそうに吐き捨てた。


「名が通った連中って考えといたほうが良いんだよな?」

「リマでも特に有名なんですよ、『ざるだん』と名乗るこいつらは。冗談ではなく、これ以上ないくらい厄介な連中に狙われたみたいですね」

「ただの物盗りにしては動きが統率されてると思ったけど、そこまでかよ」


 キリサメは悪ふざけで岳をおどかしているのではなく、本当に悪名高い集団なのだろう。それまでは野次馬のように騒ぎを眺めていた住民たちも黄色いバンダナを認めるなり慌てて屋内に避難し始めたのである。


「……つか、こいつらって……」


 一党の様子を凝視する岳も徐々に顔を強張らせていった。


「気付かれましたか。……『ざるだん』はのみで構成されたギャング団です」


 キリサメが語った通りである。年齢こそ不揃いだが、誰も彼も日本人に近い顔立ちなのだ。顔半分が隠れているので正確に見極められたわけではないが、日秘混血は含まれていないように思える。


「ここは逆転の発想だぜ、キリサメくん。ルーツは同じなんだし、腹を割って話せば分かり合えそうじゃねェ?」

「やっぱり、あなたは日本人だな。どこまでも……」


 先程の言葉をキリサメはもう一度――しかし、微かに侮蔑を含んだ声色で繰り返した。


「日系人だから日本人を真っ先に狙うんですよ。そうしないとペルー人の社会まちに居られなくなりますから」

「普通は逆じゃねぇ⁉ 県外で同郷に会うと嬉しいってな感じでよ!」

「移民の子孫なんて所詮、この国では〝余所者〟です。ダニみたいに貶されることも少なくないんですよ。真っ当な仕事だって殆ど回ってこない。同じルーツに同じ顔立ち、同じ肌の色を持つ日本人を襲って自分たちがペルーの一員だと示さなきゃ生きていくこともできない――矛盾の塊みたいなのが『ざるだん』っていうコミュニティです」


 改めてつまびらかとするまでもなく、「黄色い猿」とは東洋人に対する差別的な蔑称だ。本来ならば忌避すべき表現を敢えて名乗ることこそが複雑な社会情勢の中で徒党を組んだ証拠といえよう。

 かつてペルーで大規模な排日運動があったことは岳もおぼろげながら憶えている。

 明治から大正まで多くの日本人が地球の裏側へ渡って耕地などに入植し、一部の人間は都市部でも成功を収めたのだが、それはつまり、決して裕福とは言い難いペルー人から仕事を奪うことでもあった。

 こうした背景から同国内では日系人に対する憎悪が際限なく膨らんでいき、第二次世界大戦の前後に至って排日運動として暴発。ついには日系人が営む商店や会社を標的とした略奪にまで発展したのである。

 「社会の分断」と口にするのは容易いが、それは人の心が生み出したものだ。拗れに拗れた感情の摩擦が時間ときの流れだけで解消されるはずもなく、今なお複雑な情況が移民の子孫を取り巻いている。日系人から大統領が輩出されるようになった現在も――だ。

 日系人が真っ当な仕事を得にくいのは往時の反動という側面もある。現世代が不当に扱われる原因を歴史に求め、先祖を怨む者も少なくなかった。

 言ってしまえば『ざるだん』は歴史のうみ――彼自身にも無関係ではないだろう問題を淡々と述べるキリサメに対し、岳は「オレは今! 猛烈に寂しいぜッ!」と絶叫した。

 余りにも大きく、何よりも素っ頓狂な声であった為か、『ざるだん』のほうも戸惑ったらしく、俄かに気勢をがれている。

 どよめきの声も上がったが、彼らの口から洩れるのはペルーの言語ことばである。


「企業戦士と青年海外協力隊――キミの両親だって、それぞれの持ち場でこの国の発展に貢献したんだぜ? それを考えたら、悲しいったらありゃしねぇよ! 今だって日本からNGO団体が出張ってよォ、ペルーを良くしようって頑張ってるんだぜ!」

「悲しいも何も、これが『現実』です。いちいち何かを感じる必要もありません」

「キミにそういう台詞を吐かせちまう『現実』ってのがオレには悲しいんだよ!」


 感情の昂りから視野が狭まっていることに加え、背中合わせで前後の敵に睨みを利かせる状況である為、岳にはキリサメの様子を確かめることができない。仮に覗き見るようなことがあったなら双眸を見開いて驚いただろう。

 『ざるだん』を見据えるキリサメの表情は秒を刻む毎に険しさを増していた。

 如何にも日本人らしい顔立ちでありながらもペルーの言語ことばを紡ぐ無法者たちは伸縮式の特殊警棒を握り締めている。何かを――というよりも誰かを――殴打した痕跡こそ見受けられるものの、大して古びてはおらず、擦り切れていない部分を見つけることのほうが難しい着衣とはアンバランスといえよう。

 彼らが構えた武器をキリサメは凍て付くような眼光で捉えているのだった。


「腕に覚えがありそうですし、後ろの連中を任せて良いですか? 僕のほうで道を開きますから。……日系人とは戦えないっていうのなら退いててもらって構いませんが……」

「それとこれとは話が別だ! 息子を守る為なら父ちゃんが全部引き受けても良いぜ!」

「……血の繋がっていない人から父親と名乗られるのはさすがに迷惑です」

「それがオレの使命なんだよ! 託された願いってヤツだ!」

「だから、そういうのが……」


 相変わらず要領を得ない岳の言葉に思わず舌打ちしそうになるキリサメだが、些末なことを論じている場合ではない。困惑から立ち直ったらしい『ざるだん』がリーダー格と思しき男の号令を受け、野卑な雄叫びを上げつつ飛び掛かってきたのである。

 キリサメも一つ一つを通訳するつもりはなかったが、「中年のほうだけは何としても逃がすな! 身ぐるみ剥がせ!」という号令が掛かったことだけは背後うしろの岳に伝えた。

 日本人観光客はカネを持っている――洋の東西を問わず、強請ゆすりや強盗を生業なりわいとする者たちの間で信じられている幻想に『ざるだん』も衝き動かされているわけだ。陣羽織に施された金糸の刺繍から直感的に富裕層と直感した様子である。


「やっぱりそうだ! こいつは例の……『聖剣エクセルシス』ッ!」


 キリサメが右手一本で振りかぶるように構えた〝仕事道具〟を指して『ざるだん』の一人が意味不明なことを叫んだ。それはスペイン語とラテン語が入り混じったものだったが、どちらの言語ことばにも通じていない岳には何を喋っているのか、まるで分からない。

 引き攣った顔から辛うじて〝何か〟に怯えていることだけは理解できたが、それ以上の情報を拾う前に開戦を迎えてしまった。それが為に相手の視線がノコギリにも船のオールにも見えるキリサメの〝仕事道具〟に向かっていることまでは確かめられなかったのである。


「――『聖剣エクセルシス』の小僧には気を付けろ! むしろ、逃がせねぇのはこっちだ! 国家警察が背後バックについてんだぞ! 手ェ出したコトがバレたら根こそぎやられちまうッ!」

「し、しかし、『例の組織』をブッ潰しちまうような野郎だぜ⁉ これだけの人数でどうにかできんのかよ! 銃だって今日は一挺しか持ち出してねぇのにッ!」

「折角、大金持ってそうな獲物を見つけたってのに何でこいつが一緒なんだよォ!」


 しかも、だ。無法者たちの喚き声をほんの一部しか通訳されなかった為、『ざるだん』がキリサメの顔を知っていたことさえ岳は気付けなかったのだ。

 陣羽織の男を餌食にするか、『聖剣エクセルシス』とやらの小僧にられるか――策略にめて挟撃の状況を作り出し、優勢であった側のほうが死に物狂いで組み付かなければならないほど心理的に追い込まれていた。

 不意討ちで発砲したことからも察せられる通り、『ざるだん』は人の命を奪うことに躊躇ためらいはない。岳が遭遇した少年強盗団は凶器を突き付けることで脅迫していたが、それとは比べ物にならないほど悪辣というわけだ。

 二人に押し寄せる無法者たちは一切の容赦なく脳天目掛けて金属製の特殊警棒を振り落としていく。誰か一人でも命中させれば、頭蓋骨すら粉砕せしめるだろう。


「――人を警察の犬みたいに言うなよ。何人か知り合いがいるだけだ」


 正面から迫り来る特殊警棒をキリサメはただ一撃をもって薙ぎ払った。

 数名がすれ違うことも困難なくらい狭い場所である為、長い武器を振り回そうものなら左右から圧し掛かってくるような建物の壁に当たってしまうのだが、キリサメはそんなことも構わずに〝仕事道具〟を横薙ぎに閃かせたのである。

 何しろ安普請なので掘っ立て小屋の壁や柱は非常に脆い。船のオールのような〝仕事道具〟で殴打されると簡単に砕け、割れた窓ガラスが木片や埃と共に飛び散った。

 ガラスの破片が混ざった粉塵を浴びせられた無法者たちは思わずたじろいでしまった。そして、この一瞬の行動が命取りとなった。両腕で顔を庇った直後に分厚い塊でもって脇腹を抉られたのである。

 少年が振り抜いた〝仕事道具〟は肉と骨を削り取る刃物なのか、それとも重量おもみのある鈍器なのか――二枚の平べったい木の板を鋭く研いだ石や鉄片と共に重ね合わせてノコギリのように繰り出す原始的な構造であるが、更に石の板を上下に一枚ずつ重ねており、一振りで標的の骨をも砕くよう改造を施していた。

 数名を一気に薙ぎ倒したキリサメは、その内の一人にノコギリ状の刃が深々と食い込んで抜けなくなったと見て取るなり〝仕事道具〟を縦一文字に振り下ろした。もがき苦しむ男を一個の砲弾のように見立て、行く手を塞いでいる集団目掛けて投げ付けたのである。

 その先にリーダー格の男を見つけたキリサメは背後の岳に「適当に足止めしておいてください」と声を掛け、返事を待たずに前方の敵に向かっていく。


「お前を潰せば足並みも乱れるな」

「ひっ――」


 その軌跡を火花が追い掛けた。少し離れた位置で指揮を執っていたリーダー格に狙いを定め、擦り上げるようにして〝仕事道具〟を繰り出した際にノコギリ状の刃が石の階段を削ったのである。

 石片の炸裂を伴う一閃はリーダー格の股間を鋭角に捉えた。次いでキリサメは急所を潰されて白目を剥いた男を空中高く撥ね上げる。この哀れな男が掘っ立て小屋へ落下していく様子を目の端に捉えた岳は「戦いの場へ身を投じる者の肉体からだ」という己の見立てが間違いでなかったことを確信していた。

 キリサメ・アマカザリという少年は強盗傷害の常習犯ではないか――NGO団体の人間から聞かされていた善からぬ噂の信憑性が強まったことをも意味している。

 『墓守』は〝役割〟には違いないが、生計を立てられるような〝職業〟ではない。

 生きる糧を得る手段が限られてしまうことは少年強盗団や『ざるだん』の姿を見ていれば瞭然であろう。種類の異なるパーツをいびつに組み合わせた〝仕事道具〟の表面が黒く変色しているのはそれだけ使い込まれた証拠であり、キリサメという一人の孤児みなしごが過酷な格差社会の中で歩んできた足跡を映す鏡でもあるわけだ。

 貧民街の暴力にその身を晒したことで、岳は少年キリサメがノコギリとも鈍器とも見える異形のモノを〝商売道具〟と呼んだ意味を完全に悟ったのである。


「……ああ、分かったよ。こういうコトなんだな、秩序あるスラムが例外ってのは……」


 亡き母の遺骨を納めたガラスの瓶についてもキリサメは「何が起きてもすぐに持ち運べるようにしてある」と話していた。その意味も初めて理解できた。

 それはつまり、どこで殺されても構わないように支度を整えているということだ。


「キリサメくんッ! オレはキミを迎えにきたんだ!」


 突っ込んできた無法者の首を水平に伸ばした右腕でもって打ち据え、そのまま地面に薙ぎ倒した岳が吼え声を上げていた。


「二年前に病で亡くなったキミのお父さんから――くさゆきからキミのことを捜して欲しいと託されたんだよ! 見里さんとの間に設けたキミを託してもらったんだッ!」


 旧友の墓前で披露した歌声よりも遥かに大きな咆哮であった。



《後編へ続く》

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