第一章 リングサイド

序章 リングイン

 その少年は異世界に放り出された迷子まよいごの如く心を乱していた。

 前進以外に許されない一本の道を抜けたばかりだというのに、忙しなく動き回る瞳は自分が置かれた状況から逃げ出すことだけを考えている様子だった。

 『眠れる獅子』とたとえるのが正確に近いだろうか――まぶたを半ばまで落とすという薄気味悪い双眸は、現在いまの有り様を周章狼狽としか表しようがない。

 正面切って少年と相対した男は、その様を憤怒の瞳で睨み据えている。ヒサシのように前方へ突き出したリーゼント頭が小刻みに揺れるのは、失望にも近い感情が一種の振動となって伝わっているからだ。

 天から眩いばかりの光が降り注ぎ、勇者を讃える祝福が地上を満たしていた。〝戦士〟として生をけたからには心の底より闘志が湧き起こらなくてはおかしいだろう。

 それなのに少年は自分に向けられた祝福を呪詛のように恐れているらしい。

 光によって導かれる〝道〟は、血反吐にまみれるくらい修練を重ね、戦って戦って戦い抜いた末に初めて足を踏み入れる資格を認められるはずであった。

 しかし、目の前の少年は腹立たしいほど綺麗な顔でハードルを飛び越えてきた。一丁前に後援会らしき連中も付いているらしいが、己の命すら賭け金のように差し出してきた男の目には彼が自分たちと同じを携えているとは思えなかった。

 身を焦がすくらい憧れながら光の〝道〟に辿り着けなかった者はごまんといる。脱落せざるを得なかった同胞より引き継いだ夢さえも嘲笑わらわれているような心持ちなのだ。

 大きく膨らんだ裾の部分を足首の辺りで縛ってあるズボンも、左胸にマスコットキャラクターを刷り込んだ古いシャツも――何もかもが男には癪に障って仕方がない。自分のように剥き出しの胴へサラシを巻き、〝ボンタン〟でも穿けば十分であろう。

 互いを絡み合わせる形で腰に締めた三枚の布切れは先端に幾つも切れ込みが入っている。風になびくと端の部分が尾羽根のように舞い踊る趣向であり、「幻の鳥、ケツァールを彷彿とさせる」などと持てはやされていたが、奇抜な飾りこそが伴っていない証拠だ。

 経験に裏打ちされた勇気があれば、この期に及んで挙動不審とはならないはずである。

 こうした精神面の未熟はともかくとして、彼のことをの『客寄せパンダ』などと侮っているわけではない。

 痩せ気味ではあるものの、今にも擦り切れそうな袖口から伸びた両腕は鋼鉄のように引き締まっているのだ。インカ帝国にルーツを持つ殺人拳の伝承者という実しやかな噂も飛び交っており、先程まで巨大モニターへ映し出されたプロモーションビデオでもそのことには触れている。

 彼のトレーニングを目撃した知人が語ったところによれば、船のオールにも見える木製の武器を片手で難なく振り回していたという。不可思議な形状の得物について少年は『聖剣』といった意味合いのなまえを明かし、剣舞けんぶのような動作うごきまで披露したそうだが、それこそが噂の真偽を明らかにするものではないだろうか。

 疑い始めれば際限キリもないが、殺人拳の体系に基づく剣舞けんぶでも踊っていたと考えれば辻褄は合うだろう。『聖剣』とやらもインカ帝国の遺産という可能性が高そうである。

 謎めいた経歴は他人ひとの好奇心を刺激せずにはいられない。〝戦士〟としての実績が絶無にも関わらず、今や〝台風の目〟と期待されていた。少年のことを古代民族の末裔と信じ込んでしまった人間も少なくないようだ。

 黄金郷の〝闇〟で研ぎ澄まされたという牙は〝本物〟か、〝紛い物〟か――喧伝の真相は拳を交えて確かめるしかあるまい。

 初老に手が届くかというリーゼント頭の男は、骨身を軋ませる痛みや鉄錆てつさびの味を言語ことばと換えて語らう荒々しい〝世界〟に青春を捧げてきたのである。

 四角い土台の上に衝撃を和らげてくれるマットを敷き詰め、クッション材で覆われた支柱を四隅に立て、これらを結び合わせるように弾力性のあるロープを張った〝世界〟のことを人は現代の戦場――『リング』と呼んでいた。

 得体の知れない少年もリーゼント頭の男も、共にこの〝世界〟で生きる戦士なのだ。

 マットには『ミクスド・マーシャル・アーツ』と英字で記されているのだが、これは海を渡った先での呼称であり、日本に於いては『総合格闘技』という名で知られている。

 格闘技大会の名のもとに世界中から綺羅星の如き猛者が集う栄光の舞台であった。

 それはつまり、リングを取り巻く観客たちの熱気に圧倒され、たじろいでしまうような人間に居場所はないということを意味している。主催側の一存とやらでかりそめのを与えられただけの半端者など断じて排除しなくてはならないのだ。

 おそらくこの少年は数多の格闘家たちが心技体を競い合う意味さえ理解しないまま神聖なるリングへ足を踏み入れたことだろう。

 対するリーゼント頭の男は現代の戦場の在り方に物申す覚悟でこの試合に臨んでいる。

 少年の背後――コーナーポストへ控える二人のセコンドにまで激烈な眼光を浴びせるのは彼らこそ問題提起の対象と見なしているからだ。

 出場選手を代表する立場で格闘技大会を取り仕切る統括本部長と、同大会を運営する企業の幹部が揃ってセコンドを務める状況は特別待遇えこひいきと受け止められても仕方あるまい。

 しかも、だ。主催者側は年齢的にピークを過ぎたと想定される選手を疎んじているようなフシがある。学校帰りにコンビニの店先で面白おかしく駄弁だべっているような年齢の相手をぶつけ、引導を渡そうとするなど長年の仲間に対して余りにも仁義を欠いている。

 少年の養父を名乗る統括本部長がセコンドに付くことはごく自然であろうが、その裏で卑劣な思惑がうごめいているのではないかと勘繰らずにはいられなかった。


「初めての大舞台は誰だってアガッちまうもんだ! ちっとも恥ずかしくねェから安心しろって! ここで父ちゃんが見守ってるからよ! 〝道場〟のセンセから学んだモンをバキッとぶつけてやれィッ!」


 統括本部長が養子に向けて発した激励にさえリーゼント頭を揺らすような勢いで鼻を鳴らしてしまった。

 彼が少年に課したトレーニングにも疑問しか持ち得ない。くだんの知人曰く――統括本部長が連れていったのは格闘技のジムなどではなく殺陣たて道場どうじょう体験会ワークショップだという。

 殺陣は『擬斗ぎと』なる別名でも呼ばれており、読んで字の如く大立ち回りの〝芝居〟を演じる技術であった。少年がアクション俳優志望ならばいざ知らず、直接打撃フルコンタクトの格闘技に臨む以上は殺陣の腕を磨いたところで役立てられないように思えるのだ。

 いくらインカ帝国の殺人拳とやらが優れていても寸止めでは台無しだろう。

 リーゼント頭の男も統括本部長の発想力を型破りな豪傑肌と慕ってきたのだが、今度ばかりは全く意図が分からない。いくら主催者側の肝煎りとはいえ、メンタルコントロールすらままならない選手を試合に送り出すなどセコンド失格だ。

 ヒサシのようなリーゼント頭を振動させる憤怒は、少年自身というよりもコーナーポストのセコンド陣によって火を付けられたようなものである。統括本部長には大昔から世話になってきた。偉大なる先駆者と尊敬していただけに失望も深いのだった。


「……クソくだらねぇ三文芝居はリングの外でやりやがれ……ッ!」


 リングサイドの特等席に腰掛けた丸メガネの少女を目の端に捉えた瞬間、男は一等鋭く舌打ちした。何度か挨拶を交わした顔だ。あれは統括本部長の実の娘である。

 リング上の少年を愛称ニックネームで呼び、まずは気持ちを落ち着けるよう訴えているのだが、さしずめ父娘で新しい家族を支えるといったところだろうか。

 安っぽいバラエティー番組が喜々として飛び付きそうな美談であるが、他人からすれば真剣勝負の場に家庭の事情を持ち込まれることは迷惑以外の何物でもなかった。

 ましてや所属選手を代表する立場では公私混同など許されざる振る舞いであろう。


「――今、喧嘩師たちがメンチを切り始めました! これぞおとこの根性比べ! 予想を超えた喧嘩マッチの行方を占うことになるのかァッ?」


 実況担当の女性アナウンサーに煽られた観客席では爆発的な歓声が轟いているが、少年と同列に扱われることはリーゼント頭の男にとって何にも勝る屈辱だ。


「逆上して突っ込むような真似だけはするなよ。……このボウズ、ソートーぞ」

「ナメんじゃねーぞ、タコがッ!」


 自分のセコンドから短慮に走っては危ういとなだめられはしたものの、小刻みに痙攣する頬の筋肉は全身の血が怒りで沸騰しかけていることを表していた。

 即ち、背中に突き刺さった訓戒いましめれるだけの理性が爆発四散したということである。


「世の中、そんなに甘かねぇっつーコトを思い知れや、クソガキッ!」


 試合開始を告げるゴングが鳴り響いた直後、彼はこれまで以上に大きくリーゼント頭を揺り動かし、今もって慌てふためいている少年へ渾身の右拳を突き込んでいった。総合格闘技の全盛期から最前線で戦ってきた誇りを宿す一撃であった。

 『総合格闘技』とは、その名の通り、全ての技術が有効となる世界である。意図的に急所を狙うような危険行為は禁じられているが、定められたルールさえ遵守すれば、ボクシングのような打撃も、柔道に代表される投げや関節技も許可される。

 持ち得る限りの全てを出し尽さなければ生き残れない弱肉強食の世界というわけだ。

 くだんのルールに従って厚みのある指貫オープンフィンガーグローブを装着してはいるものの、命中させれば鼻の骨くらい容易く砕けるという自信があった。直撃の寸前まで少年は無防備であり、絶対的な殺意を感じ取った瞬間、ずっと眠そうだった双眸を恐怖に見開いたほどである。

 リングでは臆病風に吹かれた者から淘汰される――それ故にリーゼント頭の男は己の身に起きた事態を認識できなかった。何一つ理解わからないままマットへ沈んでいた。慌てて駆け寄ったレフェリーがカウントを取る声も耳には届いていないはずだ。

 数秒前まで沸き立っていた大勢の観客ばかりでなく、試合の内容を実況すべきスタッフさえ言葉を失っている。目の前で繰り広げられた刹那の交錯は、一〇〇〇を超える人間をまとめて沈黙させるほどに衝撃的であったのだ。

 誰もが拳一発ワンパンチでの撃墜を直感したというのに結果はどうであったか。先に攻撃を仕掛けたほうがマットを舐め、標的の少年は無傷のまま立ち尽くしていた。

 少年の右拳を包む真っ白なグローブが血に染まっている――それが〝現実〟だった。

 どのような経緯で攻勢が逆転したのか、説明できる人間は誰もいない。映画のフィルムでたとえると、途中でコマが飛んでしまったかのような急展開なのだ。実況席の付近では撮影済みのビデオを大至急確認するようスタッフ同士で怒号を浴びせ合う始末であった。

 リングを取り囲む人々が目の当たりにしたのは、この日が初陣デビューという新人選手ルーキーに歴戦の古豪ベテランが圧倒された〝事実〟である。そして、その凄絶な結果に誰もが戦慄していた。

 意識の外より突き立てたと思しき迎撃カウンターは、殺陣道場の体験会ワークショップで学んだことを生かした成果なのか。それとも、古代より伝わる殺人拳の一種なのだろうか。

 場内で陽気なのは統括本部長くらいであり、養子が見せた活躍に「のっけから超必殺技をブチかますなんてよォ、父ちゃん、脳汁のうじるが溢れ出しそうだぜェッ!」と両腕を突き上げながら快哉を叫んでいた。

 尤も、当の少年は勝ち誇ったふうでもない。うつ伏せに倒れた男を無感情に、生気の失せた顔で見下ろしながら誰にも聞こえないような擦れ声で何事かを呟いている。


「……母さん、僕は――」


 すぐ近くに立つレフェリーでさえ気付かないくらい少年の声は小さかった。仮に呟き自体を耳で拾ったとしても、その意味までは掴み兼ねたに違いない。

 会場に設置された巨大モニターには少年の映像と共に南米・ペルー共和国の国章が表示されていた。一緒に映し出された解説によれば、名前はキリサメ・アマカザリだという。

 今、虚ろな瞳がているのは二本の足で立つ〝現実〟のリングではなく、生まれ育った貧民街スラムの〝幻影まぼろし〟かも知れない。地球の裏側まで逃れようとも裏路地という暴力の掃き溜めは少年キリサメの心にり続けるのだ。


 二〇一四年初夏――遥かなる黄金郷より日本に舞い降りた死神スーパイは、血と罪にけがれた己の手によって格闘技の新しき扉が開かれることをまだ夢想だにしていなかった。

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