現想の√

八神 穹

現想の√

 クリスマスイヴの前日。

 今年度最後の学校が終わり、オレたちは帰路についていた。

 いつもと同じく、工事中の斜面の横で別れる。


「じゃあ遊くん、また明日」

「ああ、また明日」


 白く揺らめく息が朱く染まった虚空に溶ける。

 少し寒そうに小さく手を振る幼馴染の少女に微笑んで、オレは軽くその背中を見送り踵を返した。

 不意に腕時計を確認し、家に帰ってから何をしようか考える。が、特に何も浮かばない。


 仕方ない、少し寝るか。

 明日から冬休みだが、部活があるため学校には行かなければならない。そのための蓄えだ。廃部寸前の文芸部で活動自体あってないようなものとは言え、やはり休みと分かっていて学校に赴くのだから憂鬱にもなる。


 オレはあくびと共に腕を伸ばした。

 その時、背後から耳を劈くクラクション。オレは思わず肩を震わせ振り返る。

 次いでいくつもの悲鳴が後を追った。

 な、何だ?

 オレは気になって、僅か一分前に幼馴染が通った道をなぞる。


「……は?」


 電柱にぶつかり潰れたトラック。一面に咲いた大輪の紅い花。

 信じられなかった。信じたくなかった。嘘だと言って欲しかった。冗談だと笑って欲しかった。


 すぐ近くにそびえる時計台。

 十二月二十三日、十五時五十九分。

 幼馴染――朝比奈花音あさひなかのんの未来は閉ざされた。


 オレ、高遠遊真たかとうゆうまの頭は真っ白になった――





「じゃあ遊くん、また明日」

「……あ、ああ。また明日」


 白く揺れる息が朱く染まった虚空に消える。

 ウェーブ掛かった栗色の髪を抑えながら小さく手を振る花音に、オレは咄嗟に微笑み返して、少しだけその背中を見送り踵を返す。

 つい普段の癖で別に見たくもなかった腕時計に視線を落とした。

 とりあえず家に帰ってから何をするか考える。が、特に何も思いつかない。


 えーと、なんだっけ。


 なぜか思考が上手くまとまらない。自分が何をしたいのかさえ思いつかない。

まるで異物を入れてシェイカーでかき混ぜたられみたいに、ナニかがオレの頭の中を渦巻いている。


 その時、背後から耳を劈くクラクション。思わず肩を竦ませて振り返る。

 次いでいくつもの悲鳴が後を追った。

 な、何だ?


 頭の中がチクリと痛くなる。

 オレは嫌な予感がして、僅か一分前に幼馴染が通った道をなぞる。


「……」


 電柱にぶつかり潰れたトラック。一面に咲いた大輪の紅い花。

 何か鮮明な映像が見え強烈にオレの頭を締め付けた。


「うわぁぁぁぁああっ!」


 すぐ近くにそびえる時計台。

 十二月二十三日、十五時五十九分。

 朝比奈花音の未来は閉ざされた。


 オレは頭が真っ白になった――





「じゃあ、遊くん。また明日」

「……え? ああうん……」


 白く揺れる息が朱く染まる空に混ざり合う。


「どうしたの? 具合悪い?」


 花音の冷え切った手がオレの額に触れる。

 ちょっと焦って距離をとった。もしかして、今のオレは頬が赤かったりするのだろうか。


「い、いや何でもないんだけどっ。その……、花音だよな?」


 オレの脈絡のない馬鹿らしい問いかけに、花音はクスっと口元に手を当てて笑った。


「うふふ、何言ってるの? おっかしい遊くん。やっぱり熱でもあるんじゃない?」

「あ、ああ。だよな……悪い、忘れてくれ」


 花音の反応は順当すぎるほど順当なものだと思う。おかしいのは多分――というより間違いなくオレだ。

上手くは言えないが、さっきから変なイメージが頭を過る。加えてギリギリと不快な音が聞こえる。


「それじゃ、わたしこっちだから。また明日部活でね」


 小さく手を振る花音を、オレはモヤモヤする感情を抱いたまま見送る。


 ――行かせてはいけない


「なあ、今日はこっちから帰らないか?」


 反射的にそう言っていた。一瞬たりともそんなことは思っていなかったのに。


「え、うん。別にいいけど」


 花音は少しだけ戸惑ってから頷いた。


「決まりだな。それじゃあ――」


 オレが後ろに振り返ったその時、背後で聞いたこともないような轟音が響いた。地面が揺れ、悲鳴と土埃が辺りを覆う。それに混じって漂ってくるむせ返るような臭い。


 冷や汗が止まらなかった。すぐさま振り向かなければならないはずなのに、身体が言うことを聞かなかった。膝の震えが止まらない。頭が締め付けられるように痛い。変な映像が頭にこびりついて離れない。


 何なんだよ……なんなんだよこれっ!


 オレはやっとの思いで振り返る。


 一体何なんだこのイメージは。ふざけるな。気持ち悪い。胸糞悪いじゃねーかよ。


 それは残酷で、現実味が無くて、とてもじゃないが信じられるものではない。


 それはまるで、今オレが目の当たりにしている光景のような――


 ありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえないありえな――。


 嘆きも、叫びも、涙さえも出はしない。


 すぐ近くにそびえる時計台。

 十二月二十三日、十五時五十九分。

 朝比奈花音の未来は閉ざされた。


 オレは頭が真っ白になった――





「じゃあ、遊くん。また明日」


 視界に色が戻った。


「…………」


 彼女が何を言ったのか理解できなかった。これは一体なんだ。いや、そもそもここはどこだ。

 彼女は……誰だ。


「遊くん大丈夫? 具合でも悪いの?」


 オレは夢でも見ているのだろうか。花音は間違いなく死んだはずだ。俺はさっきそれを見た。落下した鉄骨と土砂の下敷きになった彼女をオレははっきりこの目で見た。


 思い返すだけでも吐き気がする。こんなリアルな記憶を持っていて、それが嘘とは言わせない。

 俺は膝を突きながら口元を抑えこみ上げてくる物を必死に堪える。


「ゆ、遊くん? 本当に大丈夫?」


 それから訊いた。


「あ、ああ。……なあ」

「ん?」

「お前はなんだ?」


 彼女は二回だけ瞬きをした。


「……わたしお母さんに迎え来てもらえるか聞いてくるから、ここで少し待ってて」


 オレの言葉を意図的に無視して、花音は反対側の歩道に設置された公衆電話へ駆けていく。不意に頭の中で何かが云った。


 ――ダメだ、行かせてはダメだ


 予感がそう呼びかけ、オレを強引に奮い立たせる。


「いや悪かった、やっぱりオレは大丈夫だか……ら……」


 視線を上げると公衆電話の隣、彼女の横に黒いフードを被った見知らぬ男の姿がある。


 何か様子がおかしい。


 そう思った刹那、男と花音の間にちらりと輝く銀色の質感。


「え……?」


 それはオレと花音の両方から出た言葉。


 ザクロを絞ったように滴る鮮血。

 花音はその場に崩れ落ちた。


 十二月二十三日、十五時五十九分。

 朝比奈花音の未来は通り魔の手によって閉ざされた。


 そうして初めてオレは理解した。そうだ、これはあれだ。いわゆるタイムリープってやつだ。よくマンガやアニメなんかで出てくるあれだ。馬鹿げている。そうとしか思えないがそうとしか考えられない。

 理不尽な光景。馬鹿げた真実。思わず発狂しそうになった。


 オレは過去をやり直している。


 そう理解した直後、強烈に頭を襲う鈍痛。


 オレは頭の中が真っ白になった――





今回も彼女を救うことは出来なかった――

今回も彼女を救うことは出来なかった――

今回も彼女を救うことは出来なかった――

今回も彼女を救うことは出来なかった――

今回も――





 この終わりのない現象を理解してからオレは何十という世界を経験した。


 近頃は真っ白になった後に少しだけ物事を考えられる時間なんてものができた。真っ白になったのに思考できるという違和感に関してはもうあまり気にしていない。とにかく、無限にも一瞬にも感じられるこの時間はオレにとって貴重なものだった。


 そうそう、今までに一つ分かったことがある。さらに馬鹿げた話だが、オレがタイムリープだと考えていたものは実は間違いで、全ては全く別の世界だったのだ。


 それは一度だけ雨が降っていた日があったことから容易に仮定できた。

 思い返せば三回目の世界は空に少しだけ曇がかかっていた気がしていた。加えて、幼馴染のオレがかろうじて気づくかどうかというものだが、何度か花音の性格が変わっていたことがあったのだ。同じ世界であればこんな変化は生じまい。


 そう、今までの過去の一つ一つが同じ世界で起きたものではない。

 何時という瞬間から無数に枝分かれした九十九%狂い無き別世界。

 オレは自分が閉じ込められたこの迷宮を『可能性世界』と命名した。


 ふと、視界に僅かながら色が戻り始める。


 来たか。


 ああ、どうやら次の世界に行く時らしい。

 覚悟はとっくにできている。策もある。今回のはとびっきりだ。

 オレは落ち着いて深く息を吸う。


 ……書き換えるんだ、運命を。掴むんだ、未来を。やり直すんだ。そして、次はきっとうまくやる。


 では行こう。三十九回目の世界へ――





「じゃあ、遊くん。また明日」

「ああ、また明日な」


 白く揺らめく息が朱く染まった虚空に消える。

 少し寒そうに小さく手を振る花音に手を振り返し、オレは軽くその背中を見送り踵を返そうとして、返さない。


 そうだ、今日のオレは一味違う。今まで色々なことをしてきたつもりだったが、それはどれもあの場面において常識の範疇に留まるようなものばかりだ。


 だから、今日はその壁をぶち壊してみる。

 オレは深く深呼吸をして、さっきからバクバクうるさい心臓を落ち着かせた。

 こっちの覚悟もできたつもりでいたが、いざとなると弱気になる自分のチキンっぷりを痛感させられ心底うんざりした。

 もう一度心を落ち着かせ、改めて覚悟を固めた。


「花音!」


 オレは裏返る寸前の声で彼女を呼び止めた。

 急に大声で名前を呼ばれた花音は、びくっと肩を震わせて足を止め、驚きながらこちらを向く。


「遊くん? どうしたの?」


 勇気を出すんだオレ! 十年間胸の内に秘めていた想いを解放するときだ!


「……お、おおオレ、お前が好きだ!」


 言った。言ってから恥ずかしさが有頂天になるのを感じた。顔が熱い。今自分がどんな顔をしているのか写真に起こしてベットにダイブしてから布団を頭まで被り一通り身もだえた後、閉じた目を少しずつ薄目にしてその写真を確認したい気分だ。

 世のカップルというものはこんなことを経験した上に成り立っているのか……全く強者だ。


「え、え?」


 花音はいきなりの告白に慌てふためく。


「お、オレはお前が好きだ」

「こ、困るよ遊くん。……いきなりそんなこと言われてもわたし、困るよっ!」


 そう叫んで、花音は勢いよく振り返る。そしてその場から立ち去った。

 何で? という気持ちが強かった。が、理解する。呆気ないものだ。


 ……ああ、オレは一世一代の告白に失敗したのだ。


「まっ……」


 待って、と言いかけて遅いと気付く。こんな弱弱しい声では今の彼女には届かない。

 しかし、ふと思った。

 今までであれば何らかのアクションを起こすことで花音が死んだ。しかし、今回はどうだ。走る花音には何も起きないし、それらしい気配もない。


「成功したのか?」


 成功したんだ。


 オレはその場で叫びあがりそうになって必死に堪える。振られて歓喜に震える奴を見たらきっと周りの人間はドン引きだろうからな。

 明日部活で誠心誠意謝ろう。

 そう思って帰ろうと振り返り視界に入ったのは、猛スピードで突っ込んでくる乗用車だった。


「あ?」


 猛烈な痛みと全身が潰れるような異音。浮遊感と共に視界がぶれ音が消える。

 朦朧とする意識の中、天から生えた時計台が嘲笑うかのように分針を刻んだ。

 十二月二十三日、十五時五十九分。


 オレは死んだ――





 五十四回目の世界が今終わった。

 また一つ分かったことがある。告白はどんな形であれ、花音ではなくオレの死を招くらしい。既に七回、オレは死んでいる。そしてオレが死んだ場合もこの白い空間に戻され、再び次の可能性世界に呼ばれる。


 告白の際、花音が逃げさすようにオレの元から立ち去る理由については結局分からずじまいだ。

 告白という行動自体がそれを誘発しているのか、あるいはその際のセリフに関係しているのか。前者であると結論付ければ簡単だが、後者であれば何度世界があっても到底足りない。


 だとすれば別の可能性、追加のアクションを起こすしかない。

 告白をすることにより死の対象が花音からオレに移ったとなれば、それは未来を書き換えるのに必要な要素の一つなのかもしれないと仮定できる。


 ならば、一つ踏み込んでみよう。


 ふと、視界に僅かながら色が戻り始める。


 来た。


 この現象にも慣れたものだ。

 オレは頭の中で次のシミュレーションを描く。


 では、行こうか――





「じゃあ、遊くん。また明日」

「ああ、またな」


 白く揺らめく息が朱く染まった空に消える。

 少し寒そうに小さく手を振る花音に手を振り返し、オレはその背中を見つめた。


「花音!」


 オレは彼女の名前を強く叫んだ。

 急に大声で名前を呼ばれた花音は、びくっと肩を震わせて足を止め驚きながらこちらを向く。


「遊くん? どうしたの?」


 オレは大きく息を吸い込んで、そして言った。


「オレ、お前が好きだ」


 真剣に彼女と目を合わせる。まさか告白に慣れる日が来ようとは夢にも思っていなかった。今のオレには微塵の羞恥もない。その分だけ真剣みは増しているはずだ。


「え、え?」


 花音はいきなりの告白に慌てふためく。


「オレはお前が好きだよ」

「こ、困るよ遊くん。……いきなりそんなこと言われてもわたし、困るよっ!」


 彼女には悪いがそのセリフは予想通りだ。そしてこの後の行動も。


 そう叫ぶと、花音は勢いよく振り返る。

 そしてその場から立ち去ろうとして、立ち止まる。

 距離を詰めたオレがその腕を掴んで離さないから逃げることもできない。が、ここまでは何度も繰り返したことだ。ここからだ。


「お願い離してっ!」


 どうしてそこまでオレを拒絶するのか分からない。いや、そういうことなのだろう。彼女はオレのことを好きではないのだ。だとしても、ここで離してやるわけにはいかない。


 ここで、オレはまた一つ踏み込んだ。


 掴んだ腕を強引に引き寄せ、オレは花音を抱いた。

 甘く優しい香りが漂う。柔らかい感触が体いっぱいに伝わる。


 ああ、このまま時間が――。


 一瞬硬直した花音がオレの腕の中で暴れる。


「離してっ、お願いだから!」


 すかさず訊いた。


「どうして!」

「少しでいいから……。少しでいいから整理する時間をちょうだい……お願い」


 涙目の彼女を見て、オレは背中に回していた腕を解く。


「悪い……」

「ううん。ごめんね」


 そう言い残して花音は走って行った。

 夕日に反射してきらめく雫が見えた。

 罪悪感が残るが、ここで立ち止まるわけにはいかない。考えろ。


 この方法ではダメなのか?

 そうならばこの後、俺は死ぬ。

 すぐさま辺りを見渡した。が、異常は見られない。時計台の秒針は四十六を指している。


 何もないとなれば考えられるのは二つだけ。

 成功か、花音の死か。


 違和感はすぐさまこみ上げた。

 即座に花音の方に視線を向ける。


 俯き走る花音。

 その先の交差点。

 赤の信号。

 走る花音。


 おい、赤だろうが……何で止まんないんだよ!


 もう間に合わない。

 悟った。失敗だ。

 答えは二通りであっても五分ではない。成功の確率は限りなく低い。そんな簡単に行くわけがなかった。


 声にならない叫びの刹那、大音量のクラクションが轟いた。

 オレは発狂した。


 その横で悪魔が死を宣告する。

 十二月二十三日、十五時五十九分。

 朝比奈花音の未来は失われた。


 割れるような頭痛の後、オレは頭が真っ白になった――





 幾度もの可能性世界を経験し、騙し続けてきたオレの精神はついに限界を迎えつつあった。


 九十八回の世界が終わった。

 そのほとんどでオレは花音を死なせた。


 試すことは思いつくだけ試した。ギリギリのところまで踏み込んだ。帰り道を変え、来た道を引き返し、買い物に誘い、立ち話をし、セリフを変え、タクシーを呼んだり、事故に遭う彼女をぎりぎりで助けたこともあった。告白し、抱きしめ、同じ分だけ振られた。だが、その道の全てが行き止まりだった。


 もう限界だ。


 台詞の一言一句が花音の死に繋がると分かっていればまだ希望はある。だが、その保証すらない。

 それに最近のオレは焦っている。


 第一、この世界は全部でいくつ存在するんだ。無限? 有限? だとしたらいくつだ?

 もし百回目が無ければ?

 もし百一回目が無ければ?

 終わりのない迷宮だと思っていたこの世界にも終わりがあるとすれば。

 その可能性をオレは捨てきれない。

 次の世界がこの迷路の終着点だとすれば、そこで失敗すれば本当に全てが終わる。

 オレの精神には慎重になるほどの余裕はないのに、あれこれがむしゃらに模索する時間も無いように感じる。


 どこかで勝負に出なければ。


 ――いや、馬鹿か。どこか? そんなふざけた話があるか。次だ……。次で全てを終わらせる。


 今度こそ運命を書き換えて見せる。未来を掴み取って見せる。……やり直す。そして次は必ずうまくやる。


 視界に色が映り始める。


 これが本番だ。





「じゃあ、遊くん。また明日」

「ああ、また」


 幾度となく交わしてきた会話。

 この瞬間がいつもたまらなく辛い。


 白く揺らめく息が朱く染まった虚空に消える。

 オレは少し寒そうに小さく手を振る花音を見つめた。


「どうかした?」


 固まったままのオレに首を傾げながら花音が訊いた。


「花音」


 オレは静かに言った。


「ん? 何?」

「好きだ」

「……」

「オレ、お前が好きだよ」


 どこか空っぽだった今までとは違う。模索のためではなくオレは魂から本心を告げた。


「え、え?」


 花音はいきなりの告白に慌てふためく。


「こ、困るよ遊くん。……いきなりそんなこと言われてもわたし、困るよっ!」


 そう叫んだ花音は勢いよく後ろを振り返る。


 ここが勝負だ。


 試したことが無かったこと。試そうと思ったことすら無かったこと。これを決行すればきっと彼女との関係は崩れるだろう。

 しかし、もし、この世界を最後と考えるならどうなろうとそれに賭けるしかない。オレたちの関係がどうなろうと、彼女が生きてくれるならそれでいい。  

 それ以上の後悔だけは味わいたくない。


 その場から立ち去ろうとする花音を、オレは腕を掴んで引き留めた。


「お願い、離してっ!」


 掴んだ腕を強引に引き寄せ、オレは花音を抱きしめた。

 甘く優しい彼女の香り。柔らかい感触が体いっぱいに伝わる。


 一瞬硬直した花音がオレの腕の中で暴れる。


「離してっ、お願いだから!」


 ここで離せば彼女は死ぬ。だから離さない。だが、時間いっぱいまで彼女を抱きしめられたことは今までに一度もなかった。


 だから、オレは最後の一歩を踏み込むことを決めた。


 オレは花音にキスをした。


 もう引き返せない。これで失敗すれば、例え次があっても俺は今度こそ立ち直れない。


 強く願う……。

 今度こそ、彼女が良き未来を歩めますように。


「――⁉」


 腕を振り抵抗する花音。オレの中で罪悪感が溢れる。

 オレの胸を激しく叩き叩き叩き、何度も唸る。


 ……そして彼女は抵抗するのをやめた。


 なぜ抵抗しないのだろうか。

 静かに唇を離す。


「……どうして……?」


 今にも消えそうな声で花音が言った。


「悪い……。嫌、だったよな」


 オレが言った。


「そうじゃないよ……そうじゃない。わたしは――」


 雫の溜まった瞳を細め、花音はオレと視線を交わらせる。


「わたしも遊くんが好き」


 空耳かと思った。幻聴のように感じられた。


 今、なんて。


「え……じゃあ、なんで逃げようとしたんだよ」


 せめてこれだけは知りたい。


「それはその……。わたしも明日遊くんにその、告白しようか迷ってたから。だからまさか遊くんがそんなことを言ってくれるなんて思ってなくて。それで頭真っ白になって、それで――」


 まさか。まさか、散々死の理由を作り出していた行動が、そんなことだったなんて。

 オレは気が抜けていくのを感じた。


「馬鹿か。……大馬鹿野郎だ」

「えぇ⁉ 何で遊くんが泣くの⁉」


 だって、だってさ――、


 時計台の分針が十二を指した。


 ――未来ってやつはこんなにも儚くて尊いものなんだぜ?


「そりゃあさ、オレたちこれで恋人だろ?」


 オレは必死に誤魔化した。


「そうだね」


 花音がいつぶりかの笑顔を見せた。


 オレたちはもう一度唇を重ねる。


 十六時を知らせる鐘の演奏は、今のオレには祝福の詩のように、魂に響く甘美な音色に聞こえた。


 ああ、この音ねをオレは生涯忘れることはないだろう。


 九十九回の世界を経て、オレが彼女を絶望の淵から救い出す、その瞬間が訪れた。









 オレの記憶は真っ白になった――




  ◆ ◆ ◆




 クリスマスイヴの前日。

 今年度最後の学校が終わり、俺たちは帰路についていた。

 いつもと同じく、工事中の斜面の横で別れる。


「じゃあ、遊くん。また明日」

「ああ、また明日」


 白く揺らめく息が朱く染まった虚空に溶ける。

 少し寒そうに小さく手を振る幼馴染の少女に微笑んで、俺は軽くその背中を見送り踵を返そうとする。


 ――ここを間違ってはいけない

 本能が云った。


「花音!」


 俺はいつの間にか振り返り、彼女の名前を強く叫んでいた。

 急に大声で名前を呼ばれた花音は、びくっと肩を震わせて足を止め、驚きながらこちらを向く。


「遊くん? どうしたの?」


 ――勇気を出せ一生後悔するぞ

 本能が云った。


「……俺、お前が好きだ」


 言った。言ってから自分の行いに気付いた。何年も溜め込んできた感情を俺は今吐き出していた。

意味が分からない。だというのに焦りはなく、自然と気持ちは落ち着いていた。

 なぜか、俺は一線を越えたと感じた。


 ――もう引き返せない――後戻りの先は絶望だ

 本能が云った。


「え、え?」


 花音はいきなりの告白に慌てふためく。


「俺はお前が好きだ」

「こ、困るよ遊くん。……いきなりそんなこと言われても私、困るよっ!」


 そう叫んで、花音は勢いよく振り返る。その場から立ち去ろうとする。


 ――行かせてはいけない

 本能が云った。


 俺は彼女に詰め寄り腕を強く掴んで引き留めていた。

 しかし、自分の行動に意味を見出せない。この先のことなど頭にはない。


 ――抱き寄せ

 ――キスをする

 本能に導かれた。


「お願い離し――っ⁉」


 俺は強引に花音を抱き寄せ、そっと彼女の唇を奪った。


 なぜか、彼女が逃げようとするのはただの照れ隠しだと、その時は思った。なぜか、彼女は本当は俺のことが好きなのだと、その時は確信していた。


だからここは本心に従った。


 抵抗を見せかけた花音の手がぎこちなく下ろされる。

 見開かれた瞳が静かに閉ざされる。

 だらりとぶら下がっていた腕が俺の背中へ回される。


 花音は俺を受け入れた。


 そっと唇を離す。


「……私も遊くんが好き」

「ああ。……花音、俺の恋人になってほしい」

「……はい」


 花音は初めて見せる天使の笑顔で答えた。


 俺たちはもう一度唇を重ねる。


 十六時を知らせる鐘の演奏は、今の俺にはどこか遠く聞こえた……。

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