三 望春に駆けよ
年が明け、朝廷は遠辺国守風声千弓を、その任から解いた。同時に、その息子野主を、同じ官職に任じた。
「兄上!」
春野は待ちきれず、遠辺国の関所まで兄を迎えに行った。雪の踏み固められた道を駆け、馬から下り、こちらに向けて腕を広げる兄に抱きつく。
「……春野」
兄は身につけていた毛皮の外套で妹をくるんだ。
「顔を、……よく見せてくれ」
両手で顔を覆う春野は、肩を震わせている。それでも彼女は手を下ろし、顔を上げて野主を見上げた。
「あに、うえ……」
熱い涙は、目からこぼれるとすぐに凍り付くように痛む。野主は手袋を外し、温かな手で春野の頬をぬぐう。
「春野、ありがとう。そなたの働きを、父上もお喜びだろう」
「あにうえぇ……」
「ああ、泣くな。わたしも泣きたくなる」
兄は笑みを漏らし、そのすぐあとに涙を流した。
兄が来て、春野はひとつ荷が下りたような気がしていた。国守館に、あるじが戻ったのだ。父の従者たちも、館の使用人たちも、みな浮き立った。
野主は地震使枝打や、国府の役人たちの話を聞き、丁寧に指示を出した。
いちばんの豪雪と寒さの時期を、春野は安穏と暖かに過ごした。
雪が溶け、木々の枝の端に、つぼみが膨らむ。
城の造作がまもなく再開するという時期に、春野はふたたび窯場を訪ねた。
「……春野さま」
「さまはいらぬぞ。宝春、見せたいものがある」
晴れた日。正午を過ぎて、みな家に帰る時刻に、春野は宝春を誘って山に入った。
猟を生業とする山夷似枝が使う、雪を踏み固めた杣道を通って、ちいさな山に登る。
「……見よ」
日当たりのよい山頂に、背の高い木が生えている。木末に点々とつくつぼみ。そのひとつが、ほんのわずかにほころんでいる。
《……望春だ》
白い息を吐き、宝春が、自分の故郷のことばでつぶやく。
「蘇廬でも、そう呼ぶのだな」
《故郷にも生えていた木だ。ここと同じように、まだ雪の残る時節に、春を待ちかねて咲き始める》
「……もうすぐ、春が来る」
ふたりは目を合わせ、それから、山頂から低地の広がりを見下ろした。
丘の上の臥田城。その下に広がる城下町の、そこここから、煮炊きや手仕事のための煙が上がっている。
さらに向こうに、潮に沈んでいた田が、いまは真っ白に広がっている。
さらにその向こうに、青く輝く海。
ひとを押し流し、命を奪う海。
ひとを運び、ひとを出会わせる海。
宝春がここにいるのは、海があったからだ。
「宝春は、わたしがいなくてももう大丈夫だな」
瓦工は首を傾げて笑った。
「ことばはわかるようになったが」
「……枝打殿が、都に帰るそうだ」
「……そうなのか。早いな」
「兄が吉氏の者を連れてきていて、造作関連のことを引き継いだし、枝打殿はまた、都に戻ったらすぐに、縁海の火山の灰をかぶった国衙を直しに出るそうだ」
「……せわしないな」
「……わたしも」
春野は宝春に向き直った。
「……」
彼は春野を見つめ返した。
「……わたしも、都に出ようと思う。仕官するときが来た」
「……そうか」
「都で帝と宮を護って、軍人貴族から武芸と指揮を学んで、そうしたら」
春野は笑んだ。
「またここに戻ってくる。前よりもうつくしくなった遠辺国を、必ず見に戻ってくる」
「じゃあ」
ふわりと、宝春の頬にも笑みが載った。
「おれは、それまでに城を完成させる」
「……約束だ」
「……そうだな、約束しよう」
瓦工は片手を上げた。
まっすぐ伸ばした腕の、その指先の示す先。
「あの花に誓って」
ふたりは木蘭の花を見上げた。
春野も、花に向けて手を伸ばす。この歳になっても、いまだ枝は遠く、指先は花にかすりもしない。
それでも、太陽は金色に輝き、凍てつくような空気のなかでも、彼女の指を温めた。
さあ、行こう。
あの、望春の花に向けて。どこまでも駆けよう。
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