一 民夷を論ぜず(二)

 海口哮吼 聲似雷霆 驚濤涌潮 泝洄漲長 忽至城下

 

 海口は吠え、その声は雷鳴に似ていた

 波濤が湧き起こり、川を津波が遡上し溢れて、たちまち城下に至った


「春野!」

 ぐい、と腕を引っ張られた。

 はっとして振り返る。眩しい陽光のなかに、見慣れた幼馴染みのすがたがある。

秋守あきもり……」

 彼女を目にするのは数ヶ月ぶりだ。北辺を飛び回る夷似枝の商人である角嶋つのしまの秋守は、春野の三つ年上で、西隣の井津端いづは国に商旅に出ていたはずだった。

 地震発生から数日が過ぎていた。

 ふたりは臥田城の外郭南門から、城下を見下ろしていた。

 見慣れていたはずの風景が豹変している。

 青い田と、風に揺れる葉を持つ森であったはずの臥田の地は、黒い泥水に浸って広大な沼のように見える。苗は潰れ、木々は倒れ、畦道の線で辛うじて区画がわかる。

 ぽつぽつと浮いているのは瓦礫の破片。津波と引き潮が一昼夜くり返されたため、遠目ではそれがなんであるのか判然としない。家の柱だったのか、農具だったのか、それとも、ひとや家畜の死体だったのか。

 戦や、今回の氷隆城の被害で、春野は死体を見慣れていた。しかしそれは、ひとであるとわかるものが大半だった。

 風に乗って猛烈な腐臭がふたりに押し寄せる。

 ここに辿り着くまでに、春野は城下の街なみであった場所を通っている。都と同じく、碁盤の目に整備され、数千の百姓が暮らしていた街は、すべて浸水し、川沿いの家は薙ぎ倒された。命を絶たれたひとびとの数は、千を超えるという。沼となった平地に漂う水死体は、白く膨張し、布に綿を詰めた稚拙な人形ひとがたのようだった。顔面は皮膚が伸びきって、目鼻が潰れて卵のように見える。そして、子どもが遊び、誤って破ってしまったかのように、腹からわたが溢れ出ている。

 こなごなになってしまった亡骸の一部を、犬がくわえて沼地をぴしゃぴしゃと走り抜けていく。

 海辺の村から流されてきた瓦礫や死体。家々は押しつぶされたようにひしゃげ、一部では火事も起きた。

 山崩れも発生し、土砂が道を塞いだ。

 父の安否を知りたいとの一心で、春野は高樹の許可を得て、臥田の地に来た。最悪の想像を、目の前の光景は遥かに凌駕していた。

 臥田城政庁、混乱を極める国司の中枢で、春野は遠辺国介すけ[次官]から、国守である父千弓と全く連絡が取れないと告げられていた。海辺の村を巡検に出て、従者共々行方知れずだという。

「日陰に行こう。からだに障る」

 女商人は落ち着いた声音で言った。

 彼女に手を引かれるまま、春野は門の内側の木陰に入った。

「秋守……春山はるやま城に行っていたはずじゃ」

 そこには秋守の率いる角嶋の郎党たちがいる。みな憔悴したすがたで、それでも春野を見て顔を明るくした者もいる。

「ちょうど戻る途中だったんだ。井津端側も山崩れで大変だったよ。残りの行程が倍かかった」

「……一族みなは、臥田にいたのか」

「兄上や時岡ときおかはいま諫那いさな島だ。……母や伯父は、近所の者が流されていくのを見たそうだ」

「……」

 目を見ひらいてこちらを見つめる春野を、秋守は見つめ返した。

「わたしたちは井津端で米をあるだけ買い占めてきた。ここで炊き出しをするつもりだ。春野、手伝え。どうせおまえはまだ仕官していないんだろう」

「……秋守」

 親友の両手が、春野の両肩をつかみ、つよく握った。

「春野、いま自分になせることをしよう。わたしたちはこの地に育てられた。今度はこの地を生かす。都からの援助は遅いだろう。しかし、角嶋はありったけの人脈と金で、遠辺を支える。おまえはどうだ。おまえにできることはなんだ?」

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