一 民夷を論ぜず(一)

 五月二日。十九歳の春野は、三日後に迫る端午たんごせちで開催される騎射うまゆみの準備のため、鎮守府氷隆城ひだかじょう近郊にいた。

 目の前を滔々と流れるのは氷隆川。目路の奥にはまだ雪を被った山なみが見える。川原には砂が敷かれ、らち[馬場の走路を区切る柵]が組まれて、的である円形の板が串に支えられて三つ立てられている。

 馬上の春野は、髪に菖蒲の葉を挿し、行縢むかばき[熊皮でできた乗馬用の防具]を穿き、左上半身を弓籠手ゆごてで覆って、馬場の入口から先行する騎手の走りを見守った。

 本番と同じく、健士けんし[弓馬に優れた地元徴用の兵士]のなかから選ばれた一の騎手が、馬の腹を蹴って走り出し、鏑矢かぶらやをポーンと鳴らして矢継ぎ早に的を射る。

「一の的、的中!」

 棒につけた白布を跳ね上げ、検見けみ[審判]が告げる。二、三、と的中を続けて、騎手が馬場を走り抜け終えようとしたとき――……

 みしり、と地が鳴った。馬場の周囲にいる歩行かちのひとびとが、一斉によろける。

 あ、と思う間もなく、走りを緩めていた馬がつんのめっていなないた。夷似枝のなかでも特に弓馬に優れているはずの騎手が、振り落とされて受け身を取る。

 春野はすぐさま馬を下りた。

地震ないだ……!!」

 ほうぼうから声が上がる。

 突き上げるような衝撃が、くり返し続く。もはやだれも立っておらず、うろたえて地に手をついている。馬たちは恐慌し、人間の手を振り払って走り出す。ちかくの村の農耕牛や犬の声がおおきく響く。森から鳥たちが羽ばたき、青空に黒い雲となって広がってゆく。

 馬場の砂がふわりと浮き、地面が波打っている。

 ひとびとの悲鳴を聞きながら、春野は眼前の光景を茫然と見つめた。

 数日前、弱い地震が起きていた。今日の揺れは、それとは比べものにならない。

 やがて、ゆっくりと揺れがおさまっていく。

 ひとびとは息をつき、立ち上がる。

 遠くで、ひとを呼ぶ声がする。

「地割れだ! 本別ほんべつ村の家も崩れたそうだ!」

 周囲の官人たちが動き出す。

 鎮守将軍霜平しもひらの高樹たかきは無事なのか。氷隆城は、そして、父のいる国府臥田ふしだ城は――……

 春野は走り出した。


 氷隆城は築地土塀で厚く囲われており、門から出入りする。最大の門は南にある。なんとか捕らえた自分の馬で春野がそこに駆け付けると、朱塗りの柱が支える屋根の瓦は、ことごとく地面に落ちていた。瓦が当たった怪我人らしき兵士のすがたも見える。彼を助け起こし、まず屋根の下から避難させる。馬場にいた官人や兵士、徭丁ようてい[雑役夫]が続々と駆け付け、現状に対処を始めた。

 城の築地土塀の一部は崩れ、そこに取り付けられた櫓の柱が折れているものもある。春野はそれを視界の端に捕らえながら、余震のなか、怪我人の応急措置や、瓦礫の下敷きになったひとびとの救助にあたった。

 そうして日が暮れ、家が損壊した周辺の村のひとびととともに、春野は氷隆城の曹司ぞうし[建物]に入った。

「春野! 無事だったか」

 板葺きの宿舎は、数年前新造した将軍用のものは無事だったが、鎮守府設置と同時に建てられたものは倒壊した。将軍はひとびとを自分の宿舎に入れ、春野を迎えた。

「高樹さまもご無事で」

 疲労でふらつきながら、春野は膝を折った。

「そなたにもしものことあらば、千弓さまに申し訳が立たぬ」

 微笑む鎮守将軍は、春野の父に次官として仕えたこともある、四十代の女性である。

「……臥田城からは、いまだ飛駅ひえきが来ない。わたしからは都に発遣している」

 国守の娘である春野は、いまだ仕官していない。今回は節会に合わせ、自身の武芸を試すため、父と分かれて氷隆城に来ていた。

「臥田は」

 春野は顔を上げ、高樹を見上げた。

 数年前から春野を見守ってきた年長の女性は、常とおなじく静かに春野を見返す。

「……海まで、数里です。あの地は古来、……」

 そこまで言って、春野は声を詰まらせた。

 臥田城は高台にある。しかし、今日、父は村々の巡検に出ていたはずだ。端午の節会を控え、北辺には盛夏が来ている。疫病や害虫のせいで農事に障りが出ていないか、父は百姓や夷似枝たちの声を聴きに行っていた。

 朝廷はそのような仕事を国守には割り当てていない。ただ、風声という氏族がひとびとをつかさどるときの習いに従い、千弓は低地に降りる。それは、春野が八つでこの地に来てから、毎年目にしていることだ。

 夷似枝村の古老は語る。数百年にいちど、おおきな地震が起きるとき、この地の海沿いを海嘯かいしょうが襲うと。

 阿妻あづま八国からの百姓の移民が多く住まう国府近辺には、低地にできた村も多い。夷似枝の言い伝えを知らなかったためにその場所にできた村だ。

 春野は高樹を見つめ続けた。視界が歪む。いま、泣いている場合ではない。けれど、その想定は春野のこころを占め、はげしく揺さぶった。

 外が暗くても、地割れに馬が足を取られることになろうとも、春野は飛び出したかった。

 父のもとに行って、いつものように笑う彼を見たかった。

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