一 民夷を論ぜず(一)
五月二日。十九歳の春野は、三日後に迫る
目の前を滔々と流れるのは氷隆川。目路の奥にはまだ雪を被った山なみが見える。川原には砂が敷かれ、
馬上の春野は、髪に菖蒲の葉を挿し、
本番と同じく、
「一の的、的中!」
棒につけた白布を跳ね上げ、
みしり、と地が鳴った。馬場の周囲にいる
あ、と思う間もなく、走りを緩めていた馬がつんのめっていなないた。夷似枝のなかでも特に弓馬に優れているはずの騎手が、振り落とされて受け身を取る。
春野はすぐさま馬を下りた。
「
ほうぼうから声が上がる。
突き上げるような衝撃が、くり返し続く。もはやだれも立っておらず、うろたえて地に手をついている。馬たちは恐慌し、人間の手を振り払って走り出す。ちかくの村の農耕牛や犬の声がおおきく響く。森から鳥たちが羽ばたき、青空に黒い雲となって広がってゆく。
馬場の砂がふわりと浮き、地面が波打っている。
ひとびとの悲鳴を聞きながら、春野は眼前の光景を茫然と見つめた。
数日前、弱い地震が起きていた。今日の揺れは、それとは比べものにならない。
やがて、ゆっくりと揺れがおさまっていく。
ひとびとは息をつき、立ち上がる。
遠くで、ひとを呼ぶ声がする。
「地割れだ!
周囲の官人たちが動き出す。
鎮守将軍
春野は走り出した。
氷隆城は築地土塀で厚く囲われており、門から出入りする。最大の門は南にある。なんとか捕らえた自分の馬で春野がそこに駆け付けると、朱塗りの柱が支える屋根の瓦は、ことごとく地面に落ちていた。瓦が当たった怪我人らしき兵士のすがたも見える。彼を助け起こし、まず屋根の下から避難させる。馬場にいた官人や兵士、
城の築地土塀の一部は崩れ、そこに取り付けられた櫓の柱が折れているものもある。春野はそれを視界の端に捕らえながら、余震のなか、怪我人の応急措置や、瓦礫の下敷きになったひとびとの救助にあたった。
そうして日が暮れ、家が損壊した周辺の村のひとびととともに、春野は氷隆城の
「春野! 無事だったか」
板葺きの宿舎は、数年前新造した将軍用のものは無事だったが、鎮守府設置と同時に建てられたものは倒壊した。将軍はひとびとを自分の宿舎に入れ、春野を迎えた。
「高樹さまもご無事で」
疲労でふらつきながら、春野は膝を折った。
「そなたにもしものことあらば、千弓さまに申し訳が立たぬ」
微笑む鎮守将軍は、春野の父に次官として仕えたこともある、四十代の女性である。
「……臥田城からは、いまだ
国守の娘である春野は、いまだ仕官していない。今回は節会に合わせ、自身の武芸を試すため、父と分かれて氷隆城に来ていた。
「臥田は」
春野は顔を上げ、高樹を見上げた。
数年前から春野を見守ってきた年長の女性は、常とおなじく静かに春野を見返す。
「……海まで、数里です。あの地は古来、……」
そこまで言って、春野は声を詰まらせた。
臥田城は高台にある。しかし、今日、父は村々の巡検に出ていたはずだ。端午の節会を控え、北辺には盛夏が来ている。疫病や害虫のせいで農事に障りが出ていないか、父は百姓や夷似枝たちの声を聴きに行っていた。
朝廷はそのような仕事を国守には割り当てていない。ただ、風声という氏族がひとびとをつかさどるときの習いに従い、千弓は低地に降りる。それは、春野が八つでこの地に来てから、毎年目にしていることだ。
夷似枝村の古老は語る。数百年にいちど、おおきな地震が起きるとき、この地の海沿いを
春野は高樹を見つめ続けた。視界が歪む。いま、泣いている場合ではない。けれど、その想定は春野のこころを占め、はげしく揺さぶった。
外が暗くても、地割れに馬が足を取られることになろうとも、春野は飛び出したかった。
父のもとに行って、いつものように笑う彼を見たかった。
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