パート5

「佐藤さんッ」


 真橘が思わず、旧姓で呼んだ。千恵がその声に気を取られている間に、女が千恵の背中に向けてナイフを繰り出そうとしている。真橘が飛び出そうとするが、それよりも早く、ナイフが千恵を貫くであろう。


 と、拝殿の横の植え込みから、人影がいきなり飛び出して来て、手に持っていた角材で女の後頭部を打撃した。女はナイフを手から取りこぼしながら、白眼を剥いて、再び鼻先から石畳の上に叩き付けられたのであった。


「カリナ……」


 息を荒げて角材を握っているのは、佐藤カリナであった。この一件に噛んでいる筈のカリナが、どうして、仲間の女から千恵を救ったのか。一同の間に、戸惑いの空気が流れた。


「糞ったれ!」


 カリナは角材を放り投げて、地面に唾を吐いた。


「罰当たりだなぁ」


 真橘が呆れて言うと、


「五月蠅いな……ってか、あんた、いい加減に人の名前ぐらい憶えてやりなよ」


 と、カリナも亦、呆れた様子で言い返すのであった。


「いつまでも、千恵の事、昔の苗字で呼んでんじゃないよ。私とごっちゃになるでしょ」

「あれ? ……あ、ヤンキーの佐藤さんか。ご免ご免、誰かと思ったよぉ」

「――っ、一年で辞めたからって、忘れてた訳、私の事⁉」


 真橘と千恵、そしてカリナは、同じ中学校出身で、空手部に所属していた。カリナは、彼女が言う通り一年生の頃に部を辞めているのだが、その頃は、千恵とカリナは同じ“佐藤”姓であった。人を苗字で呼ぶ真橘は、どちらの事も“佐藤さん”と呼んでいたので、どちらを指しての事であるのか、区別がつかない事がままあったと言う。


「え……」


 と、そこで驚いていたのは、瑞穂であった。


「朝香先輩も、佐藤……?」

「ん? ああ、親が、去年再婚してね……」

「そうだよ。だから、はその千恵なのさ。私じゃなくてね」


 カリナが言った。

 瑞穂が千恵の顔を見て、千恵がカリナの事を睨んだ。

 更にこの展開に付いていけないのは、夕希と真橘である。


「カリナ、あんた……」

「どうやら、その子、私の事を生き別れのお姉ちゃんだと思ったらしいね。ま、中学の事や、昔の姓の事もあるから、勘違いしたって所さ」


 既に言っているように、千恵が幼い頃、両親は離婚し、物心付いて間もなくであった妹とはここで別れてしまった。それから佐藤千恵であったのが、親が再婚して朝香千恵になったのである。そして、この時に別れた妹と言うのが、木村瑞穂なのであった。


「そうなの?」


 千恵が、瑞穂に訊いた。

 瑞穂は小さく頷いて、


「ママから、“貴女のお姉ちゃんには、悪い事をした”って……」


 それを、瑞穂は経済難の事であると思い、生計を立てる為に援助交際グループに入っているのではないかと考えてしまったのだ。そこで、生き別れの姉を探して、同じように援助交際を始めた所、自身の旧姓であり、姉の今の苗字である筈の“佐藤”姓を持つカリナと出会ったのである。


 些か単純な思考であったが、瑞穂は、カリナを姉だと思い込んでしまったのだ。入学式の日に、彼女の率いる男たちに追い詰められ、鼻を折られても、カリナとの関係を断ち切れなかったのには、姉を説得したいという気持ちがあった為であろう。


「何で、その誤解を解かなかったのさ……」


 千恵がカリナに詰め寄った。胸倉を掴み上げ、今にも殴り掛かろうという雰囲気であった。それを、慌てて夕希が止めに入った。しかし、カリナは不敵に笑いながら、


「あんたを、見返してやりたかった……」


 と、絞り出すようにして、言った。


「何⁉」

「気に喰わなかったんだよ、あんたが!」

「――」

「私と同じように、家族がばらばらになっちまったくせに、そんな真っ直ぐに、空手なんかに入れ込んで、才能もあって……私に出来なかった事を平気でやっちまえるあんたが、妬ましくて、怨めしくて、気に喰わなくって……」

「――」

「羨ましかった……」

「だから……」

「あんたの妹を、滅茶苦茶にしてやって、あんたの事を見返してやりたかったんだよ。どうだ? ってね。あんたより、私の方が強いんだってね。空手じゃ勝てないかもしれない。でも、社会的に抹殺してやる事は簡単なんだってさ!」

「――」

「それなのに……」


 千恵の手が、緩んでいた。カリナは身体を振るって脱出し、そのまま、地面に膝を着いた。足元には、女の頭を叩いた角材が転がっている。それを眺めるカリナの眼に、涙が浮かんでいた。


「何でよ……何で、あんたの事なんか、助けちまったのさ!」

「――」

「あんたなんか死ねば良かったんだ。あのまま刺されて、くたばっちまえば良かったのに。あんたも、あんたも、あんたも、皆、死んじゃえば良かったのに!」


 カリナは、千恵を見て、カリナを見て、真橘を見て、夕希を見て、そう叫んだ。どのような感情が込められているのか分からないまま、滂沱の涙を流しながら、その場に蹲って、嗚咽を漏らしたのであった。


 ――同じだ。


 夕希は、カリナの姿を見て、思った。


 カリナは、千恵や真橘へのコンプレックスを支えに、悪事を働いて来た。瑞穂を利用して、千恵の精神にダメージを与えようとした事も、出会いこそは偶然であったにせよ、それ以降の事は自らの意思で行なったものであろう。


 似たような環境でありながら、全く異なる才能を開花させた千恵――自尊心を守る為に、その千恵を傷付けようとしたカリナは、若しかしたら、夕希の影であるかもしれなかった。


 夕希もコンプレックスの塊だ。目立つような容姿ではないくせに、身体ばかりがやたらと成長し、周囲から妬まれる事が日常であった。魅力的な人格でもなく、顔立ちが良い訳でもないのに、身体が天然のままに出来上がっているばかりに男に言い寄られる事も多く、他人に好かれるべく努力している女の子たちから、嫉妬の眼を向けられていたのだ。


 どうして、あんたが。

 何の努力もしていない、あんたみたいなのが。


 真橘の事を、千恵は天才であると言った。しかし、夕希やカリナから見れば、その千恵だって天才の一角に足を踏み入れているのだ。


 カリナにはそれが分からなかった。千恵の空手の実力が、天賦の才によるものだと思い、何の努力もしていないのであると考えて、自分には到底追い付かないものであると諦め、コンプレックスをこじらせてしまったのだ。


 それが、他人を傷付ける方向に展開してしまった。


 夕希にも、そうなる可能性はあったのだ。千恵の普段の努力を傍で見て、真橘の心の内の苦悩を知って、確かに天稟の差はあろうとも、それを目覚めさせるのは本人の行ないであると気付く事が出来た。そのお陰で、自分自身の孤独の闇と、向き合う事が出来るようになったのだ。


 自分の闇から眼を反らし、人を傷付ける恐怖の光に覚悟もないままに近付いてゆこうとしたカリナと、自分の闇を受け入れて、自身を高める孤独の荒野と勇気を持って向かい合った夕希――その差は、本当に、ほんの少しのものだ。


 ほんの少し、眼を向けた方向が違っていただけなのだ。僅かでも良い、顔を上げてみる。それだけで人は、夜空に輝く星を見る事が出来る。


「畜生……」


 カリナは呻いていた。


「何で、何でだよ……」


 自分の心が分からないまま、呻いていた。どのように吐き出せば良いのか、それさえも、今のカリナには分らないようであった。


 と――



 どぉん。



 空に花が咲いた。花火が打ち上げられる時間になっていた。

 鮮やかな光が、紺色の闇を染め上げ、そして、闇に溶けてゆく。

 光が闇に溶けてゆく。


 孤独の闇に溶けてゆく光を、夕希たちは見上げていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空手がぁる! 石動天明 @It3R5tMw

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ