最終話


その日は珍しく、結子の目覚めが良い朝だった。


「……あれ」


先程ぱかりと開いた瞳で横を見ると、これまた珍しく寝こける出雲の姿がある。

(おお)

普段彼の方が起きるのが早いので、どこか新鮮な気持ちだ。

起こさないようにそっと寄って、その寝顔をジッと見る。


「ん…んんん」


(…寝ている時も格好良い)

目も口も閉じて、小さな寝息を立てている。

もう少し、だらしのない隙だらけの表情が見たかった。

これならただ目を閉じているときと変わらないではないか。

不満に思いその頰をつついていると、睫毛がぴくりと動いた。


「…なんですか」


出雲が目を開けて結子の姿を捉えて、少しだけ笑う。

その表情に結子の心臓がどきりと波打った。


「涎垂れてたよ」

「えっ」


慌てて口を押さえる出雲に笑って、嘘だと教えやる。


「もう…言っておきますけど、結子さんは毎日涎垂らしてますよ」

「え!嘘でしょ?からかってるんだよね?」

「いいえ。俺が毎朝拭いてます」

「えーっ!う、嘘って言ってよ!」

「残念ながら本当です」


突然の宣告に結子が頭を抱える。


「恥ずかしい…涎を拭いてもらってるって、赤ちゃんじゃん私…」

「俺は心を許してくれてるんだなって嬉しくなりますけどね」

「……またそういう、恥ずかしいこと言う…」


結子が赤くなった。

一時期問題となった出雲と身体の関係を持つようになって早1ヶ月、ふたりの関係は少し変わったように思う。

出雲は頻繁に愛の言葉を囁くようになり、結子も彼の隣にいてもあまり緊張しなくなった。


「もう…私、出雲くんがいないと、生きていけなくなっちゃう、よ…」


冗談のつもりで漏らしたことばかりだったが、途中で尻すぼみになる。

一瞬気まずい空気が流れて、結子が慌てて身体を起こした。


「た、たまには私が朝ごはん作っちゃおうかな!」


そう明るく言いながらベッドから降りようとして、がくんと止まる。

振り向けば、腰のあたりに手を回して、出雲がぎゅうとしがみついていた。


「出雲く…」

「行かないで、ください」


小さく、はっきり声が聞こえる。

けれど結子が息をのむと、すぐに出雲が手を離して立ち上がった。


「実は昨日からフレンチトーストを漬けてあるのです。なので寝てて良いですよ」

「わー!出雲シェフー!お手伝いしますー!」


冗談めかして言いながら、あとについていく。

一瞬だけ覗いた感情が溢れないように、見ないふりをした。






『晴間さん、君の海外異動が決まった』


人事部の課長で元上司に言われた一言を、結子はまるで他人事のように聞いていた。

霧谷に書類を見せられ、そこでやっと理解する。


『海外支社…』

『ああ。君がずっと行きたがっていたところだ』

『はい…。私、入社してから目標にしてました』


この会社で営業職で海外の支社に行くことができるのは、将来有望と判断された者に限る。

そう聞かされて、結子は毎年希望を出していた。

同期や後輩が異動していく姿を、羨望の眼差しで見送っていたものだ。

その、夢にまで見たチャンスが、彼女の元に降ってきた。

それなのに心から喜べないだけの理由を、結子は持っている。

霧谷はそんな彼女の反応を見ながら、ゆっくりと続けた。


『君なら異動先でちゃんと吸収して、力を磨いて戻って来れるはずだ』

『はい』

『私も会社も、君に期待している』

『ありがとう…ございます…』


そうして部屋を出て行こうとする結子の背中に、霧谷が声をかける。


『まだ時間はあるし、ふたりの今後はちゃんとふたりで、話し合うんだよ』

『…はい。あれ?私、課長に出雲くんとのこと言いましたっけ?』

『…聞いたから、知っているよ』


振り向いて霧谷を見れば、どこか痛みを思い出したような顔で、腰をさすっていた。






(そうだ…霧谷課長に、そう言われたから…)

電車の中で、結子がちらりと隣に座る出雲を見る。

高い鼻と長い睫毛はやはり魅力的で、女性の視線が熱い。


『おめでとうございます』


海外支社への異動を伝えると、出雲は笑ってお祝いしてくれた。

結子が行きたがっていたことを、ずっと知っていたのだろう。

異動期間については知らされていない。

もしかしたら半年や一年ほどで戻って来られるかもしれないし、三年や五年いくことだって充分有り得る。

だから結子は、今後どうするのか出雲に聞こうと口を開いて、閉じた。

彼は微笑んでいたが、ほんのわずかに震える指先を見たからだ。


「イルミネーション、楽しみですね」


急に出雲に声をかけられ、現実に引き戻された。


「そ、そうだね!詩穂しほちゃんに教えてもらったの。綺麗なんだって」


結子が慌てて取り繕う。

今日は会社の後輩からお勧めされた、デートスポットに出かけようとしている。

冬限定で開催されるそのイベントは薔薇園を電飾で囲んだものらしく、お洒落な彼女から非常に良いとのお墨付きをもらった。


「私が詩穂ちゃんに紹介した人と、そこで付き合ったんだって」

「そうなんですか」

「うん。決して顔が良い人じゃないんだけど、性格がとっても良い人を紹介してね」


初めは難色を示していた詩穂だったが、何度か会ううちに心が傾いたのだそうだ。

大体の男性が彼女を元から可愛い女性として見る中、彼女の日々の努力を認めて、尊敬してくれる男性だという。


「あれだけ可愛いと装飾品の一部として扱われることも多いんだって。それが無いからって言ってたよ」

「素敵な男性なんですね」

「ね!でも美人も大変だね。その点私は気楽でいいよねえ」

「そんな事ないですよ。俺はいつ見ても結子さんは可愛いと思います」

「も、もー!それは頭おかしいって!」


ひとしきり恥ずかしがった後、ふと車内の視線が集中していることに気がつく。

今まで真剣な顔でいた出雲が急に笑うのだから、女性の視線はますます彼に釘付けだ。

その光景に、結子が瞳を伏せた。

(そうだよ…別に私じゃなくったって)

この人を幸せにしてくれる女性は、この世にたくさんいる。






「あちゃー…」


薔薇園に貼られた張り紙を見て、結子が声をもらした。

時刻は午後7時。

夕飯を美味しく食べて、新月に近い真っ黒な夜はイルミネーションを見るのに適した天気だと喜びながら入口まで来た。


「電気回線の故障、ですか…」


出雲も少し肩を落としている。

ちょうど先ほど機械に不具合が発生し、電飾の明かりがつかないのだそうだ。

今復旧作業を進めているので、修理終わり次第光るかもしれないと受付の女性が説明している。

しかしながら終了時間が分からず、明日になってしまう可能性もあるとのことだ。

出雲がこちらを見た。


「どうしますか?」

「故障の影響で入場無料だから、ちょっと入って歩こうか」

「…そうですね」


同意を得て、結子が入場ゲートに進んで行く。

その後ろに付いてくる、出雲の表情が暗い。






「ひゃー…ほんとに真っ暗だ…」


薔薇園の中は暗闇に包まれていた。

かろうじて足元に非常灯は点いているが、植え込みや庭は真っ暗で見えない。

仮に見えても今の時期に咲いている花は限られるので、微妙なところではあるのだが。

これでイルミネーションが点灯すれば、本当に綺麗な景色だっただろう。

そのまま進み、川の流れる橋を渡ったところで再度あたりを見回す。


「うーん…やっぱり何も見えない…」


目を凝らすが、どこまでいっても闇である。

どこか一部分でも点灯してないかときょろきょろと探す結子の後ろで、出雲が口を開いた。


「結子さん」


背後から急に声をかけられ、結子が振り向く。


「俺、待てます」


突然のことに、結子がおし黙った。

出雲はなおも続ける。


「俺は、あなたに会社の階段で恋に落ちて、働く姿を好きになって、交際して、触れて、あなたの色々な表情を知って…」


出雲がぎゅうと、結子の手をとった。

しぼりだすように声を出す。


「今は、愛してます」


出雲の表情はいつもより固く、手は少しだけ震えていて、緊張が伝わってきた。


「だから、俺、あなたが海外に行っても、待てます。待ちます」

「…うん」

「…だから、だから、別れるなんて、言わないでください…」


声がどんどん小さくなる。

まるで懇願しているかのようなその姿に、結子がぽつりと口を開いた。


「そう、言おうと思ったの…」


異動を発表されてから、ずっと考えていたことだった。

期間が確定しない転勤に、出雲を付き合わせるわけにはいかない。

彼ならば他にもっと、素敵な女性も現れるだろう。


「今でもやっぱり、私にはもったいないぐらいの人だと思ってる」


出雲は決して、異動を辞退しろとは言ってこなかった。

結子が今の仕事が好きで、ここにくるまでにどれだけ努力したか、その気持ちを尊重してくれたのだろう。

優しくて格好良くて真面目で、本当に素敵な男性だ。

わざわざ私を選ばなくても、幸せになれる人なのに。

(でも、)


「でも、出雲くんがどれだけ私のこと好きでいてくれてるか知ってる」


謙遜から相手を拒絶すれば、傷つけることを知った。

告白をした時に、出雲と、彼が好きになった自分を信じようと思った。


「なにより、私があなたを大好きだから、手放してあげない」


結子が笑って、手を握り返す。

出雲がほっとしたような表情になった。

ずっと不安だったのだろう。


「だから」

「はい…俺、待ってますから…何年でも」

「待たなくてもいいよ」


出雲が反応する。

その瞳を下からじっと見て、結子が微笑んだ。


「私と結婚してください」


次の瞬間、電飾が一斉に点灯した。

ふたりのまわりを色とりどりの光が包み、あちこちで感嘆の声が上がる。


「あっ、回線が復活したのかな?やったね!」

「結子さん」

「すごい!まるで光の海みたいだね」

「結子さん、」


視覚の効果か、先程まで冷たった風が、心なしか温かくなったように感じる。

出雲はその光などまるで眼中にないかのように、結子だけを見ていた。

結子が頬をかきながら、口を開く。


「ええとね、私、意外と稼げるようになったし、会社都合の転勤だから手当も結構出るんだよね。希望すれば社宅に入れるし」

「…はい」

「だから出雲くんを養うことができるなーって思いついて…仕事辞めてついてきてくれたら私はいちばん嬉しいかな」

「はい」

「でも、仕事を辞めるのが嫌だったら、入籍だけして別々で暮らしてもいいよ。ふたりがいちばん幸せな形にすればいいかなーって」

「はい」


結子がちらりと出雲を見る。


「だ、駄目かな?」


その瞬間、出雲に引っ張られた。

慌てて体勢を立て直す前に、出雲に抱きしめられた。

首の後ろに、彼の息がかかる。


「いっ、出雲くん?」


恥ずかしいかもしれないと続けようとして、首に温かい感覚を覚えて黙った。


「…泣いてる?」

「すみません…嬉しくて、っ…」

「…出雲くんは、泣き虫だから」


そう言う結子の瞳からも、ぽろりと涙が落ちる。

イルミネーションが涙で滲んで、色とりどりの光の塊がぼんやり浮かんでいるように見えて、どこか幻想的だ。


「…俺、絶対…あなたを幸せにしますから…」

「…うん。私も頑張る」

「俺のこと…捨てないでくれて、ありがとうございます」


その言葉に結子が笑った。

いたずらっ子のような表情を浮かべて口を開く。


「責任とるって、言ったでしょ?」






異国の地。

まだ新しい建物の中で、結子がぴっちり足を揃えて頭を下げる。


「本日付で赴任して参りました、営業部の出雲結子いずもゆいこです!よろしくお願いします!」


真っ青な空を背景にぽこぽこ浮かんだ白い雲の下で、元気な声が響き渡った。






最終話 営業部の出雲さん

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責任とってねッ! エノコモモ @enoko0303

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