第7話 秘書課の雪本嬢
「私…捨てられるかもしれない」
神妙な顔をした
約半年前から、この恋愛下手な友人は異性と交際を始めた。
相手はなんと年下の美青年で、よくもまあ選り取り見取りの状況下で彼女を選んだなと思ったものだったが。
「捨てられそうって、出雲くんに?」
「うん…」
いつでも明るい結子からは考えられない表情に、恵理香が向き直った。
どうやら本気で悩んでいるらしい。
続きを促すと、そのままの顔で口を開いた。
「出雲くんが完璧すぎる」
「えっ、うん」
「ち、違うの。完璧なのはわかってたんだけど、恋愛面も完璧なの」
結子が目の前の紅茶にミルクを入れて、スプーンでぐるぐる回す。
まず出雲は早起きだ。
出勤有る無しに関わらず必ず6時には起き、活動を始める。
「ありえなくない?私なんて休みの日は昼まで寝てるし、会社ある日も8時起きだよ」
「アンタそれはむしろよく間に合ってたわね」
そんな結子がノロノロ目を覚ますと、食卓には彩り豊かな朝食がズラッと並べられていた。
焼き鮭や味噌汁などの和食の日もあれば、ホットケーキやオムレツなどの洋食の日もある。
朝ごはんは基本的にウィダーインゼリーを流し込んでいた結子には衝撃的だった。
「部屋はいつ行ってもめっちゃ綺麗にしてて、旅行の計画も全部立ててくれて、クリスマスプレゼントなんて手編みのマフラーと手作りケーキだよ?しかも既製品みたいな品質だし」
「そのマフラーどこで買ったのか気になってたわ」
「し、しかもお洒落なんだよ…私なんて1つの季節につき1つの一張羅で乗り切ろうとするんだけど、それも全部面倒見てくれて」
「アンタ最近可愛い服着てくると思ってたら…」
恵理香が頭を抱える。
この女性は明るくて面白い良い友人なのだが、いかんせん良い彼女としての素質は持ち合わせていない。
「アンタそれお返しどうすんの?手作りするの?」
「私に手作りとかできるわけないじゃん!」
結子は堂々と宣言した後、すぐに言いづらそうな顔になった。
「だから、か、金にものを言わせてる」
「……」
「取引先の人に教えてもらったお店に連れてったりとか、出雲くんが欲しいって言ってたものあげたりとか」
「……」
恵理香の無表情に、結子ががっくり机に肘をつく。
「や、やっぱり駄目だよね…」
「いや私は駄目とは思わないわよ。それに対して彼がどう思うかは知らないけど」
「うっ…」
結子は最近営業成績が良い。
もともとの給料が高い職種でさらに成績が良いとなれば、懐はそれなりに暖かいだろう。
服やアクセサリーに興味がない結子は散財もしないので、出雲にお金をかけるぐらいしか使い道がないのかもしれない。
「私の家に調理道具なんて1つもなかったのに気がついたら増えてるし…」
「…調理道具が1つもない?」
「クリーニングに出せばいいと思ってその辺に積んでたブラウスは全部アイロンかけてくれるし、出雲くんには驚かされっぱなしだよ…」
「私はアンタの女子力の無さに改めて驚いてるわ…」
なんだったら軽く引いている。
今までよく生活できていたものだ。
恵理香がコーヒーを一口飲んで、結子に切り出した。
「で、捨てられるかもしれないって?」
「ああ、それなんだけど…」
結子の声が小さくなる。
「その…未だに一緒に寝なくて…」
「…ん?まあベッドが別ってカップルもいるでしょ」
「ち、違くて、その…よ、夜の。い、いとなみの」
「セックスの話?」
はっきり明言すると、結子が真っ赤になってがたがた頷いた。
目線を上にして少し考えた後、恵理香が聞く。
「…してないの?」
「うん…。付き合ってから一度も」
「…そもそもあんたら付き合う前にフライングでしてたわよね?」
「う、うん。私記憶ないけど」
泊まることがないわけではないらしい。
出雲や結子の家に行くこともあれば、2人で旅行に出かけることもある。
「やっぱり部屋に、好きな人と2人きりでキスしたらさ、少なからず期待して…その、ドキドキするじゃん?」
例に漏れず、結子も緊張しながら出雲の部屋で、2人きりでキスをしていた。
唇が離れると、頰を上気させた出雲と目が合う。
『結子さん…』
小さく名前を呼ばれて、それが何とも色っぽくて心臓が早鐘を打った。
(さ、さあ来い!)
そう覚悟を決めた結子だったが、出雲は180度急旋回して彼女に背を向けた。
『俺はソファで寝ますから、ベッド使ってください』
『えっ』
置いて行かれた結子は呆然とする他はなく、その日はひとりで寝た。
「そんなことが続いて早半年…!」
「それは…なんなのかしらね」
ある程度の男性経験を持つ恵理香も予測不能な話だ。
出雲の考えがわからない。
結子がダラダラと汗を流して呟いた。
「出雲くん…私のこと嫌になってるかもしれない…」
「でも、好きでもない女にそんなに尽くす?」
「いや…職場の人間だしオバさんだから捨てると面倒臭そうと思って耐えてるとか…」
「うーん…」
友人としては否定してやりたいが、いかんせん結子の態度が酷い。
こちらが一生懸命料理を作ってる間にグースカ寝こけている姿を見たら、自分なら張り倒しそうだ。
「だ、だから、お願いがあるんだけど」
結子が切り出す。
「今日確か、管理部門だけで親睦会あるって聞いて…それに出雲くんも恵理香も出るでしょ?」
「えっ、うん…まさか」
結子が顔の前で手を合わせた。
「お願い!その時に出雲くんに話を聞いてきて!」
「…うーん…」
「私には話してくれないことでも、恵理香には相談するかもしれないし!」
「……」
「今夜私の家に来る約束してるの!別れを告げられる前に、改善したい!」
恵理香が悩みながら宙を仰ぐ。
後輩にプライベートなことを聞いて、さらには万が一良くないことを聞いても結子に言わねばならない。
嫌な役回りだ。
「お願いします恵理香様!」
けれど、目の前の友人があんまりにも必死に頼むので、渋々了承した。
あまり溜め込まない彼女がこんなにも悩むなんて、よほど好きなのだろう。
「俺…捨てられるかもしれません」
出雲の口から出た一言に、恵理香は一瞬思考が停止した。
どこかで聞いたような言葉だ。
「す、捨てられるって、結子に?」
「はい…」
出雲が頷く。
その様子に恵理香はあっけにとられて、額を抑える。
(えーと、なんでこうなったんだっけ…)
そうだ。
昼間、結子に頼まれた件を確認しようと思ったのだ。
親睦会でそれとなく出雲の向かいの席になることに成功した。
場が盛り上がり運良く2人きりで小さな声で話せる状況になった為、さあ切り出そうと思っていた矢先だった。
『雪本さんは…晴間先輩と仲が良いんですよね?』
出雲から結子に関する話題を振られ、これは願っても無いチャンスだと思った。
だからすぐに肯定の返事をし、ぐいぐい聞いていこうと口を開こうとしたその時、前述の発言だ。
(うーん…整理してもやっぱりよくわからない)
らちがあかないので話の続きを促す。
「その…晴間先輩と交際してから、何をするでも何処に行くでも幸せなんです…」
「そ、そう…」
「晴間先輩、予定してたお店が臨時休業していたり、待てどもバスが来なかったり、そういった不測の事態が起こってもニコニコ笑ってくれるんですよ…少しも気にしてなくて、むしろその状況を楽しんでて、そんな彼女といると俺まで楽しい気持ちになって」
「あー、まあ確かにそうね。結子の良いところかも」
大らかなのは彼女の長所だ。
出雲が続ける。
「だから…無理してるんじゃないかなって思ってるんです」
「…無理?結子が?」
「ご飯は何を食べても美味しいって言ってくれるし、俺が服を押し付けても毎回着てくれるんです。結子さんにだって好みはあるだろうに…!」
そう言って眉間にしわを寄せる出雲には、目の前でナイナイと首を振る恵理香の姿は見えていない。
出雲は、冷静な普段からは考えられないぐらい熱のこもった表情で続ける。
「さらに、さらにですよ?」
「うん」
「結子さん、高いレストランに連れて行ってくれたり、ホテルを予約してくれたりするんですよ…!恥ずかしながら俺はそんな高いものを買えないから、自分で作ったりするしかなくて…」
「で、でも仕方ないんじゃないの?営業と管理部じゃ稼ぎ全然違うし、年の差もあるし」
「いえ、男なのに情けないって思われてると思います」
出雲が手の平をこちらに向け遮る。
優しいだけの言葉など聞きたくないと言わんばかりだ。
「…えーと、結子が全然手を出してこないって言ってたんだけど」
「…やはり不審に思われていましたか…」
出雲が観念したように頭を抱える。
言いづらそうに恵理香を見た。
「…女性にこんな猥談をして良いのか…」
「あっうん、いいから言って」
「ありがとうございます。その…結子さんにこれ以上嫌われたくなくて…できないんです」
予想外の返事に恵理香の思考が停止する。
「先般話した内容の通り、俺が結子さんに呆れられているのは明白です」
「……」
「
温かい頰、触り心地の良い髪、艶っぽい息遣い。
普段は明るく溌剌とした雰囲気の結子が、その時ばかりは頰を赤らめ濡れた瞳でこちらを見てくる。
その情景は出雲の理性を飛ばしかけ、緊張で手を震わせる。
「こんな状態で結子さんを満足させる事などできるはずもなくて…普段の素行が良くないのに更に駄目なところを見せたら…結子さんは俺のことを捨ててしまうでしょう」
「…ソウナンダ」
出雲の説得を諦めた恵理香が棒読みで声を出す。
とりあえず結子が抱えていた悩みは解決したようだ。
一番最初の事故の時は、勢いもあれば結子がメタメタに酔っ払っていたこともありなんとかなったのだろう。
「今夜結子さんに会うんです…」
「あ、ああ。結子に聞いたわ」
「そろそろ別れを告げられてもおかしくありません…」
「…それはないと、」
「おーい!食べてるか〜?」
上長に声をかけられ、話が中断される。
そのまま人も寄って来たので、続きを話すことはできなくなった。
恵理香はソッと席を立ち、お手洗いの中で携帯を片手に考える。
連絡する相手は結子だ。
「…どうするか…」
約束した以上責任は果たすべきところだが、いかんせんこの2人は勘違いし合ってややこしいことになっている。
下手に真実を言ったところで信じるかわからない。
(それに…苦労してまで惚気話を延々と聞かされたようなものだし)
「……」
少し考えたのち、結子に一言「襲え」とだけ連絡した。
「今日は冷えるわね…」
後日、会社で机に向かっていた恵理香はぶるっと身震いした。
仕事を中断し、自席を立ち空調の温度設定を上げる。
「雪本さん。お疲れ様」
「
ちょうど通りすがった人事部の課長から、書類を受け取る。
その背後に一瞬、結子の姿が見えた。
「あ」
恵理香を見て、まるで一仕事終えた戦士のような顔でグッと親指を立ててきた。
どうやら上手くいったらしい。
あの助言で解決したのもどうかしてると思うが、何にしてもよかった。
「雪本さん?」
「あ、すみません。ええと、書類は研修の報告書とあと人事異動の件ですね」
「うん。頼んだよ。よろしくね」
そう言って背を向ける霧谷を横目に、なんともなしに書類をめくるその手が止まる。
人事異動の決定案。
異動先の事業所の名前が羅列されている。
国内が多数を占める中、海外の地名もいくつか記されている。
そのカタカナのすぐ下に、結子の名前があった。
「わ…寒いと思ったら、雪降って来た!」
後輩の言葉に窓に目を向ければ、どんよりと暗い天気の下、キラキラ光る真っ白な雪が降り始めていた。
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