「日の名残り」に見える風景

沓屋南実(クツヤナミ)

「日の名残り」に見える風景

 ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの代表作を、私も読んでみた。このような勧め方が良いのかどうかわからないが、ダウントンアビーにハマっていた人には、強くお勧めしたい。

 私はカズオ・イシグロの名前を知らなかったので、小説を書くと標榜している人間として恥ずかしい限りだが、「日の名残り」を読めたのでノーベル賞で話題になってくれて本当に良かったと思う。また、ダウントンアビーやヴィクトリアといったイギリスの上流社会と使用人の「階下の社会」を描いたドラマに最近ドップリであるから、このタイミングは私にとって素晴らしいものだった。

「日の名残り」を読んでみたくなったのは、受賞者をニュースで紹介していて、映画のワンシーンを目にしたからである。それは、まさに上流階級の晩餐会だった。時代はダウントンアビーと少し重なり、第2次世界大戦の後まで。主人公はスティーブンスという名の執事、すなわちダウントンにおける、カーソンのポジションだ。小説のはじまりから、使用人の削減について語っているので、ダウントンの続きかと思えるほどである。ダウントンの主の妻はアメリカ人、日の名残りのほうは、新しく仕える主人がアメリカ人となり、イギリス貴族の凋落ぶりが、ふたつの作品を並べると確実に進んでいくのがわかる。

 スティーブンスがダウントンのカーソンと違うのは、彼のかつての主人への滅私奉公ぶりだ。滅私奉公では世界に冠たる日本人も舌をまくほどで、親の死に目や自分の恋愛感情も遠くにかすんでしまうほど、ここまでくると正気の沙汰ではない。正しい執事のあり方、品格を追及することが、スティーブンスの思考の中心で、独善に陥っていることに全く気が付くことなく。お屋敷の階下の世界に君臨し、有名な執事を尊敬している。一人称で語られるスティーブンスのバイアスは、残りページが減ると共に、明らかになってくる。

 35年もの間仕えたスティーブンスの主人は、国際政治を動かすような大物政治家と付き合いがあり、ふたつの大戦においても状況を変えようと邸宅を議論の場として供することが何度もあった。彼は、ときの首相や大使に完璧なもてなしをするべく、召使いたちの先頭に立って最善を尽くす。大仕事の緊張のなかに、重要な舞台を裏で支えることに例えようのない感動を覚えていた。尊敬される執事たちと自分が重なる。一流の人に仕える誇りと自信が、彼のバイアスを大きくしたとも言える。いくつもの回想エピソードが、旅の途中という現在時間に織り交ぜられて語られた。

 もし、スティーブンスの仕えた主人が首尾よく国際問題の解決に貢献できたなら、執事の彼の人生も輝き続けたのだろうか。結局のところ、彼は自分の人生を生きようとせず、主人の人生のなかに住みついていたようなものだ。むしろ、主人の誠実さが何も身を結ばないどころか、汚名を被ったまま亡くなったことで、自分の人生を深く省みる機会になったのである。

 スティーブンスの語りで最初から終わりまで、イギリスの過去の時代と物語の現在である戦後間もなくの様子が垣間見えるのだが、私の頭には美しいイギリスの風景を容易に想像できた。途中からは、後期ロマン派のイギリスの作曲家エルガーの名作を聴きながら読み進めたが、驚くほどピッタリだった。

 「日の名残り」の感想や評論のいくつかを、ネットで読んでみた。すると、私はなんというバイアスをかけて読んだのだろうと少しおかしくなった。イギリスの古き良き時代伝統を美化するバイアスが自分のなかに、いよいよハッキリ感じられる。仕事一徹なあまり冷淡なところですら人間的にとらえるのは、ダウントンアビーを引きずりすぎるせいだろう。

 結局、人は誰でもこの執事のようなバイアスを多かれ少なかれ持っている。持っているというよりバイアスが正しいと主張し合うことが、人間社会の大きな部分ではないか。カズオ・イシグロはひとりの執事を通して、このような普遍性を描いたのではなかろうか。

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