落ち着く日

「ぎゅっ、て……してください」

 彼女は自らの両手でそういうジェスチャーをしながら、俺に言ってきた。

 時は昼過ぎ、俺の部屋。

 如月が分からないと主張する英語の関係詞について教えている時。ふと思い立ったように彼女はそう言った。

 言い放った。

 その目に浮かんでいるのは、紛れもない期待。まるでテストで満点を取れた子どもが、頭を撫でられるのを今か今かと待ち構えているような表情だ。しかし彼女はそんなにも幼い子どもではないし、要求しているのは抱擁である。いくらなんでも、ハードルが高い。というか、勉強を教えてもらっている時に要求する内容ではない。どうして今なのだろう。なんとなく気が向いた、とかだろうか。表情からして、深く考えた末の言葉ではないことだけは分かる。……そう思っていたら、少し頬を膨らませて怒りを表してきた。かわいい。

 かわいい彼女に、抱擁を求められる。そのこと自体は、嬉しい。

 俺だって、出来ることならしたい。

 だが残念なことに、日本には挨拶としての抱擁文化はない。生まれてこの方日本から出たことのない俺は、どうしてもためらってしまう。

 ぎゅ……。最後に誰かと抱き合ったのはいつのことだろう。小学生……? いや、そういえば最近、ペン入れに付き合っていた幹典の原稿が無事に脱稿出来たときに、安堵で抱き合ったような気がする。そんなに昔でもなかった。

 しかし、友人と抱き合うのと恋人と抱き合うのでは、心構えが違ってくるだろう。

 今からすべきなのは、あなたのことが好きですよと言葉以外で伝えるための抱擁だ。

 つまり、ここでしなければ彼女を悲しませることになりかねない。この前までのキスと一緒だ。というか、ここまでためらっている時点で悲しませているような気がする。本当に申し訳ない。

「ごめ……」

「ぎゅ、してくれないんですか?」

「する」

 分かりやすく悲しげな表情を見せる如月に対して、条件反射的に答えてしまう。さっきの今で大丈夫なのかと思わなくもなかったが、俺もしたいし彼女もしたいことだ。なにより、誰かに見られる心配もない。こんな好条件でのチャンスを逃すべきではないだろう。

「そうですか! じゃあ、はい」

 言いながら、笑顔で腕を広げる如月に引き寄せられる。気が付けば、彼女の腰にまで手を回してしまっていた。いや、意識はしっかりあったので彼女に近づくといい香りがすることや彼女がやわらかいことはきちんと認識してしまった。特段違うとも思っていないのだが、本当に彼女は女の子なのだと思わされる。

 ……なんというか。

「すごく、落ち着く」

「私もです」

 心臓はめちゃくちゃ速く鼓動しているのだが、人に抱きつくという行為がいいのか、気持ち的にはむしろ落ち着いている。

「いいな、これ」

「いいですね、これ。北斗さんの心臓の音がよく聞こえます」

「うるさいだろう。あんまり聞かないでくれ」

「うるさくなかったら、それはそれで問題ですけどね」

 そんな冗談を口にしながら、彼女が俺の腕の中で笑う。かわいいにも程があるし、好きだと思わずにはいられない。

「好きだ、如月」

 そう思っているうちに、口から出てしまった。彼女は口に出されるとは思ってもみなかったといった様子で目を見開いて驚いた後、目線を逸らして赤い顔を隠すように伏せた。それでも手は俺の肩に置かれているのだから、いじらしくてたまらない。

「……私も、大好きですよ?」

 とどめとばかりに、言われた言葉。嬉しさのあまり抱きしめる力を二段階ほど強くしてしまった俺は、当然ながら痛いですと彼女に怒られてしまうのであった。

「怒る如月もかわいくて好きだ」

「ばか……」

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