避けた先の日
「いきなり現れて、俺の背を縋るように掴むのはやめてくれませんか」
この上なく嫌そうな声が、少し上から聞こえる。
「すまん。少しでいいんだ。避難させてくれないか」
嫌だろうが、今は耐えて欲しい。
「嫌です。俺頼みってことは、どうせ那緒さんから逃げてるんでしょ? 仲良しこよしの惚気なら、余所でやってくれませんか?」
違うと、反射的に口に出す。
「お前は、俺の表情を見てもそんなことが言えるのか」
ははっと、呆れたような笑い声。
「あんたの表情の変化なんて、俺には分かりませんって」
それはそうだろうが、声からでも必死さみたいなのは伝わらないだろうか。いないか。そうだ、きっとそうだろう。
「あ、那緒さん!」
伝わっていたところで、星川が最優先するのは如月だ。
「宇佐美北斗ならここです、ここにいます!」
首根っこを掴まれながら、彼を頼りにするのではなく男子トイレに逃げ込めば良かったと後悔する。彼の強い力で如月の前へと差し出されてしまった俺は、せめて彼女と目を合わせないようにと天井を見上げた。薄い青に、黒いシミが点々と出来ている。
「どうして、私を避けるんですか。こんなの、5月にやっておくべきですよ」
そう言えば出会ってばかりの頃、彼女は逃げ惑うだのなんだの言っていたな。懐かしいことが思い出されて、口元から笑みが出て行く。確かに、本来ならばこれは彼女の能力を知ったときにやるべきだった。今更何をしているというのか。どうにか逃げようと反対側を向いていたつま先を、如月の方へと向ける。こちらを見る如月の表情に、困惑が混じった。
「何を笑っているんですか。私は、多少なりとも怒っているんですよ」
「いや、それは本当にごめん」
星川が、ため息を残して立ち去っていく。自らの思考が、如月に届き始めたはずだ。気恥ずかしさとか、焦りだとか、そういう感情が。改めて自覚すると、いやなことだなぁと思った。少し距離を取る。この位置が、彼女の能力の届かなくなる範囲なのかは分からない。ただの気休めだ。ため息も出るだろう。どんな感情や想像ですら、彼女の前には隠せやしないのだ。彼女への特別な感情も、邪な空想も、すべてが筒抜けてしまう。本当に彼女と同じ能力を身につけてしまおうかと思ってしまう程度には、参っているらしい。
「……やっぱり、星川を間に挟んで話さないか?」
「なんて酷なことを言っているんです」
確かにそうだ。彼女の方もまた、少し距離を取る。
「この位置なら聞こえませんから、とりあえず北斗さんも落ち着いてください」
「ああ、そうだな。分かった」
深呼吸。鮮明に聞こえてくる2つの呼吸音。
「この前の如月が真剣に悩んでいるらしかったから、俺から好きだの何だの発しなければいいと思って」
「気にしないでくださいって言ったのに」
彼女は、頭痛を抑えるように自らの頭を撫でた。
「気にする」
「じゃあ、もう一度言います。気にしないでください。そして、私は北斗さんがどんなことを考えていても嫌いませんから。そんなに神経質にならないでください」
その堂々とした態度に、俺の心臓が高鳴った。胸が、キュン? 俺がキュンとしていいものなんだろうかという疑問を、頭から流す。代わりに、どんなことを考えていても嫌いませんからという言葉を、脳内で繰り返した。嫌いませんから。とてつもなく優しい言葉だ。
「本当に?」
「はい」
「本当に?」
ゆっくりと、彼女の顔が曇っていく。
「さすがに、度を超した特殊嗜好を持っていた場合は少し引いてしまうかもしれません」
「どのくらいの?」
表情をさらに険しくした彼女は、少し考えて答えを出した。
「暴力とか……?」
「暴力は痛いもんな」
「ええ、痛いです」
「そんなことはしない」
「知っています」
「それなら嬉しいよ」
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