3度目の正直

今まで呼んでいた呼び方を変えるということが難しいというのは、その身をもって実感している。『波多野』から『幹則』呼びになるまでにかかった時間のことなど、考えたくもない。何度も幹則から指摘され、挙げ句の果てには『は』と口にした瞬間に『み』と訂正を入れられることになってしまったのは記憶に新しい。別に名前じゃなくても良いじゃないかと言った俺に、彼は名前じゃないと呼ばれていることに気付けないと返してきた。そういう人間もいるのかと思い、なんとか呼称を変えて今がある。

だから、俺が彼女を未だに名字で呼んでいるのは当然と言ってもいい。別に彼女は名前で呼んでもらいたいと言っているわけではないし、幸運にも俺自身は名前で呼ばれている。如月が星川を名前で呼び出したからといっても、動揺する要素はないのだ。にもかかわらず、ハロウィンパーティに誘われた際に感じた蟠りは、今もなお胸を締め付けてくる。おかげで顔を合わせるのもままならず、当番だと嘘をついて図書館へと避難してきた。結局はこうして彼女のことを考えているので、もはや現実逃避にもならない。

「どうしたの。そんな浮かない顔で」

その言葉にハッとし、頭に入ってこない文字列から目線をあげて声の方を見る。目の前にいた人物に、思わず目を見開いた。彼女はそんな様子の俺を見て、にっこりと笑いかけてくる。なんだ、そんな顔も出来たのかと、当たり前のことにうれしさを感じてしまった。今回は、誰なのか分かる。佐藤由奈だ。しかし、どうして彼女がここにいて、俺に対して笑いかけてくるのだろう。

「前、座っても良い?」

あまりにも自然な態度を訝しみながらも、どうぞと言葉を返した。

「驚いてる?」

「すごく」

「へぇ」

そっかそっかと、彼女はまた笑う。それにつられて溢れた俺の笑みは、愛想笑いのように感情がこもっていなかった。この調子だと、外から見ても分かるくらい気分が落ち込んでいるように見えるだろう。

「ここ最近浮かれたような顔してたから、余計に表情が暗く見えるんだよね」

「浮かれたようなって」

「ようやく、付き合い始めたんだ?」

その言葉に、息を呑んだ。彼女の前で肯定するべきか否定べきか悩み、それが答えになっているのではないかと思い背中に悪寒が走った。1度とはいえ、強行手段に出た彼女のことだ。いくら笑顔だからって油断は出来ないし、如月のことも気がかりになってくる。

だが彼女は、穏やかな表情を崩さなかった。

「別れさせてやろうなんて思ってないし、むしろおめでとうって言うよ。うん、おめでとう」

「……ありがとうございます?」

素直な祝福の言葉に、おずおずと礼を返す。

「っていうか、ほぼ勘で言ったんだよね。当たってたことに、自分が驚いてる」

「誰かに聞いたとかじゃなくて?」

「なんとなく、雰囲気で分かるんだよ。ずっと見てたからね」

口調は随分と軽いものだったけれど、その言葉からは並々ならぬ重さを感じた。些細な雰囲気の変わりようが分かるくらい、彼女は自らを思っていたのだ。過去形だと思わせるさわやかな表情を浮かべつつ、彼女は続ける。

「あれから友達とかにもいろいろ言葉をかけてもらって、自分なりに考えたんだ。宇佐美君は私を助けてくれたり手を伸ばしてくれたりしたけど、私はその優しさに敵意で返してばかりいたじゃん? そんなんじゃあ、嫌われて当然だなぁって。今更ながらに反省したの、うん。だから、ごめんなさい」

机に伏すくらい深々と頭を下げられてしまった。だが、俺は彼女に頭を下げられるべきではない。

「俺には、謝らなくてもいい。けど、如月にはちゃんと謝って欲しい」

彼女が、顔を上げる。

「さっき謝ってきたよ」

「……さっき?」

「そう、ここに来る前。それで教室に行ったら宇佐美君だけがいなかったから、多分ここだろうなって思って来たの」

「そ、そうだったのか」

自らの行動を鑑みることがまず難しいのに、その上で時間の経過した事柄を謝罪しようと思える彼女に目を見張る。そんなこちらを見て、彼女はからからと笑い始めた。

「まさか謝られるとは思ってなかったんだろうね。如月さんも同じように驚いてた。でも彼女、許してくれた上に、蜜柑までくれたんだよ? そこにはこっちがびっくりしたなぁ」

俺も驚かずにはいられないが、多分アイツなりに誠実な対応をしているんだろう。教室に1人だったのかとか、1人じゃなかったのなら誰も止めなかったのかと聞きたいことはあるが、目の前の彼女に言っても仕方が無い。

「アイツのくれる蜜柑はわりとうまいから、よほど人からもらった食べ物に抵抗があるとかでなければ食べてみて欲しい」

「そうなんだ。晩ご飯の後にでも食べてみるね」

「あと、感想は伝えない方が良い。如月と、最悪の場合はあと1人も加わって蜜柑の素晴らしさを語られるかもしれないから」

「そうやって話を逸らしていくのってわざと? もしかして天然?」

「……何の話だったか?」

「宇佐美君が何に悩んでるのかって話!」

図書館にしては大きな声で、彼女はそう主張する。ヤバい。こちらへ振り返った司書の先生は、当然ながら困った顔をしていた。すみませんと、顔を伏せる。後で謝らなければ。しかし、その仕草を別の意味で解釈したらしい彼女が、さらにヒートアップしていく。

「別に話したくないなら話さなくて良いよ? でも、付き合い始めた途端に顔を合わせなくなるなんてピンチじゃない!? 私は、それを助けたいの」

すみませんごめんなさい、申し訳ありません。脳内で謝罪が止まらない。

「……佐藤さんが俺を心配しているというのは、すごく分かる。多分、佐藤さん自身が友達に助けられたというのもあって、別の人を助けたいんだろうなっていうのも十分すぎるほどに伝わってくる」

「全部分かってるんなら、言ってくれてもいいんじゃない?」

さっきは言わなくてもいいと言っていたのに、聞く気満々じゃないか。しかし、今の悩みで相談に乗ってもらうにはある意味で適任かもしれない。なにより、自らの交友関係で一般的な女子の意見というものは貴重だ。

「分かった、話す、話すから。とりあえず声のボリュームを下げてくれないか? ここは図書館なんだ」

「誰もいないけど」

痛いところを突かれ、うっとくぐもった声を上げてしまった。

「今後来る可能性はある」

「そうかなぁ」

「そうだよ。それで、悩んでいることなんだが」

「うん」

彼女の目に輝きが増していく。そんなに期待することでも無いと思うが、彼女にとってはそうでもないんだろうか。分かれそうにない。1度深呼吸を挟み、口を開いた。

「いきなり呼び方を名字から名前に変えるのは不自然だと思うか?」

数秒の沈黙。その間に彼女の目からは輝きが失われ、表情は無に変わる。まるで『それだけ?』とでもいうように首がゆっくりと右方向に曲がった。

「かわいい悩みだね?」

「こっちは真面目に聞いているんだが」

「すごい落ち込みようだったから、もっとヤバいことかと思ったよ」

ヤバいの定義が分からないが、碌なことではないだろうからあえて触れないでおく。

「で、どう思う?」

「変えたいと思った時に変えたら良いんじゃないかな」

「雑な答えだな」

「それは私には答えられないじゃん?」

「それはごもっともなんだが、一般的にはどうなのか気になる」

「じゃあ、試しに呼んでみてよ」

「誰を」

「私を」

「……由奈さん?」

そう言うと彼女は、頬を赤らめたように見えた。すぐに立ち上がり、背中を向けたので定かではないけれど。

「少なくとも、私は嬉しいよ」

「そうか、分かった」

「力になれそうにないことが分かったし、それじゃあ私は帰るね」

「ああ、わざわざありがとう」

彼女が急ぎ足で帰っていく様を、じっと見つめる。嬉しい人は、嬉しいものなんだろう。如月は一体どうなんだろうか。その答えはたしかに、如月にしか分からない。呼びたいかどうかは、俺にしか分からない。

ガタン。

「……あっ」

扉が閉まる音で我に返った。同じように扉を見つめていた先生と目が合う。

「騒いで申し訳ありませんでした」

急いで立ち上がり、司書の先生へと頭を下げた。

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