階段から降りる日

チャイムの音が鳴り響き、先生は職員室へと帰還なさった。午前の授業が終わり、生徒らの活気ある声で教室が満たされる。弁当を忘れたらしい前の席にいる男子生徒が急いで立ち上がり、椅子と床から音が鳴った。ついで、人と人とが軽くぶつかる音。

「ごめん。だいじょう」

「大丈夫です」

遮る気丈な声。

「購買、急いだ方がよろしいのでは?」

「あ、ああ。そうだな、すまない」

声の主に気づき、あえて顔をあげない。特有の視線を感じるが無視を決め込み、机から教科書をしまい弁当を置く。置いた数センチ先に、彼女の弁当箱が置かれていた。顔をあげると、若干怒っているらしい如月と目が合う。

「無視だなんて、ひどい人ですね」

そのまま隣の席を借り、俺の机の真横に座った。

「いただきます」

ご丁寧に手を合わせ、そのまま食事が始まる。彼女が黙々と食べる光景を、なにも問えずに眺めていた。

「どうしたの。珍しいね」

幹典の声と、真正面の椅子を引く音で我に返る。

「気が向いたので。迷惑でしたか?」

「俺は、迷惑じゃないよ」

『俺は』と言うあたり、俺が辟易していることを分かっているのだろう。まあ、今更どうということはない。

「俺だって別に、迷惑じゃないよ」

「本当に?」

ただちょっと、驚いただけだ。

「本当に」

彼に習って手を合わせ、弁当を開く。とりあえずものを食べなければ。お腹が空いた。

「今日の体育の那緒ちゃんすごかったね。あんな位置からシュート決めちゃうなんて」

「見てたんですか? 恥ずかしいですね。あれは偶然ですよ」

「偶然でもすごいって。あの瞬間は、多分体育館の全員が注目してたんじゃないかなあ。ねえ?」

「ああ、そうかもしれない」

隣で平凡な会話が交わされるのを、空を眺めながら聞いていた。いや、内容は覚えていないので聞き流していた、といったほうが正しい。



次の日も、明くる日も、彼女は幹典と談笑する昼休みを過ごした。彼らがいいのなら、俺がとやかく言うべきではない。そうやって納得しようとしても、急な行動に疑問を抱いてしまう。如月は、あの空間を気に入っていたんじゃないのか。

「なんで急に、階段からおりてきたんだよ」

露骨に目がそらされる。分かりやすいやつだ。

「いけませんか」

「違う。ただ、様子がおかしいと思って」

「気のせいではないでしょうか」

「移動教室のときに、俺のあとをついてきているのも気のせいなのか?」

なにかを言おうと開いたらしい唇が、なにも言葉を発することなくゆっくり閉じた。さすがに気づいていないとは思っていないだろうが、いざ口に出されると反論の余地がないんだろう。

「……ちょっと待ってください」

そのまま、彼女はふさぎ込んでしまった。仕方がないので自らの席に座り直し、壁にかかる時計を眺める。この距離なら、思考は読まれない。待ってほしいと頼むからには、なにか事情があるのだろう。真っ先に思いつくのはあの空間が閉鎖されたということだが、それはわざわざ隠さなくてもいいはずだ。となればやはり、彼女自身になにかあったのか。

長い沈黙を破ったのは、如月のため息。彼女は立ち上がり、鞄を手にした。その顔は、必死に笑みを取り繕っているようで、見ていられない。

「帰りながら、話しましょうか」

リュックを手にした俺は、彼女の後ろを数歩離れてついて行く。

やがて校門を出て、あたりから人の気配が消えたところで、彼女は再び口を開いた。

「怖いんです、人の悪意が」

その声は本当に小さく、聞き取れてから理解するのに3秒ほどの時間を必要とした。さらに、その短い言葉の真意を読み取るまでに5秒。いやに長い時間で、俺は彼女の前に立ちおそるおそる表情を伺う。彼女の目の周りは、もうすでにとても赤かった。俺の瞳を通してそれに気づいた彼女が、目を手で覆う。聞こえてくるのは、鼻をすする音。泣いてる。泣かせた。泣かせてしまった。俺のせいで。俺が、わけも分からないまま、彼女に静寂をもたらしたから。

「北斗さんのせいじゃないです」

そんな声で言われても、説得力がない。

「俺が、いたから」

「近づいたのは私です。あなたのそばにいたいと思ったのも私です。北斗さんを理由にしたくない」

泣いている彼女を見て、どうせなら理由にしてほしいと思った。背追い込まないでほしいと、その背をさすろうと手を伸ばす。しかし、やめた。

代わりに、ポケットからティッシュを取り出す。ずっと入れていたせいで形の崩れたポケットティッシュ。彼女はそれを無言で受け取ると、涙を拭き始めた。

「人の考えていることなんて、分からなければいいのに」

ティッシュ越しに、彼女は恨めしそうに呟く。普通に、生きていきたい。切実な願いだ。

その願いを叶えてやりたいと、強く思う。

「……分からなくなれば、いいんだよな?」

彼女が驚きながら顔をあげる。出来るんですか、問いかける瞳。

「もちろん、俺には出来ない。でも、幹典に聞けば、そういう分野に詳しい人を紹介してもらえるかもしれない」

可能性は未知数だ。ゼロってこともありえる。

「あとは、お前の事情を話す必要があるってことか」

あいつならもうすべて分かっていそうな気もする。分かったうえで、なにも聞いてこない。多分そうなんだろうな。

「ま、人任せだと笑おうが可能性を感じようが、お前の自由だよ」

彼女は、ひとまずといったように頷いた。濡れたティッシュを袋ごとゴミ箱へ捨てる。涙の止んだ彼女を家に送り届け、俺は家へと帰宅した。

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