競争の日
如月が勢い良く水へ飛び込んでいくのを、ぼんやりと見つめる。
「飛び込みは良くないよー」
監視員らしき若い男性が、朗らかに声をかけた。しかし、すでに水の中へいる彼女には聞こえていないだろう。飛び込みは禁止されているだろうし、まず準備運動もしていない。次に上がってきた時、俺が注意しなければ。
「キミは、泳がないの?」
俺に気付いた男性が、声をかけてくる。見る限り、大学生くらいだろうか。「盛岡」と書かれたネームプレートを、首から下げている。金色の髪の毛と、屈託の無さそうな笑顔が眩しい。そんな彼に萎縮しながらも、隣にある椅子へ座って良いか問いかける。彼は、快く承諾してくれた。
「ありがとうございます」
「夜だから、他に誰も座らないしね」
ほぼ貸切状態のプールを、彼女は悠々と泳いでいる。泳ぐことは得意なようだ。25メートルのレーンを、クロールで何度も往復している。
……楽しいのか、あれ。
「キミと彼女は、どういう関係なの?」
「友達ですよ」
問われると思っていた質問に、いつでも用意している言葉を返す。
「そっか。じゃあ、キミも泳いできたら?」
それも予測済みだ。
「それが、何の用かも知らされずに突然連れてこられたので、水着を持って来ていないんですよね」
プールに行くと素直に告げられていたら、決して家から出ていなかっただろう。コンビニに行きたいのですがと強引に外に出された挙句、人のいない場所で泳ぎたいと言い遅くまで開いている市民プールに連れてこられた。今すぐにでも帰りたいくらいなのだが、高めのアイスを奢ってもらった手前、無言で帰るのは気がひける。
「ここって、水泳道具一式を買うことが出来るんだよね」
「はぁ」
予想だにしていなかった会話の流れだ。そこまでして泳ぎたいとは思わないのだが、彼は楽しそうにこちらへ語りかけてくる。否定的なことが言いづらい。
「お兄さんが買ってあげるから、キミも泳いでおいで」
「いや、それは」
さっき出会ったばかりの人間に、水着を買ってもらう。あまり経験したくない部類の出来事だ。それに、水着の種類や小物の数にもよるだろうが、決して安くはない買い物をさせてしまうことになる。
「それはちょっと、いや、かなり申し訳ないというか……」
「だって、彼女1人じゃ楽しくないでしょ。彼女がストイックで、トレーニングに付き添いとかなら分かるけど、そういう雰囲気でもないし」
盛岡さんは、プールの方へ視線を向ける。つられて視線を動かすと、いつの間にか彼女がこちらをじっと見ている。
「ねぇ、キミ。1人で泳ぎたい? それとも、この少年と一緒に泳ぎたい?」
あろうことか彼女は、水面のようにキラキラと目を輝かせた。そんな表情も出来たのかという驚きが強い。
「出来れば、一緒に泳ぎたいです」
「だってよ」
だってよって。
「そう言われましても」
色々、考えるべきことがあるんじゃないだろうか。性別とか、年齢とか、そう、色々。返事がない俺を察したのか、彼はニヤリ、と笑った。
「『友達』なんでしょ。大丈夫だって。俺も見てるし」
言いたいことが山ほど浮かんで、頭が真っ白になる。盛岡さんに手を引かれ、俺は気が付いたら水着姿になっていた。否、着替えの時は1人だった。色鮮やかな海水パンツを見て、履きたくないなと躊躇ってしまう程度には意識があった。いっそのことなければ良かったのに、と思わないでもない。水着姿になった俺を見て、盛岡さんは似合ってるじゃん! と適当なことを言った。
「ありがとうございます……?」
あぁ、似合ってるという言葉が、サイズが合ってると同意義だったら間違いはない。サイズはピッタリだった。いや、だから何だよ。
「うーん、でも、もうちょっと筋肉つけた方がいいと思うよ」
「……善処します」
俺からの返事を待たず、盛岡さんは如月へと声をかける。
「じゃあ、キミも一旦上がって。準備運動してなかったでしょ?」
「あ、忘れてました。いけませんね」
プールサイドへ上がってきた彼女は、当然ながら水着のはずだ。しかし、一目見ただけでは普通のワンピースのように見える。近くで見てようやく、水着らしい生地をしていることが分かった。あんまりまじまじと見て誤解を受けるといけないので、すぐさま視線を逸らす。節度のある友人関係であるべきだ。
「それ、全然似合ってませんね」
「知ってる」
これが似合うのは、人生を謳歌している人間だけだろう。目の前の彼なんかが、正にそれだ。
そんな彼の掛け声による準備運動を済ませ、水の中へとゆっくり入る。温水なので入りやすい。
「北斗さんって、泳げるんですか?」
「分からない」
我が高校にプールはない。最後に泳いだのは、中学生の頃だろうか。あの頃は泳げていたはずだが、果たして今はどうだろう。
「あれこれ言うより、とりあえず泳いでみてください」
言われるまでもない。試しに、コースの端で蹴伸びをした。そのまま、クロールに切り替えて進んでいく。反対方向の端へと無事に辿り着けたので、身体は泳ぐことを覚えていたようだ。隣のレーンにいる如月が、小さく拍手をしている。
「すごーい」
「馬鹿にしてるだろ」
「泳げると思ってなかったので、素直に驚いてます。どうでしょう。どちらが早く泳げるか、競争してみませんか?」
「望むところだ」
「監視員さん」
「はーい?」
「勝負したいので、スタートの合図してもらっていいですか?」
「おっ、いいねぇ! 楽しそうだ!」
1番楽しんでいるのは、彼ではないのだろうか。声に出して笑いながら椅子から立ち上がって、プールの端へと立った。
「準備はいいかな?」
「はい!」
如月は、始まる前から勝ち誇ったように笑っている。よほど泳ぎに自信があるらしい。引き受けた以上、負けたくはなかった。勝機は、きっとあるだろう。
○
「はい! もうすぐ閉館だから、急いで着替えてねー!」
盛岡さんの掛け声と手を叩く音で、現実へと引き戻された。結局、1度も勝てず仕舞いだ。彼女がこんなにも泳ぎが得意だったなんて。勝つためには、本当に筋肉をつけたほうが良いかもしれない。
着替え終わり、タオルで拭いても未だ濡れたままの髪の毛で外へ出た。如月も似たようなもので、そんな髪型のせいか、いつもより幼く見える。
「こういうのがタイプなんですか?」
「……妹が好きだからって、幼い容姿を持った人間が好きなわけじゃない」
「そうなんですか、難しいですね」
市民プールを出た直後に交わす会話ではない。彼女から目をそらし、いそいそと歩みを進める。
「早く帰るぞ。親御さん、心配するだろ」
事前に伝えて来ているとは思うが、それでも早く帰るに越したことはない。
「夏場なので大丈夫ですよ。お祭りなんかは10時まであったりするんですし、このくらいは普通です」
「その発想は良くない」
送っていくのが大変だろうが。そう不満に感じれば、隣からはえっと驚きの声が漏れた。
「送ってくれるんですか?」
「そりゃ、まぁ」
「優しい人ですね」
「もしもお前が帰りに事件にあった場合、真っ先に疑われるのが嫌だからだよ」
「素直になれば良いのに」
「何にだよ」
彼女はやれやれと溜め息を溢す。こっちがやれやれだよ、まったく。溜め息も出てこない。
歩きながら、来た時よりも暗くなった空を見上げた。ぼんやりとした星が輝いている。
「また来ましょう。このままだと私、勝ち逃げになってしまうので」
ふふっと悪戯っ子のように笑い声をあげる彼女は、勝ち逃げを続ける気のようだった。この夏の間に、1回でも勝てるだろうか。
次があることを否定する前にそんなことを考えてしまった俺は、そこで負けて悔しいという思いが多少なりともあったことに気が付いた。……帰ったら、筋トレの方法でも調べてみるか。
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