012 : A connection
「随分時間がかかったな」
神官の一人にそう言われ、アルトは小さく溜息をつく。生真面目に二周目を周り終え、ようやくスタート地点まで戻ってきた時のことである。
目を細めて、湖の方へ視線をやった。周りを歩いているうちに気づいたことだが、時間が経つにつれ、水位が少しずつ下がってきている。まるで話に聞く海の潮の満ち引きのようだが、この湖には一本の川すら繋がっていない。一体、どういう現象なのだろう。
「いずれ湖の水がひく。船には乗らず、歩いてあの崖のあるところまで渡るのだ」
日はあらかた落ちて、太陽が地平線を赤々と染めている。この湖の水が完全にひくのを待っていたのでは、一体どれだけの時間がかかるだろうと思われたが、太陽が完全に落ちるのと同時に道は開けた。ちょうどアルトが立っていた地点から崖に至るまで、湖の底が道のように盛り上がっていたのだ。
「さあ」
言われてアルトは、一度頷く。一歩進み出ると、今まで湖の底へ沈んでいた地面が柔らかな感触をもって応えた。
服の裾が擦れて、泥がつく。神官に何か言われるかとも思われたが、考えて見れば、相手は例の赤い目隠しをつけているのだ。見えようはずがない。アルトも気にせず、そのまま歩いた。
心の中は未だに、煮え切らない思いで悶々としている。
これは、長い夜になりそうだ。
アルトが例の崖にたどり着くころには、星々が輝き始めていた。辺りには所々に松明が置かれ、道を照らしてはいるのだが、それでもやはり視界は悪い。
他の神官達は、どこで待機しているのだろう。アルトがきょろきょろと辺りを見回していると、共にここまで歩いてきた神官が、わざとらしく咳払いをした。
「この先は、これをつけて歩いていただきます」
そう言って神官が手渡したのは、黒い目隠しである。アルトはてっきり、落ち着きなく辺りを見回していたことを咎められてのことかと思ったが、どうやらそういうわけでもなさそうだ。目隠しは黒い布に金の糸で刺繍がしてあり、かなり古くから使われているものらしいと知れた。
尋ねたいことは山とあったが、アルトは黙って従った。目隠しをされる直前に、ほんの、頭上を仰ぎ見る。視界にはやはり、崖に刺さった何かが見えた。
(――槍だ)
金具は錆びて持ち手は朽ち、今にも落ちてくるのではないかと思われるほどに、傷んだ槍。
思った瞬間、視界が塞がれた。ふと、老神官ノータの言葉を思い出す。
――お守りみたいなもんだよ。聖地には、見ちゃならんものがよく来るのでね。
恐る恐る進み始めると、すぐに体がよろめいた。今し方までなんとも思っていなかった、足元のわずかな傾斜や小さな凹凸が気になって仕方ない。真っすぐに足を動かそうとしても、どうにも進行方向が曲がっていくようだった。そんなアルトの様子を見かねたのか、後ろをついてきていた神官が片手をアルトの肩へ置いた。少しずつ押されていくのに任せると、いくらか体が安定する。
歩いて行くとそのうち、恐る恐る慎重に進むことに意味はないと知れた。どうせ目は見えないのだし、すぐ後ろには神官も控えている。何より、見えないものを見ようとするのではなく、じっと耳を澄ませている方が、よほど役に立つと気づいたのだ。
辺りは無音だったが、時たま吹いてくる風の音が、何か知らせてくれるように思われた。勿論それははっきりとした言語ではなかったのだが、アルトにはなにがしかの確実なものが見えていた。
堂々と。崖に体当たりしたり、湖へ落ちたりしてもその時はその時だ。そうしてしばらく歩いて行くと、いつの間にか神官の手が肩から離れていた。それでも、問題はない。
どこかから、低い太鼓の音が響いてくる。それが幾分近づいてくると、聞き覚えのある声がした。
「そこで止まりなさい」
老神官、ノータの声だ。アルトは素直に立ち止まると、再び耳を澄ませてみる。
幾度もよろけたのに、黒い布の目隠しは少しもずれることがない。これも口をきいてはいけないのと同様で、いつになったらやめても良いものだか、判断に難かった。
「そこにお座り」
ノータの声が、幾分堅い。いよいよ、始まるのだ。
正直なところアルトは、成人の儀などは形式ばかりで大したことはないものだと、ここへ来るほんの一瞬前まで信じて疑わなかった。しかし、現実はどうだ。
高鳴り始めた太鼓の音を聞きながら、アルトは考えた。この儀式は話に聞くよりずっと神秘めいていて、厳かで、まるで神話の時代か何かへ紛れ込んだかのようだ。
アルトの二人の兄達も、それぞれの成人の儀では、こんなことをしたのだろう。この白い服を着て、目隠しをし、ここへこうして座り込んで。――本当に?
急にもたげたその疑問に、アルトは自分で驚いた。
王族に媚びない神官達。ここには、騎士を一撃で昏倒させるようなつわものまでいる。湖の水位は道を作るように下がるし、指示されることは話すなだとか、目隠しをつけろだとか、おかしなものばかりである。ペンダントを持っていたあの青年のことだって、よくよく考えてみれば存在自体が奇妙だ。聖地の付近は日頃から、立ち入ることが困難なのではなかったか?
そして何より、あの槍。
英雄に縁の地なのだから、やはり英雄に縁のあるものなのだろうか。老神官は確かに、「自分には、見えない」。そう言っていた。 だが長年ここに住み続けているはずのあの老婆が、そう答えたのには何か理由があるのではないか。
急に、太鼓の音が大きくなった。がんがんと頭を打ち付けるような音。しかし不思議と、嫌な気はしない。
ふとアルトは目隠しの中の闇の中に、新たな闇が展開するのを感じた。それは恐ろしい闇ではない。いつもの、そう、あの夢の中の闇だ――。
アルトは耳を澄ませて、闇の中で少女の声を探した。目隠しのせいだろうか。いつもとは違い、あの柔らかな光が見当たらない。それでも、きっと声は届くはずだ。
「君は、一体誰? どうしていつも、泣いてるんだ?」
遠くに聞こえた泣き声が、また更に遠のいた。しかし少女のしゃくり上げる声が聞こえたかと思うと、か弱い声がこう続ける。
「あなたこそ、誰なの……?」
問い返されて、アルトは思わずびくりとする。声に聞き覚えがあった。
(確かに、知っている声だ。だけど……駄目だ、思い出せない)
闇の中で、立ち止まる。少女の声のする方へ歩み寄っているつもりだったのに、いつまで経っても距離が縮まらないように思えたからだ。
「誰なの? 私の声が、聞こえるの? ――私はあなたに、話せているの?」
おかしな問いだ。アルトは首を傾げたが、程なく「ああ」と返事した。
「聞こえる。泣き声は、ずっと聞こえてたんだ。なあ、君は……」
尋ねようとした瞬間、世界が大きく振動した。少女が他にも何か言ったが、うるさい音が邪魔をして、うまく聞き取ることができない。
「今、なんて言ったんだ?」
聞こえ続けていた太鼓の音が、急に途切れて静かになる。視界に段々とぼやけた光が射しこんできたのを見て、アルトは思わず瞬きした。そのまぶたが、例の目隠しにこすれるのがわかる。
世界が遠のいてしまう。またこんな風に、中途半端な別れ方をしなくてはならないのか。
そうは思っても、アルトにはどうすることも出来なかった。せめていつものように、少女の姿が見られたなら……
「――
声がして、アルトは思わず息を呑む。
「サイメイ……それが、君の名前?」
答えはなかった。いや、あったのかもしれないが、直後に巻き起こった強い風の音で、聞き取ることが出来なかったのだ。
今、アルトの周りを大きな風が包んでいた。激しく、力強い、――孤独な風が。
(名乗りそびれたな)
そう思いながら、アルトは苦笑した。あんなに長い名前だから、咄嗟の時に名乗れないのだ。今ではもう、アルトと呼んでくれた友人すらも遠い人になってしまった。一体、どう名乗れば良かったのだろう?
風はどうやら、例の闇の中だけで起きたものではなかったようだ。アルトの細い金髪が、強く頬を打っている。目を開けると目隠しの繊維の隙間から、日の光が射しこむのがわかった。それほど時間が経ったようには思えなかったのだが、どうやら今、聖地ウラガーノは、朝日と風とに包まれている。
布のこすれる音がする。誰かが近寄ってきて、アルトの肩に手を置いた。
「アーエール・ウェルヌス・ウェントゥス・ダ・ジャ・クラヴィーア。そなたの視界を遮る、その布をお取りなさい」
老神官、ノータの声だ。アルトは目隠しに手をかけて、それを外す前に一瞬、「サイメイ」と心の中で呼びかけた。
答えはやはり、どこにも無い。
目隠しを外すと、目の前に立ったノータの手元へ視線がいく。王族の成人男子であることを示す、金のチョーカーがそこにはあった。
髪を持ち上げると、ノータがそっと手を伸ばす。かちりと乾いた音がして、それはまるで今までもずっとアルトの首を飾っていたかのように、すんなりとそこへ収まった。
「さあ、これで儀式は終わり。部屋へ戻って、ゆっくりおやすみ」
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