013 : Now, listen to the song.

「アーエール殿下、一体どちらにいらしたのです」

 生真面目な声で、一人の騎士がそう言った。アルトはわざわざやんわりと微笑んで、答えない。ナファンと同じタイプだが、勝手が違うことを心得ていたからだ。騎士達はアルトの行動を諌めないが、その分全てを態度で表す。言いたいことがあるのなら、はっきりと口に出して言えばいいのだ。この笑みはアルトの、ささやかな仕返しでもあった。

 儀式が終わったころには、湖はすっかり元通りに戻っていた。

 神官達とアルトが船に乗って湖を渡ったのが、ようやく鶏の鳴き終えた頃のこと。アルトは一人でもう一度だけ湖の周りをぶらりと歩き、ウラガーノ城を外から見て回った後、小腹が減ってようやく帰って来たのだった。

 しばらく城へ帰らなかったのには、散歩がしたかったからというのも勿論ある。しかし実のところ、アルトは昨日の青年を探していたのだ。

 今になって思うと、彼は他の神官達のように目隠しをつけていなかった。やはり部外者であると考えた方が良いだろう。彼のことを神官達に尋ねてみることはしなかった。何故だか説明はできないが、恐らく誰に聞いても、具体的な答えは返ってこないだろうという確信があったからだ。それにその話をして、湖を二周したと告げるのもつまらない。

 結局彼を見つけることはできなかったが、聖地ウラガーノはマラキアに負けず劣らず自然の豊かなところで、それなりに楽しむことはできた。

 広い食堂に一人で腰を下ろすと、用意された昼食を食べる。首のチョーカーは今やすっかりと馴染んで、アルトの首におさまっていた。

「だからよお、俺は言ってやったんだ」

 唐突に聞こえたその声に、アルトは思わず手を止める。

「それならお前らは飼われていれば良い。でも俺は御免だ。俺はこの羽根で、世界中を飛びまわるのさあってな!」

 声は、窓の外から聞こえて来ていた。昨日の青年かとも思ったが、どうやら声の調子が違う。しかし話しぶりから見て、やはりウラガーノの者ではないだろう。恐らくスクートゥムの騎士でもないはずだ。あの双子のような性格の騎士が、他にもいるなら別として。

 アルトは最後の一口を放りこむと、もごもごと口を動かしながら、空になった食器に向かって短い黙祷を捧げた。立ち上がって窓の方へ歩み寄ると、音をたてないように窓の外を覗き込む。昨日の青年の仲間かもしれない。そう思ったからだ。

「でもさ、あんた。そのなりで、一人でやっていくなんて、大変じゃないかい?」

「大丈夫さ。世の中、心意気よお。あんたの体験談も、色々と聞かせてもらえたしなあ」

 声はするのに、人影が見当たらない。アルトがきょろきょろと辺りを見回していると、がさっと木の葉の鳴る音がした。

 鳩が二羽、飛びたつ音であった。片方はいかにも野生らしく、柄のある灰色。もう一羽は貴族が伝書鳩として好んで飼うような、純白の鳩だ。

 途端に声が、止んでしまう。アルトはもう一度辺りを見回して、「まさかな」と短く呟いた。

(もしそうだとしたら……余程疲れてるんだな、俺)

 もう部屋へ戻ろう。明日には再開する馬車生活でも休むことはできるが、やはり揺れがあるのと無いのとでは随分違う。そう考えていたところに、広間の入り口から声がした。

「お食事はお済みですか、殿下」

 一瞬、声にナファンの姿が重なった。アルトははっとしたが、すぐにかぶりを振って、短く肯定の意を伝える。

「もう、部屋へ戻ろうかと思っていたところだ」

 騎士は何も答えず、ただ静かに臣下の礼をとる。形式ばかりで気味の悪い礼だ。アルトは目を逸らすようにもう一度、窓の外へ視線をやると、無言のまま騎士の隣を通り過ぎた。

 廊下を抜けて階段を上がり、ウラガーノ城の中でも特別に作られた、王族のための部屋へと向かう。以前は成人の儀を行う者と共にその親族が訪れていた時期もあったようで、最上階である三階には、いくつか部屋が設けられていた。アルトがそのうちの一つの扉へ手をかけると、重々しい声で騎士が言う。

「扉のそばには常に騎士が控えております。御用の際は、お声をおかけください」

 アルトは上の空で適当に返事をして、部屋へ入っていった。整えられた室内は広く、寝室だけでもデュオ達馬番の小屋の三倍の広さはあるだろう。大きなベッドに、応接間。採光の良い窓は広く取られ、上質のガラスで閉じられている。

 アルトは衣服の首元を緩めると、窓の方へと歩み寄った。周りは民家の一つも無い、ただ広い草原と森の景色。ここから見えるものは、それだけだ。

 備え付けの引き出しを開ける。アルトがしまったままに、デュオからもらった金のペンダントが入っていた。

 手にとって、首から提げてみる。すると昨日の青年のことが、自然と脳裏に思い出された。

 このペンダントが、何だというのだろう。これはアルトがもらった、デュオからの大切な贈り物だ。

(それ以上の価値なんか、要らないのに)

 ペンダントを、服の内側へとしまう。その時だ。かちゃり、と背後から静かな音がして、アルトははっと振り返った。

 マラキア宮と似たこの城の、壁の造りは堅牢だ。外の音が、こんなにも響くだろうか?

 嫌な予感がして、即座に扉へ駆け寄った。ドアノブに手をかけてみる。しかし、回らない。

(鍵がかけられてる――)

 荒っぽく扉をたたいて、耳をたてる。「御用でしょうか?」と、騎士の生真面目な声が聞こえてきた。

「何の真似だ、勝手に鍵などかけて……」

「皇王アドラティオ四世陛下より、御用の際以外はそうするようにとのお言葉です」

「何故。これではまるで、搬送される虜囚ではないか」

「虜囚などと、滅相もございません。我々騎士団も、アーエール殿下に有事無きよう、誠意をもってお仕えしているのみでございます」

 飄々としたその言葉に、アルトは奥歯を噛みしめる。何が誠意だ。よく言ったものだ。

「それが心よりの言葉なら、今すぐこの鍵を開けろ! この聖地ウラガーノに、無法者などくると思うのか!」

「それはできませぬ。何があるともわかりませぬし、皇王陛下よりのご命令でございますゆえ」

 かっとなって、握り締めた拳を扉へ打ち付けた。騎士の声はそれきりない。扉の前で、表情もなく立っている姿が目に見えるようだ。

「……今までの村でも、こうしていたのか」

 押し殺した声でアルトが言うと、短く肯定の言葉が返ってくる。

 悔しくて、悔しくて、悔しくて、仕方が無い。

 しばらくの間、アルトには何故自分がそう思うのかがわからなかった。言葉無く扉から離れ、項垂れて椅子に腰掛ける。

(俺じゃ、ないからだ)

 目を閉じると、昨晩の目隠しで作られた闇のことが思い出された。あの時だって、今ほど孤独ではなかったのに。

(必要とされているのが、俺じゃないからだ。……今あいつらに必要なのは、第三王子アーエールの名前だけ)

 その名のついた人間が、どう思おうと何でもない。外交に必要なのも、そのために運搬されているのも、第三王子の名前だけなのだから。その容れ物のことなど、どうでもいいのだ。

 声もなく、ただ奥歯を噛みしめる。

 わかっていたはずだった。

 わかりたくもない事だった。

 

 だんだんと、日が落ちてくる。その様子を見ていると、マラキア宮での最後の日の朝、昇りゆく朝日を眺めていた時のことが思い出された。

 喉が渇いて、咳払いする。仕方なしに水差しの置いてある机まで歩いてグラスに水を注ぐと、ふと、アルトは部屋の端に設けられた、小窓の存在に気がついた。

 この部屋の他の窓に比べれば、随分小振りな窓である。位置から察するに、部屋の換気を容易にするために設置されたのだろう。アルトはそのこぢんまりとした大きさが気に入って、そのそばへと椅子を運んだ。西向きの窓だ。日が落ちるのを見るなら、この窓の方が都合良いだろう。

 椅子に腰掛け、カーテンを引く。

 思わずアルトは、息を飲んだ。

 太陽の光は確かに傾いていて、次第に町を赤く染め始めるだろう。――そう。町を染めるのだ。

 今、アルトの目の前には、そこにはあるはずのない町並みが広がっていた。

 あきらかにウラガーノではない、見知らぬ場所。建物は皆背が低く、道は細く巡らされている。建物の煙突からは煙が立ちのぼっており、夕飯の準備をする匂いまでもが届いてきそうだ。

 絵画のはずはない。しかしどういうことなのだろう。振り返ると、他の窓からは今まで通りのウラガーノを見ることができた。

(けど、どうしてだろう――)

 ゆっくりと瞬きをして、静かに椅子へ腰掛けた。

(ちっとも、不思議な気がしない。……あたりまえじゃないか。だって……)

 そこでアルトは思考を止めた。その先の言葉が、どうしても浮かんでこなかったのだ。

(さっきの鳥のことと言い、ストレスでおかしくなったのかな)

 頬に思わず笑みが浮かぶ。アルト自身も驚いたことに、それは苦笑などではなく、深い微笑みであった。

(それでも良い)

 心からそう思えることが、なんとも滑稽だ。だがここにいる限りは、何も考えずに済むだろう。これからのことも、今までのことも、何もかもを忘れることが出来る。そんな気がした。

 この町には、歌が聞こえる。寂しく、静かな、しかし心を満たす歌。『風化した物語』の元になったメロディが、脳裏に流れてきたあの時のようだ。

 一瞬の頭痛を感じて、アルトはすぐに目を開く。そうしてしばらく町の様子を眺めていると、すぐ下の小道を歩く、小柄な人影が見えた。

 その人はきょろきょろと辺りを見回して、楽しそうに、しかし何かに脅えるように、腕を振って歩いている。

「何をしているんだ?」

 アルトが声をかけると、人影はすぐにこちらを見上げてきた。赤い髪の少年だ。どうやらアルトよりは年下のようだが、その額には札のような、何か奇妙なものを張り付けている。この町の習慣か、何かのまじないなのだろうか。

 少年は札の上から額を押さえ、いくぶん緊張した面持ちで、こう言った。

「町の探検を。その、僕は行商人の息子だから、この町のことをあまり知らないんだ」

 そう言って、少年は微笑んだ。アルトは気づかぬうちに微笑み返していた自分に気づき、そっと窓辺に手をかける。

(友達に、なりたいな)

 彼とは話が合いそうだ。何故かはわからないが、そんな気がした。

 恐らくアルトは、本能的に気づいていたのだろう。

「そう、楽しそうだな」

 ふと、風が吹いてアルトの細い髪が揺れる。ウラガーノの風が今、この見知らぬ町へと流れこんでいた。

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