011 : Thinking and Ignorance
身につけた薄布の裾が、さらさらと涼やかな音をたてながら、埃っぽい地面を撫でつけている。
ちらりと空を見上げると、雲一つない晴れた空が視界にはいる。目を伏せながら視線を落とし、アルトはじっと、眼前に広がる湖に目をこらした。
午後も半ばのことである。太陽は既に西へ傾き始めており、その陽に背を向けるように立ったアルトには、目の前の水面に自分自身の影が黒々と映っているのが見えていた。
声には出さずに、態度で問う。アルトの隣に控えた老神官ノータがそれを見て、相変わらずの話好きな調子で言った。
「それじゃあ準備も整ったところで、成人の儀の説明を始めるとしようか」
アルトは静かに、頷いた。その身は白く艶のある布で作られた簡易な衣服を身につけ、麻を結った紐で髪をまとめている以外には、全ての装飾品を外している。ここ二日間、常に身につけていたデュオのペンダントを外すのには少し抵抗があったが、忍ばせていて没収でもされれば逆に面倒だ。仕方なしに、他の所持品と共にあてがわれた部屋へ置いて来た。
この場にいるのは、アルトと老神官のたった二人だけである。他の神官達は皆先に儀式の場へと向かっており、マラキアから共に来た騎士達は、ウラガーノ城で待機させられている。実のところアルトは、久しぶりに騎士達の目の届かないところまで来られたことに安堵していた。ああも四六時中見張られていたのでは、落ち着く暇も無いからだ。
(とはいえ――)
これから始まる儀式の中でも、落ち着く暇などは無さそうだ。そう考えて、苦笑した。
「本当なら、着いたその日に儀式を始めるなんて慌ただしいことはしないのだがねえ」
湖を駆けてきた風が、肌に冷たく触れて行く。アルトは小さく身震いした。それはもちろん風のせいでもあるし、これから行われる何か、不思議な儀式への緊張のためでもあった。
「まずするべきは、歩くことだ」
「歩くこと?」
ノータの言葉に聞き返す。老神官は頷いて、言葉を続けた。
「お前はこれから、まずこの湖の周りを一周歩いてきなさい。その間、一度でも誰かと口を利いてはいけない。何、そう大した距離ではないから、日が暮れるまでにはここへ戻って来られよう。ここまで戻って来たら、今度はこの湖を真っすぐ進み、あの崖の麓まで行くのじゃ」
「水の中を進むのですか?」
「いや。答えは、その時になればわかるだろうて」
そう言って、老神官は意味ありげにひっひと笑った。
聞けば、ノータも先に儀式の場所へ向かうと言う。アルトは一人で歩き始めた。
湖は確かに大きい。しかしそれでも、中央へ不自然に残された、切り立つ崖をぐるりと囲んでいるだけだ。湖の縁に沿って歩けば、大した距離ではないだろう。例の崖があるために対岸がどうなっているかはわからないが、事によっては、日が暮れるほどもかからないかもしれない。
この湖は、周囲を木々に囲まれている。湖を左に歩き始めると、右手には常に森林が見えていた。
(これが成人の儀か。……意外に面倒だな)
儀式は明日の明け方まで続くという。その分、明日の晩はここでゆっくり休めるらしいのだが、なんにせよ、無茶なスケジュールには変わりない。
歩きながら、アルトは考えた。残して来たマラキア宮のこと、父王アドラティオ四世のこと。それから自分のこれからのことを、だ。
ここで成人の儀を終え、八日後には首都スクートゥムへ着く。この急ぎようだ。恐らくは、例の婚約相手と顔を合わせるのも、そう遠い日のことではないだろう。着いた途端にご対面、などということもありえない話ではない。
(どんな人なんだろう)
他国の人間か、それともスクートゥムの貴族か。有力者の娘であることは間違いないだろうが、それにしても、スクートゥムの皇王をこれだけ急かせる立場の人間だ。
(となると、国内は無い……か)
それなら、どこかの国の姫だろうか。しかしアルトが王位に就く予定は無いのだから、それほど大きな国の姫ではないだろう。いや、それとも相手のところへ婿に行かされるのだろうか。
そこまで考えて、アルトは思わず苦笑した。自分の婚約相手のことだというのに、あまりに他人事めいている。しかし仕方も無いだろう。どう足掻いたところで、結局は父王の言う人間と結婚するしかないのだから。
(いやいや、スクートゥムで祝儀を行うのは兄弟の中で俺だけだ。もしかしたら、俺が王になったりしてな)
馬鹿馬鹿しい考えも、思うだけなら自由である。アルトは左手に広がる湖と、その中央にそびえる断崖を見て、思わず笑った。道はまだまだ続きそうだ。どうせ歩いているだけなのだからと、今度は相手の女性について考えることにする。年下なのか、年上なのか。背は高いのか、低いのか。アルトの知り得る女性というのは、自分よりも年上が多いマラキアの給仕達か、着飾った貴族の娘たちくらいのものであったが、貴族達は自分の娘を他の王子たちにと考えていたようで、あまりアルトのところへ出向かわせたがらなかった。
(――あまり、高飛車な人じゃないといいな)
ふと、夢の中の少女を思う。
何も持たずに、一人で泣いている少女。少女の前にあるのはあの暖かい光だけなのに、少女の目にはそれすら映っていないかのように、ただただ孤独に泣いている。
「……」
アルトは小さく息を吐き、もう一度崖を見上げてみた。
聖地の云われについては昔授業を受けたことがあったが、今ではあまり覚えていない。興味が無かったのだ。『風化した物語』に詞をつける際、神話の資料を見るついでに少しは目を通したが、確か創世記時代の英雄がここで果てたとか、いわゆるそういう話であったという記憶しかない。
何げなく崖を眺めながら歩いて、不意にアルトは足を止めた。
(おかしい)
これでもう随分、恐らくは全過程の半分ほどは歩いて来ているはずだ。勿論、崖をみる角度も変わって来ている。それなのに。
(崖に刺さった何かが、ここからでも見える――)
距離があるためにそれが一体何であるのかはわからないが、少なくとも、あちこちに何本も刺さっているわけではないだろう。
(ずっと同じような角度で、たった一本が見えていただけだ。見間違いじゃない)
ならばあれは、一体……。
そう考えた瞬間のことだ。
「おっと。いたいた、あんたが王子さんかい?」
森の方から声が聞こえて、アルトは思わず振り返る。知らない声だ。調子は軽いが、音は低い。「誰だ」と尋ねようとして、思い出す。ここを一周するまで、誰とも口を利いてはいけないのだ。
「ああそっか、王子さん、今は話しちゃいけないんだっけ?」
声がする間、アルトは身じろぎもせずに耳を澄ませていた。相手の姿が見えないが、声は近くから聞こえている。おそらく、その辺りの植え込みにでも隠れているのだろう。
「残念だなあ。折角だから、色々とお喋りしたかったのに。あんたであってるよな? なんにも知らない王子さんってのは」
そろりそろりと、足音を忍ばせて歩み寄る。無駄なお喋りのおかげで、相手の居場所はすぐに知れた。
(その『なんにも知らない』内容ってのを)
アルトはにやりと笑った。自分でも、相手に対する悪意を感じる笑みだった。
(ここを一周した後で、ゆっくり教えてもらおうじゃないか)
素早く茂みへ手を伸ばす。草を掻き分ける音と息を飲む声とが同時に聞こえたが、指先に触れた手応えは、あっと言う間にすり抜けてしまった。
茂みから飛び出して来たのは、見知らぬ一人の青年である。年の頃は、恐らくアルトと同じほど。黒髪を短く切って、紺のベストを羽織っている。服の生地は薄そうだが、この辺りの農村で垣間見た農夫達よりは、いささか質の良さそうな服を身につけていた。
「い、意外と乱暴だなあ、王子さん……!」
青年は本気で面食らったような顔をして、がに股に立って後退する。
(一方的に喧嘩を売っておいて、よく言うぜ)
心の中で毒づいて、アルトは自分が身につけた、裾の長い服を見下ろした。こんなものを着ていたのでは、追いかけることもままならない。このままでは、何も聞かないままに逃げられてしまうだろう。口をきけないことがもどかしかった。いや、ここでなら少しくらい話をしても、神官たちに知られることは無いだろうか。
アルトは口を開きかけて、それでも何とか留まった。あの奇妙な崖のことが脳裏をよぎったからだ。この聖地には、何かある。奇妙な習わしでも、軽んじてはまずいだろう。
アルトが睨みをきかせると、青年は困惑顔でじりじりと後退する。そのうち困ったように、こう言った。
「悪かったよ。突然あんなこと言って、悪かったって。あんたは知らなくても、仕方ないんだもんな。だから、睨まないでくれよ! 俺はただ、やっとマラキアから出てきたっていうあんたの顔を、見てみたかっただけなんだからさ。うん、ホント注意を引くようなこと、言ってみたかっただけなの! 許して」
どこの人間なのだろう。ただ興味本位で迷い込んだだけの地元の人間なのか、それとも。
アルトの目に、キラリと光る何かが映った。青年の胸元だ。金の色に光るペンダント。どこかで、見た覚えがある。
「あれ。もしかして王子さん、このペンダントのことは知ってるの?」
不敵な笑みを浮かべて、青年がにやりとそう言った。言いながら胸元からペンダントを外して、アルトにもよく見えるよう目の前にかざしてみせる。それを見て、アルトは息を飲んだ。
見覚えがある。小振りの金のペンダントに、元から刻まれた紋章が判別できなくなるほどの、大きな傷。
(デュオにもらったのと、同じ――!)
思わずアルトが手を出そうとしたその瞬間、青年がぱっとペンダントを隠し、頭上の木の枝へ飛び上がる。そうして猿のようにひょいと枝の上へ立ち上がると、余裕の笑顔で、にこやかにアルトへ手を振った。
「じゃ、またねえ王子さん。今度会う時は、俺と語り合えるようになっておいてちょうだいな」
行ってしまう。アルトは息を吸って、咄嗟に相手へ手を伸ばした。
「待て! おまえ、それをどこで手にいれた! 言えよ、何を知ってるって言うんだ? お前は一体――」
青年が木の上で立ち止まり、ニヤニヤ笑って見下ろしている。アルトはその様子を見て、思わず表情を固まらせた。
「あーあ、口きいちゃった」
楽しそうにそれだけ言って、青年がさっさと去っていく。慣れない衣装を身に纏った、今のアルトが追いかけたところで、彼に追いつけるはずはない。
(――なんにも知らない)
突然やって来て、勝手なことを言ってくれる。
(俺は知らないんじゃない。知りたくないだけだ)
心の中でそう言い訳して、思わず一人で苦笑する。一体誰に言い訳しているのだろう。自分に? なぜ? ――後ろめたいから?
別れの日、デュオの前で無理矢理に笑顔を作り続けた時の気持ちは、今でもはっきり覚えている。あの時のことを後悔していないと言えば、それは嘘だろう。けれど。
アルトは肩を落として、首を横に振った。これ以上、考えるのはやめよう。あの青年のことだって、今はどうすることも出来ないのだ。今更どうにもならない。デュオのことだって、自分自身のこれからのことだって。
いつだって、全てはアルトの手に負えないような遠い場所で進んでいるのだ。いつもの事じゃないか。そんなことを今突きつけられたからといって、それで一体何が変わる?
アルトは水面に突き刺さるようにしてそびえ立つ崖を見て、溜息をついた。
さっさと、湖を周り終えてしまおう。まだまだ時間はありそうだ。走ればもう一周くらいできるだろう。――今度こそ、誰と話すこともなく。
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