006 : Silence at the dark night

「アーエール殿下! 良かった、お捜ししたんですよ」

 頓着しない給仕の言葉に、思わず、汗をかく。

 自室に近い、廊下でのことだ。アルトの背後には開け放たれた窓があり、すぐ外では涼しげに、梢がその葉を揺らしている。

 曖昧な言葉で返事をすると、アルトは何げない仕草で窓を閉めた。

「もうじき晩餐のお時間です。準備をされませんと」

「そうだな。……今、見てないか?」

「いいえ、私はなにも」

 間髪いれない、素朴な返答。アルトは安堵の溜息をついて、心の中で感謝の辞を述べた。

「けれどアーエール殿下。頭の上のその冠は、降ろされ方がよろしいかと存じます」

 にこりと笑って、給仕が言う。アルトがぎくりと手を伸ばしてみると、そこには一枚の木の葉が乗っていた。

「御召し物は何にいたしましょう。私は先に行って、準備をいたします。殿下も、すぐにいらしてくださいね」

 さっさと歩いて行ってしまう給仕を見送って、アルトは軽く頬を掻く。木の葉の冠を手でつまむと、窓を開いて、たった今よじ登ってきた梢の方へと放った。木の葉はしばらく風に遊ばれ、そのうち階下へと落ちていく。

 ふと、脳裏にデュオの言葉がよぎる。

「王族らしくない」

 呟いた。そして苦笑する。

 アルトは一度咳払いをすると、優雅な仕草で窓を閉じる。しかしすぐに少年らしい表情に戻ると、ばたばた走って部屋へと向かった。

 

 指先に神経を集中させ、ナイフとフォークを軽く握る。アルトは耳に入ってくる突飛な音階を吟味しながら、手頃な大きさに切った肉を口へと運んだ。

 マラキア宮殿、大食堂。広い室内には大きな長机が一台と、椅子が二脚置かれている。座っているのはアルトと、アドラティオ四世の二人だけ。しかしその脇には、様々な楽器を手に取った小楽隊が控えている。奏者の方へ視線を向ければ、そこには怒りのためか、恥ずかしさのためか、顔を赤くしたフェイサルとミラフィの姿があった。

(噂に違わぬ素人だな)

 二人の連れている周りの奏者達はなかなかの腕なのに、それで補えないほど、ビオラとピッコロが酷いのだ。こんなもので出迎えたのでは父王の不興を買うのではないかとまで不安になってきて、アルトはちら、と視線をやった。

 アルトの心情を知ってか知らずか、目の前に座る王は表情もなく、優雅な仕草で黙々と食べ物を口へ運んでいる。アルトはもう一度奏者達を一瞥して、心の中で溜め息をついた。

(もう、良いか)

 元々恥をかかせてやるつもりで呼んだのだが、正直なところ、あまりな演奏に疲れてしまっていた。アルトは食器を置くと、穏やかな口調でこう話す。

「二人とも、演奏はもう良い。本来なら楽隊にやらせるところを、すまなかったな」

「い、いえ。少しでも皇王陛下のお疲れを癒せたのなら、光栄なのですが……」

 フェイサルがしどろもどろに言うのを見て、ミラフィがまた顔を赤くした。黙って去るべきだったのに、あの程度の腕で大それたことを言ってしまったと気づいたのだろう。二人はアルトの又従兄弟であるとはいえ、その父親はアドラティオ四世と王権争いをした流れで、一度投獄されている。立場は決して強くない。

 アドラティオ四世はしばらく黙っていたが、そのうち短く「うむ」とだけ言った。フェイサルとミラフィも縮こまってしまって、そのままとぼとぼと出口へ向かっていく。

 さすがのアルトも、いくらか気の毒になってしまった。だがこのままにしてはおけない。アルトは二人が出て行くのを見届けてから、ちょうどデザートを運びにきていた使用人にこう言った。

「マラキア楽隊を呼び戻してくれ。それから、私のバイオリンを」

 二人が去るまで待っていたのが、せめてもの情けだ。目の前で別の楽隊を呼ばれたのでは、いくらなんでも悔しかろう。

 デザートを食べ終え、食器を置く。同時にアルトの呼んだ、マラキア楽隊が到着した。身分や経歴にかかわらず、この辺りで腕が立つと噂に上った人間を、アルト自身が呼び寄せて組んだ楽隊だ。指揮者が恭しく差し出した楽器を受け取って、アルトはすらりと立ち上がる。

「父上、次は私が」

 アドラティオ四世は、ほとんど顔を上げることもなく頷いた。そんな様子を見て、指揮者が小声で耳打ちする。

「アーエール殿下、曲目は」

 そう言った表情が、心なしかいつもよりも緊張して見える。この楽隊がこうして王とまみえるのは、これが初めてのことだ。無理もない。アルトはあえて穏やかに笑いかけると、こう言った。

「予定通りに」

 それからすぐ後で、声をひそめてこう加える。

「……いつも通りさ。楽しもう」

 そうすればきっと、聞き手を楽しませることだってできる。絶対だ。アルトは自分に言い聞かせる。

 楽器、ダンス、乗馬に武術、およそ王族の好みそうなものは一通り習ってきたが、アルトにとって、中でも音楽は特別であった。求め、従う唯一のもの。この思いを、遠くどこかに伝えるための。

(そうさ、いつも通りにやればいい。聞かせる相手が誰だろうが、俺の音楽に変わりはないんだから)

 アルトは優雅に礼を取ると、静かに弓で弦を撫でた。それを合図に様々な楽器が音を取り、合わせていく。楽器にあてた頬に、弦の震えが伝わってくる。アルトは満足げに頷いて、指揮者に向かって合図した。

 指揮棒が上がる。次の瞬間、音が空間を支配した。

 まずはこの国クラヴィーアで良く演奏される、メジャーな曲から。『セファラサの田園』。間を置く事なく、今度はサルターティオの『交響曲第五番』だ。アルトはその間一度も、父王の方を見ようとはしなかった。見ても悲しくなるだけだとわかっていたからだ。目でしっかりと見なくても、彼の意識がこちらを向いていないことくらい、すぐに知れることだったから。

 アルトはそれでも弾き続けた。そうして最後に一番気に入りの曲を、アルトが教えたメロディから、音楽家たちが作ったあの曲を演奏することにした。

 立ち上がって、指揮を見る。始めはアルトのソロパートだ。

 弦を、構えた弓が優しく震わせて行く。始めは軽く、微かな音で。

 この曲に触れるとき、アルトはいつも奇妙な感覚に襲われた。何か良い夢を見るような、穏やかな心地に包まれるのだ。現実を越え、どこか本来いるべき場所へと引き戻されていくような。

 アルトはその時、音律の風にのっていた。遠い大地を気ままに駆ける、まだ幼い風の種。力を増したり弱めたりして、風は辺りを彷徨っている。少しずつ、他の楽器の音が加わってきた。風の種は仲間を見つけて、踊るように飛翔する。

 アルトの目が、譜面をなぞる。気休めだ。この曲の音なら、すでに体が知っているから。

 最早、自分に興味を示さない王のことも、フェイサル達のことも、どうでも良いように思われた。それより今は、完成してからまだ日も浅いこの曲を、既にこの完成度で演奏できることが嬉しく、何より誇らしい。もうじき終盤にさしかかる。今日の演奏はいつにも増す、最高の出来映えだ――。

 しかし、そう思った瞬間のことだ。不意に頭痛に襲われて、アルトは思わず目を細める。何であれ、この場を邪魔されたくなどなかったのだが、頭痛は耳鳴りを伴って、徐々に痛みを増していく。アルトは手を止めなかった。しかし痛みに目を閉じて、

 思わぬ事態に愕然とする。

 アルトのまぶたの裏の世界に、舞い踊る風の姿はなかった。あるのはただただ赤い炎と、くすぶる黒い煙だけ。誰かの悲鳴が聞こえて、アルトは思わず息を呑む。そこが一体どこであるのか、その時になってようやく気づいた。

 マラキアだ。マラキア宮が燃えているのだ。

(なんなんだ、これは……)

 いやに現実味を帯びた幻影だ。アルトは炎の中を、ともかく駆けて見回った。逃げ遅れた人間が、最早誰とも判別できない黒い塊になっている。

「どうして、こんなことを――」

 耳の裏に、誰かの呟きがぽつりと落ちる。

「やつら、始めからそのつもりだったんだ」

「なら、今ではあの方の身も危ない!」

「お助けしなければ。今こそ、これまでに受けてきた恩へ報いる時なのだから――!」

 炎のはぜる音にかき消されて、今度は静寂が辺りを支配する。

(これは、幻? だけど、それにしては……)

 夢の中であるかのように、思考が上手くまとまらない。そんな時、どこかから低い笑い声がした。

「お見事だよ。こんなにはやく、帰ってくるとはねえ……」

 言葉と一緒に、気怠そうに拍手をする音が響いてくる。アルトの背筋に、冷たいものが走った。

 鳥肌が立つ。アルトは思わず、相手を確認しもせずに後退した。逃げなくては。どこか、安全なところまで――!

 ――それは一瞬の夢であった。アルトははっと目を開いて、少しの間呆然とする。拍手の音が一つ、静寂の大食堂に響いていた。

「見事な演奏だった」

 そう言ったのは、父王アドラティオ四世だ。アルトはぽかんとしたまま父を見て、ようやくバイオリンを肩から下ろすと、楽隊のメンバーへ視線をやった。

 誰もが皆名誉に頬を緩ませ、アルトの方を優しく見ている。元通りの大食堂だ。当然のことながら炎に焼けた跡など、どこにもない。

 どうやら、演奏は終わったようだ。アルトには途中からの記憶がないが、周りの人々の表情を見ればわかる。演奏は終わったのだ。それも、かなりの成功をおさめて。

 アルトは内心穏やかでは無いながらも、表情を引き締めて父王を向いた。今まであれほど無関心だった父王が、口の端に満足げな笑みを浮かべてこちらを見ている。拍手をする手を止めて、その口が静かに開いた。

「初めて聴く曲だ。それは?」

 アルトは思わず唾を飲み、それから出来る限りの平静を装って、答える。

「『風化した物語』と名付けました。まだ編曲して間もない曲で、こうした場で披露いたしましたのは、今日が初めてのことです」

「編曲は、マラキアの音楽家が?」

「その通りです。――メロディ部分のみは、私が」

「おまえはよく、曲を作るのか?」

「……いえ」

 アルトは困ったように、そこで一度言葉を切った。

「この曲、一曲だけでございます。それすら作曲と言うには及ばぬもので……ある時ふと、そのメロディが頭に流れてきたのです。私は、それを音楽家達に伝えただけのこと」

 父王はそれを聞き、「そうか、そうか」と頷いた。

 心が火照るようだった。

 それが何かしらの照れなのか、歓喜なのかはわからない。アルトは顔にまでそれが表れないようにと心の中で祈りながら、そっと元の席へ戻る。

「お前達も、ご苦労だった」

 王がそう声をかけると、楽隊も一同が深々と礼を取り、部屋を去っていく。その誰もの表情が誇りに照り輝くのを見て、アルトの心も再び、喜びに沸いた。

 先ほどの、あの幻影は何だったのだろう。思いはしたが、口には出さなかった。頭痛もとうに治まっていたし、今、あえてそんなことを言及するのは、愚かしいことのように思えたからだ。

「アーエール」

「はい!」

 父王に呼ばれ、アルトは即座に返事をした。してしまってから照れくささに内心汗をかいたが、取り繕おうにも既に遅い。気まずいまま顔を上げると、父王アドラティオ四世が、まっすぐにアルトを見据えていた。その表情は今、ぬくもりを添えて穏やかに笑んでいる。

 深いしわを刻んだ目元。冠を戴いた頭髪には白髪が入り交じっているが、鼻筋はたち、その風格には思わず目を奪われる。

 王者の威厳。アルトはそれを目の前にして、唾を飲み込んだ。この人物が自分の父、そしてクラヴィーアの皇王なのだ。

「良い返事だ。――して、アーエール。年は確か」

「十四にございます。じき、ヨンゴの月を迎えましては十五に」

「そうか」

 そう言って王は、口元に蓄えた髭を指で撫でつけた。その視線が、机に置かれたアルトのバイオリンへと移る。

「十五ともなれば、この国ではもう立派な成人。おまえにもそろそろ、成人の儀を執り行わねばと思っていたのだ。ついてはその祝典を、首都スクートゥムでと思っている」

「首都スクートゥムで、でございますか?」

「そうだ」

 アルトの問いに、父王が迷いなく頷いた。しかしその一方で、あまりに突然の話に虚を突かれ、アルトは思わず息を呑む。

 一体、何がどうなっているのだろう。そう思わずにはいられなかった。成人の儀についてはかねがね話を聞いている。十五になった王族の男子が、内陸部にあるクラヴィーアの聖地ウラガーノへ赴き、王に連なる者の証したる金のチョーカーを得る、という至って簡潔なものである。しかし兄である第一王子はガレネー宮で、第二王子はメレット宮で、その後の祝典を行ったはずだ。そう、それぞれが自らの宮殿で祝典を行ったのだ。

 アルトも、自分はこのマラキア宮から聖地ウラガーノへ赴き、戻ったマラキア宮で祝典をあげることになるとばかり思っていた。

「スクートゥムにて祝典をあげていただけるなど、光栄です。しかし……お言葉ですが、父上。それでは兄上達がご不満に思われるのでは」

 父の真意がわからない。アルトなど今までは、慶弔の祭の時ですら、スクートゥムに赴くどころか、このマラキアの地を離れることすら許されない身であったのだ。そのせいで、どれだけ肩身の狭い思いをしてきたことだろう。

「構わぬ。お前には他にも、スクートゥムまで来てもらわねばならぬ理由がある」

「理由、でございますか」

 父王の顔をじっと見る。アドラティオ四世の視線は、いまもアルトのバイオリンを向いていた。

 先程までと同じだ。けっしてアルトと目を合わせない。そのことが余計に、アルトの不安をかき立てた。続いた王の言葉はある意味、アルトのそんな思いを裏切らないものであったといえよう。

「アーエール、お前の婚約が決まったのだ。相手方は一日もはやく当人同士の婚約の儀を、との熱望ぶり。祝儀の支度は、全てスクートゥムで揃えさせよう。お前はこれより必要最低限の身支度をし、聖地ウラガーノへ向かいなさい」

 アルトはしばらく、父の言葉の意図が掴みきれずに黙っていた。今、なんと言われたのだろう。婚約がどうとかと聞こえたような気がするが。

 全く訳がわからない。二人の兄達すら婚約などまだしていないのだ。確かに王侯貴族の中で、この三人の王子達にいつまでも婚約相手が定まらないことについて、前々から疑問の声が上がっていたことは知っている。だからこそ尚更だ。なぜ今、それもこれまで捨て置いていた第三王子に。

「今日を含めて、四日後だ」

 追い打ちをかけるように、アドラティオ四世がそう言った。

「私は明日、マラキアを発ちスクートゥムへ戻る。お前は四日後までに支度をし、ここを発つのだ。聖地へ赴き洗礼を受け、その足でスクートゥムヘ向かえ。馬車と近衛騎士をいくらか置いていくから、それを使うように。――マラキアの使用人達は、伴わなくて良い。向こうに十分揃えておく。宮殿中の者に別れを言っておけ。お前がマラキアに戻ることは、もう、二度と無かろう」

 一瞬にして、日常が崩れていく。

 理由を問いただすことは、出来なかった。その勇気がなかったからだ。

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