002 : Awakening

 その日は明け方近くから、日頃は深閑なマラキア宮が活気に満ちていた。鼓笛隊の奏でる軽快なメロディが宮殿の中を練り歩き、給仕の女達はその音に合わせて舞い踊るかのように辺りを駆けている。見れば既に仕事を終えたはずの者達まで、そわそわと落ち着きの無い様子で各自の持ち場を守っていた。

「おはようございます、殿下!」

「素晴らしいお天気で、何よりです」

 心なしか、宮殿の住人たちの声にも張りがある。アルトは躊躇いも無しににこりと笑うと、その一人一人に応えて歩いた。

(こんな日に、俺が不安顔なんてしちゃ駄目だ)

 言い聞かせる。この宮殿の主はアルトなのだから、しっかりしなければ。

 皇王の来訪を聞き、訪れた貴族達との挨拶は済ませた。着替えを終えたら、皇王の到着までにアルトがするべき仕事は終わる。それまでの辛抱だ。後は自室で、静かに待っていればいい。アルトは小さく、深呼吸をした。

 セーフリーム大陸北西部に位置するこの国、クラヴィーアは、その数の大半を占めるアルト達プリサ人、その他二十五の少数部族からなる、中規模国家だ。とはいえその数少ない領土のほとんどが温暖な気候の続く平原であり、また海岸線におかれた首都スクートゥムにある交易港が建国当初から国を支えていることから、豊かで国力のある国家として周辺諸国からも羨望を受けている。

 皇王アドラティオ四世には三人の息子がおり、彼は王子達に首都からは離れた宮殿を与え、それぞれの宮殿にいくらかの貴族と、それに見合う数の使用人と共に住まわせた。アルトの住むこのマラキア宮にも同じように貴族と使用人とが住んでいたが、王の訪れも少なく、首都スクートゥムに行くことすら許されない第三王子に、貴族達は魅力を感じなかったようだ。アルトにとっては幸いなことだったが、おかげで、普段のマラキア宮に貴族達の姿を見ることは、あまりない。

「殿下、お支度が整いました」

 給仕の声が聞こえて、アルトはゆっくりと目を開けた。広い部屋の中央で、大きな姿見が目にはいる。見ればその中に、豪奢なローブを羽織った少年が立っていた。

「ご立派ですわ、アーエール殿下」

 アルトはしばらく、鏡の中の自分を見ていた。深い青の生地に、金の刺繍。上着もズボンも細かい銀の細工で縁取られ、アルトの細い金髪までもが、珍しくすっきりと整えられている。

「先にアドラティオ四世皇王陛下よりいただきました布地より、今日のためにお仕立てしました」

「ああ……」

 困惑気味に曖昧な声を出して、それから大きく息を吸う。

「ありがとう。とても良い出来だ。皆にも、そう伝えておいて」

「勿体ないお言葉。わたくし達は殿下のためだけに、マラキア宮におりますのに。……けれど皆、喜びますわ」

 鏡の前で、袖を持ち上げてみる。後ろを向いて、もう一度鏡を振り返った。

 これが自分の姿だなんて、驚きだ。背はまだまだ小柄な方だと思っていたが、それでもこうしてみる自分の姿は、もう立派な大人のようだ。

「それにしても、本当に気持ちの良いお日和だこと」

 給仕の女が窓を開けると、暖かな太陽に晒された風達が、すうっと細く入り込んだ。まるで窓が、アルトの代わりに安堵の溜息をついたかのようだ。

 アルトは窓の外へ視線を移し、眩しさに目を細めると、静かに深く微笑んだ。

「宮殿の中を見回ってくる。父上がいらっしゃるのに、粗相があってはいけないから」

「殿下、その様なことは執事のナファンがやっていますよ」

「いや、私が自分でやりたいんだ」

 アルトは言った。くすぐったいような、何かふわふわとした不思議な心持ちがする。その何かが、アルトの口を動かしていた。

「この宮殿の主は、私だから」

 皇王の到着まで自室にこもっていれば良いと思っていた自分のことが、少し歯がゆく感じられる。そう、アルトはもう大人なのだ。

(今回の訪問は、それを父上にお見せする良い機会じゃないか)

 アルトはそう考えて、再び鏡を覗き込む。給仕の女が、その様子を見て微笑むのがわかった。

 

 宮殿内はよく片づけられ、床にも窓の桟にも、塵一つ見あたらない。アルトは満足げに宮殿内を歩き回ると、今度は庭へ出ることにした。折角の晴れ着を汚してしまうわけにはいかないので、裾をつまんで工夫する。

 城壁までとは行かなくとも、皇王が通るであろう道だけは、ざっと見て回るつもりであった。時間が許せば、こっそりデュオの所へ顔を出すのも良いかも知れない。デュオときたらいつもアルトのことを捕まえて、王族らしくない、ちっとも威厳がないとそればかり言うものだから、こんな姿を見せに行ったらどう言うか、反応を見てみたいようにも思う。

(いや、そんなことをしたら逆に子供扱いされるかな)

 折角、なんだか一気に大人になったような良い気分の所に、子供扱いをされるのは癪に障る。しかし皇王がマラキア宮に滞在している間は、馬番の所へなどなかなか会いには行けなくなってしまうだろう。

 そんなことを考えていると、すぐ近くから聞き覚えのある声がした。

「全く、皇王陛下の気まぐれにも困ったもんだ」

 驚いて、その場に身を竦ませた。アルトのいる場所は、声の主からは植え込みの影になって見えていないらしい。それでも隠れていると言えるような状態ではなかったが、下手に動くよりは見つかりにくいだろう。

(どうして隠れているんだ、俺は)

「その様なことを、大きな声で言うものではありませんよ。これから陛下がおいでになるというのに、誰かの耳に入ったらどうする気なのです」

「なに、陛下を迎える準備に忙しくて、誰も聞いてなどいないさ」

 ねちねちとした、嫌みな声。おそらくはアルトの又従兄弟にあたる、フェイサルだ。そうすると、話し相手はフェイサルの姉、ミラフィだろうか。二人はアルトが聞いていることにも気づかず、庭に備えられた天蓋付きのテラスで話し込んでいる。

「だって、そうだろう。最近は外交と称してあっちへふらふら、こっちへふらふら。ついにはあの魔女の国、藍天梁らんてんりょうにまで手を出して、正気の沙汰とは思えないね。かと思えば急に懐かしくなったなんて言い始めて、次は何年も放っておいた第三王子の所へ訪問なんて」

「あなたは陛下からアーエール殿下の身辺を任されていたのに、長年自分自身があちこちへ行って殿下のことをないがしろにしていたから、皇王陛下に会いにくいだけでしょう」

「意地悪なことを言う。姉上だってわかっているくせに。あんなお人好しで世間知らずな第三王子の世話をしている暇があったら、少し遠出をしても他の宮殿の第一、第二王子に媚びを売っておいた方が、まだ将来に繋がるとね」

 アルトは黙って聞いていた。自分の立場がどれほど弱いものであるかは、自信が最もよく心得ている。悔しくはない。怒りもわかない。もう慣れっこだ。それを承知で、貴族達の御機嫌うかがいをやめたのだ――。そう考えて視線を下ろしてみれば、先程は誇らしく思えた着慣れない正装が、やけに場違いなもののように思われた。

 王家に連なるものだけに着衣を許された鷲の刺繍も、このマラキア宮においては畏怖の対象になり得ない。音を立てないように溜息を吐くと、アルトはその場に背を向けて、そっと静かに歩き出す。

 言いたいように、言わせておけばいいのだ。退屈しのぎに他者の風評を語る彼らにとって、アルトが格好の餌食になることは、今に始まったことではない。

 しかし、それでも、――

「大体、アーエールの母モノディア。あいつがともかくいただけない。平民の出でありながら、皇王陛下をたぶらかしておいて、挙げ句の果てに自分で勝手に死ぬなんて」

 その話題が母の批判に繋がるのであれば、捨て置くことは出来なかった。

 重い鉄の棒で殴られたかのように、頭にかっと血がのぼる。アルトは静かに拳を握り、ぐっと奥歯を噛みしめると、もう一度声を振り返る。

「ただ死んだだけならまだしも、ちゃっかり王子を遺していくんだから始末が悪い。残り物の面倒をみなけりゃならない、こちらの都合を考えてほしいね」

 大きく一度息を吸い、じっと静かに目を閉じる。衣服を精々整えて、王族らしく胸を張る。わざとらしくない程度の、咳払い。聞いて、フェイサル達が慌てて言葉を途切らせたのがわかった。

 脅かしに行くのだから、口だけ笑えていればいい。目元くらいは怒らせたままの方が、空恐ろしく見えるだろう。

「おはようフェイサル。そしてミラフィ」

 植え込みの影から姿を現して、アルトは笑顔でそう言った。笑わせるのは口元だけのつもりであったのに、いつの間にやら目元までもがうっすらと笑んでいる。自然とそうなってしまうほど、フェイサル達の慌てぶりが滑稽だったのだ。

「殿下におかれましては、本日も御機嫌麗しく……」

 座ったままで不貞不貞しくそう答えたのはフェイサルだが、それだけ言うのに二度舌を噛んだのが聞いてとれる。

(間抜けめ。すぐに面の皮をはり直せないなら、こんなところで話さなければいいのに)

「殿下は、ここで一体何をなさっているのです」

「宮殿内の見回りを。父上は特に草木を愛されるお方だからと思ってここまできたのだが、庭師達が存分に手腕を奮ってくれた後のようだ。要らぬ心配だった」

 ようやくフェイサル達が立ち上がったのを横目に見ながら、アルトはテラスに備え付けられたベンチに、あえてどっかと座り込む。よく手入れされている。服が汚れる心配は無さそうだが、たった今までここでされていた会話のことを思うと、そう長くいたいとも思わない。この場はさっさと幕引きにしてしまおう。

「ところで……フェイサルはビオラの、ミラフィはピッコロの名手だったはず。実は明日、宮廷音楽家達が新しい楽曲を父上の前で発表することになっているんだ。貴殿等にもその前後に、ぜひ演奏を頼みたい」

 聞いて、二人が息を呑む。どちらも先日新しい楽器を仕入れたばかりで、自慢したいには違いないが、如何せんその腕前がついていっていないのだ。「そんな、あまりに急なことですので」断ろうとするのを見て、アルトはたたみ掛けるように、容赦なくこう言葉を続ける。

「なに、日頃から好んでいる、得意な曲を演奏してくれれば良いんだ。貴殿等ほどの腕なら、なんら心配ないだろう。先日も兄上のご要望だと言って、楽器を持ちメレット宮へ参じていたじゃないか」

 さらりと笑ってそう言うと、二人は青い顔をして、礼をとって去っていく。なんだかんだと理由を付けて逃げるにしろ、分不相応な楽器を持ってやってくるにしろ、好きなだけ恥を晒すと良い。

 にこにこと笑んで二人の背中を見送ると、しかしアルトは、大きく深く溜息をつく。小気味の良さはあれど、気分は少しも晴れやしない。

 フェイサル達に恥をかかせて、それで一体どうなるというのだ。なんにせよ、高揚していた気分がすっかり沈んでしまった。

 意気消沈したまま馬小屋へ向かい、デュオが留守なのを見て、もう一度深く溜息をする。馬番も、やはり皇王の訪問の直前ともなれば忙しいのだろう。それなら、邪魔をしてはいけない。

 アルトが宮殿内へ戻っていくらもしないうちに、高らかなラッパの音が聞こえてきた。皇王、アドラティオ四世の到着だ。

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