001 : Everyday Incidents

「森よ、森よ、彼の森よ。つとして眠るその幼子の、小さな体を支えておくれ」

 音楽室から聞こえるハープの音色に合わせ、アルトは呟くように口ずさんだ。自らがメロディを教え、宮廷音楽家に作らせている曲だ。

「月よ、月よ、彼の月よ。独り旅立つその旅人の、孤独な道を照らしておくれ」

 曲の大半は音楽家のアレンジが入っているが、清楚で、明るい、良い曲になってきていると思う。

 アルトが満足げに目を閉じて欠伸をすると、横たわった頭上から低い声がした。

「おいおい、こんな所で何やってんだ」

 声の主が誰なのかはわかっている。アルトはわざわざゆっくりと目を開くと、そのまましばらく、目の前に広がる空を眺めていた。風が強いらしい、雲がとどまるところも知らずに流れていく。

 アルトはそうして、雲の動きを見るのが好きだった。あの雲がいつかあの風車……煙突でもいい、宮殿の先の国旗にでもいい、引っかかってくれたなら、彼はそれをすかさず捕まえに行くつもりでいたのだ。捕まえた後のことなどどうでもよかった。いつか必ず、あのふわふわとした白いものを自分の手にしてやると思っていた。

 横たわっている地面に生えた草が小さくそよぎ、気持ちのいい音をたてている。このままもう一度目を閉じてしまいたい思いは山々だったが、声の主を敵にまわすと面倒だ。アルトがとろとろと上半身を持ち上げると、予想通りの人物が、いつもと同じように立っている。

「よくまあ、こう何度も俺の居場所を探し出せるもんだ。……なあ。そんなことばかりしてると、またしわが増えるぜ」

 アルトが軽い調子で話しかけると、相手は威勢良く鼻息をならしてこう返事をした。

「ふん、ケツの青いガキが。おまえだって近い将来こうなるぜ」

 太い腕に、健康そうな色の肌。アルトは相手の仏頂面を受け流すと、気にとめた様子もなく頭を掻く。

「……不敬罪」

「やれるもんならやってみな。俺がいなくちゃ、このマラキア宮殿中の人間が、おまえをさがして一週間のうち五日以上を無駄にしなきゃならなくなるんだ。使用人のほとんどが、俺の無罪放免を要求してくれるだろうさ。そうだろう? アーエール・ウェルヌス・ウェントゥス・ダ・ジャ・クラヴィーア第三王子殿下」

 呼ばれてアルトは顔をしかめたが、相手は気にする風もなく、笑った。

「長ったらしい名前をいちいち呼ばせんでくれ。舌を噛みそうなんだ。……ははっ。王子殿下にこんな顔をさせる使用人も、俺以外にはいないだろうな」

「うるさい。それより、デュオ」

 名前もまだ無いあの曲が、日当たりの良い庭の片隅で、未だに鳴り響いている。

 クラヴィーア王国領、ブリッサ地方に位置するマラキア宮殿。第三王子であるアルトのためだけに作られたこの宮殿には、いつも穏やかな風がながれていた。

「――腹が減った」

 それは、嵐の前の長い休息であったにすぎないのかもしれなかったが。

 

「一介の馬番に飯をたかる王族が、一体どこにいる?」

 デュオが顔を手で覆い、呆れた口調でこう言った。城の領土の最端にある小さな木造の小屋の中で、アルトは湯気の立ち上るスープ皿にスプーンを浸す。初めてここへ来た時に、デュオがどこかから探し出してきてくれたスプーンだ。馬番達はスープ皿を直に口に付けて飲むので、普段は需要がないらしい。

「ここのスープの方が美味い」

「……シェフが泣くぜ」

「泣かせておけばいいんだ。宮殿の料理は形式ばかりで疲れる」

「おいおい、トマトが嫌いだからって、トマトのコンポートを作ったシェフまで嫌いになってたんじゃ、きりがない」

 からかうようにデュオが言う。「誰が」と言ってアルトはデュオを睨め付けたが、それもあっさり流されてしまった。

「おかわりは?」

 デュオが何のこともないとばかりに、くっくと笑う。アルトは苦虫をかみ殺したような顔で座り直すと、スープ皿を空にした。

 初めて会った時から、この馬番、デュオにはついぞ適わない。アルトは一度大きく息をつき、スープをよそうデュオの背中、そしてその向こうの窓へと視線を移す。

 味の薄い、具の少ないスープの臭い。木で作られた粗末な小屋は、宮殿内の物置ほどの広さもないだろう。小さな埃っぽい部屋だがしかし、窓は大きく、外のすがすがしい風が吹き抜ける。それが冬は寒さを、夏は暑さを運んでくるのだが、アルトはその小屋が好きだった。宮殿の中では味わえない香り、味わえない風。けれど確実に命の営みが行われている、小さく完結した一部屋。

 デュオには妻も子もいなかったが、アルトはいつも、彼が本当の父親だったらどんなに良かったろうと思っていた。相談役であり、父親であり、友人でもある。自分が自分でいられる場所を作ってくれる唯一の人間だと、口には出さずとも、アルトはずっとそう思っていた。

 残りのスープを飲み干すと、アルトのためだけに置かれたナフキンで口元を拭い、毅然とした態度で演説する。

「大体、宮殿は食堂と炊事場が離れすぎてるんだ。だから冷める。ここみたいに一部屋になっていた方が効率的だ」

「そりゃおまえ、王族の食堂にネズミが大量発生したらどうするんだよ」

「それにあそこは無駄に机が長い。一人で食べるのに、あんなでかい机は要らない」

「庶民と同じような狭い机でせせこましく食べてたんじゃ、威厳ってものが……」

「黙って聞け。ともかく、宮殿は無駄なものが多すぎるんだ。他にも庭の噴水とか、やたら尖った屋根とか、それから……」

「前から思っちゃいたが、齢十四にしてつくづく妙な王族だな、お前は」

「それで何かまずいことでも?」

「いいえ、滅相もない」

 言ってデュオは口笛を吹く。アルトは軽くそれを睨め付けてから、溜息をついた。

「俺を宮殿に閉じ込めておこうってきまりだって、絶対に無駄なんだ。無駄ばっかりだよ。腑に落ちない。兄上達はある程度自由な外出を許されているのに、俺は何だ? 庭に出るだけでもあれこれとやかく言われて、忍び出れば有無を言わせず連れ戻される。俺が幼いからだってみんなは言うけど、知ってるんだ。兄上達は、もう十四にもなれば外交にだって行っていたし、軍事訓練にだって連なってた。大体……王子のくせに、国の首都であるスクートゥムにも行ったことがないなんて、とんだ笑い話だ」

 少々驚いたようなデュオの視線が、じっとアルトに向いている。アルトもそれに気づいていたが、あえてそれを避けるように、俯いた。そうして本人が出そうと思っているものより、よっぽど沈んだ声で続ける。

「俺のことが邪魔だから、出て行けって言うならわかる。国が欲しかったのは、他国との交流の鍵になる『姫』だ。王子が三人も要らないってことは、俺だってよくわかってる。その上、俺の母上は何年も前に自害されて……。みんな、影では陛下への裏切りだ、大切にされていたのに、恩を仇で返したって、そんなことばかり言う。――だったら俺なんか、さっさと追放してくれればいいのに。このままじゃ俺、一生宮殿に閉じこめられたまま、王になるわけでもなく、他の貴族みたいに社交界に行ってはコネを作り、どっちの宝石が大きいかとか、くだらないことばかり競い合うような……」

 そこまで言って、アルトは唐突に言葉を切った。そうして慌てた様子でデュオへ振り向いて、まくし立てる。

「別に、いつもこんな事考えてるわけじゃない! 俺は、泣き言なんか言うより行動で表す人間なんだ。だから……そのうち、あんな城壁なんか越えて城の外に出てやる。デュオにだって絶対見つからないような、遠くまで行ってやるんだ! いいか、今のはそういう宣戦布告の言葉だからな!」

 それまで静かに窓の外を眺めていたデュオが、ぷっと小さく吹き出した。アルトが睨むと口先だけで軽く謝罪して、苦笑したままアルトの頭をぽんぽんと撫でる。アルトは戸惑ったが、不思議と嫌な気分にはならなかった。

「わかったわかった。大丈夫。お前がこの世界の果てまで行っても、探しに行ってやるからさ」

「探しにこいなんて、一言も言ってない」

「そりゃ駄目だ。最近じゃ、馬の番よりお前を探す方が本職になってるから、思わず探しにいっちまうに決まってる」

 そう言って笑うデュオの顔を見上げて、アルトも一瞬微笑んだ。

「城の外へ行ってやる、っていうことについては……止めないのか?」

「お前の生き方は、お前が選ぶべきだろう。どうして止める理由がある?」

 どうしてそんなことを言うのだろう。

 言ってくれるのだろう。アルトはふと、もう何年も顔をあわせていない父王のことを思い出した。

「……あんたなら、よかったのに」

「何が?」

 デュオが首を傾げる。本当に適わない。自分に微笑み方を思い出させてくれたのも、よく考えればこの男だった。

(――今、俺が考えていることを話したら、この男は困惑するんだろうか。それとも……喜んでくれるだろうか)

 アルトは一瞬考えて、それから軽く、笑った。

「何でもない。それより、そろそろ帰る」

「今日は早いな」

「ああ。明日に備えて準備があるから」

 言ったそばから、アルトの表情がこわばった。緊張しているのだと、自分でもすぐにわかる。デュオもその事には気づいたようで、勇気づけるかのように、アルトの肩をぽん、と叩いた。

「気楽に。な?」

 頷く。

 簡素な窓から外を覗くと、広い庭の先に宮殿が見えた。石造りの壁に、碧を基調とした王国旗。クラヴィーア王国領、マラキア宮。それが高い城壁で囲まれた、アルトの知りうる小さな世界だ。

 そこへ明日、クラヴィーア国皇王アドラティオ四世、つまりアルトの父親がやってくることになっていた。

 三年ぶりの父との再会。緊張してこわばった顔など、デュオには見られたくはない。

 アルトは振り返らなかった。

 だから、その時のデュオが一体何を考えていたのか、アルトには知るよしもなかった。

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