第18話 『…ピーナッツバターだ』
翌日、午後三時前。
事務所の扉を叩く音が響いた。
訪問者は既に分かっている。
「はい」
「よ」
晴喜は右手を軽く挙げ、そのままその手を出迎えてくれた愛花の頭に置き、ぐりぐりと撫でる。
「悪ぃな、面倒な事になっちまってよ」
「それはいいんですが…背が縮みかねないので、止めてもらえませんか?」
鏡を見なくても、撫でられている頭頂部の髪が乱れていくのが分かる。
「おお、すまんな。…てか、一応気にはしてんだな」
「当たり前です!一年生の時からずっと、ずっと、ずーっと、最前列なんですから!」
「おー、そうかそうか」
「むぅ…」
「ま、冗談はこれ位にして…」
一昨日と同じく、二人掛けソファーの方に座る。
それに続き、愛花が一人掛けソファーに、直人も三人分のお茶を置いて、愛花の隣に座った。
「まずは…諸星節子の遺体が見つかった時の話からだな」
「はい」
「発見されたのは昨日の昼過ぎ。諸星節子が勤めているスーパーの同僚が、諸星節子が無断欠勤した事に疑問を抱き、アパートへ訪ねたのが始まりだ」
「無断欠勤…」
「今まで一度も無かったらしい…で、チャイムを鳴らしても返事が無く、扉を開けてみたら鍵は掛かってなく、チェーンロックだけが掛かっていたそうだ」
「成程…チェーンロックが掛かっている以上、中に居るのは確かですね…」
「そ。アパートの大家に即連絡し、チェーンロックを切って中に入ったら、諸星節子がぶっ倒れていたって訳だ」
「死亡推定時刻は?」
「発見より、約一日前…一昨日の昼過ぎだな」
「死因は?」
「…」
その質問に、何故か晴喜は黙り込む。
「?猪熊さん?」
「…ピーナッツバターだ」
「「…は?」」
二人同時にフリーズ。
「えと…ピーナッツバターと聞こえた気がしたんですが…?」
愛花だけではない。
直人の耳にもそう聞こえた。
「うん、ピーナッツバターだ」
「「ピーナッツバター…」」
これまた二人同時に復唱してしまう。
「ピーナッツバター」
晴喜も復唱するが、勿論二人には何も情報が増えていない。
「諸星節子はピーナッツアレルギーだったんだよ」
「あ…そういう事か…」
漸く理解出来た。
「諸星節子の傍に、開封したばかりのピーナッツバターの瓶とティースプーンが転がっていた」
「うーん…話を訊く限り、諸星さんが自らピーナッツバターを食べて亡くなったとしか…」
「が、検死をした医師がピーナッツアレルギーによる死因に疑問を抱いてな。警察に連絡し、尚且つ諸星節子と接触があった俺にこの件が回ってきたんだ」
「疑問?」
「あの…」
二人の会話を割く様に、愛花が手を挙げる。
「ん?」
「ピーナッツアレルギーによって亡くなる場合、どの様にして亡くなられるんですか?」
「人にもよるが…呼吸困難、血圧の急激な低下、強い腹痛や嘔吐で苦しみながら死ぬな。特に血圧低下から気を失うパターンは死に繋り易い」
「苦しみながら…」
「こういう症状を『アナフィラキシーショック』っつーんだが…知ってるか?」
名前だけなら二人共聞いた事がある。
アナフィラキシーショック。
アレルギー症状の中でも、生命の危機に陥った情況を指す言葉。
食べ物だけでなく、薬品や、毒蜂に刺される事で発症する。
特に薬品や毒蜂は直接体内にアレルギー物質が入る為、症状が食べ物より早く出、死に至り易い。
「その質問をするって事は、とうやら愛花ちゃんも気付いたな?」
「え?」
愛花は黙って首肯く。
「自殺にしろ他殺にしろ、これは不自然です」
「ど…どういう…?」
「自殺って、文字通り『自』らを『殺』す行動ですよね?」
「はい…」
「なら、わざわざ自らを苦しめる様な死に方ではなく、もっと楽に死ねる方法があるじゃないですか」
「あ…」
確かに。
同じ様に毒、今回の場合はアレルギー食品だが、口にするなら他に何かある筈だ。
例えば、青酸カリを飲めば即死だし、もっと手に入り易い睡眠薬を大量に飲めば本人も気付かぬ内に死ぬ事も出来る。
「じゃあ、誰かに無理矢理食べさせ…!?」
「いえ、先程も言った通りそれも不自然です」
そうだった。
「何かに混ぜられたならまだしも、ピーナッツバター単体を目の前にされて、口を開ける訳ないでしょう?」
「…ですよね」
「猪熊さん。諸星さんの傍にあった食べ物は、ピーナッツバターだけでした?」
「ああ、他の食い物は冷蔵庫に入れっぱなしだった。それと…」
「まだ何か?」
「ピーナッツバターの容器とティースプーンから検出された指紋を見る限り、やっぱり自分自身で食った様にしか見えなかったんだ」
「その指紋…諸星さんが死んだ後で、別の人によって付けられた可能性は…?」
「現代の科学捜査をナメんなよ?それが生きている時に付いたのか、死んだ後に付けられたのか位分かる」
「うーん…」
腕を組み、黙る。
「あ、それと…自殺と思われる根拠がもう一つある」
「「?」」
「死ぬ前日…つまり三日前だな。その日の夕方、諸星節子は仕事が終わった後、そこでそのピーナッツバターを買っていったらしい」
「諸星さん自身がピーナッツバターを…!?」
「入れ替りにレジに入った若いバイトが、ハッキリと覚えてたんだ。勿論、防犯カメラにも映っていた」
「じゃあやっぱり自殺…」
と思ったその時、直人は昨日の会話を思い出す。
「…そうだ!西森さんは!?」
ピーナッツバターのインパクトで、すっかり忘れていた。
「勿論、即でアリバイを訊きに行ったさ」
「それで…?」
「アリバイはあった。その日は朝から夕方までバイトだったとよ」
「そうですか…」
「…もしアリバイが無かったとしても、私は西森さんは犯人ではないと思います」
「え?」
愛花は少し伏せていた顔を上げ、直人の顔を見る。
「まず最初に…直人君は何故西森さんが犯人と思ったのですか?」
「それは…一応諸星さんに…何と言うか…ストーカー紛いな事をされたから…」
死者をこんな風に言うのには抵抗があったが、他に言葉が思い付かないのでありのまま言った。
「そのストーカー行為が鬱陶しくなり、殺害した…と?」
「はい…」
「…猪熊さん」
「ん?」
「一昨日の話の中で、『西森さんは根負けし、二回目のDNA鑑定に渋々協力した』って言ってましたよね?」
「ああ」
「『根負けした』という事は、西森さんは『もう関わりたくない』って思ってたんじゃないんですか?」
「その通り。最初こそは無視し続けていりゃ向こうが諦めるって思ってたらしいが、あまりにもしつこ過ぎたから協力したんだ」
「そんな人が、自ら面倒な相手に近付くとは思えません。むしろ、逆にもう関わらない様にするのが普通ではないでしょうか?」
「…それもそうですね…」
西森浅葱が犯人説が消え、振出しに戻ってしまう。
「うーん…」
再度腕組みをし、今度は眉間に皺を寄せて考える。
(本当にただの自殺なんでしょうか…?でも、このちぐはぐな感じは一体…?)
「あー…西森浅葱の事に関して、一つ気になる事があったわ」
「「気になる事?」」
「諸星節子の死因がピーナッツバターだって言ったら、西森浅葱の顔色が変わったんだよ」
「顔色が…ですか…」
「ああ。まるで、何かに気付いた様にな」
「…」
全ての情報を、頭の中で整理する。
(血縁関係が無いのに母親と名乗り、西森さんのプロフィールを言い当てた諸星さん…ピーナッツバターによる死亡……死因について、何かに気付いた西森さん…)
それらが意味する物とは何か。
そして八重の言葉でもある、信じるの言葉の意味とは。
「しかし…何故アレルギー食品なんて、身内しか知らない様な方法で…?」
「さぁな…俺としては、何故西森浅葱の母親という設定に
(…え?)
二人の会話から、愛花の頭に一つの可能性が浮かび上がった。
「まさか…おばあちゃんの言ってた『信じる事』って…!?」
「あん?」
「どうしました?」
二人の質問に耳を傾けず、今度はブツブツと呟き始める。
「それなら、全ての謎に説明が…!いえ、でも『あれ』は…!?」
「「?」」
「…直人君、少しパソコンを借りても?」
「?どうぞ」
愛花が使い易い様に、ノートパソコンを所長机から目の前のテーブルへと持ってくる。
電源を入れ、両手の人差し指だけでキーを押していく。
検索にはそれほど時間は掛からず、調べ始めて三、四分と言ったところか。
「…あった」
遂に『それ』が見つかった。
「二人共、これを見て下さい!」
「はい?」
「どれどれ…」
二人の目に入った、一つの記事。
それは常識を覆す程の、衝撃的な内容だった。
「これ…!?」
「マジか…!?」
それだけ言って、言葉を失う。
「どうです?もし諸星さんが『これ』なら、母親と名乗ったのも、西森さんのプロフィールを言い当てたのも、DNA鑑定に積極的だったのも、それに納得しなかったのも、全てに説明が付くとは思いませんか?」
「確かに…!でも、もし『これ』だったら…!」
「はい…!猪熊さん!」
「ああ、即座に手配する!」
全てが一本に繋がり始める。
あとは、実際にそうなのかを調べるだけだ。
「あ…でも、諸星さんの自殺の件は…?」
しかし、節子が死んだ理由がまだ分かっていない。
が、それも直人だけの様だった。
「今の記事を見て、見当は付きました…」
「え…!?」
「しかし、今は諸星さんの事が優先です。それも、諸星さんが『これ』ならば、説明が付くんですから」
つまり、まだ予想、想像の域を出ないという事だ。
「こっちはOKだ!」
「はい…では…」
軽く深呼吸をし、その大きな瞳を覆う瞼を開いた。
「残るは答え合せだけです…!」
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