第72話 追憶とカケラ
彼の背中が、森の奥へ奥へと走っていく。
「……兄さん、待ってよっ!」
僕はその背中を見て、置いていかれる恐怖に我慢出来ず、思わずそう叫ぶ。
――僕は無意識に彼を兄さんと呼んだ。
それはとても自然に。それが当たり前かのように。
何度も見た道。でこぼこしていて急な坂。
汗で張り付く半袖のTシャツ。
半ズボンだから、草がやたらさわさわと触れてくすぐったい。
眩しくて手を掲げ仰ぎ見る空には、地上を焼き尽くさんとばかりに、太陽は高く昇っていた。
暑い――。
しかしそれとは対照的に森に入ると、たくさんの大きな木々達が生い茂っていて、ひんやりとしたその空気は、呼吸をするとまるで肺の中を濡らすようだった。
涼しくてとても気持ちがいい風がなびいていて、照りつける日向から逃げるように自ずと木陰へと引き寄せられた。
そこら中に聞こえる蝉の声。
先を行く彼は虫取り網を片手に、どんどん森の奥へと入っていく。
「おにぃぃちゃぁぁぁん」
その時突然、後ろから女の子の声がして僕は振り返る。
そこにはピンクのリボンがあしらわれた可愛い麦わら帽子を被る少女が、もちもちした短い足で必死にとてとてさせて、僕を追いかけて来ていた。
その声が間もなく泣き声に変わってしまう気配がした僕は、急いでその少女の元に駆け寄った。
少女は僕をお兄ちゃんと呼んだ。
僕はふっと彼女が、自分の妹だということに気づく。
妹は片足が裸足になっていた。
妹の後ろを見やると、黄色いサンダルが草に埋もれているのを発見する。
前を行く彼の背中は僕らなどお構いなしに、森の奥へ奥へと消えていく。
僕は草と土で汚れた黄色のサンダルを拾い上げ、泣きじゃくる妹に履かせてやった。
呼び止めないと――僕は兄さんに置いてかれる。
そんな気がした僕は森の奥へ叫ぶ。
「おーい! にいさぁぁぁんっ!」
深い緑で光を遮られた薄暗い森。
名前は分からないけどとても大きく真っ直ぐな木々達。
騒がしく鳴く蝉の声に負けることなく、僕の声が森の中に響き渡る。
ガサッ……ガササッ……
目の前の草むらが、不自然に揺れた。
妹がそれを見て、泣きじゃくる声を飲み込む。
そして小さなもちもちした手で、僕の半袖のTシャツの端をぎゅっと掴む。
僕は得体の知れない何かが草むらに潜んでいると感じ、ごくりと唾を飲む。
何が来ても妹を守る。そう思い僕は身構える。
ガサッ……パキッ……バサッバササッ……
僕と妹はその音で体をビクッと震わせる。
次の瞬間――。
「ミーンミンミーーーーーン!! あははっ」
兄さんが大きな声で叫びながら、草むらから飛び出した。
兄さんはどこで拾ったのか、青色の光を反射するサングラスをかけていた。
その顔は、僕がよく見ていた昆虫図鑑の、蝉の顔の写真とそっくりだった。
「あはははっ! セミ人間だっ! どこで拾ったのさ!」
僕は思わず、大きな声を出して笑った。
――そうだ。
兄さんが、僕や妹を置いていくなんてこと、あるはずなかった――。
僕は兄がウケを狙ってしたことは、対しては面白くはなかったけど、兄が戻ってきてくれたことがとても嬉しくて、思わずお腹を抱えて笑った。
「ぉにいちゃん、セミ人間なぁん?」
うふふと妹ははにかみながら、兄さんと僕を交互に見る。
兄さんは、へへへって笑いながら、妹を抱き抱えて山を駆けていく。
夏なのに木洩れ日はとても穏やかで、僕たちを明るく照らしていた。
目が覚めるように真っ青な空。遠くにはもくもくと大きな入道雲が顔を出していた。
兄さんに抱えられたまま、脇腹をくすぐられ笑う妹。
それを見てけらけら無邪気に笑う兄さん。
僕はこの目に見える光景が、とても懐かしくなる。
目に焼き付くほど色鮮やかな世界。
永遠に続くと信じてた、幼き日の楽しい時間。
幸せという言葉以外に表現するのが難しいほど、僕にとっての尊い思い出。
僕はどうしてその顔を――すぐに思い出すことが出来なかったのか。
「兄さん――」
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