第70話 再会
兵達の手で研究施設の外に設置された野営テントの中で、僕は毛布に包まってウトウトしていた。
「休んでいるところすまぬ青年よ! 保護されたぞ、君の弟が!」
テントの入り口で顔だけを覗かせた大臣の声で、僕はハッとして飛び起きた。
僕は考える間もなく、脱ぎ捨てていたスニーカーにつま先を入れ、テントの外へ飛び出した。
城の外側の西門の近くから、数人の甲冑の猫がぞろぞろとこっちに向かっていた。
その小隊の中央に、見覚えのある薄汚れたローブを纏っている男が一人。
渡し守をしていた僕の弟だ。
僕は無意識のうちに、弟の方へ手を振りながら駆け出していた。
弟は僕に気づき、僕の顔を見たが、プイっとそっぽを向いた。
僕は弟のその表情を見て、振っていた手を静かに下ろし、その場で立ち止まった。
弟は記憶が無いのだから、仕方が無いんだ――。
僕の横にいた大臣は、何も言わずポンと僕の肩に手を置いた。
弟はそのまま僕を見ることなく、甲冑の猫に連れられて研究施設に入っていった。
「君から回収された不幸のチケット。数は少ないがそれで幾らか、彼の記憶は戻るんだろう?」
テントの方にいた猫の紳士が言った。
きっと少しでも僕を元気付けようとして言ったのだと思う。
「……せめて、君が兄であることくらい、思い出してくれたらいいんだがな」
ぼそっと言って、猫の紳士はテントの中に戻っていった。
「心配するな。きっと大丈夫だ。それに記憶は無くとも、家族は家族。兄弟は兄弟だ」
大臣がそう言って、僕の背中を押した。
そのまま僕は、居ても立っても居られなくなり研究施設へと駆け出した。
「何これ。この中を通るの?」
僕が弟の後を追って研究施設に入ると、弟は不思議そうに机の下の書物のトンネルを指差して、助手の猫に問いかけていた。
「はい、博士が奥に。すみません。整理が済んでなくて……」
申し訳なさそうに丸眼鏡を触りながら、助手の猫は答えた。
弟は助手の猫の答えに戸惑った様子で、その書物のトンネルに入るのを渋った。
「いいから入りな。大丈夫だから」
その様子を見かねた僕は、弟より先にトンネルに潜り込んだ。
トンネルを抜けてしばらくすると、不満そうな顔をした弟もトンネルから顔を出した。
僕は弟のその顔を見て、ふふっと思わず笑ってしまった。
子供の頃を思い出したのだ。
祖母の家の裏山にあったボロい小屋で、僕らは昔、秘密基地を作った。
そこへ辿り着くためには、木で生い茂ったトンネルを抜ける必要があった。
僕はそうやって苦労して、やっと秘密基地に辿り着けるという事に、男のロマンのようなものを感じていたのだが、弟からすると蜘蛛の巣や土にまみれるのがとても不服で嫌だったようだ。
その時も同じように、弟が不満そうな顔をしていたのを、僕は思い出したのだ。
「なに? 何がおかしいの?」
弟は少し怒ったように言った。
「いや、何でもないよ」
僕は何とか笑いをこらえて答えた。
大臣の言葉の通り、記憶を無くしていたとしても、僕の弟に変わらないのだなと思った。
「やぁ! やっと帰って来たか。久しぶりだね」
壁に数式を書いていた博士が、脚立の上から弟に声を掛けた。
弟はバツの悪そうな顔をして俯いた。
「……その、逃げて……すみません、でした」
ぼそぼそと弟は言った。
「大丈夫。こちらこそ対応が遅くなって悪い事したね」
博士は脚立から降りながら言った。
「そんな……大臣さんも貴方も、とても心配してくれたのに。僕は……」
弟は拳をぎゅっと握り締め、申し訳なさそうに博士に言った。
どうして弟は記憶を失った後、病室から逃げ出してしまったのか。
どうして記憶の回収施術の時、全ての記憶を投入口に投入してしまったのか。
僕はその理由がわからなかった。
弟は何を思ってそう行動したのだろうか。
僕には想像もつかなかった。
僕はその理由をどうしても聞きたかった。いや、聞く必要があると思った。
でも今の記憶を失ってしまった弟にとって、僕はただの赤の他人と同じようなものだ。
だから僕がその理由を聞くのは、弟の記憶が戻ってからじゃないと意味が無い。
僕は今はその時では無い。と言葉を飲み込んだ。
弟は博士と助手に連れられ、あの診察台のような椅子とヘッドギアのある奥の部屋へと連れられて行った。
僕は弟のその背中を、ただ無言で見守ることしか出来なかった。
肩を落とした僕は一人、ため息をついた。
そして部屋の隅にあるサイフォンを見て、あることを思いつく。
もし記憶が戻れば、きっと弟はコピ・ルアクを喜んでくれるはず。
僕はそう思い、またコーヒーを淹れようと準備を始めた。
弟の、家族との記憶が戻ることを願いながら――。
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