第69話 弟の居場所

「貴方を探しておりました。この二年間――」


 一人の女性を渡し舟で渡し終えた直後の僕に、甲冑の猫は言った。

 とうとう彼らは、渡し守になりすました僕を見つけたようだ。

 彼らはこの三途の川の船着き場を、まるで包囲するように身を潜め待ち受けていた。

 そしてその甲冑の猫は僕の前で跪いた。

 それはとても丁寧な所作だった。


 ――僕はまた、あの病室に戻るのだろうか。


 僕は渡し守の仕事を通して、自分がどういう境遇にあるのか理解を広げていた。

 ある時は仕事仲間である猫ではない労働者たちとの世間話。またある時は渡し舟に乗せた客から聞かされる話。

 それらの話は自分にとって、全て未知の話ではあったのだけれど、僕にもきっと現世というところで生きていた過去があったはずだった。

 何故記憶が無いのか、そして失くしてしまった記憶はどういったものだったのか、僕は次第にそれに好奇心を持つようになっていた。




 ここの労働者達や、ハチワレ猫のおじさんのヌシは、恐怖と不安で病室から逃げ出し、転がり込んできた僕を、何も言わず受け入れてくれた。


「坊主。お前記憶がねぇんだってな――」

 ヌシはそう言いながら、僕専用の寝床まで作ってくれた。


「大丈夫、安心しろ坊主。ここには永遠に終わりのない仕事がある。俺ら渡し守は、いつだって猫の手を借りたいほど人手が足りねぇんだ」

 相変わらずガタイのいい料理番の男は、ある時僕にそう言って自信作のオムレツを振舞ってくれた。


 僕と同じように渡し守として働く、人間の労働者に顔見知りも増えた。

 仕事を覚えるのが早かった僕を、彼らは快く受け入れてくれた。


「あんちゃん、ワイの息子と歳同じくらいやから、なんか懐かしくなんねんよな」

 僕の隣で昼食を一緒に取っていたのは、渡し守のげんさんだった。

 ケタケタ笑いながらそう言う源さんは、いつも僕にきんぴらごぼうの入った小鉢をくれた。

 源さんは五十歳近いのにもかかわらず、筋骨隆々きんこつりゅうりゅうで職人肌のおじさんだった。


「ははは! 源さんの息子はこんな男前違うやろ!」

「何言うねん! ワイの息子、モデルやってんねんぞ!」


 僕は労働者が集うこの休憩所で、みなで世間話をして戯れる休憩時間が好きだった。

 今日案内した女のおっぱいが大きかった。とか、この前案内した男は現世で芸能人だったやつだ。とか。


「ワイはな、はよぅ徳積んで転生すんねん。家族はええよなぁ」

 源さんはとても働き者で、一日に八名も案内する渡し守の中で結構古株だった。

 もうすぐ積んだ徳が水準に達し、転生希望を出す予定だと聞いていた。


「源さんはもうすぐ転生ですよね? 転生したらどうするんですか?」

 僕には現世がどういうところなのか、全く思い出すことは出来なかったが、源さんや他の労働者達の様子から、とても良い所なのだろうと想像はしていた。


「んなもん、決まってるやん。また仕事頑張って、べっぴんさん嫁に貰って、子供こさえて、家族を持つねん!」

 源さんは嬉しそうに、前歯の無い口をニカッとさせて笑ってみせた。


 僕には現世の記憶が無い。

 いつか現世へ――と願う労働者のみなを見て、僕は現世がどれほど素敵なところなのか考えるようになっていた。


 数日後、源さんは転生希望の列に並ぶため、渡し守のみんなに別れの挨拶をして回っていた。


「ようやったな。生まれ変わっても今度は簡単に死ぬでないぞ」

 ヌシの言葉で源さんは涙を流し、それ以上は何も話すことが出来なくなっていた。

 僕を含めた渡し守達は、源さんのその背中を称えるように送り出した。

 その別れに涙するものもいたが、みな笑顔だった。


「源さん、幸せ・・に――」

 僕の言葉で源さんは、背中のままで右手を挙げて返事した。





「誰かがやってくれる、じゃねぇ。これは俺たちがやらなきゃいけねぇんだ」

 ヌシが口癖のように言うその言葉は、僕に居場所をくれた。

 僕はすぐに渡し守の仕事に慣れ、日に多くて六名案内できるまでになった。

 ここでの生活はたった二年だけど、僕の世界の全てだった。


 自分は何者なのか――。


 まるでその心の大きな空洞を埋めるように、休む間もなく来る日も来る日も死者達は訪れ、三途の川を渡っていった。

 でもある時、僕を『弟』と言う男が現れた。

 僕を知っている死者が現れたのだ。

 でも僕は、彼を思い出すことは出来なかった。

 とても必死な形相の彼を見て、僕は怖くなった。

 そして僕はまた逃げてしまったのだ。


 あの日から僕の胸の中は、モヤモヤして仕方なかった。

 でも僕にはどうすればいいのか、わからなかった。


 あの病室に戻れば――。


 僕がそう考え始めた頃、甲冑の猫が現れた。


「博士も大臣も……そして貴方のお兄様も。貴方の身を案じ、お待ちです」

 ここでの生活は、潮時なのだろう。

 僕は甲冑の猫たちに取り囲まれていた。

 逃亡は許されないようだ。

 周りの労働者達は心配そうに見ていた。

 労働者の中の一人が、甲冑の猫を蹴りつけた。

 それを見た他の労働者も、他の甲冑の猫に掴みかかる。


「やめぬか! 王のめいであるぞ! 王国の危機なのだ!」


 一人の甲冑の猫がそう叫ぶと、労働者達は手を止めて一同が僕を見た。

 僕はみなに迷惑が掛けたくない一心で、甲冑の猫のその言葉に抗うことなく、ついていくことにした。

 僕はもう二度と、ここに帰ってこれない気がした。

 その時、川のほとりの方から大きな叫び声が聞こえた。


「坊主! ここは大丈夫だ! 無理して帰ってこなくてもいいぞ! だがな、帰る所が欲しい時は、いつだって帰ってきていいんだ! ここにはいつだって、お前の居場所はあるんだ!」

 甲冑の猫に連れられる僕に向かって、ヌシが叫んだ声だった。

 ヌシに続いて、口々に僕へ別れの言葉を叫び始める労働者達。


「幸せになれよ!」

「元気でな!」

 僕は声が詰まった。


「――ありがとう」

 誰にも聞こえないほど微かな声で僕は、ぽつりとつぶやいた。

 別れが惜しいのか、それ以上は言葉を発せなかった。

 そして僕は振り返ることなく、甲冑の猫たちについていった。

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