第65話 追憶の夏
「……おい……キミ……大丈夫か……しっかりしたまえ」
声が聴こえる。
博士の猫が僕を呼ぶ声だ。
「う……ん……?」
ヘッドギアを外され頭が軽い。
視界はとてもクリアだ。
「良かった。キミはどうやら気を失い、少しの間だけだが眠っていたようだ」
僕の顔を覗き込む博士はその特徴的な模様のチョビ髭を、むにむにと動かして話す。
助手の猫は安心した様子で、ふぅっとため息をついた。
僕は目をこすりながら、診察台のような椅子から身を起こす。
すると僕の頬に一筋の涙が流れていることに気が付いた。
僕はその涙の理由をなんだろうと考えてはみたものの、何か悪い夢を見たような感覚はあったのだが、何も思い出せずにいた。
「あの……」
僕は何が何だかわからず、何故この椅子に座っているのか、その理由も思い出せず声を出す。
「ああ、成功したよ。キミに流れ、わずかに残った『不幸のチケット』は、無事回収に成功した」
僕はその博士の回答で、僕がこの椅子に座っていた理由を思い出した。
でも、やはり涙の理由は思い出せなかった。
「じゃあ、そのわずかな『不幸のチケット』で、少しでも僕の弟は記憶を取り戻せる?」
「うん、なんとかなるだろう。しかし、あくまでもこれは断片的なモノ。どんな記憶が取り戻せるのかも保証は出来ないが」
「一体、どうすれば……」
僕には到底考えつきもしなかった。
記憶喪失っていうのであれば、ショック療法とかそういうのが有効かもしれない。
しかし記憶を取り出すことの出来る技術によって、それは見える形で取り出されてしまったのなら、どれだけショックを与えたとしても、無いものは無いのだ。
散らばってしまった『不幸のチケット』、僕はそれをいくつも消費した。
その消費されたチケットによって生まれた新たな不幸は、僕にとっての不幸の記憶だ。
それは明らかに、弟の記憶ではない。
頭を悩ませる僕を見て、博士が声を掛ける。
「少し調べる時間が欲しい。もしかすると黒き者が発生した現象に、何か関係があるかもしれない」
そう言うと博士はまたディスプレイの方を見て、キーボードでカタカタと打ち込み始める。
助手の猫は冷えた水が入ったコップを渡してくれたので、僕はそれを飲み干した。
「奥にベッドがあるので、良かったら使ってください」
助手の猫がそう言って、奥にある扉を指し示した。
不思議と身体がだるい。
さっきのチケットの回収処理ってやつのせいだろうか。
涙の理由は結局分からなかったけど、僕はどっと疲れが出ていた。
重い身体を立ち上がらせ、奥の部屋へと進む。
まるで運動会の次の日のようなだるさ。見かねた助手の猫が、僕に肩を貸してくれた。
奥の扉を開くと部屋の中央にあるソファーで、既に猫の紳士と大臣の猫が
二人は何かお酒のようにも見える、ミルクのような液体を酌み交わし、ウダウダと話し込んでいる。
僕は助手の猫の案内で、部屋の隅にあるベッドに横たわった。
なんだかとても疲れていて、僕はすぐに眠ってしまいそうだった。
「おいおい、大丈夫か? 妙に疲れておるようだが」
僕の様子を見て、猫の紳士が言った。
「仕方あるまい。言うてもまだ、こっちの世界に来てまだ間もないのだろう? 気疲れして当然だろう」
猫の紳士の言葉に、大臣の猫が返す。
「そういえば、弟の方はまだなのか?」
「うむ、確かに遅いな。そろそろ部下がここへ連れてきてもいい頃だが。そうでなくとも報告くらいはあってもいいはず」
猫の紳士も大臣の猫も、うーんと唸っていた。
僕は二人の会話は
二人はそれから遅くまで、何かを話していた。
その会話の内容はよく分からなかったが、「あいつはどうだった」とか「あそこのあれは美味かった」とか、まるで昔を懐かしむような感じの話だった。
僕はその話し声に聞き耳を立てながら、ウトウトと
「……兄さん、待ってよっ!」
兄は森の奥へ奥へと走っていく。
何度も通ったことのある道だが、でこぼこしていて坂がとても急なのだ。
汗ばんで張り付いた半袖のTシャツ。
半ズボンからすらりと延びる脚を、時折草がチクチクとくすぐってくる。
太陽はじりじりと僕たちの肌を焼くように照りつけていたが、森の中に入った途端にひんやりと湿気を帯びたような空気でとても心地が良かった。
蝉の声が至る所から聞こえると、兄は虫取り網を片手にみるみると奥へと進んでいった。
僕の後ろには小さな麦わら帽子を被った妹が、もちもちした短い足で、とてとてと必死について来ていた。
「おにぃぃちゃぁぁぁん」
妹が後ろで泣きそうな声で叫ぶ。
妹は黄色いサンダルが脱げてしまったようで、前を行く僕を呼び止める。
兄は僕らなどお構いなしに、どんどんと山の奥へと駆けていく。
僕は妹の元に駆け寄って、草と土で汚れた黄色のサンダルを、妹の白い餅のように柔らかい足に履かせてやった。
「おーい! にいさぁぁぁんっ!」
僕は森の奥の兄へ、大きな声を上げて呼びかける。
大きく真っ直ぐそびえるスギやヒノキ。
深々と茂る木々の葉が陽を遮り、薄暗い森の中。
僕の兄を呼ぶ声は、その森の中をやまびこのように響き渡った。
ガサッ……ガササッ……
奥の草むらが、何やら怪しく揺れる。
それを見た妹は、わーわー声を出していたのを辞める。
怯えた妹は黙りこくって、ぎゅっと僕の半袖のTシャツの端を掴んだ。
イノシシか、熊か。僕はごくりと唾を飲んだ。
そして揺れた草むらに向かい身構えた。
ガサッ……パキッ……バサッバササッ……
「ミーンミンミーーーーーン!! あははっ」
わっと草むらから飛び出したのは、イノシシでも熊でもなく、先を行っていたはずの兄だった。
兄はどこから拾ってきたのか、片方のつるが取れた大きめのサングラスを掛けていた。
「あはははっ! セミ人間だっ! どこで拾ったのさ!」
僕は葉っぱにまみれて、壊れたサングラスを掛けている兄を見て腹を抱えて笑った。
確かに虫に見えなくもないが、
「ぉにいちゃん、セミ人間なぁん?」
妹はそもそも蝉の事をよくわかっていないようだ。
兄は、へへへって笑いながら、妹を抱き抱えて山を駆ける。
照りつけるような日差しが、木洩れ日となってチカチカと僕たちを照らしていた。
ちらりと覗く真っ青な空には、大きな大きな入道雲が見えていた。
僕が目を覚ました頃には、猫の紳士と大臣の猫の二人はソファーで、すーすーと寝息を立てていた。
僕は懐かしい頃の記憶を夢に見た。
その夢は目が覚めた今でも忘れることはなく、脳裏に鮮明に残っていた。
だけど自分の記憶していた夢と違い、少しだけ違和感を感じた。
あの夏、確かに僕らは祖母の家の裏の山に虫取りに出かけた。
でも夢の中での
そして
不思議な感覚だった。
でもそれはとても懐かしく、楽しい思い出だった。
突然、部屋の扉がバンッと開く。
「おい、みんな起きてくれ! 幸福バランサーが大変なんだ!!」
博士の慌ただしい声で、ソファーの二人は飛び起きる。
僕は部屋のテーブルにあったサイフォンで、目覚めのコーヒーを淹れているところだった。
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