第64話 わずかな不幸チケット

 病室で妹が僕の左手を握り、泣いていた。

 まるでこの世界の終わりが訪れたかのような表情で。


 ベッドに横たわっている僕は、頭の部分が包帯で巻まれていて、人工呼吸器を取り付けられていた。

 妹が握っている僕の手は左手。右手はどうやら車との接触で折れたのだろう、重々しいギブスのようなものがついていた。

 ベッドの横の小さなパイプ椅子に座っている妹は、小さく肩を震わせ、その手を離すことなく、じっと僕の顔を見つめていた。

 時折頬を伝う涙を、もう片方の手に握り締めたハンカチで受け止めるようにして。

 病室の中はとても静かで、妹がすすり泣く音と、人工呼吸器の吸排気の音、そして心電図モニターの機械音が、一定のリズムで鳴り響いているだけだった。

 その音は僕がまだ生きていることを誇示するようだった。

 病室の窓際では、父が頭を抱えうつむいていた。

 そこには母の姿はなかった。

 窓からは眩しいほど西日が差し込んでいて、無機質な病室の中をセピア色に染め上げていた。

 ベッドの横に置いてあるデジタル時計が指し示していた日付は、僕が事故に遭った次の日の夕暮れを指していた。


 ――これは夢なのだろうか。

 それとも僕は、現世に戻ってきたのだろうか。

 でも僕は、ベッドで眠る僕自身の姿を見ている。


 自分の手をじっと見た。

 意識ではここ・・に手があるのに、ここには手が無く、病室の床が見えるだけだ。

 僕は幽体なのだろうか。

 でも透き通った身体すらも僕にはない。

 ここにあるのは、僕の意識だけなのだろうか。

 声を出してみた。

 だが僕の声は音として発されることはなく、僕の思考の中で声が鳴り響くだけだった。


 トゥルルルルッ! トゥルルルルッ!


 突然その時、病室の沈黙を破る様に人工呼吸器のアラームがけたたましく鳴り始めた。

 さっきまで等間隔で上下していた心電図モニターの波形は、素人が見てもその異常性が分かるほどに激しく波打っていた。

 その音でハッとした父はベッドに駆け寄り、即座にナースコールを押した。


 <ザッ――はい、ナースステーションです。どうしましたか?>


 スピーカーからは、落ち着いた様子の女性の看護師の声。


「息子が急変したようです! 早く来てください!」

 父はスピーカーに必死に叫ぶ。


 <わかりました。すぐ向かいます――ブツッ>


「あぁああぁあっ、おにいちゃぁぁあああぁあ」

「おい! お前まで逝ってしまうのか! しっかりしろっ」

 妹は泣き叫び、父も取り乱し始める。


 するとすぐにバタバタと数人の看護師と医師が病室に駆けつけた。

 一人の看護師は、妹と父をなだめるようにして、僕の身体から引き剥がす。

 騒がしく鳴り響くアラームの音。

 医師が看護師に指示を叫ぶ。

 心肺蘇生を始める医師。

 看護師は人工呼吸器を外し、ポンプのついたマスクを取り付ける。

 僕の胸の辺りを一定のリズムで圧迫する医師。

 その心臓マッサージのタイミングに合わせ、マスクのポンプを押す看護師。


「AEDを!」

 医師が怒鳴る様に叫ぶ。

 医師の心臓マッサージと看護師の人工呼吸の手を止めることなく、別の看護師が僕の衣服を開き、胸の辺りにパッドを取り付ける。

 AEDから機械的なアナウンスが流れる。


「電気ショックいきます! 離れてください」

 看護師が合図すると、医師も看護師も手をパッと上げ離れた。

 ベッドに横たわる僕の身体が、一瞬ピンと伸びる。

 AEDから一時中断のアナウンスが流れると同時に、医師と看護師が再び心臓マッサージと人工呼吸と始める。


 何度も何度も繰り返す。

 何度も何度も――。


 だが僕の心臓は、再び自ら動き出すことはなかった。

 医師が手を止める。

 静かに告げた医師の言葉で、病室の隅で小さくなっていた妹は泣き崩れた。

 父は病室の壁を殴りつけ、目頭を押さえながら俯く。



 ――僕は死んだのか。



 僕がそう思った瞬間、再び父が病室の壁を殴りつけた。

 病室の床に泣き崩れたはずの妹は立ち上がった。

 医師は再び、心肺蘇生を開始する。

 看護師が人工呼吸器を僕の口に当て、ポンプを押し始める。

 別の看護師は僕に取り付けたAEDを取り外す。

 しばらくして医師と看護師たちは、後ろ歩きで病室を出ていった。

 ナースコールを押した父は、病室の窓際に戻る。

 そしてベッドの横で静かに、妹はまた僕の手を握りしめた。


 まるでビデオが逆再生するように、すべてが巻き戻っていく。

 病室に置いてあるデジタル時計の数字は、ゆっくりと減っていた。

 西日に染められてセピア色だった病室は、蛍光灯で照らされた無機質な色へと戻っていく。

 とても奇妙な光景だった。


 その時僕は、ある事に考えが至り、ハッとした。

 これはきっと、僕の身に起こるはずだった不幸の未来だ。

 僅かに残された不幸のチケットを、もしも回収していなかったら――。


 僕がそう確信した瞬間、僕の意識はふわふわと空に吸い込まれるように浮き始める。

 僕の意識はベッドに横たわり目を閉じている僕自身を、上から見下ろした。

 少しずつ、少しずつ、ベッドの僕から離れていく。

 天井の辺りから見下ろす病室内。

 妹が僕の手を握り締め、父は窓際に立ち、外の景色を見ているようだった。

 やがて病室の天井を通り抜け、僕の意識はそのまま病院の上空をふわふわ漂う。

 なおも上昇は続き、病院がどんどん遠ざかっていく。

 雲を抜けた途端、とても眩しい光に照らされ、僕の視界は真っ白になる。

 そしてまた、僕の意識はフッと遠のいた。

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