第63話 不幸の代償

「つまり――」


 博士は冷静に続ける。

 いや、内心はどうだろう。

 言葉を選んでいる様子から、平静を装っているようにも見える。


「弟の記憶はほとんど戻らない。戻ったとしても、ごくわずかな記憶のみだろう」

 僕はそれ聞いて、深い絶望感に襲われた。

 まるで暗い水の底に、突き落とされたような気分だった。


「キミに流れ込んだのは『不幸のチケット』だ。それはキミの弟の『幸福な記憶』から出来ている。だから彼の『幸福な記憶』はもう――」

 博士は淡々と、説明を続けようとした。


「何故、こんなことに――」

 博士の説明を断ち切る様に、僕はぽろりと口に出す。

 その理由は分かりきっていた。

 でも、博士は僕の言葉に反応して答えた。


「キミに降りかかった不運は、きっと相当なモノだっただろう。消費量からうかがい知れる。この量は恐らく、死と等しいほどの不幸を経験したはずだ」


 その通りだった。

 僕はそのせいで、何度も何度も自殺未遂をした。

 僕は唇を噛み締めた。

 僕がその不幸を体験したことで、弟の幸福な記憶は戻らない。

 とてもやるせない気持ちでいっぱいになった。

 良いことなんて、何一つ無い。


「だが――」

 博士は僕の鬱々とした気持ちを、まるで裏切る様に続けた。


「こう考えると良い。キミの所持してるチケットは、もう幸福のチケットしか残されていない。要するにキミはこの先、幸運しか待ち受けていないのだ」


 僕は不意を突かれた気がした。

 当然だが、その発想は無かったのだ。


「そんな、でも……」

「ああ、もちろんキミの弟の記憶についてはどうにかしないとだ。このままモヤモヤした気持ちでいるのは私も堪え難い」


 どうにかしたい――。


 僕が現世に戻ったとして、その先に待っているのが、とてつもない幸運ばかりだったとしても、弟がこのままなのはどうも腑に落ちない。


 ――不幸の分だけ、幸せが待っている。


 でもそれは僕にとって、本当の幸せなんだろうか。

 いや、きっと後ろめたさやもどかしさがどうしても残る。


 『弟が何を思って記憶を全て捨てたのか』


 僕はその理由が知りたい。

 僕はそれによって先に待っているのが幸福ばかりだとしても、死にたくなるほどの不幸の嵐を味わうことになったのだ。


 だから――。


「博士。僕、弟の記憶をなんとか全部戻したいです――じゃなきゃ、このまま現世に戻ったって――」


「そう言うと思った。もちろんだ。私も尽力させてくれ」

 博士は僕にそう告げると、にっこり笑った。


「だが、少し考える時間が欲しい。何か手段が無いか、考えたい」


「ありがとうございます……僕に何か、出来ることがあれば手伝わせて下さい」


「ああそうだな。よし、ではとりあえずキミに残されているそのわずかな不幸チケット。とりあえずそれを回収させてもらおう。わずかな記憶の断片ではあるが、キミの弟にとって大切な記憶なのは間違いないのだからな」


「わかりました」


 博士が助手に目で合図すると、再び僕はヘッドギアを被せられた。

 またヘッドギアのシールドで、僕の視界は遮られた。


「よし、では目を瞑って気を楽にしてくれ」


「はい」


 そう返事をした僕は、その診察台のような椅子にまるで身体を預けるように全身の力を抜き、そしてゆっくりと目を瞑る。

 助手がいくつかの機材のスイッチをパチッ、パチッと入れると、部屋中がファンの低い音が鳴りだす。


 ウィィィィィィン…………


「博士。準備が出来ました」

 助手の合図で、博士はカチカチとキーボードを叩き、マウスを何回かクリックした。


「よし、では不幸チケットの回収処理を開始する」


 博士の声と共に、僕の身体はフッと軽くなり、まるで空を浮いている感覚になった。

 そして部屋中に鳴り響いていた機械の低い音が、被っていたヘッドギアの中でぐわんぐわんと回りながら響いているような気がした。

 僕はそのまま意識が遠のき、気を失ってしまったのだった。

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