第十九話:暗闇を鳴らせ
風間の咆哮を聞いた岩澤は、観客席で顔をしかめた。
真っ向勝負だと……? ふざけるなよ。
コート上の風間を憎しみのこもった目で睨みつけ、ギリギリと奥歯を噛み締める。
こんな接戦に持ち込まれるなど、ただでさえ大失態だ。そのことを分かっているのか?
完膚なきまでにねじ伏せられ、絶望に顔をゆがめる明成の面々を見るのを岩澤は楽しみにしていた。途中まではまさにその願望通りの試合運びとなり、岩澤は上機嫌な笑みを浮かべながら試合を見物していた。
しかし今のこの有様といったらもう、不愉快極まりないものだ。明成の面々が希望に顔を光らせているのもまた、岩澤の苛立ちを助長した。
すべてはあの、大石佑太がコートに戻ってきてからだ。目を閉じてのシュートなど、そんなふざけたことがあってたまるか。
居ても立っても居られず、大八木にジェスチャーで指示を送ったが、今の風間の言葉はその指示とは真逆のものだった。
「負けでもしてみろ……ただじゃおかないぞ」
岩澤は低く呟くと、右の拳をガン!と観客席の座席に振り下ろした。隣の小峰がオロオロした様子でこちらを見るのが分かった。
真っ向勝負……? 今さら何を?
佑太は風間の言葉が可笑しく、思わずふっと小さな笑みを漏らした。
「そんなの最初っから望むところだろ、なあ佑太!」
隣の慶太が威勢の良い声を上げる。
「ああ、もちろん」
慶太の言葉に佑太が応じる。
「お前ら!」
後ろから高山の声が飛ぶ。
「ここまで来たらもう、難しいことは関係ない。気持ちだけだ。すべてをこのコートで出し切るぞ!」
「おっす!」
「はい!」
コート上の四人が高山の声に呼応する。
ピーッ!
試合再開のホイッスルが鳴った。
そこからは、お互いに死力を振り絞ったプレイが繰り広げられた。
佑太の連続3ポイントに鼓舞された明成のメンバーは、自信に満ちたプレイを見せ、果敢に海常ゴールに攻め入った。
一方の海常も、エースの風間を中心に大会四連覇中の王者の貫禄を見せつけた。風を掴み限界以上の力を発揮している明成の勢いに、決して屈することはなかった。王者らしからぬ、なりふり構わぬ闘志を剥き出しに見せながら、一本一本のシュートを何とかねじ込もうと全力を尽くしていた。
誰もが息をするのを忘れるような、一進一退の攻防が続いた。4分という時間が、まるで終わることのないような長い時間にも、一瞬の走馬燈のようにも感じられた。その不思議な時間の流れの中で、明成はジリジリ、ジリジリと少しずつ海常との得点差を詰めていった。
そして……
「高山さん!」
隙間を縫うような慶太のパスがインサイドの高山に通った。受けた高山が「おし!」と叫び、ゴールに振り返ってシュートを決めた。
「っしゃああああ!!」
明成ベンチと観客席から耳をつんざくような歓声が沸き起こる。残り時間27秒にして、明成は遂に海常を逆転し1点のリードを奪った。
「ナイッシュー!」
「おう!」
佑太は自陣に引き返す高山と、バチッとハイタッチを交わした。
遂に、遂に逆転した。
佑太は心が打ち震えるような感覚を覚えた。
「死んでもこの1本とめるぞ!」
「はい!」
ここをとめれば、勝ちだ。
体の隅々まで神経を研ぎ澄ませ、相手の動きを凝視する。もはや身体に疲労感は感じなかった。
ドクン、ドクン。心臓がくっきりとした拍動を伝えてくる。
海常のポイントカードがボールを運び、ハーフコートラインを越えた。
ボールが回る。
海常の面々が駆け回る。
佑太たちは必死でそれに食らいつく。
地鳴りのような声援。
パシッ。
佑太の眼前で風間にボールが渡った。
3ポイントラインの外。
ドライブに備えて佑太は身構えた。
「えっ……」
風間がその場でボールを掲げた。
佑太は意表をつかれた。
風間がコートを蹴り、シュートを放った。
3ポイントシュート。
会場が息をのんだ。
ボールが滑らかに回りながら進む。
スパッ。
会場の沈黙をネットの音が控えめに切り裂いた。
「うおおおおおお!!」
遅れて、海常ベンチと観客席から絶叫のような声が上がる。
残り9秒。
2点ビハインド。
「くれ!!」
慶太が必死の形相で叫ぶ。
高山がライン外から慶太にパスを通す。
慶太がボールをついて駆け上がる。
皆もそれに付いて走る。
ラストワンチャンス。
決めねば、終わりだ。
海常の戻りは早かった。
ゴール下はがっちりと塞がれた。
慶太は切り込めない。
残り5秒。
「慶太!!」
3ポイントラインの外から佑太が叫ぶ。
慶太が振り向き、すぐさまパスをよこす。
残り3秒。
あのときと、一緒だ。
佑太の脳裏に、一年前の全中の決勝がよぎる。
今度こそ……
無心で目を閉じ、コートを蹴り上げた。
最高到達点で、手からボールを弾き出す。
直後、試合終了を告げるホイッスルが響いた。
ギリギリ、シュートは間に合った。
運命は、宙を舞うボールに託された。
鳴れ。
佑太は暗闇の中で願った。
鳴ってくれ。今度こそは。
沈黙。暗闇。
雅史の顔が浮かんだ。
頼む……!
「佑太ー。行くわよ、準備できた?」
階段下から母の声が響いた。
「うん、いま降りるよ」
佑太は部屋の中から返事の言葉を返す。リュックを背負い、開いた窓を閉めようと窓際に向かう。晩秋も暮れ、いよいよ冬を迎えようかという時期にありながら、窓から差し込む陽の光は暖かだった。空には雲も少なく、からりとした気持ちの良い天気を肌に感じることができる。
佑太は窓を閉めると、階段を降りて玄関でスニーカーを履き、母の待つ車に乗り込んだ。
「じゃあ、出発」
母がそう言い、車のアクセルペダルを踏み込む。車がスーッと前に進み始める。
「こうやって二人で出かけるのも、なんだか久しぶりね」
「確かにそうかもね」
思い起こしてみると、確かに母と出かけたことなどしばらく記憶になかった。車内での久しぶりの二人きりの時間、交わす言葉はぽつぽつと頭の中に自然と湧き上がってきた。
穏やかで居心地の良い時間が流れた。
「着いたわよ」
車を停め、母が言った。佑太は扉を開けて車の外に出た。白塗りの壁のマンションが目の前にほっそりと立っていた。
やっと、来れたな。
感傷的な気持ちが、佑太の心の中にじんわりと広がった。
エントランスで、母が503号室のボタンを押す。すぐに、「はーい」と返事があった。
「どうも、大石です」
「お待ちしてましたよ。どうぞ」
エントランスの扉が開いた。エレベーターに乗って五階に上がり、503号室の扉の前に立った。部屋の表札には『景山』と記されている。
母がインターホンを鳴らすと、ややあって扉が開いた。
「お久しぶりー」
中から顔を出したのは、小さい頃に何度か顔を合わせたことのある雅史の母親だった。
「お久しぶり。急にお邪魔しちゃってごめんねー」
「ぜんぜんよ。佑太くんもお久しぶり。すっかり大きくなって」
「どうも。お久しぶりです」
佑太は少しぎこちなく頭を下げた。
「久しぶりに二人に会えて嬉しいわ。さあ入って入って」
佑太は母に続いて部屋の中に上がった。フローリングの廊下を進む。
「ここよ」
そう言って和室に案内された。室内を見渡すと、中央にコンパクトな造りの仏壇が備えられていた。
「失礼します」
そう言って部屋の中に入り、仏壇の前に移動して正座をすると、額縁に入れられた写真が目に入った。思わず目頭が熱くなる。
その写真の中で、雅史がにっこりと笑みを浮かべていた。
マサ兄……
佑太の頭の中に、雅史と過ごした日々、そして雅史がいなくなってからの日々が鮮明に映し出された。今にも零れ落ちそうな涙を、瞼をぎゅっと閉じてせき止め、佑太は胸の前で手を合わせた。
遅くなって、ごめん。
佑太は雅史に向かって心の中で語り掛けた。
それから、直接言えないのが残念だけど、ずっとずっと、本当にありがとう。マサ兄のおかげで、バスケと出会えた。マサ兄のおかげで、たくさん素晴らしい景色を見れた。全部を言ってたらきりがないけど、本当にありがとう。
「良かったわね、久しぶりに雅史くんと会えて」
目を開けた佑太に、隣の母が言葉をかけた。
「うん。迷ってたけど、来て良かった」
佑太は清々しい顔で答える。
「この後は、もうすぐに練習に行っちゃうのよね?」
「そうだね、バタバタして悪いけど」
「了解。せっかくだから一緒に買い物でもしたかったけどね」
「ごめんごめん。でもウィンターカップ、絶対勝ちたいからさ」
そう言った佑太の脳裏に、息をするのも忘れるようなあの時間が蘇る。
決勝のあの日、時間いっぱいでのラストプレイで放ったシュート。
ちょうど先ほどまでと同じように目を閉じた暗闇の中で、佑太は祈っていた。
頼む。
今度こそ、鳴ってくれ。
スパッ。
聞き間違えるはずもなかった。
その音は、紛れもなく……
取りつかれ、魅了され、ときに裏切られてきた、音。
その音が、鳴った。
目を開けると同時に、張り裂けんばかりの歓喜の声という声が、佑太の鼓膜をつんざいた。チームメイトがダッシュで駆け寄り、飛び付いてくる。佑太は皆と一緒に叫び、拳を天に突き上げた。
バスケって、やっぱ最高だ。
佑太の心は喜びに震えた。
もう、迷わない。逃げない。
ずっと、この場所で生きていこう。
佑太は座敷の中ですくっと立ち上がった。額縁の中の雅史の顔をじっと見据える。
見ててくれよな、マサ兄。
今度は俺が、もっともっと見晴らしの良い景色を見せるから。
何度だって、鳴らしてみせるよ。あの音を。
佑太は笑顔の雅史から視線を切り、その場から一歩を踏み出した。
暗闇を鳴らせ 羽田 悠平 @fanfar0-52
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