第4話

 薄緑色の若葉が鮮やかな街路樹を喫茶店の窓から眺めていると、急に小雨が降りだしてきた。雨に濡れないよう、ビルの軒下へと避難する人達。その中に小走りで駆けてくる彼女の姿をみつけた。雨に濡れたアスファルトの匂いが徐々に蔓延してきた灰色の街並を、そのまま暫く見続けた。自分の心の中もまた灰色だった。真っ白ではない、徐々に黒くなりつつある灰色。会うたびに色が変化していく。そんな自分自身を情けなく思い、恨みつつ、また一歩漆黒に近づこうとしていた。

 「…待った?」

 少し息を切らして店へと入ってきた咲雪の長く黒い髪は雨に濡れて輝いていた。

 「いや、ちょっとだけ。今日も仕事だったの?」

 咲雪は鞄から取り出したタオルで雨で濡れた長い髪を拭き始めた。

 「そうだよ。早く抜け出そうとしたんだけど、店長から急用頼まれちゃって…」

 そう言って、少しはにかんだ。隣町の小さな本屋で働いていて、安月給でしかも休日は月二日ぐらいしかないけど、それでも大好きな本に囲まれていられるので毎日が幸せだ、と咲雪は言う。

 小さな顔や声は昔のままだが、醸し出す雰囲気がまず違ったし、薄く化粧もしていて色気もある。咲雪は美しい大人の女性へと変化していた。いろんな出会いや経験があったからだろうと考えると、少し複雑な気分になった。

 「今日は舞花さんには何て言って出てきたの?」

 咲雪は会うたびに舞花のことを気にした。以前、レストランで鉢合わせたときに終始睨み付けられたことをとても気にしているらしかった。この密会がバレでもしたら、当たり前だが舞花は怒るだろう。性格上、自分だけでなく咲雪にまでも手を出すかもしれない。それだけは絶対に避けたかったので、舞花が決して近寄りそうにない店を待ち合わせ場所に指定した。無数の古本に囲まれて少し埃っぽいこの喫茶店は、雑誌や漫画にしか興味をしめさない舞花が立ち寄ることはまずないに等しく、二人で会うには好都合の場所だった。

 「中学時代の友達と久々に会ってくるって言ってきた」

 熱いコーヒーを飲みながら、しばし舞花のことを考えた。

 今頃部屋で一人で大好きなポテチをつまみながらテレビでも見ているのだろうか。それとも親友のマキちゃんを部屋に呼んで「ダメ彼氏」についての不満でも聞いてもらっているのだろうか。それとも、他の男と…。たとえ自分以外の男と二人でいたとしても、自分が咲雪と内緒で会っている以上は何も言えない。たとえまだ、浮気とよべるほどの関係を持っていないとしても。

 約一か月前、レストランで電話番号の書かれた紙を渡されてから二人で会うのはもう五回目だった。仕事終わりの三十分ほどの限られた時間の中で思い出話や近況報告をするぐらいだったが、距離は確実に、徐々に縮まってはいた。あのとき突然いなくなったことについては尋ねられたくない感じだったので、あえてそのことには触れずにいた。意外だったのは、自分より咲雪のほうがより積極的だったことだ。「今度の日曜、夕方から会える?」と、誘ってきたのは咲雪からだった。

 「…どこ、行く?」

 咲雪はいつも以上に小さな声で尋ねてきた。

 「そうだな、どうしようか…」

 行き先を答えず、店を出て車を停めてあるコインパーキングに歩を進めた自分の二、三歩後を咲雪は何も言わずついてきた。

 「乗る?」

 咲雪はゆっくりと小さく頷いた。

 舞花に嘘をついて部屋を出てきたときは気持ちもなくはなかった。喫茶店でコーヒーを飲みながら会話して、ちょっとだけドライブして、レストランでも行って…けど、それで解散するつもりだった。距離は縮まってはいたが、まだ咲雪が自分のことをどう見ているのかわからずにいたし、何より舞花を本当に裏切ることに躊躇していた。それに、咲雪にも恋人がいることもまた、自分を踏みとどまらせる要因の一つだった。

 恋人の名は、「ゴボウ」。あのレストランに一緒に来た男だった。身長が高く痩せ気味で、肌の色が日焼けでもしたかのように黒いので咲雪はそう呼んでいるらしい。

 「同じ本屋で働いてる人からの紹介でね」

 咲雪は恥ずかしそうに続けた。

 「私はあまり興味がなかったんだけど、初めて会ったときからグイグイ来られてしまって…なんか、押しに押された感じ」

 「…特に好きではない、ってこと?」

 「彼はちょっとしつこくて、すぐ怒るところがあるけど…まあ普段は優しいし仕事熱心だし、いい人だとは思うよ」

 咲雪は少し言葉を躊躇った。

 「好き、なんじゃないかな…たぶん」


 咲雪を乗せて、夜が更けゆく中を走り続けた。どこへ行くかも決めていないし、咲雪も何も聞いてはこなかった。様々な色のネオンに彩られた街並みが通り過ぎて行くのを子供のように嬉しそうに眺めていた。

 「食事でも行こうか?」

 少し休憩しようとコンビニの駐車場に停車して、問いかけた。咲雪は少し間を置いて首を横に振った。

 「二人きりで、いたいかも」

 返答に困った自分は何も答えず、外で煙草を一本吸って気持ちを落ち着かせてから車に戻った。

 「本当に、それでいいのか?」

 咲雪に問いかけつつ、自分の心にも問いかけた。答えは出てこなかった。咲雪もまた何も答えず、車が走り去っていく窓の外を見ていた。数分の沈黙が続いたあと、咲雪が口を開いた。

 「…今は。今夜だけでも過去に戻れたら、それでいいと思う」

 

 部屋の窓から差し込む月光が、咲雪の白く小さな身体を微かに照らし続けた。火照った身体を激しくぶつけ合う度、口元から小さな喘ぎが漏れる。暗く狭い部屋の中は、ベッドの軋みと乾いた音だけが響きわたっていた。言葉にできない気持ちを身体で表現する行為は、ほんの数分で終わりを向かえた。

 「あのとき、どう思った?」

 すべてを出し尽くしてベッドの上でぐったりしていた自分の隣で咲雪が呟いた。

 「…あのとき?」

 「私がいなくなったとき」

 本当は寂しくてやりきれなかった。もし自分が無理にでも勉強だけに集中させていれば…。そうは思っても、口には出さなかった。ベッドから身体を起こして煙草に火をつけた。

 「寂しかった?探してくれたりした?」

 そう言って、にやけ顔で自分の顔を覗き込んできた。そのとき、ちょうど咲雪の携帯電話から着信音が鳴り響いた。けど、咲雪はでようとはしなかった。

 「でなくていいの?」

 「別にいい。どうせゴボウだから。それより、煙草、もらっていい?」

 「…吸うの?俺が吸うのをあんなに嫌がってたのに」

 「あのときは超真面目な学生だったからね。以外?もちろんいつもは吸ってないよ。けどたまに、ストレス溜まってどうしようもないときとかコンビニ寄ったついでに、ね。買っちゃうんだよね。チョコレートと一緒に」

 咲雪は身体を起こして煙草に火をつけ、真剣な表情で話を続けた。

 「私は逃げた。あの大学に行くことしか考えてなかったから、本当に他の道を用意してなかった。今思うと無謀だけど。合格しなかったって知ったときは、それはもうショックでね。気がついたら鞄一つも持たずに新幹線に乗ってた。けどさ、長いトンネルに電車が入って窓ガラスに映る自分のボサボサな髪の毛と泣き腫らしてボロボロな顔をずっと見てたら、なんだかもう笑えてきてね。たかが大学受験じゃん、別に命取られるわけでもないじゃんって、吹っ切れた感じかな。でも親にも先生にももちろん亮平にも誰にも言わずに飛び出してきたから、いろいろ怒られるのが怖くて戻るに戻れなくってね。で、現在に至ると」

 「で、結局親に許し貰ったの?俺なんか咲雪のことを聴こうとしたら門前払いされたけど」

 「あ、やっぱり家に来たんだ。うちの親は厳しくてねぇ、小さいときから勉強、勉強ってうるさかった。私を有名大学に合格させることが夢だったんだろうね。電話して最初はもちろん取り合ってくれなかったけど、一時間ぐらい説得してようやく許してもらえた。けどね…」

 「けど?」

 「お前の自由に生きることは許す。けど、あんなわけのわからんと交際することは断じて許さん!ってさ」

 咲雪は笑いながら立ち上がり、窓の外を見た。柔らかな月光を遮る咲雪の身体は黒いシルエットとなり、女性的な括れや丸みをより一層際立たせていた。

 「私は、ずっと覚えてたよ。番号もずっと残してた。けど、連絡しても亮平に何て謝ればいいのかわからなかった。あれからこの街でいろんな人と出会って、いろんな恋をした。けど亮平のことはずっと忘れられなかった。今はお互い恋人がいるし、どうしようもないけど。そのうち…」

 後ろから咲雪の身体をそっと抱きしめた。

 「今はまだ、舞花のことが好きだからどうにもならない。お互い想い合っている人がいる。けど…」

 咲雪の顔を引き寄せてそっと口づけをした。

 「けど、この関係を続けていきたいと思う自分がいる。咲雪がどう考えてるかはわからないけど」

 密着した二人の身体を照らしていた月はやがて雲に覆われて、部屋の中は漆黒の闇になった。

 この恋はどこへ向かおうとしているのか。高校時代に惹かれあった幼馴染みの二人は、いろんな経験を積んで大人になって偶然再会して、お互い恋人がいるにもかかわらず再び求め合って、その先は…この恋の行先はどこなのだろうか。咲雪はゴボウを簡単に見捨てられるのか。それよりも自分は本当に舞花を見捨てることができるのだろうか。正直言って、何もわからなかった。

 「今夜だけでも過去に戻れたら、それでいい」

 咲雪に言われた言葉が何回も何回も頭を巡った。今夜だけ、いやこの先もずっとこれでいいのかもしれない。いつかは明確な答えを出さなければいけないのはわかっている。けどそれまで、お互い満足するまで、このままで。

 手探りでお互いの身体を弄び、再びベッドの上へと戻った二人は、先程より熱く、激しくお互いを求め合った。ベッドの軋みや喘ぎは机の上に置かれた二つの携帯電話から鳴り響く着信音に掻き消されて。


 

 




 

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初恋 白鴉 煙 @sirokarasu

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