第3話

 窓を開けると、心地よい柔らかな日差しとともに春の匂いがスーッと部屋の中に舞い込んできた。下に見える公園はランニングする人達や芝生広場で遊ぶ親子連れで溢れかえっていた。木々は薄緑色の若葉を可憐にまとい、遊歩道沿いに等間隔で植えられたサクラの木もまだほんの僅かではあったが小さな花を咲き誇っていた。街はいつしか春の気配に包まれはじめていた。煙草を咥えながら外を眺めていると、舞花に急に後ろから抱きつかれた。

 「あったかーい」

 「窓空いてるときに急に抱きつくんじゃねぇよ。寿命一年縮んだわ」

 「だってさぁ、涼君の背中、なんか心地よさそうでさぁ」

 「…抱き枕じゃねぇんだよ!で、今日はどこに付き合えって?買い物か?」

 舞花は壁と自分の間に無理に割り込んできた。

 「そうだねぇ…本当はショッピングに付き合ってほしかったんだけど、今度でいいや。今日は、散歩!」

 「散歩?山か海でも行きたいの?」

 「どーこでも。車出すの面倒だったら、街中でもいいよ。この前買ったカメラでいろんな写真撮りたいだけ。とりあえずさ、付き合ってよ!どうせ暇人なんでしょ?」

 春だからか、舞花はごきげんだった。二日前に些細なことで大喧嘩をしたことが嘘のようだった。

 舞花は同じ会社に同期で入社した仲間で、何回か一緒にお酒を飲みに行くうちに距離が縮まり、いつのまにか自然と交際に発展した、いわゆる職場恋愛だった。そしていつのまにか自分の部屋に許可なしに引っ越してきた。普段は流行りの化粧やファッションを雑誌でまめにチェックしたり、体重が少し増えるだけですぐへこみ、「りんごダイエットする!」と声高らかに宣言しても結局三日も続けられないような、ごくごく普通のどこにでもいそうな女の子なのだが、仕事となると豹変する。なんせ同じ会社の同じ部署にいるものだから自分はほぼ二十四時間監視されているようなものだ。自分だって別に怠けているわけではないのだが、仕事がバリバリできる有望株の舞花と比べられてはどうしようもない。「彼女は数時間でできているのに、なんでお前はこんな簡単な書類ぐらいすぐにできないんだ!」と上司に怒られるのは納得がいかなかった。会社で散々怒られた自分は、夜は部屋で酒に酔った舞花に再び怒鳴られるのだった。

 「今日も怒鳴られてたじゃん!隣のデスクの前田さんがね、舞花も大変だねぇって。もう私、恥ずかしくてあの場所から逃げ出したかった」

 「前田?あー、あのいかにも昭和の女みたいなおさげの太ったか。あんな小難しいもん数時間でできるわけないじゃんか!大体お前は働きすぎるんだよ。なんで昼休みでも仕事してんの?全く理解できない」

 「だって特に疲れてないし…じゃなくて、涼君がダメすぎるだけでしょ!本当に将来のこと考えてんの!?給料もずっと変わってないしさぁ。もっと真面目にやって昇進でもしてみてよ!」

 「…舞花がもうすぐ昇進できるはずだから、別にいいだろ」

 焼酎の入ったグラスを机に乱暴に置いて立ち上がる舞花。

 「そんなんだからダメなんだよ!ダメ男!クズ!」

 自分も負けずに言い返す。

 「あーもう、お前みたいな仕事馬鹿の酒乱女と一緒にいるとほんとイライラするわ!」

 「こっちもあんたみたいなクズと一緒だと将来不安でしょうがないわ!あーほんと、なんでこんな屑みたいな男を選んでしまったんだろ…」

 と言って一人で寝室へと向かう。こういう言い争いは月一ペースで勃発したが、翌日の朝には大体何事もなかったようになり、またいつも通りの生活に戻るのであった。


 春の日差しを浴びながら、近くの公園やちょっと遠出して河川敷の桜並木の開花状況を見に行ったりしていると街中に着いた頃にはすでに夕暮れが迫ってきていた。舞花は写真を撮ることに夢中で、「夜の街中も撮ってみたい」と言い出し、自分は歩き疲れて早く部屋に帰りたかったのだが仕方なく付き合うことにした。夕焼けのオレンジ色が薄れかけ、人工的なネオンの灯りに彩られていく街中は、大きなショッピングバッグを両手に持った若者や嬉しそうに風船を持つ子供を連れた家族がバス停に列をなし、カップル達は手を繋いだり腕を組んだりしてレストランの中へと次々に消えて行った。舞花は周りのことには目もくれず、日が暮れゆくビル群を必死でレンズに収めていた。

 「ねぇねぇ、涼君モデルになってよ。あの像の前でさ、同じポーズしてさぁ…」

 「そんなこと恥ずかしくてできるかよ。それより疲れたからもう帰ろうよ」

 舞花は立ち止まって少し考えてから言った。 

 「んー…物足りない」

 「何が?」

 「飲みたくない?」

 「お酒?いや、俺は別に…」

 そう言うと、舞花は後ろからそっと腕を絡ませ少し汗ばんだ紺色のシャツに顔を埋めてきた。

 「一緒に飲もうよー」

 「…わかったよ」

  こういうときに人目も気にせず腕を組んできたりする舞花をかわいいと思うし、「やっぱりこの人とずっと一緒いるのが正解だろう」と、なんとなくだがそう思ったりする。職場でも部屋でもずっと一緒にいるわけだから、色んな部分でなんとなく飽きてきている部分は確かにある。例えば、セックス。セックスレスカップルでは決してないが、お互いがお互いの身体に飽きてきている。完全燃焼できないまま終わりを迎え、終始何も話さない。だけど、眠りに着く前に「愛してる」と一言だけそっと呟く舞花を、自分は舞花以上に愛している。毛布をベッドの隅に蹴飛ばし、全裸で口も半開きで少し涎を垂らして羞恥心のかけらもなく寝ている舞花の顔を隣で見ているとなんとなく安心する。舞花が一緒にいてくれるからこそ自分が成り立っている部分もあるし、逆もしかりだとは思う。


 舞花のお気に入りのお店だという繁華街の大通りから裏道に入ったビルの地下に隠れたようにあるレストランはカップル達ですでに満席に近かった。店主と思わしきちょび髭を生やした背の高い中年の男性とバイトの女の子二人が忙しなく動き回っていた。こじんまりとした店内は薄暗く、天井からはいくつもの電球がぶら下がっていた。舞花いわく、この雰囲気が大好きなのだという。

 「マキとよくここに来るんだけどね。ここ、雰囲気もだけど料理も最高なんだよね!」

 マキというのは舞花の高校時代からの友達で、自分達のアパートの近くに住んでいる。自分も何回か会ったことはあるが、舞花とは対照的でおとなしく、もの静かなでいつも舞花の愚痴を嫌な顔もせずに穏やかな笑顔で聞いているような女性だ。店主らしき男性がテーブルに水を持ってきた。

 「いらっしゃいませ。今日もいつものやつで?」

 「そう、いつもので」

 店主はメモを取りながら自分のほうをチラッと見た。

 「あ、これダメ彼氏の亮平です」

 「ダメ彼氏って、なんだよ」

 店主は大袈裟に笑った。

 「じゃあとりあえず、涼君も一緒なやつで」

 「了解。今日は特別におつまみのチーズ、つけとくよ」

 そう言い残し、早足にカウンターの奥へと歩いていった。

 「いつものやつって?」

 「ん?シャンディガフだけど?飲むでしょ?」

 「俺は白ワインでよかったんだけど…まぁ、いいや」

 キンキンに冷えたシャンディガフとグラス二つ、それと四切れのチーズを乗せた小皿を持ってきた店主はふと思い出したように言った。

 「そういえば、一昨日だったかな。マキちゃんが来てくれてね、いつものように舞ちゃんと一緒なのかと思ったら違う友達と一緒だったから驚いたよ」

 舞花はグラスに注ぐとすぐに飲みはじめた。

 「へー、珍しい。マキは友達少ないからねぇ」

 「でしょ?でね、その友達もマキちゃんと同じで全然喋らない人でね。誰とでも仲良くなれる僕もさすがに参っちゃってさ」

 グラスから溢れそうになるほどに注がれたシャンディガフをチビチビ飲みつつ、店主と舞花の会話に耳を傾けていた。

 「まぁけど、マキに私以外に話せる友達ができてよかったよ。どこで出会ったんだろう?」

 舞花は首をかしげながら、チーズを一切れつまんだ。

 「そんな考えることか?どこにでもあるじゃん、出会いなんて。あ、マスター、このワインお願いします」

 「はいよ」

 少し酔っていた。いつもはコップ一杯のビールぐらいなんとでもないのに、なぜか頭がクラクラした。マスターが奥へ入っていくと同時に店のドアがカラン、カランと優しい音をたてた。背後から春の生暖かい夜風がスーッと店の中に入ってきて、少しばかり雨の匂いがした。舞花の後ろの窓ガラスに反射して映し出された店の入口の風景から、背の高い男と長い黒髪の女の二人組だということはわかったが、顔までは鮮明にわからなかった。いつもなら誰が入店してこようがそんなことはどうでもよくて、そのままグラスに注がれたシャンディガフを飲みながら舞花の愚痴をただなんとなく聞いていただけだっただろう。けどその時は違った。不思議と急に胸の鼓動が速くなってきて、本能に従うまま後ろを振り返ってしまった。そのときグラスを持ったままだったら確実に床に落として割ってしまっただろう。「嘘だろ」と小声で呟いた自分。その自分と目を合わせたまま動かない背の低い女性。これがもし過去に少しだけ付き合ったことのある人とかであれば他人のふりをして上手くやり過ごしたか、軽く会釈して舞花の機嫌を少しだけ損ねて終わるぐらいだっただろう。けど、そうはいかなかった。そこにいたのは初恋の人、まぎれもなく咲雪だったから。走馬燈のように急に学生時代の思い出が蘇り、頭の中が混乱した。本屋、雪、眼鏡、小説。白く小さな身体。本能がふと呟いた。

 「サキ…」

 咲雪も気がついたらしく、自分をみつめて数秒その場で立ち止まっていたが、隣の男に促されて何事もなかったかのように歩みを進めた。

 「…何?どしたの?」

 舞花のいつになく心配そうな声ではっと我に返った。

 「あちらのお席へどうぞ」

 バイトの女の子が笑顔で案内した場所は自分たちのすぐ隣の席だった。

 「そのうち会える」とか思いながら、結局は諦めかけていた自分がいた。だからこそこの出会いは本当は嬉しかった。嬉しいはずなのに、少しだけ不愉快な気分になった。なぜ男と一緒にいるのか。なぜ、よりによって舞花と一緒にいるときに…。明らかにさっきまでと様子が変わった自分を舞花はただ心配そうに見つめていた。

 「何でも好きなもの頼んでよ、サキ」

 隣の席に座った男が向かい合って座った女に発した言葉を聞いて舞花は表情を一変させた。

 「…ん?サキ?」

 舞花はあのときベッドで聞いた「サキ」とすぐ隣の席にいる「サキ」が同一人物だということを女の勘ですぐに悟ったらしかった。数分前とはうってかわり、何も喋らず睨み付けるように自分と咲雪を交互に見ている舞花と、決して目を合わせぬよう少し俯いて温くなったシャンディガフをチビチビ飲む自分。まさに蛇に睨まれた蛙そのものだった。咲雪はというと、まるで自分のことを意識していないような感じを演出しながら男の質問に答えつつも、横目で自分をチラチラと様子を伺っているような感じだった。しばらくして店主が注文した白ワインを持ってきてくれたついでに舞花に話しかけてくれたため、その場の緊迫した空気が少し和らいだ。

 「ちょっとお手洗い」

 そう言って舞花が立ち上がり歩き出すと同時ぐらいに、咲雪の連れの男の携帯が鳴り始めた。その男は片手で咲雪に謝るジェスチャーをして店の外に慌てて出て行った。

 二人きりになった瞬間、お互い恐る恐る視線をあわせたが、同時にすぐにそらせた。早くしなければ、ほんの数分いやもしかしたら数十秒の間に、どちらか片方が戻ってくる前に何でもいいから一言でも言わなければと思ってはいたが、言葉が上手く出てこなかった。一単語でもいいのに、喉元まで上がってきているのに何かに引っかかって出てはこなかった。

 「これ…あの…」

 店の奥のドアから舞花が姿を現した次の瞬間、咲雪が囁くように言った。

 「…え、何?」

 自分もつられて聞きとれないほどの小さな声になった。手を洗い終えた舞花がゆっくりとこっちへ歩いてきていた。それを察してか、咲雪はメモ帳の切れ端をそっと自分の椅子の端っこに置いた。慌ててその切れ端をポケットの中へと丸め込んだ自分の動作を見ていたかどうかはわからないが、席に戻った舞花は軽く舌打ちしたような気がした。


 


 


 


 

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