第2話
ここはどこだろうか。見たことあるような、けどどこにでもありそうな住宅街。物音ひとつしない閑静な、というより誰も暮らしていないのに建物だけが延々と並んで建っているだけのような町中。どこまでも続くコンクリート塀に囲まれた一本道。スポットライトを当てたかのように数メートル先がパッと明るくなって、見慣れた紺色の制服を着た小さな背中を見つけた。なにか言わなきゃと思って走って、もう手を伸ばせば触れるとこまで近づいたと思ったら、まるで瞬間移動したみたいにまた元の場所に戻される。遠くから大声で叫んでも決して彼女はこちらを降り向こうとしなかった。何と叫んだかは自分でもわからない。やがて遠くからゆっくりと霧がかかりだし、その姿が薄れていき…。
目が覚めると、服の中は汗でびっしょり濡れていた。この異常に乾燥して痛む喉は大声で何度も叫んだからか…いや違う。あれは夢の中でだった、と、まだ寝ぼけた頭を数回大きく左右に振った。時計を見るとすでに朝の十時過ぎだった。喉を潤そうと思いリビングのドアを開けると、愛用のグレーのスウェット姿の舞花はコタツに入ってテレビを見ていた。いつもは起きてすぐに整える少し茶色がかった自慢のストレートヘアーも寝癖でボサボサのままだった。リビングの空気がいつもと明らかに違った。五年も一緒に住んでいるとなんとなくわかるものである。いつもは「おはよう」ぐらい言うのに今朝は自分のほうを見向きもしないし、普段はあまり飲むことのないホットコーヒーの香りが部屋の中に漂っていた。なんとなく嫌な感じがして、いつも以上にゆっくりとドアを閉めリビングに入った。
「…ねぇ、サキって、誰かな?」
こっちを振り返ろうともせず、彼女は言った。
「夜中にね、隣から声が聴こえて目が覚めたんだ。待ってくれ、とか、好きだ、とか。もしかして私が夢にでてきてるのかな?とか思ってわくわくして聴いてたわけ。そしたら急にねぇ…」
引いていた汗が身体中からにじみ出てきた。
「急に…何て?」
彼女は自分の顔を数秒ジッと見つめた。彼女の目は赤く腫れていた。
「まぁ、座りなよ。とりあえず。熱いお茶でも入れてきてあげる」
暖かい緑茶を二、三回すするとだいぶ心が落ち着いてきた。
「…咲雪はね、幼馴染みなんだ」
舞花は「だから?」という顔で自分を睨みつけていた。
「高校を卒業する前に仲良くなって付き合いはじめた、と言いたいけど実際はそこまでいかなかった。どんな夢を見てたのかまったく覚えてないけど、寝言に出したのは悪かったよ。ごめん。浮気とか絶対にしてないし、今も舞花のことが…」
舞花が急に声を荒げて立ち上がった。
「言い切れんの?私に隠れて会ったりとかしてるんじゃない?だから夢に出てきてさ…」
「そんなんじゃないよ。浮気なんて絶対にしてないし、今でもずっと舞花一人が好きだ。信じてほしい」
彼女は泣きはじめてしまった。涙で化粧は剥がれ落ち、なんとも見てはいられなかった。
「寝言だけで浮気してるって考えてしまうなんて、どうかしてるよね。ほんとに、ごめん…。ちょっと頭痛いからもう一回寝るね」
そう言って彼女は寝室へと歩いていってしまった。寝癖でボサボサな頭を二、三回軽く叩き、カーテンを開けて煙草に火をつけた。
「咲雪か…どこで何してんだろうな、あいつ」
外は風が強く吹雪いていた。晴れた日は綺麗に見える高層ビル群は霞み、灰色の街は白く彩られていた。いつもはひっきりなしに車が走っているアパート下の道路も、近くの公園も今日は閑散としていた。雪はまだ当分やみそうにはなかった。
咲雪は志望大学には行けなかった、らしい。倍率が高く、運が悪かったといえばそれまでだ。決して勉強を怠っていたわけではない。これは自信をもって断言できる。自分は、咲雪の傍でずっと見ていたから。
咲雪のようなマジメタイプには特に興味はない、とずっと思っていた。おそらく咲雪もそうだ。自分のような学校にもろくに来ないチャラチャラした遊び人に興味など微塵もなかっただろう。それがなぜだろうか、正反対の二人は何回か二人で会ううちにいつのまにかお互いを求めあっていた。何もかもが違うからこそ余計に気になる存在になったのかもしれない。自分にとっても咲雪にとっても、お互いやることなすこと何もかもが新鮮だった。親にばれないようにひっそりと家を抜け出してきて、いつもの公園の前で待ち合わせるけど、毎回遅刻してくる自分を不機嫌な顔で待っている咲雪。同級生に見られたくないからという理由で食事はいつも隣町にある小さな寂れたレストラン。目の前で煙草に火をつけようとすると必ず怒られて、「学生なんだからそんなのやめなよ」が口癖で。バイクの後ろに乗せてやると言っても絶対に乗ることはなかった。意地でも部屋に来ようとしなかった咲雪を説得するのはさすがに苦労したが、交際するということはそういうこと、と少しばかりは覚悟できていたのか、部屋に上がったら上がったで恥ずかしがりながらも案外スムーズに事は進んだ。初めてのキス、初めての夜。畳の上の薄汚れた薄っぺらい布団の中で咲雪の白く小さな身体は慣れないながらも自分の動きに必死で返してきた。すぐに家には帰らず、薄暗く煙草臭い六畳半の部屋の中、終始無言で寄り添い続ける。こんな日常が卒業式を迎えるまで、いやこのままずっと続くものだと思っていた。
咲雪がどれだけ大学に進学したがっていたか、傍にいた自分が一番よく知っていたと思う。
「あの大学で日本文学を勉強したい。もっと知識を広げたい。将来は世界で活躍する小説家になりたい」
合格するために最も苦手な数学を重点的に勉強しているのも、寝る時間を削ってまで難しい小説を読んで知識をつけているのも知っていた。それでも咲雪は自分と毎日のように会うことを拒まなかった。
「だって、一日中難しい参考書ばかり読んでたら、さすがに私だって頭おかしくなるよ。息抜きは必要でしょ?」
「息抜きって、なんだよ。息抜きって」
「そんなに悪い意味じゃないよ?まあたしかに最初は勉強だけに集中しようって思ってやってたけどさ。集中しすぎても疲れるだけで全然頭に入ってないって気づいた。集中力が続かないタイプなのかもね。だから亮平と会うのは息抜き。亮平はまったく面白みのない私にも気楽に接してくれる。だから私も気楽になれる。一緒にいるとリラックスできるんだよね。あ、けど小説は別だよ」
「あんな細かい文字、ずっと見てて疲れない?」
「疲れるどころか、逆に疲れがとれる。ちょっとぐらい読んでみたら?いくらでも貸すよ?読めば読むほど虜になるよ。次の展開を想像しながら、私だったらこういう展開に持っていくなぁって考えたりしてると本当に楽しくてさ。同じ小説を数か月後に読み返すとまた新たな発見があったりして、それもまた魅力の一つ。それであとは…」
「あー、わかったよ。咲雪が小説好きなのは十分わかった。今度読んでみればいいんだろ。その代わりすっごく簡単な内容のやつにしてくれよ。こんな俺でも理解できるようなやつ」
「…あるかな?あ、亮平にちょうどいいのある」
そう言って貸してくれた薄っぺらい小説は相当読み返したのか、表紙の隅々が擦りきれてボロボロになっていた。けど、自分はその本を開くことはなかった。それよりも咲雪と急に連絡がとれなくなったことで頭が一杯だった。
受験日の翌日も、その一か月後も、咲雪に特に変わった様子は一切なかった。いつものように待ち合わせて、いつものように布団の中で重なり合って、愛を確かめあって…それが急に連絡がつかなくなってしまったのだ。
「卒業旅行でさ、今度どこか遠くに行こうよ。バイクは嫌だけど。電車とか乗り継いでさ、海沿いの景色が綺麗な旅館とか泊まりたいなぁ」
「宿泊はラブホとかじゃダメなのか?」
「当たり前でしょうよ!なんであんたはそういうことしか考えてないの!違うの!私は癒しが欲しいの!勉強疲れの癒しが!」
「金まったくねぇけど、俺」
「コンビニでバイトはじめたんでしょ?お酒と煙草やめてお金貯めといてね!」
この会話をした翌日からまったく連絡が取れなくなった。電話も一切出ず、心配になって咲雪の親に話を聞こうとしても「お前には関係ない」と、なぜか一切取り合ってくれなかった。おそらく自分と咲雪との関係を両親は気付いていたのだろう。もともと周囲からの評判がすこぶる悪かった自分と仲良くしているというだけでも心配だというのに、それがまさか男女の関係になっているなんて。しかも大学受験の大事な時期に。もし自分が咲雪の父親なら、殴り倒してでもあんな男とは交際させないだろうとは思う。
もともと関係が薄かった同級達は咲雪がいなくなったことにはほぼ無関心だった。しかし、本人もいないのにどこから漏れたかわからないが「あの優等生の橘が受験に失敗した」という情報は即座に同級達の間に広まった。結局卒業式も姿を見せず、欠席という形で高校生活は終わりを迎えた。行方不明というわけではないらしかった。家から出してもらえないのか、それとも卒業前に他の場所へ移住してしまったのか。真相はよくわからないまま、咲雪への気持ちを断ち切れないまま自分は故郷の街を去ることにした。いつか絶対に会える、そのうちきっとまたどこかで会えると信じて。
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