初恋
白鴉 煙
第1話
学生時代は、荒れに荒れていた。高校生になって仲間に誘われ煙草と酒に手を出し、授業にはろくに出席せず公園で馬鹿話をしながら煙草をふかし、夜は家に帰らず仲間とバイクを乗り回した。家に帰るといっても、帰りを待ってくれている人などいなかった。両親は自分がまだ保育園に入る前に離婚したから出て行った父の顔など覚えてもいない。母は離婚してから自分と二歳上の姉を養うため休む暇もなく必死で働いたが、姉は中学生になって間もなく交通事故に巻き込まれ亡くなった。姉を失ったショックで母はおかしくなり、酒に溺れはじめた。まだ小学生だった自分を放ったらかしにして、仕事も行かず家事もせず朝から晩まで酒を飲み続け、当たり前だが体調を崩して入院し、少し落ち着いたかと思ったら病室から逃亡し、そのまま駅のホームから奇声を上げて線路に飛び込み命を絶った。姉を亡くし、母が自殺するまで約一か月という短い期間の出来事だった。唯一の肉親ともいえる隣町に一人で住んでいた叔父が自分を引き取ってくれた。が、高校入学直前に叔父が病気で亡くなり、ついに一人になってしまった。本当の子供のように育ててくれた叔父が残してくれた少しばかりのお金でアパートを借りたが、帰ってきても笑顔で誰かが迎えてくれるわけでもないし、温かいご飯が用意されているわけでもない。夜中に帰ってきて玄関を開けて、母親と姉が狭い六畳の部屋の中で待ってくれていたらどんなに嬉しかっただろう。みんなが持っているゲームどころか家にはテレビもなく、お小遣いもなく、遠足に持っていくお菓子一つ買うのも躊躇してしまう。そんな貧乏家族でも三人でいると笑顔が絶えず、楽しかった。「男は自分だけだから、大きくなったらたくさん稼いで二人を旅行に連れていってやるんだ」と、意気込んでいた小さな自分を思い出すたびやりきれなくなってくる。姉の事故死がすべての歯車を狂わせた。働き者でいつも笑顔を絶やさなかった母、忙しい母に変わって面倒を見てくれた姉。生きている間はもう絶対に会えることはない。二人の変わりなど、この世に存在しない。暗い孤独な部屋に一人でいるぐらいなら気の知れた仲間と街中走り回って、たまに警察に追いかけられて過ごしていたほうがよっぽどマシだった。
高校三年の夏になって、遊びに飽きただの、受験だの、世間体だのとなにかと理由をつけて仲間が離れていった。金もないし夢もないし頭もない自分には大学進学などという選択肢はもとから存在せず、卒業したらずっと都会のほうに出てバイトでもしながら適当に生きていこうと考えていた。彼女に出会うまでは。
その日は一日中雪が降り続いていた。雪が降ることが決して珍しいことではないこの地方でも近年稀にみる大雪で、電車やバスはまったく機能せず学校は休校になり、ところどころでスリップ事故が多発した影響なのか、道路は夜になっても渋滞が解消されずにいた。もちろんバイクで走り回れるような状況ではなく、部屋でテレビを見るのにも飽きてきたので、晩飯ついでに本屋まで歩くことにした。大都会というには程遠いが、この地方では割と栄えているほうの街のメインストリートはクリスマスムード一色だった。アパレルショップや雑貨屋はもちろん、眼鏡店や寿司屋までいたるところに派手に装飾されたペイントやツリーが飾られていた。店のショーケースを覗き込みながら親子仲良くケーキを選んでいる姿がふと視界に入ってきた。そういえば昔、クリスマスに駄々こねて一回だけショートケーキを買ってもらったことがあったっけ。家で留守番してた姉と大喜びして半分個したのに姉が私のほうが小さいとか言ってきて大喧嘩になったっけ。そんな楽しかった過去をふと思い出し、気がつくと頬に涙がこぼれていた。すぐ隣にいた買い物かごを抱えたおばさんが不審そうに自分を見て、足早に立ち去って行った。ケーキを選ぶ幸せそうな親子を見ながら涙をながす煙草を咥えた薄汚れたパーカーにジャージ姿の茶髪の若者。自分の暗い過去も心の中も、誰も知らない。
本屋の中は立ち読み客で混雑していた。入口のガラスにでかでかと「立ち読み禁止!」と書かれた紙が貼ってあったがあまり効果はないようで、退屈そうにレジに立つ大学生らしきバイトもその隣で椅子に座って電卓をたたいている店長らしきハゲおやじも、注意しに店内を回る気はさらさらないようだった。仕事帰りと思われるスーツ姿のサラリーマンと冬なのになぜか汗だくの野球部っぽい坊主頭の間に割り込むようにしてスポーツ雑誌を手に取り一歩後ろに下がった。と、そのとき右肩に誰かがぶつかった。舌打ちをして即座に相手を睨みつけた。見覚えのある学生服。そこにいたのは同じ高校で唯一の幼馴染みだった。
「なんだ、添島君か」
橘
「なんだじゃねーよ」
彼女は胸元に数冊の本を抱えていた。本棚のほうに向き直り手に取った雑誌をパラパラとめくりはじめると、彼女も特にそれ以上何も言わず立ち読み客で混みあう狭い通路を足早に立ち去って行った。
気になった雑誌を一通り読み終え二階のDVDコーナーに隣接する簡素なカフェに向かうと、閉店時間まで三十分もないせいか、一階と比べて客は閑散としていた。外を見渡せる大きな窓ガラス際に席が設けられ、その一番奥の端っこに真剣な表情でペンを走らせる彼女の姿を見つけた。ホットコーヒー片手にそっと近寄って行くと、彼女は自分のほうをチラチラと横目で見た。
「あの…」
「ん?」
「気が散るから」
「邪魔ってか?別に邪魔する気はねーよ」
すぐ隣の席に座ると、彼女は隠すようにしてノートと真新しい参考書を左端にずらした。ノートにはわけのわからない数式らしきものが所狭しと書き込まれ、ところどころに色とりどりの付箋がつけられていた。
「…真面目だねぇ」
彼女は何も答えなかった。
「受験勉強?どこの大学行く気なの?」
彼女はペンを置き、深い溜息をついてノートと参考書を閉じた。
「帰ります」
立ち上がろうとする彼女の細い腕を無意識に掴んだ。反射的に振りほどかれ、彼女は自分を睨みつけた。
「いったい何なの!?」
閑散とした空間に怒鳴り声が響き、ちょうど閉店前の掃除をしていた店員が手を止めて傍にいたバイトの女の子と小声で会話しながら心配そうにこっちの様子を伺っていた。
「まあそうかっかするなよ。別に何でもねーよ。ただやることもないから暇つぶしに話しかけただけじゃねーか」
彼女はゆっくりと椅子に腰を下ろし暗い窓の外を眺めながらつまらなそうに言った。
「暇つぶしって…私は暇じゃないから」
「だよな。受験勉強だろ?みんなよーやる気になるよな。てか、お前と最後に会話したのってたしか…」
自分が喋り終える前に答えが返ってきた。
「保育園」
「あー、そだな。保育園以来。よく憶えてんな」
彼女は鞄から携帯電話を取り出すと、再び立ち上がった。
「私もう帰るから」
彼女は不機嫌そうに歩いていった。冷めてしまったコーヒーを飲みながら窓の外を見た。本屋と道路を挟んで向かい側、新規のお客さんは滅多に入りそうもないような小さな居酒屋の入口横に置かれた銀色の灰皿の前で、店の主人らしき爺さんが煙草をふかしながら空からゆっくりと落ちてくる白い花をボーっと眺めていた。この白い花は地面に積もると厄介者にされることが大半だが、空から落ちてくるときは見とれてしまうほどの美しさがある。風さえなければ、ゆっくりと、音もなく、まるで踊るようにフワフワと無数に舞い落ちてきて、手に取ろうとしても瞬く間に溶けてしまう。儚いから美しい。雪も、そして人も。
足早に階段を下りていったはずの彼女は、なぜか入り口の前で立ち止まっていた。
「どーした?早く帰らなきゃ行けないんじゃねーのか?」
彼女は困ったような顔をしていた。
「…傘、とられた」
「で、帰ろうにも帰れない、と。入れてやろうか?俺の傘の中」
「絶対に嫌だ」
「でも帰れねーんだろ?どうせ帰る方向一緒なんだし、それに当分止まないと思うぞ、この雪」
彼女は携帯電話を取り出し時間を確認して、諦めたように言った。
「…変なことしようとしたら容赦なく警察に電話するからね」
「じゃあ口説くのはありなのか?」
「やっぱり濡れてもいいから一人で帰る!」
「冗談も通じないのかよ、お前は。面倒だな」
「あんたみたいな四六時中誰かを口説いていそうな遊び人は信用できないからね!ほんともう最悪」
彼女は渋々同じ傘の中に入って歩き出した。
煌びやかネオンに彩られた街から離れるほど雪は段々と強くなってきた。最初は警戒してか右肩が濡れるのもおかまいなしにギリギリ傘に入っていた彼女も、本降りになるにつれて自然と近くに寄ってきていた。右肩にたまに当たる彼女の頭。そのたびにいい匂いが漂ってきた。興味のない世間話には適当な返事しかしなかったが、学校の話題になるとしだいに口数も多くなった。
「…でさ、隣のクラスに星川っているじゃん。モヒカン頭の」
「添島くんみたいに遊んでばっかの人でしょ?それが何?」
「あいつも一緒にバイクで走り回ってた仲間なんだけどさ、なんかお前のこと気になるって昔言ってたわ」
「…絶対嫌だ。あんな授業サボってトイレで煙草吸ってるやつ、話しかけられるのも嫌」
「いやけどあいつめっちゃイケメンじゃん。俺が気にかけてた女と密かに付き合ってたときは殴り合いの喧嘩になってさ、まぁ勝ったけど。で、お前はそんなイケメンじゃなくてどんなのがタイプなん?やっぱり真面目で一流大学目指してるようなガリ勉君みたいな奴?」
その問いに彼女は答えなかった。寒さがこたえるのか、彼女はたまに両手を吐く息で温めた。繁華街から離れた夜の住宅街はしんと静まり返り、微かな白色蛍光の街灯に照らされた夜道を歩くのは自分達以外に誰もいなかった。ブロック塀の向こう側から聴こえてきた子供達のはしゃぎ声に、ふと彼女は立ち止まった。
「そういえば、もうすぐクリスマスだね」
「そうだな」
数時間前に見たケーキを選ぶ仲睦まじい親子を思い出した。今頃、温かい部屋で温かな愛情に囲まれてケーキを食べているのだろうか。そうであってほしい。幸せそうな親子の姿を見ると、自分のような境遇の子供達が世界中からいなくなってくれたらいいのに、といつも思う。けどこの世の中は無情でそういう風にはできていないみたいだから、せめて束の間の幸せが訪れてほしいと願う。子どもは、ケーキ一つで幸せになれるのだから。
「…私、クリスマスにいい思い出ないんだよなぁ」
再び歩き出した彼女が寂しそうに呟いた。
「家でやらなかったの?家族でケーキ囲んだり、友達とプレゼント交換とか…」
「あんた、私にろくに友達いないのわかってて言ったでしょ?」
「まぁそれは置いといて。けど家族では本当に何もやったことないの?」
「親が真面目すぎてねぇ…。クリスマスなどうちには関係ない!の一点張りだよ。変な親でしょ?そういうあんたは…」
そう言いかけて、彼女は口を噤んだ。幼馴染みだから、いや小学校の同級生ならおそらく全員知っているだろう。自分の母親が自殺したことぐらい。「お前は本当に可哀想だな」とか「頑張って生きなきゃダメだよ」とか、そんな言葉はもう嫌になるくらい聞いた。近所のおばさん、担任、同級生の親。みんな心配してくれた。けど、そんな優しい言葉をかけてくれたのも最初だけだった。半年ぐらい経つともう自分の存在など忘れてしまったかのように、大人達は誰も自分に声をかけてもくれなくなった。そして「あんな街の風紀乱すような奴、早くどこか行ってしまえばいいのに」とか「そのうち絶対変な事件起こすよ。だってあいつの母親は…」とか。「家族のいない可哀想な子供」はいつの間にか「街の風紀を乱す厄介者」になっていた。この街を出たいというより、もう自分の居場所などどこにもないように感じた。
そうこうしているうちにいつの間にか別れ道に辿り着こうとしていた。左に行けば自分のアパート、右に曲がってすぐに彼女の家があった。二人は別れ道の手前で立ち止まった。
「じゃあここで。ちゃんと学校来なよ。あと少しでみんなに会えなくなるんだから」
「そういや夕飯食べるの忘れてたわ。それもかねて寒いのに外出たんだったな」
「そういえば私もお腹空いた」
「え、何?夕飯に付き合ってくれるの?」
「お金出してくれるなら」
「じゃあそのあとは部屋に…」
紺色のショルダーバッグが脇腹に勢いよく飛びこんできた。教科書が詰まっているせいか、相当な威力だった。
「行くわけないでしょ!馬鹿!」
「うぶだよなぁ…ほんと」
歩き出すと同時に再びショルダーバッグが飛んできた。
「うぶでもいいじゃん、別に」
そう呟いた彼女はまた傘の中に入ってきた。数分前より、距離が数センチ近づいた。
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