クオリア

 もうどれくらいの時間待っているだろうか。春の暖かい陽の下で、タバコの火を消しながら考える。花嫁の着替えには時間がかかるらしい。僕はもう今年で32になる。彼女も(ああ、今日から妻になるのか)僕と同い年だ。この年齢で結婚できてよかった、とか思うくらいには暇である。


 そういえば結婚を決意したのっていつだったっけ。別に長時間待たされているからといってイライラしている訳ではないのだが。ただ、暇である。どうやら暇だとあれやこれやと思考を巡らしてしまう癖があるらしい。


 新しいタバコを取り出そうとして、ポケットにしまっておいた封筒のことを思い出す。これを書いたのは昨日の夜だ。自宅から近い式場を選んだので昨日は二人のマンションで過ごした。まるでいつも通りだった。ウエディングドレスを着るのが楽しみで仕方ない様子で家中を用もないのに歩き回っていた姿が愛おしかった。デートのたびに、明日何着て行こう、と悩む彼女だが、昨日ばかりはいつものお悩みに付き合う必要がなかったことはありがたかった。ああ、彼女ではなかったな。何て呼べば良いのかわからないので奈々と呼ぶことにする。


 いつも通り過ごして、いつも通り奈々が先に眠った。いつもならこのまま目を瞑って奈々の吐息を聴きながら意識が遠のくのを感じるのだが、今日はすることがあった。奈々を起こさないようにそっとベッドを抜け出して机の上の明かりをつけ、昼間に買っておいた便箋とペンを取り出す。手紙を書こうと決めていたのだ。誕生日や記念日、何かにつけて僕は奈々から手紙をもらっていた。だけど、もう付き合って7年も経つのに僕は未だに一度も手紙を書いたことがなかった。手紙を書くなんて恥ずかしいし、それに何より、僕は字が汚い。気が進まないのは事実だが、僕だって素直に気持ちを伝えてみたいからペンを走らせてみた。


 意外だな。あんなに億劫だったのに、書き出してみるとスラスラと書ける。ありがとう、愛している、これからもよろしく。真っ白だった便箋は、汚い字だけど綺麗で美しくって、素敵な言葉で埋まっていた。僕の本当の気持ちだ。明日これを渡そう。奈々もいつもこんな気持ちで僕に手紙を書いてくれていたのだろうか。落ち着いたら全部読み返してみようか。書き上げた手紙を丁寧に封筒に入れ、ポケットにそっとしまっておいた。


 喜んでくれるだろうか。


 僕は今度こそタバコを取り出して火をつける。もう3本目だ。そういえば手紙、どんな風に書いたっけ。我ながら力作だ。丁寧におられた便箋を広げ、読み返してみる。読み進めていくうちに。あれ。こんなことが言いたかったんだっけ。そんな気持ちになってきた。確かに手紙には僕の奈々に対する言葉が並んでいる。確かに僕の気持ちだ。なのに、何か違う気がする。本当はもっと、こう、何というか、もっと。もっと違う表現があるはずなんだ。もっとストレートに僕の君に対する感情を的確に表す言葉が。必死で頭を使って考える。ボキャブラリーには自信がある。僕は国語が一番得意だった。なのにどれだけ考えても浮かんでこない。


 僕はタバコの火を消して、式場のテラスの真っ白な壁に背中を預けて目を閉じて考えてみた。必死で頭の中にある言葉の引き出しをひっくり返す。見つからない。見つからないんじゃなくて、そもそも僕の君に対するこの気持ちを表現する言葉ってないんじゃないのか。そんなことまで考える。


 すると、ふわっと柔らかい春の風が僕の髪を撫でた。あれ、この感覚。どこかで一度。どこだっただろうか。ああ、わかった。ちょうど1年前くらいのことだったかな。日曜日、お昼ご飯を食べたあとソファに二人でいた時。春の陽気がポカポカしていて僕がふとあくびをしたんだ。そしたら、奈々が僕につられてあくびをした。その時だよ、僕が奈々と結婚しようって決めたのは。その理由が何かは僕にはまだわからないけれど。直感とか言うやつかな。その時ベランダの窓から暖かくていい匂いのする風が吹いてきた。今吹いている風と同じだ。あの時だってそうだし、今だってそうだ。奈々のことを考えていると、心が熱くなってくる。心が揺れるってこんな感じなのかもしれない。


 結局、国語のテストが百点だった僕にもぴったりの表現は浮かんでこなかった。でも君なら。奈々にならこの言葉だけで伝わる。そんな気がした。特別な言葉でもないし、何も美しい言葉でもない。ありきたりな言葉なのかもしれないけれど。僕の中にあるこの言葉にならない気持ち全部を奈々だったらきっとこの一言で理解してくれるだろう。あの時と同じ風がちょうど止んだ時、奈々の準備ができた、と係りの人が呼びに来てくれた。僕は手紙をまた折り目通り綺麗にたたんで封筒にしまった。それをそのまままたポケットにそっとしまって奈々のいるもとへ向かう。言う言葉はもう決めていた。扉の前に立ち、ネクタイを締め直す。


 扉を開ける僕は、大きく息を吸った。


一部引用

UVERworld. (2010). クオリア. gr8!records.

 

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君の背中はまだ見えない まな @manachan

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