1-3. Still up in the air



  ◇◆◇


「ん。うまい」

 スプーンでカップの底に敷かれたカラメル層まで丹念に掬い取って食べたボス、ブックマンは空になったカップをゆっくりと机に置く。味の余韻はまるで心を奪われるかのような深いため息だ。

「やはりベルッサの店のプリンはロンドミリオン一の味だ」

「ボス。あの女、逃げちまったけどやべえんじゃねえのか? そんな悠著にプリンなんて食ってて良いのかよ?」

「ジェット」

 空になったカップを前に市松柄のハンカチで口元を拭ったブックマンはゆっくりと呟く。

 何があっても決して乱れることのないどこまでも落ち着いた声。

 星の数以上にある次元。それら全ての集約点に当たるロンドミリオンの均衡を、ひいては他の次元を守護するガルディオンの長として長年座り続けてきたブックマンの所作には僅かの動揺も見られない。

「ヤバイ時こそ日課を大事にしなければ。

 そして端的に言えば彼女を取り逃したことがヤバイのも確かだ」

「どっかの誰かさんがあのとき捕まえとけばこんなことにならなかったのになぁ」

 皮肉めいた声でジェットが後ろを見ると頭を下げ項垂れたオルの姿がある。

 喪に服すような黒一色のダークスーツを身に纏ったオルは肩身を狭めたまま部屋の入口で立ち尽くしてる。

「なんのための次元転移能力なのやら。お前なんてその瞬間移動みたいな能力がなけりゃただの女だからな。ったくガルディオンの一員って自覚は本当にあるのかよ?」

 普段から蹴られたり殴られたりの散々なめを仕返しするようにジェットは項垂れたオルの頭を小突く。

「オル。そう落ち込むことはないさ。

 あの赤の魔回導が発動してしまったら君では捕まえることはできない。それほどまでにあの魔回導は高度なものだ」

「うぅ……」

 ボスに慰められたところでオルの項垂れた頭はより一層項垂れるだけだ。

 ──君で『は』

 その一言に自分の無力を痛感させられると同時に、ボスならばなんとかできるという絶対の自信を感じ取れる。

「まあ、俺には関係ないことだし、ボスの言葉通り日課を大事にしねえとな」

「……こら。どこ行く気?」

「ぐぇっ!?」

 部屋を出ようとするジェットの頭部の赤い毛を掴んだオルは容赦なく引っ張る。

 ジェットを睨みつけるオルの眼はよほど悔しかったのか目尻にわずかに涙が浮かんでいる。その目には殺意すら宿っている。

「デートだよ。デート! 今日はレザリーとアリスとウェインとリッタとの大事なデートがあんだよ」

「この種馬野郎」

 殺意のこもった冷たい双眸で睨んだオルの言葉は氷を突きさすが如く鋭くドスの効いた声だ。

「ボスも言ってるだろ! 日課を大事にって!」

「あんだけ私のことを煽っといて自分はさよなら、なんていくわけないでしょ! あんたこそガルディオンの一員って自覚持ってるの?」

「お前の失敗なんて知らねえし、俺はプライベートを何より大事にする男、ジェット=ガレンだぞ!」

「今がどんな状況かわかってるの!」

「お前が対象を捕まえるの失敗しただけだろ。それ以上はどんな状況かなんて知るかよ。だいたいお前は知ってるのかよ? 今がどんだけやべえのか。どうせなんも知らないんだろ!」

「……ぼ、ボス、どんな状況? 次元的にヤバいんでしょ?」

 オルは困り顔でブックマンの四つの頭蓋骨を見た。

 よくよく考えてみれば取り逃した相手のことなどまるでわからない。

 漂着者の少女が一人、魔回導を使い姿を消したことくらいだ。

「この本に封印してたのは──」

 ブックマンは赤黒い表紙が目立つ本を全員に見せるように前へと出す。

 何度も見た僅かに黄ばんだ白紙の本だ。

「アカルダイト=ルシェノエル=△☆♪〇Ω=イーロッド。次元を飛び回る神の魂だ」

「なんか名前の途中が聞き取れなかったんだけど」

「俺も」

「私も」

 ゲズゥの言葉に二人も便乗するように手を上げる。

「その部分は言語化されてない発音だからね。あえて言うなら『神』を表したものだ。まあ神と言っても災厄を振りまくだけしか能がない魔神だったので、このロンドミリオンで私が一〇〇〇年くらい戦った後に封印したが」

「……神だってよ」

 半ば信じられない乾いた笑い声と共にジェットはゲズゥとオルを見た。

 オルは引きつった笑みを浮かべるだけでかける言葉が見当たらない。

 次元の集約点であるロンドミリオンには様々なものが流れ着く。あの少女のように意図せずして無力なまま来るものもいれば、意思なきモノや、自らが望んで次元を飛び越えてくるモノ。それらは言葉では語り切れないほど様々なものだ。

 ジェットやオル、ゲズゥも元は漂着者であり、今はこの次元、ロンドミリオンの住人だ。その三人ですらいまだ神などと言う存在を見たことが無い。

 冗談と笑い飛ばしたかった二人だが、ブックマンの声はあまりに静かで真摯だ。

「体と魂を二つに分けて完全に封印していたはずだったのになぜ魔導錠が外れた……と言うより消えているのか……」

 神の魂は確かにその本に封印されていた。

 赤黒い本の表紙。神の魂を封印するに足る千にものぼる魔導錠。それら全てが綺麗に消滅している。

 ──おかしい

 神をも封じる魔導錠だ。施されていたのは一つや二つなんてものではない。それら全て錠が微塵の残滓すら残さず消滅している。

 もはや鍵で開けたなどと生易しい言葉ではない。鍵そのものを完全消滅させている。

「私の術が……」

 いかなる者でも魔術の完全消滅は困難だ。それをブックマンの錠でやってのけること。それは天理を超えた力だ。

「ふはっ!」

「ボスが……」

「笑った……」

 普段決して声を出して笑うことなどないブックマンの漏らすような笑い声にジェットとオルは目を丸くした。

 頭蓋骨の四つが同時に口を開き笑う姿は不気味極まりない。

「私の術式を完全消滅させるなど、まったくもってこの次元は面白いな」

 いかなる事象すら起こりうる可能性を孕んだ次元、ロンドミリオン。ブックマンんは目の前の封の解かれた本からそれを強く感じてしまう。

「今は魂だけ抜け出した状態だから、最終的な目標がここに封印され収蔵された体にあることは間違いないだろうな」

 気を取り直すように一つ咳払いをしてブックマンは淡々とした言葉で語る。

「それじゃあここで待ってりゃ向こうから勝手に来る。はい、解散──ぐえっ!?」

「なんで解散になるのよ。ここで待ち伏せに決まってるじゃない」

「いちいち人の頭を引っ張るんじゃねえよ!」

「人じゃないからいいじゃん」

 全く悪気なく笑みを浮かべたオルはジェットの赤い鬣をぐいぐいと引っ張る。

「状況を考えるに待ち伏せよりこちらから出向こう。オル、指先」

「ん? 毛糸?」

 ブックマンの言葉にオルは細い指先を見た。爪にひっかかるようにして一本の小さな毛糸がある。あまりに小さいその毛糸をオルは目を細めじっと凝視するが、どこのものか全くわからない。

「漂着者の彼女の着ていた服のものだね」

「ああ」

 ブックマンの言葉でオルはぽんと手を叩く。

 言われてみればそうだ。

 精彩のまるでないルフサの着ていたセーターと同色の毛糸だ。

 隔離次元のなかにいるはずのルフサに触れられるはずなどない。

「アレはまだ彼女の体に馴染んでない。それに彼女の体に理性が残っていれば幾分相手するのも楽だろうからね。こっちから出向いてさっさとケリを着けようじゃないか。

 アレの魔回導は完璧だけど、人の身だとさすがに勝手が違うみたいだね。うまく制御できないてみたいだし、今なら神でも軽く捻れるかもね。さて。

 意識があれば私の術で切り離して封じることもできるはずだ」

 ブックマンは椅子から腰を上げた。

「休憩は終わりだ。そろそろ行こうか」

「ほら行くわよ!」

「なんで俺が逃がしたてめえの尻ぬぐいしなきゃなら──」

 赤い毛をがっしり掴まれたジェット。そしてオルの姿がコマ落ちするかのように姿は消える。

「私も行くかな」

「ところでさあ、もしも彼女の理性が完全に消滅してた場合はどうするの?」

 ゲズゥの言葉に部屋を出て行こうとするブックマンは足を止めた。

 その可能性は大いにあり得る。

 一介の人ごときが魔神と向き合って勝てるはずがない。彼女の全てが既に魔神の手に落ちている可能性もある。

「危険と判断した時点で私の血をもって神と共に封ずるまでだ」

 ブックマンの口からは迷いなく出た言葉をゲズゥはあらかじめわかっていた。

 この次元の集約点であるロンドミリオンの薄氷の上に維持される均衡。それを崩す危険性のあるものは仮に無害だとしても見逃すことはできない。全て排除しなければならない。

 それこそこのロンドミリオンを守護するガルディオンの存在意義だ。


「貴様の望みを叶えてやる」

 ──はい?

 大通りを歩くルフサ。その体を操っているイーロッドの突然の言葉にルフサは間抜けな声を心のなかでこぼす。

 多種多様な文明、文化、種族を根底に生まれる万にも億にも及ぶ魔回導。それらが馴染んだ日常のなかでイーロッドは諸手をあげ衆目を集める。

 銀色の太い三つ編みを躍らせ歪な笑みを浮かべた赤い瞳の女性に対して周囲は懐疑の視線こそ飛ばすが決して近寄ろうとはしない。

 ──と、突然なんですか?

「貴様の願いを叶えてやると言っているんだ。私の力さえあれば貴様の壊れた視力をこんなふうに元に戻すこと容易だ」

 眼鏡をかけずとも鮮明に見える世界。よおく考えてみれば現実にはあり得ない力が今、ルフサの体を覆っている。

「世界の理を反転させることも。貴様の望みを叶えてやる! さあ願いを言え」

 もはや脅迫じみたその声が暴力となってルフサを殴りつける。衆目などおかまいなしの張り上げた声だ。

 ──いや、でも……そんなこと急に言われても……

 唐突に願いが叶うなど言う夢物語が目の前に転がってきたところでルフサには言葉が咄嗟に出てこない。

 ──欲しいものとか、したいこととかありますけど……その……願いを叶える代償とかないんですか?

「もちろん見返りは要求するぞ」

 ──な、なに要求するんですか?

「貴様の制体権を一時的に私に譲渡してもらうことだ。まあ、貴様の体が壊れたら私も消滅するから大切には使うさ。安心しろ。

 さあ気軽に願いを言ったらどうだ?」

 ──そんなこと言われて気軽に言えるわけないじゃないですか!

 ルフサの叫びに呼応するかのように手がばたついてみせる。制体権がまだ完全にイーロッドの手中に収まっていないことの表れだ。

 ──私の体で無茶しないでくださいよ!

「いいから願いを言え。今のままでは貴様の意識が邪魔で満足に魔回導を構築することすら出来ないのだから」

 語尾が荒い。どこか焦ったイーロッドの声は脅すような色が混じっている。

 ──んー……そ、それじゃあ体を返してもらえますか?

 弱弱しく、どこか恐る恐るの声でルフサが話しかけると、イーロッドに操られたルフサが細く整った眉を寄せて眉間に皺を作る。

「却下」

 ──な、なんで!?

 一刀両断、とでも語るかのようにばっさりと唐竹割りをするが如くの返事が間髪入れずに呟かれる。

「当然だろ。貴様に体を返したら元の世界に戻るのだろう。誰が私の体を取り戻すんだ?

 だいたい、貴様に願いはないのか? あるだろ!

 奴隷にしたい奴らや、屈服させたい世界。優越感や支配欲を満たすためだけに凌辱を繰り返す怠惰に塗れた日々。夢のようじゃないか!」

 歌うように軽やかな声で吐き出された言葉は胸の澱となって沈んでいる欲望と言う欲望をかき集めたものだ。それを嬉々とした表情で語る歪んだ笑みと掌には赫然の魔回導が生まれる。

 ──ドンッ

「っとお! 嬢ちゃん。きちんと前見て歩けよ」

 ルフサの小さな肩を掴んで引き寄せたのは通りを埋める異形の一人だ。複眼の眼を四つ持ち、それらが三六〇度の視界を映している。

 ──は、早く謝ってください!

 肩を掴まれたルフサは咄嗟に声を出すが、体の自由はイーロッドに奪われろくに動けない。

「なんだお前は? この私に汚れた手で触れるな」

 ──ひぇ!?

 深紅の瞳に歪んだ笑みを浮かべた女性は肩を掴んだ男の手を払う。まるで汚物が触れたかのような態度に異形の男は大きく口が裂ける。

 にちゃついた唾液が開かれた牙と牙を伝う橋のように伸びる。幾多の肉を噛み千切っていた男の口の奥から漂ってくる強い血の臭気。

「ここはロンドミリオンだ。てめえみたいな礼儀を知らねえ小娘は……食っちまうぞ!」

 ──い、急いで謝ってください! 今ならきっと許してくれますよ!

「馬鹿を言うな。貴様はどうやら私の凄さを分かっていないようだな。

 数百万年の時のなかで次元を飛び回り数えることのできない次元を滅ぼし消滅させてきた私の力を。

 そこで大人しくしてろ。私の力を見せてやろう!」

「ああっ? 何ぶつぶつと気持ち悪いこと言ってやがんだ? てめえみたいな奴は俺様の自慢の牙で頭から丸かじりしてやるよ!」

 左右へと更に裂けた口は既に大きく開かれる。ルフサの体ごと一呑みできてしまいそうなほどだ。

「大人しく喰われな!」

「残念だが喰われるのは貴様にしてこの街、ロンドミリオンだ。私の力でこの街を再び墓標で埋め尽くし絶望の日常を与えてやろう。

 ギタリナグア道術──」

 女性の足元を伝い、細胞レベルの魔回導がロンドミリオンの地を侵していく。

 ──呑み込め! ブラグマ!

 深紅の瞳の輝きと同色の光が地を侵す魔回導から放たれ、赤い霧が街を覆う。

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異界遊々録 光丸 @mitsumaru

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