第10話

 絵里は女の子を産んだ。心配していた骨の異常に大きな変化はなく、無事に赤ん坊を産み落とすことができた。産後も絵里自身の健康状態はすこぶる良好である。

 問題は赤ん坊のほうだった。彼女には、左手の小指の第一関節から先がなかった。だが、もっと大きな障害を心配していた絵里にとって、それはほんの些細なことで、他の子より少し小指が短い、という程度に捉えていた。もし、大きくなって弊害が出れば、自分の小指を移植してもよい、と考えていた。女の子は由衣と名付けられた。彼女のクリクリとした大きな目は、勅使河原淳一郎にそっくりだった。


 絵里はあだちメンタルクリニックに、由衣を連れて行った。足立医院長は勅使河原淳一郎にそっくりな赤ん坊の顔を見て、大きく頷き、夫人と顔を合わせて微笑んだ。足立夫婦は、絵里がなんらかの方法で勅使河原淳一郎の精子を手に入れ、体外受精で子を身ごもったのではないか、と推測した。

 夫人は、「お兄さんに見せに行ったら?」と七階へと絵里を通した。パパに、とは言わず、あえて、お兄さんに、と彼女は言った。


 絵里は七階の勅使河原淳一郎の部屋に入ると、彼に話しかけた。

「淳一郎さん、あなたの言った通りだったわ。妄想じゃなかった」

 返事はなかった。

「見て。あなたの子よ。由衣っていうの」

 勅使河原淳一郎は、これ以上絵里を惑わせてはいけない、と絵里の電波への反応に躊躇していた。

 すると、何かに反応するように、由衣が笑いだした。

『見えないんだ』と勅使河原淳一郎は我が子の笑い声に思わず反応した。

「声は聞こえる?」

 勅使河原淳一郎は絵里の問いに答えず、別の質問に答えた。『そうなの? よかったね』

「え?」

『由衣がね。名前、気に入ったって。それに、ママは思ってたよりきれいだって』

「淳一郎さん、由衣と話せるの?」

『うん。彼女もアンテナを持ってる』

「ずるい! お腹の中にいたときは話せたのに、出てきたら話せなくなったわ」

『すぐに話せるようになるわ、だってさ』

 絵里は口を尖らせたて、ふん、とそっぽを向いた。

 絵里はこの数カ月間、勅使河原淳一郎との交信を拒んでいた。目に見えないアンテナの存在を否定し、妄想だと言い聞かせていた。だが、由衣の反応を見れば、アンテナの存在を認めざるを得なかった。

『これで僕の役目は終わりだ』

「まだ終わりじゃないわよ」

『僕はもう何もできない』

「あなたはおじいさんを救う役目があるのよ。ねぇ、由衣」

 由衣はパパに会えた安心感からか、絵里の胸でスヤスヤと眠っていた。

『それ、由衣が言ったのかい?』

「そうよ。小人に聞いたって」

『小人に……』

「その小人って、淳一郎さん知ってる?」

『僕の命を捧げた人だ』

 勅使河原淳一郎は、もう一度自分の使命を確認し、心の中で頷いた。

 絵里は自分の腕の中で眠る由衣を見て、生きる勇気が湧いた。この子だけは私が守らなければ、と。


 絵里の子育ては続いた。由衣は自分のアンテナで常に母親の心情を受信しており、聞き分けのいい、おとなしい赤ん坊だった。養父母の比嘉夫婦は、孫ができた、と由衣をとても可愛いがり、彼女の面倒をよく見てくれていた。そのおかげもあって、絵里は臨床心理士の勉強を再開した。


 半年後、絵里は臨床心理士の試験を受け、無事に合格した。そして、再就職を願って、足立医院長に面接を依頼した。

「自分勝手で申し訳ないのですが、もう一度、事務の仕事で働かせてもらうわけにはいかないでしょうか」

「君が辞めてから、新しい事務員に入ってもらったんだ。彼女を辞めさせるにはいかない」

 医院長は渋い顔をして絵里を睨んだ。

「そうですよね。すみません、他を当たります」

 絵里は肩を落とし、立ち上がろうとした。

「非常に残念だ。だが、ちょうど、カウンセラーが辞めたところなんだ。カウンセリングの仕事ならあるんだがな……」

 医院長はいつもの冗談めいた目で、斜めから絵里を見つめた。

「え?」

 絵里は医院長の冗談に気がつかなかった。

「子育てしながら、がんばって勉強したんだね。君は患者からの評判もいい。これからは、カウンセラーとしてこのクリニックで働いてもらいたい……。いやならいいんだが」と医院長が立ち上がろうとした。

 絵里はそれより先に立ち上がり、「よろしくお願いします!」と大きな声で叫んだ。

 すると、今日子夫人が奥から顔を出して絵里に話しかけた。「あなたが辞めてから、患者さんたち、事務の女の子はどこ行ったんだ! って、大騒ぎだったのよ」

 事実、絵里がいたころは、患者からの要望は、なぜか彼女を通して医院長や夫人に伝達されることが多くあった。

 絵里は翌日から医院長の助手として、カウンセラーの仕事をすることとなった。

 彼女はすぐにカウンセラリングの才能を発揮し、一年後にはカウンセラーの仕事を任せられるようになり、絵里を頼ってクリニックに訪れる患者も増えていった。



 由衣は二歳になった。

 ある休日、絵里は由衣を近所の公園に連れて行った。そこには小さな子たちを連れた若い母親がたくさんいた。絵里が砂場で由衣を遊ばせていると、ひとりの男の子が砂場のヘリにつまずいて転んだ。男の子は膝を擦りむいて大きな声で泣き出した。母親は、男の子だからそれくらいの怪我で泣いちゃダメ、と男の子を叱った。それでも男の子は泣き止まなかった。すると、由衣が男の子のそばへ駆け寄り、男の子の傷のある右の膝に自分の手のひらを乗せた。由衣が手をのけると、擦りむいたはずの傷が消えていた。それを見た絵里は驚き、咄嗟に由衣を抱きかかえて、公園から逃げるように立ち去った。

 家に着き、ふと由衣の足を見ると、右膝に血が滲んでいた。由衣は傷を治す力を持っていた。それはただ治すだけではなく、入れ替えに自分にその傷を残す。

 絵里は過去を振り返った。由衣のお腹に宿してから、関節の痛みが消えたこと、老齢の養父母が異常なまでに健康なこと。全て、由衣の仕業ではないだろうか、と。そのことを絵里は誰にも言わなかった。もし、誰かに知られたならば、きっと利用され、由衣の体が傷だらけになってしまうだろう、と。


 絵里は比嘉の家を出ることに決めた。比嘉夫婦は赤の他人の絵里を、家族のように迎え入れた。今まで絵里自身が生きてこれたのは、比嘉夫婦のおかげであることは十分わかっていた。だが、比嘉夫婦は老齢でこれから先、どんどんと老いを迎える。おそらく由衣は、そんな老齢からくる彼らの痛みを、何の躊躇もなく吸収するのだろう。絵里は母親として、我が子の苦しみを黙って見ていることができなかった。

「おじいさん、おばあさん、私、この家を出ようと思うの。これだけお世話になって、何も恩返しできないんだけど……」

 絵里は由衣を抱きながら、涙で声を詰まらせた。

「そうしたほうがいいじゃろう。わしらもこの子が傷つくのは耐えられん。ずいぶん痛みを取ってもらったからのう」

 おじいさんは意外な返事をした。

「おじいさん、知ってるの?」

「うすうす気づいておった。じゃが、まさか、この子自身がその痛みまでも引き継いでいるとは思わんかった。すまんことをした。許しておくれ」

「いいえ、おじいさん、私が一番この子に害を与えてるんです」

 絵里はそのまま泣き崩れた。

「おまえさんのもとの家、あそこを使いなさい」

 おじいさんは絵里が母と暮らしていたもとの家を買い戻していた。絵里はそこで由衣と二人で暮らすことにした。

 三日後、絵里は由衣を連れて、比嘉の家を出た。



 由衣は三歳になった。

 絵里が仕事のとき、由衣は保育所に預けられた。時々、由衣は手や足に傷を作って帰ってくることがあった。多分、能力のせいだろう、と絵里は判断していた。少しの傷ならすぐに治ったので、大きな問題ではなかった。それよりも、彼女が他の子より小さいことを気にしていた。それもおそらく、絵里自身の骨の病気を引き継いだせいだろう、と彼女は自分を責めた。


 足立医院長に相談すると、すぐに大学病院を紹介してもらい、設備の整った大きな病院で精密検査を行った。

 検査の結果は喜ばしいものではなかった。由衣の骨は発育が遅く、このままでは大きく成長する内臓を圧迫してしまう。絵里の骨の異常は、おとなだからこそ軽い症状で済んでいたが、発育途中の幼い由衣には悪い影響を及ぼした。医師の診断は、十歳までは生きられない、と。

 同時に、絵里自身の検査も行った。絵里の骨にはなんの異常も見られなかった。やはり、彼女が病を吸い取ったのだ、と絵里は由衣の能力を再認識した。そして、医院長と夫人のつてを借り、世界中の由衣を治療できる医師を探した。足立夫婦は知り合いの医師に片っ端から連絡を取り、絵里と由衣のために情報をかき集めた。


 二年後にその答えが出た。結果は最悪のものだった。現在の医学では治療法はおろか、病気そのものの仕組みすら解明されていない、と。

 由衣は五歳になっていた。見た目は普通の(左手の小指が少し短い)女の子で、病気からの大きな障害もなく、普通に生活ができていた。ただ、五歳にしてはずいぶん体が小さかった。

 絵里は愕然として、思わず由衣の前で涙を流した。

「ママはあなたを助けてあげられないの。ごめんね」

「ママ、ちがうのよ。ゆいがママを助けるために生まれてきたの」

「由衣の病気はママのせいよ。どうしてママを助けるの?」

「ママがある人を助けなきゃいけないから」

「ママはあなたを助けたいのに」

 病気の由衣は案外平然としていた。おそらく、苦しくもなく、症状は軽いものだったからだ。このままどんどんと症状は悪化するのだろう。絵里はなんとしても、由衣を救いたかったが、その方法はない。諦めざるを得なかった。


 絵里は勅使河原淳一郎に相談した。

「淳一郎さん、あなたの力で由衣の病気を治せないの?」

『僕は人の心の痛みを取ることしかできない。病気そのものは治せないんだ』

「由衣が言っていた小人なら治せるかしら?」

『僕が知ってる小人は、今、眠ってるんだ。由衣が言う小人は別人かもしれない』

「どこにいるのかもわからないのよね」

『瑠璃子なら知ってるかもしれないが、彼女も行方不明だ』

「ルリコ?」

『君の親友だった女の子だ』

「私に親友なんていたの?」

『うん。だけど、今はどんな姿になっているのかもわからない』

「姿を変えるの?」

『そう。黒猫だったり、女子高生だったり』

「そんな変な親友がいたなんて……」

『君なら探せるかもしれない』

「どうやって探すの?」

『アンテナさ。瑠璃子もアンテナを持っているんだ』

「私のアンテナ? どうやって使うのよ」

 絵里は自分のアンテナを使いこなせなかった。幼いころにあれだけ苦しめられたのに、そのことすら覚えていない。


 そしてそのまま、三年が過ぎた。瑠璃子も見つからないまま、小人を探すこともできなかった。由衣の病気は進行し、時折、体調を崩すようになった。彼女は人の傷は治せても、自分自身の傷は治せない。治せたところで、その傷はまた自分に返ってくるのだから。


 ある日の深夜のこと、絵里は夢を見ていた。

「どうして、由衣なの? どうして、由衣が苦しまなきゃいけないの?」

「彼女の病は、もともとはおまえのものだ。あの子がおまえの病を吸い込んで、おまえは病気にならずに済んだのだ」

「あなたは誰なの? どうしてそんなこと知ってるよの」

「私には名前などない。おまえも知っていただろう」

「あなたが小人ね」

 そこで夢は中断された。

 絵里は由衣の部屋から聞こえる声で覚めた。彼女は寝床を抜け出して、由衣の寝ている部屋を覗いた。暗い部屋で、彼女は誰かとしゃべっていた。

「由衣、どうしたの?」と絵里は由衣に尋ねた。

 月明かりが窓から差し込んでいた。

 由衣のベッドの枕元にはウサギがいた。それは、真っ白な体で、真っ赤な目をして、鼻をヒクヒクさせていた。

「そのウサギさん、どうしたの?」、絵里は由衣に尋ねた。

「わたしを迎えに来たんだって」

 絵里は枕元に歩み寄り、ベッドに座りこんでいた由衣を寝かせて布団をかけた。そして、ウサギを抱き上げた。きっと近所のどこかの家の飼いウサギが迷い込んで来たのだろう。

「ママじゃないのよ。わたしを迎えに来たの」

「そうね。でも、飼い主さんが寂しがってるわ。明日、飼い主さんを探しましょうね」

「じゃ、今夜だけ、ウサギさんと寝てもいい?」

 絵里は特に害もなさそうなので、ウサギさんを踏んづけちゃだめよ、と忠告し、それを由衣の枕元に戻した。

「はい!」

 由衣はいつもより大きな声で、よいお返事をした。

 絵里は部屋に戻り布団に潜った。

 同じ夜、絵里は二度目の夢を見た。

 由衣が男の子と手を繋いで、元気に走り回ってる。

「ねぇ、ママ。はじめちゃんところに行ってもいい?」

「いいわよ」

 絵里はそのはじめという男の子が誰なのかを知らなかった。だが、病気を持った由衣のはじめてのお友だち、ということで、気軽に、遊びに行ってもいい、と返事をした。

「はじめちゃんのところには病気なんてないんだって」

「由衣の病気も治るかしらね」

「うん。はじめちゃん、ずっとわたしを待っていてくれたのよ。わたしの病気を治すために。ずっと、ずっと」

「そうなの。優しいお友達ね。仲良くしてあげなきゃね」

 絵里がそう言うと、はじめは由衣の首に赤いバンダナを巻きつけ、手を繋いで遠くに走っていった。すると、いつの間にか、由衣は犬の姿に、はじめは猫の姿に変わっていた。二匹はさらに遠くへ、遠くへ走って、消えてしまった。ふと振り返ると、絵里の後ろには、おじいさんとおばあさんが立っていた。おじいさんとおばあさんは、仲良しの犬と猫に手を振っていた。


 朝が来て絵里は目覚めた。どこまでが現実で、どこからが夢なのか、ぼやっとする頭を揺らし、天井を見上げた。

 はっ、と何かに気づき、絵里は由衣の部屋へ走った。

 そこには、もう由衣の姿はなかった。

 ベッドには白いウサギの毛が散らばっていた。

 絵里の家に、おじいさんとおばあさんも駆けつけた。由衣がいなくてなったことを知っていたかのように、おじいさんは言った。「はじめが由衣を連れて行ったんじゃ」

「はじめちゃんって、誰なの?」

「昔、いなくなった、わしらの子じゃ」

 おじいさんとおばあさんも、絵里と同じ夢を見ていた。

 その日、絵里は由衣の部屋で一日中泣いていた。泣いても、泣いても、涙は止めどなく流れ出た。しかし、絵里は由衣を探すことはしなかった。はじめが由衣を連れて行ったのは、現実だと受け止めた。そして、どこかで由衣の病気を治してくれるんじゃないかと期待した。会えなくなっても、彼女の病気が治るなら、といなくなった悲しみを押し殺した。


 翌日、絵里は由衣が消えたことをクリニックの勅使河原淳一郎に報告した。

『探さないのかい?』

「私のアンテナ、まだ、使えるの?」

『アンテナで由衣を探すのかい?』

「探さないほうがいいのかしら」

『僕にはわからない』

「生きていてくれるなら、そのほうがいいのかもしれないわ。このまま私のそばにいたって、あの子は死んでしまうもの」


 絵里の精神は衰弱していった。由衣が病気になったことを自分のせいにして、自分自身を責めた。彼女が消えてしまったことも。勅使河原淳一郎が脳死状態になったことまでもが自分のせいだと言い出した。絵里の精神が衰えていくと、アンテナが覚醒し始めた。絵里は病院に来る患者の負のエネルギーを、以前にも増して大量に吸収し始めた。

 勅使河原淳一郎は絵里の痛みを吸収し続けたが追いつかず、水槽の赤い液体が徐々に濁っていった。

 診療内科医の今日子夫人は、絵里の病状を神経症だと診断した。


 数日後、絵里の脳裏に影が浮かんだ。目をつぶると黒いもやもやがまぶたの裏に映った。彼女はそれが予言だとは気づかなかった。

『絵里、大丈夫か?』

 勅使河原淳一郎は、クリニックの部屋でよろよろとふらつく絵里に訊いた。

「あなたこそ、液体が濁ってきているわ」

『何かの前兆かもしれない。君は何か感じないか?』

「数日前から目をつぶると黒いもやが見えるの」

『絵里、黒いもやの向こうに誰かいるかい?』

「わからない」

 勅使河原淳一郎はそれが予言だとすぐにわかった。しかし、これ以上、絵里の精神に不安を煽るわけにはいかなかった。

『絵里、明日、比嘉のおじいさんを連れて来てくれないか』

 勅使河原淳一郎は由衣の言葉を思い出した。パパにはおじいさんを救う役目がある、と。


 翌日、絵里はおじいさんを勅使河原淳一郎の部屋に連れてきた。

「淳一郎君、生きていてよかった」

 おじいさんは、研究所の事故以来、初めて勅使河原淳一郎に会う。絵里と勅使河原淳一郎は話し合って、悲惨な状態の彼の姿を比嘉のおじいさんに見せなかった。

「おじいさん、淳一郎さんはこんなになっちゃったの。会わせなくてごめんなさい。きっとショックだろうと思ってね。でも、淳一郎さんがおじいさんに会いたいって言うから、連れてきたのよ」

「淳一郎君は話せるんかのう?」

「いいえ、私はアンテナで話すのよ。アンテナのこと、おじいさん知ってるわよね。淳一郎さんもこの体になってアンテナを持つようになったのよ。祖父の血のせいね」

 絵里はおじいさんと勅使河原淳一郎をふたりっきりにさせてあげようと、ひとり部屋を出て行った。

「おまえさんがわしを呼んだということは、予言かのう」

 おじいさんは勅使河原淳一郎の電波を拾えるはずもないが、直感でそう予測した。

「わしの死をおまえさんか、もしくは絵里が予言した。だが、あの子は気づいておらん。まぁ、そんなことじゃろうて。おそらく、鉄蔵さんの血を持つおまえさんの血を、わしに輸血しろということじゃろう。鉄蔵さんがしたように、身代わりになろうとしておるんじゃろうが……。おまえさんは絵里のそばにおらんといかん」

 おじいさんはすべてを察して、そのまま部屋を出た。死を怖がる様子もなく、ゆっくりとクリニックの階段を降りた。勅使河原淳一郎は何もできず、自分の不甲斐なさを惨めに感じていた。


 おじいさんが六階まで降りたとき、背後に気配を感じた。振り向くとそこに白髪の小いさな男が立っていた。

「おまえさん、あのときの……」、おじいさんが小人に話しかけた。

 するといきなり、男はおじいさんの前に駆け寄り、両手で右足掴んだ。そして、足をぐいっと持ち上げて、おじいさんを階段から突き落とした。

 おじいさんは階段から転がり落ち、五階と六階の間の踊り場で苦しみながら倒れていた。頭から血を流したまま。

「すまない。こうするしか方法がないのだ。許してくれ」、小人はおじいさんにそう言い放った。

「おまえさん、もしや、わしの祖父ではないか……」、おじいさんは薄れゆく意識の中で呟いた。

「どうして、それを……」

「母さんに、よく似ておる……」

 おじいさんはそのまま意識を失った。


 おじいさんが発見されたのは、それから二十分後のことだった。そしてそのままクリニックの治療室に運ばれた。クリニックには外科の手術室はなかったが、精神的な病を抱える患者を扱う上で、応急処置のような簡単な手当はできるようになっている。

「出血が多すぎる。輸血しなくては!」

 治療は精神科医の足立医院が担当した。

 絵里は、お年寄りが階段から落ちた、と聞きつけて、まさかと思い、治療室にやって来た。

「おじいさん!」

「君の知り合いか?」

「私の義父です」

「大量に出血している。うちには輸血用の血液のストックはないんだ」

「私は義父と同じ血液型です。私の血を……」

 医院長夫人は、すぐに絵里の血液を採取し、比嘉のおじいさんに輸血した。その間、医院長はおじいさんの額の傷を縫合した。

「血が足りない。よそに運んでいる時間はない。同じ血液型の者を探してくれ」

 医院長の要求に、絵里はすぐに答えた。

「います! 同じ血液型の人が、七階に!」

「絵里君、それは勅使河原君かね」

「はい。同じ血液型です」

「だが、彼をあそこから出すと……」

「わかっています。ですが、おじいさんは彼の父で、私の父でもあります。親族なんです。私に許可する権利があります」

「わかった。彼を水槽から出してくれ!」

 絵里は看護師と共にすぐに七階に向かい、勅使河原淳一郎の体を水槽から出した。そして、彼を担架に乗せて治療室に運び込んだ。

 輸血は速やかに行われた。

 しかし、外科の手術設備のない足立メンタルクリニックでの大怪我の手術は困難だった。輸血の甲斐もなく、おじいさんは絵里の腕の中で息を引き取った。そして、水槽から出された勅使河原淳一郎も死んでしまった。



 おじいさんの葬儀はしめやかに行われた。勅使河原淳一郎は戸籍の上ではすでに死亡しているため、葬儀を執り行うことはできない。

 おばあさんは取り乱すこともなく、穏やかな表情でおじいさんの葬儀の喪主を務めた。葬儀には近所の者と、おじいさんの知人が数名だけだった。

 祭壇にはおじいさんが眠る棺があった。葬儀は終焉を迎え、絵里は最後のお別れにおじいさんの顔を見ようと、棺の窓を開けた。そこで絵里は思わぬものを見た。棺の中にあった者は、比嘉のおじいさんではなく、勅使河原淳一郎の遺体だった。絵里は、どういうことか、とそのまま棺の窓を閉めた。

 そのとき、絵里は思い出した。由衣が言ったことを。パパがおじいさんを救う、と。

 その後、絵里は参列者に、顔の傷が酷いので、と誰にも棺の中を見せなかった。

 葬儀は終わり、おじいさんの代わりに、勅使河原淳一郎の遺体が火葬場で焼かれた。


 翌日、絵里はおじいさんを探しに、あだちメンタルクリニックに行った。おじいさんは生きているはずだ、と。しかし、そこにはもうクリニックはなかった。誰もいない廃墟のビルに、絵里はひとりで入っていった。

 数時間探したが、おじいさんの姿どころか、七階の勅使河原淳一郎が入っていた水槽も、病院の痕跡すら見つからなかった。


 絵里はおばあさんを心配し、比嘉の家に向かった。しかしそこでも、おばあさんの姿が消えていた。これまでの生活が夢だったかのように、おばあさんの着物も、台所用品も、針箱も、家財道具がすべてなくなっていた。絵里は近所を探した。歩いて、歩いて、おばあさんを一日中探した。絵里には何が何だかわけがわからず、町中を徘徊していた。


 絵里の前から、誰もいなくなった。自分自身の記憶もない。絵里は生きていく気力も、自信すらも失った。



 気がつくと、絵里は寝言目神社の急な階段の最上段にいた。かつて、高校生のころ、友達とお祭りに来た神社だったが、絵里の記憶にはもうそれはなかった。

 神社の境内では出店が並んでいた。今日はあの日と同じ、祭りの日だった。すでに日が暮れて、祭りの提灯がやけに眩しかった。絵里のそばにはたくさんの猫が集まってきた。

 彼女は立ち上がり、このまま手摺を離し、下まで転がり落ちてしまおうか、とぼんやり考えを巡らせていた。。

 階段の下から祭りの客がひとり登ってきた。あの人が上まで登ってきたら、手摺から手を離そう、と覚悟を決めた。

 階段を登っていたのは、若い女の子のようだった。浴衣を着て、下駄をカランコロンと鳴らし、何やら呟いていた。

 よく耳を澄ますと、数字を数えているようだった。

「……七十八、七十九、八十……」

 この階段は何段あるんだろう、と絵里は何気なく東の空を見た。そこにはまん丸い満月がぽっかり浮かんでいた。

「……九十八、九十九……」

 女の子は朝顔の柄の浴衣を着ていた。もうすぐ、最上段に着く。

 絵里は手摺を持った手を緩めた。

「……百七、百八、百九!」と叫んだところで、女の子は最上段に着き、その場に座り込んだ。

 絵里は手摺から手を離し、体重を前にかけた。

 そのとき、

「ひゃくきゅうー、ぎゃー! 最悪ぅー!」

 絵里は、女の子の予想外の叫び声に驚いて、思わず手摺を掴んだ。

「ちょっと、絵里、今の訊いた? 百九だったわよ。もう最悪。あんときのあんたみたいに、最悪の運命をたどるのかしら。せっかく人間に戻れたっていうのにさ。幸先悪いわね」

 絵里は馴れ馴れしい女の子の言葉に、さらに驚いた。彼女は私を知っている、と。

「あなた、私を知ってるの?」

「何言っちゃってんのよ。瑠璃子さまを忘れちゃったの? 魔性の女、る、り、こ。あんたのために、黒猫にされて、コンピュータの中に閉じ込められて、それであんたは記憶喪失だって? 冗談じゃないわよ。その上、自殺なんかされちゃったら、私の苦労はどうなんのよ。何のために犠牲を払って、耐えてきたと思ってんの?」

「えっと、私……」

 絵里は勅使河原淳一郎の話を思い出した。彼女が親友だった「ルリコ」なのだ、と。

「まぁ、おかげで、あんたみたいに年を取らずに、まだ女子高生のまんまなのは嬉しいけどさ」

「ど、どうなってるんですか?」

「そんなの私は知らないわよ。知るわけないでしょ。あのチビのクソガキの仕業でしょ。私には名前などない、とか何とか言っちゃってさ。世界を救うとか、言ってたけどさ」

「ねぇ、由衣のこと、知ってる?」

「あー、由衣のことなら心配ないって、あっちでちゃんと生きてるよ。病気も治って、はじめとイチャイチャしちゃってるわよ」

「あの子に会いたいの」

「それは無理だわ。あんたはまだあっちに行けない。別の仕事があんのよ」

「仕事?」

「そうよ。猫を探すの」

 絵里は周りに集まる猫たちを見渡した。

「猫?」

「その辺の普通の猫じゃなくて、人間だった猫よ」

「人間だった猫? あなたも黒猫だったのよね」

「私じゃなくて、男の猫よ」

「ねぇ、おじいさんとおばあさんは?」

「あっちで待ってるわ」

「由衣がいるところ?」

「そっちじゃなくて、別のあっちよ」

「わからないわ」

「行けばわかるのよ。さぁ、行ってらっしゃい!」

 瑠璃子はそう言うと、容赦なく絵里を階段の下へと突き飛ばした。

 絵里は足がもつれて頭から落下し、階段を転がり落ちた。

 空には満月が浮かび、一発目の花火が上がるのが見えた。

「猫をみつけるのよ!」

 遠くのほうで、瑠璃子の声が聞こえ、花火が開き、パン、と乾いた音が響いた。



 絵里は目覚めた。

 そこは寝言目神社の階段の下。夜だったはずだが、もう朝になっていた。

 絵里は違和感を感じた。体がいつもと違う。立ち上がることもできず、四つん這いで歩いた。

 とにかく、家に帰ろう。

 町の様子がいつもと違っていることに気づいた。こんなところにあんな店はなかった。

 絵里は店に近づいた。

 何の店だろうとショーウィンドウを覗いた。

「あっ!」、ガラスに映る自分を見て驚き、声を上げた。

 絵里は、犬の姿になった自分を見ていた。

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アンテナ 日望 夏市 @Toshy091

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