第9話
絵里は比嘉の家でのんびりと暮らしていた。彼女はこれまでの出来事を何ひとつ覚えていない。母と祖父のこと、アンテナのこと、瑠璃子との出会い、ゼロと黒猫との暮らし、脳科学研究所で働いていたこと、勅使河原淳一郎の存在、彼が現実世界に戻れなくなったことも。
絵里はあの夜、電気を浴び、気を失ったまま病院に運ばれた。一週間後、彼女は目覚めたが、記憶を失くしていた。比嘉夫婦はそのことをきっかけに、身寄りのない彼女を養女として迎えることにした。そして、比嘉夫婦の提案で絵里の実家を売却し、比嘉宅で一緒に暮らすこととなった。
世界で続いていた大事故はなくなり、平和な世の中が訪れた。
御徒町親子は姿を消し、脳科学研究所は閉鎖された。エツコとテツゾウのプログラムは、新たな人工頭脳となって、世界のどこかで使われている。それぞれのデータの中に、ゼロの種を持ちながら。水沢瑠璃子の姿は、その後誰も見ていない。勅使河原淳一郎の行方は、御徒町博士の手によって闇に葬られた。
あの夜から半年が過ぎた。絵里は体の関節に異常を感じていた。医者の診断では、骨の成分の一部が溶け出している、ということだった。しかし、日常生活に支障はなく、手術のような外科治療は行わなかった。年を追うごとに、異常が出てくるかもしれないとのことで、それはずいぶん先のことだろうと絵里は判断していた。記憶のほうは、相変わらずは消えたままだった。
絵里は、このまま比嘉の家でのんびりもしていられない、と色々と考えを巡らせていた。
「おじいさん、私、働きに出ようかしら」
絵里が比嘉のおじいさんに相談した。
幸い、心理学の知識は記憶に残っていた。だが、記憶をなくした精神カウンセラー、というのも説得力がなく、その助手か事務の仕事くらいなら、リハビリの意味でもいいのではないか、と絵里は考えていた。
「働きたいなら、それもいいじゃろう。蓄えは十分あるんじゃから、無理せずのんびりとやりんさい」
絵里は研究所から事故による治療費や賠償金、退職金などをまとめて、相当な額を貰っていた。しかし、絵里には仕事場での感電事故とだけしか伝えられておらず、会社でどんな仕事をしていたとか、一緒に働いていた上司や同僚の名前など、一切を伝えられていなかった。比嘉夫婦は、隠す必要もないができれば本人が自ら思い出して欲しいと願い、何も話さずにいた。絵里自身も、自然に思い出せれば、と詳しくは尋ねなかった。
絵里は早速、仕事探しを始めた。あちらこちらの会社で面接を行ったが、やはり、半年前の記憶喪失のことで、採用は難しいと断られた。絵里は履歴書に、正直にも「記憶喪失のため、学歴、職歴、不明」と書いていた。このことで不採用になることはわかっていたが、過去を失った絵里にとって、正直であることだけが唯一の自分の存在価値だと思っていた。
電話があったのは、それから二週間後のことだった。
電話に出ると、「あだちメンタルクリニックですが……」と明るく澄んだ声が受話器から聞こえた。絵里は新聞の求人広告に掲載されていた「あだちメンタルクリニック事務員募集」の応募に履歴書を送っていたのだが、応募したことをすっかり忘れていた。「はい、私が比嘉絵里です」と絵里はハキハキと応答した。事務員は求人応募の礼と明日の午後二時に面接を行う旨を絵里に告げ、電話を切った。
翌日の午後、絵里は紺色のスーツを着込み面接に出かけた。
事務員から聞いた住所のビルの前で、絵里は、よし行くぞ、と気合いを入れた。ビルの入り口には「あだちメンタルクリニック」の大きな看板が掲げられていた。絵里はこの建物に見覚えがあったのだが、それが何だったのかを思い出せない。
面接では、クリニックの名前にもなっている足立という名の医院長が、記憶喪失のことや、以前の仕事のこと、学歴のことなど、履歴書に書いていないことまで、絵里に詳しく尋ねた。絵里は記憶にない事実を含め、全ての質問に正直に答えた。後日電話で合否を伝えるということで、その日の面接は終わった。
数日後、採用通知の連絡がきた。
絵里は無事に職に就くこととなった。
クリニックの建物に見覚えがあったことと、履歴書に不備がある絵里が採用された理由は、出勤初日にわかった。あだちメンタルクリニックの建物は、以前絵里が勤めていた研究所があった場所だと足立医院長から聞かされた。足立医院長はある人物から格安で物件を譲り受けた。それにはある条件が必要だった。その条件のひとつが、比嘉絵里という女性が採用面接に来るので、彼女を雇うこと。そして、もうひとつは、ひとりの患者をある期日まで入院させることだった。物件を差し出した人物は研究所の所長ではないらしいが、絵里は所長のことも覚えていなかった。医院長の話では、所長の知り合いの白髪の小さな男、ということだった。
足立医院長は七階の隅の部屋に絵里を連れて行った。医院長が先に部屋に入り、絵里も部屋に足を踏み入れた。
「これは……」
部屋の中央に、赤い透明の液体で満たされ円筒型の水槽があって、そこに男が眠っていた。
「彼がその条件の患者だ」
眠る男には体毛がなく、口もとに器具がつけられ、パイプが繋がっている。水槽の横の計器は、ピッ、ピッ、と一定のリズムの電子音を鳴らしながら、画面に心拍数や脳波の波形を描き、男が生きているという情報を発信していた。絵里はそのとき、背中に温かいものを感じ取っていた。
「誰なんですか?」
「彼は、戸籍上では、君のお兄さんだ」、医院長はそう言って、戸籍謄本を見せた。
「勅使河原……淳一郎」
絵里は計器の下に書かれてある名前と戸籍謄本と見比べた。計器には勅使河原の名字の横に淳一郎の名があり、戸籍には義父母の比嘉の名字の下に、自分の名前と淳一郎の名前が並んでいた。そして、淳一郎の名前の下には「死亡」の文字があった。この部屋の水槽にいる者が、勅使河原淳一郎である。絵里は彼の顔も名前すらも覚えていない。
「彼は亡くなったことになっている。やはり、君にもわからないのかね」
「すいません。私の記憶が……」
絵里は眠る男が笑っているように感じた。顔を見ると無表情で眠っているのに。
「君を責めるつもりはない。私にも詳しいことはわからないんだ」
絵里は返す言葉を失った。
「とにかく君の仕事は、事務の仕事と、彼の面倒を見ることだ」
「わかりました。義父に聞けば何かわかるかもしれません」
その後、眠る男の部屋を出ると、大まかな仕事の内容や、クリニック内の案内など、仕事場の説明を聞いた。そうして、絵里は初日の仕事を終え退社した。
帰り道、絵里は思い出そうとしていた。クリニックの従業員募集に、自分で応募したのだろうか。彼女は記憶の全てに自信が持てなかった。もしかしたら、誰かが自分をあの場所に導いたのかもしれない、と。
家に帰ると早速、絵里はおじいさんに勅使河原淳一郎のことを尋ねた。
「おじいさん、勅使河原淳一郎さんって?」
絵里が事故のあと、記憶に関することを義父に尋ねるのは初めてだった。
「思い出したのかい?」
「違うの。クリニックのあの場所、私が勤めていた研究所のあったビルなの。クリニックに勅使河原淳一郎さんがいるのよ。医院長が、その人は私の兄だって。戸籍も見せてもらったわ。淳一郎さんは戸籍上死んでいることになってるけど、水槽の中で生きているの」
絵里はおじいさんが記憶についてのことをあえて話さないのはわかっていた。ましてや、隠し事をしているなどとはまったく考えていない。
「淳一郎君がいるのかい?」
おじいさんは驚いて、半分身を乗り出した。
「うん。でも、眠ったままよ。私が彼の面倒をみることになったわ」
「そうかい、淳一郎君の面倒を、絵里がかい。そうか、よかった」
おじいさんは目に涙を潤ませていた。
「彼も養子にしたのよね」
「そうじゃ、あの事故のあと、お前さんと一緒に淳一郎君もわしらの養子にしたんじゃ。彼の両親はもう亡くなっておる。あのままだと、身寄りのない淳一郎君は脳死と判断され、処分されていた。しかし、所在は知らされんかった」
「彼は研究所の人なのね」
「お前さんと淳一郎君は、本当の兄妹のようじゃった。お前さんの母親が亡くなったあと、彼がお前さんの面倒を見ておった。大学進学の勉強も、心理学を志したのも、就職の世話も、淳一郎君のおかげじゃ。お前さん、彼に感謝せんとな」
「なぜ、赤の他人の彼が、私を?」
「それは、お前さんの母親と祖父が彼を救ったからじゃ。彼が事故にあったとき、母親と祖父から血をもらったんじゃ。お前さんもその話を聞いたとき、兄ができたと喜んどった」
絵里は記憶をた辿ったが、どこを探しても、そんな記憶は見つからなかった。おじいさんが嘘をついているはずもない。絵里はただ、胸のモヤモヤに心を預けるしかなかった。
「研究所のビル、あの場所をクリニックに変えた人、おじいさん、誰だか知ってる?」
「研究所の所長さんじゃないのかい?」
「違うみたいなの。誰かがあのビルをクリニックにして、淳一郎さんを預けたのよ」
「淳一郎君が脳死状態だと伝えに来たのは、小柄で高齢の男性じゃったが、わしは所長のご兄弟だと思うておった。その人かもしれんな」
「名前を覚えてる?」
「確か、所長の身内の者としか言わんかったはずじゃ」
「所長が事故の責任を取って、研究所を病院にして、淳一郎さんを引き取った。そして、私も病院に就職させ、兄妹同然だった私たちを引き合わせた。そういうことね」
「うん。そういうことになるな。じゃが、悪意は感じられん。所長の精一杯の償いなのかもしれんの」
おじいさんのその言葉と優しい笑顔は、絵里を安心させた。絵里はそれ以上真実を知ろうとは思わなかった。そして、明日から始まるクリニックでの仕事に、不安と期待の入り混じった複雑な気持ちで、頑張ろうと決意するのだった。
翌日。
絵里の最初の仕事は勅使河原淳一郎の世話だった。といっても、彼の部屋の掃除と計器のチェックだけである。
「淳一郎さん、おはよう」
絵里はまず、勅使河原淳一郎に朝のあいさつをした。そして、部屋の掃除を始めた。だが、毎日丁寧に清掃されているようで、汚れなどほとんど見当たらない。
「あら、おはよう」と白衣を着た中年女性が部屋にやってきた。手に花束を持って。「ついでに、これ、生けておいてね」
首から下げられたネームプレートには、足立今日子、とあった。
「医院長の奥様……」
足立今日子はクリニックの心療内科の医師でもある。
「あなた、消しゴムの子ね」
「え? 消しゴム?」
「あらいやだ、私ったら、ごめんね。比嘉さんだったわよね」
医院長夫人は絵里の胸のネームプレートすら見ずに発言している。
「今日からお世話になります。比嘉絵里です。よろしくお願いします」、絵里は背筋を伸ばし丁寧にあいさつをした。
「記憶喪失なのよね」
「はい。あ、消しゴムって……」
「消しゴムで消したみたいに、きれいに消えてるのね」
絵里は彼女のズケズケした物言いに、躊躇していた。
「は、はい」
「お兄さんのことも、覚えていないの?」
「はい。覚えていません」
「そうなの。生活に必要なことは覚えてるけど、あとは消えてるって、珍しいことじゃないのよ」
「そうなんですか」
絵里は返事に困っていた。医院長夫人は一瞬曇った絵里の顔を見逃さなかった。
「あ、ごめんね。だけど、自分を責めてはいけないのよ。忘れちゃったー、ってそんなのでいいのよ。私なんて、五分前のこと忘れたり、日常茶飯事よ。やらなきゃいけない仕事があって、ご飯のあとにしようと思うでしょ。カップラーメンにお湯を入れて、食べたら、もう忘れちゃってるの」
「カップラーメン、二分で食べちゃうんですか? 私、二十分はかかります」
二人は無言になった。間をおいて、二人同時にゲラゲラと笑い出した。
そのとき、医院長が部屋に入ってきた。
「おや、比嘉さん、すでに今日子マジックにかかったようだね」
「おはよございます」
絵里は再び背筋を伸ばした。
「彼女はストレートにものを言うが、人を笑わせる天才なんだよ」
「違うのよ。今回は彼女に笑わされたのよ」
「そうかい、今日子を笑わせるなんて、君は素質があるんじゃないか?」
医院長の言う、素質、とは、どうやら心理カウンセラーのことを言っているようだ。
「ここは、奥様が掃除されてたんですか?」
「そうよ。ここには従業員も上がって来ないの。幽霊が出るのよ」
絵里は目を見開いて周りを見渡した。
「冗談だよ」、医院長はそう言って笑った。
絵里はほっとして笑顔が自然と溢れた。
「その笑顔、このクリニックにはそれが必要よ。いつでもそれを出せるようにしておいてね」、医院長夫人が絵里に伝えた。
「わかりました!」と絵里は笑顔を添えて答えた。
「その調子! 今日は、午前中はここで計器の操作を覚えてくれたまえ、マニュアルはそこの棚に入っている。午後は具体的な事務の仕事の説明をする」
「はい」、絵里がひとこと返事をした。
そして、医院長と夫人は、よろしく、と言って部屋を出ていった。
あだちメンタルクリニックは、精神科と心療内科のクリニックだが、入院設備のない外来治療が中心の医院となっている。医師は二人。医院長の足立は精神科医、今日子夫人は心療内科医である。他に看護師が四人、心理カウンセラーが一人いる。事務員が一人辞めてしまい、絵里がその仕事を受け継ぐことになった。
午前中、絵里は勅使河原淳一郎につながれていた計器のマニュアルを読みながら、マシンと格闘していた。
マシンは生命維持装置。中の赤い物質は酸素やミネラル成分を含むゼリー状の特殊な液体。排泄物はそのまま赤い液体の中に排出され、液体に溶け込まず水槽の下に沈んで、外部に排出される。体毛は赤い液体が溶かし、全身の毛はない。これは水槽内を清潔に保つための処置だ。水槽には、温度と赤外線の調節機能がついている。水槽横の装置は、口もとから伸びるパイプを通して、酸素と食事を供給している。さらにそれは、心拍、血圧、脳波を計測し、測定結果をモニターに映し出している。
勅使河原淳一郎は脳死とは違い、脳もちゃんと生きている。ただ、中身が空っぽなのだ、と絵里は医院長から聞いていた。だが、絵里にはそれがどういうことなのか、まったくわからなかった。
絵里が水槽内の温度調節をいじっていた。これはいわば、室内のエアコンのようなもので、勅使河原淳一郎の生死に関わるようなものではない。温度調節をしなくとも、室内温度に保たれるわけで、室内が寒いと、風邪をひいてしまう、くらいのものである。絵里は、なるべく快適に、と少し水槽内の温度を上げた。
しばらくすると、『ちょっと暑いな』と、どこからか聞こえたような気がした。周りを見渡したが、誰もいない。絵里は先ほどの医院長夫人の言葉を思い出した。
幽霊が出るのよ。
『少し温度を下げて』とまた聞こえた。それは音ではなく、直接心に呼びかける、伝達のようなものだった。
絵里は水槽の中の勅使河原淳一郎を見つめた。「あなたが伝えてるの?」
すぐに返事がきた。『絵里? もしかしてやはり、君なのか?』
「この声、淳一郎さんなのね」
『淳一郎さん? 絵里はそんな風に呼ばなかった。いつも、テッシー、って』
「これって、何なの?」
『君のアンテナが、僕の感情を読み取ってるんだ』
「アンテナって?」
『忘れちゃったのかい?』
「私、何もかも、忘れてしまったの。あなたのことも……」
絵里は心の会話を続けながら、水槽の温度調節のスライダーを動かした。
『そうだったのか』
「あなたにいったい、何があったの?」
『僕の心は別の場所で生まれるのを待っているんだ。世界を救う彼の一部になるんだ』
「だけど、もう体も動かないじゃない」
絵里は狭い水槽の中に押し込まれた勅使河原淳一郎を不憫に思った。
『心をなくしたおかげで、君の能力と同じアンテナを身につけたんだ。この能力は君のお母さんとおじいさんにもらったものだ』
「そんなの何に役に立つのよ」
『このクリニックには、心に病を抱えたたくさんの人たちが来る。僕は彼らの痛みを吸い取るんだよ』
「あなたは苦しくはないの?」
絵里は勅使河原淳一郎が兄であることを知ってから、親近感を抱いていた。
『僕の脳は空っぽなんだよ。痛みなんて感じない』
「だけど……」
絵里は言葉を探した。
『そうだ、絵里、ちょっと手伝ってくれないか。この場所だと電波を受信しづらいんだ。この水槽を左にあと十五センチ動かしてくれないか?』
絵里は見つからない言葉を探しながら、水槽を動かした。水槽の底面にはローラーがついており、簡単に動かせた。だが、肝心の言葉は見つからなかった。
『うん、ここならうまく受信できるよ。絵里、ありがとう』
絵里はこんな不自由な狭い水槽に入れられながらも、他人を思いやる勅使河原淳一郎を見て、理不尽だと感じ、腹立たしくなった。そんな姿になってまでも……、他人のことなんてほっとけばいいじゃない、と。彼女は半べそをかいて、勅使河原淳一郎に背を向けた。「私はアンテナなんていらない」、絵里はそう言い残して部屋を出ていった。
記憶をなくしてから、絵里は自分自信の気持ちを心の奥深くに抑え込んでいた。血の繋がった家族にしかわかってもらえない類の些細な感情を、初めて勅使河原淳一郎にぶつけた。絵里は彼に背を向けたが、心を預ける場所ができた、とようやく安心感のような心地よさを感じていた。水槽の中の勅使河原淳一郎も、絵里の心に触れ、動かない体いっぱいに、血の温もりを感じていた。
絵里は順調に仕事をこなしていった。かつて、脳科学研究所では、事務の仕事の全てを絵里が負担していた。その記憶はなかったものの、絵里の体はしっかりと覚えていた。患者からの評判もよく、彼女を慕って訪れる患者もいた。その理由は、絵里のアンテナが患者の心を癒していたからだ。
半年が過ぎた。
絵里のアンテナは、患者の痛みを拾い続けていた。彼女はアンテナのコントロールの仕方さえ忘れてしまっていて、無防備に患者の負の電波を拾う。そのおかげで、患者の病状は改善され、クリニックの評判は益々良くなった。しかしその反面、彼女の精神には負の要素が蓄積されていった。
心が疲れてくると、絵里は勅使河原淳一郎との心の会話も、彼が言うアンテナの存在も、現実として受け入れられなくなってきた。それは、自分の妄想なのだろう、と。
絵里の妄想は続いた。朝の出勤時、昼休み、仕事終わり、と彼女は必ず勅使河原淳一郎の部屋を訪ねた。もちろん、仕事としての部屋の清掃のときにも、だが。
部屋に入っては、勅使河原淳一郎との心の会話が続く。今日の一日の出来事、比嘉義父母との会話、臨床心理士試験のこと、クリニックの人たちのこと、個人的な悩みなど、あらゆることを勅使河原淳一郎に打ち明けた。
ねぇ、淳一郎さん、聞いてよ。最近、おじいさんったら物忘れがひどくてね、という具合に。
勅使河原淳一郎はそれに丁寧に対応する。人間誰しも歳を取ると、忘れやすくなるものなんだ。すべてを覚えていたら、人間の脳は数年でパンクしてしまう、とか。
勅使河原淳一郎は、科学的な解釈を踏まえ、理論的に説明する。そのどれもが情に溢れ、絵里を心地よくさせる。だが、絵里はそれをも自分の妄想だと思い込んでいた。それでも、毎日の習慣のように、妄想を実行するのだった。絵里は患者からの負の感情を貯め込んでは、知らず知らずのうちに、勅使河原淳一郎に癒しを求め続けていた。
アンテナがもたらした錯覚は、いつしか彼女の心のよりどころとなり、現実と妄想の境すらなくなるように、当たり前の日常となっていった。
絵里の日常は、朝起きて、仕事に出かけ、働いて、家に帰り、勉強をして、眠る。また次の日、朝起きて、仕事に出かけ、働いて、家に帰り、勉強をして、眠る。休みの日には比嘉の家で一日中自室にこもり、臨床心理士試験の勉強に集中する。遊びに出かけることもなく、友達もいなかった。そんな繰り返しの日常の中で、唯一の喜びが勅使河原淳一郎との妄想だった。
勅使河原淳一郎への癒しの欲求は、いつしか「恋」と呼べるほどの感情を、絵里の心に植え付けていった。
「淳一郎さん、あなたは元に戻れるの?」
『それは無理だ』
「私もその水槽の中で一緒に暮らしたい」
『君は健康な体と心を持っているんだ。大切にしないといけない』
「でも、私は……」
『絵里、僕たちは、今、兄妹なんだ。わかっているね』
「そんなこと、どうだっていい」
絵里は、水槽の中の赤い液体に浮かんだ勅使河原淳一郎の毛のない性器を見つめていた。そして、さらなる妄想を始めた。
絵里の体に異変が起こったのは、それから四ヶ月後のことだった。彼女は仕事中に嘔吐した。臨床心理士資格試験の勉強で睡眠不足が続いていたため、疲れが出たのだろう、と彼女は思っていた。医院長は、午後からの早退を命じ、帰る前に今日子夫人の診察を受けるように指示した。
医院長の指示通り、絵里は三階の心療内科を訪れた。
「あなた、妊娠してるわよ」、今日子夫人はストレートに事実を告げた。
「え? まさか、そんなはずはありません」
「今、お付き合いしてる人は?」
「私、これまで、男の人と付き合ったことがありません。当然、今もです。だから、妊娠なんてするはずがありません」
「だけど、妊娠は事実。四ヶ月よ」
絵里は考えを巡らせた。しかし、どこを探っても妊娠に繋がる記憶は見つからない。記憶をなくす以前に……、とも考えたが、それは一年前のこと。それほどの長期間、精子が子宮内に潜伏していたとは考えられない。絵里は記憶を疑った。そして、再びそれに惑わされることとなった。
帰り道。絵里はひとつだけ不可能な可能性を見つけた。水槽の中の勅使河原淳一郎と、一度だけ妄想の中で交わったこと。あれは現実だったのだろうか、と記憶に惑わされ、意識に翻弄され、妄想に掻き回される自分を見つめた。
もしかしたら、勅使河原淳一郎との心の会話は、妄想なのではなく、現実なのだろうか……。
翌日。絵里は勅使河原淳一郎の部屋に入るのをためらっていた。しかし、それは仕事である。妄想しないように、と絵里は心の中の一点に集中した。
『絵里、おはよう』
絵里は妄想を遮るように、耳を塞いだ。
『どうしたんだい? 何かあったのかい?』
耳を塞いでも、絵里のアンテナが勅使河原淳一郎の感情を受信した。
『妄想なんかじゃないんだ。その子は、間違いなく、僕の子だ』
勅使河原淳一郎も絵里の感情を受信した。
砂浜に繰り返し打ち上げられる波のように、妄想が妄想を呼ぶ。
『絵里、こんな姿の僕でごめんよ。君が信じられないのも仕方がない。だけど、その子は現実だ。何があっても信じてあげて欲しい』
妄想はそう言い残して、消えてしまった。勅使河原淳一郎はこれ以上、絵里に精神的な負担をかけないように、彼女へ電波を送るのを止めた。
その日から妄想は聞こえなくなった。
絵里のお腹は少しずつ大きくなった。医院長と夫人は絵里を心配した。だが、必要以上に絵里を詮索することはなかった。
妊娠八カ月を過ぎるころ、絵里は医院長に退職願いを出した。しかし、彼はそれを上着のポケットにしまい、出産休暇ということにしておく、とだけ言い残した。そして、夫人は知り合いの産婦人科を絵里に紹介した。
絵里は医院長夫人から紹介された産婦人科を訪ねた。そこで、電流を浴び、体の骨の成分が溶け出している、と診断されたことを医師に話した。医師は絵里の体の精密検査を提案した。お腹に子に、レントゲンなどのエックス線を照射することはできない。絵里は精密検査を拒否した。幸い、関節などの痛みはなくなっている。このまま、お腹の子を産むのは危険だと告げられたが、彼女は自分が死んでも、お腹の子を産むことを選んだ。
絵里はおじいさんとおばあさんには、ありのままの事実を話した。二人とも、それはきっと淳一郎君の子だ、と彼女の出産を喜んでいた。
絵里は比嘉の家で、出産の準備を始めた。生まれてくる子のために、手製の産着を作ろうと、おばあさんに手解きを受けた。だが、男の子か女の子かもわからない。裁縫道具を前に、水色にしようか、桃色にしようかと、悩んでいたときだった。
『ピンクがいいわ』
どこからか声が聞こえた。一瞬、勅使河原淳一郎かと思い、周りを見た。
『わたし、女の子よ』
それは絵里自身の体内から感じとっていた。彼女は、また妄想か、とため息をついた。
『わたし、今はまだ体が未熟なの。だからママとおしゃべりできるのよ。ママがおじいちゃんからもらったアンテナ、わたしも持ってるの。わたしのは、ママから半分とパパから半分ね』
絵里は妄想を振り切ろうと、頭を左右に振った。
そのとき、庭でイチが吠えた。
絵里は立ち上がり、庭へ出た。
イチは庭をクルクルと回り、尻尾を振っていた。
『あなた、イチっていうのね。まだ会えるのは先だけど、ママから出たら一緒に遊んでね』
すると、イチが絵里のそばに寄ってきて、お腹に頭をこすりつけた。
「イチ、赤ちゃんとお話ししたいの?」、絵里はイチに尋ねた。
すると、イチは大きく、ワン、と吠えた。
絵里のお腹の中で、小さな命が動いている。彼女には笑い声が聞こえるようだった。その可愛いらしい笑い声は、とても心地よかった。絵里も一緒に笑いだした。そして、勅使河原淳一郎の言葉を思い出した。
だけど、その子は現実だ。何があっても信じてあげて欲しい。
「そんなに動いたら、くすぐったいわ」
『だって、ママのお腹、気持ちいいんだもん』
「早くあなたに会いたいわ」
絵里は確信した。妄想なんかじゃない、と。
『まだ、もう少しここにいさせて』
「ねぇ、あなた、どうやってママのお腹に入ったの?」
『パパに頼んだの』
「パパはどうして、あなたを私のお腹に?」
『ママを助けるためよ』
「あなたが私を助けてくれるの?」
『そう。ママもずっとあと、誰かを助けるの。パパの体は、もうすぐ、おじいちゃんを助けるの。だから、赤い水にいるのよ』
「おじいちゃんって、比嘉のおじいさんのこと?」
『そうよ。小人が言ってたわ』
「小人ってだあれ?」
『小さな白い毛のおじさん』
「あなた、なんでも知ってるのね」
『ママが忘れたぶん、わたしが知ってなきゃ、一緒に暮らしていけないでしょ』
「そうね」
『ねぇ、ママ。わたしの名前。なんてつけるの?』
「それは出てきてからのお楽しみにね」
『すてきな名前にしてね。変なのだったら、お腹に戻っちゃうから』
絵里は縁側で、生まれてくる子供と夕暮れ近くまで話し続けた。
西の空が紫色に染まり、もうすぐオレンジに変わる。絵里は縁側のガラス窓を閉め、赤ちゃん指定のピンクの布を広げた。彼女のお腹の中で、笑い声が響く。そして、体をゆりかごのように揺らしながら、絵里は産着の裁断に取りかかった。
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